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イヌ

第三十八話 イヌ



 骨流しのあと、シンはさらに数日、オキの集落に残った。



 理由はいくつかあった。


 山道の雪がまだ残っていたこと。


 足の奥に、ほんの少し鈍い違和感があったこと。


 オキが「まだ見ていけ」と言ったこと。


 それから、ミコが何も言わずに、シンの分の椀を一つ余計に出したこと。



 それを見て、シンは帰ると言い出しにくくなった。



(強い引き止め方だな)



 ミコ本人は、引き止めているつもりがない顔をしていた。


 ただ、土器の椀を一つ置く。


 魚の身を少し入れる。


 それで終わり。



 何も言わない。



 でも、出ていくなと言われるより効いた。



 オキの集落の朝は早かった。



 川が先に起きる。



 まだ人が眠っている時から、水はずっと流れている。


 石に当たり、葦の根元を洗い、夜の冷えを少しずつほどいていく。



 その音に合わせるように、人が起きる。



 火を起こす者。


 昨日の灰を確かめる者。


 干した魚を裏返す者。


 水を汲む者。


 網の結び目を確かめる者。


 小さな火床の炭を起こす者。



 オキの集落は、アサメの山の集落より開いていた。



 山の集落は、隠れるための場所だった。


 煙も重く、家も低く、道も分かりにくい。


 山そのものが、外から来る者を迷わせるようにできていた。



 ここは違う。



 川に向いている。



 川から来るものを受け取る。


 川へ流すものを出す。


 山から来た鉄を受け、海から来た塩を受け、魚を干し、皮を替え、話を聞き、話を置く。



 閉じているようで、開いている。


 開いているようで、警戒している。



 そういう集落だった。



 シンは、何をすればいいのか分からなかった。



 狩りはできない。


 網も編めない。


 鉄片の補修もできない。


 川の流れも読めない。


 骨を洗う作法も知らない。



 だから、まず水を運んだ。



 木の桶は重かった。


 水は、思っているより重い。



 しかも、こぼれる。



 両手で抱えて慎重に歩いても、足元の泥で少し滑る。


 揺れた水が、桶の縁からこぼれて足にかかった。


 凍りつく様な冷たい水だった。



(びゃっ!!)



 ミコが見ていた。



 笑ってはいない。


 でも、少しだけ口元が動いている。



「笑った?」


「笑ってない」


「絶対笑った」


「水は逃げるから」


「今、俺の話を川の話っぽくしたな」


「水を落とす人が悪い」



 ミコはそう言って、シンの半分くらいの量の水を、ほとんどこぼさず運んだ。



 八つか九つの子供なのに、動きが慣れている。



 シンは少し負けた気がした。



 次に、魚を干す手伝いをした。



 開いた魚を木の棒に掛けるだけだと思った。


 違った。



 向きがある。


 間隔がある。


 風の通り道がある。


 煙が当たりすぎると苦くなる。


 当たらなすぎると腐る。



 白い煙は、ただ立っているわけではない。


 人が煙を通している。


 魚と風と火の間に、ちょうどいい道を作っている。



 それを少しずつ見て、シンはまた思った。



(生活って、すごいな)



 どこへ行っても、同じことを思う。



 山でも。


 川でも。


 火のそばでも。



 生活は、何気なく見える。


 でも、何気なく続いているものほど、無数の工夫でできている。



 ミコは骨の前だけではなく、魚の前でもよく働いた。



 けれど、魚の前にいる時のミコは、少し子供だった。



 手が煙で臭くなると、鼻をしかめる。


 魚の脂が指につくと、川で洗いたがる。


 赤い石を見つけると、すぐ拾う。



 骨の前では、役目が体より大きくなる。


 でも、いつもそうではない。



 それが分かって、シンは少し安心した。



 二日目の昼、ミコに川へ連れていかれた。



「石、探す」


「何に使うんだ」


「きれいだから」


「それだけ?」


「それだけ」



 ミコは当たり前のように言った。



 川の浅いところに入り、丸い石を探す。


 雪解け水は冷たい。


 かなり冷たい。



 シンも入った。



 入ってすぐ後悔した。



(やっぱりひゃっけぇえ!!)



