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骨流し

第三十七話 骨流し


⸻


 ナギは、骨流しを見る前に出ていった。


⸻


 朝だった。


⸻


 川の上に、薄い霧が残っていた。


 夜の冷えが水の上でほどけきらず、白いものになって流れている。


⸻


 空はまだ薄い。


 東の山の端だけが、少し明るい。


⸻


 オキの集落では、もう人が動いていた。


⸻


 魚を干す者。


 火床の灰をならす者。


 川へ水を汲みに行く者。


 子供を起こす者。


 そして、夕方に流す骨を布から出し、白い湯気で温める者。


⸻


 暮らしと弔いが、同じ朝の中にあった。


⸻


 シンはそれを、まだ少し慣れない気持ちで見ていた。


⸻


 死が、遠くに置かれていない。


⸻


 誰かが泣いているわけでもない。


 誰かが大声で祈っているわけでもない。


 でも、何も感じていないわけでもない。


⸻


 人々の動きが、少しだけ静かだった。


 土器を置く音が小さい。


 子供を叱る声も、昨日より低い。


 火を扱う手も、いつもより遅い。


⸻


 そういう小さな違いで、この日がただの日ではないことが分かった。


⸻


 ナギは、そんな朝に背負い袋を締めていた。


⸻


 鳥の羽根の外套を肩に掛け、腰の紐を結び直している。


 昨日までより荷は軽そうだった。


 代わりに、腰に小さな包みが増えている。


⸻


「また行くのか」


 シンは聞いた。


⸻


「うん。川下の方に話を置いてくる」


「話を置く?」


「そう。山の炉は動いてる。雪は溶け始めた。桃色の噂が近い。オキの集落はまだ無事。あと、魚は足りてるけど塩は少し欲しい」


「情報量が多いな」


「俺の荷は軽いけど、話は重いんだよ」


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 ナギは笑った。


⸻


 いつもの軽さだった。


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 けれど、今日はどこか急いでいる。


 足元がすでに川下へ向いていた。


⸻


「骨流しは見ていかないのか」


「見たいけどね」


 ナギは川を見た。


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 霧の向こうで、水が光っている。


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「でも、見てから行くと暗くなる。暗くなってから川道を行くと、オキの爺に怒られる」


「怒られるのが嫌なのか」


「それもある」


「他には?」


「骨流しの日の話は、流れ終わるまで外へ出さない方がいい」


⸻


 シンは少し黙った。


⸻


 ナギは軽く言った。


 けれど、軽いだけではなかった。


⸻


「そういうものなのか」


「そういうもの。見たものをすぐ話にすると、まだ川へ返ってないものまで、言葉で持っていくことになる」


⸻


 ナギは背負い袋を持ち上げた。


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「だから俺は、見る前に行く。見なければ、運ばなくていい」


