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揺れる、止まる

第三十四話 揺れる、止まる


⸻


 雪は、四日目の朝に止んだ。


⸻


 止んだ、と気づくまでに少し時間がかかった。


⸻


 雪が降っている間、世界はずっと白い音の中にいた。


 実際には音などない。


 けれど、音が消えることにも、音がある。


⸻


 足音が遠くなる。


 声が低くなる。


 炉の火が近くなる。


 外の木々が、雪の幕の向こうへ沈む。


⸻


 そういう沈黙が、三日続いた。


⸻


 だから、雪が止んだ朝も、すぐには分からなかった。


⸻


 ただ、住居の入り口から差し込む光が、昨日より少しだけ硬かった。


 白いのに、まぶしい。


 雪の上で跳ね返った光が、土の壁を薄く照らしている。


⸻


 シンは目を覚ました。


⸻


 中央の炉には、まだ火が残っている。


 灰の下で赤く息をしていた。


⸻


 タダはもう起きていた。


 入り口の雪を掘っている。


⸻


 ナギはまだ寝ていた。


 なぜか丸くなって、鳥の羽根の外套を体に巻きつけている。


 寝相が悪いくせに、寒さには妙に敏感らしい。


⸻


 アサメは、入り口のそばに立っていた。


⸻


 紅い衣。


 右腕の文様。


 その肩越しに見える外の白。


⸻


 火の赤と、雪の白。


 その間にアサメが立っている。


⸻


「止んだ」


⸻


 アサメが言った。


⸻


「雪?」


「そうだ」


「炉が言った?」


「今度は、空を見れば分かる」


⸻


 シンは少し笑った。


⸻


 足を動かす。


⸻


 痛い。


 でも、昨日よりましだった。


⸻


 矢傷はまだ熱を持っている。


 布の下で、脈に合わせてじんじんと疼く。


 けれど、立てないほどではない。


⸻


 タダがこちらを見た。


⸻


「動くな」


⸻


 言葉が早い。


⸻


「まだ何もしてない」


「顔が動く顔だ」


「顔で分かるの?」


「分かる」


⸻


 タダは雪を掘りながら言った。


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 アサメが少し笑った。


⸻


「歩くなら、杖を持て」


「止めないのか」


「止めても動くだろう」


「分かるんだ」


「顔が動く顔だ」


⸻


(この集落、顔で判断しすぎじゃない?)


⸻


 ナギが寝返りを打った。


⸻


「ん……魚……」


⸻


 寝言だった。


⸻


 タダが少しだけナギを見た。


 何も言わなかった。


⸻


 シンは、壁際に立てかけてあった細い木を借りた。


 杖にする。


⸻


 立ち上がると、足が痛んだ。


 思わず顔をしかめる。


⸻


 タダが見た。


⸻


「やめろ」


「いや、まだいける」


「やめろ」


「外を見るだけ」


「外は寒い」


「知ってる」


「なら、やめろ」


⸻


 正論だった。


⸻


 でも、シンは入り口へ向かった。


⸻


 外を見たかった。


⸻


 雪に閉じ込められた三日間で、体の中にある何かまで白く固まってしまったような気がしていた。


 外へ出て、空気を吸いたかった。


 この時代の山を、雪が止んだ後の山を、見たかった。


⸻


 それに。


⸻


 薄く、甘い匂いがしていた。


⸻


(いる)


