↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
35/149

動く者

第三十五話 動く者


⸻


 モモと話した翌朝、ナギが集落を出た。


⸻


 雪はまだ残っていた。


⸻


 屋根の上にも、木の根元にも、炉の横の黒い塊の上にも、白いものがしっかり乗っている。


 朝の光を受けて、少しずつ表面だけが溶けていた。


⸻


 ぽたり。


 ぽたり。


⸻


 屋根の端から水が落ちる。


 細い音だった。


⸻


 昨日まで世界を包んでいた沈黙が、少しだけほどけていく音だった。


⸻


 ナギはその音を聞きながら、鳥の羽根の外套をばさりと揺らした。


⸻


「じゃ、行くね」


⸻


 軽い声だった。


⸻


 雪の後の朝に似合わないくらい軽い。


⸻


 アサメは炉のそばに立っていた。


 紅い衣の裾に、溶けかけた雪の光が映っている。


⸻


「まだ道が悪い」


「知ってる」


「沢沿いは崩れる」


「知ってる」


「川へ出るまでに、足を滑らせるな」


「それは知りたくない」


「なら戻れ」


「でも行く」


⸻


 ナギは笑った。


⸻


 背は低い。


 若い。


 でも、動きは子供ではない。


 足元の雪を踏む時も、重さを置かない。


 鳥の羽根を使った外套が、肩で軽く揺れる。


⸻


 この男は、山に住んでいるわけではない。


 海の匂いを持っている。


 塩と魚と、濡れた縄の匂いを持っている。


⸻


 それなのに、山の雪の中でもあまり迷わない。


⸻


 山の者ではない。


 海の者だけでもない。


 川や道や、人の間を渡って生きている。


⸻


 シンは入り口に座ったまま、それを見ていた。


⸻


 足はまだ痛い。


 昨日、モモと話すために無理をしたせいで、タダにかなり怒られた。


 怒られたと言っても、タダはあまり声を荒げない。


 ただ、薬を塗る時の手に、少しだけ容赦がなくなった。


⸻


 あれは怒っていた。


⸻


 かなり怒っていた。


⸻


「シン」


⸻


 ナギが振り向いた。


⸻


「足、無理すんなよ」


「アサメに言われるより軽いな」


「重く言うと聞かないでしょ」


「軽く言っても聞かないかもしれない」


「じゃあもう知らない」


⸻


 ナギは笑った。


⸻


 それから、少しだけ声を落とした。


⸻


「桃色と話したんだって?」


「ああ」


「斬られなかった?」


「斬られなかった」


「すごいな」


「すごいのかな」


「すごいよ。普通は話す前に終わる」


⸻


 普通は。


⸻


 その言い方に、少しだけ現実が混じっていた。


⸻


 ナギは軽い。


 よく笑う。


 すぐ喋る。


⸻


 でも、桃色の話をする時だけ、その軽さの奥に別のものが見える。


 遠くで見た死。


 あっという間に討たれた男。


 普通の人だった、とナギが言った男。


⸻


 シンは首筋を押さえそうになった。


 やめた。


⸻


「また話すの?」


 ナギが聞いた。


⸻


「話す」


「怖くない?」


「怖い」


「正直だなぁ」


「怖くない方が怖い」


⸻


 ナギは少し目を丸くした。


 それから、なるほど、という顔をした。


⸻


「シンも変だね」


「それ、よく言われる」


「誰に?」


「……いろいろ」


「ふうん」


⸻


 ナギはそれ以上聞かなかった。


⸻


 聞かないことにも、慣れているようだった。


⸻


 アサメが短く言った。


⸻


「ナギ」


「はいはい」


「川沿いへ降りたら、オキに伝えろ」


「何を?」


「雪が来た。山の炉はまだ動く。桃色が近い」


「それ全部言うの?」


「言え」


「言うけどさぁ」


⸻


 ナギは軽く肩を竦めた。


