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青い石

第二十話 青い石



 畑を壊した。



 囲いを倒した。


 鳥よけを外した。


 残っていた穂を散らした。


 畝を崩し、水の逃げ道を消した。



 ここはもう、畑ではない。



 そう見えるはずだった。



 火の匂いを移し、種を包み、子供たちを集めすぎないようにし、見える道を避ける。


 トリビックリクンの骨と貝殻はコトが抱え、トリビックリママの皮はユナが畳んだ。


 ウロオボエ様土偶は、コトの胸にいた。



 弱い神は、持ち運ばれることになった。



「ウロオボエ様、重い」


 コトが言った。



「神の重みだな」


 シンは答えた。



「弱いのに?」


「弱い神にも重さはある」



 コトは泣き腫らした目で、土偶を見下ろした。



「ウロオボエ様、がんばって」



 土偶は、相変わらず頼りない顔で合掌している。



「こいつに頑張らせるの、だいぶ酷だな」



 シンは呟いた。



 少しだけ、コトが笑った。



 それだけで、シンは少し救われた。



 笑える。



 まだ笑える。



 なら、まだ終わっていない。



 そう思いたかった。




 だが、森は待ってくれなかった。



 畑を壊しても、襲撃は消えなかった。



 夕暮れを待たずに、鳥が飛んだ。



 黒い影が、木々の上へ散る。


 フスンが唸る。


 タダが杖を握り直す。



 モモが森を見た。



「接近、継続」


「分かってる」


 シンは言った。



 分かっている。


 いや、本当は分かっていない。



 ただ、何度も死んだせいで、嫌なことだけ先に分かるようになっていた。



 来る。



 また来る。



 畑は壊した。


 印は薄くした。


 火は分けた。


 種は包んだ。


 コトは土偶を抱えている。


 ユナも、タダも、フスンも、まだ生きている。



 それでも来る。



 森の奥で、枝が折れた。



 タダが低く言った。



「走れ」



 北へ。



 見える道ではない。


 獣と水と昔の足が作った、細い逃げ道。



 火種を持った女が先に行く。


 年長の女がその後ろ。


 子供たちは散らしすぎず、固めすぎず、二つに分けた。


 ユナは片方を受け持つ。


 タダは最後尾。


 シンは、コトとフスンの近くにいた。



 いける。



 一瞬、本気でそう思った。



 畑を壊したことで、敵の足が少し迷った。


 森から出てきた影の位置が、前と違う。


 火のそばへ一直線に来ない。


 穂のあった場所で、一瞬止まる。



 空白ができた。



 ほんの少し。



 だが、できた。



「今だ!」



 シンは叫んだ。



 ユナが子供たちを押し出す。



「走って!」



 コトが土偶を抱えて走る。


 フスンがその横を跳ねるように進む。



 タダが後ろで一人を打ち倒した。



 敵の声が上がる。



 意味は分からない。


 だが、怒りだということだけは分かった。



 怒り。


 焦り。


 飢え。



 その全部が、背中から追ってくる。



 シンは振り返らなかった。



 振り返れば、遅れる。



 ユナの手が、シンの袖を掴んだ。



「こっち!」



 彼女は道ではない場所を指した。



 草の濃い方。


 普通なら通らない方。



 シンは頷いた。



「コト!」



 コトが振り返る。



「こっち!」



 コトは泣きそうな顔で頷いた。



 今度は、すぐには先回りの男は出なかった。



 道は、少しだけ変わった。



 シンは息を呑んだ。



 変えられる。



 全部ではない。


 でも、少しなら変えられる。



 その少しへ、全員で滑り込む。



 草をかき分け、低い枝をくぐり、湿った斜面を降りる。


 足が滑る。


 子供が泣く。


 フスンが吠えそうになる。



「吠えるな」


 シンは小声で言った。



 フスンは鼻だけ鳴らした。



 偉い。



 こんな時に、シンは本気でそう思った。



 沢の音が聞こえた。



 水だ。



 小さな沢。


 前には見えていなかった場所。



 ここを渡れば、匂いが切れるかもしれない。


 足跡も流れるかもしれない。



「水を渡る!」



