白雷
第二十五話 白雷
⸻
シンは走った。
⸻
火を背にして。
襲撃の来る方角ではなく、コトが消えた森の奥へ。
⸻
ユナが隣にいた。
フスンが前を走っていた。
⸻
タダの声が背後から聞こえた。
⸻
「急げ!」
⸻
それだけだった。
⸻
止めなかった。
理由も聞かなかった。
⸻
シンは、それがありがたかった。
⸻
森の中は、いつもより暗く感じた。
⸻
昼のはずなのに。
葉の隙間から光は落ちているのに。
土の色が沈んでいる。
⸻
フスンは匂いを追っている。
⸻
足が速い。
だが、何度も立ち止まる。
鼻を地面へ近づけ、耳を動かし、また走る。
⸻
「コト」
⸻
シンは呼びそうになって、口を閉じた。
⸻
敵がいるかもしれない。
南の者がいるかもしれない。
西の者がいるかもしれない。
⸻
声を出せば、こちらの位置も知られる。
⸻
だが、胸の中では叫んでいた。
⸻
コト。
返事しろ。
変な言葉でもいい。
りょでも、近似でも、節穴でもいい。
⸻
何でもいいから、返事しろ。
⸻
フスンが止まった。
⸻
低く唸る。
⸻
シンも足を止めた。
ユナが隣で息を殺す。
⸻
前方に、小さな開けた場所があった。
⸻
倒れた木。
湿った土。
古い鹿の骨。
⸻
その奥に、カガチがいた。
⸻
コトもいた。
⸻
コトは、カガチの腕の中にいた。
暴れてはいない。
縛られてもいない。
⸻
ウロオボエ様土偶を抱えたまま、泣きそうな顔でカガチを見上げている。
⸻
シンは息を吐いた。
⸻
生きている。
⸻
それだけで膝が落ちそうになった。
⸻
「コト」
⸻
今度は、声が出た。
⸻
コトが振り向く。
⸻
「シン!」
⸻
走ろうとした。
⸻
だが、カガチの腕がそれを止めた。
⸻
強くはない。
でも、離さなかった。
⸻
「カガチ」
⸻
シンは言った。
⸻
カガチは、シンを見た。
⸻
その顔は、疲れていた。
⸻
南から帰ってきた夜よりも、ずっと疲れていた。
⸻
「戻れ」
カガチは言った。
⸻
「それはこっちの台詞だ」
⸻
シンは一歩近づく。
⸻
カガチの手が、腰の石刃へ触れた。
⸻
ユナが息を呑む。
⸻
「カガチ」
ユナが呼んだ。
⸻
カガチの目が、一瞬だけ揺れた。
⸻
シンはそれを見た。
⸻
やはり、ユナの声には反応する。
⸻
「ユナ」
⸻
カガチは、名前を呼んだ。
⸻
それだけで、言えなかった多くのものが滲んだ。
⸻
ユナは近づこうとした。
⸻
シンが手で止めた。
⸻
カガチは、今は揺れている。
近づき方を間違えれば、壊れる。
⸻
「コトを離せ」
シンは言った。
⸻
「離せば、あの火は焼かれる」
「離さなくても焼かれる」
「違う」
⸻
カガチの声は低かった。
⸻
「コトだけは、生きる」
⸻
コトがカガチを見上げた。
⸻
「コトだけ?」
⸻
カガチは答えなかった。
⸻
「ウロオボエ様も?」
⸻
それにも答えなかった。
⸻
コトの顔が歪む。
⸻
「ユナは?」
⸻
カガチの喉が動いた。
⸻
「……南に従えば」
「シンは?」
⸻
カガチは、シンを見た。
⸻
その目に、苦い熱が戻った。
⸻
「あいつは従わない」
⸻
「あいつじゃない。シン」
⸻
コトの声は震えていた。
⸻
「シンは?」
⸻
カガチは言葉を失った。
⸻
シンは一歩だけ近づいた。
⸻
「カガチ。襲撃は、お前が呼んだのか」
⸻
ユナがシンを見る。
⸻
コトも固まる。
⸻
カガチは、すぐには答えなかった。
⸻
風が止まっている。
⸻
鳥の声もない。
⸻
遠くで、枝が折れる音がした。
⸻
襲撃は近い。
⸻
「呼んではいない」
カガチは言った。
⸻
「まだ」
⸻
シンの背中に冷たいものが走った。
⸻
「まだ?」
⸻
カガチは、腰から細い骨笛を取り出した。
⸻
小さい。
鳥の骨で作ったようなものだった。
⸻
「最後の音を返せば、来る」
⸻
ユナの顔が変わった。
⸻
「カガチ」
⸻