⸻


「オキの爺、また難しい顔するよ」


「いつもしている」


「まあね」


⸻


 オキ。


⸻


 シンはその名前を頭に置いた。


⸻


 川沿い。


 ナギが行く先。


 アサメが伝えろと言った場所。


⸻


 そこには、また別の人たちがいる。


 別の火があり、別の暮らしがある。


⸻


 シンはまだ見ていない。


⸻


 ナギが背負い袋を直した。


⸻


 干した魚と塩の残りを入れ、布を縛る。


 動きが早い。


 無駄がない。


⸻


 タダが、無言で肉を一切れ渡した。


⸻


「お、ありがと」


「食え」


「道で食う」


「滑るな」


「タダまでそれ言うの?」


「言う」


⸻


 ナギは少し笑った。


⸻


 それから、ふっと軽く手を上げた。


⸻


「じゃ、また」


⸻


 また。


⸻


 その言葉が、少しだけ羨ましかった。


⸻


 また、と普通に言える人間。


 また会えると、当然のように思える人間。


⸻


 シンには、それがまだ難しい。


⸻


 また会おうと言って、会えなかった人がいる。


 戻ると言って、戻れなかった火がある。


 川のはじまりへ行こうと言って、行けなかった少女がいる。


⸻


 それでも、ナギは言う。


⸻


 また。


⸻


 その軽さが、少しだけ眩しかった。


⸻


 ナギは雪の道へ出た。


 足跡を残して、白い山の中へ入っていく。


⸻


 鳥の羽根の外套が、木々の間で一度だけ揺れた。


⸻


 すぐに見えなくなった。


⸻


 だが、ナギの匂いは少しだけ残った。


⸻


 塩と魚と、外の風の匂い。


⸻


 シンはそれを、しばらく嗅いでいた。


⸻


 ナギが出てから、二日が過ぎた。


⸻


 雪はさらに減った。


⸻


 日当たりのいい斜面では、白いものが剥がれ落ち、下から黒い土が見えた。


 木の根元には、まだ雪が残っている。


 日陰には、青白い塊が沈んでいる。


⸻


 屋根から落ちる水音は、一日中続いた。


⸻


 ぽたり。


 ぽたり。


 時々、まとめて崩れて、どさ、と音を立てる。


⸻


 冬は終わっていない。


 けれど、少しだけ動き始めている。


⸻


 炉の音も変わった。


⸻


 アサメはそう言った。


⸻


 シンには、まだ全部は分からない。


⸻


 ただ、雪の夜に聞いた炉の音より、少し乾いているような気がした。


 煙も、前より軽い。


 天井の穴へ上がる途中で、重く沈むことが減った。


⸻


 アサメはそれを見ている。


 タダは薪を運んでいる。


 炉の男たちは、また外の大きな炉を使い始めている。


⸻


 かん。


⸻


 鉄の音が戻った。


⸻


 雪に吸われていた音が、山の中へもう一度響き始める。


⸻


 シンはその音を聞きながら、歩く練習をした。


⸻


 一日目は、住居の中だけ。


⸻


 二日目は、外の炉まで。


⸻


 三日目の朝には、集落の端まで歩けた。


⸻


 足は、もう痛まない。


⸻


 完全ではない。


 強く踏み込むと、傷の奥に鈍い違和感がある。


 けれど、歩ける。


 杖があれば、山道も行ける。


⸻


 タダが最後に、もう一度布を確認した。


⸻


 無言で、丁寧に。


⸻


 傷口を押し、腫れを見て、布を巻き直す。


 その動きが妙に慣れている。


⸻


(この人、どの時代でも人を治してる気がする)


⸻


 タダは最後に、干し肉を三切れ、布に包んで渡した。


⸻


「持っていけ」


「ありがとう」


「足、無理するな」


「分かった」


「分かってない」


「……なるべく分かってる」


⸻


 タダは少し頷いた。


 それだけだった。


⸻


 シンは少し笑った。


⸻


(タダってのは、どの時代でもタダだな)


