表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
29/62

World’s End

第二十九話 World’s End



 桃の匂いが、冷たくなった。



 森の縁に立つモモは、動かなかった。


 黒い髪も、薄桃色の衣も、桃の髪留めも、いつもと同じに見える。



 だが、違う。



 火のそばへ来ない。


 こちらへ歩いてこない。


 シンの名を、いつもの調子で呼ばない。



 ただ、火の届かない薄暗い場所で、影のように立っている。



「接近非推奨」



 モモは言った。



 いつもの声だった。


 いつもの無表情だった。



 それなのに、声の奥が白く冷えている。



「次回介入時、敵対行動の発生確率が高い」



 男たちが息を詰めた。


 タダも、棍を握る手にわずかに力を込める。



 シンは一歩、森の方へ踏み出した。



「来るなって言われると、行きたくなるんだよな」



「非合理」


「俺、合理で動いてた時期あった?」



 モモは答えなかった。



 シンは、もう一歩だけ近づいた。


 それ以上は行かなかった。



 モモの右手が、わずかに刀へ近づいていたからだ。



「お前、コトを守った」



 シンは言った。



「カガチを斬っただけじゃない。コトを守った。ユナも、俺も、火も、あそこでお前が止めた」



「結果、カガチ個体死亡。コト個体、重度の悲嘆。保護判定、安定せず」


「悲しいのは、生きてるからだろ」



 モモの目が、少しだけ揺れた。



「悲嘆は機能低下要因」


「それだけじゃない」


「対象の判断能力を鈍化させる」


「でも、忘れない」



 シンは森の奥を見た。



 コトはもう北へ行った。


 ユナも行った。


 長老も火を持って行った。


 フスンも、ウロオボエ様土偶も、川のはじまりを見に行く約束も、もうこの場所にはない。



 この場所に残っているのは、空っぽの火の跡と、逃げる時間を稼ぐ男たちだけだった。



「コトは覚える。カガチも、お前も、川の約束も」


「記憶固定」


「そう。それだ」



 シンは少しだけ笑った。



「ウロオボエ様より、だいぶマシな説明だな」



 モモは笑わなかった。



「シン」



 名を呼ばれた。



 それだけで、胸の奥が少し熱くなった。



「次の白雷介入時、私の行動制御は維持不能となる可能性が高い」


「つまり?」


「私は、シンを斬る可能性が高い」



 男たちの何人かが、ざわめいた。



 タダが半歩前へ出る。



 シンは手を上げて、それを止めた。



「たぶん、そうなると思ってた」



 モモの目が揺れた。



「予測済み?」


「昨日死んだからな。俺も多少は学ぶ」



 シンは、自分の胸に手を当てた。



 そこは、八度目の死で斬られた場所だった。


 今は傷がない。


 けれど、刃の冷たさはまだ残っている。



「ミカヅチは、俺を邪魔だと思ってる。北の火を逃がしたのは俺だ。タケヒコとの交渉をずらしたのも俺だ。カガチが帰ろうとしたことを証拠にしたのも俺だ」



 モモは黙っている。



「たぶん、俺が消えれば、あいつの手は止まる」



 タダが、シンを見た。



 重い視線だった。



「シン」


「言うな」



 シンはタダを見ずに言った。



「俺も嫌だよ。でも、そうだと思う。ミカヅチは火そのものより、火を動かす俺を排除したがってる。俺がいなくなれば、少なくとも一瞬は止まる。北へ向かう手も、ユナたちを追う足も」



