動く者
第三十五話 動く者
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モモと話した翌朝、ナギが集落を出た。
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雪はまだ残っていた。
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屋根の上にも、木の根元にも、炉の横の黒い塊の上にも、白いものがしっかり乗っている。
朝の光を受けて、少しずつ表面だけが溶けていた。
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ぽたり。
ぽたり。
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屋根の端から水が落ちる。
細い音だった。
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昨日まで世界を包んでいた沈黙が、少しだけほどけていく音だった。
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ナギはその音を聞きながら、鳥の羽根の外套をばさりと揺らした。
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「じゃ、行くね」
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軽い声だった。
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雪の後の朝に似合わないくらい軽い。
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アサメは炉のそばに立っていた。
紅い衣の裾に、溶けかけた雪の光が映っている。
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「まだ道が悪い」
「知ってる」
「沢沿いは崩れる」
「知ってる」
「川へ出るまでに、足を滑らせるな」
「それは知りたくない」
「なら戻れ」
「でも行く」
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ナギは笑った。
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背は低い。
若い。
でも、動きは子供ではない。
足元の雪を踏む時も、重さを置かない。
鳥の羽根を使った外套が、肩で軽く揺れる。
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この男は、山に住んでいるわけではない。
海の匂いを持っている。
塩と魚と、濡れた縄の匂いを持っている。
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それなのに、山の雪の中でもあまり迷わない。
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山の者ではない。
海の者だけでもない。
川や道や、人の間を渡って生きている。
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シンは入り口に座ったまま、それを見ていた。
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足はまだ痛い。
昨日、モモと話すために無理をしたせいで、タダにかなり怒られた。
怒られたと言っても、タダはあまり声を荒げない。
ただ、薬を塗る時の手に、少しだけ容赦がなくなった。
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あれは怒っていた。
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かなり怒っていた。
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「シン」
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ナギが振り向いた。
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「足、無理すんなよ」
「アサメに言われるより軽いな」
「重く言うと聞かないでしょ」
「軽く言っても聞かないかもしれない」
「じゃあもう知らない」
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ナギは笑った。
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それから、少しだけ声を落とした。
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「桃色と話したんだって?」
「ああ」
「斬られなかった?」
「斬られなかった」
「すごいな」
「すごいのかな」
「すごいよ。普通は話す前に終わる」
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普通は。
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その言い方に、少しだけ現実が混じっていた。
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ナギは軽い。
よく笑う。
すぐ喋る。
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でも、桃色の話をする時だけ、その軽さの奥に別のものが見える。
遠くで見た死。
あっという間に討たれた男。
普通の人だった、とナギが言った男。
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シンは首筋を押さえそうになった。
やめた。
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「また話すの?」
ナギが聞いた。
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「話す」
「怖くない?」
「怖い」
「正直だなぁ」
「怖くない方が怖い」
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ナギは少し目を丸くした。
それから、なるほど、という顔をした。
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「シンも変だね」
「それ、よく言われる」
「誰に?」
「……いろいろ」
「ふうん」
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ナギはそれ以上聞かなかった。
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聞かないことにも、慣れているようだった。
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アサメが短く言った。
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「ナギ」
「はいはい」
「川沿いへ降りたら、オキに伝えろ」
「何を?」
「雪が来た。山の炉はまだ動く。桃色が近い」
「それ全部言うの?」
「言え」
「言うけどさぁ」
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ナギは軽く肩を竦めた。
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「オキの爺、また難しい顔するよ」
「いつもしている」
「まあね」
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オキ。
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シンはその名前を頭に置いた。
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川沿い。
ナギが行く先。
アサメが伝えろと言った場所。
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そこには、また別の人たちがいる。
別の火があり、別の暮らしがある。
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シンはまだ見ていない。
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ナギが背負い袋を直した。
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干した魚と塩の残りを入れ、布を縛る。
動きが早い。
無駄がない。
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タダが、無言で肉を一切れ渡した。
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「お、ありがと」
「食え」
「道で食う」
「滑るな」
「タダまでそれ言うの?」
「言う」
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ナギは少し笑った。
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それから、ふっと軽く手を上げた。
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「じゃ、また」
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また。
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その言葉が、少しだけ羨ましかった。
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また、と普通に言える人間。
また会えると、当然のように思える人間。
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シンには、それがまだ難しい。
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また会おうと言って、会えなかった人がいる。
戻ると言って、戻れなかった火がある。
川のはじまりへ行こうと言って、行けなかった少女がいる。
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それでも、ナギは言う。
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また。
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その軽さが、少しだけ眩しかった。
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ナギは雪の道へ出た。
足跡を残して、白い山の中へ入っていく。
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鳥の羽根の外套が、木々の間で一度だけ揺れた。
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すぐに見えなくなった。
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だが、ナギの匂いは少しだけ残った。
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塩と魚と、外の風の匂い。
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シンはそれを、しばらく嗅いでいた。
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ナギが出てから、二日が過ぎた。
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雪はさらに減った。
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日当たりのいい斜面では、白いものが剥がれ落ち、下から黒い土が見えた。
