ミカヅチ
第二十七話 ミカヅチ
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「北の火は、どうする」
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タケヒコの声は、朝の冷えた空気の中で、妙にはっきり聞こえた。
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脅しではなかった。
怒鳴りでもなかった。
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ただ、確認だった。
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火のそばでは、誰も動かなかった。
タダは棍を握っている。
ユナはコトを抱いている。
長老は火種を胸に寄せている。
フスンは低く唸り、喉の奥を震わせている。
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コトは泣き腫らした目で、タケヒコを見ていた。
ウロオボエ様土偶を胸に抱き、隠れたいのに隠れない子供の顔をしていた。
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シンは折れた骨笛を握っていた。
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帰らない音。
鳴らされなかった音。
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カガチが最後に折ったもの。
コトの「帰ろ」に負けた証拠。
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それを握ったまま、シンは答えた。
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「北の火は、北のものだ」
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単純な答えだった。
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けれど、それでよかった。
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今は、難しい言葉はいらない。
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ここには火がある。
コトがいる。
ユナがいる。
タダがいる。
長老がいる。
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だから、同じことをもう一度言った。
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「お前のものじゃない」
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タケヒコは笑わなかった。
怒りもしなかった。
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ただ、火を見た。
次に種の包みを見た。
それから、長老を見た。
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「火は消さない」
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タケヒコが言った。
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「種も焼かない。子も殺さない。女も、使える手も、残す」
「その言い方がもう嫌だ」
シンは言った。
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タケヒコは気にしなかった。
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「北は南に入れ」
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短かった。
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あまりにも、短かった。
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「火は南の火へ入れる。種は数えて分ける。若い手は数える。子も数える。老いた者も、火を知る者なら残す。水場と狩り場は、こちらで決める」
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火のそばの空気が固くなった。
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長老は何も言わない。
ユナも動かない。
ただ、コトを抱く腕に力が入った。
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「それが条件か」
シンが言う。
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「そうだ」
「従わなければ?」
「争う」
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タケヒコは、そこにも迷いがなかった。
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「従えば、多くが生きる。従わなければ、多くが死ぬ」
「多く、ね」
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シンは骨笛を握り直した。
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「少ない方は、死んでもいいのか」
「いいとは言っていない」
「でも、そうする」
「そうする」
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タケヒコの声は変わらなかった。
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「小さな火だけで冬は越せない。ばらばらの火は、互いを焼く。だから寄せる。束ねる。統べる」
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そこで、タケヒコはシンを見た。
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「お前も南へ来い」
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ユナの息が止まった。
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「俺?」
「そうだ」
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タケヒコは頷いた。
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「お前は、数えにくい。だが、人を動かす。カガチはお前を見て迷った。北の子はお前を見て立つ。女はお前の声で動く。大男はお前を止めずに走らせた」
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タケヒコの目が、森の奥へわずかに流れた。
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「白い女も、お前のそばへ来る」
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シンの背筋が冷えた。
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モモのことまで見ている。
いや、知られている。
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カガチから聞いたのか。
南の目が見ていたのか。
それとも、もっと別のものが伝えているのか。
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「そういうものは、殺すより使う」
タケヒコは言った。
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「俺は道具じゃない」
「人は皆、何かの役に立つ」
「それを道具って言うんだよ」
「ならば、そうだ」
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タケヒコは迷わなかった。
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「火も、石も、名も、人も。使い方を知る者が使う。そうでなければ、ただ失われる」
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シンはタケヒコを睨んだ。
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この男は、ただの略奪者ではない。
ただの悪人でもない。
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だから、厄介だった。
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本気で、自分のやっていることを正しいと思っている。
人は束ねられるべきだと。
小さな火は大きな火へ入るべきだと。
その方が生き延びると。
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その正しさが、シンには寒かった。
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「青い石は」
シンは言った。
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「あれも返す気はないのか」
「返さない」
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即答だった。
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「あれは北のものだ」
「今は俺のところにある」
「預かるって言っただろ」
「まだ返す時ではない」
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タケヒコは、シンを見ていた。
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「青い石は人を止める。お前は人の向きを変える。どちらも要る」
「南に、だろ」
「そうだ」
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悪びれもしない。
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シンは腹の奥が熱くなるのを感じた。
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だが、飛びかかっても意味がない。
目の前の男を倒しても、背後には南がある。
西もいる。
そして、白い雷もある。
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タケヒコの視線が、ふとコトへ落ちた。
