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白い煙

第三十六話 白い煙


⸻


 白い煙は、川のそばにあった。


⸻


 遠くから見た時は、ただの煙に見えた。


⸻


 でも、近づくにつれて、山の炉煙とは違うことが分かってきた。


⸻


 アサメの集落の煙は重かった。


 黒く、太く、低く、山の空気を押し上げるような煙だった。


 炭の匂いがした。


 焼けた土の匂いがした。


 鉄の、鼻の奥に引っかかる硬い匂いがした。


⸻


 けれど、川沿いの煙は違う。


⸻


 白い。


 細い。


 水に近い。


⸻


 濡れた木が燃える匂い。


 乾ききらない草が燻される匂い。


 魚の脂が少し混じった匂い。


 土器の中で何かが煮える匂い。


⸻


 鉄の匂いは、遠い。


⸻


 まったくないわけではない。


 だが、山の炉のように前へ出てこない。


⸻


 煙の奥に、少しだけ潜んでいる。


⸻


(ここは、鉄を作る場所じゃない)


⸻


 シンは歩きながら思った。


⸻


 では、何をしているのか。


⸻


 白い煙は、川風にほどけていた。


⸻


 川は広かった。


⸻


 山から下りてきた水が、石を避けながら曲がり、雪解けの水を含んで少し増えている。


 流れの早い場所では白く泡立ち、深い場所では黒く見える。


⸻


 川岸には、柳のような細い木が並んでいた。


 枝が水へ垂れ、雪の残りを少しだけ抱えている。


 その下に、冬枯れの葦が倒れていた。


⸻


 水鳥が飛んだ。


⸻


 ばさ、と羽音がした。


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 シンは少し足を止めた。


⸻


 羽音。


⸻


 それだけで、ナギの鳥の羽根の外套を思い出す。


⸻


(先に着いてるかな)


⸻


 たぶん着いている。


 ナギは雪の山道でも速かった。


 シンは怪我の治りかけの足で、杖をつきながら歩いている。


 追いつくわけがない。


⸻


 足は、もう痛まない。


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 だが、早くは歩けない。


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 強く踏むと傷の奥に鈍いものが残る。


 山道で滑れば、また開くかもしれない。


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 タダの顔が頭に浮かんだ。


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 分かってない。


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 そう言われた気がした。


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「分かってるって」


⸻


 小さく呟いた。


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 誰も返事はしない。


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 後ろから、桃の匂いもしなかった。


⸻


 今朝からずっと、しない。


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 それが安心なのか、不安なのか、シンには分からなかった。


⸻


 桃色は来ない。


⸻


 いや、来ていないだけかもしれない。


 見ているのかもしれない。


 遠くで確認しているのかもしれない。


 あるいは、保留のまま、次の処理を待っているのかもしれない。


⸻


 でも、今は匂いがない。


⸻


 ここには、川の匂いがある。


 白い煙の匂いがある。


⸻


 そして、人の匂いがある。


⸻


 集落は、川より少し高い場所にあった。


⸻


 洪水を避けるためだろう。


 川岸から一段上がった、緩やかな平ら地。


 雪解け水が流れ込まないように、細い溝が掘られている。


⸻


 家は、アサメの集落より多かった。


⸻


 十はない。


 八つか、九つか。


⸻


 どれも大きくはない。


 地面を少し掘り下げた住居と、地上に組まれた小さな小屋が混じっている。


 屋根は低い。


 草と土、薄く裂いた木の皮が重ねられている。


⸻


 壁際には、魚が吊るされていた。


⸻


 小さな魚。


 大きな魚。


 腹を開かれて干されているもの。


 煙で燻されているもの。


⸻


 魚の下には、木の枠がある。


 その下で、湿った薪が白く煙っていた。


⸻


(これか)


⸻


 白い煙の一つは、魚を乾かすための煙だった。


⸻


 肉の煙とは違う。


 魚の脂は軽い。


 塩の匂いが先に来る。


 そのあとに、淡い腐りかけのような、水の生き物の匂いがついてくる。


⸻


 嫌な匂いではなかった。


⸻


 生きている匂いだ。


 死んだものを、食べるものへ変える匂い。


⸻


 別の場所では、女が網を直していた。


⸻


 麻のような繊維で作られた網だ。


 指先で結び目を探し、切れたところを小さな骨の針で繕っている。


 隣では、子供が細い蔓を撚っていた。


⸻


 その子供は、シンを見ると手を止めた。


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 目が合う。


⸻


 すぐに、女の後ろへ隠れた。


⸻


(まあ、そうなるよな)