カガチはユナを見なかった。
⸻
「タケヒコは慎重だ。北が従うなら、焼かない。使えるなら、生かす。子供も、女も、火も、種も」
「数えて?」
シンが言う。
⸻
カガチの手が震えた。
⸻
「数えられずに死ぬよりましだ」
「コトも?」
「コトは生きる」
「コトだけか」
⸻
カガチは黙った。
⸻
「お前は、コトを助けに来たんじゃない」
シンは言った。
⸻
「コトを連れて、南に渡すために来た」
⸻
カガチの顔が歪んだ。
⸻
「違う」
「違わない」
「違う!」
⸻
声が割れた。
⸻
コトがびくりと震える。
⸻
カガチは、その震えに気づいて、すぐに腕の力を緩めた。
⸻
その瞬間、シンは見た。
⸻
まだ、間に合う。
⸻
カガチは、完全には向こう側に行っていない。
⸻
「カガチ」
シンは声を落とした。
⸻
「お前は、コトを守りたいんだろ」
⸻
カガチは答えない。
⸻
「だったら、コトに聞け」
⸻
「子供に何が分かる」
「分かるよ」
⸻
コトが言った。
⸻
小さな声だった。
⸻
だが、全員が聞いた。
⸻
「コト、分かる」
⸻
カガチは、腕の中のコトを見た。
⸻
「コト」
「カガチ、帰ろ」
⸻
カガチの顔が止まった。
⸻
「南に行けば、食える」
「帰ろ」
「寒くない場所もある」
「帰ろ」
「お前は、死なずに済む」
⸻
コトは、ウロオボエ様土偶をぎゅっと抱いた。
⸻
「コトだけ生きるの、やだ」
⸻
カガチの唇が震えた。
⸻
「お前は、分かってない」
「分かる」
「分かってない」
「分かる!」
⸻
コトは泣いた。
⸻
涙が頬を伝う。
⸻
「コト、ユナと食べる。タダの肉、食べる。シンの変な言葉、聞く。フスンと寝る。ウロオボエ様、待遇する」
⸻
シンは、こんな場面なのに、少しだけ笑いそうになった。
⸻
カガチは笑わなかった。
⸻
泣きそうな顔をした。
⸻
「カガチもいる」
コトは言った。
⸻
「カガチ、火に帰る」
⸻
カガチの手から、骨笛が少し下がった。
⸻
「俺は」
⸻
声が掠れる。
⸻
「俺は、もう」
「帰る!」
⸻
コトが叫んだ。
⸻
「火に言った! カガチ帰るって、火に言った!」
⸻
その言葉に、カガチは完全に止まった。
⸻
火に言った。
⸻
死んだ姉に言ったのではない。
南に言ったのでもない。
タケヒコに言ったのでもない。
⸻
火に言った。
⸻
この小さな集落の、弱い火に。
⸻
カガチは、ゆっくり骨笛を握り潰した。
⸻
ぱき、と小さな音がした。
⸻
骨が折れた。
⸻
「……戻ろう」
⸻
カガチが言った。
⸻
シンは息を止めた。
⸻
「本当に?」
「俺が最後の音を返さなければ、襲撃は来ない」
⸻
カガチは顔を上げた。
⸻
その目は、まだ苦しそうだった。
だが、さっきまでとは違っていた。
⸻
「タケヒコは確かめずには動かない。俺の返しがなければ、北がどうなったか分からない。分からないものに、すぐ火は投げない」
⸻
シンは喉の奥で息をした。
⸻
助かる。
⸻
少なくとも、この襲撃は止められる。
⸻
ユナが一歩近づいた。
⸻
「カガチ」
⸻
カガチはユナを見た。
⸻
その顔は、やはり苦しそうだった。
⸻
「すまない」
⸻
短い言葉だった。
⸻
ユナは答えなかった。
⸻
許すとも、許さないとも言わなかった。
⸻
ただ、コトへ手を伸ばした。
⸻
カガチは、今度こそコトを離した。
⸻
コトがユナに抱きつく。
⸻
フスンが駆け寄り、コトの足に鼻を押しつけた。
⸻
ふすん。
⸻
今度は鳴いた。
⸻
「フスン!」
⸻
コトは泣きながら笑った。
⸻
ウロオボエ様土偶は、まだ腕の中にあった。
⸻
シンは、ようやく息を吐いた。
⸻
「戻ろう」
⸻
言った。
⸻
「今すぐ」
⸻
カガチは頷いた。
⸻
その瞬間だった。
⸻
空が、白く裂けた。
⸻
雷だった。
⸻
だが、音より先に光が来た。
⸻
白い。
⸻
昼の光ではない。
