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帰らない音

第二十六話 帰らない音



 襲撃は、来なかった。



 それは、助かったということのはずだった。



 火は残っている。


 種も残っている。


 タダも、ユナも、長老も、子供たちも、まだそこにいる。



 森の奥から石は飛んでこない。


 黒い石刃を持った西の者たちも来ない。


 短い合図で人を動かす南の者たちも、まだ現れない。



 だが、その静けさが、誰よりもコトを泣かせた。



 火のそばへ戻った時、集落の者たちは皆、息を詰めていた。



 タダは、一番外側に立っていた。


 太い枝を削った棍を手にして、火に背を向けている。


 いつもの大きな背中だった。


 だが、その背中はいつもより硬かった。



 シンたちが森へ入ってから、ずっと敵の来る方角を見ていたのだろう。



 長老は火種を抱いていた。



 薄い皮に包んだ小さな火。


 それを赤子のように胸へ寄せている。


 しわだらけの手は細いのに、その手つきだけは誰よりも強かった。



 男たちは石や枝を握っている。


 女たちは子供を奥へ寄せている。


 皆、戦うためというより、少しでも遅らせるための顔をしていた。



 その中へ、シンたちは戻った。



 ユナはコトを抱いていた。



 コトは、ウロオボエ様土偶を胸に押しつけたまま、息の仕方を忘れたように泣いていた。


 フスンがその足元にまとわりつき、鼻先を何度も押しつける。



 ふすん。



 小さく鳴く。



 いつもの間の抜けた音ではなかった。


 慰め方を知らない獣が、それでもどうにか慰めようとしている音だった。



「カガチは」



 タダが言った。



 怒鳴ってはいない。


 ただ、その低い声だけで、火のそばにいた者たちの肩がわずかに固まった。



 ユナが、コトを抱く腕に力を込める。



 コトは顔を上げた。


 涙で濡れた頬が、火の光を受けて光っている。



「カガチ、帰るって言った」



 誰に向けた言葉なのか、分からなかった。



 タダにか。


 ユナにか。


 長老にか。


 それとも、火にか。



「火に帰るって言った。コト、言った。カガチ帰るって、火に言った」



 言葉の途中で、声が崩れた。



 ユナがコトの頭を胸へ寄せる。


 コトはそこに顔を埋めて、声にならない泣き声を漏らした。



 シンは、腰につけていた折れた骨笛を取り出した。



 カガチが最後に握り潰したものだ。



 鳥の骨で作られた細い笛。


 真ん中から折れていて、もう正しい音は出ない。



 南へ届くはずだった、最後の音。



 それは、鳴らされなかった。



 シンはそれを長老へ渡した。



 長老は両手で受け取った。


 骨笛をしばらく見つめる。


 火の明かりが、折れた断面を赤く照らしていた。



「これは、帰らない音だ」



 長老は言った。



「鳴れば、帰らなかった。鳴らなかったから、帰ろうとした」



 コトの泣き声が、また細く震えた。



 シンは唇を噛んだ。



 その通りだった。



 カガチは裏切っていた。


 南へ通じていた。


 北が従うかどうかを見ていた。



 あの最後の音を返せば、統率された襲撃が来るはずだった。



 だが、カガチは音を返さなかった。



 コトの「帰ろ」に負けた。



 火に帰るという、小さな子供の言葉に負けた。



 南の大きな流れでもなく。


 タケヒコの命令でもなく。


 白い雷の名でもなく。



 ただ、火のそばへ帰るという、それだけの言葉に負けた。



 だから、襲撃は来なかった。



 だからこそ、コトは泣いていた。



「白い雷が落ちた」



 シンは言った。


 自分の声が、思ったより低く聞こえた。



「空が裂けたみたいに光って、それからカガチが変わった。目が違った。声も違った。カガチじゃなかった」



 長老は黙って聞いていた。


 タダも動かない。



 ユナは、コトの耳を塞がなかった。


 聞かせるべきだと思ったのか、隠してももう遅いと思ったのか、シンには分からない。



「カガチは、俺とコトを殺そうとした」



 コトの肩が小さく震えた。



 シンは一度、息を止めた。


 次の言葉は、もっと言いづらかった。



