タケヒコ
第二十一話 タケヒコ
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南から来る流れを変えるために、北へ逃げる。
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何度考えても、意味の分からない言葉だった。
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だが、まっすぐな道は読まれる。
火のそばも読まれる。
畑も読まれる。
水場も読まれる。
斥候を探しに行けば、その斥候を見張る目がいる。
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だから、曲がるしかない。
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シンは、掌の中のヒスイを握った。
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冷たい。
小さい。
だが、重い。
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年長の女が、火の奥から出した石。
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水ではない。
火でもない。
腹のものでもない。
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道のもの。
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借りる、だ。
返せ。
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その言葉が、掌よりも胸に重かった。
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まず、畑へ行った。
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畑は、まだあった。
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低い囲い。
踏まないように避けていた土。
残った穂。
子供たちが覚えた細い道。
トリビックリクンとトリビックリママのいた場所。
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一度、壊した。
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土を崩し、囲いを倒し、穂を散らし、道の上に置いた印を消した。
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だが、死ねば戻る。
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壊したものも戻る。
折った枝も戻る。
散らした穂も戻る。
泣いたコトの顔さえ、何も知らない朝に戻る。
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それが今は、救いではなかった。
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「もう一回か」
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シンは呟いた。
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ユナが隣に立っていた。
タダもいる。
年長の女は、火種を包む皮を持ったまま、少し後ろにいる。
コトはウロオボエ様土偶を抱えて、もっと離れた場所から見ていた。
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「壊すの?」
コトが聞いた。
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声は小さかった。
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「壊す」
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シンは答えた。
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「でも、なくすんじゃない。道を空ける」
「しっぽの実、また?」
「また」
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コトは唇を噛んだ。
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「かわいそう」
「うん」
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シンは頷いた。
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「かわいそうだ」
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それから、囲いに手をかけた。
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ばき、と枝が折れる。
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二度目の音だった。
だが、胸は一度目と同じように痛んだ。
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ユナが残った穂を集める。
タダが水の流れを土で戻す。
年長の女が、土へ返す粒だけを静かに分ける。
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シンは畝を崩した。
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守るために作った線を、自分の手で消していく。
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ここからここまで。
ここは芽。
ここは草。
ここは踏むな。
ここはコトが見ていた場所。
ここはフスンが鼻を鳴らして伏せていた場所。
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そうやって作った線を、壊す。
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これは敗北だ。
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でも、ただの敗北ではない。
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ここに残れば流される。
ここを空ければ、流れは少しだけ迷う。
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その少しを、買う。
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火で。
種で。
畑で。
そして、青い石で。
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畑が畑ではなくなった頃、シンは泥のついた手でヒスイを握った。
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冷たい石だった。
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「行く」
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誰に言ったのか分からない。
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ユナが頷いた。
タダも頷いた。
コトは泣きそうな顔で、ウロオボエ様土偶を抱き直した。
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「シン」
「ん」
「返してね」
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コトが見ていたのは、畑ではなかった。
シンの手の中の青い石だった。
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「返す」
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シンは言った。
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「戻る道を探して、返す」
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コトは何度も頷いた。
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フスンが、ふすん、と鼻を鳴らした。
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「お前も、コトを頼む」
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シンが言うと、フスンはまた鼻を鳴らした。
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分かっているのかどうかは分からない。
だが、今はそれでよかった。
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畑を消したあと、火を分けた。
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大きな火は残さない。
灰の奥に火種を隠し、小さな器に移す。
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種は皮の中へ。
残せる穂は束ねる。
トリビックリクンの骨と貝殻はコトが持つ。
トリビックリママの皮はユナが畳む。
ウロオボエ様土偶は、コトの腕の中にある。
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集落の者たちは、北側のくぼみへ移った。
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完全に逃げたわけではない。
住居を捨てたわけでもない。
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だが、火と子供と種を、ひとところに置かない。
見える場所に置かない。
水場へまっすぐ向かわない。
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何度も死んで覚えたことを、一つずつ形にした。
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「本当に一人で行くのか」
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タダが低く聞いた。
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集落の端。
森へ向かう前。
まだ朝の光は柔らかい。
だが、森の奥はもう柔らかくなかった。