⸻


 外に出た。


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 まぶしかった。


⸻


 白い。


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 何もかも白かった。


⸻


 地面。


 屋根。


 木の根元。


 炉の横に積まれた黒い塊。


 枝の上。


 石の上。


 昨日まで枯れ葉と土の色だったものが、全部、白く覆われている。


⸻


 音が少ない。


⸻


 でも、完全な沈黙ではなかった。


⸻


 遠くで、枝から雪が落ちた。


 どさ、と鈍い音がした。


⸻


 誰かが雪を踏む音。


 炉の男が小さく咳をする音。


 タダが雪を退ける音。


 雪の下で水が流れているかすかな音。


⸻


 白い世界は、死んでいるわけではない。


⸻


 ただ、隠している。


⸻


 足元に杖をつく。


 雪が沈む。


 その下の土が硬い。


⸻


 息を吐くと、白いものがさらに白い空気へ混じった。


⸻


 シンは集落の外縁へ向かった。


⸻


 タダが後ろから見ている気配がする。


 アサメも見ている。


⸻


 止めない。


⸻


 けれど、見ている。


⸻


 それが少しありがたかった。


⸻


 集落の端まで行くと、山が見えた。


⸻


 雪を被った山。


⸻


 木々の黒い幹だけが、白の中に立っている。


 枝は細く、空を支えているようだった。


⸻


 朝の光が、斜面を斜めに照らしている。


 日が当たる場所の雪だけが、ほんの少し輝いている。


 日陰は青い。


 白ではなく、青い。


⸻


 美しい、と思った。


⸻


 寒い。


 足は痛い。


 腹も減っている。


 不安はある。


 モモはどこかにいる。


⸻


 それでも、美しいと思った。


⸻


(何かをきれいだと思える間は、まだ大丈夫)


⸻


 そう思った瞬間。


⸻


 桃の匂いが、濃くなった。


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 シンは息を止めた。


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 雪の上に、ひとつ、色があった。


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 白の中に、白い女が立っている。


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 一瞬、見間違いかと思った。


⸻


 雪の白と、衣の白。


 朝の光と、肌の白。


 遠くの青い影と、黒髪。


⸻


 その中で、薄桃色だけが、ありえないほど静かに浮いていた。


⸻


 モモだった。


⸻


 集落から少し離れた木の下に、モモが立っていた。


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 雪の中に佇んでいる。


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 足跡がない。


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 いや、ないように見えた。


 雪の上に立っているのに、雪を乱していない。


 裾にも雪がついていない。


 黒髪にも白いものは乗っていない。


⸻


 まるで、雪がモモだけを避けているみたいだった。


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 あるいは、モモの方がこの世界に少しだけ触れていない。


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 そう思えるほど、静かだった。


⸻


 綺麗だった。


⸻


 怖いほど、綺麗だった。


⸻


 白い雪の中で、モモは白より白かった。


 人の白ではない。


 肌の白でもない。


 布の白でもない。


⸻


 切り出した光のような白。


 音のない水のような白。


 触れたら、指の温度ごと消えてしまいそうな白。


⸻


 その白の中に、桃の飾りだけが小さく色を持っていた。


⸻


 髪の横。


 あの、見慣れた飾り。


⸻


 それを見た瞬間、胸が苦しくなった。


⸻


(モモ)


⸻


 呼びたい。


⸻


 でも、声を出すのが怖かった。


⸻


 声を出したら、あの目がこちらを向く。


 照合する。


 認定する。


 鬼。


 討つ。


⸻


 また、それで終わるかもしれない。


⸻


 けれど、モモはすでにこちらを見ていた。


⸻


 色硝子のような瞳。


⸻


 揺れない目。


⸻


 でも、前より遠くはなかった。


⸻


 シンはそう感じた。


⸻


 昨日までのモモは、遠かった。


 形だけが近く、心のようなものが膜の向こうにあった。


⸻


 今も遠い。


 けれど、完全に同じではない。


⸻


 雪のせいか。


 火のせいか。


 それとも、ただシンがそう思いたいだけか。


⸻


 分からない。


⸻


 分からないが、歩いた。


⸻


「シン」


⸻


 アサメの声が背後から来た。


⸻


 低い。


 止める声だ。


⸻


 タダも動いた気配がある。


⸻


 シンは振り返らずに言った。


⸻


「話すだけ」


「討たれる」


「かもしれない」


「なら戻れ」


「戻っても、来る」


⸻


 それは、事実だった。


⸻


 モモは来る。


 逃げても来る。


 道を外れても来る。


 雪の向こうにも来る。


⸻


 なら、いつか話すしかない。


⸻


 シンは杖をつきながら、ゆっくり進んだ。


⸻


 足が痛む。


 雪に足を取られる。


⸻


 十歩進むだけで、息が乱れた。


⸻


 それでも、モモは動かない。


⸻


 斬りかかってこない。


⸻


 ただ、見ている。


⸻


 それだけで、前と違う。


⸻


(止まってる)


