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青い石

第二十話 青い石


⸻


 畑を壊した。


⸻


 囲いを倒した。


 鳥よけを外した。


 残っていた穂を散らした。


 畝を崩し、水の逃げ道を消した。


⸻


 ここはもう、畑ではない。


⸻


 そう見えるはずだった。


⸻


 火の匂いを移し、種を包み、子供たちを集めすぎないようにし、見える道を避ける。


 トリビックリクンの骨と貝殻はコトが抱え、トリビックリママの皮はユナが畳んだ。


 ウロオボエ様土偶は、コトの胸にいた。


⸻


 弱い神は、持ち運ばれることになった。


⸻


「ウロオボエ様、重い」


 コトが言った。


⸻


「神の重みだな」


 シンは答えた。


⸻


「弱いのに?」


「弱い神にも重さはある」


⸻


 コトは泣き腫らした目で、土偶を見下ろした。


⸻


「ウロオボエ様、がんばって」


⸻


 土偶は、相変わらず頼りない顔で合掌している。


⸻


「こいつに頑張らせるの、だいぶ酷だな」


⸻


 シンは呟いた。


⸻


 少しだけ、コトが笑った。


⸻


 それだけで、シンは少し救われた。


⸻


 笑える。


⸻


 まだ笑える。


⸻


 なら、まだ終わっていない。


⸻


 そう思いたかった。


⸻


⸻


 だが、森は待ってくれなかった。


⸻


 畑を壊しても、襲撃は消えなかった。


⸻


 夕暮れを待たずに、鳥が飛んだ。


⸻


 黒い影が、木々の上へ散る。


 フスンが唸る。


 タダが杖を握り直す。


⸻


 モモが森を見た。


⸻


「接近、継続」


「分かってる」


 シンは言った。


⸻


 分かっている。


 いや、本当は分かっていない。


⸻


 ただ、何度も死んだせいで、嫌なことだけ先に分かるようになっていた。


⸻


 来る。


⸻


 また来る。


⸻


 畑は壊した。


 印は薄くした。


 火は分けた。


 種は包んだ。


 コトは土偶を抱えている。


 ユナも、タダも、フスンも、まだ生きている。


⸻


 それでも来る。


⸻


 森の奥で、枝が折れた。


⸻


 タダが低く言った。


⸻


「走れ」


⸻


 北へ。


⸻


 見える道ではない。


 獣と水と昔の足が作った、細い逃げ道。


⸻


 火種を持った女が先に行く。


 年長の女がその後ろ。


 子供たちは散らしすぎず、固めすぎず、二つに分けた。


 ユナは片方を受け持つ。


 タダは最後尾。


 シンは、コトとフスンの近くにいた。


⸻


 いける。


⸻


 一瞬、本気でそう思った。


⸻


 畑を壊したことで、敵の足が少し迷った。


 森から出てきた影の位置が、前と違う。


 火のそばへ一直線に来ない。


 穂のあった場所で、一瞬止まる。


⸻


 空白ができた。


⸻


 ほんの少し。


⸻


 だが、できた。


⸻


「今だ!」


⸻


 シンは叫んだ。


⸻


 ユナが子供たちを押し出す。


⸻


「走って!」


⸻


 コトが土偶を抱えて走る。


 フスンがその横を跳ねるように進む。


⸻


 タダが後ろで一人を打ち倒した。


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 敵の声が上がる。


⸻


 意味は分からない。


 だが、怒りだということだけは分かった。


⸻


 怒り。


 焦り。


 飢え。


⸻


 その全部が、背中から追ってくる。


⸻


 シンは振り返らなかった。


⸻


 振り返れば、遅れる。


⸻


 ユナの手が、シンの袖を掴んだ。


⸻


「こっち!」


⸻


 彼女は道ではない場所を指した。


⸻


 草の濃い方。


 普通なら通らない方。


⸻


 シンは頷いた。


⸻


「コト!」


⸻


 コトが振り返る。


⸻


「こっち!」


⸻


 コトは泣きそうな顔で頷いた。


⸻


 今度は、すぐには先回りの男は出なかった。


⸻


 道は、少しだけ変わった。


⸻


 シンは息を呑んだ。


⸻


 変えられる。


⸻


 全部ではない。


 でも、少しなら変えられる。


⸻


 その少しへ、全員で滑り込む。


⸻


 草をかき分け、低い枝をくぐり、湿った斜面を降りる。


 足が滑る。


 子供が泣く。


 フスンが吠えそうになる。


⸻


「吠えるな」


 シンは小声で言った。


⸻


 フスンは鼻だけ鳴らした。


⸻


 偉い。


⸻


 こんな時に、シンは本気でそう思った。


⸻


 沢の音が聞こえた。


⸻


 水だ。


⸻


 小さな沢。


 前には見えていなかった場所。


⸻


 ここを渡れば、匂いが切れるかもしれない。


 足跡も流れるかもしれない。


⸻


「水を渡る!」


⸻


 シンが叫ぶ。


⸻


 ユナが頷く。


⸻


 子供たちを先に渡す。


 火種は濡らさないように高く持つ。


 種の包みは皮の中。


 ウロオボエ様土偶はコトが胸に押しつけている。


⸻


「ウロオボエ様、濡れたら?」


「乾かす!」


 シンは叫んだ。


⸻


「弱いけど?」


「弱いからすぐ乾く!」


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 コトは泣きながら少し笑った。


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 その一瞬。


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 沢の上流から、石が落ちてきた。