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「一人じゃない」
シンは言った。
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「ミチヌシがいる」
「それを一人と数えるのか」
「数え方が難しいな」
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タダは少しだけ眉を動かした。
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笑ったのかもしれない。
この状況で笑ったなら、なかなかの剛の者だ。
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「止めるべきか」
「止めないでほしい」
「理由は」
「交渉だから」
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シンは南の方を見た。
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「人数を増やすと、向こうも人数を見る。武器を見る。子供を見る。火を見る。そうなったら、話じゃなくて、測り合いになる」
「もう測られている」
「そう。だから、こっちから見せるものを一つにする」
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シンはヒスイを見せた。
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「これだけ持って行く」
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タダは長く石を見た。
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「返せ」
「言われた」
「俺からも言う」
「分かった」
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タダは頷いた。
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ユナは少し離れたところにいた。
こちらを見ている。
何か言いたそうだった。
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来るな、と言えば、来ると言う。
危ないと言えば、ここも危ないと言う。
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だから、シンは先に言った。
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「今回は、俺とミチヌシだけで行く」
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ユナの眉が動いた。
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「どうして」
「俺が死にそうな顔をした時、ユナがいると、俺がユナを見る」
「見ればいい」
「見たら、言うべきことを間違える」
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ユナは黙った。
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シンは言葉を探した。
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「俺は今日、怖がらせに行くんじゃない。怒りに行くんでもない。お願いしに行くのとも違う」
「じゃあ、何しに行くの」
「買いに行く」
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ユナが目を細めた。
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「何を」
「今日一日」
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シンは答えた。
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「今日一日だけ、こっちに来ない道を買う」
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ユナは唇を噛んだ。
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シンは、彼女の髪を見た。
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まだ少し跳ねている。
泥と汗の跡が残っている。
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直す約束を、何度もした。
そのたびに、死んだ。
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「戻ったら、髪を直す」
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シンは言った。
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ユナは少しだけ目を見開いた。
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「また、それ?」
「また、それ」
「戻らなかったら?」
「怒っていい」
「怒れない」
「じゃあ、戻る」
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ユナはしばらくシンを見ていた。
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それから、小さく息を吐いた。
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「戻って」
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それだけだった。
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「戻る」
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シンは答えた。
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絶対とは言わなかった。
戻る道を探す。
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今は、それしか言えなかった。
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ミチヌシは、集落の外れにいた。
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木の根に腰かけている。
まるで昨日からそこにいたような顔をしている。
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古い衣。
杖。
首元の青緑の石。
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シンが近づくと、ミチヌシは目だけを動かした。
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「来たか」
「来た」
「壊したか」
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シンは一瞬、黙った。
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「見てたのか」
「道が息をした」
「つまり見てたんだな」
「そうとも言える」
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シンは鼻から息を吐いた。
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ミチヌシは立ち上がる。
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「借りたか」
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シンは掌を開いた。
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ヒスイが、朝の光を受けて青く光る。
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ミチヌシの目が、ほんの少しだけ動いた。
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「そういう石が、火の奥に残っていたか」
「知ってたのか」
「知らぬ」
「嘘つけ」
「知っていたわけではない。だが、あってもおかしくはない」
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シンは少し顔をしかめた。
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「その言い方、ずるいな」
「道は、ずるい」
「認めるのかよ」
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ミチヌシはシンの前に来る。
そして手を出した。
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「貸せ」
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シンはヒスイを握り直した。
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「やだ」
「お前が持っていても、見せ方を知らなければただの石だ」
「南に渡す石だ」
「渡す前に、止めなければならぬ」
「何を」
「列を」
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ミチヌシは南の方を見た。
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「向こうは、人が声をかけたから止まるものではない。火を見たから止まるものでもない。石も、ただ持っていればよいわけではない」
「じゃあ、どうする」
「見せる」
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シンは深く息を吐いた。
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「それ、好きだな」
「教えるより早い」
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シンは迷った。
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年長の女の声が蘇る。
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借りる、だ。
返せ。
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この石は、シンのものではない。
それでも、今この場で握りしめているだけでは何も変わらない。
