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川のはじまり

第二十八話 川のはじまり



「音が返らなかった」



 同じ声が、朝に置かれた。



 タケヒコは、前と同じ歩幅で森から出てきた。


 南の者たちも同じように後ろへ並んでいる。


 火のそばにいる者たちも、同じ顔で息を詰めている。



 タダは棍を握っている。


 ユナはコトを抱いている。


 長老は火種を胸へ寄せている。


 フスンは喉の奥で唸っている。



 全部、同じだった。



 違うのは、シンだけだった。



 胸には傷がない。


 息はできる。


 血も出ていない。



 それなのに、石刃の冷たさだけが、まだ胸の奥に残っていた。



 八度目。



 死んだ。



 なのに、飛ばされていない。



 ユナがいる。


 コトがいる。


 火がある。



 まだ、ここにいる。



(八じゃない)



 その言葉が、頭の中で音を立てた。



 前の時代では、八度目で飛ばされたと思っていた。


 そう覚えていた。


 そう数えていた。



 だが、違った。



 自分は、何かを数え間違えている。


 大事なところを、決定的に。



 考えたい。


 だが、考えている時間はなかった。



 タケヒコの目が、シンへ来る。



 シンは、折れた骨笛を握り直した。



「カガチは、帰ろうとした」



 前と同じ言葉。


 だが、今度はその先を変える。



「それを雷が殺した。お前は、信じない。けど、完全には捨てない」



 タケヒコの目が、わずかに細くなった。



「何の話だ」


「この後の話だ」



 シンは一歩前へ出た。



 タダが視線だけで止める。


 ユナも息を呑んだ。



 それでも、シンは止まらなかった。



「お前は北を南へ入れろと言う。火も、種も、人も数えると言う。俺も南へ来いと言う。俺が欲しいからだ」



 南の者たちが、かすかにざわめいた。



 タケヒコだけは動かない。



「続けろ」



 短い声だった。



「その後、白い雷が来る」



 シンは、はっきり言った。



「お前は驚かない。少し嫌そうな顔をする。下品な神だ、みたいな顔だ」



 タケヒコの眉が、ほんの少しだけ動いた。



「神の悪口か」


「お前も思ってるだろ」



 シンは続けた。



「でも、お前は止めない。使う。白い雷も、西の刃も、南の手も、全部使おうとする。北の火は焼くなと言う。けど、雷はお前の言うことを全部は聞かない」



 火のそばが、さらに静かになった。



「南の男が一人、火を狙う。西の男がユナとコトへ回る。俺は間に入って死ぬ。お前は怒る。俺のためじゃない。自分の命令が上書きされたからだ」



 ユナの手が、コトの肩を強く掴んだ。



「シン」



 呼ぶ声が震えていた。



 シンは振り向かなかった。



 今、振り向けば、たぶん言えなくなる。



 タケヒコは長く黙っていた。



 その沈黙の間に、森の音がやけに大きく聞こえた。


 風。


 葉。


 フスンの低い唸り。


 コトの小さな息。



 やがて、タケヒコが言った。



「お前は、それを見たのか」


「見た」


「死んだのか」


「死んだ」



 あまりにも簡単に答えてしまった。



 ユナが息を止める音がした。



 コトも何かを言おうとして、言えなかった。



「そして、戻った」


 タケヒコが言った。



「そうだ」



 タケヒコの目が変わった。



 恐れではない。


 信仰でもない。


 気味悪がっているのでもない。



 欲しがる目だった。



 青い石を見た時に似ている。


 だが、それよりも深い。



 タケヒコにとって、シンはもう、ただ北の火を動かす男ではなかった。


 先を見た男。


 死んでも戻る男。


 人を動かし、白い女を呼び、雷の癖まで語る男。



 使える。



 タケヒコの目が、そう言っていた。



「ならば、なおさらお前は南へ要る」


「行かない」


「今は聞いていない」



 腹の立つ言い方だった。



 だが、前と同じように怒っている暇はなかった。



「取引だ」


 シンは言った。



 タケヒコは笑わない。



「言え」


「今日一日、攻めるな」



 南の者たちが、今度こそはっきり動いた。



「女子供と火を、さらに北へ移す。年寄りもだ。種も持たせる」


