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喪失

第十九話 喪失



 道に尋ねる。



 口に出した瞬間、シンは自分でも馬鹿げていると思った。



 死んだ。


 戻った。


 また死んだ。


 さらに死んだ。


 モモの目の前でも死んだ。



 それで出てきた答えが、道に尋ねる、だった。



 普通なら、終わっている。



 だが、この時代に来てから、普通はだいたい役に立たなかった。



 火は記憶を持つ。


 土は名前を覚える。


 土偶は、なぜかセーブポイント面をする。


 そして道には、ミチヌシがいる。



 なら、もう聞くしかない。



「ミチヌシに聞く」



 シンが言うと、ユナが顔を上げた。



「ミチヌシ?」


「前に来ただろ。道の人」


「人?」



 ユナは少し迷うように言った。



「人、だった?」


「そこは俺も自信ない」



 タダが薪を持つ手を止めた。



「道にいるものだ」


「やっぱり知ってる感じで言うよな」


「知らぬ。ただ、そう思う」



 タダの“知らない”は、いつも少し変だった。


 本当に知らない。


 だが、体のどこかが覚えている。



 この時代のタダが知らないことを、タダの姿をした何かが知っているような言い方をする。



 シンはそれを、今は深く考えなかった。



 考えている時間がない。



 朝はもう動き始めている。


 火は弱く残り、穂は乾いている。


 土へ戻す粒は、まだ無事だ。


 コトはフスンを抱え、何かただならぬ空気を感じ取っている。



 そして森には、もう斥候がいる。



 見えている道を使えば、読まれる。


 森へ入れば、殺される。


 固まれば、狙われる。


 逃げれば、先回りされる。



 だから、見えていない道を探す。



「私も行く」


 ユナが言った。



 シンはすぐに首を振った。



「駄目だ」


「どうして」


「危ない」


「ここも危ない」



 言い返せなかった。



 ユナは一歩近づいた。



 髪はまだ跳ねている。


 昨日直した髪。


 今日直すはずだった髪。


 死の中で掴まれ、引きずられ、悲鳴に変わった髪。



 シンの喉が詰まった。



「ユナは、火のそばにいてくれ」


「嫌」


「ユナ」


「何が起こるのか、私は知らない。でも、シンは知ってる。だから、私を遠ざけようとしてる」



 ユナの声は震えていなかった。



「それは、嫌」



 シンは何も言えなかった。



 モモが、火のそばに立っている。


 さっきから黙っていた。



 モモはユナを見た。


 次にシンを見た。



「ユナ個体の同行は、危険度を上昇させる」


「分かってる」


 シンは言った。



「ただし」



 モモは続けた。



「シンの判断停止時間を短縮する可能性あり」


「何だそれ」


「シンはユナ個体に関する事象で判断速度が低下する。一方で、ユナ個体が近距離に存在する場合、説明省略による行動同期が発生する」


「難しく言うな」



 ユナが首を傾げた。



「私がいた方が、シンは動く?」



 モモは頷いた。



「近似」


「じゃあ、行く」



 シンは頭を抱えたくなった。



「モモ、お前、止める側じゃないのか」


「最適解、未算出」


「そういう時は余計なこと言うな」


「りょ。」



 タダが短く言った。



「俺も行く」



 これは止めても無駄だった。



「コト」


 シンは振り向いた。



 コトはフスンを抱えたまま、こちらを見ている。



「コトも」


「駄目」


「なんで」


「コトには、火を見てほしい」



 コトの顔が険しくなる。



「また?」


「また」



 シンは、火のそばのウロオボエ様土偶を指した。



「ウロオボエ様を、食べられないように」


「フスン、食べない」


「フスンじゃないものも来るかもしれない」



 コトは、はっとした顔で土偶を見た。



 頼りない顔で合掌する土の像。



「ウロオボエ様、守る」


「頼む」


「コト、守る」



 フスンが、ふすん、と鼻を鳴らした。



「フスンも、コトを守れ」



 シンが言うと、フスンはまた鼻を鳴らした。



 信頼度は低い。


 だが、今は信じるしかなかった。




 ミチヌシが前に線を引いた場所へ向かった。



 芽の囲い。


 干し草の場所。