⸻


 モモが、止まっている。


⸻


 シンはそれだけで、喉の奥が熱くなるのを感じた。


⸻


「モモ」


⸻


 声が出た。


⸻


 雪に吸われるような小さな声だった。


⸻


 それでも、届いた。


⸻


 モモの目が、微かに動いた。


⸻


「……対象、照合」


⸻


 冷たい声。


⸻


 けれど、前より遅い。


⸻


 言葉と言葉の間に、わずかな隙間がある。


⸻


 シンはその隙間に、全身でしがみついた。


⸻


「俺だ。シンだ」


⸻


「……照合中」


⸻


 モモは、刀へ手を置いている。


⸻


 だが、抜かない。


⸻


 抜かない。


⸻


 その事実だけで、シンの鼓動が速くなった。


⸻


「前は、すぐ斬った」


⸻


 モモは答えない。


⸻


「今は斬ってない」


⸻


 モモの口が動いた。


⸻


「……鬼」


⸻


 シンの体が硬くなった。


⸻


 だが、刃は来なかった。


⸻


 モモは続けた。


⸻


「鬼、候補」


⸻


「候補?」


⸻


 その一語に、シンは食いついた。


⸻


「前は認定って言った。今は候補なのか」


⸻


「……照合、未完了」


「未完了?」


「対象情報に欠落あり」


⸻


 シンは息を吸った。


⸻


 欠落。


⸻


 モモの中に、欠けているものがある。


⸻


「何が欠けてる」


⸻


 モモはすぐには答えなかった。


⸻


 雪が落ちる。


⸻


 枝の上から、白い塊が滑り、音もなく地面へ崩れた。


⸻


 その間も、モモはシンを見ていた。


⸻


「前回観測記録」


⸻


 シンの胸が、どくんと鳴った。


⸻


「前回って」


⸻


 モモの瞳が、ほんの少しだけ揺れたように見えた。


⸻


「前回接触点」


「どこだ」


「不明」


「いつだ」


「推定、紀元百二十年前後」


⸻


 シンは一瞬、意味が分からなかった。


⸻


 紀元百二十年。


⸻


 前の時代。


⸻


 ユナがいた。


 コトがいた。


 タダがいて。


 フスンがいて。


 火があり、川があり、最後にモモがいた。


⸻


 あの時代。


⸻


「今は」


⸻


 シンが聞いた。


⸻


 声が少し震えた。


⸻


 モモは答えた。


⸻


「推定、紀元三百五十年前後」


⸻


 二百三十年。


⸻


 数字だけが、頭に浮かんだ。


⸻


 二百三十年。


⸻


 人の一生ではない。


 村の一世代でもない。


 何人もの人間が生まれ、老い、死んで、骨になって、土に返る時間。


⸻


 コトは、とっくにいない。


 ユナもいない。


 あの長老も、カガチも、あの集落の子供たちも、誰もいない。


⸻


 タダはいる。


 でも、違うタダだ。


⸻


 二百三十年。


⸻


「推定経過時間」


 モモが言った。


⸻


「二百三十年。標準年換算、推定二百一万六千時間前後」


⸻


 シンは笑いそうになった。


⸻


 笑えなかった。


⸻


 二百一万六千時間。


⸻


 あまりに大きすぎて、逆に現実味がない。


⸻


 でも、モモが言うと、それはただの数字になる。


⸻


 二百三十年も。


 二百一万六千時間も。


 人が生きて死ぬ時間も。


 約束が果たされないまま過ぎていく時間も。


⸻


 モモの声では、ただの差分だった。


⸻


(川のはじまり)


