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取り戻した平穏

第二十二話 取り戻した平穏



 朝が来た。



 シンは、しばらく目を開けられなかった。



 煙の匂いがした。


 灰の匂いがした。


 湿った土の匂いがした。


 毛皮の、少し獣くさい匂いがした。



 そして、フスンの鼻息がした。



「近い」



 いつものように言った。



 ふすん。



 返事のように、鼻息が返ってきた。



 だが、違った。



 同じ朝ではない。



 茅葺きの屋根はない。


 祭りの匂いも薄い。


 火の位置が違う。


 体の下の土が違う。



 ここは、北側のくぼみだ。



 昨夜、眠った場所。


 襲撃が来なかった夜の、続きの朝。



 シンは目を開けた。



 薄い枝の隙間から、朝の光が落ちていた。


 白い光ではない。


 少し湿った、灰色がかった光だ。



 その光の中に、皆がいた。



 ユナが火種のそばに座っている。


 タダは少し離れた場所で、森を見ている。


 年長の女は、灰を指で寄せている。


 コトはウロオボエ様土偶を抱えたまま、口を開けて眠っている。


 フスンは、シンの足元で丸くなっていた。



 誰も死んでいない。



 その事実が、遅れて体に入ってきた。



 シンは息を吐いた。



 長く。


 肺の底に溜まっていたものが、ようやく少し出ていくような息だった。



「……朝だ」



 声に出すと、ユナがこちらを見た。



「朝だよ」



 当たり前の返事だった。



 当たり前すぎて、シンは泣きそうになった。



「戻ってない」



 思わず言った。



 ユナは少し首を傾げた。



「戻ってるよ」


「え?」


「ここに」



 ユナは火のそばを指した。



「シン、ちゃんとここに戻ってる」



 シンは少し黙った。



 意味は違う。


 でも、間違ってはいなかった。



「そうだな」



 シンは体を起こした。



 体が重い。


 死んだ後の重さではない。


 ただ疲れている。


 眠りが浅く、地面が硬く、昨日の緊張が抜けきっていないだけの重さだ。



 それが、妙に嬉しかった。



 ただ疲れている。



 それは、生きている体の重さだった。




 朝飯は、薄かった。



 飯と呼べるほどのものでもない。


 少しの実。


 砕いた根。


 昨日の残りの鹿肉を、本当に小さく裂いたもの。


 それを湯に入れて、灰の中で温めた。



 祭りの夜のような豊かさはない。


 初めての収穫の喜びもない。



 それでも、全員が同じものを口にした。



 コトは器の中を覗き込み、真剣な顔で言った。



「少ない」


「少ないな」


 シンは答えた。



「昨日より?」


「昨日より」


「祭りより?」


「祭りより、かなり」



 コトはしばらく考えた。



「でも、ある」



 シンは少し驚いた。



 ユナが、ほんの少し笑った。



「あるね」



 コトは満足そうに頷いた。



「あるなら、食べる」


「偉い」


 シンは言った。



「コト、偉い?」


「偉い」


「ウロオボエ様は?」


「持たれてるだけだな」



 コトは土偶を見た。



「ウロオボエ様、持たれて偉い」



 フスンが、ふすん、と鼻を鳴らした。



「お前も偉い」


 シンが言う。



 フスンは、もう一度鼻を鳴らした。



 妙に誇らしげだった。



 笑いが、小さく起きた。



 本当に小さい笑いだった。


 すぐに消えそうな笑いだった。



 だが、それは火のように、灰の中に残った。




 その日は、誰も畑を作り直さなかった。



 誰も、大きな火を起こさなかった。


 誰も、穂を干す場所を作らなかった。



 まず、隠れた。



 生きるために、隠れた。



 タダと男たちは、くぼみの周囲を確認した。


 見られやすい場所を避け、子供が入ってはいけない場所に折った枝を置いた。


 水は一度に汲みに行かない。


 火は小さく保つ。


 煙は低く散らす。



 年長の女は、土へ返す粒を改めて分けた。


 皮に包み、さらに草で巻く。



 それは食べ物ではなく、未来の形をした小さな荷物だった。



 コトはウロオボエ様土偶を、木の根元に座らせようとした。



「そこ、寒いんじゃないか」


 シンが言うと、コトは慌てて毛皮の切れ端を敷いた。