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シンはヒスイをミチヌシに渡した。
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「壊すなよ」
「壊れるような石なら、道にはならぬ」
「いや、そういう話じゃなくて」
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ミチヌシは答えず、歩き始めた。
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シンも後に続いた。
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森へ入る。
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今日は、ユナもタダもコトもいない。
フスンの鼻息もない。
モモの匂いも、今は薄い。
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シンとミチヌシだけだった。
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二人で、北へ向かうように歩き、途中で曲がり、斜面を下り、湿った草を避けた。
沢には近づかない。
見晴らしの良すぎる尾根にも、まっすぐは出ない。
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ミチヌシは、道なき場所を歩いているように見えて、確かに何かの上を歩いていた。
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足音がない。
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シンだけが、枝を踏みそうになり、泥に滑りそうになり、息を切らしている。
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「なあ」
「なんだ」
「俺、今、かなり道に向いてない気がする」
「向いていない」
「即答すんな」
「だから覚える」
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シンは黙った。
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覚える。
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そうだ。
それしかできない。
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死んで覚えた。
水場に待たれること。
斥候が一人ではないこと。
見張りを見張る目があること。
逃げる者の考えまで読まれること。
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そして今は、生きたまま覚える。
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道の曲がり方。
踏んではいけない場所。
見られやすい高み。
声が届く水面。
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覚えろ。
死ななくても、覚えろ。
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やがて、木々が薄くなった。
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川の手前に出た。
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向こう岸に、南の列があった。
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シンは息を止めた。
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前に見た時より、近い。
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人の列。
荷を運ぶ者。
槍を持つ者。
磨いた石斧を下げる者。
縄で結ばれた木片を持つ者。
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声は少ない。
列は乱れない。
子供も老人も見えない。
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これは逃げる集団ではない。
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動かす集団だ。
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水を測り、土地を測り、人を測り、次に進む場所を測る。
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その列の中央に、ひときわ静かな男がいた。
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特別大きいわけではない。
タダほどの厚みもない。
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だが、立っているだけで周囲の流れが変わる。
誰も怒鳴らない。
誰も命令を聞いているようには見えない。
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それでも、全員がその男を中心に動いていた。
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シンは、喉の奥が乾くのを感じた。
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あれが頭だ。
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そう思った。
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この列の足を、今この場で預かっている男。
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ミチヌシが片手を上げた。
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そして、借りたヒスイを光の当たる場所へかざした。
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青緑の光が、川へ落ちる。
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水面が揺れる。
光が、流れに沿って伸びる。
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その瞬間。
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南の列が、一斉に止まった。
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誰も叫ばない。
誰も命じない。
それでも止まった。
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シンの背筋が粟立った。
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石を見たのではない。
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価値を見たのだ。
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ここには、道がある。
ここには、遠くと繋がるものがある。
ここは、踏めば終わるだけの火ではない。
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南の列は、それを理解した。
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先頭近くの男が小さく言った。
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「タケヒコ様」
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中央の男が、ゆっくりとこちらを見た。
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タケヒコ。
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その名が、川の音の中でもはっきり聞こえた。
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タケヒコは列から離れ、川の手前まで歩いてきた。
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足の運びが静かだった。
急いでいない。
焦っていない。
だが、遅くもない。
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ミチヌシを見た。
次に、シンを見た。
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「道守の連れか」
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声は整っていた。
感情は薄い。
でも、冷たくはない。
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測っている声だ。
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「……まあ、そうだ」
シンは答えた。
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ミチヌシは何も言わない。
交渉しろ、ということらしい。
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シンは一瞬だけ、心の中で悪態をついた。
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そこは助けてくれよ。
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でも、助けてくれないからこそ、ここまで来た。
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タケヒコは、シンを見続けている。
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「お前は、何者だ」
「北の者だ」
「北に、そういう者はいない」
「今はいる」
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タケヒコの眉がわずかに動いた。
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それから、笑った。
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初めて、人間らしく。