 シンが叫ぶ。



 ユナが頷く。



 子供たちを先に渡す。


 火種は濡らさないように高く持つ。


 種の包みは皮の中。


 ウロオボエ様土偶はコトが胸に押しつけている。



「ウロオボエ様、濡れたら?」


「乾かす!」


 シンは叫んだ。



「弱いけど?」


「弱いからすぐ乾く!」



 コトは泣きながら少し笑った。



 その一瞬。



 沢の上流から、石が落ちてきた。



 自然に落ちた石ではない。


 投げられた石でもない。



 積まれていた石が、崩された。



 水が跳ねる。


 細い沢が、一瞬で濁る。



 上から泥水が流れてきた。



「伏せろ!」



 タダが叫ぶ。



 次の瞬間、沢の向こう岸から影が出た。



 待っていた。



 水場にも、待っていた。



 シンの背筋が凍った。



 火でもない。


 畑でもない。


 見える道でもない。



 水場。



 逃げる者が足跡を消そうとする場所。


 喉を潤そうとする場所。


 荷を持ち替える場所。



 そこに、待っていた。



 敵は火だけを見ているのではない。


 穂だけを見ているのでもない。



 逃げる者の考えを見ている。



 シンは、そのことに気づくのが遅れた。



 泥水の中で子供が転ぶ。



 ユナが手を伸ばす。



 その横へ男が飛び出す。



「ユナ!」



 シンは走った。



 水で足が滑る。


 膝を打つ。


 起き上がる。



 コトが叫ぶ。



「フスン!」



 フスンが水を跳ねて飛びかかった。



 男の足に噛みつく。



 今度は棒ではない。



 男は短い槍を持っていた。



 シンは叫ぶ前に飛び込んだ。



 フスンと槍の間へ。



 何をしているんだ、と自分でも思った。



 犬一匹。



 いや、犬ではない。



 フスンだ。



 コトが弟子みたいに育てた、妙に礼儀を覚えた、鼻息で返事をする、番犬になりかけのフスンだ。



 槍がシンの肩に入った。



 痛い。



 熱い。



 体が後ろへ倒れる。



 だが、フスンは潰れなかった。



 それだけで、少しだけ勝った気がした。



 次の瞬間、別の影が沢の下から上がった。



 挟まれた。



 上流。


 向こう岸。


 下流。



 水場は逃げ道ではなかった。



 囲いだった。



 シンは倒れたまま、泥水の中で見上げた。



 ユナが子供を抱えている。


 タダが二人を相手にしている。


 コトは土偶を抱えて泣いている。


 フスンは唸っている。



 モモがいた。



 沢のこちら側。


 白い衣の裾が泥に触れない。


 不自然なほど、汚れていない。



 彼女の手が、刀の柄へ動いた。



 前より早く。



 柄に触れる。



 今度は、止まらないかと思った。



 だが、止まった。



 触れたまま、動かない。



 モモの眉が、ごくわずかに寄っていた。



 見えない何かを押し返そうとしているように。



「モモ!」



 シンは泥水の中で叫んだ。



「抜け!」



 モモは答えなかった。



 その代わり、唇が少し動いた。



 声は聞こえない。



 りょ。



 そう言おうとしていたのかもしれない。



 その時、シンの背中に刃が入った。



 泥水が赤く濁る。



 コトの泣き声。


 ユナの叫び。


 フスンの唸り。


 タダの怒号。



 全部が水の中へ沈んでいく。



 朝へ戻った。




 煙の匂い。



 乾いた穂の匂い。


 鹿の脂の匂い。


 木の実の甘い匂い。


 少し酸っぱい酒の残り香。



 フスンの鼻息。



「近い」



 シンは、目を開ける前に言った。



 ふすん。



 返事のような鼻息。



 生きている。



 フスンは生きている。


 コトもいる。


 ユナもいる。


 タダもいる。



 世界は、また同じ顔をしていた。



 だが、シンの中で、沢の水音だけがまだ鳴っていた。



 水場も駄目。



 畑を壊しても駄目。


 火を分けても駄目。


 見える道を避けても駄目。


 水で足跡を切ろうとしても、そこに待たれる。



 なら、待っている者を消すしかない。



 シンは、目を開けた。



 モモがいた。



 前より近い。



