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同じ火

第二十三話 同じ火



 襲撃は、来なかった。



 一日。


 二日。


 三日。



 南の足音は聞こえなかった。



 西の森も、黙っていた。


 鳥は少しずつ戻った。


 虫の声も、夜になると細く鳴いた。



 それだけで、人は慣れそうになる。



 怖いことだ、とシンは思った。



 昨日まで死ぬほど怯えていたくせに、朝が三つ続くだけで、体は勝手に日常を探し始める。



 火の置き方。


 水を汲む順番。


 子供を寝かせる場所。


 肉を焼く匂いを消すやり方。



 全部が仮のものだった。


 いつでも逃げられるように、いつでも崩せるように作った場所だった。



 それでも、人が座れば、そこは少しずつ火のそばになる。



 コトは、くぼみの中央にウロオボエ様土偶を座らせた。



 最初は木の根元だった。


 次に毛皮の上になった。


 さらにその翌日には、小さな石を三つ並べた“座る場所”ができていた。



「ウロオボエ様、えらくなった?」



 コトが聞く。



「偉くなったというか、待遇が良くなった」


 シンは答えた。



「たいぐう?」


「扱い」


「扱いが良い」


「そう」



 コトは嬉しそうに頷いた。



「ウロオボエ様、待遇」


「その言葉は覚えなくていい」


「たいぐう!」


「覚えるなって言ったろ」



 コトは土偶に向かって言った。



「ウロオボエ様、たいぐう、りょ!」



 シンは頭を抱えた。



「終わった。この集落は終わりです」



 近くで木の枝を折っていたユナが笑った。



「何が終わったの」


「語彙」


「ごい?」


「言葉の中身」


「それも覚えるよ」


「やめろ。今すぐ忘れろ」



 コトは真剣な顔で言った。



「ウロオボエ様、語彙」



 シンは空を見た。



「もう好きにしてくれ」



 フスンが、ふすん、と鼻を鳴らした。



「お前も何か言いたそうだな」



 ふすん。



「語彙か?」



 ふすん。



「違うのか」



 ふすん。



「分からん」



 コトが得意げに言った。



「近似」


「お前、本当にやめろ」



 小さな笑いが起きた。



 火は小さい。


 食べ物は少ない。


 畑はない。


 ヒスイもない。



 それでも笑いは起きた。



 平穏というものは、どうやら強い場所にだけ生えるものではないらしい。



 隠れたくぼみ。


 小さな火。


 頼りない土偶。


 足りない食事。



 そんなところにも、勝手に芽を出す。



 だからこそ、失うのが怖かった。




 カガチは、よく働いた。



 南から帰ってきたばかりだというのに、休むことを嫌がった。



 水を汲む。


 枝を集める。


 子供が入ってはいけない場所を確かめる。


 火の煙がどの方角へ流れるかを見る。



 南を見た者は、何かが違う。


 皆がそう思っていた。



 南には多くの人がいる。


 南には大きな畑がある。


 南には、ここよりもずっと長い列がある。



 それを見て戻ってきた男が、火の位置や水の筋を気にするのは、おかしなことではなかった。



 カガチは無駄口が少ない。


 だが、コトには甘かった。



「カガチ、見て」



 コトがウロオボエ様土偶を持ち上げる。



「ウロオボエ様、語彙」


「……何だ、それは」


「シンの言葉」



 カガチはシンを見た。



「また変なものを残したのか」


「濡れ衣です。半分くらい」


「半分は認めるのか」


「大人なので」



 カガチは鼻で笑った。



 怒っているわけではない。


 だが、完全に許しているわけでもない。



 その目には、まだ種の日のことが残っている。



 南の小さな袋。


 シンが口を出した交易。


 反対したカガチ。


 実った穂。


 壊した畑。



 全部が、まだ終わっていない。



 それでもカガチは、コトが笑うと少しだけ顔を緩めた。



「ウロオボエ様、たいぐう、りょ」


 コトが繰り返す。



「その言葉、外では言うな」


 カガチが言った。



「なんで?」


「分からんやつだと思われる」


「コト、分かる」


「お前だけ分かってもだめだ」



 コトは不満そうに唇を尖らせた。



「モモは分かる」


「モモ?」


「白いモモ」



 カガチの手が、一瞬だけ止まった。



 だが、すぐにまた枝を折り始めた。



「白い女か」


