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鬼ごっこ

第三十一話 鬼ごっこ



 二回目の朝も、冷たかった。



 同じ森。


 同じ裸枝。


 同じ薄い空。



 吐いた息が白い。



 白い息はすぐに崩れて、冬の空気へ混ざって消えた。



(戻った)



 シンは体を起こした。



 頭が重い。


 足元がふらつく。


 腹が減っている。



 いつも通りだ。



 ただ、いつもと違うことが一つある。



(余裕がない……)



 前回、モモは早かった。



 話す間もなかった。


 「鬼」と言って、刃が来た。



 前の時代のモモとは、全然違う。



 あのモモは、止まった。


 揺れた。


 言葉を聞いた。


 ほんの少しでも、シンを見る時間があった。



 だが、今のモモには、それがなかった。



 照合。


 認定。


 鬼。


 討つ。



 それで終わりだった。



(速すぎる)



 シンは首筋に手を当てた。


 傷はない。


 だが、斬られた感触だけが残っている。



 冷たい線。


 傾く空。


 遠い桃の匂い。



 思い出しただけで、体が縮む。



(また同じことしたら、また死ぬ)



 立ち上がった。



 足元の土が硬い。


 踏み固められた道だ。


 轍の跡が、冬の光の中で黒く沈んで見える。



 昨日と同じように煙が見えた。


 黒い煙。


 太く、重く、低く流れている。



 たぶん人がいる。


 火がある。


 何かを作っている。


 金属の音も、そこから来ている。



 本当なら、まっすぐそこへ向かいたい。


 人のいる場所へ行きたい。


 飯があるかもしれない。


 話が聞けるかもしれない。


 この時代のことも、鬼という言葉の意味も、少しは分かるかもしれない。



 でも。



 昨日、まっすぐ行こうとして、モモが来た。



 なら今回は、先に動く。


 先に変える。



 先に行動すれば、何かが変わるかもしれない。



(煙には行く。でも、昨日と同じ道は使わない)



 シンは歩き出した。



 最初だけ、昨日と同じ方向へ向かう。


 踏み固められた道を数歩進む。


 金属音のする方へ、黒煙の上がる方へ。



 けれどすぐに、道を外れた。



 森の中へ入る。



 枝が顔に触れる。


 枯れた葉が足元で砕ける。


 土は道より柔らかいが、そのぶん歩きにくい。


 木の根が地面から浮き、雪の残りがところどころ白く光っている。



 遠回りだ。



 でも、煙には近づける。



 人の作った道ではなく、木と木の間を抜ける。


 獣の通った跡らしい細い隙間を使う。


 枝を押し分け、斜面を避け、足を滑らせないように進む。



(よし)



 これなら、昨日と違う。



 そう思った瞬間。



 甘い匂いがした。



(もう来た)



 背中が冷えた。



 振り返らなかった。



 見たら、止まる。


 止まったら、終わる。



 走った。



 木の間を抜ける。


 枝が顔に当たる。


 痛い。


 頬が切れた気がする。


 でも、止まらない。



 足元の枯れ葉が滑る。


 細い枝を踏む。


 ぱき、と折れる音が大きく響く。



 自分の足音がうるさい。


 息もうるさい。


 心臓もうるさい。



 なのに、後ろからは何も聞こえない。



 足音がない。


 枝を折る音がない。


 葉を踏む音もない。



 ただ、桃の匂いだけが濃くなる。



「……対象、捕捉」



 モモの声が聞こえた。



 近い。



 追っている。



(速い)



 前の時代のモモは、待つことが多かった。


 来るのを待って、止めて、殺した。


 あるいは、ただ見ていた。


 距離を取って、シンの選択を観測していた。



 でも今のモモは、来る。



 追ってくる。



 迷いがない。



「待て、話せば分かる!」



 走りながら叫んだ。



 返事はない。



「いや分からない可能性もあるけど! 話さないと分かるものも分からないだろ!」



 やはり返事はない。



 代わりに、匂いが近くなる。



 甘い。


 冷たい。


 遠いのに近い。



 最悪の鬼ごっこだった。



 鬼と呼ばれたのはシンの方なのに、追ってくるのはモモだ。


 しかも、捕まったら「はい終わり」ではない。


 斬られる。


 普通に死ぬ。



(鬼ごっこって、もっと楽しくやるもんだろ!)