「モモが来た」



 火のそばの空気が変わった。



 あの白い女。


 火の外から来る女。


 シンのそばに現れ、助ける時もあれば、ただ見ているだけの時もある女。



 集落の者たちにとって、モモはまだ人ではない。


 かといって、ただの神でもない。


 守るものなのか、怖れるものなのか、誰にもはっきり分からない。



 シンにとっても、それはもう分からなくなっていた。



「モモが、カガチを斬った」



 コトの泣き声が止まった。


 止まったというより、喉で詰まった。



 火の音だけが残った。



 ぱち、と枝が爆ぜる。



 コトが顔を上げた。


 涙の跡でぐしゃぐしゃになった顔で、シンを見た。



「モモ、だめって言った」



 小さな声だった。



「コト、だめって言った。カガチ、だめって言った。モモ、りょって……言わなかった」



 シンは返事ができなかった。



 モモはコトを守った。



 あの一太刀がなければ、コトは死んでいた。


 シンも死んでいた。


 ユナも守れなかったかもしれない。



 だが、コトの目に映ったものは違う。



 帰ろうとしたカガチが倒れた。


 斬ったのはモモだった。



 守ったのもモモだった。


 奪ったのもモモだった。



 その二つを、どうやって一つの言葉にすればいいのか、シンには分からなかった。



「でも、モモが来なかったら」



 ユナが言いかけて、やめた。



 コトを抱く腕が震えていた。



 シンは、その震えを見た。


 ユナも分かっているのだ。


 言葉で切り分けられるほど、これは簡単な話ではない。



 コトはウロオボエ様土偶を抱え直した。



 弱い神様の、眠そうで、困ったような顔が、火の方を向いている。



「モモ、どこ?」



 コトが聞いた。



 シンは森を見た。



 甘い匂いは、もうなかった。


 白い衣もない。


 黒い髪もない。


 桃の髪留めもない。



「分からない」



 そう答えるしかなかった。



 コトはまた泣いた。



 今度は、カガチのためだけではなかった。




 タダが森へ向かった。



 誰に断るでもなく、ただ一歩を踏み出した。



 シンも反射的に足を動かしたが、タダは振り向かずに言った。



「来るな」



 その声で、シンは止まった。



 タダは怒っているのではなかった。


 少なくとも、表に出してはいなかった。



 ただ、今は一人で行くべきだと決めている声だった。



 森の中へ、タダの大きな背が消えていく。



 コトはそれを見ていた。


 止めようとはしなかった。


 ただ泣きながら見ていた。



 タダがカガチのところへ行くのだと、分かっていたのだろう。



 長い時間が過ぎた。



 その間も、襲撃は来なかった。



 森の奥で鳥が一度だけ鳴く。


 フスンが耳を立てる。


 男たちが枝を握り直す。



 だが、何も来ない。



 虫の音が戻り、風が木の葉を鳴らし、火の煙が低く流れていく。


 それだけだった。



 来ない。



 来ない。



 来ない。



 そのたびに、カガチが最後の音を返さなかった事実だけが重くなっていった。



 やがて、タダが戻った。



 肩と腕に土がついていた。


 膝にも土がついていた。



 血ではなかった。


 湿った黒い土だった。



 コトがユナの腕から顔を出す。



「カガチは?」



 タダはすぐに答えなかった。



 大きな男が、言葉を選んでいた。



「土に寝かせた」



 タダは言った。



 コトは目を丸くした。



「火に帰らない?」



 タダは長老を見た。



 長老は折れた骨笛を火のそばへ置き、静かに言った。



「土も、火の外ではない」



 コトは分からない顔をした。



「でも、火じゃない」


「今はな」



 長老は火を見た。



「土に寝たものを、火は忘れぬ。」


「火が忘れぬものは、いつか煙にも、灰にも、草にもなる。食うものにもなる。戻り方が違うだけだ」



 コトは唇を震わせた。



「カガチ、戻る?」


「お前が忘れなければ」



 長老は言った。



「火も忘れぬ」



 コトは、理解したのかしていないのか分からない顔で、何度も頷いた。