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 シンは少しだけ驚いた。


⸻


 ナギはただ軽いだけではない。


 何を運んで、何を運ばないかを知っている。


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 川の石を選んで踏むみたいに、言葉も選んでいる。


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「ナギって、ずっと飛び回ってるな」


 シンは言った。


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「ん?」


「山に来て、川に来て、また川下へ行く。まるで鳥だな」


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 ナギは少し嬉しそうに笑った。


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「飛べないけどね〜」


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 鳥の羽根の外套が、肩で揺れた。


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「飛べたら楽なんだけど」


「飛べたら、荷物落としそうだな」


「それは困る。じゃあ歩く方がいいか」


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 ナギは軽く手を振った。


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「じゃ、また」


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 また。


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 その言葉を、ナギは今日も軽く言った。


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 シンは頷いた。


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「また」


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 今度は、言えた。


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 ナギは少しだけ目を丸くした。


 それから、にっと笑った。


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「言えるじゃん」


「言うくらいは」


「それでいいよ」


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 ナギは歩き出した。


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 川下へ。


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 霧の中へ。


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 鳥の羽根の外套が、朝の白に溶ける。


 少し進むと、もう背中しか見えない。


 その背中も、やがて柳の枝と霧の間に消えた。


⸻


 シンはしばらく、その方を見ていた。


⸻


 ナギは、いなくなるのが早い。


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 来るのも早い。


 いなくなるのも早い。


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 その軽さが、少しだけ心配だった。


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 けれど、きっとあれで生きているのだ。


⸻


 飛べない鳥みたいに。


 地面と水辺の間を、何度も行き来しながら。


⸻


⸻


 その日の午前、集落は骨流しの支度を始めた。


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 派手な支度ではない。


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 大きな祭壇を作るわけでもない。


 高い柱を立てるわけでもない。


 神の名を大声で呼ぶわけでもない。


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 ただ、川のそばに人が集まっていく。


⸻


 川岸の少し広くなった場所に、平たい石が並べられていた。


 その石の上に、木の皮を重ねた小さな皿のようなものが置かれる。


⸻


 皿は、手のひらより少し大きい。


⸻


 薄く剥いだ樹皮を曲げ、細い蔓で留めてある。


 底には乾いた葦が敷かれている。


 その上に、小さな炭。


 さらに、赤い火種を受けるための灰。


⸻


 灯籠という言葉が、シンの頭に浮かんだ。


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 だが、紙はない。


 整った形でもない。


 色もない。


⸻


 ただ、木の皮と葦と灰で作られた、小さな火の器だった。


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 それでも、見た瞬間に分かった。


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 あれは、流すためのものだ。


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 死んだものと、火を一緒に川へ返すためのものだ。


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 ミコはその皿を一つずつ確認していた。


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 八つか、九つの小さな手。


 まだ子供の手だ。


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 指は細い。


 爪の間に、灰が入っている。


 昨日も見た赤い紐が、手首に巻かれていた。


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 その赤が、白い灰の中でよく見えた。


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 ミコは真剣だった。


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 怖がっている目をしている。


 でも、逃げない。


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 その横に、オキが立っていた。


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 小柄な老人は、何も手を出さない。


 ただ見ている。


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 見守っている、というより、川と同じ方向から見ているようだった。