 足の傷に響くかと思ったが、もう痛みはほとんどない。


 ただ、冷たい。


 冷たいというより、痛い。



 ミコは平気な顔をしていた。



「冷たくないのか」


「冷たい」


「なんで平気そうなんだ」


「平気じゃない顔をしても、冷たさは減らない」


「オキみたいなこと言うなぁ」


「オキに言われた」



 ミコは川底から石を拾った。



 赤みがかった石だった。



 夕焼けのような色。


 濡れていると、少しだけ火が入っているように見える。



「これ」


 ミコが言った。



「お父さんが好きだった色」



 シンは石を見た。



 ミコの手のひらの上で、小さな赤が光っている。


 アサメの赤とは違う。


 手首の紐の赤とも違う。



 川に濡れた、夕暮れの赤。



「きれいだな」


「うん」



 ミコはその石を小さな袋に入れた。



「たくさん集めるのか」


「少しだけ」


「何にする」


「置く」


「どこに」


「まだ決めてない」



 ミコはそう言って、また川底を見た。



「父は、石を拾うのがうまかった」


「そうなのか」


「川の中から、すぐ見つける。赤いの。緑の。黒いの。白いの。これは山から来た。これはもっと上から来た。これは川が長く持ってきた、って言ってた」


「石で分かるのか」


「父は分かった」



 ミコは少しだけ唇を結んだ。



「私は、まだ分からない」



 まだ。



 その言葉は、ミコがよく使う。



 まだ見えない。


 まだ分からない。


 まだアサメみたいにはなれない。


 まだオキほど川を読めない。



 でも、その「まだ」は、諦めではなかった。



 いつか、という形をしている。



「ミコは、これから分かるんだろ」


 シンは言った。



 ミコは顔を上げた。



「たぶん」


「俺みたいになってきたな」


「やだ」


「即答かよ」



 ミコは少し笑った。



 ちゃんと子供の顔だった。



 その笑顔を見ていると、骨流しの時に見た小さな火が思い出された。


 消えそうで消えなかった灯り。



 この子も、あの灯りみたいだった。



 小さい。


 危うい。


 でも、流れている。



 夜になると、オキのところへ人が来た。



 ひとりではない。



 川下から来た男。


 山の方から来た女。


 魚を持ってきた子供。


 塩を少しだけ包んで持ってきた老人。



 みんな、何かを置いていく。



 物だけではない。



 話も置いていく。



「下の瀬で木が倒れた」


「鹿が東へ動いた」


「南の者が、川の曲がりまで来たらしい」


「三日前、白い女を見たと言う者がいる」


「ただの雪で見間違いかもしれない」


「鉄を隠した家があると噂が出た」


「噂を出したのは誰だ」


「分からない」



 オキは、それを黙って聞いた。



 石を動かす。


 紐の結び目を増やす。


 時々、ミコに何かを取らせる。



 文字はない。



 それでも、情報は残る。



 石の位置。


 紐の数。


 誰が言ったか。


 誰が黙ったか。


 誰が目を逸らしたか。



 オキは、それらを全部見ているようだった。



 シンはその横で、ただ聞いていた。



 ヤマト。


 鉄。


 鬼。


 桃色。


 山。


 川。



 話は川と同じだ。



 止まらない。


 曲がる。


 濁る。


 澄む。


 誰かのところへ流れていく。



 そして、時々、人を生かす。


 時々、人を殺す。




 三日目の朝、オキがいつもより早く川から戻ってきた。



 足音が少し速い。



 顔は変わらない。


 だが、集落の空気がすぐに変わった。



 ミコが手を止めた。


 魚を干していた女が川の方を見る。


 小さな火床の男が、鉄片を布の下へ隠した。



 オキが言った。



「人が来る」



 シンは立ち上がった。



「誰が」


「知らん」


「知らないのに分かるのか」


「川が先に騒いだ」



 オキは川下を見た。



「足音が軽い。だが、荷を持たぬ者の軽さではない。走ってきた者の軽さでもない」


「どういうことだ」


「逃げ続けて、逃げることに慣れた足だ」



 その言葉で、シンの背中が少し冷えた。



 川下の道に、人影が見えた。



 ひとり。



 男だった。



 最初に見えたのは、色だった。



 赤と黒。



 雪の残る川岸で、その色は異様に目立った。



 赤く染めた革。


 黒く煤けた布。


 ところどころに小さな鉄片が留められている。


 大きな鎧ではない。


 重い甲ではない。



 動くための装いだった。



 胸を守る革。


 肩を守る薄い板。


 手首を巻く黒い布。


 膝の動きを邪魔しない短い覆い。



 防ぐためのものというより、斬られた時に少しだけ生き残るためのもの。


