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タケヒコ

第二十一話 タケヒコ



 南から来る流れを変えるために、北へ逃げる。



 何度考えても、意味の分からない言葉だった。



 だが、まっすぐな道は読まれる。


 火のそばも読まれる。


 畑も読まれる。


 水場も読まれる。


 斥候を探しに行けば、その斥候を見張る目がいる。



 だから、曲がるしかない。



 シンは、掌の中のヒスイを握った。



 冷たい。


 小さい。


 だが、重い。



 年長の女が、火の奥から出した石。



 水ではない。


 火でもない。


 腹のものでもない。



 道のもの。



 借りる、だ。


 返せ。



 その言葉が、掌よりも胸に重かった。



 まず、畑へ行った。



 畑は、まだあった。



 低い囲い。


 踏まないように避けていた土。


 残った穂。


 子供たちが覚えた細い道。


 トリビックリクンとトリビックリママのいた場所。



 一度、壊した。



 土を崩し、囲いを倒し、穂を散らし、道の上に置いた印を消した。



 だが、死ねば戻る。



 壊したものも戻る。


 折った枝も戻る。


 散らした穂も戻る。


 泣いたコトの顔さえ、何も知らない朝に戻る。



 それが今は、救いではなかった。



「もう一回か」



 シンは呟いた。



 ユナが隣に立っていた。


 タダもいる。


 年長の女は、火種を包む皮を持ったまま、少し後ろにいる。


 コトはウロオボエ様土偶を抱えて、もっと離れた場所から見ていた。



「壊すの?」


 コトが聞いた。



 声は小さかった。



「壊す」



 シンは答えた。



「でも、なくすんじゃない。道を空ける」


「しっぽの実、また?」


「また」



 コトは唇を噛んだ。



「かわいそう」


「うん」



 シンは頷いた。



「かわいそうだ」



 それから、囲いに手をかけた。



 ばき、と枝が折れる。



 二度目の音だった。


 だが、胸は一度目と同じように痛んだ。



 ユナが残った穂を集める。


 タダが水の流れを土で戻す。


 年長の女が、土へ返す粒だけを静かに分ける。



 シンは畝を崩した。



 守るために作った線を、自分の手で消していく。



 ここからここまで。


 ここは芽。


 ここは草。


 ここは踏むな。


 ここはコトが見ていた場所。


 ここはフスンが鼻を鳴らして伏せていた場所。



 そうやって作った線を、壊す。



 これは敗北だ。



 でも、ただの敗北ではない。



 ここに残れば流される。


 ここを空ければ、流れは少しだけ迷う。



 その少しを、買う。



 火で。


 種で。


 畑で。


 そして、青い石で。



 畑が畑ではなくなった頃、シンは泥のついた手でヒスイを握った。



 冷たい石だった。



「行く」



 誰に言ったのか分からない。



 ユナが頷いた。


 タダも頷いた。


 コトは泣きそうな顔で、ウロオボエ様土偶を抱き直した。



「シン」


「ん」


「返してね」



 コトが見ていたのは、畑ではなかった。


 シンの手の中の青い石だった。



「返す」



 シンは言った。



「戻る道を探して、返す」



 コトは何度も頷いた。



 フスンが、ふすん、と鼻を鳴らした。



「お前も、コトを頼む」



 シンが言うと、フスンはまた鼻を鳴らした。



 分かっているのかどうかは分からない。


 だが、今はそれでよかった。




 畑を消したあと、火を分けた。



 大きな火は残さない。


 灰の奥に火種を隠し、小さな器に移す。



 種は皮の中へ。


 残せる穂は束ねる。


 トリビックリクンの骨と貝殻はコトが持つ。


 トリビックリママの皮はユナが畳む。


 ウロオボエ様土偶は、コトの腕の中にある。



 集落の者たちは、北側のくぼみへ移った。



 完全に逃げたわけではない。


