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窮地

第二十四話 窮地



 シンは、あっけなく六度目の死を迎えた。



 石が飛んだ。


 器が砕けた。


 灰が舞った。



 そこまでは見えた。



 次に見えたのは、タダの背中だった。



 大きな背中。


 いつもなら、それだけで少し安心できる背中。



 だが、その背中はすぐに横へ揺れた。



 鈍い音がした。



 タダの肩に、黒い石の刃が食い込んでいた。



「下がれ!」



 タダの声が飛ぶ。



 だが、下がる場所などなかった。



 森の奥から、人影が出てくる。



 泥を塗った顔。


 獣の皮。


 黒い石の刃。


 骨を吊るした首。



 西の者たちだ。



 祭りの翌日に来た者たちと、似ていた。


 目が荒い。


 息が荒い。


 獣じみている。



 だが、違った。



 走り方が違う。



 誰も勝手に飛び出さない。


 誰も叫びすぎない。


 石を投げる者。


 横へ回る者。


 火のそばへ行く者。


 人を倒す者。



 役割が分かれている。



 暴力が、暴力のまま散らばっていない。



 暴力に、紐がついていた。



 その紐を引いている者たちが、後ろにいた。



 南の者たち。



 泥を塗っていない顔。


 揃った足。


 短い合図。


 鳥に似た鋭い音。



 彼らは前へ出ない。


 手を汚さないわけではない。


 必要なら殺すだろう。



 だが、今は違う。



 西の荒い力を、南の静かな手が動かしている。



 それが分かった瞬間、シンの喉が冷えた。



 これは、前の襲撃ではない。



 獣の群れではない。



 軍だ。



 ユナが、年長の女をかばって動いた。



 その動きに合わせるように、横から男が出た。



 待っていた。



 ユナがそこへ動くことを、待っていた。



「ユナ!」



 叫んだ時には、ユナの腕が掴まれていた。



 彼女はすぐに肘を入れた。


 足をかけた。


 噛みつくように身を捻った。



 だが、もう一人いた。



 一人が受け、一人が押さえる。


 一人が視線を散らし、一人が背後に入る。



 動きが、組まれていた。



 ユナが倒れる。



 シンは走った。



 走ったはずだった。



 だが、足が進まない。



 自分が遅いのではない。


 世界が速すぎる。



 火種を抱いた年長の女が、逃げようとしていた。



 その進む先に、石が転がされた。



 女の足が取られる。



 火種の皮包みが、胸からずれる。



 西の男が飛びつく。



 タダが間に入った。



 鈍い音。



 骨が砕けたような音。



 誰の骨か、分からなかった。



 フスンが吠える。



 犬の声。


 獣の声。


 怒りの声。



 だが、フスンの前にも、すでに人がいた。



 槍ではない。


 網でもない。



 太い枝を二本、横に構えた男たちがいた。



 フスンの跳ぶ高さを知っているような構えだった。



「なんで」



 声が漏れた。



 なんで分かる。



 火の場所。


 水の器。


 年長の女の動き。


 ユナが誰を守るか。


 タダがどこに出るか。


 フスンがどう跳ぶか。



 全部、読まれている。



 シンは、火のそばを見た。



 コトはいない。



 ウロオボエ様もいない。


 カガチもいない。



 その不在だけが、ぽっかり穴のように空いている。



 敵は、その穴を踏まなかった。



 コトを探す動きはない。


 ウロオボエ様土偶を探す動きもない。



 ただ、ここにいる者だけを、正確に潰していく。



 ユナが叫んだ。



 シンの名だった。



 シンはそちらへ向かった。



 その前に、南の男と目が合った。



 西の男ではない。


 泥の顔ではない。



 静かな目。


 数える目。



 その男は、短く指を動かした。



 横から石が飛んだ。



 避けられなかった。



 視界が白く割れた。



 地面が近づく。



 灰の匂い。


 血の味。


 ユナの声。



 タダの怒号。



 それから。



 何もなくなった。




 ふすん。



 鼻息がした。



 シンは、目を開けた。



 泥だらけのフスンがいた。



 一匹で。



 耳を伏せている。


 息が荒い。


 喉の奥で低く唸っている。



 森の奥を見ている。



 シンの背中に、冷たい汗が走った。



 戻った。



 だが、朝ではない。



 カガチがコトと木の実を探しに行く前ではない。



 戻ったのは、フスンが一匹で帰ってきた瞬間だった。



 もう、コトはいない。