 モモの指が、刀の柄にかかる。



「推定、妥当」


「そこは否定してくれよ」


「不能」


「だよな」



 シンは息を吐いた。



「だから、モモ。もし斬るなら、俺だけにしろ」



 モモの唇が、わずかに開いた。



「保証不能」


「保証しろ」


「不能」


「じゃあ、ずらせ」



 モモは黙った。



「コトを守った時みたいに。俺を斬ってもいい。けど、ユナたちには行かせろ。タダたちにも、退く時間を残せ」



 モモの目の奥で、白いものがちらついた。



「外部命令、優先度上昇時、対象選別の維持困難」


「困難でもやれ」


「非合理」


「俺たちの得意分野だろ」



 モモは、ほんの少しだけ顔を伏せた。



 いつものように、誤差、と言うかと思った。



 けれど、言わなかった。



 森の奥で、鳥が一斉に飛び立った。



 南が動いた。




 朝は、やけに白かった。



 日が昇りきる前の、薄い光。


 火の跡の灰は冷え、夜露を吸って重くなっている。


 女たちと子供たちが去った後の場所は、驚くほど広かった。



 昨日まで火のそばにあった笑い声も、泣き声も、フスンの鼻音も、コトの変な言葉もない。



 残った男たちは、少し離れて立っていた。


 石を持つ者。


 枝を持つ者。


 黒い石刃を奪って持っている者。


 怪我をした腕を布で縛っている者。



 誰も強そうではなかった。



 だが、誰も逃げなかった。



 タダは、火の跡の前に立っている。


 大きな体が、そこだけまだ火を守っているように見えた。



「作戦は」


 タダが聞いた。



「煙になる」


「それは聞いた」


「煙っぽく動く」


「分かりにくい」


「俺も今ちょっと思った」



 タダは少しだけ口元を曲げた。



「要するに」


 シンは言った。



「俺を見せる。火はここにない。でも、俺はいる。タダもいる。男たちもいる。タケヒコは俺を欲しがってる。ミカヅチは俺を消したがってる。だから、できるだけここに目を集める」