「ウロオボエ様、冷える?」


「弱いから冷えるかもな」


「大変」



 コトは土偶を抱え直した。



「やっぱり持つ」


「過保護だな」


「かほご?」


「守りすぎ」


「守るの、だめ?」



 シンは少し黙った。



 守りすぎた。



 火も、畑も、種も、子供も、同じ場所に置いた。


 全部守ろうとして、全部狙われた。



 でも、守ることが悪いわけではない。



「だめじゃない」


 シンは言った。



「守り方を、間違えなければ」



 コトは少し難しい顔をした。



「むずかしい」


「難しいな」


「ウロオボエ様、分かる?」



 土偶は答えない。



 コトは真剣に頷いた。



「たぶん、分からない」


「だろうな」



 その時だった。



 甘い匂いがした。



 シンは反射的に立ち上がりかけた。


 だが、刃の気配はない。



 森の縁。


 白い衣が見えた。



 モモだった。



 以前より近い。


 だが、シンのすぐそばではない。


 火のそばでもない。



 木の影から、こちらを見ている。



 いや、シンだけではない。



 コトを見ている。


 コトの腕の中の土偶を見ている。



 コトも気づいた。



「あ、モモ」



 コトは警戒せず、普通に手を振った。



 シンは一瞬、肝が冷えた。



 だが、モモは動かなかった。



 ただ、少しだけ首を傾げた。



「モモ?」



 コトがもう一度呼ぶ。



 モモは短く答えた。



「りょ」



 コトの目が丸くなった。



「りょ?」


「りょ」


「それ、なに?」



 モモは少し沈黙した。



「了承の簡略表現」



 コトは全く分かっていない顔をした。



「りょ?」


「りょ」


「わかったってこと?」


「近似」


「きんじ?」


「だいたい」



 コトはぱっと顔を明るくした。



「りょ、だいたい!」


「不正確」


「りょ!」



 コトは嬉しそうに言った。



 シンは額に手を当てた。



「変な言葉を教えるな」



 モモがシンを見た。



「シン由来」


「俺のせいにすんな。いや、俺のせいかもしれないけど」



 コトは土偶に向かって言った。



「ウロオボエ様、りょ!」



 当然、土偶は答えない。



 コトは頷いた。



「ウロオボエ様、まだ覚えてない」


「覚えなくていい」


 シンが言う。



 モモは土偶を見ている。



「その個体は、シンに似ている」


「似てない」


 シンは即答した。



 コトは土偶を持ち上げた。



「似てる?」


「似てない」


「モモは似てるって」


「モモの目は節穴です」



 モモが、わずかに瞬きした。



「節穴、登録」


「登録するな」



 コトが喜んだ。



「節穴!」


「覚えなくていい!」



 コトはウロオボエ様土偶を見せながら言った。



「ウロオボエ様、節穴!」



「神様に言うな!」



 シンが止めた。



 モモは、少しだけコトを見ていた。



 その顔に笑みはない。


 だが、戦いの気配もない。



 ただ、観察している。



 けれど以前のような冷たさだけではなかった。



 コトが近づこうとすると、モモは一歩下がった。



 近づかせない。



 それは拒絶ではなく、距離の確認のようだった。



「モモ、こわい?」


 コトが聞いた。



 モモは少し考えた。



「不明」


「こわい、分からない?」


「りょ」


「じゃあ、こわくないかも」


「近似」



 コトは得意げに頷いた。



「近似!」



 シンは頭を抱えた。



「語彙が変な方向に育ってる」



 ユナが火のそばで笑っていた。



「いいんじゃない」


「よくない。コトが“了承の簡略表現”とか言い出したらどうする」


「似合う」


「似合うな……」



 モモは、最後にコトの土偶をもう一度見た。



「弱い神」


「そう!」


 コトが言った。



「でも持つ」


「持つ理由は」


「弱いから」



 モモは、少しだけ黙った。



 それから、言った。



「矛盾」


「むじゅん?」


「強いから持つ、ではない」


「弱いから持つ」



 コトは当然のように言った。



 モモは答えなかった。



 その沈黙は、いつもの処理停止ではなかった。


 何かを、取りこぼさないように見ている沈黙だった。