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「北にも、そういう目をした者がいるのか」
「そういう目?」
「流れを見ようとする目だ」
「アンタと同じか」
「違う」
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タケヒコは即答した。
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「俺は、流れを作る側だ」
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川の音が強くなった気がした。
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「北は、流れに耐える」
タケヒコは言った。
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「西は、流れに押される」
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そして、自分の背後の列を軽く示した。
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「我らは、流れを作る」
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シンは黙った。
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タケヒコの言葉は、傲慢に聞こえる。
でも、ただの虚勢ではなかった。
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実際に、彼らは流れを作っている。
水を測り、道を測り、人を動かす。
土地を囲い、種をまき、収穫を数え、足りない分を次の土地へ求める。
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「なぜ、他の奴らを押し出す」
シンは聞いた。
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タケヒコは少しも怒らなかった。
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答える価値がある、と判断した目をした。
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「人は増える」
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短い言葉だった。
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「種を持てば、人は増える。子が残る。老人も残る。腹が満ちる。腹が満ちれば、次の腹が生まれる」
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タケヒコは、川の上流を見た。
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「だが、土地は増えぬ」
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シンは息を止めた。
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「水も、勝手には増えぬ。水を引けば、上流が要る。上流を取れば、そこにいた者が動く。そこにいた者が動けば、さらに別の者が動く」
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タケヒコは淡々と言った。
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「止まれば、飢える」
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その言葉は、刃より冷たかった。
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「だから、動かす」
「それで、西が流れてくる」
「そうだ」
「西が俺たちを襲う」
「そうだ」
「知っててやってるのか」
「知っている」
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シンの拳が固まった。
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怒りが上がる。
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だが、タケヒコは視線を逸らさない。
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「知らぬふりをする者もいる。俺はしない」
「だからマシだと?」
「違う」
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タケヒコの声は変わらない。
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「それが、我らだ」
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シンは歯を噛んだ。
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タケヒコは続けた。
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「俺の上にも声がある。さらに南にも、声がある。水を測れ、土地を測れ、人を動かせ、と言う声だ」
「誰の声だ」
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タケヒコは、ほんの少しだけ空を見た。
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「雷の御名を聞く者たちがいる」
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シンの胸の奥が、変なふうに冷えた。
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「雷?」
「ミカヅチ」
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その名は、川の音の中で妙に硬く響いた。
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「俺は、その声のすべてを動かせるわけではない」
タケヒコは言った。
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「だが、この列の足は、今は俺が預かっている」
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やはり、そうだった。
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シンは一歩前に出た。
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「話がある」
「聞こう」
「俺の集落に、来るな」
「理由は」
「俺たちは、お前たちを止められない」
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タケヒコの目が動いた。
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シンは続けた。
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「西も止められない。水場も読まれる。道を外れても、別の道から来る。俺たちだけじゃ勝てない」
「なら、なぜ立っている」
「嫌だからだ」
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タケヒコが黙った。
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「正しいとか、強いとか、必要とか、そういう話は分かる。人が増えるのも分かる。土地が足りないのも分かる。流れを作らないと飢えるのも、たぶん分かる」
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シンは息を吸った。
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「でも、嫌だ」
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声が震えていた。
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「俺は、あの火が好きだ。コトが走ってるのが好きだ。タダの焼いた肉がうまいのが好きだ。ユナが川で水をかけてくるのが好きだ。老婆が何も言わずに全部見てるのが、ちょっと怖いけど好きだ」
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言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
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だが、止めなかった。
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「だから、来るな」
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タケヒコは長くシンを見ていた。
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そして、短く笑った。
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「感情で道を曲げろと言うのか」
「そうだ」
「面白い」
「笑うな」
「笑っているのではない。測っている」
「余計悪いわ」
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タケヒコの後ろで、南の者たちが静かに待っている。
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誰も口を挟まない。
誰も勝手に動かない。
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その静けさが、逆に怖かった。
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「代わりに、何を出す」
タケヒコが言った。
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シンはミチヌシを見た。
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ミチヌシは、借りたヒスイをまだ光にかざしている。
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それだけで、何も言わない。
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シンはミチヌシからヒスイを受け取った。
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掌に戻る冷たさ。
