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骨流し

第三十七話 骨流し



 ナギは、骨流しを見る前に出ていった。



 朝だった。



 川の上に、薄い霧が残っていた。


 夜の冷えが水の上でほどけきらず、白いものになって流れている。



 空はまだ薄い。


 東の山の端だけが、少し明るい。



 オキの集落では、もう人が動いていた。



 魚を干す者。


 火床の灰をならす者。


 川へ水を汲みに行く者。


 子供を起こす者。


 そして、夕方に流す骨を布から出し、白い湯気で温める者。



 暮らしと弔いが、同じ朝の中にあった。



 シンはそれを、まだ少し慣れない気持ちで見ていた。



 死が、遠くに置かれていない。



 誰かが泣いているわけでもない。


 誰かが大声で祈っているわけでもない。


 でも、何も感じていないわけでもない。



 人々の動きが、少しだけ静かだった。


 土器を置く音が小さい。


 子供を叱る声も、昨日より低い。


 火を扱う手も、いつもより遅い。



 そういう小さな違いで、この日がただの日ではないことが分かった。



 ナギは、そんな朝に背負い袋を締めていた。



 鳥の羽根の外套を肩に掛け、腰の紐を結び直している。


 昨日までより荷は軽そうだった。


 代わりに、腰に小さな包みが増えている。



「また行くのか」


 シンは聞いた。



「うん。川下の方に話を置いてくる」


「話を置く?」


「そう。山の炉は動いてる。雪は溶け始めた。桃色の噂が近い。オキの集落はまだ無事。あと、魚は足りてるけど塩は少し欲しい」


「情報量が多いな」


「俺の荷は軽いけど、話は重いんだよ」



 ナギは笑った。



 いつもの軽さだった。



 けれど、今日はどこか急いでいる。


 足元がすでに川下へ向いていた。



「骨流しは見ていかないのか」


「見たいけどね」


 ナギは川を見た。



 霧の向こうで、水が光っている。



「でも、見てから行くと暗くなる。暗くなってから川道を行くと、オキの爺に怒られる」


「怒られるのが嫌なのか」


「それもある」


「他には?」


「骨流しの日の話は、流れ終わるまで外へ出さない方がいい」



 シンは少し黙った。



 ナギは軽く言った。


 けれど、軽いだけではなかった。



「そういうものなのか」


「そういうもの。見たものをすぐ話にすると、まだ川へ返ってないものまで、言葉で持っていくことになる」



 ナギは背負い袋を持ち上げた。



「だから俺は、見る前に行く。見なければ、運ばなくていい」



 シンは少しだけ驚いた。



 ナギはただ軽いだけではない。


 何を運んで、何を運ばないかを知っている。



 川の石を選んで踏むみたいに、言葉も選んでいる。



「ナギって、ずっと飛び回ってるな」


 シンは言った。



「ん?」


「山に来て、川に来て、また川下へ行く。まるで鳥だな」



 ナギは少し嬉しそうに笑った。



「飛べないけどね〜」



 鳥の羽根の外套が、肩で揺れた。



「飛べたら楽なんだけど」


「飛べたら、荷物落としそうだな」


「それは困る。じゃあ歩く方がいいか」



 ナギは軽く手を振った。



「じゃ、また」



 また。



 その言葉を、ナギは今日も軽く言った。



 シンは頷いた。



「また」



 今度は、言えた。



 ナギは少しだけ目を丸くした。


 それから、にっと笑った。



「言えるじゃん」


「言うくらいは」


「それでいいよ」



 ナギは歩き出した。



 川下へ。



 霧の中へ。



 鳥の羽根の外套が、朝の白に溶ける。


 少し進むと、もう背中しか見えない。


 その背中も、やがて柳の枝と霧の間に消えた。



 シンはしばらく、その方を見ていた。



 ナギは、いなくなるのが早い。



 来るのも早い。


 いなくなるのも早い。



 その軽さが、少しだけ心配だった。



 けれど、きっとあれで生きているのだ。



 飛べない鳥みたいに。


 地面と水辺の間を、何度も行き来しながら。




 その日の午前、集落は骨流しの支度を始めた。