 タダは頷いた。



「俺たちは餌か」


「言い方」


「違うのか」


「……だいたい合ってる」



 男たちの何人かが、小さく笑った。



 怖い笑いだった。


 だが、笑いだった。



「ただ、最後は逃げろ」



 シンは言った。



 男たちの顔が変わる。



「俺が斬られたら、すぐ北へ走れ。振り返るな。火の後を追え。長老たちに追いつけなくてもいい。とにかく、ここから離れろ」



「お前は」


 男の一人が言った。



 名前を知らない男だった。


 祭りの日、汁に入った肉を見つけて笑っていた男だ。



「俺は、たぶん消える」



 シンは言った。



 言ってから、自分で少し震えた。



 死ぬ、と言うより怖かった。



 消える。



 死体も残らない。


 骨も残らない。


 火へも土へも戻れない。



 それでも、そう言うしかなかった。



 タダが、静かにシンを見ていた。



「本当に、そうなるのか」


「分からない」


「分からないのに、作戦にするのか」


「俺の作戦、だいたいそんなもんだろ」



 タダは少し黙った。



 それから言った。



「雑だな」


「さっきも聞いた」


「だが、悪くない」



 シンは笑った。



「褒めてる?」


「少し」



 タダは棍を肩に担いだ。



「生きて戻れたら飯にしよう」


「飯は大事だもんな」


「大事だ」



 その言葉だけで、少しだけ空気が戻った。



 シンは男たちへ向き直った。



「勝たなくていい」



 最初にそう言った。



「ここで勝たなくていい。相手を全部倒さなくていい。死に場所を探さなくていい」



 自分に言っているのかもしれない。



 そう思いながら、シンは続けた。



「火はもう北へ行った。長老も、コトも、ユナも行った。俺たちがやるのは、追わせないことだ。追う気を遅らせることだ」



 男たちは黙っている。



「南は火を欲しがってる。種も、人も欲しい。だったら、ここにまだ何かあると思わせる。俺がここにいる。タダもいる。男たちもいる。だから、ここを見させる」



 タダが頷いた。



「煙だな」


「煙だ」



 シンは森を見た。



 そこに、タケヒコが現れた。




 タケヒコは、昨日と同じように先頭にいた。



 だが、今日は後ろの数が違う。



 南の者。


 西の者。


 泥を塗った顔。


 揃った足。


 黒い石刃。


 骨の笛。



 南の整った動きと、西の荒い息が、同じ森の中に混ざっている。



 混ざっているのに、一つにはなっていない。



 その隙間へ、白い雷が落ちる。



 そういう気配がした。



 タケヒコは火の跡を見た。



「移したか」


「移した」


 シンは答えた。



「女子供も、老いた者も」


「うん」


「約束通り、お前は残った」


「逃げても追うって言ったろ」


「追った」


「追ったのかよ」


「追える場所まではな」



 タケヒコは悪びれない。



「見失わせたのは褒めてやる」


「どうも」



 シンは笑わなかった。



 長老たちは、完全に逃げ切ったわけではない。


 ただ、今この瞬間、火はここにない。



 それだけでいい。



「答えろ」


 タケヒコが言った。



「南へ入るか。ここで争うか」



 森が静かになった。



 タダが棍を握り直す。


 男たちも身構える。



 シンは、タケヒコを見た。



「お前の南には入らない」



 タケヒコの表情は変わらなかった。



「理由は」


「ユナが嫌だって言った」



 タケヒコの目が、少しだけ動いた。



「それだけか」


「それだけで十分だ」



 シンは続けた。



「コトも嫌だ。長老もたぶん嫌だ。タダも飯の分け方に文句言う。フスンは知らんけど、たぶん吠える。俺も嫌だ」



 タダが言った。



「飯は重要だ」


「ほら」



 タケヒコは、ほんの少しだけ眉を寄せた。



「弱い声だ」


「そうだよ」


 シンは言った。



「でも、火のそばで聞こえる声だ」



 タケヒコは黙った。



「お前の大きい火には、小さい声が消える。そういう火には入らない」


「小さい声のために、多くを危うくするのか」


