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冬の時代

第三十話 冬の時代



 息が入った。



 冷たかった。



 肺の奥を、薄い刃で擦られたような冷たさだった。



(また――)



 思いかけて、止まった。



 違う。



 これは、いつもの朝ではない。


 いつもの火の匂いではない。


 いつもの水の音でもない。



 寒い。



 それが、最初に分かったことだった。



 シンは目を開けた。



 空があった。



 薄い空だった。


 前の時代の空じゃない。


 前々の時代の空でもない。



 色が薄い。


 光が硬い。


 空気が乾いている。



 空そのものが、どこか削られた石のように見えた。


 青いのに、温かくない。


 高いのに、広がっていない。


 ただ、冷たく上にある。



 木々の枝は細く、葉が少ない。


 残った葉も茶色く縮れ、風が触れるたびに、乾いた音を立てた。



 からから。


 かさかさ。



 水気のない音だった。



 どこかで水の音がした気がして、シンは一瞬だけ耳を澄ませた。



 川のはじまり。



 その言葉が、胸の奥でかすかに揺れた。



 コトの声。


 ユナの手。


 タダの背中。


 火種を抱えた長老。


 フスンの鼻音。


 ウロオボエ様の困った顔。



 それから、最後に伸びてきた手。



 モモの手。



 掴めなかった手。



 それらが、冷たい空気に触れた途端、全部、遠くへ押し流されていくようだった。



(飛んだ)



 体を起こした。



 頭の重さ。


 足元のふらつき。


 胃の奥が空っぽになる感じ。



 それだけは、同じだった。



 死んだ後の朝。


 別の場所で、別の体温で、また始まる朝。



 でも、他が違う。



 地面が冷たい。


 草が少ない。


 風が痛い。



 土は湿っているのではなく、硬かった。


 凍りきってはいない。


 けれど、踏むと足裏に固い抵抗が返ってくる。



 柔らかい草の感触がない。


 前の時代のような、湿った土と草と火の混じった匂いもない。



 代わりに、枯れた葉と、凍えた木と、遠くの煙の匂いがした。



 吐いた息が、白かった。



 白い息は、口を離れるとすぐに崩れて、薄い空へ消えた。



(冬か)



 それとも、北か。


 あるいは、その両方か。



 シンは膝をついたまま、しばらく動けなかった。



 胸に手を当てる。



 傷はない。


 モモに斬られたはずの場所は、何もなかった。


 血もない。


 裂け目もない。


 痛みもない。



 それなのに、刃の感触だけが残っていた。



 胸の奥で、白い線が走る。


 熱いのか冷たいのか分からない痛み。


 体がほどけていく感覚。


 自分の手が薄くなっていく恐怖。



 そして。



「りょ。」



 最後に、確かに聞いた。



 モモは言った。


 また会いに来い、と言ったシンへ。


 あの白い雷の中で。


 あの刃の直前で。



 りょ。



 その一音だけが、ここまで残っていた。



(来る)



 シンは、白い息を吐いた。



(来るよな)



 約束した。


 いや、約束と呼べるものだったのかは分からない。


 モモ自身に記憶が残るのかも分からない。


 時代を越えた先で、同じモモが来るのかも分からない。



 けれど、来る気がした。



 前の時代でもそうだった。


 モモは来た。


 何度も来た。


 敵として。


 監視者として。


 守る者として。


 そして最後には、シンを斬る者として。



 なら、ここにも来る。



 そう思った。



 思いたかった。



 シンはようやく立ち上がった。



 体が重い。


 寒さのせいか、死のせいか、時代を越えたせいか。


 どれも同じような気がした。



 周囲を見回す。



 森だ。



 でも、森の形が違う。



 木が細い。


 枝が裸に近い。


 空が広い。



 前の時代の森は、もう少し近かった。


 枝も、葉も、草も、もっと体のそばにあった。


 土を踏めば、湿った匂いが返ってきた。


 水が近くにあり、火が人の場所を教えてくれた。



 ここは違う。



 木と木の間に、冬の空気が入り込んでいる。


 風が通るたび、枝が細く鳴る。


 葉の落ちた梢の向こうに、空が大きく見える。



 明るいのに、寂しい。



 そんな森だった。



 その奥に、何か焦げた匂いが混じっている。



 木を燃やす匂いではない。


 肉を焼く匂いでもない。


 もっと重い。


 もっと硬い。



 遠くで、音がした。



 甲高い音だった。



 石が当たる音ではない。


 骨でもない。


 土器でもない。



 金属の音だった。



(……鉄?)