 しばらくして、モモは森の方へ下がった。



「りょ」



 それだけ残して、白い姿が木の影に溶けた。



 コトは手を振った。



「りょー!」



 シンは小さく呟いた。



「まずいな」



 ユナが聞いた。



「何が?」


「この集落が、だんだん俺とモモの変な言葉に汚染されていく」


「おせん?」


「悪い色に染まること」



 コトが振り向いた。



「おせん!」


「それも覚えなくていい!」




 昼前、ユナが水を汲みに行くと言った。



 シンは反射的に立ち上がった。



「俺も行く」


「うん」



 即答だった。



「止めないのか」


「止めない」


「危ないぞ」


「だから一緒に行くんでしょ」



 ユナは器を持って歩き出した。



 シンは慌ててついていく。



 水場は避ける。



 そう決めた。



 だから、昨日まで使っていた沢ではなく、もっと細い水の筋へ行った。


 岩の間から滲み出るような水だ。


 一度に多くは汲めない。


 でも、見つかりにくい。



 ユナは膝をつき、器を水へ傾けた。



 シンは周囲を見ていた。


 木の影。


 草の揺れ。


 鳥の声。



 何もない。



 何もないことが、まだ信じられない。



「シン」



 ユナが呼んだ。



「何」


「こっち見てない」


「見てると危ない」


「今は、見て」



 シンは戸惑った。



 ユナは水を汲み終え、器を横に置いていた。



「座って」


「え」


「座って」



 言い方が強い。



 シンは逆らわずに、岩のそばに座った。



 ユナが近づく。



 膝が触れそうな距離。



「肩」


「肩?」


「昨日、そこを押さえてた」



 シンは自分の肩を見た。



 傷はない。



 槍が入った場所。


 血が流れた場所。


 でも、今は何もない。



「大丈夫」


「見せて」


「いや、傷ないし」


「見せて」



 ユナの目が真剣だった。



 シンは少し迷って、衣の肩をずらした。



 肌が出る。


 水場の冷たい空気が触れる。



 ユナは指で、肩に触れた。



 ゆっくり。


 確かめるように。



「ない」


「ないだろ」


「でも、シンは痛そうな顔をする」



 シンは黙った。



 ユナの指が、肩から腕へ移る。


 傷のない場所を、傷を探すように触れる。



「ここも?」


「そこも、たぶん死んだ」


「たぶん?」


「いや、かなり」



 ユナの手が止まった。



「そういう冗談、嫌」


「ごめん」



 シンは素直に謝った。



 ユナは、また手を動かした。



「私には見えない」


「うん」


「でも、シンにはある」


「ある」



 ユナは、シンの胸に手を当てた。



 心臓の少し上。



「ここ?」


「そこも」


「ここに、残ってる?」



 シンは答えられなかった。



 ユナの手が温かい。


 水場なのに。


 指先は少し冷たいのに。


 掌は温かい。



「シン」


「ん」


「怖い?」



 シンは笑おうとした。



 できなかった。



「怖い」



 ようやく言えた。



「ずっと怖い」



 ユナは頷いた。



「知ってる」


「分かるのか」


「匂いが違う」



 シンは一瞬、何を言われたのか分からなかった。



「匂い?」


「怖い時のシンは、火の匂いが濃い」


「俺、燃えてる?」


「燃えてない。でも、灰に近い」



 原始的すぎる診断だった。



 だが、妙に納得してしまった。



「昨日よりは?」


「まだ灰」


「そっか」



 ユナは、シンの胸に額をつけた。



 唐突だった。



 シンの体が固まる。



 ユナは動かない。


 額をつけたまま、息をしている。



 彼女の髪が、シンの顎に触れた。


 草と煙と水と、

 ユナの匂いがした。



「ユナ」


「動かないで」



 シンは動かなかった。



 心臓がうるさい。


 たぶん、ユナにも聞こえている。



「生きてる」


 ユナが言った。



「うん」


「今は」


「うん」


「今は、ここにいる」



 シンは息を吐いた。



 その言葉が、胸の奥に落ちた。



 今は、ここにいる。



 過去の死も、次に来るかもしれない襲撃も、南の流れも、タケヒコも、ミカヅチという硬い名も。



 全部が消えたわけではない。



 でも今は。