「うん。りょって言う」


「……そうか」



 それだけだった。



 シンは少しだけカガチを見た。



 南でモモのようなものを見たのか。


 それとも、ただ警戒したのか。



 分からなかった。



 カガチはもうコトの方を見ていた。



「変な言葉は、あまり増やすな」


「たいぐう」


「増やすなと言った」


「りょ!」



 カガチは少しだけ困った顔をした。



 コトは楽しそうに笑った。



 その笑いを見ている時だけ、カガチは南帰りの男ではなく、ただの叔父の顔をした。




 ユナは、シンの近くにいる時間が増えた。



 露骨ではない。


 誰の目にも分かるように寄り添うわけではない。



 だが、水を汲みに行く時は、シンに声をかけた。


 食べ物を分ける時は、シンの器を見た。


 髪を結び直す時は、背を向けて座った。



 シンは最初、毎回少し固まった。



 ユナはそれを見て笑った。



「まだ慣れない?」


「慣れたらそれはそれで俺が終わる気がする」


「終わる?」


「何かが」



 ユナは分かっていない顔をした。


 それから、髪紐をシンへ渡した。



「はい」


「はい、とは」


「結んで」



 シンは周囲を見た。



 コトが見ている。


 フスンも見ている。


 タダは見ていないふりをしている。


 カガチは、少し離れた場所で草の紐を編んでいた。



「いや、人前なんだけど」


「何か悪い?」


「悪くはないんだけど」


「じゃあ、早く」



 シンは諦めた。



 ユナの後ろに座る。


 髪に触れる。



 指に、煙と草の匂いが移る。



 ユナの髪は、きれいに整えるには少し難しかった。


 戦い、逃げ、隠れ、眠り、起きる。


 そのたびに、細かな草や灰を含む。



 シンはそれを、指で少しずつ取った。



「痛い?」


「痛くない」


「引っかかる」


「いいよ」



 いいよ、の言い方が柔らかかった。



 シンは、耳が熱くなるのを感じた。



 ユナの首筋が見える。


 そこに汗が少し滲んでいる。


 煙の匂いと、土の匂いと、彼女の体の匂いが混じる。



 近い。



 今までも近かった。


 この時代の距離は、元々近い。



 だが今は、意味が違った。



 ただ近いのではない。


 近くにいることを、互いに許している。



 それが分かるから、余計に手が震えた。



「下手」


 ユナが言った。



「分かってる」


「でも、いい」


「どっちなんだ」


「下手だけど、いい」



 シンは何も言えなかった。



 髪紐を結ぶ。



 一度失敗する。


 二度目で、なんとか形になった。



 コトが拍手した。



「シン、下手だけど、りょ!」


「うるさい」



 ユナが笑った。



 その笑い声が、くぼみの中に柔らかく広がった。



 カガチは、草紐を編んでいた手を一度だけ止めた。



 本当に短い間だった。



 すぐにまた、指を動かす。



 シンは、それに気づいた。



 だが、何も言わなかった。



 カガチも何も言わない。



 ただ、草の擦れる小さな音だけがした。




 その夜、ユナはシンの隣に座った。



 火は小さい。


 大きくすれば見つかる。


 小さくすれば寒い。



 だから、人が寄る。



 年長の女は火に近い。


 コトはその膝元で眠りかけている。


 タダは外側。


 カガチは、その少し内側。



 ユナは、シンの隣だった。



 風が来る。



 ユナが少し肩をすくめた。



「寒い?」


 シンが聞く。



「少し」



 少し、と言いながら、ユナは動かなかった。



 シンは、自分の毛皮の端を少し持ち上げた。



「入る?」



 言ってから、心臓が跳ねた。



 何を言っているんだ、俺は。



 そう思ったが、ユナは普通に入ってきた。



 本当に普通に。



 肩が触れる。


 腕が触れる。


 体温が、毛皮の中で一気に近くなる。



「近い」


 シンが言った。



「近いね」


 ユナが答えた。



「いいの?」


「寒いから」


「寒いからか」


「あと」



 ユナは少しだけ声を低くした。



「シンの匂いが、昨日より戻ってる」



 シンは息を止めた。



「何の報告?」


「灰が薄い」


「俺、匂いで管理されてる?」


「見てるだけ」



 ユナは、シンの肩に軽く頭を預けた。



 重さがかかる。



 小さな重さ。


 だが、逃げられない重さだった。



