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雪の中

第三十三話 雪の中



 三日、動けなかった。



 雪は、思ったより多かった。



 朝起きると、入り口が半分埋まっていた。



 タダが黙って掘った。



 シンも手伝おうとした。



 足を見たタダに、目で止められた。



(目で止めるなよぅ)



 おとなしく、中にいた。



 外では、雪が音もなく降っている。



 降る、というより、空から白いものが増えていく感じだった。


 粒は細かい。


 風が吹くたびに横へ流れ、屋根の端や木の根元に、静かに積もっていく。



 雪が積もると、音が減る。



 足音。


 枝の音。


 遠くの炉の音。


 人の声。



 全部が、白いものに吸われる。



 世界が、少しずつ布で包まれていくみたいだった。



 集落の中は、狭い。


 でも、寒くない。



 半地下の住居は、外から見るより中が深かった。


 地面を掘り下げ、その上に木を組み、草と土で屋根を覆っている。


 壁は土だ。


 乾いたところと湿ったところがあり、火の近くは黒く煤けていた。



 中央に炉が一つある。



 この炉は、外の大きな炉とは違う。


 鉄を作るための火ではない。


 飯を煮る火。


 暖を取る火。


 夜を越す火。



 前の時代の火に、少し近い。



 ただ、ここでは火が地面の下にある。


 床を少し掘り下げて、石を組んである。


 灰が厚く敷かれ、その奥に赤いものが残っている。



 火は消えているようで、消えていない。



 灰の下で、ずっと息をしている。



 こういう作りは、考えた人間がいる。



 偶然じゃない。



 寒い冬に、どうやって熱を逃がさないか。


 雪の日に、どうやって煙を出すか。


 眠っている間に、どうやって火を残すか。



 全部、誰かが考えた。


 何度も失敗して。


 寒い思いをして。


 煙にむせて。


 たぶん誰かが風邪をひいて。


 それで少しずつ、こうなった。



(生活って、すごいな)



 シンは土の壁を見た。



 壁際には、干した草が吊るされている。


 束ねた根。


 乾いた葉。


 細く裂いた肉。


 小さな魚。


 骨で作った道具。


 木の椀。


 石の刃。


 鉄の刃。



 全部が、そこにある理由を持っていた。



 役に立つものしか、ここには置かれない。


 無駄なものを置く場所がない。



 それなのに、殺風景ではなかった。



 土の匂い。


 煙の匂い。


 干し肉の匂い。


 草の苦い匂い。


 人の体温。



 それらが混ざって、家の匂いになっていた。



 シンの家ではない。



 でも、誰かの家だ。



 そう思った。



 アサメが戻ってきた。



 外を見ていたらしい。


 肩に雪が積もっていた。


 紅い衣の上で、白い雪が溶けずに残っている。


 髪にも少し雪がついていた。



 アサメはそれを払わず、炉の前に立った。



「まだ降る」


「どのくらい続く?」


「二日か。三日か」


「分かるのか」


「炉が言っている」



 シンは炉を見た。



 今日の炉は、昨日より静かだった。


 音が低い。


 色が少し暗い。


 煙が天井の穴へ上がる途中で、わずかに重たくよれている。



 シンには、それが何を意味するのか分からない。



 ただ、アサメは分かっているようだった。



「……炉が言っているのか、アサメが読んでいるのか」



 アサメは少し間を置いた。


 肩の雪を払う。


 白い粒が、土の床に落ちてすぐ消えた。



「同じことだ」


「同じ?」


「炉が変わる。それをアタシが見る。山が変わる。それを炉が出す。どちらが先か、関係ない」



 シンは少し考えた。



(なるほど)


(分かるような、分からないような)



 理屈としては分からない。


 でも、感覚としては少し分かる。



 火だけを見ているわけではない。


 火の向こうにあるものを見ている。


 湿り気。


 空気の重さ。


 雪の近さ。


 山の息。



 そういうものを全部まとめて、アサメは炉と言っている。



 たぶん、そういうことだ。



 たぶん。



 タダが肉を持ってきた。



 今日は焼いた肉だ。


 昨日の燻製とは違う。


 脂が落ちている。


 香ばしい。



 肉の表面は少し焦げていて、中は柔らかそうだった。


 湯気が立っている。


 雪の日の家の中で見る焼き肉は、反則だった。



(タダはどんな状況でもうまく焼くな)



