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イヌ

第三十八話 イヌ


⸻


 骨流しのあと、シンはさらに数日、オキの集落に残った。


⸻


 理由はいくつかあった。


 山道の雪がまだ残っていたこと。


 足の奥に、ほんの少し鈍い違和感があったこと。


 オキが「まだ見ていけ」と言ったこと。


 それから、ミコが何も言わずに、シンの分の椀を一つ余計に出したこと。


⸻


 それを見て、シンは帰ると言い出しにくくなった。


⸻


(強い引き止め方だな)


⸻


 ミコ本人は、引き止めているつもりがない顔をしていた。


 ただ、土器の椀を一つ置く。


 魚の身を少し入れる。


 それで終わり。


⸻


 何も言わない。


⸻


 でも、出ていくなと言われるより効いた。


⸻


 オキの集落の朝は早かった。


⸻


 川が先に起きる。


⸻


 まだ人が眠っている時から、水はずっと流れている。


 石に当たり、葦の根元を洗い、夜の冷えを少しずつほどいていく。


⸻


 その音に合わせるように、人が起きる。


⸻


 火を起こす者。


 昨日の灰を確かめる者。


 干した魚を裏返す者。


 水を汲む者。


 網の結び目を確かめる者。


 小さな火床の炭を起こす者。


⸻


 オキの集落は、アサメの山の集落より開いていた。


⸻


 山の集落は、隠れるための場所だった。


 煙も重く、家も低く、道も分かりにくい。


 山そのものが、外から来る者を迷わせるようにできていた。


⸻


 ここは違う。


⸻


 川に向いている。


⸻


 川から来るものを受け取る。


 川へ流すものを出す。


 山から来た鉄を受け、海から来た塩を受け、魚を干し、皮を替え、話を聞き、話を置く。


⸻


 閉じているようで、開いている。


 開いているようで、警戒している。


⸻


 そういう集落だった。


⸻


 シンは、何をすればいいのか分からなかった。


⸻


 狩りはできない。


 網も編めない。


 鉄片の補修もできない。


 川の流れも読めない。


 骨を洗う作法も知らない。


⸻


 だから、まず水を運んだ。


⸻


 木の桶は重かった。


 水は、思っているより重い。


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 しかも、こぼれる。


⸻


 両手で抱えて慎重に歩いても、足元の泥で少し滑る。


 揺れた水が、桶の縁からこぼれて足にかかった。


 凍りつく様な冷たい水だった。


⸻


(びゃっ!!)


⸻


 ミコが見ていた。


⸻


 笑ってはいない。


 でも、少しだけ口元が動いている。


⸻


「笑った?」


「笑ってない」


「絶対笑った」


「水は逃げるから」


「今、俺の話を川の話っぽくしたな」


「水を落とす人が悪い」


⸻


 ミコはそう言って、シンの半分くらいの量の水を、ほとんどこぼさず運んだ。


⸻


 八つか九つの子供なのに、動きが慣れている。


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 シンは少し負けた気がした。


⸻


 次に、魚を干す手伝いをした。


⸻


 開いた魚を木の棒に掛けるだけだと思った。


 違った。


⸻


 向きがある。


 間隔がある。


 風の通り道がある。


 煙が当たりすぎると苦くなる。


 当たらなすぎると腐る。


⸻


 白い煙は、ただ立っているわけではない。


 人が煙を通している。


 魚と風と火の間に、ちょうどいい道を作っている。


⸻


 それを少しずつ見て、シンはまた思った。


⸻


(生活って、すごいな)


⸻


 どこへ行っても、同じことを思う。


⸻


 山でも。


 川でも。


 火のそばでも。


⸻


 生活は、何気なく見える。


 でも、何気なく続いているものほど、無数の工夫でできている。


⸻


 ミコは骨の前だけではなく、魚の前でもよく働いた。


⸻


 けれど、魚の前にいる時のミコは、少し子供だった。


⸻


 手が煙で臭くなると、鼻をしかめる。


 魚の脂が指につくと、川で洗いたがる。


 赤い石を見つけると、すぐ拾う。


⸻


 骨の前では、役目が体より大きくなる。


 でも、いつもそうではない。


⸻


 それが分かって、シンは少し安心した。


⸻


 二日目の昼、ミコに川へ連れていかれた。


⸻


「石、探す」


「何に使うんだ」


「きれいだから」


「それだけ?」


「それだけ」


⸻


 ミコは当たり前のように言った。


⸻


 川の浅いところに入り、丸い石を探す。


 雪解け水は冷たい。


 かなり冷たい。


⸻


 シンも入った。


⸻


 入ってすぐ後悔した。


⸻


(やっぱりひゃっけぇえ!!)


