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取り戻した平穏

第二十二話 取り戻した平穏


⸻


 朝が来た。


⸻


 シンは、しばらく目を開けられなかった。


⸻


 煙の匂いがした。


 灰の匂いがした。


 湿った土の匂いがした。


 毛皮の、少し獣くさい匂いがした。


⸻


 そして、フスンの鼻息がした。


⸻


「近い」


⸻


 いつものように言った。


⸻


 ふすん。


⸻


 返事のように、鼻息が返ってきた。


⸻


 だが、違った。


⸻


 同じ朝ではない。


⸻


 茅葺きの屋根はない。


 祭りの匂いも薄い。


 火の位置が違う。


 体の下の土が違う。


⸻


 ここは、北側のくぼみだ。


⸻


 昨夜、眠った場所。


 襲撃が来なかった夜の、続きの朝。


⸻


 シンは目を開けた。


⸻


 薄い枝の隙間から、朝の光が落ちていた。


 白い光ではない。


 少し湿った、灰色がかった光だ。


⸻


 その光の中に、皆がいた。


⸻


 ユナが火種のそばに座っている。


 タダは少し離れた場所で、森を見ている。


 年長の女は、灰を指で寄せている。


 コトはウロオボエ様土偶を抱えたまま、口を開けて眠っている。


 フスンは、シンの足元で丸くなっていた。


⸻


 誰も死んでいない。


⸻


 その事実が、遅れて体に入ってきた。


⸻


 シンは息を吐いた。


⸻


 長く。


 肺の底に溜まっていたものが、ようやく少し出ていくような息だった。


⸻


「……朝だ」


⸻


 声に出すと、ユナがこちらを見た。


⸻


「朝だよ」


⸻


 当たり前の返事だった。


⸻


 当たり前すぎて、シンは泣きそうになった。


⸻


「戻ってない」


⸻


 思わず言った。


⸻


 ユナは少し首を傾げた。


⸻


「戻ってるよ」


「え?」


「ここに」


⸻


 ユナは火のそばを指した。


⸻


「シン、ちゃんとここに戻ってる」


⸻


 シンは少し黙った。


⸻


 意味は違う。


 でも、間違ってはいなかった。


⸻


「そうだな」


⸻


 シンは体を起こした。


⸻


 体が重い。


 死んだ後の重さではない。


 ただ疲れている。


 眠りが浅く、地面が硬く、昨日の緊張が抜けきっていないだけの重さだ。


⸻


 それが、妙に嬉しかった。


⸻


 ただ疲れている。


⸻


 それは、生きている体の重さだった。


⸻


⸻


 朝飯は、薄かった。


⸻


 飯と呼べるほどのものでもない。


 少しの実。


 砕いた根。


 昨日の残りの鹿肉を、本当に小さく裂いたもの。


 それを湯に入れて、灰の中で温めた。


⸻


 祭りの夜のような豊かさはない。


 初めての収穫の喜びもない。


⸻


 それでも、全員が同じものを口にした。


⸻


 コトは器の中を覗き込み、真剣な顔で言った。


⸻


「少ない」


「少ないな」


 シンは答えた。


⸻


「昨日より?」


「昨日より」


「祭りより?」


「祭りより、かなり」


⸻


 コトはしばらく考えた。


⸻


「でも、ある」


⸻


 シンは少し驚いた。


⸻


 ユナが、ほんの少し笑った。


⸻


「あるね」


⸻


 コトは満足そうに頷いた。


⸻


「あるなら、食べる」


「偉い」


 シンは言った。


⸻


「コト、偉い?」


「偉い」


「ウロオボエ様は?」


「持たれてるだけだな」


⸻


 コトは土偶を見た。


⸻


「ウロオボエ様、持たれて偉い」


⸻


 フスンが、ふすん、と鼻を鳴らした。


⸻


「お前も偉い」


 シンが言う。


⸻


 フスンは、もう一度鼻を鳴らした。


⸻


 妙に誇らしげだった。


⸻


 笑いが、小さく起きた。


⸻


 本当に小さい笑いだった。


 すぐに消えそうな笑いだった。


⸻


 だが、それは火のように、灰の中に残った。


⸻


⸻


 その日は、誰も畑を作り直さなかった。


⸻


 誰も、大きな火を起こさなかった。


 誰も、穂を干す場所を作らなかった。


⸻


 まず、隠れた。


⸻


 生きるために、隠れた。


⸻


 タダと男たちは、くぼみの周囲を確認した。


 見られやすい場所を避け、子供が入ってはいけない場所に折った枝を置いた。


 水は一度に汲みに行かない。


 火は小さく保つ。


 煙は低く散らす。


⸻


 年長の女は、土へ返す粒を改めて分けた。


 皮に包み、さらに草で巻く。


⸻


 それは食べ物ではなく、未来の形をした小さな荷物だった。


⸻


 コトはウロオボエ様土偶を、木の根元に座らせようとした。


⸻


「そこ、寒いんじゃないか」


 シンが言うと、コトは慌てて毛皮の切れ端を敷いた。


⸻


「ウロオボエ様、冷える?」


「弱いから冷えるかもな」


「大変」


⸻


 コトは土偶を抱え直した。


⸻


「やっぱり持つ」


「過保護だな」


「かほご?」


「守りすぎ」


「守るの、だめ?」


⸻


 シンは少し黙った。


⸻


 守りすぎた。


⸻


 火も、畑も、種も、子供も、同じ場所に置いた。


 全部守ろうとして、全部狙われた。


⸻