⸻


 コト。


⸻


 ごめん。


⸻


 シンは一瞬、目を閉じた。


⸻


 閉じると、白い雪ではなく、前の火が浮かんだ。


 コトが叫ぶ声。


 ユナの手。


 タダの背中。


 モモの「りょ」。


⸻


 目を開ける。


⸻


 雪の中に、モモがいる。


⸻


 二百三十年を越えて。


 二百一万六千時間を越えて。


⸻


 モモが、そこにいる。


⸻


「モモは、覚えてるのか」


⸻


 モモは沈黙した。


⸻


 雪の白が、モモの頬に反射している。


 その顔は、表情がない。


 けれど、完全に空ではない。


⸻


「記録、欠落」


⸻


 モモは言った。


⸻


「前回接触点の記録、破損。対象シンとの関係性、照合不能」


⸻


「じゃあ、覚えてないのか」


「記録上、存在しない」


「それは、覚えてないってことか」


「定義不能」


⸻


「逃げて、って言ったことも」


⸻


 モモは動かない。


⸻


「りょ、って言ったことも」


⸻


 モモの指が、わずかに動いた。


⸻


 刀の柄の上で。


⸻


「該当記録なし」


⸻


 シンは喉の奥を噛んだ。


⸻


 該当記録なし。


⸻


 それは、モモの答えだ。


 モモにとっては正しいのだろう。


⸻


 だが、シンにとっては違う。


⸻


 あった。


⸻


 確かに、あった。


⸻


 白い雷の中で。


 コトの声で揺れて。


 シンの声で止まって。


 最後に「りょ」と言ったモモがいた。


⸻


 それを、存在しないと言われる。


⸻


 それは、思ったより痛かった。


⸻


「俺は覚えてる」


⸻


 シンは言った。


⸻


「モモが覚えてなくても、俺は覚えてる」


⸻


 モモは黙っている。


⸻


「お前は、俺を逃がした。いや、逃がしてはないか。斬ったんだけど。でも、ずらした。最後まで抵抗した」


⸻


「抵抗」


⸻


 モモが繰り返した。


⸻


「そう。抵抗した」


⸻


「対象シンへの攻撃行動は、命令系統に基づく処理」


「違う」


「違わない」


「違う」


⸻


 シンは一歩近づいた。


⸻


 アサメが背後で動いた。


⸻


 タダも、おそらく動いている。


⸻


 だが、モモはまだ抜かない。


⸻


「命令だけなら、ずらさない」


⸻


 シンは言った。


⸻


「命令だけなら、コトの声で止まらない。俺の声で止まらない。だめ、なんて言わない」


⸻


 モモの瞳が、わずかに揺れた。


⸻


 本当に揺れたのか。


 雪の反射か。


 シンの願望か。


⸻


 それでも、シンは見たと思った。


⸻


「……だめ」


⸻


 小さな声だった。


⸻


 モモの口から漏れた。


⸻


 シンの息が止まった。


⸻


「今、言った」


⸻


 モモは動かない。


⸻


「モモ、今、だめって言った」


⸻


「不明」


⸻


「言った」


「音声出力、確認不能」


「出た。俺は聞いた」


⸻


 モモの手が、柄を握り直した。


⸻


 シンの体が強張る。


⸻


 でも、刃は出ない。


⸻


 モモは、そこで止まっている。


⸻


 揺れているのか。


 迷っているのか。


 ただ処理が重くなっているだけなのか。


⸻


 分からない。


⸻


 だが、止まっている。


⸻


 止まるのは、何かがある。


⸻


 アサメが、いつかそう言いそうな気がした。


⸻


 いや、まだ言われていない。


 でも、この山の人ならそう言う。


⸻


 止まっている。


⸻


 それだけで、今は十分だった。


⸻


「モモ」


⸻


 シンはもう一度呼んだ。


⸻


「俺を斬るな」


⸻


 モモは黙っている。


⸻


「俺は鬼かもしれない。鬼じゃないかもしれない。正直、まだよく分からない。でも、今は斬るな」


⸻


「鬼候補、保留」


⸻


 モモが言った。


⸻


 シンは目を見開いた。


⸻


「保留?」


「対象情報に欠落。照合不能。即時討伐、停止」


⸻


 停止。


⸻


 その言葉が、雪の上に落ちた。


⸻


「停止って……」


⸻


 シンは小さく笑った。


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 笑ったら、少し泣きそうになった。


⸻


「そうか。止まれるのか」


⸻


 モモは答えなかった。


⸻


 ただ、立っている。


⸻


 雪の中で。


 朝の白い光の中で。


⸻


 美しいまま。


 怖いまま。


 遠いまま。


⸻


 でも、斬らないまま。