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 自然に落ちた石ではない。


 投げられた石でもない。


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 積まれていた石が、崩された。


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 水が跳ねる。


 細い沢が、一瞬で濁る。


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 上から泥水が流れてきた。


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「伏せろ!」


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 タダが叫ぶ。


⸻


 次の瞬間、沢の向こう岸から影が出た。


⸻


 待っていた。


⸻


 水場にも、待っていた。


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 シンの背筋が凍った。


⸻


 火でもない。


 畑でもない。


 見える道でもない。


⸻


 水場。


⸻


 逃げる者が足跡を消そうとする場所。


 喉を潤そうとする場所。


 荷を持ち替える場所。


⸻


 そこに、待っていた。


⸻


 敵は火だけを見ているのではない。


 穂だけを見ているのでもない。


⸻


 逃げる者の考えを見ている。


⸻


 シンは、そのことに気づくのが遅れた。


⸻


 泥水の中で子供が転ぶ。


⸻


 ユナが手を伸ばす。


⸻


 その横へ男が飛び出す。


⸻


「ユナ!」


⸻


 シンは走った。


⸻


 水で足が滑る。


 膝を打つ。


 起き上がる。


⸻


 コトが叫ぶ。


⸻


「フスン!」


⸻


 フスンが水を跳ねて飛びかかった。


⸻


 男の足に噛みつく。


⸻


 今度は棒ではない。


⸻


 男は短い槍を持っていた。


⸻


 シンは叫ぶ前に飛び込んだ。


⸻


 フスンと槍の間へ。


⸻


 何をしているんだ、と自分でも思った。


⸻


 犬一匹。


⸻


 いや、犬ではない。


⸻


 フスンだ。


⸻


 コトが弟子みたいに育てた、妙に礼儀を覚えた、鼻息で返事をする、番犬になりかけのフスンだ。


⸻


 槍がシンの肩に入った。


⸻


 痛い。


⸻


 熱い。


⸻


 体が後ろへ倒れる。


⸻


 だが、フスンは潰れなかった。


⸻


 それだけで、少しだけ勝った気がした。


⸻


 次の瞬間、別の影が沢の下から上がった。


⸻


 挟まれた。


⸻


 上流。


 向こう岸。


 下流。


⸻


 水場は逃げ道ではなかった。


⸻


 囲いだった。


⸻


 シンは倒れたまま、泥水の中で見上げた。


⸻


 ユナが子供を抱えている。


 タダが二人を相手にしている。


 コトは土偶を抱えて泣いている。


 フスンは唸っている。


⸻


 モモがいた。


⸻


 沢のこちら側。


 白い衣の裾が泥に触れない。


 不自然なほど、汚れていない。


⸻


 彼女の手が、刀の柄へ動いた。


⸻


 前より早く。


⸻


 柄に触れる。


⸻


 今度は、止まらないかと思った。


⸻


 だが、止まった。


⸻


 触れたまま、動かない。


⸻


 モモの眉が、ごくわずかに寄っていた。


⸻


 見えない何かを押し返そうとしているように。


⸻


「モモ!」


⸻


 シンは泥水の中で叫んだ。


⸻


「抜け!」


⸻


 モモは答えなかった。


⸻


 その代わり、唇が少し動いた。


⸻


 声は聞こえない。


⸻


 りょ。


⸻


 そう言おうとしていたのかもしれない。


⸻


 その時、シンの背中に刃が入った。


⸻


 泥水が赤く濁る。


⸻


 コトの泣き声。


 ユナの叫び。


 フスンの唸り。


 タダの怒号。


⸻


 全部が水の中へ沈んでいく。


⸻


 朝へ戻った。


⸻


⸻


 煙の匂い。


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 乾いた穂の匂い。


 鹿の脂の匂い。


 木の実の甘い匂い。


 少し酸っぱい酒の残り香。


⸻


 フスンの鼻息。


⸻


「近い」


⸻


 シンは、目を開ける前に言った。


⸻


 ふすん。


⸻


 返事のような鼻息。


⸻


 生きている。


⸻


 フスンは生きている。


 コトもいる。


 ユナもいる。


 タダもいる。


⸻


 世界は、また同じ顔をしていた。


⸻


 だが、シンの中で、沢の水音だけがまだ鳴っていた。


⸻


 水場も駄目。


⸻


 畑を壊しても駄目。


 火を分けても駄目。


 見える道を避けても駄目。


 水で足跡を切ろうとしても、そこに待たれる。


⸻


 なら、待っている者を消すしかない。


⸻


 シンは、目を開けた。


⸻


 モモがいた。


⸻


 前より近い。


⸻


 シンのすぐそばに。


⸻


 彼女はシンの肩を見ていた。


⸻


 槍が刺さったはずの場所。


 今は傷ひとつない場所。


⸻


「肩部損傷、現在は消失」


「確認しなくていい」


⸻


 シンは起き上がった。


⸻


 モモの手は、まだ刀の近くにあった。