 住居を捨てたわけでもない。



 だが、火と子供と種を、ひとところに置かない。


 見える場所に置かない。


 水場へまっすぐ向かわない。



 何度も死んで覚えたことを、一つずつ形にした。



「本当に一人で行くのか」



 タダが低く聞いた。



 集落の端。


 森へ向かう前。


 まだ朝の光は柔らかい。


 だが、森の奥はもう柔らかくなかった。



「一人じゃない」


 シンは言った。



「ミチヌシがいる」


「それを一人と数えるのか」


「数え方が難しいな」



 タダは少しだけ眉を動かした。



 笑ったのかもしれない。


 この状況で笑ったなら、なかなかの剛の者だ。



「止めるべきか」


「止めないでほしい」


「理由は」


「交渉だから」



 シンは南の方を見た。



「人数を増やすと、向こうも人数を見る。武器を見る。子供を見る。火を見る。そうなったら、話じゃなくて、測り合いになる」


「もう測られている」


「そう。だから、こっちから見せるものを一つにする」



 シンはヒスイを見せた。



「これだけ持って行く」



 タダは長く石を見た。



「返せ」


「言われた」


「俺からも言う」


「分かった」



 タダは頷いた。



 ユナは少し離れたところにいた。


 こちらを見ている。


 何か言いたそうだった。



 来るな、と言えば、来ると言う。


 危ないと言えば、ここも危ないと言う。



 だから、シンは先に言った。



「今回は、俺とミチヌシだけで行く」



 ユナの眉が動いた。



「どうして」


「俺が死にそうな顔をした時、ユナがいると、俺がユナを見る」


「見ればいい」


「見たら、言うべきことを間違える」



 ユナは黙った。



 シンは言葉を探した。



「俺は今日、怖がらせに行くんじゃない。怒りに行くんでもない。お願いしに行くのとも違う」


「じゃあ、何しに行くの」


「買いに行く」



 ユナが目を細めた。



「何を」


「今日一日」



 シンは答えた。



「今日一日だけ、こっちに来ない道を買う」



 ユナは唇を噛んだ。



 シンは、彼女の髪を見た。



 まだ少し跳ねている。


 泥と汗の跡が残っている。



 直す約束を、何度もした。


 そのたびに、死んだ。



「戻ったら、髪を直す」



 シンは言った。



 ユナは少しだけ目を見開いた。



「また、それ?」


「また、それ」


「戻らなかったら?」


「怒っていい」


「怒れない」


「じゃあ、戻る」



 ユナはしばらくシンを見ていた。



 それから、小さく息を吐いた。



「戻って」



 それだけだった。



「戻る」



 シンは答えた。



 絶対とは言わなかった。


 戻る道を探す。



 今は、それしか言えなかった。




 ミチヌシは、集落の外れにいた。



 木の根に腰かけている。


 まるで昨日からそこにいたような顔をしている。



 古い衣。


 杖。


 首元の青緑の石。



 シンが近づくと、ミチヌシは目だけを動かした。



「来たか」


「来た」


「壊したか」



 シンは一瞬、黙った。



「見てたのか」


「道が息をした」


「つまり見てたんだな」


「そうとも言える」



 シンは鼻から息を吐いた。



 ミチヌシは立ち上がる。



「借りたか」



 シンは掌を開いた。



 ヒスイが、朝の光を受けて青く光る。



 ミチヌシの目が、ほんの少しだけ動いた。



「そういう石が、火の奥に残っていたか」


「知ってたのか」


「知らぬ」


「嘘つけ」


「知っていたわけではない。だが、あってもおかしくはない」



 シンは少し顔をしかめた。



「その言い方、ずるいな」


「道は、ずるい」


「認めるのかよ」



 ミチヌシはシンの前に来る。


 そして手を出した。



「貸せ」



 シンはヒスイを握り直した。



「やだ」


「お前が持っていても、見せ方を知らなければただの石だ」


「南に渡す石だ」