 シンのすぐそばに。



 彼女はシンの肩を見ていた。



 槍が刺さったはずの場所。


 今は傷ひとつない場所。



「肩部損傷、現在は消失」


「確認しなくていい」



 シンは起き上がった。



 モモの手は、まだ刀の近くにあった。



 意識している。



 前より、確実に。



「さっき、抜こうとしただろ」



 シンが言うと、モモは少し沈黙した。



「動作準備は発生」


「抜けなかった」


「りょ」



 その「りょ」は、ひどく苦かった。



 シンは笑った。



「お前も、だいぶ面倒くさいな」


「シンに言われるのは不服」


「言い返すようになったな」



 ほんの一瞬。



 本当に一瞬だけ、空気が軽くなった。



 だが、すぐに戻る。



 ユナがこちらを見る。



「シン、大丈夫?」



 大丈夫ではない。



 大丈夫だったことなど、一度もない。



 それでも、シンは頷いた。



「少し考えがある」



 嘘だった。



 考えなどない。



 あるのは、怒りだけだった。



 斥候を消す。



 水場で待つ者を消す。


 合図を出す者を消す。



 そうすれば、少しは進む。



 進むはずだ。



 進んでくれ。




 今度は、ただ森へ突っ込まなかった。



 シンは一人では行かなかった。



 タダを連れていった。



 フスンも連れていった。



 ユナは行くと言ったが、シンは止めた。



「今回は、本当に駄目だ」


「どうして」


「俺が馬鹿をするから」



 ユナは眉を寄せた。



「それなら、なおさら見ていた方がいい」


「見られたら止まる」


「止まって」


「止まったら、夜に死ぬ」



 ユナは何も言えなくなった。



 シンは、彼女の髪を見た。



 まだ跳ねている。



 本当なら、直したかった。



「戻ったら、髪を直す」



 シンは言った。



 ユナは、少しだけ目を見開いた。



「戻って」


「戻る」



 嘘でなければいいと思った。




 森の中へ入った。



 今度は急がない。



 枝を踏まない。


 草の倒れ方を見る。


 土の沈みを見る。


 水場ではなく、斥候の合図が届く場所を探す。



 前に見た。



 斥候は指を口に当てた。


 鳥に似た音を出した。



 なら、合図が通る場所にいる。


 見晴らしがあり、音が抜け、集落も水場も見える場所。



 シンはそれを探した。



 死んで覚えた地形を、頭の中で重ねる。



 畑。


 沢。


 斜面。


 逃げ道。


 石が落ちた場所。


 上流。


 下流。



 線を引く。



 敵がいた場所。


 石が飛んだ方向。


 合図が聞こえた方向。



 全部を、頭の中に置く。



 そこで、ふと気づいた。



 あいつらは、いつも先にいる。



 火のそばにも。


 森にも。


 水場にも。



 だが、全部を見ているわけではない。



 見える場所にいる。



 見える場所から、見ている。



「高いところだ」



 シンは言った。



 タダが頷く。



「上か」


「たぶん」



 コトの口癖がうつっている場合ではない。



 だが、今はその“たぶん”しかなかった。



 フスンが鼻を地面につける。



 少し進み、止まった。



 低く唸る。



 斜面の上。



 木の根が露出した場所。


 そこに、足跡があった。



 一つではない。



 複数。



 シンは唇を噛んだ。



「やっぱり一人じゃない」



 タダが杖を握り直す。



「どうする」



 シンは、森の中を見た。



 勝てるわけがない。



 正面からやれば、死ぬ。



 もう知っている。



 だから、正面からは行かない。



「音を出す」


「こちらが見つかる」


「違う」



 シンは、腰につけていた骨と貝殻を取り出した。



 トリビックリクンの残骸。



 コトが持っていたものを、少しだけ借りた。



 鳥を驚かすための音。



 今は、人を驚かす。



「向こうで鳴らす」



 シンは、離れた木の枝に骨と貝殻を結び、細い蔓を通した。


 少し離れたところから引けば、かちゃかちゃと鳴る。



 雑な仕掛けだった。



 だが、鳥は驚いた。


 フスンも驚いた。


 なら、人間も一瞬くらい見る。