 ユナの額が胸に触れている。


 水の音がする。


 誰も叫んでいない。



 シンは、ゆっくり手を上げた。



 ユナの髪に触れる。



「直す約束、したな」


「した」


「今、直す?」


「今は、違う」



 ユナが顔を上げた。



 距離が近い。



 近いどころではない。



 息が触れる。



 ユナは、シンの頬に手を置いた。



 何かを聞くような目だった。



 シンは、何を聞かれているのか分からなかった。


 でも、分からないまま頷いた。



 ユナが、口唇を重ねた。



 短かった。



 驚くほど、短かった。



 触れて、離れる。



 それだけ。



 けれど、シンの中では火が爆ぜた。



 ぱち、と。



 祭りの夜の火より、小さい。


 だが、ずっと近い火だった。



「今の」


 シンは言った。



「何?」


「いや、何っていうか」


「嫌だった?」


「嫌なわけない」



 即答だった。



 ユナは少しだけ笑った。



「じゃあ、いい」



「いいのか」


「うん」



 ユナは器を持ち上げた。



「水、戻さないと」


「この流れで?」


「水、重くなる」



 シンは空を見た。



「文化の差がすごい」


「何?」


「いや、好きだなって」



 ユナの足が止まった。



 シンも止まる。



 言った。



 今、言った。



 ユナは振り返らなかった。



 耳が赤かった。



「知ってる」



 小さく言った。



 シンは固まった。



「知ってたのか」


「匂いで」


「匂い、万能すぎないか」



 ユナは振り返った。



 少し笑っていた。



「私も」



 それだけ言った。



 今度はシンの耳が熱くなった。




 くぼみに戻ると、コトが二人を見た。



 じっと見た。



「シン、顔、変」


「今日ずっと言われてる」


「ユナも変」


「水が冷たかったから」


 ユナが言った。



 コトは疑う顔をした。



「水?」


「水」


「ほんと?」


「ほんと」



 フスンが、ふすん、と鳴いた。



「フスン、うそって言ってる」


「犬に判断させるな」



 コトはウロオボエ様土偶を持ち上げた。



「ウロオボエ様は?」



 土偶は答えない。



 コトは真剣に頷いた。



「たぶん、水」


「ありがとう、ウロオボエ様」


 シンは言った。



 ユナが横で、小さく笑った。



 その笑いを聞いて、シンは思った。



 平穏は戻ったわけではない。



 ただ、今だけここに座っている。



 いつでも立ち去る。


 いつでも壊れる。



 それでも、座っている間は、本当に平穏だった。




 午後は、毛皮を干した。



 濡れた皮を枝に掛け、煙を薄く当てる。


 大きな煙は出せないから、火は小さく、枝は少しずつ。



 タダが戻ってきた。



 手には小さな獣が二匹。



「でかいのは避けた」


「見つかるから?」


「そうだ」



 タダは獲物を下ろした。



 コトが覗き込む。



「ちいさい」


「小さいが、食える」


「えらい」



 タダは何も言わなかった。



 たぶん、褒められていた。



 夕方には、獣の肉が少しだけ焼かれた。



 大きく焼かない。


 匂いが広がらないように、火から少し離して、じっくり焼く。



 前なら物足りなかった。



 今は、十分だった。



 肉を受け取る時、ユナの指がシンの指に触れた。



 偶然ではない気がした。



 だが、シンは何も言わなかった。



 言うと、壊れそうだった。



 代わりに、肉を半分に割った。



 ユナに渡す。



「いいの?」


「半分」


「シン、腹減ってるでしょ」


「減ってる」


「じゃあ」


「でも、半分」



 ユナは受け取った。



 何も言わずに、食べた。



 その仕草が、変に恥ずかしかった。



 この時代に、恋人という言葉があるのかは分からない。



 だが、食べ物を分けること。


 火のそばに座ること。


 同じ水場へ行くこと。


 髪に触れること。


 匂いで気づかれること。



 それで、十分すぎるほど何かが進んでいた。




 夜が近づいた頃。



 フスンが、低く唸った。



 全員の空気が変わった。



 笑いが消える。


 タダが立つ。


 ユナがコトを手で寄せる。


 年長の女が火種を抱く。