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 意識している。


⸻


 前より、確実に。


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「さっき、抜こうとしただろ」


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 シンが言うと、モモは少し沈黙した。


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「動作準備は発生」


「抜けなかった」


「りょ」


⸻


 その「りょ」は、ひどく苦かった。


⸻


 シンは笑った。


⸻


「お前も、だいぶ面倒くさいな」


「シンに言われるのは不服」


「言い返すようになったな」


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 ほんの一瞬。


⸻


 本当に一瞬だけ、空気が軽くなった。


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 だが、すぐに戻る。


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 ユナがこちらを見る。


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「シン、大丈夫?」


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 大丈夫ではない。


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 大丈夫だったことなど、一度もない。


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 それでも、シンは頷いた。


⸻


「少し考えがある」


⸻


 嘘だった。


⸻


 考えなどない。


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 あるのは、怒りだけだった。


⸻


 斥候を消す。


⸻


 水場で待つ者を消す。


 合図を出す者を消す。


⸻


 そうすれば、少しは進む。


⸻


 進むはずだ。


⸻


 進んでくれ。


⸻


⸻


 今度は、ただ森へ突っ込まなかった。


⸻


 シンは一人では行かなかった。


⸻


 タダを連れていった。


⸻


 フスンも連れていった。


⸻


 ユナは行くと言ったが、シンは止めた。


⸻


「今回は、本当に駄目だ」


「どうして」


「俺が馬鹿をするから」


⸻


 ユナは眉を寄せた。


⸻


「それなら、なおさら見ていた方がいい」


「見られたら止まる」


「止まって」


「止まったら、夜に死ぬ」


⸻


 ユナは何も言えなくなった。


⸻


 シンは、彼女の髪を見た。


⸻


 まだ跳ねている。


⸻


 本当なら、直したかった。


⸻


「戻ったら、髪を直す」


⸻


 シンは言った。


⸻


 ユナは、少しだけ目を見開いた。


⸻


「戻って」


「戻る」


⸻


 嘘でなければいいと思った。


⸻


⸻


 森の中へ入った。


⸻


 今度は急がない。


⸻


 枝を踏まない。


 草の倒れ方を見る。


 土の沈みを見る。


 水場ではなく、斥候の合図が届く場所を探す。


⸻


 前に見た。


⸻


 斥候は指を口に当てた。


 鳥に似た音を出した。


⸻


 なら、合図が通る場所にいる。


 見晴らしがあり、音が抜け、集落も水場も見える場所。


⸻


 シンはそれを探した。


⸻


 死んで覚えた地形を、頭の中で重ねる。


⸻


 畑。


 沢。


 斜面。


 逃げ道。


 石が落ちた場所。


 上流。


 下流。


⸻


 線を引く。


⸻


 敵がいた場所。


 石が飛んだ方向。


 合図が聞こえた方向。


⸻


 全部を、頭の中に置く。


⸻


 そこで、ふと気づいた。


⸻


 あいつらは、いつも先にいる。


⸻


 火のそばにも。


 森にも。


 水場にも。


⸻


 だが、全部を見ているわけではない。


⸻


 見える場所にいる。


⸻


 見える場所から、見ている。


⸻


「高いところだ」


⸻


 シンは言った。


⸻


 タダが頷く。


⸻


「上か」


「たぶん」


⸻


 コトの口癖がうつっている場合ではない。


⸻


 だが、今はその“たぶん”しかなかった。


⸻


 フスンが鼻を地面につける。


⸻


 少し進み、止まった。


⸻


 低く唸る。


⸻


 斜面の上。


⸻


 木の根が露出した場所。


 そこに、足跡があった。


⸻


 一つではない。


⸻


 複数。


⸻


 シンは唇を噛んだ。


⸻


「やっぱり一人じゃない」


⸻


 タダが杖を握り直す。


⸻


「どうする」


⸻


 シンは、森の中を見た。


⸻


 勝てるわけがない。


⸻


 正面からやれば、死ぬ。


⸻


 もう知っている。


⸻


 だから、正面からは行かない。


⸻


「音を出す」


「こちらが見つかる」


「違う」


⸻


 シンは、腰につけていた骨と貝殻を取り出した。


⸻


 トリビックリクンの残骸。


⸻


 コトが持っていたものを、少しだけ借りた。


⸻


 鳥を驚かすための音。


⸻


 今は、人を驚かす。


⸻


「向こうで鳴らす」


⸻


 シンは、離れた木の枝に骨と貝殻を結び、細い蔓を通した。