 シンは息を止めた。



 鉄。



 前の時代にも、石はあった。


 黒い石。


 山から来た石。


 切れる石。



 でも、今聞こえた音は違う。


 もっと硬い。


 もっと冷たい。


 叩かれても割れず、響く音。



 高い音が、冬の空気の中をまっすぐ走ってくる。


 空気が冷たいせいか、音の輪郭が妙にはっきりしていた。



 何かを叩いている。


 何かを作っている。


 あるいは、何かを直している。



 音だけでは分からない。



 ただ、前の時代より、確実に硬いものが人の手の中にある。



 時代が進んでいる。



 かなり。



 シンは足元を見た。



 土に、深い跡があった。



 人の足跡ではない。


 獣でもない。



 輪みたいな形。


 重いものを引いた跡。


 湿った土が押し潰され、固まっている。


 何度も何度も通った跡だ。



(車輪か)



 その言葉が、自然に頭へ浮かんだ。



 車輪。


 道。


 荷。


 運ぶもの。



 前の時代には、こんな跡はなかった。


 人が歩いた道はあった。


 獣が踏んだ道もあった。


 川に沿って進む場所もあった。


 けれど、これは違う。



 人が何かを何度も通した跡だ。


 重いものを、遠くへ運ぶための跡だ。



 便利そうだ、と思った。



 同時に、少し嫌だった。



 嫌だと思った理由は分からない。


 道があるのは助かる。


 車輪があれば、重いものも運べる。


 腹が減った時に食い物を運んでくれるなら、むしろありがたい。



 でも、深く刻まれた轍を見ていると、胸の奥に冷たいものが残った。



 これはただの道ではない。


 たくさんの足と、重い荷と、同じ場所を何度も通る暮らしがある。



 誰かが行き、誰かが帰る。


 何かが運ばれ、何かが持ち去られる。


 その繰り返しが、土をこんな形にした。



 この時代には、この時代の流れがある。



 シンには、まだそれが何なのか分からなかった。



(また、変な時代に来たな)



 シンは白い息を吐いた。


 すぐに消えた。



(九回目で、飛んだ)



 前の時代では、八度目で飛ばなかった。


 だから八ではなかった。


 最後にモモに斬られたあれが、九回目だった。



 九回目で、飛んだ。



 はずだ。



 そう思いかけて。



 止まった。



(……本当に?)



 数は、信用できない。



 最初の時代にも、数え間違いがあった。


 前の時代でも、八ではなかった。


 覚えている死が、すべてではないのかもしれない。


 忘れている死があるのかもしれない。


 覚えられない始まりがあるのかもしれない。



 分からない。



 考えても答えは出ない。



 だが、答えが出ないことだけは分かった。



 シンは腹を押さえた。



 腹が減っていた。



 それは、いつも通りだった。



 どれだけ時代が変わっても、どれだけ死んでも、腹は減る。


 死に戻りのたびに、世界の仕組みより先に胃が現実を突きつけてくる。



(人間って感じするな)



 いや、自分が人間なのかは、いまだによく分からない。



 でも、腹が減る。


 寒い。


 痛い。


 怖い。


 何かをきれいだと思う。


 誰かを覚えている。



 それなら、今はそれでいい。



 シンは煙を探した。



 人がいれば、火がある。


 火があれば、煙がある。



 二つの時代を越えて、これはたぶん間違っていない。



 あった。



 黒い煙だった。



 細くない。


 太い。



 空へ真っ直ぐ上がらず、横へ流れている。


 重そうな煙だった。



 煙の下の方は黒く、上へ行くほど灰色に薄れていく。


 風に押されて、低く森へ流れている。


 冬の空気の中で、その煙だけが妙に重く、生き物のように這っていた。



(火事……?)



 いや、違うかもしれない。



 火事の煙なら、もっと乱れる。


 もっと赤い匂いがする。


 これは、継続して燃やしている煙だ。


 誰かが、目的を持って火を使っている。



 鉄。


 黒い煙。


 道。


 車輪の跡。



 シンは煙の方へ歩き出した。



 土が硬い。


 踏み固められている。


 獣道じゃない。



 道だ。



 ちゃんとした道。



 歩きながら、頭の中で名前を確認した。



 コト。


 ユナ。


 タダ。


 長老。


 ミチヌシ。


 タケヒコ。


 カガチ。


 フスン。


 ウロオボエ様。



 全員、いる。



 声もある。


 顔も残っている。


 匂いも、手触りも、残っている。



 そして、喪失感も。



 コトの「たぶんじゃだめ」という声。


 ユナの「戻って」という声。


 タダの「北へ走れ」という声。


 長老の火を渡す手。


 フスンの、ふすん、という音。



 全部ある。



(俺だけが覚えてる)