 ウロオボエ様もいない。


 カガチもいない。



 そして、襲撃はすぐそこまで来ている。



「……ふざけんな」



 声が震えた。



 怒りか。


 恐怖か。


 それとも、単純に時間が足りないせいか。



 分からない。



 ユナがこちらを見る。



「シン?」



 まだ、彼女は知らない。



 タダも知らない。


 年長の女も、知らない。



 この火があとわずかで潰されることを。


 西の荒い力が、南の指で動くことを。


 北の小さな備えなど、数えられた後では紙のように破れることを。



 シンだけが知っている。



 でも、知っているだけでは足りなかった。



 襲撃は近すぎる。



「タダ!」



 シンは叫んだ。



 タダはすぐに動いた。



 説明を待たない。


 それがありがたかった。



「火を捨てろ!」



 年長の女が目を見開く。



「何を」


「今すぐ!」



 シンは走った。



 火種の皮包みに手を伸ばす。



 女の手が、シンの手を止めた。



 鋭い力だった。



「火を捨てるな」


「捨てるんじゃない! 動かす!」



 言葉が足りない。



 時間も足りない。



「火の場所が読まれてる! ここに来る! ここにいると、全員死ぬ!」



 年長の女の目が細くなった。



 信じたわけではない。


 理解したわけでもない。



 だが、シンの顔を見て、何かを判断した。



「ユナ」



 女が短く呼ぶ。



 ユナが動く。



 火種の包みを抱える。



「どこへ?」


「散れ!」


 シンは言った。



「一つに集まるな! 火も、種も、水も、別々に!」



 タダが男たちへ声を飛ばす。



「北ではない。横だ」



 そう言って、タダは森の低い方を指した。



 シンは一瞬、驚いた。



 タダも分かっている。



 まっすぐ逃げてはいけない。



 水場へ行ってはいけない。


 火を中心に守ってはいけない。



 全部、死んで覚えたことだった。



 だが、今はまだ誰も死んでいない。



 それでもタダは、勘でそこへ辿り着いている。



「フスン!」



 シンは犬を呼んだ。



 フスンは森の奥を見ている。



「コトは後だ!」



 言った瞬間、胸が裂けそうになった。



 後でいいわけがない。


 後にできるわけがない。



 だが今、ここで全員が死ねば、コトを取り戻す者もいなくなる。



「後で、必ず行く!」



 フスンが、ようやくこちらを見た。



 ふすん、とは鳴かなかった。



 ただ、走った。



 森の横手へ。



 その直後。



 鳥が一斉に飛び立った。



「来る!」



 シンの声と、石の音が重なった。



 一つ目の石は、空の火の場所に落ちた。



 器が砕ける。



 だが、そこに火種はなかった。



 二つ目の石は、誰もいない子供の寝場所を打った。



 草が跳ねる。



 だが、そこに子供はいなかった。



 三つ目の石が、水の器を砕いた。



 それは防げなかった。



 水が散る。


 泥が跳ねる。



 森から影が出た。



 泥を塗った西の男たち。



 その後ろに、南の男たち。



 やはり同じだ。



 西の力を、南が動かしている。



 だが、一つだけ違った。



 最初の形が崩れている。



 火の位置に誰もいない。


 子供の寝場所にも誰もいない。


 ユナが年長の女と同じ方向へ走っていない。


 タダが正面に立っていない。



 南の男たちの目が、一瞬だけ揺れた。



 ほんの一瞬。



 だが、その一瞬があった。



「変わる」



 シンは呟いた。



 変えられる。



 少しなら。



 だが、少しでは足りない。



 南の合図が変わった。



 鳥に似た音が二つ。



 西の男たちが、すぐに向きを変えた。



 速い。



 崩れても、戻る。


 外されても、組み直す。



 それが軍だった。



 タダが一人を弾き飛ばす。



 骨が折れる音がした。



 だが、もう一人が横へ回る。


 さらに奥から、南の男が短い槍を投げる。



 タダは避けた。



 避けた先に、石が来た。



 連なっている。



 動きが、繋がっている。



「くそ」



 シンは走った。



 ユナを探す。



 ユナは火種を抱えていた。


 年長の女を前に出し、自分は後ろに下がっている。



 その判断は正しい。



 だが、南の男がそれを見ている。



 静かな目。


 数える目。



 シンは叫んだ。



「ユナ、右じゃない!」



 ユナが反応する。



 左へ跳ぶ。



 そのすぐ後、右側の草むらから西の男が出た。



 外れた。



 また、外せた。



 だが、次が来る。



 南の合図。