 少し離れたところから引けば、かちゃかちゃと鳴る。


⸻


 雑な仕掛けだった。


⸻


 だが、鳥は驚いた。


 フスンも驚いた。


 なら、人間も一瞬くらい見る。


⸻


「トリビックリクン、最後の仕事だ」


⸻


 シンは小さく言った。


⸻


 フスンが、ふすん、と鳴った。


⸻


「お前は鳴るな」


⸻


 準備を終え、シンはタダと反対側へ回った。


⸻


 斜面の上に、泥を塗った男がいた。


⸻


 低く伏せている。


 集落の方を見ている。


⸻


 その少し後ろに、もう一人。


⸻


 さらに奥にも、影。


⸻


 三人。


⸻


 少なくとも三人。


⸻


 シンは喉が渇いた。


⸻


 怖い。


⸻


 当然、怖い。


⸻


 だが、今度はただの怒りではなかった。


⸻


 怖いまま、考えている。


⸻


 それだけは、前よりましだった。


⸻


 シンは蔓を引いた。


⸻


 かちゃ。


⸻


 骨と貝殻が鳴る。


⸻


 斥候の一人が反応した。


⸻


 鳥ではない。


 獣でもない。


 不自然な音。


⸻


 男がそちらを見る。


⸻


 その瞬間、タダが動いた。


⸻


 大きな体が、音もなく近づく。


⸻


 いや、音はあった。


 だが、斥候の注意は骨と貝殻に吸われていた。


⸻


 タダの杖が、男の後頭部へ落ちた。


⸻


 鈍い音。


⸻


 男が崩れた。


⸻


 倒した。


⸻


 一人。


⸻


 シンの心臓が跳ねた。


⸻


 初めて、こちらから奪った。


⸻


 喜びではない。


⸻


 だが、確かに、何かが動いた。


⸻


 勝てる。


⸻


 そう思いかけた。


⸻


 次の瞬間、奥の影が鳥の声を出した。


⸻


 短い。


 鋭い。


⸻


 合図。


⸻


 もう一人が、すぐにこちらを見た。


⸻


 早い。


⸻


 迷いがない。


⸻


 仲間が倒れたことに驚いていない。


⸻


 倒されることも、織り込み済みの動きだった。


⸻


 シンはぞっとした。


⸻


 こいつらは、ただ飢えた集団ではない。


⸻


 飢えている。


 押されている。


 だが、同時に、慣れている。


⸻


 奪うことに。


 見張ることに。


 仲間が倒れることに。


 次の手を打つことに。


⸻


 森の奥で、別の音が返ってきた。


⸻


 鳥の声。


 いや、人の合図。


⸻


 一つ。


 二つ。


 三つ。


⸻


 多い。


⸻


 シンの背筋が冷えた。


⸻


 斥候は三人ではない。


⸻


 層になっている。


⸻


 見張りを見張る者がいる。


 合図を受ける者がいる。


 さらに奥へ伝える者がいる。


⸻


 森そのものが、目になっていた。


⸻


「下がる!」


⸻


 シンは叫んだ。


⸻


 タダが倒した男から離れる。


⸻


 だが、遅い。


⸻


 石が飛ぶ。


⸻


 タダの額をかすめる。


⸻


 血が流れた。


⸻


 フスンが吠えた。


⸻


「吠えるな!」


⸻


 もう遅い。


⸻


 別の影が回り込んでいる。


⸻


 シンは、地面を見た。


⸻


 罠。


⸻


 踏めば転ぶ。


⸻


 だが、避けると、そこに投石が来る。


⸻


 誘導されている。


⸻


 逃げ道すら、敵の道になっている。


⸻


 シンは笑った。


⸻


 笑うしかなかった。


⸻


「上手すぎるだろ」


⸻


 石が肩に当たった。


⸻


 体が回る。


⸻


 倒れかけたところを、タダが掴んだ。


⸻


「走れ」


⸻


 タダが言う。


⸻


「タダは」


「走れ」


⸻


 タダはシンを押した。


⸻


 その背中に、黒い石の刃が入った。


⸻


 シンは見た。


⸻


 タダの体が揺れる。


⸻


 怒りで頭が白くなる。


⸻


 シンは戻ろうとした。


⸻


 その前に、足元が沈んだ。


⸻


 穴。


⸻


 浅い穴だった。


 だが、片足を奪うには十分だった。


⸻


 罠は蔓だけではなかった。


⸻


 シンの足首が捻れる。


⸻


 体が倒れる。


⸻


 顔を上げると、モモがいた。


⸻


 白い衣。


 森の中で、異物のように立っている。


⸻


 彼女は、刀の柄を握っていた。


⸻


 今度は、握っていた。


⸻


 斥候の一人がモモを見て、明らかに怯んだ。


⸻


 その反応を、シンは見逃さなかった。


⸻


 怯んだ。


⸻


 あいつらは、モモを怖がる。


⸻


 白い衣か。


 刀か。


 女か。


 それとも、もっと別の何かか。


⸻


 覚えろ。


⸻


 死ぬ前に覚えろ。


⸻


 モモの手が、刀をほんの少し引いた。


⸻


 鞘の口から、白い光のようなものが一瞬だけ見えた。


⸻


 だが、そこまでだった。


⸻


 モモの腕が止まる。


⸻


 顔が、わずかに歪む。


⸻


「制限、強」


⸻


 声が漏れた。


⸻


 シンは、血の混じる口で笑った。


⸻


「実況すんな」


⸻


 その瞬間、首の後ろに衝撃が来た。


⸻


 地面が近くなる。


⸻


 森が回る。


⸻


 最後に見えたのは、モモの目だった。


⸻


 揺れている。


⸻


 前より、はっきりと。


⸻


 それでも、届かない。


⸻


 朝へ戻った。


⸻


⸻


 煙の匂い。


⸻


 乾いた穂の匂い。


 鹿の脂の匂い。


 木の実の甘い匂い。


 少し酸っぱい酒の残り香。