⸻


 知らない男が、杖をついて山から来た。


 服装も言葉もおかしい。


 おまけに、ヤマトの鬼討ちが近いと知らされている。


⸻


 歓迎される理由はあまりない。


⸻


 それでも、誰も叫ばなかった。


 矢も飛んでこなかった。


⸻


 それだけで、ありがたい。


⸻


 集落の端には、杭が立っていた。


⸻


 高い柵ではない。


 人の胸より低い。


 斜めに立てられた杭や、川から流れてきた太い枝を組んだだけのものだ。


⸻


 獣避けか。


 あるいは、人の足を遅らせるためか。


⸻


 完全に守るためのものではない。


 でも、何かが来た時、すぐには入れないようにしている。


⸻


 アサメの山集落より、ここは開いている。


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 川に向いている。


 外から物が入る。


 人も入る。


 言葉も入る。


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 だからこそ、閉じるための工夫もある。


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 そういう場所だった。


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「遅かったね」


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 聞き慣れた軽い声がした。


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 ナギだった。


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 鳥の羽根の外套を脱ぎ、腰に巻いている。


 川のそばで何かを干していたらしい。


 袖をまくり、手が濡れている。


⸻


「ナギ」


「ちゃんと来たんだ」


「道に迷わなかった」


「すごいね。あの鳥嘴の岩、見た?」


「見た。本当に嘴だった」


「でしょ。あれ、俺好き」


「岩に好きとかあるのか」


「あるよ。分かりやすい岩はいい岩」


⸻


 ナギは笑った。


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 それから、シンの足を見た。


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「歩けてる」


「たぶん完治」


「たぶんは危ないなぁ」


「アサメとタダにも言われた」


「じゃあ危ないね」


⸻


 ナギはそう言いながら、集落の中へ手招きした。


⸻


「オキの爺に会う?」


「会った方がいいと思う」


「うん。会った方がいい。もう難しい顔して待ってる」


⸻


 難しい顔。


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 さっきナギが言っていた老人だ。


⸻


 オキ。


⸻


 山と川の間にいる人。


⸻


 シンは杖をつきながら、ナギについて歩いた。


⸻


 集落の中を進む。


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 歩くほど、暮らしが見えた。


⸻


 土師器の甕が、住居の脇に置かれている。


 赤茶けた土器だ。


 表面は滑らかではない。


 指の跡のようなものが残っている。


 黒く煤けたものもあった。


⸻


 その横には、木の椀。


 樹皮を丸めた入れ物。


 骨で作った小さな針。


 石の錘。


 網を沈めるためのものだろうか。


⸻


 子供がその錘を拾い上げ、年寄りに叱られていた。


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「それは遊ぶものじゃない」


「丸いから」


「丸くても違う」


⸻


 子供は不満そうな顔で錘を戻した。


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 その隣で、別の子供が小さな棒を川へ投げようとしていた。