「渡す前に、止めなければならぬ」


「何を」


「列を」



 ミチヌシは南の方を見た。



「向こうは、人が声をかけたから止まるものではない。火を見たから止まるものでもない。石も、ただ持っていればよいわけではない」


「じゃあ、どうする」


「見せる」



 シンは深く息を吐いた。



「それ、好きだな」


「教えるより早い」



 シンは迷った。



 年長の女の声が蘇る。



 借りる、だ。


 返せ。



 この石は、シンのものではない。


 それでも、今この場で握りしめているだけでは何も変わらない。



 シンはヒスイをミチヌシに渡した。



「壊すなよ」


「壊れるような石なら、道にはならぬ」


「いや、そういう話じゃなくて」



 ミチヌシは答えず、歩き始めた。



 シンも後に続いた。



 森へ入る。



 今日は、ユナもタダもコトもいない。


 フスンの鼻息もない。


 モモの匂いも、今は薄い。



 シンとミチヌシだけだった。



 二人で、北へ向かうように歩き、途中で曲がり、斜面を下り、湿った草を避けた。


 沢には近づかない。


 見晴らしの良すぎる尾根にも、まっすぐは出ない。



 ミチヌシは、道なき場所を歩いているように見えて、確かに何かの上を歩いていた。



 足音がない。



 シンだけが、枝を踏みそうになり、泥に滑りそうになり、息を切らしている。



「なあ」


「なんだ」


「俺、今、かなり道に向いてない気がする」


「向いていない」


「即答すんな」


「だから覚える」



 シンは黙った。



 覚える。



 そうだ。


 それしかできない。



 死んで覚えた。


 水場に待たれること。


 斥候が一人ではないこと。


 見張りを見張る目があること。


 逃げる者の考えまで読まれること。



 そして今は、生きたまま覚える。



 道の曲がり方。


 踏んではいけない場所。


 見られやすい高み。


 声が届く水面。



 覚えろ。


 死ななくても、覚えろ。



 やがて、木々が薄くなった。



 川の手前に出た。



 向こう岸に、南の列があった。



 シンは息を止めた。



 前に見た時より、近い。



 人の列。


 荷を運ぶ者。


 槍を持つ者。


 磨いた石斧を下げる者。


 縄で結ばれた木片を持つ者。



 声は少ない。


 列は乱れない。


 子供も老人も見えない。



 これは逃げる集団ではない。



 動かす集団だ。



 水を測り、土地を測り、人を測り、次に進む場所を測る。



 その列の中央に、ひときわ静かな男がいた。



 特別大きいわけではない。


 タダほどの厚みもない。



 だが、立っているだけで周囲の流れが変わる。


 誰も怒鳴らない。


 誰も命令を聞いているようには見えない。



 それでも、全員がその男を中心に動いていた。



 シンは、喉の奥が乾くのを感じた。



 あれが頭だ。



 そう思った。



 この列の足を、今この場で預かっている男。



 ミチヌシが片手を上げた。



 そして、借りたヒスイを光の当たる場所へかざした。



 青緑の光が、川へ落ちる。



 水面が揺れる。


 光が、流れに沿って伸びる。



 その瞬間。



 南の列が、一斉に止まった。



 誰も叫ばない。


 誰も命じない。


 それでも止まった。



 シンの背筋が粟立った。



 石を見たのではない。



 価値を見たのだ。



 ここには、道がある。


 ここには、遠くと繋がるものがある。


 ここは、踏めば終わるだけの火ではない。



 南の列は、それを理解した。



 先頭近くの男が小さく言った。



「タケヒコ様」



 中央の男が、ゆっくりとこちらを見た。



 タケヒコ。



 その名が、川の音の中でもはっきり聞こえた。



 タケヒコは列から離れ、川の手前まで歩いてきた。



 足の運びが静かだった。


 急いでいない。


 焦っていない。


 だが、遅くもない。



 ミチヌシを見た。


 次に、シンを見た。