 西の足。


 石。


 枝。


 刃。



 完全に防ぐことはできない。



 できるのは、潰される順番をずらすことだけだった。



 そして、その間にも。



 コトはいない。



 ウロオボエ様もいない。


 カガチもいない。



 その穴が、シンの胸を削っていた。



「シン!」



 ユナの声。



 振り向いた瞬間、シンは南の男を見た。



 男は、こちらを見ていた。



 ただの敵ではない。



 シンを見ている。



 火でも、種でも、女でも、子供でもなく。



 シンを。



 その目を、シンは知っていた。



 タケヒコの目に似ていた。



 流れを見る目。


 使えるものを見つける目。


 従うかどうかを測る目。



 男が、短く指を動かした。



 シンは伏せた。



 石が頭上を抜ける。



 避けた。



 今度は避けた。



 だが、そのせいで足が止まった。



 西の男が横から来る。



 タダが間に合わない。



 ユナも遠い。



 フスンの声もない。



 シンは、転がるように逃げた。



 刃が肩をかすめる。



 熱い。



 死んではいない。



 まだ死んでいない。



 息を吸う。



 その時、森の奥で別の声がした。



 泣き声ではない。


 叫び声でもない。



 遠すぎて、分からない。



 だが、シンは振り向いた。



 コトか。



 そう思った。



 その一瞬で、世界が遅れた。



 石が、胸に入った。



 息が止まる。



 膝が落ちる。



 見上げた空は、狭かった。



 枝の隙間が、歪んで見えた。



 死ぬ。



 また死ぬ。



 七度目になる。



 シンの知るかぎり、前の時代では八度目で飛ばされた。



 なら、次で終わるかもしれない。



 この時代の、この火のそばへは、もう戻れないかもしれない。



 それでも、今度は分かった。



 ここを守るだけでは駄目だ。



 襲撃を受けてからでは遅い。



 火を散らすだけでは足りない。


 場所を変えるだけでも足りない。



 コトがいないこと。


 ウロオボエ様がいないこと。


 カガチがいないこと。



 そこから、全部が始まっている。



 なら、最初に取り戻すものは火ではない。



 種でもない。



 青い石でもない。



 コトだ。



 シンは、泥の中で口を開いた。



「……コトを」



 そこで、音が消えた。




 ふすん。



 鼻息がした。



 シンは目を開けた。



 泥だらけのフスンがいた。



 一匹で。



 耳を伏せている。


 息が荒い。


 喉の奥で低く唸っている。



 森の奥を見ている。



 戻った。



 同じ場所。



 同じ時。



 コトは、もういない。



 シンは、喉の奥から息を絞り出した。



「……七度目」



 声が震えた。



 この時代に入ってから、七度目の死。



 残りは、ひとつかもしれない。



 前の時代では、八度目で飛ばされた。



 シンは、そう覚えている。



 だから、次で終わるかもしれない。



 もう、失敗できない。



 ユナが駆け寄ってくる。



「シン?」



 シンは、立ち上がった。



 今度は、火を見なかった。


 水も見なかった。


 森の入口だけを見た。



「コトを取り戻す」



 ユナの顔が変わった。



「今から?」


「今から」


「襲撃は?」


「来る」



 シンは言った。



「でも、ここで待ったら終わる。火を動かしても、散っても、少ししか変わらない」



 フスンが低く唸る。



 森の奥を睨んでいる。



「コトがいないことから、始まってる」



 シンは拳を握った。



「コトを取り戻さないと、この襲撃は止まらない」



 タダが、こちらを見た。



 年長の女も見た。



 ユナは、シンの目を見ていた。



「行く」



 ユナが言った。



「危ない」


「知ってる」


「たぶん死ぬ」


「それも、少し知ってる」



 シンは言葉を失った。



 ユナは、シンの手を掴んだ。



「一人で行かせない」



 森の奥で、鳥が飛び立った。



 襲撃まで、ほとんど時間はない。



 それでも、シンは初めて、襲撃の方を見なかった。



 見るべきものは、森の奥にあった。



 消えたコト。


 消えたウロオボエ様。


 消えたカガチ。



 そして、その向こうにあるはずの、南の紐。



 シンは走り出した。



 火を背にして。



 襲撃へ向かうのではなく。



 襲撃が始まる前の、穴へ向かって。



(第二十五話へ)

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