 すぐに別の女に止められた。


⸻


「流すものは選べ」


「ただの棒だよ」


「ただのものなどない」


⸻


 子供は口を尖らせた。


⸻


 シンはその言葉を、少しだけ覚えた。


⸻


 流すものは選べ。


 ただのものなどない。


⸻


 川沿いの集落の言葉だ。


⸻


 アサメの集落では、山が言う。


 炉が言う。


⸻


 ここでは、川が決めるのかもしれない。


⸻


 さらに奥へ行くと、小さな火床があった。


⸻


 外の大きな炉ではない。


 山の鉄炉とも違う。


⸻


 低い石組みの中に炭があり、その横に小さな鉄の欠片が並べられていた。


 破れた刃。


 折れた針のようなもの。


 曲がった矢尻。


 黒い塊。


⸻


 男がそれを一つずつ見ていた。


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 熱して、叩くための場所なのだろう。


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 しかし、ここでは鉄を生んでいるわけではない。


⸻


 山で生まれたものを、直している。


 別の形にしている。


 折れたものを、もう一度使えるようにしている。


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 火床の横には、細い石の台がある。


 その上で、男が小さな鉄片を軽く叩いた。


⸻


 ちん。


⸻


 山の炉で聞いた音より、ずっと小さい。


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 かん、と響く音ではない。


 ちん、と短く鳴って、すぐ消える音。


⸻


「ここでも鉄を使うんだな」


 シンが言うと、ナギは頷いた。


⸻


「使うよ。でも、山みたいには作れない」


「直すのか」


「直す。分ける。替える。たまに誤魔化す」


「誤魔化す?」


「折れた刃を、まだ折れてない顔にする」


「それは駄目じゃないか」


「駄目な時もある」


⸻


 ナギは悪びれずに笑った。


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「でも、鉄は貴重だからね。折れたら終わり、じゃ困る」


⸻


 鉄は貴重。


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 その言葉は、何度聞いても重い。


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 前の時代にも、石や骨の道具はあった。


 木の道具もあった。


 火があった。


⸻


 けれど、ここには鉄がある。


⸻


 ただ、鉄があるから豊か、というわけでもない。


 鉄があるから、欲しがる者が来る。


 鉄があるから、数えられる。


 鉄があるから、奪われる。


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 それも少しずつ分かってきた。


⸻


「それに、ここは鉄だけじゃないよ」


 ナギが言った。


⸻


「何が?」


「話」


「話?」


「海から来る話。山から来る話。川を下った話。川を上った話。誰がどこで何を見たか。どこの道が崩れたか。どこの集落で病が出たか。どこの魚が減ったか。南の者がどこまで来たか」