「逃げると言っているのか」


「移すと言ってる」



 シンはタケヒコを見た。



「火も種も子も欲しいんだろ。ここで白い雷が暴れれば、お前の欲しいものまで壊れる。お前はそれが嫌なはずだ」



 タケヒコは答えない。



 シンは続けた。



「俺とタダと、残れる男たちはここに残る。明日の朝、俺が前に出る。俺が答える。だから今夜は、火に手を出すな」



 ユナがシンを見た。



 何も言わない。


 言えない。



 だが、その目だけで分かった。



 置いていく気だ、と。



 タケヒコは、長老を見た。


 次に火種を見た。


 それから、コトを見た。



「北へ移して、俺が追えぬと思うのか」


「思ってない」


「では、なぜ移す」


「今、焼かせないためだ」



 シンは答えた。



「お前の神は雑だ。下品で、順を待たない。お前がどう使う気でも、ここで火に落ちたら終わる。だったら、火を遠ざける」



 タケヒコは、ほんの少し口元を動かした。



「神を雑と言うか」


「お前も思ってる」



 今度は、タケヒコは否定しなかった。



「一日だ」



 タケヒコが言った。



 火のそばの者たちが、息を呑んだ。



「火と子と女と老いた者は北へ移せ。だが、男は残せ。お前も残る。大男も残る」



 タダが静かに棍を握り直した。



「明日の朝、お前が答えろ。南へ入るか。ここで争うか」


「俺が逃げたら?」


「追う」



 タケヒコは即答した。



「火を隠したら?」


「探す」


「女子供を傷つけたら、どうする」



 タケヒコの目が、少し冷えた。



「俺の者には触れさせない。だが、雷までは約束しない」



 それは正直な答えだった。



 そして、ひどい答えだった。



「だから急げ」


 タケヒコは言った。



「日が落ちるまでだ」




 タケヒコたちは森へ下がった。



 完全に去ったわけではない。



 気配は残っている。


 南の目が、森の奥に置かれている。


 西の刃も、まだ遠くない。



 それでも、火のそばに一日が残った。



 最後かもしれない一日。



 誰も、すぐには動けなかった。



 最初に動いたのは長老だった。



「火を分ける」



 それだけ言った。



 女たちが動き出した。


 子供たちも、泣きながら包みを持った。


 男たちは黙って、運べるものと置いていくものを分けた。



 土器は全部持てない。


 乾いた草も全部は無理だ。


 骨の針。


 干した肉。


 残った種。


 火種。


 ウロオボエ様土偶。



 選ぶたびに、誰かの顔が歪んだ。



 残すものは、失うものに見えた。


 持つものは、重く見えた。



 シンも動いた。



 手近な獣皮を畳み、乾いた草を束ね、割れた土器の中から使える破片を拾う。



 だが、何をしても手が遅い。



 自分だけが、明日の朝を知っている。


 自分だけが、今日を最後だと思っている。



 そのせいで、ひとつひとつが妙に重かった。



「シン」



 タダが呼んだ。



 見ると、タダは干し肉の包みを二つ持っていた。



「どちらを持たせる」


「多い方」


「残る男は少ない方か」


「うん」



 タダは頷いた。



 文句は言わなかった。



「腹が減るぞ」


「慣れてるだろ」


「慣れてはいない」



 真顔だった。



 シンは少しだけ笑った。



「飯は大事だもんな」


「大事だ」



 タダは少ない方の包みを自分の腰につけた。



 いつも通りだった。



 そのいつも通りが、少しだけ苦しかった。




 長老は火のそばで、火種を分けていた。



 灰の中の赤いところを選び、乾いた草と小さな炭へ移す。


 息を吹きすぎず、弱すぎず。



 火を起こすのではない。


 火を渡す。



 シンは、その手元を見ていた。



 長老は顔を上げないまま言った。



「見るな。手を出せ」



 シンは膝をついた。



 言われるまま、乾いた草を押さえる。


 火の熱が指へ近い。



 怖い。


 だが、離せない。



「強すぎる」


 長老が言った。



 シンは手の力を抜いた。



「弱すぎる」


「難しいな」


「言っただろう」



 長老は、少しだけ目元を動かした。



「火より難しい」



 シンは黙って火を見た。



 小さな赤。



 それが、別の草へ移る。