 いつも通りだ。



 いつも、そうだ。



 ここにいる人間は、たぶん誰も知らない。


 コトが川のはじまりを見たがっていたことも。


 ユナが川へ一緒に行くと言ったことも。


 タダが最後に背を向けて走ったことも。


 モモが「りょ」と言ったことも。



 全部、シンの中にだけある。



 それでも、消えていない。



 消えていないなら、持っていくしかない。



 そう思った時だった。



 甘い匂いがした。



 シンは止まった。



 桃の匂い。



 冷たい風の中に、ありえないほどはっきりと混じる甘さ。


 ここにはない花。


 ここにはない果実。


 ここにはないはずの、約束の匂い。



(早い)



 心臓が跳ねた。



 嬉しさが先に来た。


 そのすぐ後に、怖さが来た。



 振り返る。



 モモがいた。



 木の影。


 距離がある。


 音もなく立っている。



 毛先でふわりとまとめられた黒髪。


 小さな桃の飾り。


 白い肌。


 色硝子のような瞳。


 薄桃色の衣。


 手には、刀。



 同じだった。



 同じ形をしている。


 同じ顔をしている。


 同じ匂いを持っている。



 でも。



 違った。



 桃の匂いが、遠い。



 近くにいるのに、遠い。


 見えているのに、届かない。


 同じ形なのに、中身が一枚、透明な膜の向こうにあるようだった。



 シンは少し笑った。



 笑わないと、声が出なかった。



「来たな」



 返事はない。



 モモはシンを見ていた。


 ただ、見ていた。



「りょって言ったもんな」



 言った瞬間、胸の奥が少し熱くなった。



 通じると思った。


 通じてほしかった。



 あの白い雷の中で、確かに聞いた言葉だ。


 モモの声だ。


 モモ自身が、最後に残した声だ。



 だから、きっと。



 そう思った。



 だが、モモは黙ったままだった。



 そして、最初から柄に手がかかっていた。



(……モモ?)



 シンは一歩、近づいた。



 モモの口が動いた。



「……対象、照合」



 冷たい声だった。



 前の時代の終わりに聞いた、白い声に近い。


 けれど、完全に同じではない。


 もっと静かだ。


 もっと空っぽだ。



「俺だ。シンだ」



 モモの目が、微かに動く。



「……認定」



 少し間。



「鬼」



 シンは止まった。



(鬼)



 言葉だけが、頭の中で転がった。



 鬼。



 赤い肌。


 青い肌。


 頭には角。


 口には牙。


 手にはトゲトゲの棍棒。


 なぜか虎柄のパンツ。


 場合によっては、髪が爆発したみたいなアフロ。



 そういう、雑な絵が頭に浮かんだ。



(俺が?)



 シンは自分の手を見た。



 赤くない。


 青くもない。


 角もない。


 牙も、たぶんない。


 虎柄のパンツも穿いていない。


 トゲトゲの棍棒も持っていない。



(どの辺が?)



 分からない。



 鬼。



 物語に出てくる怪物。


 悪さをして、退治されるもの。


 子供を怖がらせるもの。


 節分で豆をぶつけられるもの。



 シンの頭にある鬼は、その程度だった。



 なぜモモが、その言葉を自分へ向けたのか。


 まるで分からなかった。



「……鬼?」



 モモは答えなかった。



 柄を握る。



 シンは、前の時代のモモとの距離感で動いた。



 話せば止まる。


 目を見れば揺れる。


 りょと言えば、聞こえる。



 そう思った。



 思ってしまった。



「モモ、聞け。俺は――」



「……討つ」



 刃が出た。



 速かった。



 迷いがなかった。



 前の時代と、全然違う。



 前の時代のモモは、白い雷に抗った。


 コトの声で止まった。


 シンの声で揺れた。


 刀をずらした。


 苦しんだ。



 今のモモは違った。



 静かだった。


 静かすぎた。



 まるで、もう決まっていることを、ただ実行するだけのように。



(あ)



 その瞬間には、もう遅かった。



 冷たい線が、首筋を通った。



 痛みより先に、世界が傾く。



 空が見えた。


 薄い空だった。



 裸の枝が、その空を細く切っていた。


 黒い線が、白い空に何本も走っている。



 桃の匂いがした。



 でも、遠かった。



 ――死んだ。




 息が入った。



 冷たい空気。



 同じ森。


 同じ裸枝。


 同じ、薄い空。



 シンは目を開けた。



(戻った)