⸻


 その時、背後からアサメの声がした。


⸻


「シン」


⸻


 低い声だった。


⸻


「戻れ」


⸻


 シンは振り返らなかった。


⸻


「まだ」


「戻れ」


⸻


 今度は、命令だった。


⸻


 シンはモモを見た。


⸻


「また話す」


⸻


 モモは黙っている。


⸻


「今度は、斬らずに話す」


⸻


 モモの口が動いた。


⸻


「……処理中」


⸻


 それは返事なのか。


 拒絶なのか。


 分からない。


⸻


 でも、前よりずっとましだった。


⸻


 シンは杖をついて、少しずつ下がった。


⸻


 背中を向けるのが怖かった。


⸻


 だから、しばらくモモを見たまま下がった。


⸻


 モモは動かない。


⸻


 雪の上に立っている。


 足跡のない白い女。


⸻


 シンが集落の外縁まで戻ると、タダが肩を掴んだ。


⸻


 でかい手だった。


⸻


 強い。


⸻


 でも、乱暴ではなかった。


⸻


「馬鹿か」


 タダが言った。


⸻


「たぶん」


「たぶんではない」


「断定された」


⸻


 タダはシンを支えた。


⸻


 足が痛む。


 無理をした。


⸻


 かなり無理をした。


⸻


 アサメが横に立っていた。


⸻


 紅い衣。


 雪の白。


 炉の煙。


⸻


 アサメはモモを見ていた。


⸻


「止まったな」


⸻


 アサメが言った。


⸻


 シンは息を整えながら頷いた。


⸻


「止まった」


「止まるのは、何かがある」


⸻


 その言葉が、胸に落ちた。


⸻


 やっぱり、言った。


⸻


 この山の人なら、そう言うと思った。


⸻


「何があると思う」


⸻


 シンが聞くと、アサメは少しだけ目を細めた。


⸻


「知らん」


「そこは知らんのか」


「アタシは山ではない」


「山なら分かる?」


「山でも分からないことはある」


⸻


 シンは笑った。


⸻


 足が痛くて、笑うと体に響いた。


⸻


 でも、笑えた。


⸻


 モモはまだ、遠くに立っていた。


⸻


 雪の中。


 白い木々の間。


⸻


 だが、いつの間にか、姿が少し薄くなっているように見えた。


⸻


 雪の白に溶けていく。


⸻


 いや、消えたわけではない。


 そこにいる。


⸻


 でも、こちらへ来ない。


⸻


 討たない。


⸻


 ただ、見ている。


⸻


 シンはそれを見た。


⸻


 二百一万六千時間を越えて、モモはそこにいる。


 記録は欠けている。


 言葉は失われている。


 関係性は照合不能。


⸻


 それでも、モモは止まった。


⸻


 それは、勝利ではない。


 解決でもない。


⸻


 ただの保留だ。


⸻


 でも、今のシンには、それで十分だった。


⸻


 集落へ戻る。


⸻


 炉の熱が、すぐに体を包んだ。


⸻


 足をタダに怒られた。


 薬を飲まされた。


 苦かった。


 ナギには笑われた。


⸻


「すごいね、シン。桃色と喋ったの?」


「喋った」


「斬られなかった?」


「斬られなかった」


「運がいいね」


「運だけではない」


 アサメが言った。


⸻


「じゃあ何?」


 ナギが聞く。


⸻


「知らん」


「知らないのかよ〜」


⸻


 ナギが笑った。


 タダは無言で肉を切っていた。


⸻


 シンは炉のそばに座った。


⸻


 体が震えていることに、そこで気づいた。


⸻


 寒さではない。


⸻


 怖かったのだ。


⸻


 今さら。


⸻


 足の痛みより、雪の冷たさより、モモに斬られなかったことの方が、怖かった。


⸻


 斬られなかった。


⸻


 止まった。


⸻


 保留された。


⸻


 そこに希望がある。


⸻


 希望があるから、怖い。


⸻


 失うものが増えたから。


⸻


 シンは炉を見た。


⸻


 赤い火が揺れている。


⸻


 山の声。


⸻


 アサメはそう言った。


⸻


 火は何も答えない。


 でも、ずっと揺れている。


⸻


 シンは膝の上で手を握った。


⸻


 桃の匂いは、まだ薄く残っていた。


⸻


 雪が溶け始めるには、まだ早い。


 山の外へ出るには、まだ時間がかかる。


⸻


 けれど、何かが少しだけ変わった。


⸻


 モモが止まった。


⸻


 それだけで、冬の時代に、ほんの小さな隙間ができた気がした。


⸻


(第三十五話へ)

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