 ひとつの火が、ふたつになる。


 ふたつになっても、元の火は消えない。



「長老」


「何だ」


「俺、残る」


「見れば分かる」


「たぶん、明日死ぬ」


「それも、だいたい分かる」



 あっさり言われて、シンは少しだけ笑いそうになった。



「怖いんだけど」


「なら、よい」


「それ昨日も聞いた」


「今日も言う」



 長老は火種を包みながら言った。



「怖い者は、雑に渡さぬ」



 シンは火を見た。



「俺、残る者として渡せてるかな」


「今、渡している」


「これだけ?」


「火は、これだけで続く」



 長老は、包んだ火種をシンの手に一度乗せた。



 熱い。


 軽い。


 怖い。



「重いだろう」


「軽いよ」


「だから重い」



 意味は、やはり分かりきらなかった。



 けれど、昨日よりは少しだけ分かる気がした。



 シンは火種を長老へ返した。



「持っていってくれ」


「持っていく」


「コトたちを頼む」


「頼まれずとも」



 長老は立ち上がった。



 年老いた体だった。


 だが、火を持つ姿は、誰よりもまっすぐだった。



「お前は、ここに残れ」



 長老は言った。



「消える者としてではなく」



 シンは頷いた。



「残る者として」



 長老は何も言わなかった。


 ただ、火種を胸に寄せた。




 ウロオボエ様土偶は、コトの腕の中にいた。



 コトは泣きすぎて目を腫らし、それでも土偶だけは絶対に離さなかった。



 フスンはその周りをぐるぐる回っている。



「フスン、邪魔」



 コトが言った。



 ふすん。



「邪魔じゃない?」



 ふすん。



「じゃあ、護衛」



 フスンは胸を張った。


 ように見えた。



 コトはウロオボエ様土偶をフスンへ見せた。



「ウロオボエ様、フスン護衛にする」



 フスンが土偶の匂いを嗅ごうとする。



「食べない」



 ぴたりと止まった。



 シンは思わず言った。



「賢いな」


「フスン、たいぐう分かる」


「待遇な」


「たいぐう」


「うん、もうそれでいい」



 コトは少しだけ笑った。



 その笑い方が、痛かった。



 泣いた後の顔で、無理に笑っている。


 子供なのに、何かを置いていく顔をしている。



 シンはしゃがんだ。



「コト」


「なに」


「フスンを連れていけ」



 コトの顔が変わった。



「シンは?」


「俺はタダがいる」


「フスン、シン守る」


「フスンはコトを守る」



 フスンがシンを見た。


 大きな目だった。


 分かっているのか、分かっていないのか。



 シンは、フスンの頭を撫でた。



「頼む」



 ふすん。



 今度は、少しだけいつもの音に近かった。



 コトは黙っていた。


 それから、ウロオボエ様土偶をシンへ突き出した。



「シンも、触る」


「俺?」


「忘れないように」



 シンは、土偶の頭にそっと触れた。



 乾いた土の感触。


 頼りない顔。


 胸の前で合わされた手。



 こんなものが神なのかと、今でも少し思う。



 だが、この頼りなさが、今は妙に強く見えた。



「ウロオボエ様」


 シンは小さく言った。



「コトを頼む。たぶん」



 コトが頷いた。



「たぶん頼まれた」


「そこは断定しろよ」



 コトはまた少しだけ笑った。



 その笑い方を、シンは覚えておこうと思った。




 荷がまとまり始めた頃、コトがふと川の方を見た。



 火の近くからは見えない。


 けれど、耳を澄ませば水の音がする。


 細く、冷たく、絶えず流れる音。



「シン」


「ん?」


「川って、どこから来るの」



 唐突だった。



 だが、コトの顔は真剣だった。



「川?」


「水、ずっと来る。どこから?」


「山じゃないかな」


「山のどこ?」


「それは……行ってみないと分からないな」



 コトは、少し考えた。



「川のはじまり、見たい」



 シンは言葉を失った。



 川のはじまり。



 こんな日に。


 逃げる前に。


 死ぬかもしれない前に。



 けれど、その言葉は不思議と、胸の奥に静かに入ってきた。



 火の話ばかりしていた。


 守ることばかり考えていた。



 燃えるもの。


 残るもの。


 渡すもの。



 でも、水も流れている。