⸻


 ナギは指で川の流れをなぞるような仕草をした。


⸻


「物は川を通る。話も通る」


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 シンは集落を見た。


⸻


 魚。


 塩。


 鉄片。


 網。


 骨。


 土器。


 人の声。


⸻


 なるほど、と思った。


⸻


 ここは、鉄の交易の場所だ。


 でも、それだけではない。


⸻


 情報が流れる場所でもある。


⸻


 山で起きたことが、川へ下りる。


 川で起きたことが、山へ戻る。


 海の匂いを持つナギが来る。


 アサメの言葉が来る。


 オキの返事が、また誰かの足で運ばれていく。


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 文字がなくても、情報は流れる。


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 人が歩く限り。


 川が流れる限り。


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「白い煙は、魚だけじゃない」


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 ナギが言った。


⸻


「こっち」


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 案内された先に、川へ向いた小さな広場があった。


⸻


 広場と言っても、平らに踏み固められた土があるだけだ。


 その端に、低い火がいくつも並んでいる。


 火の上には、土器が置かれている。


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 土器の中で、水が湯気を立てていた。


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 白い煙。


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 いや、湯気だ。


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 火と水が混ざって、白く立ち上がっている。


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 その横に、骨が並べられていた。


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 小さい骨。


 大きい骨。


 魚の骨。


 獣の骨。


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 白いもの。


 まだ少し茶色いもの。


 布に包まれたもの。


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 シンは息を止めた。


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 骨。


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 それだけで、何かが体の奥へ入ってくる。


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 死。


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 ここでは、それが隠されていなかった。


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 骨は、暮らしの隣にあった。


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 魚の干場の隣に。


 網を直す場所の近くに。


 子供が走る場所から、少しだけ離れた場所に。


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 ある。


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 その骨の前に、少女が立っていた。


⸻


 子供だった。


⸻


 けれど、幼すぎる子供ではない。


 コトよりは、たぶん少し上だ。


 八つか、九つか。


 大きく見ても、十には届くかどうか。


⸻


 背はまだ低い。


 手首も細い。


 髪は後ろでざっくり結んでいる。


 結び方は少し雑で、短い髪が耳の横に落ちていた。


⸻


 頬には幼さが残っている。


 目だけが、妙によく動いた。


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 怖がっていないわけではない。


⸻


 むしろ、いろいろなものを怖がっている目だった。


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 骨も。


 川も。


 知らない男であるシンも。


 山から来る桃色の話も。


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 全部を怖がっている。


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 それでも、その場から逃げない。


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 そういう立ち方だった。


⸻


 少女の手首に、赤い紐が巻かれていた。


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 細い赤。


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 アサメの紅い衣と同じ色ではない。


 もっと古びて、日に焼けて、川の水に何度も濡れたような赤だった。


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 でも、赤だった。


⸻


「ミコ」


 ナギが呼んだ。


⸻


 少女が振り向いた。


⸻


「連れてきた」


「見れば分かる」


「アサメみたいなこと言うなぁ」


「アサメに言われた」


「何を?」


「見れば分かるものは、見ろ」


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 ナギは肩をすくめた。


⸻


「ほら、すぐ影響される」


「いいことは拾う」


⸻


 ミコはシンを見た。


⸻


 真っ直ぐな目だった。


 疑っている。


 少し怖がっている。


 でも、逃げてはいない。


⸻


「シン?」


「そう」


「山から来た」


「たぶん」


「たぶんが多い」


「それも、よく言われる」


⸻


 ミコは少しだけ口元を動かした。


 笑った、というより、笑い方を思い出しかけたような表情だった。


⸻


「アサメは元気?」


「元気だと思う」


「思う?」


「元気じゃないアサメを知らない」


「それはそう」


⸻


 ミコは、その答えが少し嬉しかったらしい。


 手首の赤い紐に触れた。


⸻


「これは、アサメがくれた」


「赤い紐?」


「山で迷わないように、だって」


「効くのか」