⸻


 フスンの鼻息。


⸻


「近い」


⸻


 シンは、目を開ける前に言った。


⸻


 ふすん。


⸻


 同じ鼻息。


⸻


 だが、もう何も同じではなかった。


⸻


 シンは目を開けた。


⸻


 フスンがいる。


 コトがいる。


 火がある。


 ウロオボエ様土偶がいる。


⸻


 ユナが火の向こうにいる。


 髪は跳ねている。


 何も知らない顔。


⸻


 タダがいる。


 血を流していない。


⸻


 モモもいた。


⸻


 最初から、シンのすぐそばに。


⸻


 近い。


⸻


 近すぎるほど近い。


⸻


 白い衣。


 黒い髪。


 桃の飾り。


⸻


 彼女はシンを見下ろしていた。


⸻


「シン」


⸻


 声が、少しだけ揺れていた。


⸻


「また死んだ」


 シンは言った。


⸻


「りょ」


⸻


 モモは短く答えた。


⸻


 だが、その「りょ」は、いつものものとは違っていた。


⸻


 少し遅れた。


 少し重かった。


⸻


 シンは起き上がろうとして、できなかった。


⸻


 体に傷はない。


 なのに、全身が痛い。


⸻


 痛みの記憶だけが、肉体を追い越して残っている。


⸻


 肩。


 背中。


 首。


 足首。


 鼻。


 膝。


⸻


 そして、耳。


⸻


 ユナの悲鳴が、まだ耳の奥で鳴っている。


⸻


 シンは、両手で顔を覆った。


⸻


「無理だ」


⸻


 声が漏れた。


⸻


「無理だろ、これ」


⸻


 コトが不安そうに近づく。


⸻


「シン?」


⸻


 ユナも立ち上がる。


⸻


「シン、大丈夫?」


⸻


 大丈夫。


⸻


 そう言うべきだった。


⸻


 言えなかった。


⸻


「畑を壊しても駄目だった」


⸻


 シンは呟いた。


⸻


 まだ誰も知らないことを。


⸻


「逃げても駄目だった。攻めても駄目だった。水場も読まれてる。斥候は一人じゃない。罠も一つじゃない。見張りを見張る奴がいる。逃げ道を、逃げ道として見てる」


⸻


 ユナの顔が強張る。


⸻


 タダがこちらを見る。


⸻


 年長の女が、火に手をかざしたまま動かない。


⸻


 シンは笑った。


⸻


 笑いは、ひどく乾いていた。


⸻


「どうすりゃいいんだよ」


⸻


 誰も答えなかった。


⸻


 ウロオボエ様土偶も、相変わらず頼りない顔で手を合わせている。


⸻


「お前、たぶんでいいから何か言えよ」


⸻


 土偶は答えない。


⸻


 弱い神は、弱いままだった。


⸻


 モモが言った。


⸻


「襲撃発生の局所回避、失敗継続」


「分かってる」


「畑の破壊は、敵誘導点の変化を発生させた。水場逃走案は敵待機点と重複。斥候制圧案は多層監視により失敗」


「だから、分かってるって」


⸻


 シンは苛立っていた。


⸻


 モモは止まらなかった。


⸻


「敵集団の行動は単純略奪ではなく、圧力下移動集団の索敵、捕捉、資源奪取、逃走阻止を含む。局所防衛のみでは」


「専門用語の大盛りを出すな。こっちは朝から死に放題なんだよ」


⸻


 モモは黙った。


⸻


 少しだけ。


⸻


 それから、言った。


⸻


「不快」


⸻


 シンは顔を上げた。


⸻


「何が」


「シンが死ぬこと」


⸻


 短い言葉だった。


⸻


 モモ自身も、その言葉を持て余しているように見えた。


⸻


「理由、不明。だが、繰り返し発生。増大傾向」


⸻


 シンは、うまく返せなかった。


⸻


 怒る気も、笑う気も、一瞬だけ消えた。


⸻


「……そっか」


⸻


 それだけ言った。


⸻


 モモは頷かなかった。


 ただ、シンを見ていた。


⸻


 シンは息を吸った。


⸻


 吐いた。


⸻


 不思議と、少しだけ頭が冷えた。


⸻


 死にすぎて、感情が焼き切れたのかもしれない。


 それとも、モモのその短い一言が、何かを少し戻したのかもしれない。


⸻


 シンは、今までの死を並べた。


⸻


 火のそばで襲われた。


⸻


 子供を集めれば、そこを狙われた。


⸻


 森へ攻めれば、罠にかかった。


⸻


 畑を壊して逃げれば、水場で待たれた。


⸻


 斥候を倒せば、さらに奥の斥候が合図を送った。


⸻


 全部、違う。


⸻


 だが、同じだ。


⸻


 こちらが何をしても、向こうは来る。


⸻


 道を変えても、足は来る。


 畑を壊しても、飢えは来る。


 斥候を殺しても、別の目がある。


⸻


 つまり。


⸻


 問題は、あいつらだけではない。


⸻


 あいつらを押し出しているものがある。


⸻


 南。


⸻


 ミチヌシが見せた煙。


 境を引く者。


 手を数える者。


 水を測る者。


 種を持つ者。


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 南が押して、西が流れ、ここへ来る。


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 なら、森の男を一人殺しても駄目だ。


 水場を避けても駄目だ。


 火を隠しても、種を包んでも、道を曲げても。


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 流れそのものを変えないと、別の足が来る。


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 シンは、自分の手を見た。