 派手な支度ではない。



 大きな祭壇を作るわけでもない。


 高い柱を立てるわけでもない。


 神の名を大声で呼ぶわけでもない。



 ただ、川のそばに人が集まっていく。



 川岸の少し広くなった場所に、平たい石が並べられていた。


 その石の上に、木の皮を重ねた小さな皿のようなものが置かれる。



 皿は、手のひらより少し大きい。



 薄く剥いだ樹皮を曲げ、細い蔓で留めてある。


 底には乾いた葦が敷かれている。


 その上に、小さな炭。


 さらに、赤い火種を受けるための灰。



 灯籠という言葉が、シンの頭に浮かんだ。



 だが、紙はない。


 整った形でもない。


 色もない。



 ただ、木の皮と葦と灰で作られた、小さな火の器だった。



 それでも、見た瞬間に分かった。



 あれは、流すためのものだ。



 死んだものと、火を一緒に川へ返すためのものだ。



 ミコはその皿を一つずつ確認していた。



 八つか、九つの小さな手。


 まだ子供の手だ。



 指は細い。


 爪の間に、灰が入っている。


 昨日も見た赤い紐が、手首に巻かれていた。



 その赤が、白い灰の中でよく見えた。



 ミコは真剣だった。



 怖がっている目をしている。


 でも、逃げない。



 その横に、オキが立っていた。



 小柄な老人は、何も手を出さない。


 ただ見ている。



 見守っている、というより、川と同じ方向から見ているようだった。



「それは、まだ乾いていない」


 オキが言った。



 ミコは皿の一つを持ち上げた。



 底の葦を指で押す。



「こっちは?」


「軽すぎる。火種が落ちる」



 ミコは唇を結んだ。



 それから、別の葦を少し足した。



「今は?」


「見ろ」


「……傾いてる」


「なら直せ」



 ミコは頷き、皿の片側を蔓で締め直した。



 シンはその様子を見ていた。



 小さな子供が、骨を流す準備をしている。



 それは残酷にも見えた。


 でも、ここではそうではないのだろう。



 死を遠ざけないからこそ、子供も見る。


 子供も触る。


 子供も覚える。



 ミコは、覚えさせられている。



 でも、ただ押しつけられているわけでもない。



 怖がりながら、自分で手を動かしている。



 そのことが、胸に引っかかった。



 昼の間、骨は洗われた。



 白い湯気が上がった。



 土器の湯は、何度も替えられた。


 川から水を汲み、火にかけ、温め、骨に注ぐ。



 熱すぎてはいけない。


 冷たすぎてもいけない。



 ミコは時々、指先で湯に触れていた。


 熱いと顔をしかめる。


 冷たいと、オキを見る前に自分で火へ戻す。



 オキは何も言わない。



 言わない時ほど、ミコは少しだけ嬉しそうだった。



 洗われている骨は、多くはなかった。



 布に包まれた、小さな一組。



 魚でも獣でもない。



 人の骨だった。



 そのことを、シンはもう聞いていた。



 けれど、誰の骨かは聞いていなかった。



 聞いていいのか、分からなかった。



 夕方近くになって、オキが言った。



「ミコの親だ」



 シンは返事ができなかった。



 ミコは、手を止めなかった。



 骨を洗い続けている。



 小さな手で。


 怖がっている目で。


 それでも逃げずに。



「親……」


 シンはようやく言った。



「父だ、ヤマトに鬼討ちされた。」


 オキが言った。



 ミコの手が、わずかに止まった。



 でもすぐに動いた。



 オキは川を見た。



「鉄を運んだ。話を運んだ。山と川と海を行き来した。南の者とも会った」


「ナギみたいな人だったのか」


「ナギより口数は少なかった」


「それは大体の人がそうだな」



 オキはほんの少しだけ口元を動かした。



 笑ったのかもしれない。



「だが、よく見た。よく覚えた。鉄をどこへ流せば争いが減るかを知っていた。どの話をどこへ運べば、人が死なずに済むかを知っていた」



 シンはミコを見た。



 ミコは骨を洗っている。


 顔を上げない。