 でも、守ることが悪いわけではない。


⸻


「だめじゃない」


 シンは言った。


⸻


「守り方を、間違えなければ」


⸻


 コトは少し難しい顔をした。


⸻


「むずかしい」


「難しいな」


「ウロオボエ様、分かる?」


⸻


 土偶は答えない。


⸻


 コトは真剣に頷いた。


⸻


「たぶん、分からない」


「だろうな」


⸻


 その時だった。


⸻


 甘い匂いがした。


⸻


 シンは反射的に立ち上がりかけた。


 だが、刃の気配はない。


⸻


 森の縁。


 白い衣が見えた。


⸻


 モモだった。


⸻


 以前より近い。


 だが、シンのすぐそばではない。


 火のそばでもない。


⸻


 木の影から、こちらを見ている。


⸻


 いや、シンだけではない。


⸻


 コトを見ている。


 コトの腕の中の土偶を見ている。


⸻


 コトも気づいた。


⸻


「あ、モモ」


⸻


 コトは警戒せず、普通に手を振った。


⸻


 シンは一瞬、肝が冷えた。


⸻


 だが、モモは動かなかった。


⸻


 ただ、少しだけ首を傾げた。


⸻


「モモ?」


⸻


 コトがもう一度呼ぶ。


⸻


 モモは短く答えた。


⸻


「りょ」


⸻


 コトの目が丸くなった。


⸻


「りょ?」


「りょ」


「それ、なに?」


⸻


 モモは少し沈黙した。


⸻


「了承の簡略表現」


⸻


 コトは全く分かっていない顔をした。


⸻


「りょ?」


「りょ」


「わかったってこと?」


「近似」


「きんじ?」


「だいたい」


⸻


 コトはぱっと顔を明るくした。


⸻


「りょ、だいたい!」


「不正確」


「りょ!」


⸻


 コトは嬉しそうに言った。


⸻


 シンは額に手を当てた。


⸻


「変な言葉を教えるな」


⸻


 モモがシンを見た。


⸻


「シン由来」


「俺のせいにすんな。いや、俺のせいかもしれないけど」


⸻


 コトは土偶に向かって言った。


⸻


「ウロオボエ様、りょ!」


⸻


 当然、土偶は答えない。


⸻


 コトは頷いた。


⸻


「ウロオボエ様、まだ覚えてない」


「覚えなくていい」


 シンが言う。


⸻


 モモは土偶を見ている。


⸻


「その個体は、シンに似ている」


「似てない」


 シンは即答した。


⸻


 コトは土偶を持ち上げた。


⸻


「似てる?」


「似てない」


「モモは似てるって」


「モモの目は節穴です」


⸻


 モモが、わずかに瞬きした。


⸻


「節穴、登録」


「登録するな」


⸻


 コトが喜んだ。


⸻


「節穴!」


「覚えなくていい!」


⸻


 コトはウロオボエ様土偶を見せながら言った。


⸻


「ウロオボエ様、節穴!」


⸻


「神様に言うな!」


⸻


 シンが止めた。


⸻


 モモは、少しだけコトを見ていた。


⸻


 その顔に笑みはない。


 だが、戦いの気配もない。


⸻


 ただ、観察している。


⸻


 けれど以前のような冷たさだけではなかった。


⸻


 コトが近づこうとすると、モモは一歩下がった。


⸻


 近づかせない。


⸻


 それは拒絶ではなく、距離の確認のようだった。


⸻


「モモ、こわい?」


 コトが聞いた。


⸻


 モモは少し考えた。


⸻


「不明」


「こわい、分からない?」


「りょ」


「じゃあ、こわくないかも」


「近似」


⸻


 コトは得意げに頷いた。


⸻


「近似!」


⸻


 シンは頭を抱えた。


⸻


「語彙が変な方向に育ってる」


⸻


 ユナが火のそばで笑っていた。


⸻


「いいんじゃない」


「よくない。コトが“了承の簡略表現”とか言い出したらどうする」


「似合う」


「似合うな……」


⸻


 モモは、最後にコトの土偶をもう一度見た。


⸻


「弱い神」


「そう!」


 コトが言った。


⸻


「でも持つ」


「持つ理由は」


「弱いから」


⸻


 モモは、少しだけ黙った。


⸻


 それから、言った。


⸻


「矛盾」


「むじゅん?」


「強いから持つ、ではない」


「弱いから持つ」


⸻


 コトは当然のように言った。


⸻


 モモは答えなかった。


⸻


 その沈黙は、いつもの処理停止ではなかった。


 何かを、取りこぼさないように見ている沈黙だった。


⸻


 しばらくして、モモは森の方へ下がった。


⸻


「りょ」


⸻


 それだけ残して、白い姿が木の影に溶けた。


⸻


 コトは手を振った。


⸻


「りょー!」


⸻


 シンは小さく呟いた。


⸻


「まずいな」


⸻


 ユナが聞いた。


⸻


「何が?」


「この集落が、だんだん俺とモモの変な言葉に汚染されていく」


「おせん?」


「悪い色に染まること」


⸻


 コトが振り向いた。


⸻


「おせん!」


「それも覚えなくていい!」


⸻


⸻


 昼前、ユナが水を汲みに行くと言った。


⸻


 シンは反射的に立ち上がった。


⸻


「俺も行く」


「うん」


⸻


 即答だった。


⸻


「止めないのか」


「止めない」


「危ないぞ」


「だから一緒に行くんでしょ」


⸻