 それから、ウロオボエ様土偶を火へ向けた。



「ウロオボエ様も、覚える」



 その声があまりにも頼りなくて、シンは胸が痛くなった。



 長老は否定しなかった。



「なら、覚えさせろ」



 コトは土偶を抱えたまま、また泣いた。




 日が傾いても、襲撃は来なかった。



 水を汲みに行く者は、必ず二人以上で動いた。


 子供たちは奥の窪みへ寄せられた。


 火種と種の包みは別々にされた。



 水の器は一つの場所へ集めず、獣皮も乾いた草も、すぐ持ち出せるように分けられた。



 皆、忙しく動いていた。



 だが、それは安心するための動きではなかった。



 来ないものを待つための動きだった。



 シンは何度も森の縁へ行った。



 甘い匂いはしない。



「モモ」



 声を出してみる。



 返事はない。



 シンは木の幹に手を置いた。


 樹皮が冷たい。


 指先にざらつきが残る。



 モモはいつも、来る時には勝手に来る。


 呼んだから来るわけではない。


 呼んでも、来ない時は来ない。



「お前、守ったんだぞ」



 シンは森の奥へ向けて言った。



 誰も聞いていないと思った。


 少なくとも、そう思いたかった。



「カガチを斬っただけじゃない。コトを守ったんだ。俺も、ユナも、たぶん全部、あそこでお前が止めたんだ」



 風が葉を撫でる。



 返事はない。



「失敗じゃない」



 その言葉は、モモへ向けたものだった。



 だが、口にした瞬間、自分にも向けていると分かった。



 失敗じゃない。



 そう言わなければ、立っていられなかった。



 カガチは死んだ。


 コトは泣いている。


 モモは消えた。


 襲撃は来ない。



 助かったはずなのに、足元が崩れている。


 守ったものと失ったものが同じ場所にあって、どちらを数えればいいのか分からない。



 モモは、いつも「誤差」と言った。



 命令から外れるもの。


 計算からずれるもの。


 正しくないもの。


 不要なもの。



 そんなふうに言っているように見えた。



 けれど、今は違う気がした。



 モモの中で起きたものは、ただの誤差ではない。



 コトを守りたいという動き。


 白い雷に引かれる動き。


 斬ろうとする腕。


 斬るまいとする腕。



 その間で、モモは確かに選ぼうとしていた。



 選ぼうとして、壊れかけていた。



「戻ってこいよ」



 シンは言った。



「俺、まだ文句言ってないからな。勝手に来て、勝手に斬って、勝手に消えやがって。ちゃんと説明しろよ。いつもみたいに、変な顔で、誤差とか言えよ」



 森は黙っていた。



 甘い匂いも、白い影もなかった。



 シンはしばらくそこに立っていた。



 自分の手が震えていることに、しばらく気づかなかった。




 夕暮れが濃くなった頃、ユナが来た。



 コトは眠っているらしい。


 泣き疲れて、ウロオボエ様土偶を抱いたまま、火のそばで眠っている。


 フスンがぴったりくっついていて、誰かが近づくたびに唸るのだとユナは言った。



「探してるの」



 ユナが聞いた。



「モモを?」



 シンは頷いた。



「呼んでも来ないけどな」


「いつもそうでしょ」


「まあな」



 少しだけ笑おうとした。



 うまくいかなかった。



 ユナは隣に立った。


 肩が触れそうな距離だった。



 火からは少し離れているので、顔は薄暗い。


 だが、その目だけはよく見えた。



「また遠く見てる」



 ユナが言った。



「そんな顔してる?」


「してる」



 即答だった。



「遠くへ行く前の顔」



 シンは言葉に詰まった。



 ユナは、こういう時だけ妙に鋭い。


 匂いだの顔だの、シンにはどうにも誤魔化せないものを当たり前のように読む。



「行かないよ」



 シンは言った。



 言ってから、胸の奥が冷えた。



 嘘かどうか、自分でも分からなかった。



 今のシンは七度死んでいる。


 シンの知るかぎり、前の時代では八度目で飛ばされた。



 なら、次に死ねば終わるかもしれない。



 この時代から放り出されるかもしれない。


 ユナも、コトも、この小さな火も、全部置いていくことになるかもしれない。