「分からない。でも、見える」


⸻


 ミコは自分の手首を見た。


⸻


 白い湯気の中で、赤い紐が少しだけ浮いている。


⸻


「川の近くでは、色が流れる。赤は残る」


⸻


 シンはその言葉を聞いて、アサメを思い出した。


⸻


 雪の中で、紅い衣だけが山に置かれた印のように見えた。


⸻


 山でも、川でも、赤は残る。


⸻


 アサメはここにも、痕跡を残していた。


⸻


「アサメと仲がいいのか」


「仲がいい、という言い方をするのかは分からない」


「じゃあ、何」


「アサメは山を見る。私は川を見る」


「川を見る?」


「まだ、少しだけ」


⸻


 ミコはそう言って、少しだけ恥ずかしそうに目を伏せた。


⸻


「オキほど見えない。アサメほど聞こえない。でも、濁る前の水くらいなら分かる」


「それ、すごいんじゃないか」


「すごくない。見落とすと怒られる」


「誰に」


「川に。あと、オキに」


⸻


 ナギが横から笑った。


⸻


「ミコはね、川の見習い」


「見習い?」


「本人は嫌がるけど」


「嫌じゃない」


「じゃあ何?」


「まだ、ちゃんと見えてないだけ」


⸻


 ミコは川の方を見た。


⸻


 その横顔は、まだ幼かった。


⸻


 けれど、骨の前に立つ時だけ、少し大人びて見える。


⸻


 大人だからではない。


 役目が、体より先に大きくなっているからだ。


⸻


 シンには、そんなふうに見えた。


⸻


「アサメみたいになりたいのか」


⸻


 シンが聞くと、ミコはすぐに顔を戻した。


⸻


「なりたいわけじゃない」


「違うのか」


「アサメはアサメ。私は、アサメにはなれない」


⸻


 そう言ってから、ミコは少しだけ小さな声になった。


⸻


「でも、怖くても逃げないところは、真似したい」


⸻


 シンは少し黙った。


⸻


 アサメが聞いたら、どういう顔をするだろう。


⸻


 たぶん、何も言わない。


 でも、ほんの少しだけ、口元を動かすかもしれない。


⸻


 その時、奥から咳払いが聞こえた。


⸻


 老人がいた。


⸻


 小柄だった。


 背は曲がっている。


 髪は白い。


 顔には深い皺がある。


⸻


 だが、目が鋭かった。


⸻


 細い目。


 川面に浮いたものを見逃さない目。


⸻


 その老人は、手に細い棒を持っていた。


 杖ではない。


 地面に刻まれた小さな線を指すための棒のようだった。


⸻


「オキ」


 ナギが言った。


「シン。山から来た」


⸻


「聞いている」


 オキが言った。


⸻


 声は低い。


 少し掠れている。


⸻


「ナギから聞いた。アサメが拾った妙な男。桃色に追われ、斬られず、山から降りてきた」


「情報量が多い」


「少ないくらいだ」


⸻


 オキはシンを上から下まで見た。


⸻


 何かを測られている気がした。


⸻


 アサメの目とも違う。


 モモの照合とも違う。


⸻


 オキは、人を見るというより、その人が持ち込むものを見ている。


 匂い。


 傷。


 言葉。


 後ろにある道。


 誰と関わっているか。


 何を運んできたか。


⸻


 そういうものを見ている気がした。


⸻


「武器は」


「ない」


「鉄は」


「持ってない」


「塩は」


「持ってない」


「肉は」


「少しある」


「食え」


「え?」


「持っているなら、腐る前に食え」


⸻


 ナギが笑った。


⸻


「オキの爺、こういう人」


「なんとなく分かった」


⸻


 シンは干し肉を取り出した。


⸻


 タダがくれた肉だ。


⸻


 シンはそれを少しだけ迷ってから、オキへ差し出した。


⸻


「これ、宿賃みたいなものとして」


「宿賃?」


⸻


 オキが眉を寄せた。


⸻


「ここに置いてもらうなら、何か渡した方がいいかと思って」


「いらん」


「でも」


「肉は怪我人が食え」


「もうほぼ治ってる」


「ほぼ、は治っていない」


⸻


 タダと同じようなことを言われた。


⸻


 シンは少しだけ言葉に詰まった。


⸻


「川の家は、流れてきた者を一晩は置く」


 オキが言った。


⸻


「その代わり、流れていく時には何かを見ていけ」


「見る?」


「見て、覚えろ。話は、それで返る」


⸻


 宿賃はいらない。


⸻


 その代わり、見て覚えろ。


⸻


 オキの言い方は硬かった。


 だが、冷たくはなかった。


⸻


 シンが干し肉を戻そうとした時、ミコがじっとそれを見ていることに気づいた。


⸻


 目が、肉を見ている。


⸻


 かなり見ている。


⸻


「……食べる?」


⸻


 シンが聞くと、ミコは一瞬だけオキを見た。


⸻


 オキは何も言わなかった。


⸻


 止めない、という意味らしい。


⸻


 ミコは小さく頷いた。


⸻


「少しだけ」


⸻


 シンは干し肉を一切れ渡した。


⸻


 ミコは両手で受け取った。


⸻


 大事なものみたいに持ったあと、少しかじった。


⸻


 目が丸くなった。


⸻


「山の味」


⸻


「分かるのか」


「煙が違う」


⸻


 ミコはもう一口食べた。


⸻


 表情はあまり変えない。


 でも、頬が少しだけ緩んでいる。


⸻


 喜んでいる。


⸻


 分かりにくいが、かなり喜んでいる。


⸻


 ナギがにやにやした。


⸻


「ミコ、よかったね」


「うるさい」


「うまい?」


「うまい」


⸻


 ミコは短く答えた。


⸻


 それから、シンを見て小さく言った。


⸻


「ありがとう」


⸻


 子供の声だった。


⸻


 骨の前に立つ時とは違う。


 川を見る時とも違う。


⸻


 ただ、肉をもらって嬉しい子供の声だった。


⸻


 シンは少しだけ安心した。


⸻


 オキはそれを見て、ほんの少しだけ目を細めた。


⸻


「山の男の肉だな」


「見て分かるのか」


「煙が違う」


⸻


 同じことを言われた。


⸻


「タダがくれた」


「知っている。大きい男だ」


「ここにも来るのか」


「来ることもある。肉を食い、薪を割り、黙って帰る」


「完全にタダだ」


⸻


 オキは意味が分からなかったらしく、少しだけ眉を寄せた。


⸻


 ナギは笑っている。


⸻


 ミコは干し肉を大事そうに食べている。


⸻


 シンも、自分の分を少し齧った。


⸻


 相変わらずうまい。


⸻


 オキはそれを確認してから、地面へ棒を向けた。


⸻


 そこには、小さな石が並んでいた。


⸻


 丸い石。


 細長い石。


 黒い石。


 白い石。


⸻


 その横に、細い紐が何本かある。


 紐には結び目がある。


⸻


 文字ではない。


 紙もない。


 だが、何かを数えている。


⸻


「これは?」


「忘れないためのものだ」


「何を」


「鉄がどこから来たか。塩がどこへ行くか。誰が何を持ってきて、誰が何を持っていったか」


⸻


 シンは石と紐を見た。


⸻


 台帳ではない。


 帳簿でもない。


 だが、確かに記録だった。


⸻


 数える方法。


 覚える方法。


 誰かが嘘をついた時に、完全には消えないようにする方法。


⸻


 文字がなくても、人は数える。


 残す。


 覚える。


⸻


(これも、仕組みだ)