「トリビックリクン、最後の仕事だ」



 シンは小さく言った。



 フスンが、ふすん、と鳴った。



「お前は鳴るな」



 準備を終え、シンはタダと反対側へ回った。



 斜面の上に、泥を塗った男がいた。



 低く伏せている。


 集落の方を見ている。



 その少し後ろに、もう一人。



 さらに奥にも、影。



 三人。



 少なくとも三人。



 シンは喉が渇いた。



 怖い。



 当然、怖い。



 だが、今度はただの怒りではなかった。



 怖いまま、考えている。



 それだけは、前よりましだった。



 シンは蔓を引いた。



 かちゃ。



 骨と貝殻が鳴る。



 斥候の一人が反応した。



 鳥ではない。


 獣でもない。


 不自然な音。



 男がそちらを見る。



 その瞬間、タダが動いた。



 大きな体が、音もなく近づく。



 いや、音はあった。


 だが、斥候の注意は骨と貝殻に吸われていた。



 タダの杖が、男の後頭部へ落ちた。



 鈍い音。



 男が崩れた。



 倒した。



 一人。



 シンの心臓が跳ねた。



 初めて、こちらから奪った。



 喜びではない。



 だが、確かに、何かが動いた。



 勝てる。



 そう思いかけた。



 次の瞬間、奥の影が鳥の声を出した。



 短い。


 鋭い。



 合図。



 もう一人が、すぐにこちらを見た。



 早い。



 迷いがない。



 仲間が倒れたことに驚いていない。



 倒されることも、織り込み済みの動きだった。



 シンはぞっとした。



 こいつらは、ただ飢えた集団ではない。



 飢えている。


 押されている。


 だが、同時に、慣れている。



 奪うことに。


 見張ることに。


 仲間が倒れることに。


 次の手を打つことに。



 森の奥で、別の音が返ってきた。



 鳥の声。


 いや、人の合図。



 一つ。


 二つ。


 三つ。



 多い。



 シンの背筋が冷えた。



 斥候は三人ではない。



 層になっている。



 見張りを見張る者がいる。


 合図を受ける者がいる。


 さらに奥へ伝える者がいる。



 森そのものが、目になっていた。



「下がる!」



 シンは叫んだ。



 タダが倒した男から離れる。



 だが、遅い。



 石が飛ぶ。



 タダの額をかすめる。



 血が流れた。



 フスンが吠えた。



「吠えるな!」



 もう遅い。



 別の影が回り込んでいる。



 シンは、地面を見た。



 罠。



 踏めば転ぶ。



 だが、避けると、そこに投石が来る。



 誘導されている。



 逃げ道すら、敵の道になっている。



 シンは笑った。



 笑うしかなかった。



「上手すぎるだろ」



 石が肩に当たった。



 体が回る。



 倒れかけたところを、タダが掴んだ。



「走れ」



 タダが言う。



「タダは」


「走れ」



 タダはシンを押した。



 その背中に、黒い石の刃が入った。



 シンは見た。



 タダの体が揺れる。



 怒りで頭が白くなる。



 シンは戻ろうとした。



 その前に、足元が沈んだ。



 穴。



 浅い穴だった。


 だが、片足を奪うには十分だった。



 罠は蔓だけではなかった。



 シンの足首が捻れる。



 体が倒れる。



 顔を上げると、モモがいた。



 白い衣。


 森の中で、異物のように立っている。



 彼女は、刀の柄を握っていた。



 今度は、握っていた。



 斥候の一人がモモを見て、明らかに怯んだ。



 その反応を、シンは見逃さなかった。



 怯んだ。



 あいつらは、モモを怖がる。



 白い衣か。


 刀か。


 女か。


 それとも、もっと別の何かか。



 覚えろ。



 死ぬ前に覚えろ。



 モモの手が、刀をほんの少し引いた。



 鞘の口から、白い光のようなものが一瞬だけ見えた。



 だが、そこまでだった。



 モモの腕が止まる。



 顔が、わずかに歪む。



「制限、強」



 声が漏れた。



 シンは、血の混じる口で笑った。



「実況すんな」