 子供の道。


 フスンが踏んではいけないと覚えた場所。


 トリビックリクンとトリビックリママが立っていた場所。



 すべてが、まだ朝の光の中にあった。



 まだ燃えていない。


 まだ踏まれていない。


 まだ、壊れていない。



 それが、逆に怖かった。



 無事なものを見るたび、壊れた時の姿が重なる。



 穂が散る。


 種が踏まれる。


 トリビックリママが燃える。


 ユナが森へ引きずられる。



 シンは足を止めそうになった。



 その度に、ユナが隣にいることを感じた。



 火と草の匂い。


 昨日の酒の名残。


 まだ跳ねた髪。



 生きている。



 今はまだ。



 タダは少し前を歩いている。


 手には太い薪ではなく、山へ行く時に使う杖のような枝を持っていた。



 モモは、後ろとも横とも言えない場所にいる。


 白い衣が、朝の森の色から浮いている。



 あまりにも目立つ。


 なのに、不思議と見つからないような気もする。



「モモ」


 シンは小声で言った。



「敵の斥候は?」


「近距離には未検出」


「その言い方、怖いな」


「中距離以遠には存在可能性あり」


「やっぱり怖い」



 モモは少し黙った。



「シンの恐怖反応、増大」


「そりゃ増える」


「軽減方法、不明」


「黙って隣にいてくれれば少しマシ」



 言ってから、シンは自分で驚いた。



 モモも、わずかに目を動かした。



「隣」


「いや、比喩というか」



 モモは、一歩だけ近づいた。



 本当に隣に近い距離へ来た。



 シンは困った。



「素直か」


「要求に従った」


「そういうところだぞ」



 ユナがそれを見ていた。



 何か言いたげだったが、言わなかった。



 今は、言葉を選んでいる場合ではない。



 それでも、シンはユナの沈黙に少しだけ焦った。




 畑の端に着いた。



 囲いは、そのままだった。



 切られた茎。


 まだ少し残してある穂。


 踏まないように曲げた子供の道。


 干し草の場所。



 小さな未来の跡。



 そこでシンは言った。



「ミチヌシ」



 風が吹いた。



 ただの風だった。



 葉が揺れる。


 乾いた穂が、かさりと鳴る。



「ミチヌシ」



 もう一度呼んだ。



 何も起きない。



 シンは焦った。



「おい、道の人。道の神。道っぽい何か。こっちは本当に時間がない」



 ユナが小さく言った。



「呼び方、雑」


「こっちは何度も死んでるんだ。礼儀は少し待ってほしい」



 タダが、畑の端にしゃがんだ。



 地面を見る。



「ここ」


「何?」



 タダは、指で土をなぞった。



 畑の囲いの外側。


 子供の道とは別の、薄いくぼみ。



 前には気づかなかった。



 草で隠れている。


 人の足で踏み固められた道というより、もっと古い。


 獣も通る。


 水も流れる。


 人も、たぶん昔から通る。



 地面そのものが、そこだけ少し違った。



「道?」


 ユナが言った。



 その瞬間。



 背後から声がした。



「やっと見たか」



 シンは振り向いた。



 男が立っていた。



 いつ来たのか分からない。



 黒とも茶ともつかない古い衣。


 手には杖。


 腰には小さな袋。


 首元には、青緑の石。



 ヒスイ。



 ミチヌシだった。



「遅い」


 シンは言った。



 ミチヌシは笑わなかった。



「道は呼べばすぐ来るものではない」


「こっちは死んだらすぐ戻されるんだぞ」


「それは道ではない。穴だ」



 シンは言い返そうとして、やめた。



 言い返している場合ではない。



「助けてくれ」



 シンは言った。



「夜に襲われる。いや、朝から見られてる。森に斥候がいる。火と穂と種と子供が狙われる。逃げ道も読まれる」



 ミチヌシは、シンを見た。



 それからユナを見た。


 タダを見る。


 モモを見る。



 モモを見た時だけ、ほんの少し目を細めた。



「白いものが近くに来たな」



 モモは無表情だった。



「観測対象、再確認」


「お前も迷っている」


「迷い、定義不明」


「なら、まだ迷っている」



 モモは答えなかった。



 シンは二人の会話を遮った。



「今はそれより、襲撃だ」