⸻


 シンは前の時代を思い出した。


⸻


 タケヒコ。


 数えること。


 従わせること。


 増えた人間。


⸻


 数えることは、悪ではない。


⸻


 塩がどこへ行くか分からなければ、人が困る。


 鉄が誰の手に渡ったか忘れれば、争いになる。


 魚の数を見誤れば、冬を越せない。


⸻


 だが、数えることは、使い方を間違えれば人を縛る。


⸻


 ここにも、その始まりのようなものがある。


⸻


 小さく。


 生活のために。


⸻


「ここには話も残す」


 オキが言った。


⸻


「話も?」


「どこで誰が倒れたか。どこの道が使えるか。どこの水が濁ったか。どこの者が南と話したか。どこの集落が、桃色を見たか」


⸻


 桃色。


⸻


 その言葉が出た瞬間、ミコの手が少し止まった。


 ナギも黙った。


⸻


 オキは石を一本の棒で軽く動かした。


⸻


「物だけが流れるのではない。話も流れる。話は、鉄より早い時がある。塩より遠くへ行く時もある」


⸻


 シンは小さな石を見た。


⸻


 これが情報の形なのだ。


⸻


 どこかで何かが起きる。


 誰かが見る。


 誰かが歩く。


 川を上る。


 山へ入る。


 魚と塩を運ぶついでに、その話を置いていく。


⸻


 ここは、それが集まる場所なのだ。


⸻


 鉄の中継地。


 塩と魚の中継地。


 そして、噂と警告の中継地。


⸻


「オキの集落は、鉄を作らないんだな」


 シンは言った。


⸻


「作れん」


「でも、扱う」


「扱う。山から来る。川へ流す。海の塩と替える。皮と替える。乾いた魚と替える。時には南の者とも替える」


「南の者」


「ヤマトに近い者だ」


⸻


 空気が少し変わった。


⸻


 ナギの笑いが消えた。


 ミコも肉を持ったまま顔を上げた。


⸻


 オキは続けた。


⸻


「鉄は、流れる。水のように」


「止められない?」


「止めれば腐る」


「鉄が腐るのか」


「人が腐る」


⸻


 オキは淡々と言った。


⸻


「鉄を持ちすぎる者は、奪われる。鉄を渡しすぎる者は、飢える。鉄を隠す者は、疑われる。鉄を持たぬ者は、弱くなる」


⸻


 シンは何も言えなかった。


⸻


 鉄は道具だ。


⸻


 でも、それだけではない。


⸻


 鉄は、人と人の距離を変える。


 山と川と海をつなぐ。


 同時に、奪う理由にもなる。


⸻


「ヤマトは鉄を欲しがる」


 シンが言うと、オキは頷いた。


⸻


「欲しがる。鉄だけではない。道を欲しがる。川を欲しがる。人を欲しがる」


「全部、欲しがるんだな」


「全部を数えたがる」


⸻


 その言葉は、嫌なほど胸に残った。


⸻


 全部を数えたがる。


⸻


 人も。


 火も。


 鉄も。


 山も。


 鬼も。


⸻


「だから、ここは脅かされてるのか」


「ここだけではない」


⸻


 オキは川を見た。


⸻


「山も。川も。海へ向かう道も。どこも同じだ」


「桃色も、そのために来る?」


「分からん」


「分からない?」


「鬼討ちは、理由を言わん。鬼と呼び、討つ。それだけだ」


⸻


 シンは首筋が冷たくなるのを感じた。


⸻


 鬼と呼び、討つ。


⸻


 それだけ。


⸻


 その言葉は、モモの声と重なった。


⸻


 対象。


 照合。


 鬼。


 討つ。


⸻


 雪の中で少し話せた。


 保留された。


⸻


 だが、他の人間にも同じように保留があるとは限らない。


⸻


「ナギは、桃色を見たことがあるのか」


⸻


 シンが聞くと、ナギは少しだけ困った顔をした。


⸻


「うーん。ちゃんと見た、って言っていいのかな」


「どういうことだ」


「遠くで、それらしい姿を見たことはある。あとは、噂だよ。交易してると、いろんな話が来るから」


⸻


 ナギは軽い調子に戻そうとしているように見えた。


⸻


「白い女がいた、とか。桃色の飾りをつけてた、とか。鬼と呼ばれた誰かが消えた、とか。山道で見た、とか。川沿いで見た、とか」


「ナギ自身は?」


「俺は、噂を運ぶだけ。見た人の言葉を、そのままじゃなくても、なるべく壊さず運ぶ。それが役目」


⸻


 ナギはそう言って、肩をすくめた。


⸻


「だから、桃色が何を思ってるかは知らない。怖いかどうかも、人による。俺は、近づかない方がいいと思ってるだけ」


⸻


 それ以上、ナギは言わなかった。


⸻


 シンも、それ以上聞かなかった。


⸻


 ナギは軽い。


 でも、全部を軽くしているわけではない。


⸻


 言っていいことと言わないことを、川の石を踏むみたいに選んでいる。


⸻


 そんな気がした。


⸻


「白い煙は、何の煙なんだ」


⸻


 シンは聞いた。


⸻


 話を変えたかったのかもしれない。


 それとも、本当に気になっていたのかもしれない。


⸻


 オキはミコを見た。


⸻


 ミコは一度、オキを見返した。


⸻


 オキは何も言わなかった。


⸻


 止めない、という意味らしい。


⸻


 ミコが答えた。


⸻


「魚を乾かす煙。水を温める煙。骨を洗う煙」


「骨を洗う?」


「洗って、流す」


⸻


 ミコは川へ目を向けた。


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「死んだものを、川へ返す」


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 シンは骨を見た。


⸻


 小さな骨。


 大きな骨。


 布に包まれた骨。


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「人の骨も?」