「それが、ヤマトにとって悪かったのか」


「悪かった」



 オキは短く言った。



「なぜ」


「数えられない鉄は、困る。勝手に流れる話は、困る。誰がどこで何を欲しがり、誰がどこで何を恐れているか。それを、ヤマトより先に知る者は困る」



 シンは黙った。



 オキの声は低かった。


 怒りを抑えているようにも聞こえた。


 怒りを川へ沈めているようにも聞こえた。



「ミコの父は、ヤマトに従わなかったのか」


「従わなかった、というより、従う形が違った」


「形?」


「南の者と取引はした。鉄も渡した。塩も受けた。話も聞いた。だが、全部を渡さなかった」



 全部。



 また、その言葉だ。



「ヤマトは、全部を欲しがるのか」


「全部を管理したがる」



 管理。



 オキの口から出たその言葉は、ひどく冷たく聞こえた。



「鉄がどこから出たか。誰が打ったか。誰が運んだか。誰が受け取ったか。どの道を通ったか。どの山が従うか。どの川が背くか。どの者が話を持っているか」



 オキは川の水面を見た。



「それを知らねば、遠くは支配できない」



 シンは息を呑んだ。



 支配。



 この時代で、その言葉がそのまま使われているわけではないかもしれない。


 だが、意味は分かった。



 遠くを動かすには、遠くのものを知る必要がある。


 知るためには、数える必要がある。


 数えるためには、分ける必要がある。



 従う者。


 従わない者。


 道を開く者。


 道を隠す者。


 鉄を渡す者。


 鉄を流す者。


 話を届ける者。


 話を隠す者。



 そして。



 鬼。



「山の民を選別するのか」


 シンは言った。



 オキが頷いた。



「従う山と、従わぬ山。道を出す山と、道を隠す山。鉄を差し出す山と、鉄を流す山。話を渡す者と、話を選ぶ者」



 ミコの手が止まった。



 オキは続けた。



「ヤマトは、それを分ける。分ければ、扱える。扱えぬものは、鬼と呼べる」


「管理するために」


「そうだ」



 オキは初めて、はっきり言った。



「管理するためだ」



 川の音がした。



 水が石に当たり、割れて、また合わさる。



 シンはその音を聞いた。



 前の時代のタケヒコを思い出した。



 増えた人間。


 畑。


 水。


 飢え。


 数えること。


 従わせること。



 あれは、遠い昔の話ではなかった。



 ここまで続いている。



 形を変えながら。


 鉄を欲しがり、道を欲しがり、話を欲しがり、人を分けるものになっている。



「ミコの父は、鬼と呼ばれたのか」


 シンは聞いた。



 オキはすぐには答えなかった。



 ミコが、先に答えた。



「呼ばれた」



 小さな声だった。



 でも、はっきりしていた。



「父は鬼じゃない」



 ミコは骨を見た。



「でも、鬼って言われた」



 シンは何も言えなかった。



 ミコの声は泣いていなかった。


 怒ってもいなかった。



 ただ、覚えた事実を置いている声だった。



 その方が、痛かった。



「討ったのは、桃色か」



 シンは聞いた。



 聞きたくなかった。


 でも、聞いた。



 オキは首を横に振った。



「違う。南に近い者たちだ。桃色は、そこにはいなかった」



 シンは、少しだけ息を吐いた。



 安堵ではない。



 モモではなかった。


 その事実に、ほんのわずか体が緩んだ。



 だが、すぐに別の重さが来た。



 モモがいなくても、人は鬼を討つ。



 桃色だけが問題ではない。



 鬼という名があれば、人が人を討つ。



 そのことが、恐ろしかった。



「桃色だけじゃないんだな」


「桃色は、形の一つだ」


 オキが言った。



「鬼と呼ぶ口があり、討つ手がある。白い女である時もある。男たちの刃である時もある。飢えである時もある。道を塞ぐことである時もある」



 シンは川を見た。



 水はただ流れている。



 山から来て、海へ向かう。



 どこかで曲がり、どこかで増え、どこかで分かれる。



 管理しようとすれば、流れは邪魔になる。