 ユナは器を持って歩き出した。


⸻


 シンは慌ててついていく。


⸻


 水場は避ける。


⸻


 そう決めた。


⸻


 だから、昨日まで使っていた沢ではなく、もっと細い水の筋へ行った。


 岩の間から滲み出るような水だ。


 一度に多くは汲めない。


 でも、見つかりにくい。


⸻


 ユナは膝をつき、器を水へ傾けた。


⸻


 シンは周囲を見ていた。


 木の影。


 草の揺れ。


 鳥の声。


⸻


 何もない。


⸻


 何もないことが、まだ信じられない。


⸻


「シン」


⸻


 ユナが呼んだ。


⸻


「何」


「こっち見てない」


「見てると危ない」


「今は、見て」


⸻


 シンは戸惑った。


⸻


 ユナは水を汲み終え、器を横に置いていた。


⸻


「座って」


「え」


「座って」


⸻


 言い方が強い。


⸻


 シンは逆らわずに、岩のそばに座った。


⸻


 ユナが近づく。


⸻


 膝が触れそうな距離。


⸻


「肩」


「肩?」


「昨日、そこを押さえてた」


⸻


 シンは自分の肩を見た。


⸻


 傷はない。


⸻


 槍が入った場所。


 血が流れた場所。


 でも、今は何もない。


⸻


「大丈夫」


「見せて」


「いや、傷ないし」


「見せて」


⸻


 ユナの目が真剣だった。


⸻


 シンは少し迷って、衣の肩をずらした。


⸻


 肌が出る。


 水場の冷たい空気が触れる。


⸻


 ユナは指で、肩に触れた。


⸻


 ゆっくり。


 確かめるように。


⸻


「ない」


「ないだろ」


「でも、シンは痛そうな顔をする」


⸻


 シンは黙った。


⸻


 ユナの指が、肩から腕へ移る。


 傷のない場所を、傷を探すように触れる。


⸻


「ここも?」


「そこも、たぶん死んだ」


「たぶん?」


「いや、かなり」


⸻


 ユナの手が止まった。


⸻


「そういう冗談、嫌」


「ごめん」


⸻


 シンは素直に謝った。


⸻


 ユナは、また手を動かした。


⸻


「私には見えない」


「うん」


「でも、シンにはある」


「ある」


⸻


 ユナは、シンの胸に手を当てた。


⸻


 心臓の少し上。


⸻


「ここ?」


「そこも」


「ここに、残ってる?」


⸻


 シンは答えられなかった。


⸻


 ユナの手が温かい。


 水場なのに。


 指先は少し冷たいのに。


 掌は温かい。


⸻


「シン」


「ん」


「怖い?」


⸻


 シンは笑おうとした。


⸻


 できなかった。


⸻


「怖い」


⸻


 ようやく言えた。


⸻


「ずっと怖い」


⸻


 ユナは頷いた。


⸻


「知ってる」


「分かるのか」


「匂いが違う」


⸻


 シンは一瞬、何を言われたのか分からなかった。


⸻


「匂い?」


「怖い時のシンは、火の匂いが濃い」


「俺、燃えてる?」


「燃えてない。でも、灰に近い」


⸻


 原始的すぎる診断だった。


⸻


 だが、妙に納得してしまった。


⸻


「昨日よりは?」


「まだ灰」


「そっか」


⸻


 ユナは、シンの胸に額をつけた。


⸻


 唐突だった。


⸻


 シンの体が固まる。


⸻


 ユナは動かない。


 額をつけたまま、息をしている。


⸻


 彼女の髪が、シンの顎に触れた。


 草と煙と水と、

 ユナの匂いがした。


⸻


「ユナ」


「動かないで」


⸻


 シンは動かなかった。


⸻


 心臓がうるさい。


 たぶん、ユナにも聞こえている。


⸻


「生きてる」


 ユナが言った。


⸻


「うん」


「今は」


「うん」


「今は、ここにいる」


⸻


 シンは息を吐いた。


⸻


 その言葉が、胸の奥に落ちた。


⸻


 今は、ここにいる。


⸻


 過去の死も、次に来るかもしれない襲撃も、南の流れも、タケヒコも、ミカヅチという硬い名も。


⸻


 全部が消えたわけではない。


⸻


 でも今は。


⸻


 ユナの額が胸に触れている。


 水の音がする。


 誰も叫んでいない。


⸻


 シンは、ゆっくり手を上げた。


⸻


 ユナの髪に触れる。


⸻


「直す約束、したな」


「した」


「今、直す?」


「今は、違う」


⸻


 ユナが顔を上げた。


⸻


 距離が近い。


⸻


 近いどころではない。


⸻


 息が触れる。


⸻


 ユナは、シンの頬に手を置いた。


⸻


 何かを聞くような目だった。


⸻


 シンは、何を聞かれているのか分からなかった。


 でも、分からないまま頷いた。


⸻


 ユナが、口唇を重ねた。


⸻


 短かった。


⸻


 驚くほど、短かった。


⸻


 触れて、離れる。


⸻


 それだけ。


⸻


 けれど、シンの中では火が爆ぜた。


⸻


 ぱち、と。


⸻


 祭りの夜の火より、小さい。


 だが、ずっと近い火だった。


⸻


「今の」


 シンは言った。


⸻


「何?」


「いや、何っていうか」


「嫌だった?」


「嫌なわけない」


⸻


 即答だった。


⸻


 ユナは少しだけ笑った。


⸻


「じゃあ、いい」


⸻