⸻


 足の傷に響くかと思ったが、もう痛みはほとんどない。


 ただ、冷たい。


 冷たいというより、痛い。


⸻


 ミコは平気な顔をしていた。


⸻


「冷たくないのか」


「冷たい」


「なんで平気そうなんだ」


「平気じゃない顔をしても、冷たさは減らない」


「オキみたいなこと言うなぁ」


「オキに言われた」


⸻


 ミコは川底から石を拾った。


⸻


 赤みがかった石だった。


⸻


 夕焼けのような色。


 濡れていると、少しだけ火が入っているように見える。


⸻


「これ」


 ミコが言った。


⸻


「お父さんが好きだった色」


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 シンは石を見た。


⸻


 ミコの手のひらの上で、小さな赤が光っている。


 アサメの赤とは違う。


 手首の紐の赤とも違う。


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 川に濡れた、夕暮れの赤。


⸻


「きれいだな」


「うん」


⸻


 ミコはその石を小さな袋に入れた。


⸻


「たくさん集めるのか」


「少しだけ」


「何にする」


「置く」


「どこに」


「まだ決めてない」


⸻


 ミコはそう言って、また川底を見た。


⸻


「父は、石を拾うのがうまかった」


「そうなのか」


「川の中から、すぐ見つける。赤いの。緑の。黒いの。白いの。これは山から来た。これはもっと上から来た。これは川が長く持ってきた、って言ってた」


「石で分かるのか」


「父は分かった」


⸻


 ミコは少しだけ唇を結んだ。


⸻


「私は、まだ分からない」


⸻


 まだ。


⸻


 その言葉は、ミコがよく使う。


⸻


 まだ見えない。


 まだ分からない。


 まだアサメみたいにはなれない。


 まだオキほど川を読めない。


⸻


 でも、その「まだ」は、諦めではなかった。


⸻


 いつか、という形をしている。


⸻


「ミコは、これから分かるんだろ」


 シンは言った。


⸻


 ミコは顔を上げた。


⸻


「たぶん」


「俺みたいになってきたな」


「やだ」


「即答かよ」


⸻


 ミコは少し笑った。


⸻


 ちゃんと子供の顔だった。


⸻


 その笑顔を見ていると、骨流しの時に見た小さな火が思い出された。


 消えそうで消えなかった灯り。


⸻


 この子も、あの灯りみたいだった。


⸻


 小さい。


 危うい。


 でも、流れている。


⸻


 夜になると、オキのところへ人が来た。


⸻


 ひとりではない。


⸻


 川下から来た男。


 山の方から来た女。


 魚を持ってきた子供。


 塩を少しだけ包んで持ってきた老人。


⸻


 みんな、何かを置いていく。


⸻


 物だけではない。


⸻


 話も置いていく。


⸻


「下の瀬で木が倒れた」


「鹿が東へ動いた」


「南の者が、川の曲がりまで来たらしい」


「三日前、白い女を見たと言う者がいる」


「ただの雪で見間違いかもしれない」


「鉄を隠した家があると噂が出た」


「噂を出したのは誰だ」


「分からない」


⸻


 オキは、それを黙って聞いた。


⸻


 石を動かす。


 紐の結び目を増やす。


 時々、ミコに何かを取らせる。


⸻


 文字はない。


⸻


 それでも、情報は残る。


⸻


 石の位置。


 紐の数。


 誰が言ったか。


 誰が黙ったか。


 誰が目を逸らしたか。


⸻


 オキは、それらを全部見ているようだった。


⸻


 シンはその横で、ただ聞いていた。


⸻


 ヤマト。


 鉄。


 鬼。


 桃色。


 山。


 川。


⸻


 話は川と同じだ。


⸻


 止まらない。


 曲がる。


 濁る。


 澄む。


 誰かのところへ流れていく。


⸻


 そして、時々、人を生かす。


 時々、人を殺す。


⸻


⸻


 三日目の朝、オキがいつもより早く川から戻ってきた。


⸻


 足音が少し速い。


⸻


 顔は変わらない。


 だが、集落の空気がすぐに変わった。


⸻


 ミコが手を止めた。


 魚を干していた女が川の方を見る。


 小さな火床の男が、鉄片を布の下へ隠した。


⸻


 オキが言った。


⸻


「人が来る」


⸻


 シンは立ち上がった。


⸻


「誰が」


「知らん」


「知らないのに分かるのか」


「川が先に騒いだ」


⸻