 その瞬間、首の後ろに衝撃が来た。



 地面が近くなる。



 森が回る。



 最後に見えたのは、モモの目だった。



 揺れている。



 前より、はっきりと。



 それでも、届かない。



 朝へ戻った。




 煙の匂い。



 乾いた穂の匂い。


 鹿の脂の匂い。


 木の実の甘い匂い。


 少し酸っぱい酒の残り香。



 フスンの鼻息。



「近い」



 シンは、目を開ける前に言った。



 ふすん。



 同じ鼻息。



 だが、もう何も同じではなかった。



 シンは目を開けた。



 フスンがいる。


 コトがいる。


 火がある。


 ウロオボエ様土偶がいる。



 ユナが火の向こうにいる。


 髪は跳ねている。


 何も知らない顔。



 タダがいる。


 血を流していない。



 モモもいた。



 最初から、シンのすぐそばに。



 近い。



 近すぎるほど近い。



 白い衣。


 黒い髪。


 桃の飾り。



 彼女はシンを見下ろしていた。



「シン」



 声が、少しだけ揺れていた。



「また死んだ」


 シンは言った。



「りょ」



 モモは短く答えた。



 だが、その「りょ」は、いつものものとは違っていた。



 少し遅れた。


 少し重かった。



 シンは起き上がろうとして、できなかった。



 体に傷はない。


 なのに、全身が痛い。



 痛みの記憶だけが、肉体を追い越して残っている。



 肩。


 背中。


 首。


 足首。


 鼻。


 膝。



 そして、耳。



 ユナの悲鳴が、まだ耳の奥で鳴っている。



 シンは、両手で顔を覆った。



「無理だ」



 声が漏れた。



「無理だろ、これ」



 コトが不安そうに近づく。



「シン?」



 ユナも立ち上がる。



「シン、大丈夫?」



 大丈夫。



 そう言うべきだった。



 言えなかった。



「畑を壊しても駄目だった」



 シンは呟いた。



 まだ誰も知らないことを。



「逃げても駄目だった。攻めても駄目だった。水場も読まれてる。斥候は一人じゃない。罠も一つじゃない。見張りを見張る奴がいる。逃げ道を、逃げ道として見てる」



 ユナの顔が強張る。



 タダがこちらを見る。



 年長の女が、火に手をかざしたまま動かない。



 シンは笑った。



 笑いは、ひどく乾いていた。



「どうすりゃいいんだよ」



 誰も答えなかった。



 ウロオボエ様土偶も、相変わらず頼りない顔で手を合わせている。



「お前、たぶんでいいから何か言えよ」



 土偶は答えない。



 弱い神は、弱いままだった。



 モモが言った。



「襲撃発生の局所回避、失敗継続」


「分かってる」


「畑の破壊は、敵誘導点の変化を発生させた。水場逃走案は敵待機点と重複。斥候制圧案は多層監視により失敗」


「だから、分かってるって」



 シンは苛立っていた。



 モモは止まらなかった。



「敵集団の行動は単純略奪ではなく、圧力下移動集団の索敵、捕捉、資源奪取、逃走阻止を含む。局所防衛のみでは」


「専門用語の大盛りを出すな。こっちは朝から死に放題なんだよ」



 モモは黙った。



 少しだけ。



 それから、言った。



「不快」



 シンは顔を上げた。



「何が」


「シンが死ぬこと」



 短い言葉だった。



 モモ自身も、その言葉を持て余しているように見えた。



「理由、不明。だが、繰り返し発生。増大傾向」



 シンは、うまく返せなかった。



 怒る気も、笑う気も、一瞬だけ消えた。



「……そっか」



 それだけ言った。



 モモは頷かなかった。


 ただ、シンを見ていた。



 シンは息を吸った。



 吐いた。



 不思議と、少しだけ頭が冷えた。



 死にすぎて、感情が焼き切れたのかもしれない。


 それとも、モモのその短い一言が、何かを少し戻したのかもしれない。



 シンは、今までの死を並べた。



 火のそばで襲われた。



 子供を集めれば、そこを狙われた。



 森へ攻めれば、罠にかかった。



 畑を壊して逃げれば、水場で待たれた。



 斥候を倒せば、さらに奥の斥候が合図を送った。



 全部、違う。



 だが、同じだ。



 こちらが何をしても、向こうは来る。