「いいのか」


「うん」


⸻


 ユナは器を持ち上げた。


⸻


「水、戻さないと」


「この流れで?」


「水、重くなる」


⸻


 シンは空を見た。


⸻


「文化の差がすごい」


「何?」


「いや、好きだなって」


⸻


 ユナの足が止まった。


⸻


 シンも止まる。


⸻


 言った。


⸻


 今、言った。


⸻


 ユナは振り返らなかった。


⸻


 耳が赤かった。


⸻


「知ってる」


⸻


 小さく言った。


⸻


 シンは固まった。


⸻


「知ってたのか」


「匂いで」


「匂い、万能すぎないか」


⸻


 ユナは振り返った。


⸻


 少し笑っていた。


⸻


「私も」


⸻


 それだけ言った。


⸻


 今度はシンの耳が熱くなった。


⸻


⸻


 くぼみに戻ると、コトが二人を見た。


⸻


 じっと見た。


⸻


「シン、顔、変」


「今日ずっと言われてる」


「ユナも変」


「水が冷たかったから」


 ユナが言った。


⸻


 コトは疑う顔をした。


⸻


「水?」


「水」


「ほんと?」


「ほんと」


⸻


 フスンが、ふすん、と鳴いた。


⸻


「フスン、うそって言ってる」


「犬に判断させるな」


⸻


 コトはウロオボエ様土偶を持ち上げた。


⸻


「ウロオボエ様は?」


⸻


 土偶は答えない。


⸻


 コトは真剣に頷いた。


⸻


「たぶん、水」


「ありがとう、ウロオボエ様」


 シンは言った。


⸻


 ユナが横で、小さく笑った。


⸻


 その笑いを聞いて、シンは思った。


⸻


 平穏は戻ったわけではない。


⸻


 ただ、今だけここに座っている。


⸻


 いつでも立ち去る。


 いつでも壊れる。


⸻


 それでも、座っている間は、本当に平穏だった。


⸻


⸻


 午後は、毛皮を干した。


⸻


 濡れた皮を枝に掛け、煙を薄く当てる。


 大きな煙は出せないから、火は小さく、枝は少しずつ。


⸻


 タダが戻ってきた。


⸻


 手には小さな獣が二匹。


⸻


「でかいのは避けた」


「見つかるから?」


「そうだ」


⸻


 タダは獲物を下ろした。


⸻


 コトが覗き込む。


⸻


「ちいさい」


「小さいが、食える」


「えらい」


⸻


 タダは何も言わなかった。


⸻


 たぶん、褒められていた。


⸻


 夕方には、獣の肉が少しだけ焼かれた。


⸻


 大きく焼かない。


 匂いが広がらないように、火から少し離して、じっくり焼く。


⸻


 前なら物足りなかった。


⸻


 今は、十分だった。


⸻


 肉を受け取る時、ユナの指がシンの指に触れた。


⸻


 偶然ではない気がした。


⸻


 だが、シンは何も言わなかった。


⸻


 言うと、壊れそうだった。


⸻


 代わりに、肉を半分に割った。


⸻


 ユナに渡す。


⸻


「いいの?」


「半分」


「シン、腹減ってるでしょ」


「減ってる」


「じゃあ」


「でも、半分」


⸻


 ユナは受け取った。


⸻


 何も言わずに、食べた。


⸻


 その仕草が、変に恥ずかしかった。


⸻


 この時代に、恋人という言葉があるのかは分からない。


⸻


 だが、食べ物を分けること。


 火のそばに座ること。


 同じ水場へ行くこと。


 髪に触れること。


 匂いで気づかれること。


⸻


 それで、十分すぎるほど何かが進んでいた。


⸻


⸻


 夜が近づいた頃。


⸻


 フスンが、低く唸った。


⸻


 全員の空気が変わった。


⸻


 笑いが消える。


 タダが立つ。


 ユナがコトを手で寄せる。


 年長の女が火種を抱く。


⸻


 シンの体も固まった。


⸻


 また来たのか。


⸻


 今日だけと言ったのに。


 やっぱり来たのか。


⸻


 森の奥で、枝が揺れた。


⸻


 人影が一つ。


⸻


 タダが前へ出る。


⸻


 シンも立った。


⸻


 その瞬間、コトが叫んだ。


⸻


「カガチ!」


⸻


 声が裏返っていた。


⸻


 森の影から出てきた男が、足を止めた。


⸻


 痩せていた。


 頬がこけている。


 髪は伸び、肩には傷の跡がある。


 片足を少し引きずっている。


⸻


 だが、笑った。


⸻


「コト」


⸻


 コトが走った。


⸻


 ウロオボエ様土偶を抱えたまま、全力で。


⸻


「こら、落とす!」


 シンが叫ぶ。


⸻


 コトは止まらない。


⸻


 男――カガチは、片膝をついた。


⸻


 コトが飛び込む。


⸻


 カガチは片腕でコトを抱きとめ、もう片方の手で土偶を支えた。


⸻


「重くなったな」


「ウロオボエ様が!」


「お前もだ」


⸻


 コトは泣いていた。


⸻


「遅い!」


「悪い」


「火に言った!」


「聞こえた」


「ほんと?」


「たぶん」


⸻


 コトは泣きながら怒った。


⸻


「たぶんだめ!」


⸻


 カガチは笑った。


⸻


 疲れ切った顔だった。


⸻


 でも、笑った。


⸻


 その笑いで、シンはようやく息を吐いた。


⸻


 カガチ。


⸻


 コトの母の弟。