 けれど、それを言えば何になる。



 ユナに何をさせる。



 抱きしめて引き止めさせるのか。


 泣かせるのか。


 怒らせるのか。



 それとも、自分が楽になりたいだけなのか。



 ユナはシンを見ていた。



「行かないって顔じゃない」


「どんな顔だよ」


「行きたくないけど、行くかもしれない顔」



 シンは何も言えなかった。



 ユナは少しだけ息を吐いた。


 それはため息ではなく、泣くのをこらえる時の呼吸に近かった。



「私、置いていかれるの嫌い」



 小さく言った。



 シンの胸に刺さった。



「置いていくつもりはない」


「つもりじゃなくても、そうなることはある」



 ユナは森を見た。



「カガチも、帰るつもりだった」



 シンは返せなかった。



 ユナはそれ以上責めなかった。


 ただ、手を伸ばし、シンの手を握った。



 冷えていた。



 ユナの手も、シンの手も。



「戻って」



 ユナが言った。



「どこからでもいい。遠く見てもいい。でも、戻って」



 シンは、その手を握り返した。



「戻る」



 今度は、嘘にしたくなかった。




 夜になる前、長老がシンを呼んだ。



 火のそばだった。



 皆から少し離れているが、火から遠いわけではない。


 炎の明るさが顔の半分を照らし、もう半分を影に沈めていた。



 長老は灰を指で寄せ、細い枝で火の形を整えている。



 火は小さい。



 小さいが、確かに生きている。



「座れ」



 シンは座った。



 長老はすぐには話さなかった。


 火の音があった。


 遠くでフスンが鼻を鳴らす音がした。



 コトの寝息は聞こえない。


 けれど、そこにいることは分かる。



 しばらくして、長老は言った。



「お前は、火を持ちすぎる」



 シンは顔を上げた。



「どういう意味だ」


「そのままだ」



 長老は灰を寄せた。



 赤いところを隠しすぎず、風を通しすぎず、炎が大きくならないように、しかし消えないように整えている。



「火も、種も、子も、女も、男も、犬も、白いものも。全部を、お前が抱えようとしている」



 シンは反射的に言い返した。



「抱えなきゃ死ぬ」



 思ったより鋭い声が出た。



「俺が持たなきゃ、皆死ぬんだよ。俺が知ってるんだ。何が来るか、どこから来るか、どう死ぬか。知ってる俺がやらなきゃ、また死ぬ。何度も、何度も」



 長老は驚かなかった。



 火を見たまま、静かに言った。



「皆、死ぬ」



 シンは言葉を失った。



「死なぬ者などいない」


「そういう話じゃない」


「そういう話だ」



 長老は、ようやくシンを見た。



 その目は、火よりも深いところを見ているようだった。



「死を避けるだけなら、火はいらぬ。穴に隠れ、息を殺し、食うものを抱え、誰も信じずにいればいい。それでも、いつか死ぬ。」


「火は、死なぬためだけにあるのではない」



 シンは黙った。



「死んでも、渡すためにある」



 火が小さく爆ぜた。



 その音が、やけに大きく聞こえた。



「カガチは、最後に音を渡さなかった」



 長老は折れた骨笛を指した。



「だから火が残った」


「でも、カガチは死んだ」


「そうだ」


「コトは泣いてる」


「そうだ」



 シンは火を見た。



「モモはいない。カガチもいない。コトは泣いてる。俺はまた何もできなかった。何も救えてない」



 長老は首を横に振った。



「全部は救えぬ」



 その言葉は、前にも聞いた。



 畑を壊した時。


 守るために壊した時。


 ユナも言っていた。



 全部は、守れない。



 あの時は、分かったつもりだった。


 けれど今は、その言葉がひどく冷たく聞こえた。



「お前は全部を持とうとする」



 長老は言った。



「だから、ひとつ落とすたびに、お前の火が弱る」



 シンは拳を握った。



「じゃあ、どうしろって言うんだよ」



 長老は灰をつまみ、ゆっくり火へ戻した。



「渡せ」


「誰に」


「残る者に」



 シンは笑いそうになった。


 だが、笑えなかった。



「俺は、残るつもりだ」



 長老は答えない。



 その沈黙が嫌だった。



「残るつもりだ」