 体を起こす。


 頭が重い。


 足元がふらつく。



 第三時代。



 一回目の死。



 しばらく、動けなかった。



 首に手をやる。


 傷はない。


 当然だ。



 だが、斬られた場所が冷たい。


 冷たい気がする。



 シンは、しばらく自分の喉を押さえていた。



 声が出る。


 息が通る。


 生きている。



 でも、さっきのモモの目が残っている。



(揺れなかった)



 あの目が残っている。



 見ていた。


 ちゃんと、シンを見ていた。



 でも。



 揺れなかった。



 前の時代のモモは、揺れた。


 「できない」と言った。


 「だめ」と言った。


 「逃げて」と言った。


 「りょ」と言った。



 でも、今のモモは違う。



 静かだった。


 静かすぎた。



 そこに怒りはなかった。


 憎しみもなかった。


 喜びもなかった。


 迷いもなかった。



 だから、怖かった。



 モモに殺されたことが怖いのではない。


 いや、もちろん怖い。


 ものすごく怖い。



 でも、それ以上に。



 モモが、殺す時に何も揺れなかったことが怖かった。



(何が変わった)



 分からない。



 この時代で、モモは何をされた。


 何を記録され、何を消され、何を命じられている。



 鬼。



 その言葉だけで、モモはシンを討った。



(鬼って、何だ)



 さっき浮かんだくだらない絵が、まだ少しだけ頭の端に残っている。



 でも、違う。



 そういう話では、たぶんない。



 それ以上は、分からなかった。



 なぜ、自分が鬼なのか。


 なぜ、鬼なら討たれるのか。


 なぜ、モモがその言葉を迷いなく受け取ったのか。



 何も分からない。



 分からないことばかりが増えていく。



 シンは立ち上がった。



 白い息が続く。


 寒い。


 腹が減っている。



(まだ、ある)



 この時代にも、まだ時間がある。



 そう思って。



 少しだけ、止まった。



(……何回だ)



 九回なのか。


 十回なのか。


 あるいは、まったく違うのか。



 まだ分からない。



 分からないまま、始まっている。



 シンは深く息を吸った。


 冷たすぎる空気が喉を刺す。



 少し咳き込んだ。



 生きている。



 死んでも、生きている。



 まだ、ここにいる。



(モモ)



 あの目を、変えたい。



 また、揺れるように。


 また、止まるように。


 また、自分の声で「りょ」と言えるように。



 でも、どうやって。



 答えはまだない。



 でも、問いはある。



 問いがある間は、進める。



 シンは煙の方へ歩き始めた。



 今度は、モモのいる方を振り返らなかった。



 振り返れば、また来るかもしれない。


 いや、振り返らなくても来るかもしれない。



 それでも、歩くしかない。



 人を探す。


 火を探す。


 この時代の言葉を探す。


 鬼という言葉の意味を探す。



 足元の土が冷たい。


 道は硬い。


 轍は深い。



 冬の光が、踏み固められた土を鈍く照らしている。


 轍の底には、薄い霜が残っていた。


 陽が当たる場所だけ、少し溶けて黒く濡れている。



 その黒い濡れ方が、火の跡にも、血の跡にも見えて、シンは一度だけ足を止めた。



 違う。



 ただの土だ。



 そう思い直して、また歩く。



 遠くで、また金属の音がした。



 さっきより、はっきり聞こえた。



 叩く音。


 擦れる音。


 何かを置く音。


 何かを持ち上げる音。



 人の声も、混じっている。



 怒鳴り声ではない。


 叫びでもない。



 短く呼び合う声。


 重いものを動かす時の声。


 息を合わせる声。



 風が向きを変えた。


 黒い煙が、空の低いところを流れている。



 その奥で、鉄が鳴っていた。



 生活の音か。


 仕事の音か。


 それとも、まだシンの知らない何かなのか。



 今は、分からない。



 でも、人がいる。


 火がある。


 煙がある。



 シンは唇を結んだ。



 胸の中に、モモの声が残っている。



 鬼。



 討つ。



 その二つの言葉が、冷たい森に落ちている。



 シンは歩いた。



 川のはじまりへ行けなかった自分が。


 火を置いてきた自分が。


 モモに斬られてここへ来た自分が。



 今度は、鉄と煙の方へ歩いている。



 風が痛い。


 空が薄い。


 腹が減る。



 それでも、煙の向こうには誰かの暮らしがある。



 その暮らしの音を聞きながら、シンは歩き続けた。



(第三十一話へ)

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