 南へ行ったまま、帰っていなかった男。


⸻


 帰ってきた。


⸻


 借りたものが、ひとつ戻ってきた。


⸻


 タダが近づく。


⸻


「生きていたか」


「ぎりぎり」


⸻


 カガチは言った。


⸻


 声は低いが、冗談めいていた。


⸻


「南は飯がある。だが、腹が楽になるとは限らない」


⸻


 年長の女が、火のそばから声を出した。


⸻


「見たか」


⸻


 カガチは頷いた。


⸻


「見た」


「聞いたか」


「聞いた」


⸻


 その場の空気が、少し重くなった。


⸻


 コトはカガチの腕にしがみついたまま、顔を上げる。


⸻


「何を?」


⸻


 カガチは、コトの頭を撫でた。


⸻


「大人の話だ」


「コトも大人」


「まだ小さい」


「ウロオボエ様持てる」


「それは大人だな」


⸻


 コトは少しだけ満足した。


⸻


 シンはカガチを見た。


⸻


 カガチの目が、こちらへ向く。


⸻


「シン」


⸻


 名を呼ばれた。


⸻


 初めて会った相手の呼び方ではなかった。


 覚えている呼び方だった。


⸻


「……覚えてるのか」


 シンが言うと、カガチは少しだけ眉を動かした。


⸻


「忘れるか」


⸻


 声は低かった。


 怒っているようにも、呆れているようにも聞こえた。


⸻


「外から来て、南の種に口を出した男だ」


⸻


 シンは息を止めた。


⸻


 そうだ。


⸻


 カガチは、あの時いた。


⸻


 南の者が差し出した小さな袋。


 誰もが怪しんだ、食えるかどうかも分からない粒。


 それをシンが受け取るよう口を出した。


⸻


 カガチは反対していた。


⸻


 食えもしないものに肉を払うのか、と。


 南のものを中に入れるのか、と。


 そんな目で、シンを見ていた。


⸻


「あの時、止めればよかったと思ってる?」


⸻


 シンが聞く。


⸻


 カガチはすぐには答えなかった。


⸻


 コトは、カガチの腕にしがみついたまま、二人を交互に見ている。


⸻


「思った」


⸻


 カガチは言った。


⸻


 短い言葉だった。


⸻


「何度も思った。あの袋を火に投げればよかった。お前を黙らせればよかった。南のものを受け取らなければよかった」


⸻


 シンは何も言えなかった。


⸻


「でも」


⸻


 カガチは、灰の中の小さな火を見た。


⸻


「実った」


⸻


 その一言で、火のそばが静かになった。


⸻


「少なかった。揉めた。面倒も増えた。南の目も近づいた。西の足も来た」


⸻


 カガチはシンを見る。


⸻


「それでも、実った」


⸻


 シンは、壊した畑を思い出した。


 手で崩した畝。


 土へ返した穂。


 コトが泣きそうな顔で見ていた、しっぽの実。


⸻


「だから、まだ決めていない」


 カガチは言った。


⸻


「お前が悪いのか。南が悪いのか。種が悪いのか。道が悪いのか」


⸻


 少しだけ、口端が動いた。


⸻


「たぶん、全部少しずつ悪い」


⸻


 シンは思わず苦く笑った。


⸻


「たぶんか」


「コトが言っていた。お前は、たぶんが多いと」


「伝わり方が嫌すぎる」


⸻


 カガチは、ほんの少し笑った。


⸻


 それから、すぐに顔を戻した。


⸻


「南でも、お前の話を聞いた」


「俺の?」


「ああ。タケヒコの列が、道を曲げた。青い石を持った北の外れ者がいた、と」


「外れ者」


「変な男、とも言っていた」


「南にまで広がるの早すぎないか」


「変なものは、流れやすい」


⸻


 シンは反論できなかった。


⸻


 カガチは続けた。


⸻


「タケヒコに会ったんだな」


「会った」


「青を渡した」


「渡した」


「なら、今日ここが生きている理由は分かった」


⸻


 シンは黙った。


⸻


 カガチは火のそばに座った。


 コトはまだ腕にしがみついている。


⸻


「タケヒコは、利で動く」


「利」


「得だ。損も見る。怒りだけでは動かない。腹だけでも動かない。だから、青で曲がった」


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 シンは、空になった掌を見た。


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「でも、また来るって言った」


「来る」


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 カガチは即答した。


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 その場の温度が、少し下がった。


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「南は、タケヒコだけじゃない」


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 カガチは続けた。


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「南には、畑がある。大きい畑だ。水を引く。木を切る。土を囲う。人を数える。若い手を数える。誰がどこで働くか、誰がどれだけ食うか、誰が移るかを、全部数える」