 どこかから来て、どこかへ行く。


 火とは違うやり方で、続いている。



「いいな」


 シンは言った。



「見たいな、それ」



 コトの目が、少しだけ明るくなった。



「一緒に行く?」



 シンは笑った。



 笑えた。



「行こう。全部終わったら」


「ほんと?」


「ほんと」


「約束?」



 シンは少しだけ迷った。



 約束していいのか。


 果たせないかもしれないのに。



 いや。



 果たせないかもしれないから、約束しないのか。



 長老の声が、胸の奥で鳴った。



 残る者として渡せ。



 シンは頷いた。



「約束」



 コトは、ウロオボエ様土偶を見た。



「ウロオボエ様、覚えて」


「それ、絶対忘れられないやつだな」


「たぶん」



 シンは笑った。



 そして、コトの頭を軽く撫でた。



「もし俺が忘れてたら、コトが教えてくれ」


「シン、忘れる?」


「俺だからな」


「ウロオボエ様っぽい」


「そこ同一視しないで」



 コトは、ほんの少しだけ声を出して笑った。



 その笑い声を聞いて、ユナがこちらを見た。



 目が合った。



 ユナは笑わなかった。



 ただ、泣きそうな顔で、シンを見ていた。




 出発の時は、思ったより早く来た。



 日が傾く前に、長老が火種を持った。


 女たちが子供を連れ、荷を背負う。


 動ける老人も、その列に入る。



 コトはフスンの首に手を置き、ウロオボエ様土偶を抱えている。


 何度も振り返っていた。



 タダは残った。



 村の男たちも残った。



 多くはない。


 怪我をしている者もいる。


 武器と呼べるものも粗末だった。



 それでも、残った。



 逃げるための時間を稼ぐために。


 火が遠ざかるための時間を稼ぐために。



 シンも、残った。



 ユナは、列に入らなかった。



「ユナ」


 シンは言った。



「行け」



 ユナは答えない。



「コトがいる。長老もいる。火もある。ユナが行かないと、たぶん皆、不安になる」


「私は残れる」


「知ってる」



 シンは頷いた。



「知ってるよ。ユナは残れる。戦えるし、走れるし、俺よりずっとちゃんとしてる」


「じゃあ」


「だから行ってくれ」



 ユナの顔が歪んだ。



「それ、嫌い」



 小さな声だった。



「私が強いから、行けって言うの」


「違う」


「違わない」



 ユナは近づいた。



「シンはいつも、変なところで優しい。優しいふりして、勝手に遠くへ行く」



 シンは何も言えなかった。



 ユナは、シンの胸に手を当てた。



 そこは、さっき死んだ場所だった。


 今は傷がない。


 だが、シンにはまだ冷たさが残っている。



「また死んだ?」



 ユナが聞いた。



 シンは、誤魔化せなかった。



「死んだ」



 ユナは目を閉じた。



 怒鳴らなかった。


 泣きもしなかった。


 それが、かえって怖かった。



「戻ったのに」


 ユナは言った。



「遠くなってる」



 シンは息を詰めた。



 いつかの夕暮れの言葉が蘇る。



 遠くへ行く前の顔。



「戻る」


 シンは言った。



「どこからでも」



 ユナは首を横に振った。



「それ、昨日も聞いた」


「今日も言う」



 ユナの目に涙が溜まった。



「私は、置いていかれるの嫌い」


「うん」


「だから、置いていかないで」



 シンは、答えられなかった。



 嘘をつきたくなかった。


 でも、本当も言えなかった。



 ユナは、少しだけ笑った。



 泣きながら笑う、ひどく不器用な顔だった。



「困った顔」


「してる?」


「してる」



 ユナは、シンの手を取った。



 手のひらが重なる。


 前より温かい。



「好き」



 ユナが言った。



 シンの喉が詰まった。



 こんな時に。


 こんな場所で。


 こんな簡単に。



 でも、だからこそ、逃げられなかった。



「俺も」



 声がかすれた。



「好きだ」



 ユナは頷いた。



「知ってる」



 それは前にも聞いた言葉だった。


 だが、今は少し違った。



 知っているから、痛い。


 知っているから、離れたくない。



 ユナは、シンの手を強く握った。