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正確には、コトの腕の中にあるものへ。
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ウロオボエ様土偶だった。
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頼りない顔。
胸の前で合わされた手。
眠そうで、不安そうで、何かを思い出しかけて忘れたような目。
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「それは何だ」
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コトが、土偶を少し隠した。
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「ウロオボエ様」
「神か」
「たぶん」
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この状況で、その返事なのか。
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シンはそう思ったが、少しだけ胸が緩んだ。
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タケヒコは土偶を見ていた。
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「弱い名だ」
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コトの顔が、むっとした。
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「弱いけど、持つ」
「何を」
「覚える」
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タケヒコの目が、わずかに動いた。
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「覚えるだけでは、人は動かない」
「動く」
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コトは小さく言った。
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「コト、動いた。カガチも、ちょっと動いた。シンも、変に動く」
「最後のは余計だ」
シンは小声で言った。
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ユナの口元が、ほんの少しだけ揺れた。
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タケヒコは笑わない。
ただ、コトと土偶とシンを順に見た。
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「弱い名で動く者もいる、か」
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その声に、シンはぞっとした。
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感心ではない。
哀れみでもない。
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使えるかどうかを考える声だった。
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「やめろ」
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シンは言った。
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「それはコトのだ」
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コトが、ウロオボエ様土偶を抱く手に力を込めた。
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タケヒコは目を細める。
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「お前は、いつも誰かのものだと言う」
「勝手に全部のものにするよりましだ」
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その時、コトが一歩だけ前へ出た。
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ユナが止めようとする。
だが、コトはユナの腕から少しだけ抜けた。
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足は震えている。
それでも、前に出た。
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「カガチは、帰るって言った」
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タケヒコの目が、コトへ向いた。
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「火に帰るって言った。コト、聞いた。コト、火に言った。カガチ帰るって」
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コトの声は震えていた。
けれど、最後まで落ちなかった。
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「でも、雷がだめってした」
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タケヒコは黙った。
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「雷が、カガチを変にした。カガチ、カガチじゃなくなった。モモが来た。モモ、カガチ斬った。コト、だめって言った。でも、だめじゃなかった。だめだった。分からない」
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言葉が崩れた。
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コトは、ウロオボエ様土偶を強く抱きしめた。
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「でも、カガチは帰るって言った」
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それだけは、はっきりしていた。
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タケヒコは、しばらくコトを見ていた。
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南の者の一人が、何かを言いかける。
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タケヒコが片手を少し上げた。
それだけで、その口は閉じた。
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「カガチは、最後の音を返さなかった」
タケヒコは言った。
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「はい」
コトが答えた。
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なぜか丁寧だった。
怖かったのだろう。
それでも、答えたのだ。
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「骨を折った」
「はい」
「北へ帰ると言った」
「はい」
「そして、雷が変えた」
「はい」
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タケヒコは、折れた骨笛を見た。
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その顔に悲しみはない。
怒りもない。
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ただ、何かを計り直す沈黙があった。
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「分かった」
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タケヒコは言った。
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シンは眉を寄せた。
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「何が」
「カガチのことは分かった」
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短い。
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それだけだった。
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だが、その短さがかえって本当らしかった。
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タケヒコは、白い雷を信じて泣く男ではない。
カガチを悼んで膝をつく男でもない。
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ただ、使えるはずだったものが壊れた理由を理解した。
その程度の顔だった。
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そして、だからこそ怖かった。
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「なら、攻めるな」
シンは言った。
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「カガチは止めた。襲撃は来なかった。北は従わない。でも、今は攻めるな」
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タケヒコは、シンを見た。
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「なぜだ」
「お前が慎重だからだ」
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シンは言った。
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「分からないものは、分からないまま焼かない。そういう奴だろ、お前」
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タケヒコの目が、少しだけ細くなる。
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「俺を読んだつもりか」
「少しは」
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シンは折れた骨笛を掲げた。
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「これがある。カガチは止めた。雷は勝手に動いた。モモにも入った。お前が神の名を使ってるつもりでも、その神はお前の手の中だけにいない」