 道を変えても、足は来る。


 畑を壊しても、飢えは来る。


 斥候を殺しても、別の目がある。



 つまり。



 問題は、あいつらだけではない。



 あいつらを押し出しているものがある。



 南。



 ミチヌシが見せた煙。


 境を引く者。


 手を数える者。


 水を測る者。


 種を持つ者。



 南が押して、西が流れ、ここへ来る。



 なら、森の男を一人殺しても駄目だ。


 水場を避けても駄目だ。


 火を隠しても、種を包んでも、道を曲げても。



 流れそのものを変えないと、別の足が来る。



 シンは、自分の手を見た。



 何も持っていない。



 棒では駄目だった。


 薪では駄目だった。


 罠も駄目だった。



 では、南を止めるには何がいる。



 力ではない。



 こちらに力はない。



 食べ物でもない。



 穂は少ない。奪われるだけだ。



 火でもない。



 火は守るもので、見せれば狙われる。



 では、何を見せる。



 南の者が無視できないもの。


 道を知っている者が、足を止めるもの。


 ただの獲物ではなく、別の線を示すもの。



 シンの頭に、青緑の光が浮かんだ。



 ヒスイ。



 以前、ミチヌシの首元に見た石。



 コトが欲しがった石。


 道を忘れないための石だ、と言っていた。



 あの時は、ただ綺麗な石だと思った。



 だが、違う。



 あれは、この辺の草地から出る石ではない。


 火のそばで拾える石でもない。


 川のずっと遠く。


 山の奥。


 道の先。



 つまり、あれ自体が道だ。



 見せるだけで、ここがただの集落ではないと示せる。


 ここには別の道が繋がっていると示せる。


 ここを踏み潰すだけでは済まないと、少なくとも迷わせられる。



 シンは顔を上げた。



「南を止める」



 声に出した。



 ユナが息を飲む。



「南?」


「襲ってくる奴らだけじゃ駄目だ。あいつらを押してる流れを変えないと、別の奴らが来る」



 タダが目を細める。



「どうやる」


「分からない」



 シンは正直に言った。



「でも、力じゃ無理だ。食い物でも無理だ。火を見せたら奪われる。なら、道を見せる」


「道?」



 ユナが聞く。



「ヒスイだ」



 その言葉を出した瞬間、空気が少し変わった。



 火のそばの年長の女が、ゆっくりこちらを見た。


 タダがわずかに頷いた。


 モモが瞬きした。



「青い石」


 コトが呟いた。



 シンは頷いた。



「道を示す石がいる。ここが、ただの餌場じゃないと示せるものがいる。火でも穂でもないもの。奪えば腹が満ちるものじゃなくて、足を止めるもの」



 年長の女が、長く黙った。



 火の音だけがした。



 ぱち、と小さく爆ぜる。



「タダ」



 年長の女が言った。



 タダが顔を上げる。



「奥の土を開けろ」



 シンは眉を寄せた。



「奥の土?」



 タダは何も聞かず、火の後ろへ回った。



 そこには、普段は誰も触れない土の盛り上がりがあった。


 灰を捨てる場所でも、食べ物を置く場所でもない。



 タダが手で土を掘る。



 湿った土が剥がれる。



 中から、獣の皮に包まれた小さなものが出てきた。



 年長の女はそれを受け取った。



 ゆっくりと皮を開く。



 青緑の石が現れた。



 ヒスイだった。



 ミチヌシのものより少し小さい。


 形も整っていない。


 だが、色は同じだった。



 水のようで。


 水より硬い。



 火のそばにあるには、あまりにも遠い色。



 コトが息を呑んだ。



「青い」



 ユナも石を見ていた。



「水みたい」



 年長の女は言った。



「水ではない。火でもない。腹のものでもない」



 その声は低かった。



「道のものだ」



 シンは、石から目を離せなかった。



「持ってたのか」


「持っていた」


「いつから」



 女は答えなかった。



 代わりに、石を火の光へかざした。



「昔、ここへ来た足が置いていった。戻るためではない。忘れぬために」



 青緑の石は、火の光を赤くは返さなかった。



 赤い火の中でも、青いままだった。



 そのことが、不思議に重く見えた。