 オキは川下を見た。


⸻


「足音が軽い。だが、荷を持たぬ者の軽さではない。走ってきた者の軽さでもない」


「どういうことだ」


「逃げ続けて、逃げることに慣れた足だ」


⸻


 その言葉で、シンの背中が少し冷えた。


⸻


 川下の道に、人影が見えた。


⸻


 ひとり。


⸻


 男だった。


⸻


 最初に見えたのは、色だった。


⸻


 赤と黒。


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 雪の残る川岸で、その色は異様に目立った。


⸻


 赤く染めた革。


 黒く煤けた布。


 ところどころに小さな鉄片が留められている。


 大きな鎧ではない。


 重い甲ではない。


⸻


 動くための装いだった。


⸻


 胸を守る革。


 肩を守る薄い板。


 手首を巻く黒い布。


 膝の動きを邪魔しない短い覆い。


⸻


 防ぐためのものというより、斬られた時に少しだけ生き残るためのもの。


 逃げる時に、枝や石で身を裂かないためのもの。


⸻


 そんなふうに見えた。


⸻


 腰には短い鉄の刃。


 背には細い弓。


 矢は少ない。


⸻


 男は大きくない。


⸻


 タダのような体ではない。


 炉の男たちのような太さもない。


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 それなのに、弱くは見えなかった。


⸻


 足が速そうだった。


 肩が軽い。


 首がよく動く。


 目が、常に先を探している。


⸻


 犬、という言葉が浮かんだ。


⸻


 飼われた犬ではない。


⸻


 山の端を走る、痩せた獣。


 人に近い場所を知っているのに、人に捕まらないもの。


⸻


 そんな印象だった。


⸻


 男は集落の前で止まった。


⸻


 息は少し上がっている。


 だが、荒れていない。


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 疲れている。


 しかし、疲れを見せることに慣れていない。


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 シンと目が合った。


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 目は黒い。


 鋭い。


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 警戒している。


 でも、敵意ではない。


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 測っている目だ。


⸻


 アサメとも違う。


 オキとも違う。


 モモとも違う。


⸻


 相手を照合しているのではなく、相手がどのくらい危険か、どこから逃げればいいか、何を隠しているかを瞬時に探す目だった。


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 オキが前へ出た。


⸻


 集落の者たちは、少し後ろへ下がった。


 ミコはオキの背後にいた。


 だが、完全には隠れていない。


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 赤い紐が見えた。


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「南の果てから来たか」


 オキが言った。


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 男の目が、わずかに動いた。


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 本当にわずかだった。


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 だが、反応した。


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「……なぜ、そう思う」


⸻


 声は低い。


 乾いている。


⸻


「雪の見方が違う。川の避け方が違う。歩き方は山を知っているが、山で育った者の足ではない」


⸻


 オキは続けた。


⸻


「それに、逃げる時に後ろを見すぎる者は、南から来る」


⸻


 男は少しだけ黙った。


⸻


 シンには、その沈黙の意味が分からなかった。


 だが、当たっているのだと思った。