「道守の連れか」



 声は整っていた。


 感情は薄い。


 でも、冷たくはない。



 測っている声だ。



「……まあ、そうだ」


 シンは答えた。



 ミチヌシは何も言わない。


 交渉しろ、ということらしい。



 シンは一瞬だけ、心の中で悪態をついた。



 そこは助けてくれよ。



 でも、助けてくれないからこそ、ここまで来た。



 タケヒコは、シンを見続けている。



「お前は、何者だ」


「北の者だ」


「北に、そういう者はいない」


「今はいる」



 タケヒコの眉がわずかに動いた。



 それから、笑った。



 初めて、人間らしく。



「北にも、そういう目をした者がいるのか」


「そういう目?」


「流れを見ようとする目だ」


「アンタと同じか」


「違う」



 タケヒコは即答した。



「俺は、流れを作る側だ」



 川の音が強くなった気がした。



「北は、流れに耐える」


 タケヒコは言った。



「西は、流れに押される」



 そして、自分の背後の列を軽く示した。



「我らは、流れを作る」



 シンは黙った。



 タケヒコの言葉は、傲慢に聞こえる。


 でも、ただの虚勢ではなかった。



 実際に、彼らは流れを作っている。


 水を測り、道を測り、人を動かす。


 土地を囲い、種をまき、収穫を数え、足りない分を次の土地へ求める。



「なぜ、他の奴らを押し出す」


 シンは聞いた。



 タケヒコは少しも怒らなかった。



 答える価値がある、と判断した目をした。



「人は増える」



 短い言葉だった。



「種を持てば、人は増える。子が残る。老人も残る。腹が満ちる。腹が満ちれば、次の腹が生まれる」



 タケヒコは、川の上流を見た。



「だが、土地は増えぬ」



 シンは息を止めた。



「水も、勝手には増えぬ。水を引けば、上流が要る。上流を取れば、そこにいた者が動く。そこにいた者が動けば、さらに別の者が動く」



 タケヒコは淡々と言った。



「止まれば、飢える」



 その言葉は、刃より冷たかった。



「だから、動かす」


「それで、西が流れてくる」


「そうだ」


「西が俺たちを襲う」


「そうだ」


「知っててやってるのか」


「知っている」



 シンの拳が固まった。



 怒りが上がる。



 だが、タケヒコは視線を逸らさない。



「知らぬふりをする者もいる。俺はしない」


「だからマシだと?」


「違う」



 タケヒコの声は変わらない。



「それが、我らだ」



 シンは歯を噛んだ。



 タケヒコは続けた。



「俺の上にも声がある。さらに南にも、声がある。水を測れ、土地を測れ、人を動かせ、と言う声だ」


「誰の声だ」



 タケヒコは、ほんの少しだけ空を見た。



「雷の御名を聞く者たちがいる」



 シンの胸の奥が、変なふうに冷えた。



「雷?」


「ミカヅチ」



 その名は、川の音の中で妙に硬く響いた。



「俺は、その声のすべてを動かせるわけではない」


 タケヒコは言った。



「だが、この列の足は、今は俺が預かっている」



 やはり、そうだった。



 シンは一歩前に出た。



「話がある」


「聞こう」


「俺の集落に、来るな」


「理由は」


「俺たちは、お前たちを止められない」



 タケヒコの目が動いた。



 シンは続けた。



「西も止められない。水場も読まれる。道を外れても、別の道から来る。俺たちだけじゃ勝てない」


「なら、なぜ立っている」


「嫌だからだ」



 タケヒコが黙った。



「正しいとか、強いとか、必要とか、そういう話は分かる。人が増えるのも分かる。土地が足りないのも分かる。流れを作らないと飢えるのも、たぶん分かる」



 シンは息を吸った。



「でも、嫌だ」



 声が震えていた。



「俺は、あの火が好きだ。コトが走ってるのが好きだ。タダの焼いた肉がうまいのが好きだ。ユナが川で水をかけてくるのが好きだ。老婆が何も言わずに全部見てるのが、ちょっと怖いけど好きだ」