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返せ、と言われた石。
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シンは、その石をタケヒコへ差し出した。
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「これを渡す」
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タケヒコの目が、初めてはっきり動いた。
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「青を渡すのか」
「渡す」
「それは、お前のものか」
「借り物だ」
「借り物を渡すのか」
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タケヒコの声に、少しだけ興味が混じった。
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「返す約束をしてる」
「では、なぜ渡す」
「返す場所を残すためだ」
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タケヒコは黙った。
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シンは手を引っ込めなかった。
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「この石を渡す。だから、今日の足を変えろ。俺たちの火へ向かう流れを、別へ曲げろ」
「今日だけか」
「今日だけでもいい」
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シンは言った。
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「今日を変えれば、明日の考え方が変わる」
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その言葉は、自分に向けて言ったのかもしれなかった。
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タケヒコは、ヒスイを受け取った。
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青緑の石が、シンの掌から離れた。
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その瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
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返すと約束した。
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なのに、渡した。
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でも、渡さなければ、返す道も消える。
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タケヒコはヒスイを光にかざした。
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「小さい」
「文句言うな」
「だが、よい色だ」
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タケヒコはヒスイを握った。
⸻
「これだけでは、道を変えるには軽い」
「まだ足りないのか」
「足りぬ」
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シンの喉が乾いた。
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「他に何がいる」
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タケヒコの目が、シンに戻った。
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「お前だ」
⸻
「俺?」
「お前自身が面白い」
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シンは固まった。
⸻
「俺に何をできると思ってる」
「知らない」
「知らないのかよ」
「知らない。だから見たい」
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タケヒコは淡々と言った。
⸻
「北の者でありながら、道守と歩き、青を借り、借り物を渡してでも火を残そうとする。流れを受ける側なのに、流れを曲げようとしている」
⸻
タケヒコの目が少しだけ細くなる。
⸻
「そういう者は、南にも少ない」
「南に来いって話なら断る」
「まだ誘っていない」
「いずれ誘う顔だろ、それ」
⸻
タケヒコはまた短く笑った。
⸻
「やはり面白い北人だ」
「で、どうする」
⸻
シンは聞いた。
⸻
タケヒコはヒスイを腰の紐へ結んだ。
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返ってこない。
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少なくとも、今は。
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「今回は道を変える」
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シンは息を止めた。
⸻
「今回は?」
「また来る」
「だよな」
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安堵と絶望が、同時に来た。
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タケヒコは背後へ手を上げた。
⸻
後ろの男がすぐ動く。
鳥に似た鋭い音を出す。
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一つ。
二つ。
間を置いて、三つ。
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南の列が静かに動き始めた。
⸻
北へ向かっていた線が、ゆっくりと横へずれる。
⸻
川沿いをそのまま上がるのではなく、斜面の低い方へ流れていく。
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さらに奥で、別の合図が返る。
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西の流れも、ざわめきながら方向を変えた。
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完全に止まったわけではない。
飢えが消えたわけでもない。
怒りが消えたわけでもない。
⸻
それでも、足は曲がった。
⸻
シンは長く息を吐いた。
⸻
「……変わった」
「今回はな」
ミチヌシが言った。
⸻
タケヒコは川の向こうへ戻りかけて、ふと足を止めた。
⸻
「シン」
⸻
「何」
「青は預かる」
「返せよ」
「返しに来い」
⸻
シンは言葉に詰まった。
⸻
タケヒコは、少しだけ笑った。
⸻
「返す道が残っていればな」
⸻
それだけ言って、タケヒコは列へ戻った。
⸻
南の列は、もう北へは向かっていなかった。
⸻
少しだけ、道が変わっている。
⸻
たった一日分。
たった一度分。
⸻
それでも、変わった。
⸻
シンは空の手を見た。
⸻
ヒスイはもうない。
⸻
掌には、冷たさだけが残っている。
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「成功したのか」
シンは呟いた。
⸻
「今回はな」
ミチヌシが同じ言葉を繰り返した。
⸻
「また来るって言った」
「そうだ」
「根本は変わってない」
「そうだ」
⸻
シンは南の列を見た。
⸻
タケヒコの背中が遠ざかる。
⸻
流れを作る側。
人が増えるから、土地が足りないから、水が要るから、動かすしかないと言った男。
⸻
そして、その上にある雷の名。
⸻
「俺は、見つかったのか」
⸻
シンは言った。
⸻
ミチヌシは答えなかった。
⸻
それが答えだった。
⸻
⸻
甘い匂いがした。
⸻
振り返る。
⸻
モモがいた。
⸻
川の手前。
いつもより近い。
⸻
南の列を見ていた。
タケヒコを見ていた。
そして、シンの空になった手を見た。
⸻
「見てたか」
「……見ていた」
「今日は殺しに来ないのか」
「今日は、来ない」
「なんで」
⸻
モモは少し黙った。
⸻
「誤差が、大きくなっている」
「俺のせいか」
「りょ」
「修正しなくていいのか」
「判断中」
⸻
シンは少し考えた。
⸻
モモの手は、刀の近くにない。
だが、遠くもない。
⸻
何かに縛られながら、それでも前より近くにいる。
⸻
「モモ」
「何」
「南って、ああいうものなんだな」
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モモは答えない。
⸻
「秩序があって、技術があって、列が乱れなくて、人を増やして、土地を広げて、水を測って、全部を動かす」
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シンは川を見た。
⸻
「たぶん、あっちの方が効率はいい。たくさん生きられる。飢える人間も減るかもしれない」
「そう」
⸻
モモは短く答えた。
⸻
「でも」
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シンはコトを思い出した。
ウロオボエ様土偶を抱えて走る姿。
⸻
ユナを思い出した。
跳ねた髪。
川で水をかけてくる笑い方。
⸻
タダを思い出した。
無言で肉を焼く手。
⸻
年長の女を思い出した。
ヒスイを渡して、返せと言った目。
⸻
「それが正しいなら、なんで俺は嫌なんだろうな」
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モモは答えなかった。
⸻
否定もしなかった。
⸻
その沈黙が、今までよりもずっと大きく聞こえた。
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「お前も、誰かに動かされてるのか」
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シンは聞いた。
⸻
モモの目が、わずかに揺れた。
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「回答不可」
「だろうな」
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シンは笑った。
⸻
笑うしかなかった。
⸻
「でも、もしそうなら」
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モモを見る。
⸻
モモも、シンを見ている。
⸻
「そんなの、気に食わない」
⸻
モモの目が、さらに揺れた。
⸻
それは誤差には見えなかった。
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名前のない反応。
モモ自身がまだ説明できない、何か。
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モモは何も言わなかった。