「多くって誰だよ」



 シンは一歩前へ出た。



「お前の頭の中の多くか。数えた人間か。これから従う予定の人間か。俺は今、ユナとコトと長老とタダと、ここに残った男たちの話をしてる」



 タケヒコは、冷えた目でシンを見ている。



「狭い」


「狭いよ」



 シンは言った。



「でも、ここからしか始まらない」



 風が止まった。



 その瞬間、シンは分かった。



 来る。



 白い雷が来る。



 タケヒコも気づいた。



 彼は空を見上げなかった。


 ただ、ひどく嫌そうに目を細めた。



「またか」



 低く言った。



 その声には、恐れよりも軽蔑があった。



 思い通りに動かないもの。


 上品ではないもの。


 人の腹も、順序も、交渉も、何も見ないもの。



 それでも、タケヒコはそれを捨てない。



「構えろ」


 タケヒコが言った。



「北の火は追え。だが、壊すな。シンは殺すな」



 白い雷が落ちた。



 世界が、白くなった。



 火の跡も、森も、人の顔も、全部が一瞬だけ同じ色になった。



 シンは歯を食いしばった。



 やはり来た。



 ミカヅチ。



 神の名。


 人の向きを揃える白い手。


 タケヒコが利用しようとする力。



 だが、その白は、タケヒコの命令より荒かった。



 西の者たちが走り出した。



 南の合図より速い。


 南の足並みより乱れている。



 だが、迷いはない。



 追う。



 北へ。


 火へ。



「止めろ!」



 シンは叫んだ。



 タダが動いた。



 棍が唸る。


 先頭の西の男の膝を払う。


 倒れた体を、さらに肩で押し込む。



 別の男が横を抜けようとした。


 村の男二人が飛びかかり、足にしがみつく。



 勝てない。



 だが、止まる。



 ほんの少し止まる。



 その少しが欲しかった。



 南の者たちは、追う者と囲む者に分かれた。


 タケヒコの手だ。



 だが、白い雷を受けた何人かは、その配置を崩して北へ向かう。



 タケヒコの顔に、はっきりと不快が浮かんだ。



「北の火を壊すなと言った」



 その声で、一人は止まった。


 だが、もう一人は止まらない。



 タケヒコは舌打ちしなかった。


 それでも、舌打ちに近い沈黙があった。



 シンは走った。



 止まらない南の男の前へ入る。



 石刃が振られる。



 シンは避けた。


 避けたつもりだった。



 腕に熱が走った。



 浅い。


 まだ動く。



「っ、痛えな!」



 男は答えない。



 目の焦点がずれている。



 カガチと同じだ。


 モモと同じになりかけた目だ。



 体は人間なのに、奥の向きだけが別のものに掴まれている。



「お前、これも統合って言うのか!」



 シンはタケヒコへ叫んだ。



 タケヒコは答えない。



 答えないまま、自分の側の男の腕を掴み、力任せに引き戻した。



「俺の命令を聞け」



 低い声だった。



 その男は止まった。



 だが、止まっただけだった。


 目の奥の白は消えていない。



 タケヒコは、その目を見ていた。



 軽蔑。


 利用。


 警戒。



 その全部が同時にある顔だった。



 だからこそ、シンは思った。



 この男は、分かっている。



 分かった上で使う。



 ミカヅチがどれだけ下品で、どれだけ雑で、どれだけ人を壊しても。


 統べるためなら、掴む。



 たぶん、自分の手が焼けることも分かっている。



 それでも掴む。



 危ないのは、無知だからではない。



 覚悟しているからだ。




 タダが吠えた。



 珍しく、本当に吠えた。



 大きな体が低く沈み、棍が横に振られる。


 西の男が二人まとめて吹き飛んだ。


 土が跳ね、黒い石刃が回転しながら地面に刺さる。



 さらにタダは止まらなかった。



 肩で南の男を押し返し、足をかけ、倒れた相手の上を踏み越え、もう一人の腕を棍で絡めて投げた。



 雑ではない。


 だが、勢いがありすぎる。



(ブレーキの壊れたダンプカーかな)