 言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。



 だが、止めなかった。



「だから、来るな」



 タケヒコは長くシンを見ていた。



 そして、短く笑った。



「感情で道を曲げろと言うのか」


「そうだ」


「面白い」


「笑うな」


「笑っているのではない。測っている」


「余計悪いわ」



 タケヒコの後ろで、南の者たちが静かに待っている。



 誰も口を挟まない。


 誰も勝手に動かない。



 その静けさが、逆に怖かった。



「代わりに、何を出す」


 タケヒコが言った。



 シンはミチヌシを見た。



 ミチヌシは、借りたヒスイをまだ光にかざしている。



 それだけで、何も言わない。



 シンはミチヌシからヒスイを受け取った。



 掌に戻る冷たさ。



 返せ、と言われた石。



 シンは、その石をタケヒコへ差し出した。



「これを渡す」



 タケヒコの目が、初めてはっきり動いた。



「青を渡すのか」


「渡す」


「それは、お前のものか」


「借り物だ」


「借り物を渡すのか」



 タケヒコの声に、少しだけ興味が混じった。



「返す約束をしてる」


「では、なぜ渡す」


「返す場所を残すためだ」



 タケヒコは黙った。



 シンは手を引っ込めなかった。



「この石を渡す。だから、今日の足を変えろ。俺たちの火へ向かう流れを、別へ曲げろ」


「今日だけか」


「今日だけでもいい」



 シンは言った。



「今日を変えれば、明日の考え方が変わる」



 その言葉は、自分に向けて言ったのかもしれなかった。



 タケヒコは、ヒスイを受け取った。



 青緑の石が、シンの掌から離れた。



 その瞬間、胸の奥が少し痛んだ。



 返すと約束した。



 なのに、渡した。



 でも、渡さなければ、返す道も消える。



 タケヒコはヒスイを光にかざした。



「小さい」


「文句言うな」


「だが、よい色だ」



 タケヒコはヒスイを握った。



「これだけでは、道を変えるには軽い」


「まだ足りないのか」


「足りぬ」



 シンの喉が乾いた。



「他に何がいる」



 タケヒコの目が、シンに戻った。



「お前だ」



「俺?」


「お前自身が面白い」



 シンは固まった。



「俺に何をできると思ってる」


「知らない」


「知らないのかよ」


「知らない。だから見たい」



 タケヒコは淡々と言った。



「北の者でありながら、道守と歩き、青を借り、借り物を渡してでも火を残そうとする。流れを受ける側なのに、流れを曲げようとしている」



 タケヒコの目が少しだけ細くなる。



「そういう者は、南にも少ない」


「南に来いって話なら断る」


「まだ誘っていない」


「いずれ誘う顔だろ、それ」



 タケヒコはまた短く笑った。



「やはり面白い北人だ」


「で、どうする」



 シンは聞いた。



 タケヒコはヒスイを腰の紐へ結んだ。



 返ってこない。



 少なくとも、今は。



「今回は道を変える」



 シンは息を止めた。



「今回は?」


「また来る」


「だよな」



 安堵と絶望が、同時に来た。



 タケヒコは背後へ手を上げた。



 後ろの男がすぐ動く。


 鳥に似た鋭い音を出す。



 一つ。


 二つ。


 間を置いて、三つ。



 南の列が静かに動き始めた。



 北へ向かっていた線が、ゆっくりと横へずれる。



 川沿いをそのまま上がるのではなく、斜面の低い方へ流れていく。



 さらに奥で、別の合図が返る。



 西の流れも、ざわめきながら方向を変えた。



 完全に止まったわけではない。


 飢えが消えたわけでもない。


 怒りが消えたわけでもない。



 それでも、足は曲がった。



 シンは長く息を吐いた。



「……変わった」


「今回はな」


 ミチヌシが言った。



 タケヒコは川の向こうへ戻りかけて、ふと足を止めた。



「シン」



「何」


「青は預かる」


「返せよ」


「返しに来い」



 シンは言葉に詰まった。



 タケヒコは、少しだけ笑った。



「返す道が残っていればな」



 それだけ言って、タケヒコは列へ戻った。



 南の列は、もう北へは向かっていなかった。



 少しだけ、道が変わっている。



 たった一日分。


 たった一度分。



 それでも、変わった。



 シンは空の手を見た。



 ヒスイはもうない。



 掌には、冷たさだけが残っている。



「成功したのか」


 シンは呟いた。



「今回はな」


 ミチヌシが同じ言葉を繰り返した。



「また来るって言った」


「そうだ」


「根本は変わってない」


「そうだ」



 シンは南の列を見た。



 タケヒコの背中が遠ざかる。



 流れを作る側。


 人が増えるから、土地が足りないから、水が要るから、動かすしかないと言った男。



 そして、その上にある雷の名。



「俺は、見つかったのか」



 シンは言った。



 ミチヌシは答えなかった。



 それが答えだった。




 甘い匂いがした。



 振り返る。



 モモがいた。



 川の手前。


 いつもより近い。



 南の列を見ていた。


 タケヒコを見ていた。


 そして、シンの空になった手を見た。



「見てたか」


「……見ていた」


「今日は殺しに来ないのか」


「今日は、来ない」


「なんで」



 モモは少し黙った。



「誤差が、大きくなっている」


「俺のせいか」


「りょ」


「修正しなくていいのか」