 シンは動かなかった。



 動きたくなかった。



 火の向こうで、コトが寝返りを打つ。


 ウロオボエ様土偶を抱き直す。



 年長の女が、ちらりとこちらを見た。


 何も言わない。



 タダは見ていない。


 たぶん、見ていない。



 カガチは、火を見ていた。



 炎の向こう。


 影になった顔。



 表情は読めなかった。



 ただ、火を見ていた。



 長く。



 やがて、カガチは薪を一本折った。



 乾いた音が夜に響いた。



 ユナが顔を上げた。



「カガチ?」



 カガチは何でもないように言った。



「火が弱い」



 そう言って、折った薪を火へ入れた。



 火が少しだけ大きくなる。



 その一瞬、カガチの顔が照らされた。



 疲れた顔だった。



 南から戻った男の顔。


 コトを抱きしめた男の顔。


 種に反対した男の顔。



 そして、ずっと言えなかった言葉を、まだ胸に持っている男の顔だった。



 シンは、何も言えなかった。



 ユナは、またシンの肩に頭を戻した。



 カガチは、それ以上こちらを見なかった。




 次の日も、襲撃は来なかった。



 その次の日も、来なかった。



 平穏は、三日を越えると、少しだけ顔つきが変わった。



 最初は怯えながら受け取っていたものを、人は少しずつ使い始める。



 火のそばに、小さな置き場ができた。


 種の包みを置く場所。


 子供が眠る場所。


 水を汲んだ器を並べる場所。



 全部、すぐに壊せる。


 全部、仮のものだ。



 それでも場所が生まれる。



 カガチは、その場所を直した。



 傾いた枝を直し、湿りすぎた草をどかし、子供が足を引っかけそうな根を削った。



 南で覚えたやり方なのか。


 元から器用なのか。



 シンには分からなかった。



 ただ、カガチの手が入ると、場所は少しだけ使いやすくなった。



 コトはそれを見て喜んだ。



「カガチ、すごい」


「大したことじゃない」


「すごい」


「そうか」



 カガチは、それだけで少し柔らかい顔になった。



 その顔を見ると、シンは思った。



 この人は、コトを守りたいだけなのかもしれない。



 南を見て、怖くなって。


 この小さな場所が、あまりに頼りなく見えて。


 だから、何でも直したくなるのかもしれない。



 そう思った。




 その日の夕方、モモがまた来た。



 昨日よりも少し遠い場所に立っていた。


 だが、コトはすぐ見つけた。



「モモ!」



 コトは手を振る。



 モモは手を振らない。


 ただ、少しだけ首を傾げる。



「りょー!」



 コトが叫んだ。



「りょ」



 モモが返す。



 シンは目を閉じた。



「もうだめだ」



 ユナが笑った。



「かわいい」


「どっちが?」


「どっちも」


「モモも?」


「うん」



 シンはモモを見た。



 白い衣。


 無表情。


 距離を測る立ち方。



「かわいい……?」



 モモがこちらを見た。



「該当評価、不明」


「聞こえてたのかよ」



 コトがモモへ駆け寄ろうとする。


 途中でシンが止める。



「そこまで」


「なんで」


「モモは、距離が難しい」


「距離?」


「近づきすぎると、たぶん困る」



 コトはモモを見た。



「困る?」



 モモは少し沈黙した。



「処理が増える」


「しょり」


「考えること」


「モモ、考える?」


「りょ」


「えらい」



 モモは、また沈黙した。



 コトの言葉が、どこかに引っかかったらしい。



「考えると、偉い?」


「うん」


「なぜ」


「考えないと、フスンみたいになる」



 フスンが、ふすん、と鼻を鳴らした。



「失礼だぞ、コト」


 シンが言う。



 コトは慌ててフスンを撫でた。



「フスンもえらい」



 ふすん。



 モモはそれを見ている。



「複数対象への評価変更が早い」


「子供だからな」


 シンが言った。



「子供」



 モモが繰り返す。



 コトは胸を張った。



「コト、大人」


「いや子供」


「ウロオボエ様持てる」


「それは大人だな」



 カガチが横から言った。



 コトは嬉しそうに笑った。



 モモは、カガチを見た。



 一瞬だけ。



 カガチもモモを見た。



 南を見てきた者の顔になった。


 ただ、それだけだった。



 モモは何も言わなかった。