 流す者は邪魔になる。


 流れを知る者は、もっと邪魔になる。



 ミコの父は、そういう人だったのだ。



 鉄と情報を、ヤマトにとって有害な形で運んだ人。



 誰かを逃がし、誰かを飢えさせず、誰かに警告を届けたかもしれない人。



 そして、そのために鬼と呼ばれた人。




 夕暮れが近づいた。



 川の色が変わり始める。



 昼の水は、空の青を映していた。


 夕方の水は、火を待つように暗くなる。



 集落の者たちが、静かに川岸へ集まった。



 大きな列ではない。


 十人少し。


 子供もいる。


 老人もいる。


 魚を干していた女も、鉄片を直していた男も、手を止めて来た。



 誰も大声を出さない。



 泣き叫ぶ者もいない。



 それでも、全員の顔が少しだけ沈んでいた。



 骨流しが始まる。



 ミコは、白い布に包んだ骨を持っていた。



 両手で。



 大事そうに。


 でも、重そうに。



 骨が重いのではない。



 役目が重いのだ。



 オキが、川岸の平たい石の上に立った。



 杖ではない細い棒を、川へ向ける。



「水は山から来る」


 オキが言った。



 声は大きくない。


 けれど、全員に届いた。



「水は川を通る。水は海へ行く。海へ行った水は、また雲になる。雲は山へ戻る」



 シンは空を見上げた。



 夕暮れの空に、薄い雲がある。



「生きたものは食べる。食べたものは血になる。血は熱になる。熱は言葉になる。言葉は道を渡る。道を渡ったものは、どこかでまた戻る」



 オキは、ミコを見た。



「死んだものも、戻る」



 ミコが一歩前へ出た。



 シンは息を止めた。



 ミコは震えていた。



 手が、少し震えている。


 赤い紐が、夕暮れの光の中で細く揺れた。



 それでも、ミコは骨を落とさなかった。



 逃げなかった。



 アサメに憧れている少女。


 怖くても逃げないところを真似したいと言った少女。



 今、その言葉の通りに立っている。



 ミコは布を開いた。



 白い骨が、夕方の光の中に出る。



 大きくはない。


 きれいに洗われている。


 湯気はもう立っていない。



 その骨を、木の皮で作った小さな器へ置く。



 器の中には、灰がある。


 乾いた葦がある。


 小さな炭がある。



 オキが、集落の中央の火から取った火種を持ってきた。



 火種は小さい。



 赤い。



 燃え上がる炎ではない。


 灰の中で息をしている、静かな赤。



 ミコはそれを受け取った。



「熱いか」


 オキが聞いた。



「熱い」


 ミコが答えた。



「落とすか」


「落とさない」



 ミコは火種を器の中へ置いた。



 葦が、少しずつ赤を受ける。


 すぐには燃え上がらない。


 まず、煙が出た。



 白い煙。



 細い。



 骨の横から、火種の周りから、白い息のように立ち上がる。



 そして、やがて小さな火がついた。



 それは、灯りだった。



 小さな灯り。



 人ひとりの死を送るには、あまりにも小さい。


 けれど、大きすぎないからこそ、まっすぐ見られる火だった。



 ミコは膝をつき、その器を両手で持った。



 川岸の石へ降りる。



 オキが手を貸そうとした。


 ミコは一瞬迷って、その手を取らなかった。



 自分で降りた。



 足元の石が濡れている。


 滑りそうだ。



 シンは思わず動きかけた。



 だが、オキが視線で止めた。



 ミコの役目なのだ。



 誰かが代わってはいけない。



 ミコは川のすぐそばまで行った。



 流れが、器の下を待っている。



 夕暮れの水面が、赤い火を映した。



 揺れる。



 火が揺れているのか。


 水が揺れているのか。


 シンには分からなかった。



 ミコが小さく言った。



「父」



 声は、ほとんど水音に消えた。



 でも、シンには聞こえた。



「川へ」



 ミコは器を水に乗せた。



 木の皮の器が、一瞬だけ沈みかけた。



 シンの心臓が止まりそうになった。



 だが、器は浮いた。