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 何も持っていない。


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 棒では駄目だった。


 薪では駄目だった。


 罠も駄目だった。


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 では、南を止めるには何がいる。


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 力ではない。


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 こちらに力はない。


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 食べ物でもない。


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 穂は少ない。奪われるだけだ。


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 火でもない。


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 火は守るもので、見せれば狙われる。


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 では、何を見せる。


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 南の者が無視できないもの。


 道を知っている者が、足を止めるもの。


 ただの獲物ではなく、別の線を示すもの。


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 シンの頭に、青緑の光が浮かんだ。


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 ヒスイ。


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 以前、ミチヌシの首元に見た石。


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 コトが欲しがった石。


 道を忘れないための石だ、と言っていた。


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 あの時は、ただ綺麗な石だと思った。


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 だが、違う。


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 あれは、この辺の草地から出る石ではない。


 火のそばで拾える石でもない。


 川のずっと遠く。


 山の奥。


 道の先。


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 つまり、あれ自体が道だ。


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 見せるだけで、ここがただの集落ではないと示せる。


 ここには別の道が繋がっていると示せる。


 ここを踏み潰すだけでは済まないと、少なくとも迷わせられる。


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 シンは顔を上げた。


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「南を止める」


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 声に出した。


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 ユナが息を飲む。


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「南?」


「襲ってくる奴らだけじゃ駄目だ。あいつらを押してる流れを変えないと、別の奴らが来る」


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 タダが目を細める。


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「どうやる」


「分からない」


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 シンは正直に言った。


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「でも、力じゃ無理だ。食い物でも無理だ。火を見せたら奪われる。なら、道を見せる」


「道?」


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 ユナが聞く。


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「ヒスイだ」


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 その言葉を出した瞬間、空気が少し変わった。


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 火のそばの年長の女が、ゆっくりこちらを見た。


 タダがわずかに頷いた。


 モモが瞬きした。


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「青い石」


 コトが呟いた。