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火のそばが静まり返った。
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タケヒコの背後にいる南の者たちが、わずかに身じろぎする。
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今の言葉は、彼らにとって危険なのだろう。
神の名が、タケヒコの手から外れている。
それを口にすること自体が。
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タケヒコは振り向かなかった。
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ただ、シンだけを見ていた。
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「神は、上品なものではない」
タケヒコは言った。
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その声には、ほんの少しだけ冷たさとは違うものが混じっていた。
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軽蔑。
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シンは、そう感じた。
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「雷は荒い。人の腹を見ない。順を待たない。だが、人を同じ方へ向ける力はある」
「暴走しても使うのか」
「使う」
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タケヒコは即答した。
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「暴れ馬でも、引ける荷はある。火でも、水でも、神でも同じだ。御しきれぬなら、御しきれる形を探す」
「それで踏まれる奴は?」
「踏まれる」
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あまりにも簡単に言った。
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シンは、手の中の骨笛を折りそうになった。
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「それが統合か」
「そうだ」
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タケヒコは言った。
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「統べるとは、綺麗なことだけではない」
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その声には、自分の選んだ汚さを理解している者の重みがあった。
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だが、理解しているから許されるわけではない。
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シンは奥歯を噛んだ。
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「今ここでは、攻めない」
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タケヒコが言った。
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シンは顔を上げた。
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「本当に?」
「俺は、見る」
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タケヒコは森の奥へ視線をやった。
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「雷がどう動くか。北がどう揺れるか。お前がどう使えるか」
「だから俺は道具じゃないって」
「それを決めるのは、お前だけではない」
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腹の立つ言い方だった。
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だが、タケヒコの背後にいた南の者たちは、ほんの少しだけ力を抜いた。
石刃を握る手が下がる。
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火のそばに、小さな息がいくつも落ちた。
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助かる。
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少なくとも、今は。
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シンも、そう思いかけた。
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その時だった。
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空が、白く鳴った。
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音より先に、光が来た。
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朝の薄い青が、一瞬で消える。
森の葉も、火の煙も、タケヒコの顔も、コトの涙も、全部が白く塗り潰された。
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白い雷。
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シンの喉が詰まった。
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来た。
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まただ。
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カガチを変えた白。
モモを揺らした白。
人の声を、人のものではない音へ変える白。
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だが、タケヒコは驚かなかった。
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目を細めただけだった。
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その顔には、恐れではなく、不快があった。
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思い通りに動かないものを見る顔。
汚い水路を、それでも使わねばならない者の顔。
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「下品な神だ」
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タケヒコが低く言った。
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それから、すぐに声を張った。
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「構えろ。だが、北の火を焼くな」
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シンは息を呑んだ。
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止めない。
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タケヒコは止めなかった。
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来ると分かった上で、動かす。
思い通りではない力を、思い通りではないまま、戦場へ入れる。
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南の者たちが動いた。
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さっきまで力を抜いていた手が、再び石刃を握る。
足が広がる。
視線が火と人へ分かれる。
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森の奥から、短い音が鳴った。
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鳥の声のような。
骨笛のような。
喉を細く絞ったような音。
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西の者たちが現れた。
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隠れていたのだ。
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やはり、タケヒコは一人で来てはいなかった。
確認に来た。
だが、確認だけで済まなければ動けるようにしていた。
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泥を塗った顔。
獣の皮。
黒い石刃。
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木々の間から、低く、ばらばらに出てくる。
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だが、完全にばらばらではなかった。
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南の短い合図に、わずかに反応している。
西の荒い足が、南の手で向きを与えられている。
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そして、その上から白い雷が落ちている。
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西の者の一人が、急に速くなった。
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人の足だった。
だが、人が自分で出す速さではなかった。
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骨の奥に糸を通され、その糸を遠くから引かれたような動き。
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タダが前へ出た。
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棍が唸る。
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黒い石刃を持った腕を弾き、肩を押し、土へ叩き落とす。
