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出発

第三十五話 出発



 七日目の朝、シンは集落を出る準備をした。



 雪は、少しだけ減っていた。


 屋根に積もっていた白が、朝の光を受けて崩れていく。


 ぽたり、ぽたり、と水音が落ちる。


 長かった雪が、終わり始めている音だった。



 足は、もう痛まない。


 タダが最後にもう一度、布を確認した。


 無言で、丁寧に。


 傷口を押し、腫れを見て、布を巻き直す。


 その動きが妙に慣れている。



(この人、どの時代でも人を治してる気がする)



 タダは最後に、干し肉を三切れ、布に包んで渡した。



「持っていけ」


「ありがとう」


「足、無理するな」


「分かった」


「分かってない」


「……なるべく分かってる」



 タダは少し頷いた。


 それだけだった。



 シンは少し笑った。



(タダってのは、どの時代でもタダだな)



 外へ出る。


 冷たい空気が肺に入った。


 雪の後の空気は、妙に透明だ。


 遠くまで見える。


 木々の輪郭も、山の線も、空の青さも、全部くっきりしていた。



 アサメが炉のそばに立っていた。


 外を見ているのか、炉を見ているのか、分からない目をしていた。


 シンが近づくと、振り向かずに言った。



「どこへ行く」


「まだ決めてない」


「決めずに出るのか」


「動いていれば、何かが見える気がする」


「……見える場合と、見えない場合がある」


「どちらが多いんだ」


「半分ずつだ」



(正直だな)



 炉が低く鳴っていた。


 雪の日の重い音じゃない。


 少し乾いた音だ。


 空気が変わった、とアサメは言っていた。


 シンにはまだ分からない。


 でも、違うことだけは分かる。



「アサメは、この集落からずっと動かないのか」


「動く時は動く」


「今は?」


「今は、ここにいる」


「なんで」


「山が動いていない」



 シンは少し考えた。



「山が動く、というのは?」


「山を揺るがすものが来るということだ」


「ヤマトか」


「……かもしれない」


「来たら、どうする」


「動く」


「逃げるか」


「向かう場合もある」


「……戦うのか」


「その時に決める」



 アサメはようやくシンを見た。


 炉火が横顔を赤く照らしている。


 頬の刺青が、火の色を吸っているみたいだった。



「シン」


「なんだ」


「桃色と、また話すのか」


「ああ。揺れなかったけど止まった」


「そうか」


「止まるのは、何かがある、とアサメが言った」


「言った」


「その何かを、確かめたいんだ」



 アサメは少し間を置いた。



「アタシには分からない。ただ炉を読むように、変化を見るだけだ」


「でも、何かがある、とは言える」


「言える」



 シンは炉を見た。


 炎の先端が、少し青い。


 火が息をしているみたいだった。



(モモも、炉みたいなものかもしれない)



 止まったのは、何かが引っかかったからだ。


 記録にない何かが、処理を妨げた。


 前の時代から続いている何か。


 消えていない。


 ただ、記録されていないだけで。



「アサメ」


「なんだ」


「鬼がいるから、ヤマトが正しくなる。って」


「言った」


「つまり、鬼は国が決める」


「そうだ」


「じゃあ、国がなければ鬼もいないのかな」



 アサメは少し考えた。


 炉を見た。



「山には、鬼がいない」


「山に国はないから?」


「山に、分ける理由がないからだ」



 静かな声だった。



「山は全部を受け入れる。人も、獣も、死も、雪も、全部」


「ヤマトは受け入れないのか」


「ヤマトは選ぶ。選ぶためには、外を作る」


「外が、鬼か」


「そうだ」



 シンはしばらく黙った。



(外を作るために、鬼がいる)


(だとしたら)


(モモは、ヤマトの外を作るための道具か)



 違う気がした。


 でも、近い気もした。


 まだ、はっきりしない。



「行くか」


 アサメが言った。


「……行く」


「この先に、小さな集落がある。川沿いだ」


「鍛冶か」


「違う。鉄を別の目的で使っている」


「別の目的?」


「行けば分かる」



 会話はそこで終わった。


 アサメは炉へ戻る。


 もう見送りはしないらしい。


 でも、それがアサメなりの見送りなのだと、なんとなく分かった。



 シンは歩き始めた。



 雪を踏む。


 ぎ、と音がした。


 薄く凍った表面が割れる。


 白い息が出る。



 少し進むと、タダが後ろからついてきていた。


 無言だった。


 一定距離を保っている。



「一緒に来てくれるのか」


「少し」


「心配?」


「別に」


「絶対心配してるじゃ〜ん」


「……足が遅い」



 シンは笑った。



 しばらく歩いたところで、タダが止まった。


 木の影の中で立っている。


 巨大な体が、妙に静かだった。



 シンが振り返る。


 タダは何も言わない。


 ただ、立っていた。



(ありがとう、タダ)



 声には出さなかった。


 でも、思った。


 この人は、どの時代でも、こういう人だ。


 それだけで、十分だった。



 さらに歩く。


 山道は雪に覆われていた。


 でも、完全には消えていない。


 人が歩いた跡。


 獣が通った跡。


 木の実を探した跡。


 この時代にも、色んな命が動いている。



 空が広かった。


 木々が開ける。


 光が雪に反射して、少し眩しい。


 川音が遠くから聞こえてきた。



 きれいだ、と思った。



 前の時代でも、同じことを思った。


 川。


 草。


 風。


 火。


 何かをきれいと思う感覚だけは、何度死んでも消えない。



(人間だからか)


(それとも)


(もっと前から、こうだったのか)



 甘い匂いがした。



 薄い。


 でも、昨日より少し濃い。



(モモ)



 振り返らなかった。


 止まらなかった。


 ただ、歩いた。



 後ろに気配がある。


 ついてきている。


 討ちに来ている気配じゃない。


 確認している気配だ。



(前の時代でも、こういう日があった)



 来るだけで、殺さない日。


 何かを測るように、近くにいる日。


 あの頃のモモと、今のモモは違う。


 でも、こういうところは少し似ている。



「俺がいて、お前もいるから、続く」



 歩きながら、シンは小さく言った。


 後ろに届いたかは分からない。


 でも、匂いは消えなかった。



 川音が近づく。


 雪の匂いが薄くなる。


 代わりに、水の匂いがした。



 木々が開ける。



 その先に、川が見えた。


 広い。


 冬なのに、死んでいない川だ。


 水が流れている。


 光っている。



 川沿いに、煙が見えた。



 小さい。


 でも、一つじゃない。


 複数ある。



(集落か)



 煙の色が、アサメたちのものと少し違った。


 黒くない。


 白い。



 鉄の匂いもしない。



(何をやってるんだ、あそこ)



 シンは少し歩調を緩めた。



 後ろの桃の匂いは、まだ消えていなかった。



(第三十六話へ)

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