 こんな時なのに、シンは謎の感想が浮かんだ。


 ウロオボエ様だ。



 その場違いな感想が、少しだけ怖さを薄めた。



「タダ! 北へ抜ける奴を止めろ!」


「分かった!」



 返事と同時に、タダはもう動いていた。



 たぶん、返事より先に動いていた。



 何だあれ。


 超獣だ。



 シンは笑いそうになって、すぐに息を呑んだ。



 白い影が動いたからだ。




 森の縁にいたモモが、こちらへ歩いてくる。



 誰も、その足音を聞いていないようだった。


 だが、シンには分かった。



 桃の匂いが強くなる。


 冷たい。


 甘い。


 嫌な甘さ。



 モモの右手が、刀の柄にかかっていた。



「モモ!」



 シンが叫ぶ。



 モモは止まらない。



 目が、いつもの黒ではなかった。


 完全な白でもない。


 黒の奥に、白い細い線が走っている。



 ひびのように。


 命令のように。



「未確定要素、排除」



 モモの声だった。


 だが、モモの声ではなかった。



 タケヒコがモモを見た。



「それが白い女か」



 その声には、欲があった。


 同時に、警戒もあった。



「近づくな!」


 シンは叫んだ。



 誰に向けたのか、自分でも分からなかった。


 タケヒコにか。


 男たちにか。


 モモにか。



 モモの足が速くなる。



 速い。



 まるで、地面との間に重さがない。



 白い衣が、火のない場所で揺れた。



 タダが前へ出ようとした。



「タダ、駄目だ!」



 シンは叫んだ。



「あれは俺だ!」



 意味の分からない言葉だった。


 だが、タダは止まった。



 モモの狙いは、北へ逃げた火ではない。


 タダでもない。


 タケヒコでもない。



 シンだった。



 いや、正確には、シンを通して動くもの。


 北の火を逃がした判断。


 ユナとコトを遠ざけた選択。


 白い雷にとっての、読めない誤差。



 モモの刀が抜かれた。



 音がなかった。



 シンは、逃げなかった。



「モモ」



 呼ぶ。



 モモの目が、ほんのわずかに揺れた。



「シン個体、排除対象」


「俺個体って言うな」



 声が震えた。



 怖かった。



 当然だ。



 モモに斬られるのは、怖い。



 石刃で死ぬのとは違う。


 白い雷で焼かれるのとも違う。



 モモに斬られる。



 それが、こんなにも怖いとは思わなかった。



「お前は、コトを守った」



 シンは言った。



「今度も守れ。ユナも、コトも、火も、追わせるな」



「命令経路、競合」


「競合しろ」


「外部命令、優先度上昇」


「下げろ」


「不能」


「じゃあ、ずらせ」



 モモの刀が上がる。



 白い雷が、空で鳴った。



 シンは、モモの目を見た。



「俺だけにしろ」



 モモの唇が、わずかに動いた。



「シン」



 今度は、モモの声だった。



 シンは笑った。



「そう。それ」



 モモの目の白い線が、また強くなる。



「誤差、拡大」


「誤差でいいよ」



 シンは言った。



「お前がコトを守ったのも、俺がユナを好きなのも、タダが飯を大事にするのも、コトが川のはじまりを見たいのも、全部お前の言う誤差でいい」



 モモは震えていた。



 刀の切っ先が、ほんの少し揺れる。



「でも、その誤差で、俺はここにいる」



 シンは言った。



「その誤差で、火は北へ行った」



 白い雷が落ちた。



 モモの刀が動いた。



 速かった。



 見えたのは、白い線だけだった。



 シンは、斬られたと思った。



 だが、まだ立っていた。



 モモの刀は、シンの肩口を裂き、そのまま背後へ抜けていた。



 背後にいた西の男の刃が、弾かれて飛ぶ。



 モモは、ずらした。



 シンを斬りながら、背後の追撃を止めた。



 血が熱い。



 でも、死んではいない。



「モモ!」



 シンは叫んだ。



 モモの顔が歪んだ。



 初めて見る顔だった。



 泣いているのか。


 怒っているのか。


 壊れているのか。



 全部かもしれなかった。



「離脱、不能」



 モモが言った。



「再制御、不能」



 刀が、もう一度上がる。



 今度は、ずらせない。



 シンには分かった。



 モモにも、分かっている。



 白い雷が、刀の上で細かく震えていた。



 タダが叫ぶ。



「シン!」



 シンは手で制した。



 来るな。



 今、タダが来れば、タダも斬られる。


 残る男たちも、まとめて斬られる。



 モモの刀は、シンを狙っている。



 なら、それでいい。



 北へ向かう火は、もう遠い。


 ユナも、コトも、長老も、フスンも、ウロオボエ様も、今はここにいない。



 なら、守れる。



 自分だけで済むなら。



 それに。



 シンは、白い雷に操られた者たちを見た。



 西の男。


 南の男。


 焦点の合わない目。


 北へ向かおうとする足。



 その足は、モモがシンへ向いた瞬間から、少し鈍っていた。