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 シンは頷いた。


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「道を示す石がいる。ここが、ただの餌場じゃないと示せるものがいる。火でも穂でもないもの。奪えば腹が満ちるものじゃなくて、足を止めるもの」


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 年長の女が、長く黙った。


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 火の音だけがした。


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 ぱち、と小さく爆ぜる。


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「タダ」


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 年長の女が言った。


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 タダが顔を上げる。


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「奥の土を開けろ」


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 シンは眉を寄せた。


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「奥の土?」


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 タダは何も聞かず、火の後ろへ回った。


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 そこには、普段は誰も触れない土の盛り上がりがあった。


 灰を捨てる場所でも、食べ物を置く場所でもない。


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 タダが手で土を掘る。


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 湿った土が剥がれる。


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 中から、獣の皮に包まれた小さなものが出てきた。


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 年長の女はそれを受け取った。


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 ゆっくりと皮を開く。


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 青緑の石が現れた。


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 ヒスイだった。


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 ミチヌシのものより少し小さい。


 形も整っていない。


 だが、色は同じだった。


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 水のようで。


 水より硬い。


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 火のそばにあるには、あまりにも遠い色。


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 コトが息を呑んだ。


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「青い」


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 ユナも石を見ていた。


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「水みたい」


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 年長の女は言った。


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「水ではない。火でもない。腹のものでもない」


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 その声は低かった。


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「道のものだ」


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 シンは、石から目を離せなかった。


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「持ってたのか」


「持っていた」


「いつから」


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 女は答えなかった。


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 代わりに、石を火の光へかざした。


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「昔、ここへ来た足が置いていった。戻るためではない。忘れぬために」