火の光でもない。
骨の中まで透かすような、冷たい白。
⸻
木々の影が、一瞬で消えた。
⸻
全員が動きを止めた。
⸻
カガチだけが、違った。
⸻
びくり、と背を反らした。
⸻
目が見開かれる。
⸻
白い光が、その瞳の奥に入ったように見えた。
⸻
「カガチ?」
⸻
コトが呼ぶ。
⸻
カガチは答えない。
⸻
折れた骨笛を落とした。
⸻
その手が、ゆっくり石刃へ伸びる。
⸻
「おい」
シンは言った。
⸻
「カガチ」
⸻
カガチの口が動いた。
⸻
声は、カガチのものではなかった。
⸻
「未完了」
⸻
シンの血が冷えた。
⸻
ミカヅチ。
⸻
名を思うより先に、体が理解した。
⸻
これは、人の声ではない。
⸻
「従属、未確定」
⸻
カガチの手が刃を抜いた。
⸻
ユナがコトを後ろに庇う。
⸻
フスンが唸る。
⸻
「観測対象、保全不要」
⸻
カガチの目が、シンを見る。
⸻
次に、コトを見る。
⸻
シンは前へ出た。
⸻
「コトを見るな」
⸻
カガチは動いた。
⸻
速かった。
⸻
南で見た兵の動きではない。
西の荒い動きでもない。
⸻
人の体が、人ではない何かに引かれたような速さだった。
⸻
刃が、シンの喉へ向かう。
⸻
避けられない。
⸻
そう思った瞬間。
⸻
甘い匂いがした。
⸻
白い影が、間に入った。
⸻
金属の音が鳴った。
⸻
モモだった。
⸻
いつ来たのか分からなかった。
⸻
白い衣。
黒い髪。
桃の髪留め。
手には刀。
⸻
モモの刃が、カガチの石刃を受けていた。
⸻
モモの目は、いつもより深かった。
⸻
「コト個体への攻撃を検出」
⸻
声が冷たい。
⸻
だが、奥に何かが混じっていた。
⸻
「制限、解除」
⸻
カガチが唸る。
⸻
人の唸りではない。
⸻
カガチの腕が、不自然な角度で押し込まれる。
⸻
モモは後ろへ下がらなかった。
⸻
「モモ!」
シンが叫ぶ。
⸻
モモは振り向かない。
⸻
「退避」
⸻
短い言葉。
⸻
それだけ。
⸻
カガチが再び刃を振る。
⸻
モモの刀が、白く走った。
⸻
音は一つだった。
⸻
カガチの動きが止まった。
⸻
時間が、止まったように見えた。
⸻
カガチの手から石刃が落ちる。
⸻
膝が折れる。
⸻
コトが、何が起きたのか分からない顔をした。
⸻
「カガチ?」
⸻
カガチは倒れた。
⸻
ゆっくりと。
⸻
土の上に。
⸻
コトの喉から、声にならない音が漏れた。
⸻
「カガチ」
⸻
もう一度。
⸻
今度は、はっきり。
⸻
「カガチ!」
⸻
叫びだった。
⸻
コトが走ろうとする。
⸻
ユナが抱き止めた。
⸻
「いや! カガチ! カガチ!」
⸻
コトが暴れる。
⸻
ウロオボエ様土偶が腕から滑り落ちそうになる。
⸻
フスンが吠える。
⸻
シンは動けなかった。
⸻
カガチは、ついさっき戻ろうと言った。
⸻
火に帰ろうとしていた。
⸻
コトの言葉で戻った。
⸻
戻ったのに。
⸻
白い雷が、それを許さなかった。
⸻
モモは刀を下げていなかった。
⸻
肩で息をしている。
⸻
いや。
⸻
息をしているように見えた。
⸻
彼女は呼吸しなくてもいいはずなのに。
⸻
その体が、小さく震えていた。
⸻
「モモ」
⸻
シンが呼んだ。
⸻
モモは、ゆっくりこちらを向いた。
⸻
その瞳の奥に、白が走った。
⸻
二度目の雷。
⸻
空が鳴った。
⸻
今度は音もあった。
⸻
腹の底を潰すような音。
山が割れるような音。
⸻
白い光が、モモを包んだ。
⸻
黒い髪が、風もないのに揺れた。
⸻
桃の髪留めが、硬く光る。
⸻
白い衣の裾が、火のない場所で燃えるように揺れた。
⸻
モモの表情が消えた。
⸻
先ほどまであった、わずかな揺れが消えた。
⸻
代わりに、何かが降りた。
⸻
これはモモではない。
⸻
モモの形をした、白い機械だ。
⸻
「未確定要素、排除」
⸻
モモの声がした。
⸻
モモの声ではなかった。