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ただ、消えなかった。
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まだ、そこにいた。
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川が光っている。
風が来る。
草が揺れる。
⸻
西の流れ。
南の流れ。
⸻
どちらも、止まらない。
⸻
それでも、今日。
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少しだけ変わった。
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たった一日分だけ。
それでも、変わった。
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北側のくぼみへ戻ると、ユナがいた。
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濡れた皮を木の枝へ掛けている。
シンの顔を見るなり、少し眉を寄せた。
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「戻った」
「戻った」
「石は?」
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シンは手を開いた。
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何もない。
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ユナの目が、少し揺れた。
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「渡したの」
「渡した」
「返せる?」
「返しに行く」
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ユナはそれ以上聞かなかった。
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ただ、シンの手を見た。
空になった手。
泥と、川の湿り気と、冷たさだけが残った手。
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「髪」
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ユナが言った。
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シンは一瞬、何のことか分からなかった。
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すぐ思い出す。
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「直す」
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ユナは背を向けた。
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あまりにも自然に。
当たり前みたいに。
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シンは、その背中を見て、ようやく膝の力が抜けそうになった。
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戻った。
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本当に、戻った。
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ヒスイは手元にない。
借り物を、渡してしまった。
また来る、と言われた。
根本は変わっていない。
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それでも、今日は戻った。
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シンはユナの髪に触れた。
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泥と汗で、少し絡んでいる。
葉の小さな欠片がついている。
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「痛い?」
「痛くない」
「下手?」
「少し」
「正直だな」
「でも、嫌じゃない」
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シンは黙った。
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指先で、絡んだ髪をゆっくり解く。
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髪を直す。
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ただ、それだけのことだった。
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でも、今はそれが奇跡みたいだった。
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コトが走ってきた。
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「シン! 青い石は?」
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シンの手が止まった。
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コトはすぐに気づいた。
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「ない」
「ない」
「食べられた?」
「食べられてない。渡した」
「誰に」
「南の、偉そうなやつ」
「返してくれる?」
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シンは少し黙った。
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「返しに行く」
「遠い?」
「たぶん遠い」
「たぶんかー」
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コトはウロオボエ様土偶を抱え直した。
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「じゃあ、ウロオボエ様は、まだ持つ」
「頼む」
「弱いけど」
「弱いから頼む」
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コトは真剣に頷いた。
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「弱いから、持つ」
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フスンが、ふすん、と鼻を鳴らした。
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「お前も頼む」
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シンが言うと、フスンはまた鼻を鳴らした。
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その夜。
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襲撃は来なかった。
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大きな火は焚かない。
祭りの夜のような明るさもない。
穂も少ない。
畑も壊した。
ヒスイも手元にない。
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失ったものばかりだった。
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それでも、石は飛ばなかった。
火は蹴られなかった。
フスンは潰されなかった。
ユナは森へ引きずられなかった。
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ただ、それだけで、十分すぎた。
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火種は灰の中にある。
種は皮の中にある。
弱い神は、コトの腕の中にある。
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青い石は、もうシンの手にはない。
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だが、掌にはまだ冷たさが残っていた。
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それは、失った冷たさではなく。
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道が、まだ繋がっている冷たさだった。
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ユナは隣にいる。
コトは眠りかけている。
タダは森を見ている。
年長の女は火を見ている。
フスンは鼻を鳴らして丸くなっている。
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モモは少し離れた場所に立っていた。
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前より近い。
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けれど、まだ触れない距離で。
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遠くで、鳥に似た声が一度だけ鳴った。
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シンは目を開けた。
タダも顔を上げた。
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しかし、それ以上は続かなかった。
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今日だけ。
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タケヒコはそう言った。
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だから、今日だけでいい。
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今日は、誰も死ななかった。
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それで、今日はいい。
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(第二十二話へ)