 もう一度言った。



 長老は、火の形を整えながら言った。



「なら、残る者として渡せ」



 シンは眉を寄せた。



「意味分かんねえよ」



「死ぬ者として渡せば、残る者は死の匂いを受け取る。」


「消える者として渡せば、残る者は消えることを覚える。残る者として渡せ。お前がここにいる者だと信じて渡せ。」


「そうすれば、受け取った者は立てる」



 シンは言葉を失った。



 意味は、まだ分かりきらなかった。



 けれど、胸の奥に何かが刺さった。


 小さな骨の棘のようなものだった。


 抜こうとしても抜けない場所に、深く刺さった。



「俺は」



 シンは言った。



「また死ぬかもしれない」



 長老は頷いた。



「そうだろうな」



 あまりにあっさり言うので、シンは少しだけ腹が立った。



「怖くないわけじゃない」


「怖いなら、よい」


「よくねえよ」


「怖くない者は、火を雑に扱う」



 長老はシンを見た。



「怖い者は、渡す手を覚える」



 シンは火を見た。



 小さな火だった。



 こんな小さなものを守るために、何度も死んでいる。



 いや、火だけではない。



 ユナがいる。


 コトがいる。


 タダがいる。


 長老がいる。


 フスンがいる。


 モモがいる。


 カガチも、さっきまでいた。



 全部、抱えたいと思った。


 全部、守りたいと思った。



 だが、その全部を自分一人で持つことはできない。



 分かっている。



 分かっているのに、手が離せない。



「渡すって」



 シンは小さく言った。



「難しいな」



 長老は少しだけ口元を動かした。



「火より難しい」



 その返しが妙に静かで、シンはほんの少しだけ息を吐けた。




 夜が来た。



 それでも襲撃は来なかった。



 誰も深くは眠れなかった。



 コトは泣き疲れてユナの膝で眠った。


 ウロオボエ様土偶を抱えたまま、時々しゃくり上げる。



 ユナはそのたびに背を撫でた。


 フスンはぴったり寄り添い、眠っているようで耳だけはずっと森へ向いていた。



 タダは外側に立っていた。


 火に背を向け、闇を見ている。



 その背中に、さっき森で土を掘った疲れが少しも見えないのが、かえって痛々しかった。



 シンは眠れなかった。



 死んだ時の感覚が、まだ胸に残っていた。



 石が胸に入る感触。


 息が止まる瞬間。


 視界が白く欠ける感じ。



 そして戻った時の、フスンの泥だらけの顔。



 七度目。



 この時代に入ってから、七度目の死。



 前の時代では八度目で飛ばされた。


 そう覚えている。



 だから次が最後かもしれない。



 そう思うたびに、皮膚の下を冷たい虫が這うような感覚がした。



 だが、長老の言葉が残っている。



 残る者として渡せ。



 意味はまだ分からない。



 けれど、もし次が最後なら。



 もし本当にここから消えるなら。



 それでも、死ぬ者としてではなく、残る者として何かを渡せるだろうか。



 ユナに。


 コトに。


 モモに。


 火に。



 そんなことを考えているうちに、夜の奥で何かが動いた気がした。



 音ではない。


 足音でもない。



 もっと遠いものだった。



 地面の下を水が動くような。


 山の向こうで重い石がずれるような。


 まだ形になっていない流れが、こちらへ向かってくるような感覚。



 南が動く前の振動。



 そう思った。



 そして、夜明け前。



 フスンが立ち上がった。




 ふすん、とは鳴かなかった。



 喉の奥で低く唸った。



 タダも同時に動いた。


 まるで同じものを聞いていたかのように、棍を握り直す。



「来た」



 シンは立ち上がった。



 ユナも目を覚ました。


 コトを抱き寄せる。



 コトは眠りの中から引き戻され、すぐにウロオボエ様土偶を抱え直した。


 長老は火種を胸に寄せる。


 男たちは武器を取る。



 誰も叫ばない。



 昨日からずっと張り詰めていたものが、ようやく形を持って現れるのを待っているようだった。



 だが、森から出てきたのは、大勢ではなかった。



 五人。