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「それは、まだ乾いていない」


 オキが言った。


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 ミコは皿の一つを持ち上げた。


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 底の葦を指で押す。


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「こっちは?」


「軽すぎる。火種が落ちる」


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 ミコは唇を結んだ。


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 それから、別の葦を少し足した。


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「今は?」


「見ろ」


「……傾いてる」


「なら直せ」


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 ミコは頷き、皿の片側を蔓で締め直した。


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 シンはその様子を見ていた。


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 小さな子供が、骨を流す準備をしている。


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 それは残酷にも見えた。


 でも、ここではそうではないのだろう。


⸻


 死を遠ざけないからこそ、子供も見る。


 子供も触る。


 子供も覚える。


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 ミコは、覚えさせられている。


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 でも、ただ押しつけられているわけでもない。


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 怖がりながら、自分で手を動かしている。


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 そのことが、胸に引っかかった。


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 昼の間、骨は洗われた。


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 白い湯気が上がった。


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 土器の湯は、何度も替えられた。


 川から水を汲み、火にかけ、温め、骨に注ぐ。


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 熱すぎてはいけない。


 冷たすぎてもいけない。


⸻


 ミコは時々、指先で湯に触れていた。


 熱いと顔をしかめる。


 冷たいと、オキを見る前に自分で火へ戻す。


⸻


 オキは何も言わない。


⸻


 言わない時ほど、ミコは少しだけ嬉しそうだった。


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 洗われている骨は、多くはなかった。


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 布に包まれた、小さな一組。


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 魚でも獣でもない。


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 人の骨だった。


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 そのことを、シンはもう聞いていた。


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 けれど、誰の骨かは聞いていなかった。


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 聞いていいのか、分からなかった。


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 夕方近くになって、オキが言った。


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「ミコの親だ」


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 シンは返事ができなかった。


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 ミコは、手を止めなかった。


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 骨を洗い続けている。


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 小さな手で。


 怖がっている目で。


 それでも逃げずに。


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「親……」


 シンはようやく言った。


⸻


「父だ、ヤマトに鬼討ちされた。」


 オキが言った。


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 ミコの手が、わずかに止まった。


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 でもすぐに動いた。


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 オキは川を見た。


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「鉄を運んだ。話を運んだ。山と川と海を行き来した。南の者とも会った」


「ナギみたいな人だったのか」


「ナギより口数は少なかった」


「それは大体の人がそうだな」


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 オキはほんの少しだけ口元を動かした。


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 笑ったのかもしれない。


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「だが、よく見た。よく覚えた。鉄をどこへ流せば争いが減るかを知っていた。どの話をどこへ運べば、人が死なずに済むかを知っていた」


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 シンはミコを見た。


⸻


 ミコは骨を洗っている。


 顔を上げない。


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「それが、ヤマトにとって悪かったのか」


「悪かった」


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 オキは短く言った。


⸻


「なぜ」


「数えられない鉄は、困る。勝手に流れる話は、困る。誰がどこで何を欲しがり、誰がどこで何を恐れているか。それを、ヤマトより先に知る者は困る」


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 シンは黙った。


⸻


 オキの声は低かった。


 怒りを抑えているようにも聞こえた。


 怒りを川へ沈めているようにも聞こえた。


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「ミコの父は、ヤマトに従わなかったのか」


「従わなかった、というより、従う形が違った」


「形?」


「南の者と取引はした。鉄も渡した。塩も受けた。話も聞いた。だが、全部を渡さなかった」


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 全部。


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 また、その言葉だ。


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「ヤマトは、全部を欲しがるのか」


「全部を管理したがる」


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 管理。


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 オキの口から出たその言葉は、ひどく冷たく聞こえた。


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「鉄がどこから出たか。誰が打ったか。誰が運んだか。誰が受け取ったか。どの道を通ったか。どの山が従うか。どの川が背くか。どの者が話を持っているか」


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 オキは川の水面を見た。


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「それを知らねば、遠くは支配できない」


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 シンは息を呑んだ。


⸻


 支配。


⸻


 この時代で、その言葉がそのまま使われているわけではないかもしれない。


 だが、意味は分かった。


⸻


 遠くを動かすには、遠くのものを知る必要がある。


 知るためには、数える必要がある。


 数えるためには、分ける必要がある。


⸻


 従う者。


 従わない者。


 道を開く者。


 道を隠す者。


 鉄を渡す者。


 鉄を流す者。


 話を届ける者。


 話を隠す者。


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 そして。


⸻


 鬼。


⸻


「山の民を選別するのか」


 シンは言った。


⸻


 オキが頷いた。


⸻


「従う山と、従わぬ山。道を出す山と、道を隠す山。鉄を差し出す山と、鉄を流す山。話を渡す者と、話を選ぶ者」


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 ミコの手が止まった。


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 オキは続けた。


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「ヤマトは、それを分ける。分ければ、扱える。扱えぬものは、鬼と呼べる」