「見たのだろう」


 ミチヌシは言った。



「何度も」


「なら、まだ足りぬ」


「足りないから聞いてるんだ」



 ミチヌシは、杖で地面を叩いた。



 乾いた音。



 それだけだった。



 だが、次の瞬間、シンの目の前の景色が少しずれた。



 畑が消えたわけではない。


 集落も、木々も、そのままある。



 けれど、その下に別の線が見えた。



 地面の下を通る薄い光のようなもの。


 人の足跡。


 獣の足跡。


 水の跡。


 古い倒木の隙間。


 昔、誰かが通ったくぼみ。



 いくつもの道が、重なっていた。



 その一本が、畑の真下を通っている。



 囲いの下。


 芽を守るために曲げた子供の道の下。


 トリビックリクンを立てた場所の下。


 トリビックリママが立っていた場所の下。



 シンは息を呑んだ。



「ここ……道の上なのか」



 ミチヌシは頷いた。



「そうだ」



 ユナが顔を強張らせる。



「私たち、道を塞いだ?」


「塞いだ、というほど強くはない」


 ミチヌシは言った。



「だが、印を置いた」


「印?」


「囲い。火の匂い。穂。人の目。犬の声。子供の声。鳥よけの皮」



 シンはトリビックリママを思い出した。



 あれまで印なのか。



 いや、たしかに目立つ。


 あんなものが立っていたら、どう見ても“ここは誰かの場所”だ。



「ここを通る者には、分かる」


 ミチヌシは続けた。



「ここはもう、ただの草地ではない。誰かが守る場所だ。食えるものがあり、火があり、子がいる場所だ」



「だから襲われる?」


 シンが聞いた。



「それだけではない」



 ミチヌシは杖を横へ動かした。



 景色が、またずれた。



 見えた。



 森の向こう。


 山の浅い斜面。


 細い谷。



 そこを、人が歩いていた。



 泥を塗った男たち。


 獣の皮をまとった者たち。


 黒い石を腰に下げた者。


 女。


 老人。


 子供。



 襲撃の時に見た影と同じ匂いがした。



 だが、今見えている者たちは、刃を振るっていない。


 走っていない。


 押し黙って歩いている。



 痩せている。



 足に血が滲んでいる者がいる。


 荷を背負った女が、何度も後ろを振り返る。


 子供が泣きそうな顔で、黒い石の欠片を握っている。



 その後ろ。



 もっと遠く。



 低い土地に、別の煙が見えた。



 細く、何本も。



 ミチヌシが言った。



「南が押している」



 シンは黙った。



「種を持つ者。水を測る者。手を数える者。境を引く者。そういう者たちが、少しずつ上へ来る」



 南から来る線。


 西から押される線。


 北へ逃げるかもしれない線。



 全部が、地面の下で絡んでいる。



「南の者が直接ここを襲うのではない」


 ミチヌシは言った。



「押された者が、道へ出る。道へ出た者は、食うものを探す。火を探す。子を連れているなら、なおさらだ」



 ユナは唇を噛んだ。



「あの人たちも、逃げてるの?」



 ミチヌシは答えた。



「逃げている。奪いにも来る」



 その言葉は、冷たかった。



 だが、突き放してはいなかった。



「逃げている者は、優しくなるわけではない。腹が減った者は、弱い者を見逃すわけではない。失った者は、他の者の火を大事にするわけではない」



 シンは、あの悲鳴を思い出した。



 森の奥。


 ユナの声。


 複数の影。



 拳を握った。



「事情があれば、許せってことか」



 声が低くなった。



 ミチヌシはシンを見た。



「違う」



 短い返事だった。



「許すために見るのではない。間違えぬために見る」



 シンは息を止めた。



「あれは悪だ。お前たちにはな」



 ミチヌシは言った。



「だが、あれは闇から湧いたものではない。道の先から来たものだ」



 道の先。



 南に押される西の者。


 西から流れる黒い石。


 火と穂を持ち始めた集落。



 全部が繋がっている。



「俺たちが、ここに畑を作ったから」


 シンは言った。



 ユナが顔を伏せた。



「種を埋めたから」


「違う」


 ミチヌシは言った。



「種は悪くない」



 その声は、静かだった。



「守ることも悪くない」



 ミチヌシは、杖で畑の囲いを指した。