「タダ、どこで焼いたの」


「外の小さい炉」


「雪の中か」


「問題ない」


「タダが問題ないなら問題ないね!」


「そうだ」



 タダは真面目に頷いた。



 肉を木の板に置く。


 小さな刃で切る。


 シンの分を、少し大きめにしてくれた。



「多くない?」


「怪我をしている」


「怪我すると肉が増えるのか」


「増える」


「その制度、悪くないな」


「怪我はするな」


「はい」



 シンは肉を食べた。



 うまかった。



 寒さで縮んでいた体が、肉の脂で少し戻る。


 噛むたびに、煙と塩と獣の味がした。



 三人で食べた。



 特に会話はなかった。



 タダは黙って食べる。


 アサメも黙って食べる。


 シンだけが、たまに熱いだのうまいだの言いそうになる。



 でも、沈黙が嫌じゃなかった。



 前の時代のタダと火を見ていた夜に、少し似ていた。



 違う。


 でも、似ている。



 この時代に来てから、その感覚ばかりだった。



 二日目の昼、人が来た。



 最初に来たのは、声だった。



「アサメー!」



 雪の向こうから、やけに軽い声が飛んできた。



 集落の犬が吠えた。


 炉の男が顔を上げた。


 アサメは眉を動かしただけだった。



 少しして、入口から頭が覗いた。



 若い男だ。



 背が低い。若い。


 でも、子供ではない。


 身が軽そうだ。


 鳥の羽根を使った外套を着ている。



 顔に雪がついている。


 髪にもついている。


 肩にも積もっている。



 なのに、笑っている。



「アサメ! 生きてたか!」


「当たり前だ」


「雪多かったろ。心配したよ」


「心配するな。お前こそ、なんでここまで来た」


「海の方から荷があってさ。途中で雪になって、ここで止まった」


「無理に動くなと言ったはずだ」


「動いてない動いてない。でも泊まりたい!」


「屁理屈だ」


「理屈は理屈だよ」



 男は笑いながら中へ入ってきた。



 寒い空気が一緒に入った。


 雪の匂いと、外の湿った木の匂い。


 それから、別の匂い。



 塩の匂いだった。



(海だ)



 シンは思った。



 まだ海は見えていない。


 ここは山だ。


 雪に囲まれた炉の集落だ。



 それなのに、その男が入ってきた瞬間、海の気配が少しだけ混じった。



 塩。


 干した魚。


 濡れた縄。


 風にさらされた布。



 山の匂いとは違う。



 男は背負い袋を下ろした。


 重そうだ。



 中から、干した魚が出てきた。


 それから、布に包まれた何かも出てきた。



 開けると、白い粒があった。



 塩だった。



(塩だ)



 当たり前のように思った。


 でも、すぐに考え直した。



 山では、塩は当たり前じゃない。


 海から来る。


 人が運ぶ。


 道がいる。


 交易がいる。



 この小さな白い粒が、山と海をつないでいる。



 そう考えると、塩が急に大事なものに見えた。



「俺、ナギ。お前は?」



 男がシンに気づいた。


 座ったまま、にこにこと笑っている。



「シン」


「シン。どこから来た?」


「遠くから」


「どのくらい遠い?」


「かなり遠い」


「ヤマトか?」


「違う」


「山の人か?」


「……分からない」



 ナギは少し首を傾けた。


 不思議そうにした。


 でも、追及しなかった。



「まあいいや。飯食った?」


「食った」


「じゃあ自分の分だけ食べよ。アサメ、火借りる」


「借りるな、使え」


「は~い」



(軽いヤツだ〜)



 前の時代のコトを少し思い出した。



 全力で走るコトとは違う。


 子供でもない。


 でも、軽い感じが似ている。



 こちらが軽くなる軽さだ。



 ナギが魚を焼き始めた。



 タダと並んで、炉の前に座っている。


 タダは無言。


 ナギは喋り続けている。


 タダは頷くだけ。


 ナギは気にしていない。



(タダにとって、それが普通らしい)