「管理するために」


「そうだ」


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 オキは初めて、はっきり言った。


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「管理するためだ」


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 川の音がした。


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 水が石に当たり、割れて、また合わさる。


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 シンはその音を聞いた。


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 前の時代のタケヒコを思い出した。


⸻


 増えた人間。


 畑。


 水。


 飢え。


 数えること。


 従わせること。


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 あれは、遠い昔の話ではなかった。


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 ここまで続いている。


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 形を変えながら。


 鉄を欲しがり、道を欲しがり、話を欲しがり、人を分けるものになっている。


⸻


「ミコの父は、鬼と呼ばれたのか」


 シンは聞いた。


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 オキはすぐには答えなかった。


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 ミコが、先に答えた。


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「呼ばれた」


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 小さな声だった。


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 でも、はっきりしていた。


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「父は鬼じゃない」


⸻


 ミコは骨を見た。


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「でも、鬼って言われた」


⸻


 シンは何も言えなかった。


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 ミコの声は泣いていなかった。


 怒ってもいなかった。


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 ただ、覚えた事実を置いている声だった。


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 その方が、痛かった。


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「討ったのは、桃色か」


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 シンは聞いた。


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 聞きたくなかった。


 でも、聞いた。


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 オキは首を横に振った。


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「違う。南に近い者たちだ。桃色は、そこにはいなかった」


⸻


 シンは、少しだけ息を吐いた。


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 安堵ではない。


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 モモではなかった。


 その事実に、ほんのわずか体が緩んだ。


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 だが、すぐに別の重さが来た。


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 モモがいなくても、人は鬼を討つ。


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 桃色だけが問題ではない。


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 鬼という名があれば、人が人を討つ。


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 そのことが、恐ろしかった。


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「桃色だけじゃないんだな」


「桃色は、形の一つだ」


 オキが言った。


⸻


「鬼と呼ぶ口があり、討つ手がある。白い女である時もある。男たちの刃である時もある。飢えである時もある。道を塞ぐことである時もある」


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 シンは川を見た。


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 水はただ流れている。


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 山から来て、海へ向かう。


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 どこかで曲がり、どこかで増え、どこかで分かれる。


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 管理しようとすれば、流れは邪魔になる。


 流す者は邪魔になる。


 流れを知る者は、もっと邪魔になる。


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 ミコの父は、そういう人だったのだ。


⸻


 鉄と情報を、ヤマトにとって有害な形で運んだ人。


⸻


 誰かを逃がし、誰かを飢えさせず、誰かに警告を届けたかもしれない人。


⸻


 そして、そのために鬼と呼ばれた人。


⸻


⸻


 夕暮れが近づいた。


⸻


 川の色が変わり始める。


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 昼の水は、空の青を映していた。


 夕方の水は、火を待つように暗くなる。


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 集落の者たちが、静かに川岸へ集まった。


⸻


 大きな列ではない。


 十人少し。


 子供もいる。


 老人もいる。


 魚を干していた女も、鉄片を直していた男も、手を止めて来た。


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 誰も大声を出さない。


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 泣き叫ぶ者もいない。


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 それでも、全員の顔が少しだけ沈んでいた。


⸻


 骨流しが始まる。


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 ミコは、白い布に包んだ骨を持っていた。


⸻


 両手で。


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 大事そうに。


 でも、重そうに。


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 骨が重いのではない。


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 役目が重いのだ。


⸻


 オキが、川岸の平たい石の上に立った。


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 杖ではない細い棒を、川へ向ける。


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「水は山から来る」


 オキが言った。


⸻


 声は大きくない。


 けれど、全員に届いた。


⸻


「水は川を通る。水は海へ行く。海へ行った水は、また雲になる。雲は山へ戻る」


⸻


 シンは空を見上げた。


⸻


 夕暮れの空に、薄い雲がある。


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「生きたものは食べる。食べたものは血になる。血は熱になる。熱は言葉になる。言葉は道を渡る。道を渡ったものは、どこかでまた戻る」