 息が切れる。


 足がもつれそうになる。



 モモは息を切らしていない。


 そもそも、息をしているのかも分からない。



 木の幹を避ける。


 左へ。


 右へ。


 低い枝をくぐる。



 その時、足が何かに引っかかった。



 木の根だ。



(あ)



 体が前へ投げ出された。


 手をついた。


 土が硬い。


 掌が痛い。



 立ち上がろうとした。



 振り返る。



 モモがいた。



 すぐそこにいた。



 距離が、消えていた。



 薄桃色の衣が、冬の森の中で静かに揺れている。


 黒髪が、枝の影を吸っている。


 顔は変わらない。


 声も出ない。


 目だけが、シンを見ている。



 綺麗だった。



 怖かった。



 その二つが、同時に来た。



「モモ」



 シンは言った。



「俺だ」



 モモの手が、刀へかかる。



「……討つ」



(あ、また)



 刃が来た。



 ――死んだ。




 三回目の朝。



 同じ森。


 同じ空。


 同じ寒さ。



 白い息が、また口から漏れた。



(こりゃキツイな)



 シンは少し天を向いた。



 裸の枝が、薄い空を切り分けている。


 枝と枝の間に、冬の白い光が挟まっている。



 それが、さっき倒れた時に見た空と重なった。



 死ぬ直前の空。


 首を斬られた時の空。


 転んだ後に見上げた空。



 全部、同じだった。



(どうすれば、話せる)



 前の時代のモモは、話せた。


 何度も話した。


 揺れた。


 近づくな、と言った。


 逃げて、と言った。


 りょ、と言った。



 でも今回のモモは、話す前に来る。


 目を見る前に来る。


 「鬼」と認定したら、それで終わりだ。



(何か、変えないと)



 考えながら、立ち上がった。



 煙へ向かう道。


 森の中を抜ける道。



 どちらも駄目だった。



 なら、今度は逆へ行く。



 三回目は、煙から離れる方向へ歩いた。



 人がいる場所じゃなく、誰もいない場所へ。



 人に会うためではない。


 モモに追いつかれないためでもない。


 ただ、昨日と今日と違うことをするためだ。



 少しでも条件を変える。


 少しでも違うものを見る。



 そこからしか、何も始まらない。



 静かだった。



 金属の音も遠い。


 鳥も少ない。


 枝の先に残った雪が、風に揺れて落ちる。


 白い粉が、ぱらぱらと空気に散った。



 雪が少し残っている場所があった。



 日陰だ。


 木の根元に、薄く白いものが残っている。



(雪か)



 冷たそうだ。


 でも、きれいだった。



 前の時代には、雪がなかった。


 少なくとも、シンは見なかった。



 ここは、北か。


 あるいは、季節が違うか。


 時代が変わったことで、場所も大きく変わっているのか。



 分からない。



 でも、白い。



 雪の上に落ちた枯れ葉は、やけに黒く見えた。


 白と黒。


 冷たいものと、乾いたもの。



 シンは少しだけ歩調を緩めた。



 寒い。


 腹は減っている。


 モモはどこかにいる。



 それでも、雪はきれいだった。



 何かをきれいだと思える間は、まだ大丈夫な気がした。



 少し歩いたところで。



 人の気配がした。



 シンは止まった。



 前からだ。



 木の陰に、誰かいる。


 一人じゃない。


 複数だ。



 息を殺している。


 でも、いる。



(南か)


(西か)



 いや、この時代では、その呼び方で合っているのかも分からない。



 前の時代の感覚で考えても、この時代は違う。


 道がある。


 鉄がある。


 車輪がある。


 黒い煙がある。



 人の分かれ方も、たぶん違う。



 シンは両手を上げた。



 武器がない、という意思表示だ。



 前の時代で覚えた。


 これだけは、どの時代でも通じる気がする。



 木の陰から、矢が飛んできた。



(通じなかった!)



 危ない。



 ギリギリ避けた。


 矢が頬の横を抜けて、後ろの木に刺さる。



 かん、と硬い音がした。



 木に刺さった音なのに、妙に鋭かった。


 矢尻に、金属が使われているのかもしれない。



 二本目が来た。



 避けきれなかった。



 足に当たった。



「っ……!」



 痛い。



 かなり痛い。



 思わず声が出そうになった。


 出なかった。


 膝をついた。



 足から血が出ている。


 死ぬほどじゃない。


 でも、動けない。



(モモじゃなくても死にそうなんだけど)



 痛みで目が潤む。


 息が詰まる。


 寒さのせいで、痛みがやけに鋭い。



 木の陰から、人が出てきた。



 女だった。



 背が高い。


 体が大きい。


 武装している。



 紅い衣。


 革と骨と金属が混ざった装備。


 厚い革を重ね、その上から金属の小さな板を留めている。


 肩や腕には骨の飾りのようなものも見えた。


 飾りなのか、防具なのか、シンには分からない。



 手に槍を持っている。



 刺青があった。



 頬から首筋へかけて、紅い線が走っている。


 ただの模様ではない。


 火の痕にも、獣の爪痕にも見える。



 紅い女だった。



(でも、綺麗だなぁ……)