 逃げる時に、枝や石で身を裂かないためのもの。



 そんなふうに見えた。



 腰には短い鉄の刃。


 背には細い弓。


 矢は少ない。



 男は大きくない。



 タダのような体ではない。


 炉の男たちのような太さもない。



 それなのに、弱くは見えなかった。



 足が速そうだった。


 肩が軽い。


 首がよく動く。


 目が、常に先を探している。



 犬、という言葉が浮かんだ。



 飼われた犬ではない。



 山の端を走る、痩せた獣。


 人に近い場所を知っているのに、人に捕まらないもの。



 そんな印象だった。



 男は集落の前で止まった。



 息は少し上がっている。


 だが、荒れていない。



 疲れている。


 しかし、疲れを見せることに慣れていない。



 シンと目が合った。



 目は黒い。


 鋭い。



 警戒している。


 でも、敵意ではない。



 測っている目だ。



 アサメとも違う。


 オキとも違う。


 モモとも違う。



 相手を照合しているのではなく、相手がどのくらい危険か、どこから逃げればいいか、何を隠しているかを瞬時に探す目だった。



 オキが前へ出た。



 集落の者たちは、少し後ろへ下がった。


 ミコはオキの背後にいた。


 だが、完全には隠れていない。



 赤い紐が見えた。



「南の果てから来たか」


 オキが言った。



 男の目が、わずかに動いた。



 本当にわずかだった。



 だが、反応した。



「……なぜ、そう思う」



 声は低い。


 乾いている。



「雪の見方が違う。川の避け方が違う。歩き方は山を知っているが、山で育った者の足ではない」



 オキは続けた。



「それに、逃げる時に後ろを見すぎる者は、南から来る」



 男は少しだけ黙った。



 シンには、その沈黙の意味が分からなかった。


 だが、当たっているのだと思った。



「ヤマトか」


 オキが聞いた。



 男はすぐには答えなかった。



 川の音がした。



「まだ違う」



 その言葉に、シンはひっかかった。



 まだ。



 違う、ではない。


 まだ違う。



 いずれそうなるという意味か。


 なりかけているという意味か。


 それとも、そう見られることを知っているという意味か。



 男は、集落を見た。



 魚を干す煙。


 小さな火床。


 土器の甕。


 網。


 川岸の石。


 ミコ。


 オキ。


 そして、シン。



 視線が早い。



 ひとつずつ見るのではない。


 一度に全部を測っている。



「お前は」


 男がシンを見た。



「何者だ」



 シンは少し迷った。



 何者だ、と聞かれて、まともに答えられたことがない。



「遠くから来た者だ」


「ヤマトか」


「違う」


「山の者か」


「違う、と思う」


「鬼か」



 シンは息を止めた。



 ミコが少しだけシンを見た。



 オキは黙っている。



「そう言われた」



 シンは答えた。



 男は、ほんの少し目を細めた。



「……なるほど」



 何がなるほどなのか。


 シンには分からない。



 だが、男はその答えで何かを納得したらしかった。



 鬼と言われた者。


 ヤマトではない者。


 山の者でもない者。



 それが、この男にとってどういう意味を持つのか。


 まだ分からない。



「名前は」


 オキが聞いた。



 男は、答えなかった。



 代わりに、川の方を見た。



「春になれば、ヤマトの軍が来る」



 空気が固まった。



 魚を干していた女の手が止まる。


 小さな子供が、母親の衣の裾を掴む。


 ミコの赤い紐が、指の中でぎゅっと握られた。



 男は続けた。



「道が乾く。雪が消える。川沿いを上る。まず鉄を求める。次に道を求める。最後に人の名を求める」



 人の名。



 シンはその言葉を、嫌な重さで聞いた。



「名を?」


「誰が鉄を持つか。誰が道を知るか。誰が山へ行くか。誰が川を渡るか。誰が話を運ぶか」



 男の声は乾いていた。



 まるで、すでに見たものをもう一度言っているだけの声だった。



「それを聞かれる。答えれば、次は従えと言われる。答えなければ、隠したと言われる」


「隠したら?」


 シンが聞いた。



 男はシンを見た。



「鬼だ」



 短い答えだった。



 ミコの肩が、少しだけ震えた。



 オキは動かなかった。



「どのくらいで来る」


 オキが聞いた。



「雪が消え、川が少し落ち着いた頃」


「春の中ほどか」


「早ければ、その前」


「兵の数は」


「分からない」


「分からないのに警告か」


「見た数より、来る数は多い」



 男は川上を見た。



 その向こうに、山がある。


 アサメの集落がある。


 炉がある。