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だが、倒れた男はすぐに起き上がろうとした。
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痛みを感じていないわけではない。
顔は歪んでいる。
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それでも、起きる。
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痛みより先に命令がある。
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「下がれ!」
シンが叫んだ。
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ユナはコトを抱いて動いた。
長老も火種を胸に抱いたまま、低く移動する。
フスンが二人の前を走る。
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南の者たちは、すぐには追わない。
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火を囲むように広がった。
逃げ道を塞ぐのではない。
逃げ道を選ばせるように動いている。
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こっちへ逃げれば西がいる。
あっちへ逃げれば南がいる。
火を持つ者は遅い。
子を抱く者はもっと遅い。
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シンには、それが見えた。
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見えてしまった。
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南は殺すためだけに来ていない。
動かすために来ている。
北の火が、どこへ逃げるか。
誰が誰を守るか。
誰が命令を聞くか。
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タケヒコは、それを見ている。
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白い雷の暴れも含めて、見ている。
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この男は、ミカヅチの介入を失敗として見ていない。
不愉快な誤差として見ている。
そして、その誤差ごと使おうとしている。
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「タケヒコ!」
シンは叫んだ。
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タケヒコは、白い光の中でこちらを見る。
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「これを使うのか!」
「使う」
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返事は短かった。
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「使えぬものは、後で捨てる」
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シンはぞっとした。
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ミカヅチさえ、道具。
西の者も道具。
南の者も道具。
北も、火も、コトも、ユナも、シンも。
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全部が、この男の中では配置される。
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だが、その配置の上から、白い雷がまた落ちた。
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タケヒコの背後にいた南の男の一人が、びくりと肩を跳ねさせた。
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目が白く光ったわけではない。
けれど、焦点がずれた。
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タケヒコが横目で見る。
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「お前は待て」
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南の男の足が止まりかける。
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だが、止まりきらない。
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半歩。
前へ出た。
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タケヒコの顔に、初めて明確な不快が浮かんだ。
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「待てと言った」
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声は低い。
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それでも男は、ぎこちなく首を動かし、長老の方を見る。
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火種。
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狙いは、火だった。
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タケヒコは北の火を焼くなと言った。
だが、白い雷は違う。
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従わない火は、消す。
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たぶん、それだけだ。
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シンは走った。
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その瞬間、別の西の者が横から飛び出した。
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フスンが吠える。
ユナがコトを抱いて下がる。
タダが一人を押さえている。
⸻
シンは、どちらへ行くべきか一瞬迷った。
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火か。
コトか。
ユナか。
長老か。
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全部。
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全部を見ようとした。
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その時、長老の声が頭の奥で鳴った。
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お前は、火を持ちすぎる。
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うるさい。
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今は、全部だ。
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全部守らなければならない。
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シンは地面を蹴った。
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南の男が長老へ迫る。
その後ろで、西の者がユナの側へ回る。
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ユナは気づいている。
だが、コトを抱いている。
足が遅れる。
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コトは泣きながら、ウロオボエ様土偶を落とすまいとしている。
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フスンが飛んだ。
⸻
西の男の腕へ噛みつく。
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男が叫ぶ。
フスンの体が振り払われる。
⸻
フスンは地面に転がり、すぐ起きようとした。
だが、その一瞬で道が開く。
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石刃が、ユナの肩へ向かう。
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シンは、火を捨てた。
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長老の方へ行けば、火種を守れたかもしれない。
南の男を止められたかもしれない。
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だが、体はユナとコトへ向かった。
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間に合わない。
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そう思った。
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それでも、シンは走った。
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ユナがシンを見た。
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一瞬だけ目が合った。
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来ないで。
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そう言った気がした。
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でも、シンは止まれなかった。
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石刃が、ユナへ届く前に、シンの胸へ入った。
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熱い。
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いや、冷たい。
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どちらか分からなかった。