 美しい女性だった。



 ただし、綺麗と言って近づいたら即座に刺されそうな美しさだった。



 雪の残る森の中で、彼女だけが赤く見えた。


 刺青の赤。


 頬の血色。


 槍を握る手の強さ。



 後ろに二人ついてきた。


 どちらも武装している。


 でも、女の方が圧がある。



「何者だ」



 声が低かった。


 でも、通る声だ。



 冷たい空気の中でも、まっすぐ耳に届く。



「……シン、といいます」


「どこから来た」


「遠くから」


「ヤマトか」


「いえ」


「鬼か」



 シンは少し考えた。



 また鬼だ。



 モモにも言われた。


 この女にも言われた。



 ひょっとして、この時代の人間は、初対面で鬼かどうか確認する文化なのか。



 そんな文化、嫌すぎる。



「……分からない」



 女は目を細めた。



「分からない?」


「俺も、よく分からない」


「なんだそれは」


「害はないです!」


「害はない、だと」



 女は少し間を置いた。



 それから、ちょっと笑った。


 小さく、でも確かに笑った。



「……面白いことを言う」


「笑ってもらえて良かった」


「笑ってない」


「え〜?」


「笑ってない」



(この人、なんかタダっぽい喋り方だ)



 女は槍を下げた。



 完全に下ろしたわけじゃない。


 でも、構えは解いた。



「名前を聞いても?」


「アサメだ」


「アサメ、さん」


「さんはいらん」


「アサメ」


「それでいい」



 アサメはシンの足を見た。



 矢が刺さった場所から血が流れている。


 雪の残った地面に、赤が落ちた。



「動けるか」


「たぶん」


「たぶんか」


「……かなり、たぶん」



 アサメは後ろの二人に何かを言った。



 一人が前に出て、シンの足を確認した。


 手際がいい。


 矢を見て、傷を見て、すぐに布を取り出した。



 布を巻く。


 強く締める。



「いっ……!」



「動くな」


「はい……」



 止血だ。



 痛いが、血は少しずつ止まった。



「ここは危ない」


 アサメが言った。



「どこが」


「桃色が来る」



(桃色……)



 モモのことだ。



 あまりに雑な呼び方だが、間違ってはいない。



「桃色の女か」


「知っているのか」


「少し……」


「あれは、鬼を討つ」


「俺も斬られた」



 アサメの目が、少しだけ鋭くなった。



「それで、死ななかったのか」



 シンは一瞬、息を止めた。



 そこを突かれるとは思わなかった。



「……斬られそうになった、の間違い」



 咄嗟に言い直した。



 アサメは黙ってシンを見る。



 疑っている。


 かなり疑っている。



 でも、今は追及しなかった。



「だろうな」


「なんで分かる」


「鬼には見えないのに、あれに追われていた。おかしい」



 アサメはシンを見た。



 値踏みしている。


 でも、排除しようとしていない。


 測っている。



 その目は、モモとは違った。



 モモの目は照合していた。


 この女の目は、見ている。



 人間を見ている。



「来い」


「どこへ」


「安全な場所がある」


「良いのか」


「……面白いから」


「それだけ?」


「それだけだ」



(それだけか)



 シンは少し考えた。



 断る理由がなかった。



 足は痛い。


 モモは来る。


 一人でいるより、人のいる場所の方がいい。



 それに、この女はシンをすぐには殺さなかった。



 矢は撃ったが。



 いや、そこはまあ、痛いけど。



「たすかる」


「動けるか」


「たぶん」


「また、たぶんか」


「口癖で……」



 アサメは短く笑った。



 今度はちゃんと聞こえた。


 後ろの二人が、シンを両側から支えた。



 歩き始めた。



 足が痛い。


 雪が残る土を踏む。


 冷たい。



 痛みと冷たさが混ざって、足先の感覚がよく分からなくなる。



 それでも歩くしかない。



 木々の間を抜ける。


 アサメたちは、明らかに道を知っていた。


 道が見えない場所でも迷わない。


 木の根を避け、雪の深いところを避け、音を立てずに進む。



 山の中に溶け込んでいる。



 そういう歩き方だった。



 少し行ったところで。



「シン」



 アサメが言った。



「はい」


「奴は、なぜお前を狙う」


「……鬼、と呼ばれた」


「鬼か」


「俺もそう言われた時は驚いた」


「自分が鬼だと思うか」



 シンは少し考えた。



 自分の手を見る。


 普通の手だ。


 寒さで少し赤くなっている。


 血と土で汚れている。



 角はない。


 牙もない。



 少なくとも、今ここで見える範囲では。



「……分からない」


「また分からないか」


「俺の口癖、まだある」



 アサメが、また笑った。


 今度は声に出た。



 後ろの二人も、少し笑った。



(この人たち)