⸻


 オキは、ミコを見た。


⸻


「死んだものも、戻る」


⸻


 ミコが一歩前へ出た。


⸻


 シンは息を止めた。


⸻


 ミコは震えていた。


⸻


 手が、少し震えている。


 赤い紐が、夕暮れの光の中で細く揺れた。


⸻


 それでも、ミコは骨を落とさなかった。


⸻


 逃げなかった。


⸻


 アサメに憧れている少女。


 怖くても逃げないところを真似したいと言った少女。


⸻


 今、その言葉の通りに立っている。


⸻


 ミコは布を開いた。


⸻


 白い骨が、夕方の光の中に出る。


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 大きくはない。


 きれいに洗われている。


 湯気はもう立っていない。


⸻


 その骨を、木の皮で作った小さな器へ置く。


⸻


 器の中には、灰がある。


 乾いた葦がある。


 小さな炭がある。


⸻


 オキが、集落の中央の火から取った火種を持ってきた。


⸻


 火種は小さい。


⸻


 赤い。


⸻


 燃え上がる炎ではない。


 灰の中で息をしている、静かな赤。


⸻


 ミコはそれを受け取った。


⸻


「熱いか」


 オキが聞いた。


⸻


「熱い」


 ミコが答えた。


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「落とすか」


「落とさない」


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 ミコは火種を器の中へ置いた。


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 葦が、少しずつ赤を受ける。


 すぐには燃え上がらない。


 まず、煙が出た。


⸻


 白い煙。


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 細い。


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 骨の横から、火種の周りから、白い息のように立ち上がる。