⸻
刀が、シンへ向いた。
⸻
次に、コトへ向いた。
⸻
コトは泣いていた。
⸻
「モモ?」
⸻
泣きながら呼んだ。
⸻
「モモ、りょって言って」
⸻
モモの手が、ぴくりと止まった。
⸻
白い光の中で、目が揺れた。
⸻
「りょ」
⸻
かすかな声だった。
⸻
白い機械とは違う声。
⸻
シンの知っている、変で、不器用で、面倒なモモの声だった。
⸻
だが、刀はまだ下がらない。
⸻
腕が震えている。
⸻
斬ろうとしている。
斬るまいとしている。
⸻
二つの命令が、同じ体を引き裂いている。
⸻
「モモ!」
⸻
シンは叫んだ。
⸻
「こっちを見るな!」
⸻
自分でも、何を言っているのか分からなかった。
⸻
でも、そう叫んだ。
⸻
「見たら斬るんだろ! だったら見るな!」
⸻
モモの目が、大きく揺れた。
⸻
刀の切っ先が、わずかに下がる。
⸻
コトが、ユナの腕の中で泣き叫ぶ。
⸻
「モモ、だめ! シン、だめ! コト、だめ!」
⸻
めちゃくちゃな言葉だった。
⸻
だが、その全部が正しかった。
⸻
モモの唇が震えた。
⸻
「だめ」
⸻
小さく言った。
⸻
「該当、禁止」
⸻
白い光が、また強くなる。
⸻
モモの手が、再び上がりかけた。
⸻
シンはコトの前に立った。
⸻
ユナも立った。
⸻
フスンが牙を剥く。
⸻
その時、モモは自分の刀を、無理やり横へ向けた。
⸻
空気が裂けた。
⸻
木が一本、音もなく切れた。
⸻
モモは、その反動のように後ろへ跳んだ。
⸻
人間の跳び方ではなかった。
⸻
白い影が、森の奥へ離れる。
⸻
「離脱」
⸻
声が残った。
⸻
「制限、再構築不能」
⸻
モモはシンを見た。
⸻
一瞬だけ。
⸻
白い光の奥に、いつもの黒い目が戻った気がした。
⸻
「……シン」
⸻
名前を呼んだ。
⸻
それだけだった。
⸻
次の瞬間、モモは消えた。
⸻
甘い匂いだけが、少し遅れて残った。
⸻
⸻
森は、静かだった。
⸻
カガチが倒れている。
⸻
折れた骨笛が、土に落ちている。
⸻
コトが泣いている。
⸻
ユナが、コトを抱いている。
⸻
フスンが低く唸り続けている。
⸻
シンは、何も言えなかった。
⸻
助かった。
⸻
助かったはずだった。
⸻
だが、何一つ勝った気がしなかった。
⸻
カガチは戻ろうとした。
⸻
モモは守ろうとした。
⸻
その両方を、白い雷がねじ曲げた。
⸻
「シン」
⸻
ユナが言った。
⸻
その声で、シンはようやく動いた。
⸻
そうだ。
⸻
戻らなければならない。
⸻
襲撃は、来ないかもしれない。
カガチの言葉が本当なら。
最後の音が返らなければ。
⸻
だが、もう何も信用できなかった。
⸻
「戻る」
⸻
シンは言った。
⸻
コトは泣きながら、ウロオボエ様土偶を抱きしめていた。
⸻
「カガチは?」
⸻
誰も答えられなかった。
⸻
シンは膝をつき、カガチのそばに落ちていた折れた骨笛を拾った。
⸻
そして、コトの前に差し出した。
⸻
「これ、持っていくか」
⸻
コトは首を振った。
⸻
「いらない」
⸻
泣きながら言った。
⸻
「カガチがいい」
⸻
シンは何も言えなかった。
⸻
ユナが、コトの頭を抱いた。
⸻
「帰ろう」
⸻
コトは泣き続けた。
⸻
それでも、歩いた。
⸻
シンたちは森を戻った。
⸻
火のある方へ。
⸻
何も解決していない。
⸻
コトは取り戻した。
⸻
ウロオボエ様も戻った。
⸻
だが、カガチは戻らなかった。
⸻
モモも戻らなかった。
⸻
白い雷だけが、頭の奥に残っていた。
⸻
やがて、木々の向こうに小さな火が見えた。
⸻
タダが立っていた。
⸻
年長の女が火を抱いていた。
⸻
襲撃は、まだ来ていなかった。
⸻
シンは、コトの泣き声を聞きながら、火のそばへ戻った。
⸻
取り戻したものを抱えて。
⸻
失ったものを、置き去りにして。
⸻
(第二十六話へ)