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 青緑の石は、火の光を赤くは返さなかった。


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 赤い火の中でも、青いままだった。


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 そのことが、不思議に重く見えた。


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「借りる」


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 年長の女は言った。


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 シンが顔を上げる。


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「え?」


「やるのではない。貸す」


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 女はシンを見た。


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「返せ」


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 シンは、喉が詰まった。


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 返せ。


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 それは、生きて戻れという意味だった。


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 逃げろではない。


 捨てろでもない。


 持って行って、返せ。


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 シンは両手を出した。


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 女は、その掌にヒスイを置いた。


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 冷たかった。


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 思ったより重い。


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 小さな石なのに、道一本分の重さがあるように感じた。


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「返す」


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 シンは言った。


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 声が震えた。


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「絶対に」


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 年長の女は、軽く首を振った。


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「絶対は、火に言うな」


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 シンは黙った。


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「言うなら、こう言え」


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 女は火を見た。


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「戻る道を探す」


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 シンはヒスイを握った。


⸻


「戻る道を探す」


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 コトが近づいてきた。


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「見る」


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 シンは膝をついた。


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 コトに見せる。


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 コトは、ウロオボエ様土偶を抱えたまま目を丸くした。


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「ウロオボエ様より強い?」


「たぶん強い」


「じゃあ、ウロオボエ様、負けた?」


「いや、役割が違う」


「やくわり?」


「弱い神と、強い石」


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 コトは真剣に考えた。


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「どっちも持つ」


「そう」


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 シンは頷いた。


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「どっちも持つ」


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 モモがヒスイを見ていた。


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「青緑色への全員の注視反応、増大。装飾、交換、権威表示、道標として機能可能」


「今のは少し分かる」


「りょ」


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 少しだけ、モモの声が軽くなった。


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 ユナが石を見て言った。


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「綺麗」


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 短い言葉だった。


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 シンは頷いた。


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「うん。綺麗だ」


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 火は小さく包まれている。


 種も包まれている。


 弱い神は、コトの腕の中にいる。


 青い石は、シンの掌にある。


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 あまりにも頼りない。


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 火と、種と、土偶と、石。


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 それで、南から押してくる流れを変える。


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 無理だろ。


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 シンは思った。


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 だが、無理なことしか残っていない。


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 なら、やるしかない。


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 その時、背後から声がした。


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「火が道を持ったか」


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 シンは振り向いた。


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 いつからそこにいたのか。


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 古い衣。


 杖。


 首元の青緑の石。


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 ミチヌシが立っていた。


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「また急に出た」


 シンは言った。


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「道は、急に見えることがある」


「便利な言葉だな」


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 ミチヌシは、シンの掌のヒスイを見た。


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「借りたか」


「借りた。返せって言われた」


「よい言葉だ」


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 シンはヒスイを握り直した。


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「使い方を教えてくれ」


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 ミチヌシはすぐには答えなかった。


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「教えるのではない」


「またそれか」


「見せる」


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 ミチヌシは、杖で地面を指した。


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 火のそばでもない。


 畑の跡でもない。


 水場へ向かう道でもない。


 斥候のいる高みでもない。


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 もっと古い線。


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 地面の下で、かすかに息をしている道。


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「南へ行くには、北へ逃げる」


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 ミチヌシが言った。


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 シンは眉を寄せた。


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「意味が分からない」


「今は、それでよい」


「よくねえよ」


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 ミチヌシは、わずかに笑ったように見えた。


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「道は、まっすぐなものほど読まれる」


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 その時、森の奥で鳥が飛んだ。


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 今度は、近い。


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 フスンが低く吠えた。


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 モモの手が、ほんの少しだけ刀の柄へ近づく。


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 今度は、触れなかった。


 しかし、逃げもしなかった。


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 シンはそれを見て、短く言った。


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「次は抜けよ」


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 モモは答えなかった。


⸻


 けれど、目を逸らさなかった。


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 シンはヒスイを握り、火の方を見た。


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 火は小さく包まれている。


 種も包まれている。


 弱い神も、コトの腕の中にいる。


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 何度死んでも、まだ全部は終わっていない。


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「行くぞ」


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 シンは言った。


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 声は震えていた。


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 それでも、前へ出た。


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 南から来る流れを変えるために、北へ逃げる。


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 意味の分からない道へ。


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 まだ誰にも読まれていない道へ。


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(第二十一話へ)

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