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 そして、やがて小さな火がついた。


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 それは、灯りだった。


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 小さな灯り。


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 人ひとりの死を送るには、あまりにも小さい。


 けれど、大きすぎないからこそ、まっすぐ見られる火だった。


⸻


 ミコは膝をつき、その器を両手で持った。


⸻


 川岸の石へ降りる。


⸻


 オキが手を貸そうとした。


 ミコは一瞬迷って、その手を取らなかった。


⸻


 自分で降りた。


⸻


 足元の石が濡れている。


 滑りそうだ。


⸻


 シンは思わず動きかけた。


⸻


 だが、オキが視線で止めた。


⸻


 ミコの役目なのだ。


⸻


 誰かが代わってはいけない。


⸻


 ミコは川のすぐそばまで行った。


⸻


 流れが、器の下を待っている。


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 夕暮れの水面が、赤い火を映した。


⸻


 揺れる。


⸻


 火が揺れているのか。


 水が揺れているのか。


 シンには分からなかった。


⸻


 ミコが小さく言った。


⸻


「父」


⸻


 声は、ほとんど水音に消えた。


⸻


 でも、シンには聞こえた。


⸻


「川へ」


⸻


 ミコは器を水に乗せた。


⸻


 木の皮の器が、一瞬だけ沈みかけた。


⸻


 シンの心臓が止まりそうになった。


⸻


 だが、器は浮いた。


⸻


 小さな火を抱いたまま、ゆっくり流れに乗った。


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 朧げな記憶にある、灯籠流しのようだった。


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 でも、違った。


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 もっと原始的で。


 もっとむき出しで。


 もっと根源的なものだった。


⸻


 木の皮。


 葦。


 灰。


 骨。


 火種。


 水。


⸻


 それだけで、死んだ者を送っている。


⸻


 飾りはない。


 言葉も少ない。


 けれど、足りていないものはなかった。


⸻


 小さな火が、水の上を滑っていく。


⸻


 夕暮れの川は、深い青になっていた。


 その青の上に、赤い火が揺れる。


 火の周りに、白い煙が薄くまとわりつく。


⸻


 煙は水面を撫でるように流れた。


⸻


 器は、ゆっくりと遠ざかる。


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 誰も声を出さない。


⸻


 子供も黙っている。


 犬も吠えない。


 魚を干す煙も、今だけ少し細くなったように見えた。


⸻


 ミコは川岸に立ったまま、器を見ていた。


⸻


 火はまだ消えない。


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 小さな火が、川の曲がり角へ向かっていく。


⸻


 水の揺れで、火が何度も傾く。


 消えそうになる。


 でも、消えない。


⸻


 まるで、死んだ者が最後に少しだけ、自分の道を選んでいるようだった。


⸻


 シンは息をするのを忘れていた。


⸻


 美しかった。


⸻


 ひどく美しかった。


⸻


 そして、苦しかった。


⸻


 死は、こんなに静かに送れるのかと思った。


⸻


 前の時代で、送れなかった死がある。


⸻


 火の中で。


 川の手前で。


 声もなく。


 名もなく。


⸻


 シンの中に残っている死たちが、この川を見ていた。


⸻


 コト。


⸻


 ユナ。


⸻


 タダ。


⸻


 あの時代で失ったもの。


⸻


 シンは目を閉じなかった。


⸻


 見なければならないと思った。


⸻


 ミコも見ている。


⸻


 なら、自分も見る。


⸻


 やがて、器は川の曲がりに近づいた。


⸻


 夕暮れの影が濃くなる場所だ。


⸻


 火が小さくなった。


⸻


 赤い点になる。


⸻


 それでも、まだ見える。


⸻


 ミコの手が、少しだけ動いた。


⸻


 手首の赤い紐が揺れた。


⸻


 泣いているのかと思った。


⸻


 でも、ミコは泣いていなかった。


⸻


 ただ、口を強く結んでいた。


⸻


 火が、曲がり角の向こうへ消えた。


⸻


 完全に見えなくなった。


⸻


 その瞬間、ミコの肩が少し落ちた。


⸻


 オキが言った。


⸻


「戻った」


⸻


 それだけだった。


⸻


 戻った。


⸻


 死んだのではなく。


 消えたのでもなく。


 戻った。


⸻


 シンはその言葉を、胸の中で何度も繰り返した。


⸻


 戻った。


⸻


 ミコは川岸から戻ってきた。


⸻


 足元が少しふらついた。


 今度は、オキが手を差し出した。


⸻


 ミコは少しだけ迷って、その手を取った。


⸻


 小さな手が、老人の皺だらけの手に乗る。


⸻


 その光景も、なぜか美しかった。


⸻


 集落の者たちは、静かに散っていった。


⸻


 誰かが魚を取り込む。


 誰かが火を整える。


 誰かが子供の肩を抱いて家へ戻る。


⸻


 儀式が終わっても、暮らしは終わらない。


⸻


 それが、この集落の強さなのかもしれなかった。


⸻


 ミコはシンの近くで立ち止まった。


⸻


 目は赤くない。


 泣いていない。


⸻


 でも、顔は少し疲れていた。


⸻


「見た?」


 ミコが聞いた。


⸻


「見た」


「分かった?」


⸻


 シンは少し考えた。


⸻


 分かった、と言っていいのか分からなかった。


⸻


 分かった気もする。


 何も分かっていない気もする。


⸻


 だから、正直に言った。


⸻


「少しだけ」


⸻


 ミコは頷いた。


⸻


「少しでいい。オキが言ってた」


「そうなのか」


「一度で全部分かる人は、たぶん嘘つき」


⸻


 シンは少し笑った。


⸻


「ミコは?」


「私は、まだよく分からない」


⸻


 ミコは川を見た。


⸻


「父が戻ったのか、遠くへ行ったのか、まだ分からない。でも、川へ出した。だから、ここに置きっぱなしじゃない」


⸻


 その言葉は、子供のものだった。


⸻


 けれど、強かった。


⸻


 シンは頷いた。


⸻


「うん」


⸻


 ミコは手首の赤い紐に触れた。


⸻


「アサメなら、泣かないと思った」


「どうだろうな」


「泣かない」