 魚が焼ける匂いがした。



 肉とは違う。


 脂の匂いが軽い。


 塩気が先に来る。


 皮が炙られて、ぱちぱちと音を立てる。



 山の炉の中に、海が少しだけ入ってきた。



 シンはそれを不思議な気持ちで見ていた。



 この集落は山の中にある。


 雪に閉じ込められている。


 外と切れている。



 それでも、完全に閉じているわけじゃない。



 海から魚が来る。


 塩が来る。


 ナギみたいな人間が来る。



 山と海は、どこかでつながっている。



 しばらくして。



 ナギがシンの横に来て座った。



「足、怪我してるの?」


「矢が当たってのぅ」


「矢! 誰に?」


「アサメに」


「アサメ! お前また!」


「見知らぬ者に近づかれたら当然だ」


「もう少し加減しろよ〜」


「生きている」


「そういう話じゃないよ〜」



 アサメは返事をしなかった。


 炉を見ていた。



 ナギは慣れているのか、それ以上文句を言わなかった。



「シンって、何しにここへ来たの?」


「……探してる」


「何を?」



 シンは少し考えた。



 何を探しているのか。



 モモ。


 鬼という言葉の意味。


 この時代のこと。


 自分がここへ来た理由。


 戻る方法。


 死なない方法。


 あるいは、また誰かを失わない方法。



 多すぎる。



 ひとつだけ選ぶなら。



「白い女を知っているか」


「白い?」


「桃色、とアサメは言った」


「ああ!」



 ナギの顔が変わった。



 笑いが消えた。



 軽かった空気が、少しだけ固くなる。



「あれ、知ってる。海の方でも、たまに話が来る」


「話?」


「見たって話。山で。川沿いで。道の近くで。白い女が出たって」


「何者か、知っているか」


「ヤマトの鬼討ち、って聞いてる。怖いよ。速いし、止まらないし」


「お前は、見たことがあるか」



 ナギは少し黙った。



 魚の皮が、炉の上でぱち、と鳴った。



「一回だけ。遠くで」



 いつもの軽い声ではなかった。



 ナギは炉を見た。


 魚ではなく、火の奥を見ているようだった。



「鬼と呼ばれてた男が、あっという間に……」



 ナギは言葉を止めた。



 それ以上言わなかった。


 言わなくても、分かった。



 シンは首筋が冷たくなるのを感じた。



 自分も、あっという間だった。


 話す暇もなく、刃が来た。



「あの人、鬼だったのかな」


 ナギが言った。



「どんな人だった」


「普通の人だったよ。山の人。海の交易とも付き合いがあった。塩も欲しがったし、魚も食べた。笑うし、怒るし、荷を運ぶと腰を痛めるし」


「普通だな」


「うん。普通だった。ヤマトに従わなかっただけで」



(従わなかっただけで)