⸻


「ヤマトか」


 オキが聞いた。


⸻


 男はすぐには答えなかった。


⸻


 川の音がした。


⸻


「まだ違う」


⸻


 その言葉に、シンはひっかかった。


⸻


 まだ。


⸻


 違う、ではない。


 まだ違う。


⸻


 いずれそうなるという意味か。


 なりかけているという意味か。


 それとも、そう見られることを知っているという意味か。


⸻


 男は、集落を見た。


⸻


 魚を干す煙。


 小さな火床。


 土器の甕。


 網。


 川岸の石。


 ミコ。


 オキ。


 そして、シン。


⸻


 視線が早い。


⸻


 ひとつずつ見るのではない。


 一度に全部を測っている。


⸻


「お前は」


 男がシンを見た。


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「何者だ」


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 シンは少し迷った。


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 何者だ、と聞かれて、まともに答えられたことがない。


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「遠くから来た者だ」


「ヤマトか」


「違う」


「山の者か」


「違う、と思う」


「鬼か」


⸻


 シンは息を止めた。


⸻


 ミコが少しだけシンを見た。


⸻


 オキは黙っている。


⸻


「そう言われた」


⸻


 シンは答えた。


⸻


 男は、ほんの少し目を細めた。


⸻


「……なるほど」


⸻


 何がなるほどなのか。


 シンには分からない。


⸻


 だが、男はその答えで何かを納得したらしかった。


⸻


 鬼と言われた者。


 ヤマトではない者。


 山の者でもない者。


⸻


 それが、この男にとってどういう意味を持つのか。


 まだ分からない。


⸻


「名前は」


 オキが聞いた。


⸻


 男は、答えなかった。


⸻


 代わりに、川の方を見た。


⸻


「春になれば、ヤマトの軍が来る」


⸻


 空気が固まった。


⸻


 魚を干していた女の手が止まる。


 小さな子供が、母親の衣の裾を掴む。


 ミコの赤い紐が、指の中でぎゅっと握られた。


⸻


 男は続けた。


⸻


「道が乾く。雪が消える。川沿いを上る。まず鉄を求める。次に道を求める。最後に人の名を求める」


⸻


 人の名。


⸻


 シンはその言葉を、嫌な重さで聞いた。


⸻


「名を?」


「誰が鉄を持つか。誰が道を知るか。誰が山へ行くか。誰が川を渡るか。誰が話を運ぶか」


⸻


 男の声は乾いていた。


⸻


 まるで、すでに見たものをもう一度言っているだけの声だった。


⸻


「それを聞かれる。答えれば、次は従えと言われる。答えなければ、隠したと言われる」


「隠したら?」


 シンが聞いた。


⸻


 男はシンを見た。


⸻


「鬼だ」


⸻


 短い答えだった。


⸻


 ミコの肩が、少しだけ震えた。


⸻


 オキは動かなかった。


⸻


「どのくらいで来る」


 オキが聞いた。


⸻


「雪が消え、川が少し落ち着いた頃」


「春の中ほどか」


「早ければ、その前」


「兵の数は」


「分からない」


「分からないのに警告か」


「見た数より、来る数は多い」


⸻


 男は川上を見た。


⸻


 その向こうに、山がある。


 アサメの集落がある。


 炉がある。


⸻


「川沿いだけではない。山へも入る。炉を探す。鉄を探す。人を探す」


「山もか」


「山が鉄を出すなら、山へ行く」


⸻


 オキは黙った。


⸻


 水の音だけがした。


⸻


「対策を打て」


 男が言った。


⸻


 命令のようだった。


 でも、命令する立場には見えなかった。


⸻


 ただ、言わなければならないから言っている。


⸻


 そんな声だった。


⸻


「鉄を一か所に置くな。道を一つにするな。名を全部そろえるな。老人と子供を、川沿いだけに置くな。火は、消す火と残す火を分けろ」


⸻


 オキは細い目で男を見た。


⸻


「よく知っている」


「知っている」


「どこで知った」


⸻


 男は答えなかった。


⸻


 けれど、その顔に一瞬、何かが走った。


⸻


 怒りでもない。


 悲しみでもない。


⸻