木の根元には、まだ雪が残っている。
日陰には、青白い塊が沈んでいる。
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屋根から落ちる水音は、一日中続いた。
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ぽたり。
ぽたり。
時々、まとめて崩れて、どさ、と音を立てる。
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冬は終わっていない。
けれど、少しだけ動き始めている。
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炉の音も変わった。
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アサメはそう言った。
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シンには、まだ全部は分からない。
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ただ、雪の夜に聞いた炉の音より、少し乾いているような気がした。
煙も、前より軽い。
天井の穴へ上がる途中で、重く沈むことが減った。
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アサメはそれを見ている。
タダは薪を運んでいる。
炉の男たちは、また外の大きな炉を使い始めている。
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かん。
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鉄の音が戻った。
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雪に吸われていた音が、山の中へもう一度響き始める。
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シンはその音を聞きながら、歩く練習をした。
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一日目は、住居の中だけ。
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二日目は、外の炉まで。
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三日目の朝には、集落の端まで歩けた。
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足は、もう痛まない。
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完全ではない。
強く踏み込むと、傷の奥に鈍い違和感がある。
けれど、歩ける。
杖があれば、山道も行ける。
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タダが最後に、もう一度布を確認した。
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無言で、丁寧に。
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傷口を押し、腫れを見て、布を巻き直す。
その動きが妙に慣れている。
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(この人、どの時代でも人を治してる気がする)
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タダは最後に、干し肉を三切れ、布に包んで渡した。
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「持っていけ」
「ありがとう」
「足、無理するな」
「分かった」
「分かってない」
「……なるべく分かってる」
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タダは少し頷いた。
それだけだった。
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シンは少し笑った。
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(タダってのは、どの時代でもタダだな)
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外へ出る。
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冷たい空気が肺に入った。
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雪の後の空気は、妙に透明だ。
遠くまで見える。
木々の輪郭も、山の線も、空の青さも、全部くっきりしていた。
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アサメが炉のそばに立っていた。
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外を見ているのか、炉を見ているのか、分からない目をしていた。
紅い衣が、朝の光の中で静かに赤い。
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火の赤とは違う。
血の赤とも違う。
雪の後の空気の中で、あの赤は、山に置かれた印みたいに見えた。
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シンが近づくと、アサメは振り向かずに言った。
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「行くのか」
「ああ」
「どこへ」
「まずは、ナギが言ってた川沿いへ」
「オキの集落か」
「そこが、次に見るべき場所な気がする」
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アサメは少しだけシンを見た。
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「見るために行くのか」
「そう」
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シンは頷いた。
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言ってから、その言葉が自分の中で少しずつ形になっていくのを感じた。
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見るために行く。
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それは、思いつきのようで、たぶん思いつきではない。
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モモとは、少しだけ話せるようになった。
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鬼候補。
保留。
照合不能。
欠落。
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昨日までなら、シンは「討つ」の一言で斬られていた。
けれど、雪の中でモモは止まった。
処理中、と言った。
保留した。
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それは希望だ。
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間違いなく、希望だった。
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けれど、それで何かが分かったわけではない。
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なぜ、シンは死ぬと戻るのか。
なぜ、時代を飛ぶのか。
なぜ、モモは時代を越えて現れるのか。
なぜ、モモの記録は欠けているのか。
なぜ、シンは鬼と呼ばれるのか。
なぜ、ヤマトは鬼を必要とするのか。
そして、そもそも。
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自分は何者なのか。
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何も分からない。
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分かったことがあるとすれば、分からないことが増えた、ということだけだった。
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雪の中でモモと向き合った時、二百三十年という数字を聞いた。
二百一万六千時間前後。
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人の時間なら、途方もない。
村も、人も、約束も、全部変わってしまう時間だ。
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でも、シンはそこを飛んできた。
モモも来た。
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普通じゃない。
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普通じゃないことばかりが、自分の周りに集まっている。
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それなのに、シンはその理由を一つも知らない。
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知らないまま、山の炉のそばで肉を食べている。
それは安心できる。
とても安心できる。
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だが、安心しているだけでは、何も分からない。
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この山には山の声がある。
炉には炉の言葉がある。
アサメはそれを読む。
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でも、山だけを見ていても、川は分からない。
川だけを見ていても、海は分からない。
海だけを見ていても、ヤマトは分からない。
ヤマトだけを見ても、モモは分からない。
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全部、繋がっている。
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たぶん。
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山の鉄。
川の煙。
海の塩。
ヤマトの道。
鬼という名前。
桃色の鬼討ち。
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そのどこかに、シンがここへ来た理由があるかもしれない。
ないかもしれない。
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それでも、見なければ分からない。
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「ここにいても、分からない気がする」
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シンは言った。
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「モモが止まった理由も、鬼の意味も、ヤマトのことも。俺のことも。ここは、あたたかい。肉もうまい。でも、ここだけ見てたら、たぶん駄目だ」
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アサメは黙って聞いていた。