「判断中」



 シンは少し考えた。



 モモの手は、刀の近くにない。


 だが、遠くもない。



 何かに縛られながら、それでも前より近くにいる。



「モモ」


「何」


「南って、ああいうものなんだな」



 モモは答えない。



「秩序があって、技術があって、列が乱れなくて、人を増やして、土地を広げて、水を測って、全部を動かす」



 シンは川を見た。



「たぶん、あっちの方が効率はいい。たくさん生きられる。飢える人間も減るかもしれない」


「そう」



 モモは短く答えた。



「でも」



 シンはコトを思い出した。


 ウロオボエ様土偶を抱えて走る姿。



 ユナを思い出した。


 跳ねた髪。


 川で水をかけてくる笑い方。



 タダを思い出した。


 無言で肉を焼く手。



 年長の女を思い出した。


 ヒスイを渡して、返せと言った目。



「それが正しいなら、なんで俺は嫌なんだろうな」



 モモは答えなかった。



 否定もしなかった。



 その沈黙が、今までよりもずっと大きく聞こえた。



「お前も、誰かに動かされてるのか」



 シンは聞いた。



 モモの目が、わずかに揺れた。



「回答不可」


「だろうな」



 シンは笑った。



 笑うしかなかった。



「でも、もしそうなら」



 モモを見る。



 モモも、シンを見ている。



「そんなの、気に食わない」



 モモの目が、さらに揺れた。



 それは誤差には見えなかった。



 名前のない反応。


 モモ自身がまだ説明できない、何か。



 モモは何も言わなかった。



 ただ、消えなかった。



 まだ、そこにいた。



 川が光っている。


 風が来る。


 草が揺れる。



 西の流れ。


 南の流れ。



 どちらも、止まらない。



 それでも、今日。



 少しだけ変わった。



 たった一日分だけ。


 それでも、変わった。




 北側のくぼみへ戻ると、ユナがいた。



 濡れた皮を木の枝へ掛けている。


 シンの顔を見るなり、少し眉を寄せた。



「戻った」


「戻った」


「石は?」



 シンは手を開いた。



 何もない。



 ユナの目が、少し揺れた。



「渡したの」


「渡した」


「返せる?」


「返しに行く」



 ユナはそれ以上聞かなかった。



 ただ、シンの手を見た。


 空になった手。


 泥と、川の湿り気と、冷たさだけが残った手。



「髪」



 ユナが言った。



 シンは一瞬、何のことか分からなかった。



 すぐ思い出す。



「直す」



 ユナは背を向けた。



 あまりにも自然に。


 当たり前みたいに。



 シンは、その背中を見て、ようやく膝の力が抜けそうになった。



 戻った。



 本当に、戻った。



 ヒスイは手元にない。


 借り物を、渡してしまった。


 また来る、と言われた。


 根本は変わっていない。



 それでも、今日は戻った。



 シンはユナの髪に触れた。



 泥と汗で、少し絡んでいる。


 葉の小さな欠片がついている。



「痛い?」


「痛くない」


「下手?」


「少し」


「正直だな」


「でも、嫌じゃない」



 シンは黙った。



 指先で、絡んだ髪をゆっくり解く。



 髪を直す。



 ただ、それだけのことだった。



 でも、今はそれが奇跡みたいだった。



 コトが走ってきた。



「シン! 青い石は?」



 シンの手が止まった。



 コトはすぐに気づいた。



「ない」


「ない」


「食べられた?」


「食べられてない。渡した」


「誰に」


「南の、偉そうなやつ」


「返してくれる?」



 シンは少し黙った。



「返しに行く」


「遠い?」


「たぶん遠い」


「たぶんかー」



 コトはウロオボエ様土偶を抱え直した。



「じゃあ、ウロオボエ様は、まだ持つ」


「頼む」


「弱いけど」


「弱いから頼む」



 コトは真剣に頷いた。



「弱いから、持つ」



 フスンが、ふすん、と鼻を鳴らした。



「お前も頼む」



 シンが言うと、フスンはまた鼻を鳴らした。



 その夜。



 襲撃は来なかった。



 大きな火は焚かない。


 祭りの夜のような明るさもない。


 穂も少ない。


 畑も壊した。


 ヒスイも手元にない。



 失ったものばかりだった。



 それでも、石は飛ばなかった。


 火は蹴られなかった。


 フスンは潰されなかった。


 ユナは森へ引きずられなかった。



 ただ、それだけで、十分すぎた。



 火種は灰の中にある。


 種は皮の中にある。


 弱い神は、コトの腕の中にある。



 青い石は、もうシンの手にはない。



 だが、掌にはまだ冷たさが残っていた。



 それは、失った冷たさではなく。



 道が、まだ繋がっている冷たさだった。



 ユナは隣にいる。


 コトは眠りかけている。


 タダは森を見ている。


 年長の女は火を見ている。


 フスンは鼻を鳴らして丸くなっている。



 モモは少し離れた場所に立っていた。



 前より近い。



 けれど、まだ触れない距離で。



 遠くで、鳥に似た声が一度だけ鳴った。



 シンは目を開けた。


 タダも顔を上げた。



 しかし、それ以上は続かなかった。



 今日だけ。



 タケヒコはそう言った。



 だから、今日だけでいい。



 今日は、誰も死ななかった。



 それで、今日はいい。



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