(悪くないな)



 そう思った。



 痛みで足はずきずきする。


 桃色はどこかにいる。


 鬼の意味は分からない。


 この時代のことも何も分からない。



 でも、今、笑い声があった。



 それだけで、少し呼吸が楽になった。



 さらに歩いたところで。



 でかい男が、木の間から出てきた。



 本当にでかい。



 背が高い。


 肩が厚い。


 腕も太い。



 手に肉のかたまりを持っていた。


 燻製だ。


 煙の匂いがする。



(でか〜)



 そう思った次の瞬間。



(ん!?)



 男がシンを見た。



 目が合う。



 その目。


 その顔。


 その体の大きさ。


 その、無駄に動じない感じ。



 シンの中で、何かが跳ねた。



「こいつ、連れてきた」


 アサメが言った。



 でかい男が、シンを見たまま言った。



「……変な顔」



(え、面倒な顔って言わなかった!!)


(でも似てる!!!)


(タダか!? タダなの!?)



 心臓が、別の意味でうるさくなった。



 この時代にも。


 また。



「名前は」



 シンは聞いた。



「タダ」



「やっぱり!!!!」



 思わず声が出た。



 タダは眉を少しだけ動かした。



「む?」


「あ、いや、なんでもないです」


「……変なヤツ」



(変なヤツって言った!!!!!!)


(違う言い方だけどタダだ!!!!!)



 泣きそうになった。



 いや、泣いてはいない。


 たぶん泣いていない。


 寒さで目が潤んだだけだ。



 でも、胸が少し痛かった。



 このタダは、シンを知らない。


 火の前で肉を焼いたタダではない。


 北へ走れと叫んだタダではない。


 シンのために背を向けたタダではない。



 それでも、タダだった。



 同じ名前で。


 同じ大きさで。


 同じように、そこにいた。



「タダ、こいつの足を診てくれ」


 アサメが言った。



 タダは頷いた。



 それから、燻製の肉を一切れ、シンに渡した。



「食え」



(ッッ!!)



 受け取った。



 かぶりついた。



 うまかった。



 燻製の香りが、鼻に抜けた。


 塩気がある。


 噛むほどに、肉の味が出る。



 前の時代のタダの焼き方と、少し似ていた。


 違うのに、似ていた。



(うまい)



 泣きそうになった。



(この人も、うまい)


(なんなんだろ、本当に)



 シンは肉を食べながら、空を見た。



 薄い空だ。


 寒い。


 でも、今は少し、悪くない。



 タダが膝をつき、シンの足を見た。


 巻かれた布を外す。


 矢傷を確認する。


 表情は変わらない。



 ただ、手つきは丁寧だった。



 無言で、布を巻き直す。


 強すぎず、弱すぎず。


 痛いが、耐えられる痛みだ。



「歩けるか」


「たぶん」


「たぶんか」


「今日はみんなそこに引っかかるなぁ」



 タダは答えなかった。



 代わりに、もう一切れ肉を渡してきた。



「食え」


「ありがとう」


「食えば歩ける」



 理屈が強い。



 でも、たぶん正しい。



 シンは肉を食べた。



 遠くで、甘い匂いがした。



 薄い。


 でも、ある。



(モモ)



 まだ来ていない。


 でも、どこかにいる。



 あの冷たい目で。


 鬼と呼んで。


 シンを討とうとしている。



 それでも。



(モモとまた、話したい)



 その希望は、まだ変わっていない。



 変えるつもりもない。



 シンは肉を飲み込んだ。


 燻製の匂いが、寒い森の中で少しだけ残る。



 アサメが先に歩き出した。


 タダがシンの横につく。



 支えられながら、一歩踏み出す。



 足は痛い。


 でも、歩ける。



 木々の奥に、黒い煙がまだ見えていた。


 その煙の向こうに、人の暮らす場所がある。



 炉の匂い。


 鉄の音。


 知らない山。


 知らない人たち。



 そして、桃色の鬼討ち。



 シンは白い息を吐いた。



 その息はすぐに消えたが、今度は少しだけ、肉の匂いが混じっていた。



(第三十二話へ)

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