 燃えた後の、黒いもの。


⸻


 灰の下にまだ熱が残っているような顔だった。


⸻


「お前の集落は」


 オキが言った。


⸻


 男の目が動いた。


⸻


 今度は、分かりやすく。


⸻


 オキはやはり、何かを看破している。


⸻


 男は少しだけ息を吐いた。


⸻


「もうない」


⸻


 それだけだった。


⸻


 ミコが、赤い紐を握ったまま男を見た。


⸻


 シンも何も言えなかった。


⸻


 もうない。


⸻


 家がないのか。


 人がいないのか。


 火がないのか。


 名前がないのか。


⸻


 何がもうないのか、聞けなかった。


⸻


 男は聞かせるつもりもないようだった。


⸻


「山へ伝えろ」


 男が言った。


⸻


「アサメの山にも」


⸻


 シンは顔を上げた。


⸻


「アサメを知っているのか」


「名だけだ」


「誰から」


「話から」


⸻


 そこで、男は少しだけ言葉を切った。


⸻


「赤い山の女。炉を見る。人を射る。そう聞いた」


⸻


 シンは少し顔をしかめた。


⸻


「人を射る、は間違ってないけど、言い方がひどいな」


「生きているなら、加減された」


「それはそうかもしれない」


⸻


 男の口元が、ほんの少しだけ動いた。


⸻


 笑ったのかもしれない。


 だが、すぐ消えた。


⸻


 シンは、その一瞬で少しだけ分かった。


⸻


 この男は、笑わない人間ではない。


⸻


 笑う余裕を、どこかに置いてきただけだ。


⸻


「お前は、これからどこへ行く」


 オキが聞いた。


⸻


「山へ」


「アサメの方か」


「違う道を使う」


「なぜ」


「追われる時、同じ道を使う者は死ぬ」


⸻


 男は、それを当然のように言った。


⸻


 当然のように言えるほど、そういう経験をしてきたのだ。


⸻


「名を残していけ」


 オキが言った。


⸻


 男は一度、拒むように目を伏せた。


⸻


 だが、すぐに顔を上げた。


⸻


「イヌ」


⸻


 短い名だった。


⸻


「イヌ、と覚えろ」


⸻


 シンは思わず聞き返しそうになった。


⸻


 犬。


⸻


 そういうことなのか。


 通り名なのか。


 本名なのか。


 それとも、覚えさせるための名なのか。


⸻


 分からない。


⸻


 ただ、その名は男によく似合っていた。


⸻


 誰かに懐く犬ではない。


 牙を見せる犬でもない。


⸻


 遠くの火事を嗅ぎ、先に走り、吠える前に消える犬。


⸻


 そういう名だった。


⸻


 イヌは、もう一度集落を見た。


⸻


 オキ。


 ミコ。


 シン。


 小さな火床。


 干された魚。


 白い煙。


⸻


 そして、川。


⸻


「ここを、残したいなら動け」


⸻


 それだけ言った。


⸻


 誰も返事をしなかった。


⸻


 イヌは背を向けた。


⸻


 川上へ向かうのかと思った。


 違った。


⸻


 川沿いを少し進み、途中で急に道を外れる。


 葦の間を抜け、斜面の影へ入る。


⸻


 足音が小さい。


⸻


 雪が残っているのに、枝があるのに、ほとんど音がしない。


⸻


 赤黒い姿が、木々の間で一度だけ見えた。


⸻


 次の瞬間には、もう薄くなっている。


⸻


 イヌは消えた。


⸻


 来た時と同じように。


 何かを残して。


 自分は残らずに。


⸻


⸻


 しばらく、誰も喋らなかった。


⸻


 川の音だけがあった。


⸻


 白い煙が、ゆっくり上がっていた。


⸻


 ミコが、最初に口を開いた。


⸻


「春になったら、来るの」


⸻


 誰に聞いたのか分からない声だった。


⸻


 シンに。


 オキに。


 川に。


 あるいは、自分に。


⸻


 オキは答えた。


⸻


「来ると思って動く」


「来なかったら」


「その方がいい」


⸻


 ミコは赤い紐を見た。


⸻


「また、流すことになる?」


⸻


 オキはすぐには答えなかった。


⸻


 その沈黙が、答えに近かった。


⸻


 シンは拳を握った。


⸻


 骨流しの火が、頭に浮かぶ。


⸻


 小さな火。


 川の上を流れていく赤。


⸻


 美しかった。


⸻


 でも、美しいからといって、何度も見たいものではない。


⸻


 この集落が壊れれば、また骨が流れる。


 ミコはまた骨を持つかもしれない。


 今度は、もっと多くの骨を。


⸻


(嫌だな)