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 聞いてから、少し後悔した。


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 だが、ミコは怒らなかった。


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 ただ、少しだけ唇を結んだ。


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 それから、またオキを見た。


⸻


 オキは今度も止めなかった。


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「ある」


⸻


 ミコは短く答えた。


⸻


「全部ではない。山へ返す者もいる。土へ入る者もいる。火で送る者もいる。川へ返す者もいる」


「人によって違うのか」


「違う。死に方でも違う。どこで生きたかでも違う。何を望んだかでも違う」


「望みを聞くのか」


「生きているうちに聞く。聞けなかった者は、残った者が決める」


⸻


 ミコの声は、少し硬かった。


⸻


 覚えた言葉を、一つずつ間違えないように置いているようだった。


⸻


 大人の言葉。


 川の役目の言葉。


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 それを、まだ小さな体で支えている。


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 シンは黙った。


⸻


 前の時代で、死んだ人たちを思い出した。


⸻


 送れなかった人。


 名前すら呼べなかった人。


 火の中で消えた人。


 川のはじまりへ行けなかった少女。


⸻


 死んだものを返す。


⸻


 そういうことを、ここでは暮らしの中でやっている。


⸻


 特別な場所ではない。


 魚の煙の隣で。


 網を直す人のそばで。


 子供の声が聞こえる距離で。


⸻


 死は、生活の外に追い出されていない。


⸻


 ここにある。


⸻


 ミコは骨の一つをそっと持った。


⸻


 魚の骨ではない。


 もっと太い。


 獣の骨だろう。


⸻


 少し重そうだった。


⸻


 ミコは両手でそれを持ち、温めた湯で洗う。


⸻


 湯気が上がる。


⸻


 白い。


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 その白が、煙と混ざる。


⸻


「白い煙」


 シンが言った。


⸻


「そう」


 ミコが言った。


⸻


「ここでは、白い煙で送る」


⸻


 シンは白い煙を見た。


⸻


 魚を食べるための煙。


 水を温めるための煙。


 骨を洗うための煙。


 死んだものを送るための煙。


⸻


 同じ白い煙の中に、食べることと、働くことと、死ぬことが混じっていた。


⸻


 山の黒い煙とは違う。


⸻


 鉄を変える煙ではない。


⸻


 これは、流すための煙だ。


⸻


 オキがシンの横に立った。


⸻


「シン」


「はい」


「お前は、何を見に来た」


⸻


 シンは白い煙を見たまま、少し考えた。


⸻


 山では、見なければ分からないと思った。


⸻


 川へ来た。


⸻


 白い煙を見た。


 鉄を流す場所を見た。


 塩と魚を見た。


 骨を洗うミコを見た。


 子供を見た。


 網を直す女を見た。


 小さな火床で鉄を直す男を見た。


 数を残す石と紐を見た。


 人から人へ流れる話を見た。


⸻


 もう、見ている。


⸻


 でも、答えはまだない。


⸻


「分からないことを、見に来た」


 シンは言った。


⸻


 オキは少しだけ目を細めた。


⸻


「それは、何も知らぬ者の答えだな」


「実際、何も知らない」


「知らぬ者は、よく見る」


「知ってる人は?」


「見なくなる」


⸻


 オキは川を見た。


⸻


「だから、ときどき役に立つ」


「俺が?」


「役に立つかどうかは、まだ分からん」


「厳しい」


「川は甘くない」


⸻


 ナギが横から言った。


⸻


「オキの爺、川のせいにしがち」


「川のせいではない。川がそうだ」


「ほらね」


⸻


 ナギは笑った。


⸻


 その笑いで、少し空気が緩んだ。


⸻


 だが、完全には緩まない。


⸻


 集落には、薄い緊張があった。


⸻


 子供が騒ぐと、誰かがすぐに外を見る。


 犬が吠えると、男が川岸へ行く。


 山の方から枝が折れる音がすると、女が手を止める。


⸻


 桃色が近い。


⸻


 その言葉が、この集落の空気の底に沈んでいる。


⸻


 桃色はここにいない。


 甘い匂いもしない。


⸻


 それでも、いる。


⸻


 恐れとして、ここにいる。


⸻


 シンはそれを感じた。


⸻


 自分が話した桃色は、少し止まった。


 保留した。


⸻


 だが、この人たちにとっての桃色は、そんなものではない。


⸻


 白い女。


 速い。


 止まらない。


 鬼を討つ。


⸻


 噂は、それだけを運んでくる。


⸻


 雪の中で美しかったモモの姿が、頭の奥に浮かんだ。


⸻


 シンにとっては、モモだ。


 前の時代から続いている、取り戻したい相手だ。


⸻


 でも、ここでは違う。


⸻


 オキたちにとっては、集落を終わらせるかもしれないものだ。


⸻


 その差が、胸に重く残った。


⸻


 夕方になった。


⸻


 白い煙が、さらに濃くなった。


⸻


 魚を取り込む者。


 網を畳む者。


 火床の炭を灰で覆う者。


 塩を樹皮の箱へ戻す者。


 骨を布に包む者。