 シンの体も固まった。



 また来たのか。



 今日だけと言ったのに。


 やっぱり来たのか。



 森の奥で、枝が揺れた。



 人影が一つ。



 タダが前へ出る。



 シンも立った。



 その瞬間、コトが叫んだ。



「カガチ!」



 声が裏返っていた。



 森の影から出てきた男が、足を止めた。



 痩せていた。


 頬がこけている。


 髪は伸び、肩には傷の跡がある。


 片足を少し引きずっている。



 だが、笑った。



「コト」



 コトが走った。



 ウロオボエ様土偶を抱えたまま、全力で。



「こら、落とす!」


 シンが叫ぶ。



 コトは止まらない。



 男――カガチは、片膝をついた。



 コトが飛び込む。



 カガチは片腕でコトを抱きとめ、もう片方の手で土偶を支えた。



「重くなったな」


「ウロオボエ様が!」


「お前もだ」



 コトは泣いていた。



「遅い!」


「悪い」


「火に言った!」


「聞こえた」


「ほんと?」


「たぶん」



 コトは泣きながら怒った。



「たぶんだめ!」



 カガチは笑った。



 疲れ切った顔だった。



 でも、笑った。



 その笑いで、シンはようやく息を吐いた。



 カガチ。



 コトの母の弟。


 南へ行ったまま、帰っていなかった男。



 帰ってきた。



 借りたものが、ひとつ戻ってきた。



 タダが近づく。



「生きていたか」


「ぎりぎり」



 カガチは言った。



 声は低いが、冗談めいていた。



「南は飯がある。だが、腹が楽になるとは限らない」



 年長の女が、火のそばから声を出した。



「見たか」



 カガチは頷いた。



「見た」


「聞いたか」


「聞いた」



 その場の空気が、少し重くなった。



 コトはカガチの腕にしがみついたまま、顔を上げる。



「何を?」



 カガチは、コトの頭を撫でた。



「大人の話だ」


「コトも大人」


「まだ小さい」


「ウロオボエ様持てる」


「それは大人だな」



 コトは少しだけ満足した。



 シンはカガチを見た。



 カガチの目が、こちらへ向く。



「シン」



 名を呼ばれた。



 初めて会った相手の呼び方ではなかった。


 覚えている呼び方だった。



「……覚えてるのか」


 シンが言うと、カガチは少しだけ眉を動かした。



「忘れるか」



 声は低かった。


 怒っているようにも、呆れているようにも聞こえた。



「外から来て、南の種に口を出した男だ」



 シンは息を止めた。



 そうだ。



 カガチは、あの時いた。



 南の者が差し出した小さな袋。


 誰もが怪しんだ、食えるかどうかも分からない粒。


 それをシンが受け取るよう口を出した。



 カガチは反対していた。



 食えもしないものに肉を払うのか、と。


 南のものを中に入れるのか、と。


 そんな目で、シンを見ていた。



「あの時、止めればよかったと思ってる?」



 シンが聞く。



 カガチはすぐには答えなかった。



 コトは、カガチの腕にしがみついたまま、二人を交互に見ている。



「思った」



 カガチは言った。



 短い言葉だった。



「何度も思った。あの袋を火に投げればよかった。お前を黙らせればよかった。南のものを受け取らなければよかった」



 シンは何も言えなかった。



「でも」



 カガチは、灰の中の小さな火を見た。



「実った」



 その一言で、火のそばが静かになった。



「少なかった。揉めた。面倒も増えた。南の目も近づいた。西の足も来た」



 カガチはシンを見る。



「それでも、実った」



 シンは、壊した畑を思い出した。


 手で崩した畝。


 土へ返した穂。


 コトが泣きそうな顔で見ていた、しっぽの実。



「だから、まだ決めていない」


 カガチは言った。



「お前が悪いのか。南が悪いのか。種が悪いのか。道が悪いのか」



 少しだけ、口端が動いた。



「たぶん、全部少しずつ悪い」



 シンは思わず苦く笑った。



「たぶんか」


「コトが言っていた。お前は、たぶんが多いと」


「伝わり方が嫌すぎる」



 カガチは、ほんの少し笑った。



 それから、すぐに顔を戻した。



「南でも、お前の話を聞いた」


「俺の?」