⸻


 それは、言葉にするとあまりに単純だった。


⸻


 嫌だ。


⸻


 この白い煙が消えるのが。


 ミコがまた骨を持つのが。


 オキが「戻った」と言うのが。


 この川が、死んだ者ばかりを運ぶのが。


⸻


 嫌だ。


⸻


「俺、戻る」


 シンは言った。


⸻


 オキが見た。


⸻


「山へか」


「ああ。アサメに伝える。タダにも。山の炉にも、知らせないと」


「アサメはもう、何かを感じているかもしれん」


「それでも、伝える」


⸻


 オキは少しだけ頷いた。


⸻


「見た者は、伝えろ」


「それが宿賃か」


「そうだ」


⸻


 シンは少し笑った。


⸻


 だが、笑いきれなかった。


⸻


 春が来る。


⸻


 それは、暖かくなるということだ。


 雪が溶けるということだ。


 川が増えるということだ。


 山道が開くということだ。


⸻


 そして、ヤマトが来るということだ。


⸻


 今まで、春は少し良いものだと思っていた。


 寒さが緩む。


 動ける。


 食べるものが増える。


⸻


 でも、この時代では違う。


⸻


 春は、軍が動ける季節でもある。


⸻


 道が開くというのは、味方だけが歩けるという意味ではない。


 敵も歩ける。


⸻


 鉄を欲しがる者も。


 道を欲しがる者も。


 名前を欲しがる者も。


⸻


 シンは、そのことを初めて実感した。


⸻


 ミコが近づいてきた。


⸻


 小さな手に、赤い石を持っている。


⸻


 川で拾っていた、夕焼け色の石だ。


⸻


「これ」


「ん?」


「持っていって」


⸻


 シンは驚いた。


⸻


「お父さんの石じゃないのか」


「これは、今日拾った石。父のじゃない」


「でも、大事なんじゃないか」


「大事。だから、持っていって」


⸻


 ミコは少しだけ目を伏せた。


⸻


「山へ行くなら、赤が見える方がいい」


⸻


 アサメの赤。


 ミコの紐。


 夕焼け色の石。


⸻


 赤は残る。


⸻


 ミコはそう言っていた。


⸻


 シンは石を受け取った。


⸻


 冷たい。


 川の冷たさが残っている。


⸻


 でも、手の中に入れると、少しずつ温まっていく。


⸻


「ありがとう」


⸻


 ミコは頷いた。


⸻


「また来る?」


⸻


 その声は小さかった。


⸻


 子供の声だった。


⸻


 骨を流す役目を背負った少女ではなく、ただ、誰かにまた会えるか聞いている子供の声だった。


⸻


 シンは少しだけ息を吸った。


⸻


 ナギの「また」を思い出した。


⸻


 軽く言うには、まだ怖い。


⸻


 でも、言う。


⸻


「また来る」


⸻


 ミコはシンを見た。


⸻


「本当に?」


「本当に」


「川に聞いても?」


「川に聞かれると、ちょっと困るけど」


「じゃあ、私が覚えておく」


⸻


 ミコはそう言った。


⸻


 それは、とても強い約束に聞こえた。


⸻


 オキが横から言った。


⸻


「約束は軽く流すな」


「はい」


「だが、重くしすぎても沈む」


「難しいな」


「川は難しい」


⸻


 シンは少し笑った。


⸻


 オキは笑わなかった。


 でも、少しだけ目が柔らかかった。


⸻


「オキ」


「なんだ」


「また会おう」


⸻


 オキはすぐには返事をしなかった。


⸻


 川を見た。


⸻


 白い煙を見た。


⸻


 それから、シンを見た。


⸻


「流れが合えばな」


⸻


 それが、オキなりの「また」なのだと思った。


⸻


 シンは頷いた。


⸻


「流れを合わせるようにする」


「人が合わせようとして、川が合わせるとは限らん」


「だろうな」


「だが、歩かなければ合うものも合わん」


⸻


 オキは、それだけ言って集落の方へ戻った。


⸻


 ミコはまだ立っていた。


⸻


 シンは赤い石を布に包み、懐へ入れた。


⸻


 小さな重みが、胸の近くに残る。


⸻


 忘れない者は重くなる。


⸻


 オキの言葉を思い出した。


⸻


 また少し、重くなった。


⸻


 でも、それでよかった。


⸻


 シンは川沿いを離れた。


⸻


 白い煙が背中に流れてくる。


⸻


 魚の匂い。


 水の匂い。


 骨を流した川の匂い。


 ミコがくれた赤い石の冷たさ。


⸻


 それらを抱えて、山へ向かう。


⸻


 途中で一度振り返った。


⸻


 ミコが小さく手を上げていた。


⸻


 シンも手を上げた。


⸻


 声は出さなかった。


⸻


 出すと、少しだけ胸が詰まりそうだった。


⸻


 川は流れていた。


⸻


 オキの集落は、白い煙を細く吐いていた。


⸻


 春が来る。


⸻


 ヤマトが来る。


⸻


 イヌはそう言った。


⸻


 シンは山へ向かって歩いた。


⸻


 足元の雪は、もうだいぶ薄くなっていた。


⸻


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