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炉が低く鳴る。
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雪の日の重い音じゃない。
少し乾いた音だ。
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「色んなものを見ないといけない」
シンは続けた。
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「山だけじゃなくて、川も。鉄がどこへ行くのかも。ナギが運ぶ塩がどこから来るのかも。ヤマトが何を欲しがってるのかも。鬼と呼ばれる人たちが、どう暮らしているのかも」
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言葉にしているうちに、自分でも分かってきた。
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自分は、何かを解きたいのだ。
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モモを救いたい。
死に戻りの意味を知りたい。
時代を飛ぶ理由を知りたい。
鬼という名で人が斬られる仕組みを知りたい。
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そのために、見たい。
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見なければいけない。
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シンには、戦う力がない。
山の声も聞けない。
炉も読めない。
鉄も打てない。
狩りもできない。
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でも、見たことは覚えている。
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死んでも、覚えている。
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なら、見に行くしかない。
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それが、今のシンにできることだった。
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アサメはしばらく黙っていた。
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紅い衣の袖が、朝の風でわずかに揺れた。
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「お前は、動く者か」
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アサメが言った。
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「たぶん」
「また、たぶんか」
「確信が持てる人生じゃなくて」
「命がいくつもあるような言い方だ」
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シンは笑いかけて、少しだけ止まった。
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アサメはシンを見ていた。
静かな目だった。
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この女は、変化を見る。
炉の火を読む。
雪の気配を読む。
人の顔も、たぶん読む。
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シンが何かを隠していることも、分かっているのかもしれない。
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でも、聞かない。
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今は。
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「命は一つだよ」
シンは言った。
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「一つだから、たぶん動く」
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アサメは何も言わなかった。
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ただ、炉を見た。
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「この先に、小さな集落がある」
アサメが言った。
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「川沿いだ」
「ナギが向かったところか」
「そうだ。オキという老人がいる。あそこは山と川の間だ」
「鍛冶か」
「違う」
「鉄は使う?」
「使う。だが、こことは違う」
「違う?」
「鉄を、別の目的で使っている」
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シンは少し考えた。
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鉄を別の目的で使う。
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炉で作る鉄。
道具にする鉄。
武器にする鉄。
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それ以外に何があるのか、まだ分からない。
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「行けば分かる?」
「見れば分かる」
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アサメは短く言った。
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シンは笑った。
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「今の、俺が言おうとしてたことと同じだな」
「そうか」
「そうだよ」
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アサメは、少しだけ口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
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「道は雪で消えかけている。沢へまっすぐ降りるな。東の尾根を回れ。鳥嘴みたいな岩がある。そこを越えたら、細い水の音を探せ。その水が太くなったら、川に出る」
「鳥嘴みたいな岩」
「本当に鳥の嘴に見える」
「分かりやすい」
「見落とすな」
「見落としたら?」
「迷う」
「怖い」
「怖いと思って歩け」
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シンは頷いた。
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怖いと思って歩け。
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アサメらしい言葉だった。
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「アサメは、この集落からずっと動かないのか」
「動く時は動く」
「今は?」
「今は、ここにいる」
「なんで」
「山が動いていない」
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シンは少し考えた。
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「山が動く、というのは?」
「山を揺るがすものが来るということだ」
「ヤマトか」
「……かもしれない」
「来たら、どうする」
「動く」
「逃げるか」
「向かう場合もある」
「……戦うのか」
「その時に決める」
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アサメはようやくシンを見た。
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炉火が横顔を赤く照らしている。
頬の刺青が、火の色を吸っているみたいだった。
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「シン」
「なんだ」
「桃色と、また話すのか」
「ああ」
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シンは頷いた。
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「揺れなかったけど、止まった。前より少し、話せた」
「そうか」
「止まるのは、何かがある、とアサメが言った」
「言った」
「その何かを、確かめたいんだ」
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アサメは少し間を置いた。
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「アタシには分からない。ただ炉を読むように、変化を見るだけだ」
「でも、何かがある、とは言える」
「言える」
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シンは炉を見た。
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炎の先端が、少し青い。
火が息をしているみたいだった。
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(モモも、炉みたいなものかもしれない)
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止まったのは、何かが引っかかったからだ。
記録にない何かが、処理を妨げた。
前の時代から続いている何か。
消えていない。
ただ、記録されていないだけで。
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その何かを知るためにも、シンは動かなければいけない。
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ここで待っていれば、モモはまた現れるかもしれない。
少しずつ話せるようになるかもしれない。
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でも、それだけでは足りない。
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モモの中の欠落は、モモだけの問題ではない気がした。
鬼。
ヤマト。
この時代。
鉄。
道。
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全部が繋がっている。
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たぶん。
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「行くか」
アサメが言った。
⸻
「……行く」
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会話はそこで終わった。
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アサメは炉へ戻る。
もう見送りはしないらしい。
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でも、それがアサメなりの見送りなのだと、なんとなく分かった。
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シンは歩き始めた。