⸻


 外へ出る。


⸻


 冷たい空気が肺に入った。


⸻


 雪の後の空気は、妙に透明だ。


 遠くまで見える。


 木々の輪郭も、山の線も、空の青さも、全部くっきりしていた。


⸻


 アサメが炉のそばに立っていた。


⸻


 外を見ているのか、炉を見ているのか、分からない目をしていた。


 紅い衣が、朝の光の中で静かに赤い。


⸻


 火の赤とは違う。


 血の赤とも違う。


 雪の後の空気の中で、あの赤は、山に置かれた印みたいに見えた。


⸻


 シンが近づくと、アサメは振り向かずに言った。


⸻


「行くのか」


「ああ」


「どこへ」


「まずは、ナギが言ってた川沿いへ」


「オキの集落か」


「そこが、次に見るべき場所な気がする」


⸻


 アサメは少しだけシンを見た。


⸻


「見るために行くのか」


「そう」


⸻


 シンは頷いた。


⸻


 言ってから、その言葉が自分の中で少しずつ形になっていくのを感じた。


⸻


 見るために行く。


⸻


 それは、思いつきのようで、たぶん思いつきではない。


⸻


 モモとは、少しだけ話せるようになった。


⸻


 鬼候補。


 保留。


 照合不能。


 欠落。


⸻


 昨日までなら、シンは「討つ」の一言で斬られていた。


 けれど、雪の中でモモは止まった。


 処理中、と言った。


 保留した。


⸻


 それは希望だ。


⸻


 間違いなく、希望だった。


⸻


 けれど、それで何かが分かったわけではない。


⸻


 なぜ、シンは死ぬと戻るのか。


 なぜ、時代を飛ぶのか。


 なぜ、モモは時代を越えて現れるのか。


 なぜ、モモの記録は欠けているのか。


 なぜ、シンは鬼と呼ばれるのか。


 なぜ、ヤマトは鬼を必要とするのか。


 そして、そもそも。


⸻


 自分は何者なのか。


⸻


 何も分からない。


⸻


 分かったことがあるとすれば、分からないことが増えた、ということだけだった。


⸻


 雪の中でモモと向き合った時、二百三十年という数字を聞いた。


 二百一万六千時間前後。


⸻


 人の時間なら、途方もない。


 村も、人も、約束も、全部変わってしまう時間だ。


⸻


 でも、シンはそこを飛んできた。


 モモも来た。


⸻


 普通じゃない。


⸻


 普通じゃないことばかりが、自分の周りに集まっている。


⸻


 それなのに、シンはその理由を一つも知らない。


⸻


 知らないまま、山の炉のそばで肉を食べている。


 それは安心できる。


 とても安心できる。


⸻


 だが、安心しているだけでは、何も分からない。


⸻


 この山には山の声がある。


 炉には炉の言葉がある。


 アサメはそれを読む。


⸻


 でも、山だけを見ていても、川は分からない。


 川だけを見ていても、海は分からない。


 海だけを見ていても、ヤマトは分からない。


 ヤマトだけを見ても、モモは分からない。


⸻


 全部、繋がっている。


⸻


 たぶん。


⸻


 山の鉄。


 川の煙。


 海の塩。


 ヤマトの道。


 鬼という名前。


 桃色の鬼討ち。


⸻


 そのどこかに、シンがここへ来た理由があるかもしれない。


 ないかもしれない。


⸻


 それでも、見なければ分からない。


⸻


「ここにいても、分からない気がする」


⸻


 シンは言った。


⸻


「モモが止まった理由も、鬼の意味も、ヤマトのことも。俺のことも。ここは、あたたかい。肉もうまい。でも、ここだけ見てたら、たぶん駄目だ」


⸻


 アサメは黙って聞いていた。


⸻


 炉が低く鳴る。


⸻


 雪の日の重い音じゃない。


 少し乾いた音だ。


⸻


「色んなものを見ないといけない」


 シンは続けた。


⸻


「山だけじゃなくて、川も。鉄がどこへ行くのかも。ナギが運ぶ塩がどこから来るのかも。ヤマトが何を欲しがってるのかも。鬼と呼ばれる人たちが、どう暮らしているのかも」


⸻


 言葉にしているうちに、自分でも分かってきた。


⸻


 自分は、何かを解きたいのだ。


⸻


 モモを救いたい。


 死に戻りの意味を知りたい。


 時代を飛ぶ理由を知りたい。


 鬼という名で人が斬られる仕組みを知りたい。


⸻


 そのために、見たい。


⸻


 見なければいけない。


⸻


 シンには、戦う力がない。


 山の声も聞けない。


 炉も読めない。


 鉄も打てない。


 狩りもできない。


⸻


 でも、見たことは覚えている。


⸻


 死んでも、覚えている。


⸻


 なら、見に行くしかない。


⸻


 それが、今のシンにできることだった。


⸻


 アサメはしばらく黙っていた。


⸻


 紅い衣の袖が、朝の風でわずかに揺れた。


⸻


「お前は、動く者か」


⸻


 アサメが言った。


⸻


「たぶん」


「また、たぶんか」


「確信が持てる人生じゃなくて」


「命がいくつもあるような言い方だ」


⸻


 シンは笑いかけて、少しだけ止まった。