「戻って」


「戻る」


「嘘でも?」



 シンは一瞬だけ黙った。



「嘘にしない」



 それが、今言える精一杯だった。



 ユナは、シンの胸に額を当てた。



 短い時間だった。



 抱きしめるほど長くはない。


 別れと呼ぶには、あまりに足りない。



 けれど、火の匂いと、土の匂いと、ユナの匂いが、シンの中へ深く残った。



 ユナは離れた。



 振り返らずに行くのかと思った。


 だが、少しだけ振り返った。



「川、私も行くから」



 シンは目を見開いた。



 ユナは泣きそうな顔のまま、少し笑った。



「コトだけじゃ危ない」


「そうだな」


「だから、戻って」



 シンは頷いた。



 ユナは今度こそ、列へ入った。




 北へ向かう列が動き出した。



 小さな火種が、長老の胸で揺れている。


 子供たちの足音が、湿った土を踏む。


 荷が鳴る。


 誰かがすすり泣く。



 コトは何度も振り返った。



「シン!」



 シンは手を上げた。



「川、忘れるなよ!」


「シンも!」


「たぶん覚えてる!」


「たぶんじゃだめ!」



 コトは怒った顔をした。



 その顔が、少しだけいつものコトで、シンは笑った。



「覚えてる!」



 コトは頷いた。



 フスンが、ふすん、と鳴いた。



 ウロオボエ様土偶は、コトの腕の中で、困った顔のまま揺れていた。



 やがて、列は森の奥へ入っていった。



 ユナの背中も見えなくなる。


 コトの声も遠ざかる。


 フスンの足音も消えていく。



 残ったのは、男たちの荒い息と、小さくなった火の跡と、南の気配だけだった。



 シンは、しばらく動けなかった。



 隣にタダが立つ。



「行ったな」


「うん」



 タダは森の奥を見た。



「腹が減るな」



 シンは笑った。



 笑って、少しだけ泣きそうになった。



「そこかよ」


「飯は大事だ」


「知ってる」



 タダは棍を肩に担いだ。



「で、どうする」



 シンは南の気配がある森を見た。



「時間を稼ぐ」


「どれくらい」


「できるだけ」


「雑だな」


「俺にしては作戦っぽいだろ」



 タダは少しだけ笑った。



「そうだな」



 男たちが、火の跡の周りに集まってくる。



 多くはない。


 だが、誰も逃げなかった。



 シンは、その顔を見た。



 名前を知らない男もいた。


 何度か一緒に土を運んだ男もいた。


 祭りで笑っていた男もいた。


 襲撃で腕を怪我した男もいた。



 彼らは、シンを見ていた。



 何かを期待している目。


 怖がっている目。


 それでも立っている目。



 シンは息を吸った。



 残る者として渡せ。



 まだ、意味は分かりきらない。



 だが、今ここに残っている。



 なら、残る者として立つしかない。



「火は北へ行った」


 シンは言った。



「俺たちは、火じゃない」



 男たちが黙って聞いている。



「でも、火が遠くへ行くまで、ここで煙になる」



 タダが少しだけ眉を上げた。



「煙か」


「燃え尽きるよりましだろ」


「まあな」



 男たちの何人かが、小さく笑った。



 怖いままの笑いだった。


 だが、笑いだった。



 シンは森を見た。



 その時。



 風が止まった。



 火の匂いが薄くなり、代わりに、別の匂いがした。



 甘い匂い。



 桃のような。


 ここにはない花のような。


 白い雷の後に、かすかに残る匂い。



 シンの背筋が固まった。



 森の縁。



 火の届かない、薄暗い場所。



 そこに、白い影が立っていた。



 黒い髪。


 薄桃色の髪留め。


 白い衣。



 モモだった。



 だが、動かない。



 近づいてこない。



 ただ、影のように立っている。



 シンは一歩、そちらへ踏み出しかけた。



 その瞬間、モモの声がした。



「接近非推奨」



 いつもの声だった。



 だが、いつもより遠かった。



「次回介入時、敵対行動の発生確率が高い」



 シンは息を止めた。



 森の奥で、白い影がわずかに揺れる。



 桃の匂いが、冷たくなった。



(第二十九話へ)

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