 小さな火を抱いたまま、ゆっくり流れに乗った。



 朧げな記憶にある、灯籠流しのようだった。



 でも、違った。



 もっと原始的で。


 もっとむき出しで。


 もっと根源的なものだった。



 木の皮。


 葦。


 灰。


 骨。


 火種。


 水。



 それだけで、死んだ者を送っている。



 飾りはない。


 言葉も少ない。


 けれど、足りていないものはなかった。



 小さな火が、水の上を滑っていく。



 夕暮れの川は、深い青になっていた。


 その青の上に、赤い火が揺れる。


 火の周りに、白い煙が薄くまとわりつく。



 煙は水面を撫でるように流れた。



 器は、ゆっくりと遠ざかる。



 誰も声を出さない。



 子供も黙っている。


 犬も吠えない。


 魚を干す煙も、今だけ少し細くなったように見えた。



 ミコは川岸に立ったまま、器を見ていた。



 火はまだ消えない。



 小さな火が、川の曲がり角へ向かっていく。



 水の揺れで、火が何度も傾く。


 消えそうになる。


 でも、消えない。



 まるで、死んだ者が最後に少しだけ、自分の道を選んでいるようだった。



 シンは息をするのを忘れていた。



 美しかった。



 ひどく美しかった。



 そして、苦しかった。



 死は、こんなに静かに送れるのかと思った。



 前の時代で、送れなかった死がある。



 火の中で。


 川の手前で。


 声もなく。


 名もなく。



 シンの中に残っている死たちが、この川を見ていた。



 コト。



 ユナ。



 タダ。



 あの時代で失ったもの。



 シンは目を閉じなかった。



 見なければならないと思った。



 ミコも見ている。



 なら、自分も見る。



 やがて、器は川の曲がりに近づいた。



 夕暮れの影が濃くなる場所だ。



 火が小さくなった。



 赤い点になる。



 それでも、まだ見える。



 ミコの手が、少しだけ動いた。



 手首の赤い紐が揺れた。



 泣いているのかと思った。



 でも、ミコは泣いていなかった。



 ただ、口を強く結んでいた。



 火が、曲がり角の向こうへ消えた。



 完全に見えなくなった。



 その瞬間、ミコの肩が少し落ちた。



 オキが言った。



「戻った」



 それだけだった。



 戻った。



 死んだのではなく。


 消えたのでもなく。


 戻った。



 シンはその言葉を、胸の中で何度も繰り返した。



 戻った。



 ミコは川岸から戻ってきた。



 足元が少しふらついた。


 今度は、オキが手を差し出した。



 ミコは少しだけ迷って、その手を取った。



 小さな手が、老人の皺だらけの手に乗る。



 その光景も、なぜか美しかった。



 集落の者たちは、静かに散っていった。



 誰かが魚を取り込む。


 誰かが火を整える。


 誰かが子供の肩を抱いて家へ戻る。



 儀式が終わっても、暮らしは終わらない。



 それが、この集落の強さなのかもしれなかった。



 ミコはシンの近くで立ち止まった。



 目は赤くない。


 泣いていない。



 でも、顔は少し疲れていた。



「見た?」


 ミコが聞いた。



「見た」


「分かった?」



 シンは少し考えた。



 分かった、と言っていいのか分からなかった。



 分かった気もする。


 何も分かっていない気もする。



 だから、正直に言った。



「少しだけ」



 ミコは頷いた。



「少しでいい。オキが言ってた」


「そうなのか」


「一度で全部分かる人は、たぶん嘘つき」



 シンは少し笑った。



「ミコは?」


「私は、まだよく分からない」



 ミコは川を見た。



「父が戻ったのか、遠くへ行ったのか、まだ分からない。でも、川へ出した。だから、ここに置きっぱなしじゃない」



 その言葉は、子供のものだった。



 けれど、強かった。



 シンは頷いた。



「うん」



 ミコは手首の赤い紐に触れた。



「アサメなら、泣かないと思った」