⸻


 アサメはシンを見ていた。


 静かな目だった。


⸻


 この女は、変化を見る。


 炉の火を読む。


 雪の気配を読む。


 人の顔も、たぶん読む。


⸻


 シンが何かを隠していることも、分かっているのかもしれない。


⸻


 でも、聞かない。


⸻


 今は。


⸻


「命は一つだよ」


 シンは言った。


⸻


「一つだから、たぶん動く」


⸻


 アサメは何も言わなかった。


⸻


 ただ、炉を見た。


⸻


「この先に、小さな集落がある」


 アサメが言った。


⸻


「川沿いだ」


「ナギが向かったところか」


「そうだ。オキという老人がいる。あそこは山と川の間だ」


「鍛冶か」


「違う」


「鉄は使う?」


「使う。だが、こことは違う」


「違う?」


「鉄を、別の目的で使っている」


⸻


 シンは少し考えた。


⸻


 鉄を別の目的で使う。


⸻


 炉で作る鉄。


 道具にする鉄。


 武器にする鉄。


⸻


 それ以外に何があるのか、まだ分からない。


⸻


「行けば分かる?」


「見れば分かる」


⸻


 アサメは短く言った。


⸻


 シンは笑った。


⸻


「今の、俺が言おうとしてたことと同じだな」


「そうか」


「そうだよ」


⸻


 アサメは、少しだけ口元を動かした。


 笑ったのかもしれない。


⸻


「道は雪で消えかけている。沢へまっすぐ降りるな。東の尾根を回れ。鳥嘴みたいな岩がある。そこを越えたら、細い水の音を探せ。その水が太くなったら、川に出る」


「鳥嘴みたいな岩」


「本当に鳥の嘴に見える」


「分かりやすい」


「見落とすな」


「見落としたら?」


「迷う」


「怖い」


「怖いと思って歩け」


⸻


 シンは頷いた。


⸻


 怖いと思って歩け。


⸻


 アサメらしい言葉だった。


⸻


「アサメは、この集落からずっと動かないのか」


「動く時は動く」


「今は?」


「今は、ここにいる」


「なんで」


「山が動いていない」


⸻


 シンは少し考えた。


⸻


「山が動く、というのは?」


「山を揺るがすものが来るということだ」


「ヤマトか」


「……かもしれない」


「来たら、どうする」


「動く」


「逃げるか」


「向かう場合もある」


「……戦うのか」


「その時に決める」


⸻


 アサメはようやくシンを見た。


⸻


 炉火が横顔を赤く照らしている。


 頬の刺青が、火の色を吸っているみたいだった。


⸻


「シン」


「なんだ」


「桃色と、また話すのか」


「ああ」


⸻


 シンは頷いた。


⸻


「揺れなかったけど、止まった。前より少し、話せた」


「そうか」


「止まるのは、何かがある、とアサメが言った」


「言った」


「その何かを、確かめたいんだ」


⸻


 アサメは少し間を置いた。


⸻


「アタシには分からない。ただ炉を読むように、変化を見るだけだ」


「でも、何かがある、とは言える」


「言える」


⸻


 シンは炉を見た。


⸻


 炎の先端が、少し青い。


 火が息をしているみたいだった。


⸻


(モモも、炉みたいなものかもしれない)


⸻


 止まったのは、何かが引っかかったからだ。


 記録にない何かが、処理を妨げた。


 前の時代から続いている何か。


 消えていない。


 ただ、記録されていないだけで。


⸻


 その何かを知るためにも、シンは動かなければいけない。


⸻


 ここで待っていれば、モモはまた現れるかもしれない。


 少しずつ話せるようになるかもしれない。


⸻


 でも、それだけでは足りない。


⸻


 モモの中の欠落は、モモだけの問題ではない気がした。


 鬼。


 ヤマト。


 この時代。


 鉄。


 道。


⸻


 全部が繋がっている。


⸻


 たぶん。


⸻


「行くか」


 アサメが言った。


⸻


「……行く」


⸻


 会話はそこで終わった。


⸻


 アサメは炉へ戻る。


 もう見送りはしないらしい。


⸻


 でも、それがアサメなりの見送りなのだと、なんとなく分かった。


⸻


 シンは歩き始めた。


⸻


 雪を踏む。


⸻


 ぎ、と音がした。


 薄く凍った表面が割れる。


 白い息が出る。


⸻


 少し進むと、タダが後ろからついてきていた。


⸻


 無言だった。


 一定距離を保っている。


⸻


「一緒に来てくれるのか」


「少し」


「心配?」


「別に」


「絶対心配してるじゃ~ん」


「……足が遅い」


⸻


 シンは笑った。


⸻


 しばらく歩いたところで、タダが止まった。


 木の影の中で立っている。


 巨大な体が、妙に静かだった。


⸻


 シンが振り返る。


 タダは何も言わない。


 ただ、立っていた。


⸻


 雪の白。


 木の黒。


 その間に、タダの体がある。


⸻


 まるで山の一部みたいだった。


⸻


(ありがとう、タダ)