「借りる」



 年長の女は言った。



 シンが顔を上げる。



「え?」


「やるのではない。貸す」



 女はシンを見た。



「返せ」



 シンは、喉が詰まった。



 返せ。



 それは、生きて戻れという意味だった。



 逃げろではない。


 捨てろでもない。


 持って行って、返せ。



 シンは両手を出した。



 女は、その掌にヒスイを置いた。



 冷たかった。



 思ったより重い。



 小さな石なのに、道一本分の重さがあるように感じた。



「返す」



 シンは言った。



 声が震えた。



「絶対に」



 年長の女は、軽く首を振った。



「絶対は、火に言うな」



 シンは黙った。



「言うなら、こう言え」



 女は火を見た。



「戻る道を探す」



 シンはヒスイを握った。



「戻る道を探す」



 コトが近づいてきた。



「見る」



 シンは膝をついた。



 コトに見せる。



 コトは、ウロオボエ様土偶を抱えたまま目を丸くした。



「ウロオボエ様より強い?」


「たぶん強い」


「じゃあ、ウロオボエ様、負けた?」


「いや、役割が違う」


「やくわり?」


「弱い神と、強い石」



 コトは真剣に考えた。



「どっちも持つ」


「そう」



 シンは頷いた。



「どっちも持つ」



 モモがヒスイを見ていた。



「青緑色への全員の注視反応、増大。装飾、交換、権威表示、道標として機能可能」


「今のは少し分かる」


「りょ」



 少しだけ、モモの声が軽くなった。



 ユナが石を見て言った。



「綺麗」



 短い言葉だった。



 シンは頷いた。



「うん。綺麗だ」



 火は小さく包まれている。


 種も包まれている。


 弱い神は、コトの腕の中にいる。


 青い石は、シンの掌にある。



 あまりにも頼りない。



 火と、種と、土偶と、石。



 それで、南から押してくる流れを変える。



 無理だろ。



 シンは思った。



 だが、無理なことしか残っていない。



 なら、やるしかない。



 その時、背後から声がした。



「火が道を持ったか」



 シンは振り向いた。



 いつからそこにいたのか。



 古い衣。


 杖。


 首元の青緑の石。



 ミチヌシが立っていた。



「また急に出た」


 シンは言った。



「道は、急に見えることがある」


「便利な言葉だな」



 ミチヌシは、シンの掌のヒスイを見た。



「借りたか」


「借りた。返せって言われた」


「よい言葉だ」



 シンはヒスイを握り直した。



「使い方を教えてくれ」



 ミチヌシはすぐには答えなかった。



「教えるのではない」


「またそれか」


「見せる」



 ミチヌシは、杖で地面を指した。



 火のそばでもない。


 畑の跡でもない。


 水場へ向かう道でもない。


 斥候のいる高みでもない。



 もっと古い線。



 地面の下で、かすかに息をしている道。



「南へ行くには、北へ逃げる」



 ミチヌシが言った。



 シンは眉を寄せた。



「意味が分からない」


「今は、それでよい」


「よくねえよ」



 ミチヌシは、わずかに笑ったように見えた。



「道は、まっすぐなものほど読まれる」



 その時、森の奥で鳥が飛んだ。



 今度は、近い。



 フスンが低く吠えた。



 モモの手が、ほんの少しだけ刀の柄へ近づく。



 今度は、触れなかった。


 しかし、逃げもしなかった。



 シンはそれを見て、短く言った。



「次は抜けよ」



 モモは答えなかった。



 けれど、目を逸らさなかった。



 シンはヒスイを握り、火の方を見た。



 火は小さく包まれている。


 種も包まれている。


 弱い神も、コトの腕の中にいる。



 何度死んでも、まだ全部は終わっていない。



「行くぞ」



 シンは言った。



 声は震えていた。



 それでも、前へ出た。



 南から来る流れを変えるために、北へ逃げる。



 意味の分からない道へ。



 まだ誰にも読まれていない道へ。



(第二十一話へ)

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