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雪を踏む。
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ぎ、と音がした。
薄く凍った表面が割れる。
白い息が出る。
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少し進むと、タダが後ろからついてきていた。
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無言だった。
一定距離を保っている。
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「一緒に来てくれるのか」
「少し」
「心配?」
「別に」
「絶対心配してるじゃ~ん」
「……足が遅い」
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シンは笑った。
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しばらく歩いたところで、タダが止まった。
木の影の中で立っている。
巨大な体が、妙に静かだった。
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シンが振り返る。
タダは何も言わない。
ただ、立っていた。
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雪の白。
木の黒。
その間に、タダの体がある。
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まるで山の一部みたいだった。
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(ありがとう、タダ)
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声には出さなかった。
でも、思った。
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この人は、どの時代でも、こういう人だ。
見送る時も、余計なことは言わない。
肉を渡して、傷を見て、少しだけついてきて、そこで止まる。
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それだけで、十分だった。
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さらに歩く。
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山道は雪に覆われていた。
でも、完全には消えていない。
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人が歩いた跡。
獣が通った跡。
木の実を探した跡。
落ちた枝が、誰かに踏まれて折れた跡。
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この時代にも、色んな命が動いている。
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空が広かった。
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木々が開ける。
光が雪に反射して、少し眩しい。
川音が遠くから聞こえてきた。
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きれいだ、と思った。
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前の時代でも、同じことを思った。
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川。
草。
風。
火。
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何かをきれいと思う感覚だけは、何度死んでも消えない。
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(人間だからか)
(それとも)
(もっと前から、こうだったのか)
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甘い匂いがした。
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薄い。
でも、昨日より少し濃い。
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(モモ)
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振り返らなかった。
止まらなかった。
ただ、歩いた。
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後ろに気配がある。
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ついてきている。
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討ちに来ている気配じゃない。
確認している気配だ。
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(前の時代でも、こういう日があった)
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来るだけで、殺さない日。
何かを測るように、近くにいる日。
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あの頃のモモと、今のモモは違う。
でも、こういうところは少し似ている。
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「俺がいて、お前もいるから、続く」
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歩きながら、シンは小さく言った。
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後ろに届いたかは分からない。
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でも、匂いは消えなかった。
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川音が近づく。
雪の匂いが薄くなる。
代わりに、水の匂いがした。
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木々が開ける。
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その先に、川が見えた。
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広い。
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冬なのに、死んでいない川だ。
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水が流れている。
光っている。
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雪の白を映し、空の青を映し、ところどころで黒い石を避けて流れている。
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水の音が、山の沈黙を割っていた。
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それは炉の音とも、鉄の音とも違う。
もっと早い。
もっと柔らかい。
それでいて、止まらない。
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シンは足を止めた。
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川。
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見れば、どうしても思い出す。
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川のはじまり。
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コト。
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行けなかった約束。
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でも、ここにも川がある。
この時代にも、水は流れている。
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なら、どこかに始まりがある。
どこかに、行き着く先もある。
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シンは息を吐いた。
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白い息が川風に流された。
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川沿いに、煙が見えた。
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小さい。
でも、一つじゃない。
複数ある。
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(集落か)
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煙の色が、アサメたちのものと少し違った。
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黒くない。
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白い。
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鉄の匂いもしない。
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煙は細く、まっすぐ上がっている。
風に崩されても、すぐにまた上へ伸びる。
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山の炉煙とは違う。
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あれは重かった。
黒く、低く、鉄と炭の匂いを持っていた。
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こちらの煙は軽い。
白く、細く、水に近い。
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(何をやってるんだ、あそこ)
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シンは少し歩調を緩めた。
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後ろの桃の匂いは、まだ消えていなかった。
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川沿いの集落。
白い煙。
鉄ではない火。
オキという老人。
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そして、どこかで先に着いているかもしれないナギ。
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見るべきものが、また一つ増えた。
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シンは杖を握り直し、川沿いの白い煙へ向かって歩き出した。
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(第三十六話へ)