 ミカヅチの手が、シンへ集まっている。



 やはり、そうだ。



 自分が消えれば、止まる。



 少なくとも、一瞬は。



「タダ!」



 シンは叫んだ。



「俺が斬られたら、走れ!」



 タダの顔が歪んだ。



「シン!」


「走れ! 火を追え! ユナたちに追いつけ!」



 タダは答えなかった。



 答えなかったが、棍を握る手が変わった。



 戦う手から、逃がす手へ。



 それだけで、シンには伝わった。



 シンは、モモへ一歩近づいた。



「また会いに来い」



 モモの目が揺れた。



「不可能」


「来い」


「時代跳躍条件、未確定」


「知らん」



 シンは笑った。



「いつかでもいい。違う場所でもいい。敵でもいい。変な顔でいい。俺を斬ったあとでもいい」



 白い雷の音が、遠くなる。



 いや、近すぎて聞こえなくなったのかもしれない。



「また会いに来い、モモ」



 モモの唇が震えた。



 長い沈黙だった。



 刀が落ちる直前。



 ほんの小さな声がした。



「りょ。」



 それは、確かにモモの声だった。



 次の瞬間。



 刀が、シンの胸を斬った。




 痛みは、少し遅れて来た。



 熱い。


 冷たい。


 重い。



 体の中心が開いて、そこから全部がこぼれていくようだった。



 シンは膝をついた。



 モモが目の前にいる。



 白い線の走った目で。


 刀を握ったまま。


 けれど、今にも崩れそうな顔で。



「シン」



 モモが呼んだ。



「うん」



 返事ができた。



 よかった、と思った。



 声が届く。


 まだ、届く。



 遠くで、タダの声が聞こえた。



「退け!」



 それは、シンが今まで聞いた中で、一番大きなタダの声だった。



「北へ走れ! 火を追え!」



 男たちが動いた。



 何人かは、シンへ駆け寄ろうとした。


 だが、タダが怒鳴った。



「来るな!」



 その声で、男たちは走った。



 北へ。



 火の行った方へ。



 タダも最後に一度だけ、シンを見た。



 走れ。



 シンは声にできなかった。



 だが、タダは頷いた。



 そして、背を向けた。



 大きな背中が、北へ走る。



 その背中を追おうとした西の者たちが、止まった。



 止まった。



 白い雷に引かれていた足が、急に力を失ったように鈍る。



 南の者の一人が、膝をついた。


 西の者が、黒い石刃を落とした。


 別の者は、何をしていたのか分からない顔で森を見た。



 ミカヅチの手が、止まっている。



 シンは、それを見た。



 見られた。



 作戦は、間違っていなかった。



 よかった。



 本当に、よかった。



 ユナ。



 コト。



 川のはじまり。



 火。



 全部、少しだけ遠くへ行けた。



 シンは、そう思った。



 その瞬間、視界の端でタケヒコが見えた。



 彼は、止まった兵たちを見ていた。


 それから、シンを見た。



 驚いてはいない。


 だが、完全に予想通りでもない顔だった。



 シンが消えかけているからだ。



 血を流して倒れるのではない。


 死体が残るのではない。



 手の先が、薄くなっている。


 白い光の粒のように、ほどけている。



 タケヒコの目が変わった。



 欲。


 恐れ。


 計算。



 全部が一度に来た顔だった。



「やはり、お前は」



 タケヒコが何かを言いかけた。



 シンは、もう聞かなかった。



 モモだけを見た。



「モモ」



 声は出なかったかもしれない。


 でも、モモは反応した。



「シン」



 シンは、最後に笑おうとした。



 笑えたかどうかは分からない。



 ユナ。



 コト。



 川のはじまり。



 火。



 タダの飯。



 フスンの鼻音。



 ウロオボエ様の困った顔。



 長老の、火を渡す手。



 全部が、胸の奥で一度に光った。



 置いていく。



 でも、消えない。



 たぶん。



 そう思った。



 シンの体が、ほどけた。



 白い雷とは違う光だった。



 火の粉にも似ていた。


 川面の光にも似ていた。


 朝の息にも似ていた。



 誰かの手が伸びた。



 モモの手だった。



 その手は、シンに触れようとして。



 何も掴めなかった。



 モモの顔が、崩れた。



 シンは、それを見ていた。



 最後まで。



 最後の最後まで。



 それで、少しだけ安心した。



 泣けるなら。



 間違えるなら。



 きっと、また会える。



 そんな気がした。



 火の匂いが遠ざかる。



 水の音が、どこかで聞こえた気がした。



 川のはじまり。



 ごめん。



 先に、見つけてくれ。



 シンは、第二の時代から消えた。



 そして。



 シンの世界は、そこで終わった。




⸻ Starting Over ⸻



(第二章 了 第三十話へ)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