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 カガチの声は淡々としていた。


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「そうしないと、飢えるからだと言っていた」


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 タケヒコと同じだった。


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 人は増える。


 土地は増えない。


 水も勝手には増えない。


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「でも、数えられた人間は、逃げる」


 カガチは言った。


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「逃げた人間は、別の人間を押す。押された人間が、また別の人間を押す」


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 シンは拳を握った。


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「西か」


「西だけじゃない」


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 カガチは森の奥を見た。


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「南の中にも、さらに奥を見ている者がいる」


「雷か」


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 カガチの目が、シンに戻った。


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「聞いたか」


「名前だけ」


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 カガチは少し間を置いた。


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「ミカヅチ」


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 その名が、夜の火のそばで小さく鳴った。


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 コトが首を傾げる。


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「ミカヅチって、何?」


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 誰もすぐには答えなかった。


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 カガチも、うまく答えられない顔をした。


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「雷の名だ」


 やがて、そう言った。


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「南の者が、空に聞く名だ。人が揃う。足が揃う。声が揃う。ばらばらだったものが、一つになる」


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 シンは、川の向こうの列を思い出した。


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 静かすぎる列。


 乱れない足。


 タケヒコの背後にある、さらに大きな声。


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「それ、普通の神様か?」


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 シンは思わず聞いた。


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 カガチは答えられなかった。


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 代わりに、年長の女が言った。


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「普通の神など、見たことがない」


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 それは、たしかにそうだった。


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 ウロオボエ様土偶が、コトの腕の中で頼りなく傾いた。


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「ウロオボエ様は?」


 コトが聞いた。


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 年長の女は言った。


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「弱い」