⸻


 声には出さなかった。


 でも、思った。


⸻


 この人は、どの時代でも、こういう人だ。


 見送る時も、余計なことは言わない。


 肉を渡して、傷を見て、少しだけついてきて、そこで止まる。


⸻


 それだけで、十分だった。


⸻


 さらに歩く。


⸻


 山道は雪に覆われていた。


 でも、完全には消えていない。


⸻


 人が歩いた跡。


 獣が通った跡。


 木の実を探した跡。


 落ちた枝が、誰かに踏まれて折れた跡。


⸻


 この時代にも、色んな命が動いている。


⸻


 空が広かった。


⸻


 木々が開ける。


 光が雪に反射して、少し眩しい。


 川音が遠くから聞こえてきた。


⸻


 きれいだ、と思った。


⸻


 前の時代でも、同じことを思った。


⸻


 川。


 草。


 風。


 火。


⸻


 何かをきれいと思う感覚だけは、何度死んでも消えない。


⸻


(人間だからか)


(それとも)


(もっと前から、こうだったのか)


⸻


 甘い匂いがした。


⸻


 薄い。


 でも、昨日より少し濃い。


⸻


(モモ)


⸻


 振り返らなかった。


 止まらなかった。


 ただ、歩いた。


⸻


 後ろに気配がある。


⸻


 ついてきている。


⸻


 討ちに来ている気配じゃない。


 確認している気配だ。


⸻


(前の時代でも、こういう日があった)


⸻


 来るだけで、殺さない日。


 何かを測るように、近くにいる日。


⸻


 あの頃のモモと、今のモモは違う。


 でも、こういうところは少し似ている。


⸻


「俺がいて、お前もいるから、続く」


⸻


 歩きながら、シンは小さく言った。


⸻


 後ろに届いたかは分からない。


⸻


 でも、匂いは消えなかった。


⸻


 川音が近づく。


 雪の匂いが薄くなる。


 代わりに、水の匂いがした。


⸻


 木々が開ける。


⸻


 その先に、川が見えた。


⸻


 広い。


⸻


 冬なのに、死んでいない川だ。


⸻


 水が流れている。


 光っている。


⸻


 雪の白を映し、空の青を映し、ところどころで黒い石を避けて流れている。


⸻


 水の音が、山の沈黙を割っていた。


⸻


 それは炉の音とも、鉄の音とも違う。


 もっと早い。


 もっと柔らかい。


 それでいて、止まらない。


⸻


 シンは足を止めた。


⸻


 川。


⸻


 見れば、どうしても思い出す。


⸻


 川のはじまり。


⸻


 コト。


⸻


 行けなかった約束。


⸻


 でも、ここにも川がある。


 この時代にも、水は流れている。


⸻


 なら、どこかに始まりがある。


 どこかに、行き着く先もある。


⸻


 シンは息を吐いた。


⸻


 白い息が川風に流された。


⸻


 川沿いに、煙が見えた。


⸻


 小さい。


 でも、一つじゃない。


 複数ある。


⸻


(集落か)


⸻


 煙の色が、アサメたちのものと少し違った。


⸻


 黒くない。


⸻


 白い。


⸻


 鉄の匂いもしない。


⸻


 煙は細く、まっすぐ上がっている。


 風に崩されても、すぐにまた上へ伸びる。


⸻


 山の炉煙とは違う。


⸻


 あれは重かった。


 黒く、低く、鉄と炭の匂いを持っていた。


⸻


 こちらの煙は軽い。


 白く、細く、水に近い。


⸻


(何をやってるんだ、あそこ)


⸻


 シンは少し歩調を緩めた。


⸻


 後ろの桃の匂いは、まだ消えていなかった。


⸻


 川沿いの集落。


 白い煙。


 鉄ではない火。


 オキという老人。


⸻


 そして、どこかで先に着いているかもしれないナギ。


⸻


 見るべきものが、また一つ増えた。


⸻


 シンは杖を握り直し、川沿いの白い煙へ向かって歩き出した。


⸻


(第三十六話へ)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。