「どうだろうな」


「泣かない」


「泣くかもしれない」


「アサメが?」


「人間だから」



 ミコは少しだけ驚いた顔をした。



 その顔が、やっと年相応に見えた。



「アサメも?」


「たぶん」


「また、たぶん」


「俺の得意技」



 ミコは小さく笑った。



 初めて、ちゃんと子供らしく笑った。



 その笑顔を見て、シンは胸が少し痛くなった。



 この笑顔も、守られなければならないものだと思った。



 だが、何から。


 どうやって。



 まだ分からない。




 夜が来た。



 白い煙は細くなった。



 魚を乾かす火は灰に埋められ、骨を洗った湯は川へ返され、川岸の石は冷えていく。



 集落の家々に、小さな火が灯る。



 灯籠ではない。


 暮らしの火だ。



 けれど、シンには、さっき川を流れていった火種がまだ目に残っていた。



 水の上の赤。


 白い煙。


 消えそうで消えない小さな灯り。



 シンは住居の前に座り、川の方を見ていた。



 オキが隣に来た。



 音もなく座る。



「見たな」


「見た」


「なら、忘れるな」


「忘れない」


「忘れない者は、重くなる」


「それでも?」


「それでも、忘れるよりはいい」



 シンは川を見た。



「ミコの父は、戻ったのか」


「分からん」


「オキでも?」


「川に聞け。川が答えるとは限らんが」



 少しだけ、アサメに似ていると思った。



 山に聞け。


 川に聞け。



 答えないものに聞く人たち。



 でも、その沈黙を聞いている人たち。



「ヤマトも、川を聞くのか」


「聞かん」


「じゃあ、何を聞く」


「数を見る」



 オキは短く言った。



「数、道、物、人。従ったか。従わぬか。出したか。隠したか。使えるか。邪魔か」



 シンは黙った。



「山の民を選別するのは、憎いからだけじゃないんだな」


「憎しみだけなら、まだ分かりやすい」


 オキは言った。



「管理するために分ける。分けるために名をつける。名をつければ、扱える」


「鬼」


「そうだ」



 川の音が、夜の中で少し強く聞こえた。



「鬼と呼べば、討てる」


 オキは言った。



「討てば、道が開く。道が開けば、鉄が流れる。鉄が流れれば、数えられる。数えられれば、遠くからでも手が届く」



 シンは背筋が冷えるのを感じた。



 遠くからでも手が届く。



 それは、モモの刃にも似ている。



 遠くの命令が、白い女の形になって、山へ来る。



 だが、モモだけではない。



 鬼という名。


 鉄という物。


 道という線。


 情報という流れ。



 それら全部が、遠くの手になる。



「シン」


 オキが言った。



「はい」


「お前は、桃色をモモと呼ぶ」



 シンは体を強張らせた。



 オキは川を見たまま続けた。



「ナギから聞いた。山でもそう呼んだそうだな」


「……ああ」


「お前にとっては、その呼び名が正しいのだろう」


「そうだ」


「だが、ここでは違う」



 シンは頷いた。



「……分かってる」


「分かっているならいい」



 オキは立ち上がった。



「分かっていることと、納得することは違う。混ぜるな」



 シンは返事ができなかった。



 オキはそれ以上言わず、住居の方へ戻っていった。



 川の音だけが残る。



 シンは夜の川を見た。



 もう火は見えない。



 骨を乗せた器も見えない。



 それでも、どこかで流れている気がした。



 見えないだけで。



 続いている。



 モモも。


 鬼も。


 ヤマトも。


 自分の死に戻りも。



 全部、どこかで流れている。



 見えていないだけで。



 シンは手を握った。



 忘れない者は重くなる。



 オキの言葉が残っていた。



 なら、重くなるしかない。



 見たのだから。



 忘れないと決めたのだから。



 夜の川は、何も答えなかった。



 ただ、流れていた。



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