 シンはその言葉を頭の中で繰り返した。



 従わなかっただけ。



 それで鬼になる。



 赤い肌でもない。


 角もない。


 牙もない。


 棍棒も、虎柄のパンツも、たぶんない。



 普通の人。



 ただ、従わなかった人。



「従わないと、鬼になるのか」


「ヤマトがそう言えば、そうなる。たぶん」


「誰が決めるんだ、鬼かどうかを」


「……ヤマトが決める?」



 ナギが、当然のことのように言った。



 疑問形なのに、妙に当然だった。



 シンはアサメを見た。



 アサメは炉から目を離さずに言った。



「山は、鬼を決めない」



 静かな声だった。



「山は?」


「山は、人と鬼を分けない。ただ、いる」


「ただ、いる」


「木がある。獣がいる。川が流れる。人が住む。死ねば土に返る。それだけだ」


「ヤマトは分ける」


「必要だからだ」


「なんで必要なんだ」



 アサメは少し間を置いた。



 炉の火が揺れた。


 煙が細く上がる。



「鬼がいないと、国が作れない」



 シンは、すぐに反応できなかった。



 言葉が重かった。



 鬼がいないと、国が作れない。



 それは、理屈としては分からない。


 でも、どこかで引っかかる。



 前の時代のタケヒコを思い出した。


 増えた人間。


 畑。


 水。


 飢え。


 数えること。


 従わせること。



 あの男は、悪人というより、仕組みの人間だった。



 止まれば飢えると言った。


 人が増えれば、動くしかないと言った。


 火も種も人も数えようとした。



 あの時も、シンは全部を否定できなかった。


 間違っていないものが混じっていたからだ。



 でも、今。



 その延長線上に、鬼という言葉があるのかもしれない。



 まだ分からない。



 ただ、少しだけ、嫌な形が見えてきた。



「……国を作るのに、鬼が必要か」


「外と内を分けるために、境界が要る」


 アサメは言った。



「境界の向こうに、鬼を置く」



 境界。



 その言葉で、ミチヌシを思い出した。



 道。


 境。


 こちらとあちら。


 進むことと、戻ること。



 境界は、悪いものではない。


 必要なものでもある。



 でも、その向こうへ鬼を置く。



 そう言われると、急に冷える。



「鬼は、道具なのか」


「道具、と言うより」



 アサメは炉を見た。


 炎が揺れていた。



「証だ」


「証?」


「アタシたちがここにいることの証。ヤマトがあることの証。鬼がいるから、ヤマトが正しくなる」



 シンはしばらく黙った。



(鬼がいるから、ヤマトが正しくなる)



 まだ完全には分からない。



 でも、怖い言葉だと思った。



 人が先にいる。


 暮らしが先にある。


 火があり、山があり、川があり、塩があり、魚がある。



 そこへ、あとから名前が来る。



 鬼。



 その名前が貼られると、普通の人が、討たれるものになる。



 アサメは、それを当たり前のように言った。


 怒っているわけではない。


 嘆いているわけでもない。



 見たものを言っている。



 その方が、余計に重かった。



「アサメは、どう思う」


「何が」


「鬼と呼ばれることを」



 アサメはシンを見た。



 静かな目だ。



「山は動かない。アタシは動かない」


「動かないことが、答えか」


「山に聞け。山は、鬼と呼ばれても動かない」



 ナギが口を挟んだ。



「アサメは昔からこう。格好いいけど、答えになってない」


「なっている」


「なってないよ〜」


「なっている」


「はいはい〜」



(なんか、ほっとする会話だ)



 シンは少し笑った。



 重い話の後に、ナギの軽さが来る。


 アサメの硬さに、ナギの柔らかさがぶつかる。


 タダは黙って魚を食べている。



 妙な組み合わせだった。



 でも、嫌じゃない。



 ナギが笑った。


 タダは黙って魚を食べていた。


 アサメは炉を見ていた。



 外では雪が続いている。



 山は白く閉じている。


 海の匂いを持った男が、炉のそばで魚を焼いている。


 赤い女が、山の声を聞いている。


 大きな男が、黙って食っている。



 そこにシンがいる。



 どこにも属していないと言われたシンが。



 そのことが、少しだけ不思議だった。



 夜になった。



 雪は続いた。



 炉の火は揺れていた。



 ナギはいつの間にか、タダの隣で寝ていた。


 軽い男は、寝るのも早い。


 しかも寝相が悪い。



 タダは動かない。


 ナギは動く。


 対照的すぎて少し笑えた。



 アサメはまだ起きていた。


 炉の前に座り、火を見ている。



 外の雪明かりが、入口の隙間からわずかに入っていた。


 火の赤と、雪の白。


 その間に、アサメの紅い衣があった。



 シンは横になった。



 足が痛い。


 けれど、朝よりは少しましだった。



 眠ろうとした。



 その時、甘い匂いが、薄く漂ってきた。



(モモ)



 今日は昨日より少しだけ濃い。



 近づいているのか。


 それとも、雪が匂いを止めていて、今日は届きやすいのか。


 分からない。



 でも、いる。



 確かに、いる。



 この山の外。


 雪の向こう。


 火の明かりが届かない場所。



 白い女が、どこかにいる。



 鬼を討つものとして。


 ヤマトが使うものとして。


 あるいは、モモの形をした何かとして。



(モモ)



 シンは目を閉じた。



 あの冷たい目を思い出す。


 照合する目。


 認定する目。


 討つ目。



 でも、それだけじゃない。



 違うモモも覚えている。


 揺れたモモ。


 だめ、と言ったモモ。


 逃げて、と言ったモモ。


 りょ、と言ったモモ。



(揺れるモモを、取り戻したい)



 まだ、その問いは変わらない。



 炉の火が、静かに燃えていた。



 山の声だと、アサメは言った。



 なら、この火にも聞こえるだろうか。



 モモはどこにいる。


 鬼とは何だ。


 ヤマトとは何だ。


 自分はなぜ、ここに来た。



 問いばかりだった。



 答えはない。



 でも、問いがある間は、進める。



 雪が降っていた。


 炉が燃えていた。


 タダが眠り、ナギが寝返りを打ち、アサメが火を見ていた。



 シンはその音の中で、ゆっくりと眠りに落ちた。



(第三十四話へ)

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