⸻


 それぞれの手が動いている。


⸻


 誰も派手なことはしない。


 大きな声も出さない。


⸻


 それでも、集落全体がひとつの体みたいに動いていた。


⸻


 暮らしがある。


⸻


 シンは、そのことを強く感じた。


⸻


 ここには名前のある英雄はいない。


 神も出てこない。


 大きな建物もない。


 輝く宝もない。


⸻


 でも、魚を干す人がいる。


 塩を分ける人がいる。


 鉄を直す人がいる。


 骨を洗う子がいる。


 子供を叱る人がいる。


 水を汲む人がいる。


 話を運ぶ人がいる。


 話を覚える人がいる。


⸻


 それだけで、重い。


⸻


 もし、これが壊れるなら。


⸻


 ただ集落が一つ消えるのではない。


⸻


 この煙が消える。


 この子供の声が消える。


 この網の結び目が、誰にも直されなくなる。


 川へ返されるはずの骨が、返されなくなる。


 山へ届くはずの知らせが、届かなくなる。


⸻


 そういうことなのだ。


⸻


 シンは白い煙を見た。


⸻


 煙は空へ上がる。


 途中で川風に崩される。


 でも、完全には消えずに、少しだけ水面へ流れる。


⸻


 水の上を、白いものが薄く滑っていった。


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 ミコがその煙を見ていた。


⸻


 手首の赤い紐が、夕方の光の中で沈んだ色をしている。


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「シン」


 ミコが言った。


⸻


「はい」


「川に来たなら、見るといい」


「何を」


「明日の朝、骨を流す」


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 シンは息を止めた。


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「見ていいのか」


「見に来たんでしょう」


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 ミコは静かに言った。


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 まだ幼い声だった。


⸻


 でも、その言い方だけは、少しアサメに似ていた。


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 見れば分かる。


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 見なければ分からない。


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 シンは頷いた。


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「見る」


⸻


 その時、オキが川の方を見たまま言った。


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「今は雪の後で道が悪い。山との行き来は難しい。だが、いつもこうではない」


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 シンはオキを見た。


⸻


「アサメの集落と、ここは離れてるんじゃないのか」


「離れている。だが、切れてはいない」


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 オキは棒の先で地面に線を引いた。


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 山から川へ。


 川から海へ。


 そして、また山へ戻るように。


⸻


「山の炉が止まれば、ここは困る。ここが川を見なければ、山も困る。塩が来なければ、山は困る。鉄が来なければ、川も困る。だから人は歩く。雪が消えれば、もっと歩く」


「交流は多いのか」


「多い。アサメも来る。タダも来る。ナギは勝手に来る」


「勝手って」


 ナギが笑った。


⸻


「必要な時に来るという意味だ」


 オキは訂正しなかった。


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 ミコが小さく言った。


⸻


「アサメは、川の音を聞くのが下手」


⸻


 ナギが吹き出した。


⸻


「それ、本人に言ったら怒られるよ」


「言った」


「言ったの!?」


「怒られなかった」


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 ミコは少しだけ誇らしげだった。


⸻


「アサメは、山の音はすごく分かる。でも川は少し待ちすぎる。私は、山の音がまだ分からない。だから、教え合う」


⸻


 教え合う。


⸻


 その言葉は、少しだけ明るかった。


⸻


 アサメとミコ。


⸻


 山を見る女と、川を見習う少女。


⸻


 その間にも、道がある。


⸻


 赤い紐のように。


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 細くても、切れていない道がある。


⸻


 白い煙は、夜になっても細く続いていた。


⸻


 山の黒煙とは違う。


 鉄を生む煙ではない。


 人を弔い、魚を食べものに変え、水を温め、骨を川へ返す煙。


⸻


 この集落の息。


⸻


 オキの集落は、その白い息を吐きながら、川のそばで夜を迎えた。


⸻


(第三十七話へ)

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