「泣くかもしれない」


「アサメが?」


「人間だから」


⸻


 ミコは少しだけ驚いた顔をした。


⸻


 その顔が、やっと年相応に見えた。


⸻


「アサメも?」


「たぶん」


「また、たぶん」


「俺の得意技」


⸻


 ミコは小さく笑った。


⸻


 初めて、ちゃんと子供らしく笑った。


⸻


 その笑顔を見て、シンは胸が少し痛くなった。


⸻


 この笑顔も、守られなければならないものだと思った。


⸻


 だが、何から。


 どうやって。


⸻


 まだ分からない。


⸻


⸻


 夜が来た。


⸻


 白い煙は細くなった。


⸻


 魚を乾かす火は灰に埋められ、骨を洗った湯は川へ返され、川岸の石は冷えていく。


⸻


 集落の家々に、小さな火が灯る。


⸻


 灯籠ではない。


 暮らしの火だ。


⸻


 けれど、シンには、さっき川を流れていった火種がまだ目に残っていた。


⸻


 水の上の赤。


 白い煙。


 消えそうで消えない小さな灯り。


⸻


 シンは住居の前に座り、川の方を見ていた。


⸻


 オキが隣に来た。


⸻


 音もなく座る。


⸻


「見たな」


「見た」


「なら、忘れるな」


「忘れない」


「忘れない者は、重くなる」


「それでも?」


「それでも、忘れるよりはいい」


⸻


 シンは川を見た。


⸻


「ミコの父は、戻ったのか」


「分からん」


「オキでも?」


「川に聞け。川が答えるとは限らんが」


⸻


 少しだけ、アサメに似ていると思った。


⸻


 山に聞け。


 川に聞け。


⸻


 答えないものに聞く人たち。


⸻


 でも、その沈黙を聞いている人たち。


⸻


「ヤマトも、川を聞くのか」


「聞かん」


「じゃあ、何を聞く」


「数を見る」


⸻


 オキは短く言った。


⸻


「数、道、物、人。従ったか。従わぬか。出したか。隠したか。使えるか。邪魔か」


⸻


 シンは黙った。


⸻


「山の民を選別するのは、憎いからだけじゃないんだな」


「憎しみだけなら、まだ分かりやすい」


 オキは言った。


⸻


「管理するために分ける。分けるために名をつける。名をつければ、扱える」


「鬼」


「そうだ」


⸻


 川の音が、夜の中で少し強く聞こえた。


⸻


「鬼と呼べば、討てる」


 オキは言った。


⸻


「討てば、道が開く。道が開けば、鉄が流れる。鉄が流れれば、数えられる。数えられれば、遠くからでも手が届く」


⸻


 シンは背筋が冷えるのを感じた。


⸻


 遠くからでも手が届く。


⸻


 それは、モモの刃にも似ている。


⸻


 遠くの命令が、白い女の形になって、山へ来る。


⸻


 だが、モモだけではない。


⸻


 鬼という名。


 鉄という物。


 道という線。


 情報という流れ。


⸻


 それら全部が、遠くの手になる。


⸻


「シン」


 オキが言った。


⸻


「はい」


「お前は、桃色をモモと呼ぶ」


⸻


 シンは体を強張らせた。


⸻


 オキは川を見たまま続けた。


⸻


「ナギから聞いた。山でもそう呼んだそうだな」


「……ああ」


「お前にとっては、その呼び名が正しいのだろう」


「そうだ」


「だが、ここでは違う」


⸻


 シンは頷いた。


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「……分かってる」


「分かっているならいい」


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 オキは立ち上がった。


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「分かっていることと、納得することは違う。混ぜるな」


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 シンは返事ができなかった。


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 オキはそれ以上言わず、住居の方へ戻っていった。


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 川の音だけが残る。


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 シンは夜の川を見た。


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 もう火は見えない。


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 骨を乗せた器も見えない。


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 それでも、どこかで流れている気がした。


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 見えないだけで。


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 続いている。


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 モモも。


 鬼も。


 ヤマトも。


 自分の死に戻りも。


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 全部、どこかで流れている。


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 見えていないだけで。


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 シンは手を握った。


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 忘れない者は重くなる。


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 オキの言葉が残っていた。


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 なら、重くなるしかない。


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 見たのだから。


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 忘れないと決めたのだから。


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 夜の川は、何も答えなかった。


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 ただ、流れていた。


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(第三十八話へ)

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