 カガチも何も言わなかった。



 その沈黙を壊したのは、コトだった。



「モモ、節穴?」



 シンは吹き出した。



「やめろ!」



 モモは答えた。



「不明」



 コトは満足げに頷く。



「たぶん、節穴」



「やめなさい!」



 笑いが起きた。



 小さな火のそばで。


 逃げてきた者たちの間で。



 モモは笑わなかった。



 それでも、すぐには消えなかった。



 コトが笑うのを、見ていた。




 四日目の朝。



 カガチは、コトと一緒に木の実を探しに行った。



 誰も止めなかった。



 カガチはコトの叔父だ。


 南から帰ってきたばかりとはいえ、この森を知っている。


 コトも、彼に懐いている。



 フスンもついていった。



「遠くに行くなよ」


 シンは言った。



 コトは振り返って手を振った。



「りょー!」


「それ言いたいだけだろ!」



 カガチがコトの頭を軽く押さえた。



「遠くへは行かない」



 そう言った。



 シンは頷いた。



 ユナが隣に立つ。



「心配?」


「少し」


「カガチがいる」


「うん」



 ユナは森へ入っていく二人を見ていた。



 カガチの背中。


 その横を跳ねるように歩くコト。


 少し後ろをついていくフスン。



「カガチ、変わった」


 ユナが言った。



「南で?」


「うん」



 シンは、カガチの背中を見た。



「ユナは、昔から知ってるのか」


「知ってる」


「どんなやつだった」


「まっすぐ」



 ユナは少し考えた。



「怒るとすぐ分かる。笑うとすぐ分かる。嘘は下手」


「今は?」



 ユナは答えなかった。



 シンは、その沈黙を聞いた。



 今は、分かりにくい。



 そういうことなのだろう。



 森の影が、二人と一匹を飲み込んだ。



 その時、遠くで鳥が鳴いた。



 一度だけ。



 シンは顔を上げた。



 嫌な感じはない。


 風も硬くない。


 虫の声も消えていない。



 何も起きていない。



 平穏は、まだそこにいた。



 だからシンは、見送った。



 その背中を。



 戻ってくるものだと、思って。




 昼になっても、カガチとコトは戻らなかった。



 最初に気づいたのは、ユナだった。



「遅い」



 その一言で、火のそばの空気が少し変わった。



 シンは立ち上がった。



「探しに行く」



 タダも立った。



 年長の女は、空を見た。



 鳥が、もう鳴いていなかった。



 その時。



 森の奥から、フスンが戻ってきた。



 一匹で。



 泥だらけだった。


 息が荒い。


 耳が伏せられている。



「フスン」



 シンが駆け寄る。



 フスンは、ふすん、と鳴かなかった。



 ただ、喉の奥で低く唸った。



 森の奥を見ている。



 コトはいない。



 ウロオボエ様もいない。



 カガチもいない。



「……コトは?」



 フスンは答えない。



 代わりに、森の奥で風が止まった。



 虫の声が消えた。



 シンの背中に、冷たいものが走った。



「タダ」



 声が出た。



 タダはもう動いていた。



 男たちが立つ。


 ユナが年長の女のそばへ走る。


 火種が抱えられる。



 シンは森を見た。



 静かすぎる。



 四日前と同じだ。


 祭りの後の朝と同じだ。


 石が飛ぶ前の、あの沈黙と同じだ。



「来る」



 誰に言ったのか分からなかった。



 次の瞬間。



 木々の向こうで、鳥が一斉に飛び立った。



 遅れて、音が来た。



 人の足音。


 枝を折る音。


 低い声。



 そして、土を蹴る音。



 南でも西でもないような、だが、その両方を混ぜたような影が、森の奥で動いた。



 タダが前へ出る。



「下がれ」



 シンは下がらなかった。



 下がれなかった。



 コトがいない。



 それだけで、足が地面に縫いつけられたようだった。



 ユナが叫ぶ。



「シン!」



 振り返る。



 その瞬間、森から石が飛んだ。



 火のそばの器が砕けた。



 水が散る。


 灰が舞う。


 年長の女が火種を抱え込む。



 フスンが吠えた。



 襲撃だった。



 平穏は、立ち上がる暇もなく倒された。



(第二十四話へ)

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