 いや、六人。



 南の者たちだった。



 泥を塗っていない顔。


 揃った歩幅。


 無駄のない足運び。



 西の者のような荒い息遣いはない。


 叫びもしない。



 ただ、こちらへ向かってくる。



 火を見て、逃げ道を見て、人の配置を見て、何も見逃さない歩き方だった。



 その先頭に、タケヒコがいた。



 大きい男ではない。



 だが、彼が立つと、朝の空気の流れが変わる。



 まだ太陽が上がりきらない薄い光の中で、タケヒコの輪郭だけが妙にはっきりして見えた。


 背後に従う者たちも、彼の影の一部のように止まる。



 火のそばにいた者たちが、誰からともなく黙った。



 タケヒコは、まず火を見た。



 次に、種の包みを見た。



 タダを見た。


 ユナを見た。


 コトを見た。



 コトはユナの後ろに隠れかけたが、完全には隠れなかった。


 泣き腫らした目で、ウロオボエ様土偶を抱えながら、タケヒコを見ていた。



 最後に、タケヒコはシンを見た。



「音が返らなかった」



 第一声は、それだった。



 挨拶でも、脅しでもない。


 確認だった。



 シンは、長老を見た。



 長老は何も言わず、折れた骨笛をシンへ渡した。



 シンはそれを受け取り、タケヒコへ見せた。



「カガチは、帰ろうとした」



 タケヒコの目が、骨笛へ落ちる。



 その視線に、怒りはない。


 悲しみもない。



 ただ、用途を失った道具を見る目に近かった。



 それが、シンの腹の奥を静かに熱くした。



「それを、雷が殺した」



 南の者の一人が、わずかに眉を動かした。



 タケヒコは動かなかった。



「雷は殺さない」



 静かな声だった。



「人を動かす名だ」



 シンはタケヒコを見る。



 その目は、信じる者の目ではなかった。


 祈る者の目でもない。


 神の前で頭を垂れる者の目ではない。



 使う者の目だった。



「名は、人を同じ方へ向ける」



 タケヒコは言った。



「火でもいい。山でもいい。雷でもいい。」


「人は、名がなければ束にならない。束にならぬ人は、冬に負ける。飢えに負ける。」


「隣の火に負ける」



 シンは、骨笛を握る手に力を込めた。



「だから神の名前を使うのか」


「使える名を使う」



 タケヒコは当然のように答えた。



「使える水を引く。使える土を耕す。使える手を集める。使える名を掲げる。それの何が違う」


「人もか」


「人もだ」



 火のそばの空気が硬くなる。



 タケヒコは続けた。



「ばらばらの火は美しい。だが、弱い。」


「小さな火は、風ひとつで消える。子供一人を冬から守れぬこともある。」


「ならば火を寄せる。人を寄せる。水を寄せる。名を寄せる。」


「統べるとは、奪うことだけではない。散って死ぬものを、束ねて生かすことだ」



 その言葉は、恐ろしいほど滑らかだった。



 シンは一瞬、言い返せなかった。



 この男は、ただ奪いたいだけではない。


 支配したいだけでもない。



 本気で、そう信じている。



 人は束ねられるべきだと。


 数えられるべきだと。


 小さな火は、大きな火の中へ入るべきだと。



 その方が生き延びると。


 統合こそが正しいと。



 その思想が、シンには寒かった。



 冬よりも、白い雷よりも、別の冷たさがあった。



「その名が」



 シンは言った。



「お前の手から外れたら?」



 タケヒコの目が、ほんの少しだけ細くなった。



「外れたかどうかを、確かめに来た」



 静かな返事だった。



 タケヒコは、もう一度コトを見た。



 コトはユナの後ろで震えていた。


 だが、目を逸らさなかった。



 泣き腫らした目で、タケヒコを睨んでいた。


 腕の中のウロオボエ様土偶が、朝の薄い光を受けて白く見える。



 タケヒコは言った。



「北の火は、どうする」



 風が止まった。



 朝の森が、息を潜める。



 シンは折れた骨笛を握った。



 帰らない音。



 鳴らされなかった音。



 その小さな骨が、手の中で痛かった。



(第二十七話へ)

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