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息が止まる。
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体が、前のめりに崩れた。
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ユナの声が聞こえた。
⸻
「シン!」
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コトの泣き声も聞こえた。
フスンの吠え声も。
タダが何かを叫ぶ声も。
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そして、タケヒコの声も聞こえた。
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「火を焼くなと言った」
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怒っている。
⸻
タケヒコが、怒っている。
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けれど、その怒りはシンのためではない。
ユナのためでも、コトのためでもない。
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自分の命令が、上書きされたことへの怒りだった。
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こいつは分かっている。
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シンは、倒れながら思った。
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分かった上で、使っている。
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思い通りにならない神を。
下品だと軽蔑している神を。
それでも、統べるために使う。
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だから、なおさら危ない。
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何も知らずに振り回されているのではない。
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手を焼くと知りながら、火を掴んでいる。
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ユナの手が伸びる。
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届かない。
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コトがウロオボエ様土偶を抱いたまま、何かを叫んでいる。
たぶん、シンの名前だった。
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長老の姿も見えた。
火種は、まだ消えていない。
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よかった。
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そう思ってしまった。
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でも、駄目だ。
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これで終わるかもしれない。
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八度目。
⸻
シンの知るかぎり、前の時代では八度目で飛ばされた。
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終わる。
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ここまでか。
⸻
ユナを置いていく。
コトを置いていく。
火を置いていく。
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モモにも、文句を言えていない。
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長老の言ったことも、まだ分かっていない。
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残る者として渡せ。
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できていない。
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何も、渡せていない。
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視界が白くなった。
⸻
白い雷の色なのか。
死の色なのか。
もう分からなかった。
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シンは、八度目の死を迎えた。
⸻
⸻
ふすん、と音がした。
⸻
シンは目を開いた。
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火の匂いがした。
⸻
煙。
土。
冷えた朝の空気。
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胸に刃はない。
息ができる。
⸻
目の前で、フスンが低く唸っていた。
⸻
まだ夜明け前だった。
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タダが外側で棍を握っている。
ユナがコトを抱き寄せている。
長老が火種を胸に寄せている。
⸻
森の奥から、南の足音が近づいてくる。
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戻った。
⸻
この時代に。
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まだ、ここに。
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シンは震える手で、自分の胸を掴んだ。
⸻
傷はない。
⸻
だが、刃の冷たさは残っていた。
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ユナがこちらを見る。
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「シン?」
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シンは答えようとした。
だが、声が出なかった。
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八度目。
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死んだ。
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なのに、飛ばされていない。
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まだ、ユナがいる。
コトがいる。
火がある。
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シンは、喉の奥で息をした。
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それは安堵ではなかった。
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もっと冷たいものだった。
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自分が、何かを数え間違えている。
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決定的に。
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八じゃない。
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そう思った瞬間、森の奥からタケヒコが現れた。
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さっきと同じ歩幅で。
同じ顔で。
同じ朝の中へ。
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シンは、震える手を握り込んだ。
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今度は、知っている。
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この後、白い雷が来る。
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タケヒコはそれを止めない。
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使う。
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分かった上で、使う。
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そして、その神は、タケヒコの言うことも聞ききらない。
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シンは息を吸った。
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折れた骨笛が、手の中で痛む。
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火はまだ小さい。
だが、残っている。
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ユナも、コトも、まだ生きている。
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なら、まだ渡せる。
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何を渡すのかは、分からない。
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それでも、今度は落とさない。
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タケヒコの視線が、最後にシンへ来た。
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そして、同じ声が朝に置かれた。
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「音が返らなかった」
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シンは、折れた骨笛を握ったまま、タケヒコを見返した。
⸻
(第二十八話へ)