「ああ。タケヒコの列が、道を曲げた。青い石を持った北の外れ者がいた、と」


「外れ者」


「変な男、とも言っていた」


「南にまで広がるの早すぎないか」


「変なものは、流れやすい」



 シンは反論できなかった。



 カガチは続けた。



「タケヒコに会ったんだな」


「会った」


「青を渡した」


「渡した」


「なら、今日ここが生きている理由は分かった」



 シンは黙った。



 カガチは火のそばに座った。


 コトはまだ腕にしがみついている。



「タケヒコは、利で動く」


「利」


「得だ。損も見る。怒りだけでは動かない。腹だけでも動かない。だから、青で曲がった」



 シンは、空になった掌を見た。



「でも、また来るって言った」


「来る」



 カガチは即答した。



 その場の温度が、少し下がった。



「南は、タケヒコだけじゃない」



 カガチは続けた。



「南には、畑がある。大きい畑だ。水を引く。木を切る。土を囲う。人を数える。若い手を数える。誰がどこで働くか、誰がどれだけ食うか、誰が移るかを、全部数える」



 カガチの声は淡々としていた。



「そうしないと、飢えるからだと言っていた」



 タケヒコと同じだった。



 人は増える。


 土地は増えない。


 水も勝手には増えない。



「でも、数えられた人間は、逃げる」


 カガチは言った。



「逃げた人間は、別の人間を押す。押された人間が、また別の人間を押す」



 シンは拳を握った。



「西か」


「西だけじゃない」



 カガチは森の奥を見た。



「南の中にも、さらに奥を見ている者がいる」


「雷か」



 カガチの目が、シンに戻った。



「聞いたか」


「名前だけ」



 カガチは少し間を置いた。



「ミカヅチ」



 その名が、夜の火のそばで小さく鳴った。



 コトが首を傾げる。



「ミカヅチって、何?」



 誰もすぐには答えなかった。



 カガチも、うまく答えられない顔をした。



「雷の名だ」


 やがて、そう言った。



「南の者が、空に聞く名だ。人が揃う。足が揃う。声が揃う。ばらばらだったものが、一つになる」



 シンは、川の向こうの列を思い出した。



 静かすぎる列。


 乱れない足。


 タケヒコの背後にある、さらに大きな声。



「それ、普通の神様か?」



 シンは思わず聞いた。



 カガチは答えられなかった。



 代わりに、年長の女が言った。



「普通の神など、見たことがない」



 それは、たしかにそうだった。



 ウロオボエ様土偶が、コトの腕の中で頼りなく傾いた。



「ウロオボエ様は?」


 コトが聞いた。



 年長の女は言った。



「弱い」



 即答だった。



 コトは納得した。



「弱い神」



 シンは少し笑った。



 その笑いは、すぐ消えた。



 カガチが、シンを見ていた。



「青い石を渡したんだろう」


「そう」


「返せと言われている顔だ」


「分かるのか」


「火のものを借りた顔だ」



 シンは、年長の女を見た。



 女は何も言わない。



「返せって言われてる」


「なら、返してもらえ」


「簡単に言うな」


「簡単ではない。だが、返すものがあるなら、道は残る」



 カガチはコトの頭を撫でた。



「道が残っているうちは、まだ終わりじゃない」



 シンは火を見た。



 小さな火だ。



 だが、消えていない。



 今日、取り戻した平穏。


 ユナの額。


 水の音。


 半分に分けた肉。


 コトの笑い。


 変な言葉を覚えたモモ。


 帰ってきたカガチ。



 全部が、火のそばにある。



 壊したくない。



 だから、また考えなければならない。



 逃げるのか。


 隠れるのか。


 交渉するのか。


 戦うのか。



 まだ分からない。



 ただ、一つだけ分かった。



 この平穏は、勝って得たものではない。



 買ったものだ。



 青い石で。


 畑で。


 今日一日で。



 そして、買ったものには限りがある。



 夜は、まだ静かだった。



 襲撃は来なかった。



 平穏は、ほんの少し長く座っていた。



 だが、その火の向こうに。



 南から来る次の足音が、まだ聞こえないだけで、確かにあった。



(第二十三話へ)

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