「川沿いだけではない。山へも入る。炉を探す。鉄を探す。人を探す」


「山もか」


「山が鉄を出すなら、山へ行く」



 オキは黙った。



 水の音だけがした。



「対策を打て」


 男が言った。



 命令のようだった。


 でも、命令する立場には見えなかった。



 ただ、言わなければならないから言っている。



 そんな声だった。



「鉄を一か所に置くな。道を一つにするな。名を全部そろえるな。老人と子供を、川沿いだけに置くな。火は、消す火と残す火を分けろ」



 オキは細い目で男を見た。



「よく知っている」


「知っている」


「どこで知った」



 男は答えなかった。



 けれど、その顔に一瞬、何かが走った。



 怒りでもない。


 悲しみでもない。



 燃えた後の、黒いもの。



 灰の下にまだ熱が残っているような顔だった。



「お前の集落は」


 オキが言った。



 男の目が動いた。



 今度は、分かりやすく。



 オキはやはり、何かを看破している。



 男は少しだけ息を吐いた。



「もうない」



 それだけだった。



 ミコが、赤い紐を握ったまま男を見た。



 シンも何も言えなかった。



 もうない。



 家がないのか。


 人がいないのか。


 火がないのか。


 名前がないのか。



 何がもうないのか、聞けなかった。



 男は聞かせるつもりもないようだった。



「山へ伝えろ」


 男が言った。



「アサメの山にも」



 シンは顔を上げた。



「アサメを知っているのか」


「名だけだ」


「誰から」


「話から」



 そこで、男は少しだけ言葉を切った。



「赤い山の女。炉を見る。人を射る。そう聞いた」



 シンは少し顔をしかめた。



「人を射る、は間違ってないけど、言い方がひどいな」


「生きているなら、加減された」


「それはそうかもしれない」



 男の口元が、ほんの少しだけ動いた。



 笑ったのかもしれない。


 だが、すぐ消えた。



 シンは、その一瞬で少しだけ分かった。



 この男は、笑わない人間ではない。



 笑う余裕を、どこかに置いてきただけだ。



「お前は、これからどこへ行く」


 オキが聞いた。



「山へ」


「アサメの方か」


「違う道を使う」


「なぜ」


「追われる時、同じ道を使う者は死ぬ」



 男は、それを当然のように言った。



 当然のように言えるほど、そういう経験をしてきたのだ。



「名を残していけ」


 オキが言った。



 男は一度、拒むように目を伏せた。



 だが、すぐに顔を上げた。



「イヌ」



 短い名だった。



「イヌ、と覚えろ」



 シンは思わず聞き返しそうになった。



 犬。



 そういうことなのか。


 通り名なのか。


 本名なのか。


 それとも、覚えさせるための名なのか。



 分からない。



 ただ、その名は男によく似合っていた。



 誰かに懐く犬ではない。


 牙を見せる犬でもない。



 遠くの火事を嗅ぎ、先に走り、吠える前に消える犬。



 そういう名だった。



 イヌは、もう一度集落を見た。



 オキ。


 ミコ。


 シン。


 小さな火床。


 干された魚。


 白い煙。



 そして、川。



「ここを、残したいなら動け」



 それだけ言った。



 誰も返事をしなかった。



 イヌは背を向けた。



 川上へ向かうのかと思った。


 違った。



 川沿いを少し進み、途中で急に道を外れる。


 葦の間を抜け、斜面の影へ入る。



 足音が小さい。



 雪が残っているのに、枝があるのに、ほとんど音がしない。



 赤黒い姿が、木々の間で一度だけ見えた。



 次の瞬間には、もう薄くなっている。



 イヌは消えた。



 来た時と同じように。


 何かを残して。


 自分は残らずに。




 しばらく、誰も喋らなかった。



 川の音だけがあった。



 白い煙が、ゆっくり上がっていた。



 ミコが、最初に口を開いた。



「春になったら、来るの」



 誰に聞いたのか分からない声だった。



 シンに。


 オキに。


 川に。


 あるいは、自分に。



 オキは答えた。



「来ると思って動く」


「来なかったら」


「その方がいい」



 ミコは赤い紐を見た。



「また、流すことになる?」



 オキはすぐには答えなかった。



 その沈黙が、答えに近かった。



 シンは拳を握った。



 骨流しの火が、頭に浮かぶ。



 小さな火。


 川の上を流れていく赤。



 美しかった。



 でも、美しいからといって、何度も見たいものではない。



 この集落が壊れれば、また骨が流れる。


 ミコはまた骨を持つかもしれない。


 今度は、もっと多くの骨を。



(嫌だな)