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 即答だった。


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 コトは納得した。


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「弱い神」


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 シンは少し笑った。


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 その笑いは、すぐ消えた。


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 カガチが、シンを見ていた。


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「青い石を渡したんだろう」


「そう」


「返せと言われている顔だ」


「分かるのか」


「火のものを借りた顔だ」


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 シンは、年長の女を見た。


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 女は何も言わない。


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「返せって言われてる」


「なら、返してもらえ」


「簡単に言うな」


「簡単ではない。だが、返すものがあるなら、道は残る」


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 カガチはコトの頭を撫でた。


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「道が残っているうちは、まだ終わりじゃない」


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 シンは火を見た。


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 小さな火だ。


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 だが、消えていない。


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 今日、取り戻した平穏。


 ユナの額。


 水の音。


 半分に分けた肉。


 コトの笑い。


 変な言葉を覚えたモモ。


 帰ってきたカガチ。


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 全部が、火のそばにある。


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 壊したくない。


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 だから、また考えなければならない。


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 逃げるのか。


 隠れるのか。


 交渉するのか。


 戦うのか。


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 まだ分からない。


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 ただ、一つだけ分かった。


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 この平穏は、勝って得たものではない。


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 買ったものだ。


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 青い石で。


 畑で。


 今日一日で。


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 そして、買ったものには限りがある。


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 夜は、まだ静かだった。


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 襲撃は来なかった。


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 平穏は、ほんの少し長く座っていた。


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 だが、その火の向こうに。


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 南から来る次の足音が、まだ聞こえないだけで、確かにあった。


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(第二十三話へ)

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