 それは、言葉にするとあまりに単純だった。



 嫌だ。



 この白い煙が消えるのが。


 ミコがまた骨を持つのが。


 オキが「戻った」と言うのが。


 この川が、死んだ者ばかりを運ぶのが。



 嫌だ。



「俺、戻る」


 シンは言った。



 オキが見た。



「山へか」


「ああ。アサメに伝える。タダにも。山の炉にも、知らせないと」


「アサメはもう、何かを感じているかもしれん」


「それでも、伝える」



 オキは少しだけ頷いた。



「見た者は、伝えろ」


「それが宿賃か」


「そうだ」



 シンは少し笑った。



 だが、笑いきれなかった。



 春が来る。



 それは、暖かくなるということだ。


 雪が溶けるということだ。


 川が増えるということだ。


 山道が開くということだ。



 そして、ヤマトが来るということだ。



 今まで、春は少し良いものだと思っていた。


 寒さが緩む。


 動ける。


 食べるものが増える。



 でも、この時代では違う。



 春は、軍が動ける季節でもある。



 道が開くというのは、味方だけが歩けるという意味ではない。


 敵も歩ける。



 鉄を欲しがる者も。


 道を欲しがる者も。


 名前を欲しがる者も。



 シンは、そのことを初めて実感した。



 ミコが近づいてきた。



 小さな手に、赤い石を持っている。



 川で拾っていた、夕焼け色の石だ。



「これ」


「ん?」


「持っていって」



 シンは驚いた。



「お父さんの石じゃないのか」


「これは、今日拾った石。父のじゃない」


「でも、大事なんじゃないか」


「大事。だから、持っていって」



 ミコは少しだけ目を伏せた。



「山へ行くなら、赤が見える方がいい」



 アサメの赤。


 ミコの紐。


 夕焼け色の石。



 赤は残る。



 ミコはそう言っていた。



 シンは石を受け取った。



 冷たい。


 川の冷たさが残っている。



 でも、手の中に入れると、少しずつ温まっていく。



「ありがとう」



 ミコは頷いた。



「また来る?」



 その声は小さかった。



 子供の声だった。



 骨を流す役目を背負った少女ではなく、ただ、誰かにまた会えるか聞いている子供の声だった。



 シンは少しだけ息を吸った。



 ナギの「また」を思い出した。



 軽く言うには、まだ怖い。



 でも、言う。



「また来る」



 ミコはシンを見た。



「本当に?」


「本当に」


「川に聞いても?」


「川に聞かれると、ちょっと困るけど」


「じゃあ、私が覚えておく」



 ミコはそう言った。



 それは、とても強い約束に聞こえた。



 オキが横から言った。



「約束は軽く流すな」


「はい」


「だが、重くしすぎても沈む」


「難しいな」


「川は難しい」



 シンは少し笑った。



 オキは笑わなかった。


 でも、少しだけ目が柔らかかった。



「オキ」


「なんだ」


「また会おう」



 オキはすぐには返事をしなかった。



 川を見た。



 白い煙を見た。



 それから、シンを見た。



「流れが合えばな」



 それが、オキなりの「また」なのだと思った。



 シンは頷いた。



「流れを合わせるようにする」


「人が合わせようとして、川が合わせるとは限らん」


「だろうな」


「だが、歩かなければ合うものも合わん」



 オキは、それだけ言って集落の方へ戻った。



 ミコはまだ立っていた。



 シンは赤い石を布に包み、懐へ入れた。



 小さな重みが、胸の近くに残る。



 忘れない者は重くなる。



 オキの言葉を思い出した。



 また少し、重くなった。



 でも、それでよかった。



 シンは川沿いを離れた。



 白い煙が背中に流れてくる。



 魚の匂い。


 水の匂い。


 骨を流した川の匂い。


 ミコがくれた赤い石の冷たさ。



 それらを抱えて、山へ向かう。



 途中で一度振り返った。



 ミコが小さく手を上げていた。



 シンも手を上げた。



 声は出さなかった。



 出すと、少しだけ胸が詰まりそうだった。



 川は流れていた。



 オキの集落は、白い煙を細く吐いていた。



 春が来る。



 ヤマトが来る。



 イヌはそう言った。



 シンは山へ向かって歩いた。



 足元の雪は、もうだいぶ薄くなっていた。



(第三十九話へ)

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