「だが、道の上に囲いを置いた」



 その言葉もまた、静かだった。



「道の上に、腹を置いた。火を置いた。子を置いた。ここを通る者に、“ここには奪えるものがある”と見せた」



 ユナの顔が歪んだ。



「知らなかった」


「道は、知らぬ者にも踏まれる」



 ミチヌシは言った。



「だから、道だ」



 シンは畑を見た。



 初めての畑。



 コトが芽を見守った場所。


 フスンが伏せて守った場所。


 ユナが草を抜いた場所。


 シンが穂を切った場所。


 年長の女が火へ初穂を見せた場所。



 未来の味がした場所。



 それが、道の上にある。



 シンは、声が出なかった。



 タダが言った。



「どうすればよい」



 ミチヌシは、しばらく答えなかった。



 風が吹いた。



 穂の残りが鳴る。


 囲いの枝が小さく揺れる。



 そして、ミチヌシは言った。



「畑を消せば、道は少し流れる」



 ユナが息を飲んだ。



 シンも、聞き間違いだと思った。



「消す?」


「囲いを倒せ。穂を散らせ。火の匂いを移せ。ここが守る場所だという印を薄くしろ」


「薄く?」



 ミチヌシは頷いた。



「消せるものと、消えぬものがある」



 その目は、森の方ではなく、もっと遠い何かを見ていた。



「飢えは消えぬ。押される足も止まらぬ。すでにお前たちを見た目も、すべては閉じぬ」



 シンの背筋が冷たくなった。



「じゃあ、畑を壊しても襲撃は止まらないのか」



 ミチヌシは答えなかった。



 答えないことが、答えだった。



「止まるとは言わぬ」



 やがて、そう言った。



「だが、このままでは道が固まる」


「固まる?」


「火も、種も、子も、穂も、同じ場所に結ばれている。襲う者はそこへ来る。逃げる者もそこへ戻る。死ぬ者もそこへ重なる」



 ミチヌシの声は低かった。



「畑を消せば、結び目は少しほどける。襲う足は迷うかもしれぬ。逃げる火は、別の道へ乗るかもしれぬ」


「かもしれぬ、ばっかりだな」



 シンは笑いそうになった。


 笑えなかった。



「道に、必ずはない」


 ミチヌシは言った。



「必ずを作るものは、道ではない」



 モモが、わずかに反応した。



 シンはそれに気づいた。



「モモ?」



 モモは森の奥を見ていた。



「不自然な収束を検出」


「何だそれ」


「複数回の死亡遷移において、襲撃発生が維持されている。局所条件変更後も、敵集団の到達は高確率で継続」


「つまり?」


「襲撃そのものは、現時点で回避困難」



 シンの喉が鳴った。



「じゃあ、やっぱり来るのか」


「りょ。」



 モモはそれだけ言った。



 だが、その声には、いつもの硬さの奥に、わずかな滞りがあった。



 ミチヌシはモモを見た。



「白いものの向こうにも、道を固めるものがいる」



 モモは答えなかった。



 シンは聞き返したかった。



 だが、今は問う時間がない。



 支配するもの。


 固めるもの。


 道ではない必ず。



 それが何であれ、襲撃は来る。



 ならば、考えるべきは、襲撃をなかったことにする方法ではない。



 来るものを、どう受け流すか。



 火と、種と、子供と、ユナを、どこへ逃がすか。



「でも」



 シンは畑を見た。



「ここは、初めての畑だ」



 やっと言えた。



 ミチヌシは頷いた。



「だから、重い」



「壊せっていうのか」


「残せば、足はここへ戻る」



 短い言葉だった。



 シンは黙った。



 火。


 種。


 子供。


 ユナ。


 コト。


 タダ。


 フスン。



 畑。



 全部は守れない。



 今まで何度も、それを見た。



 全部守ろうとして、全部遅れた。



 火も穂も子供も、同じ場所に置いたから狙われた。



 なら、選ぶしかない。



 守るために、壊す。



 草を抜く時と同じだ。


 穂を切る時と同じだ。


 食べる分と、土へ戻す分を分けた時と同じだ。



 だが、これはあまりにも大きい。



「畑を壊せば、助かるのか」


 シンは聞いた。



 ミチヌシは答えた。



「助かるとは言わぬ」



 それは、残酷なほど正直だった。



「ただ、今のまま死ぬ道からは外れる」



 確約ではない。



 たぶんですらない。



 今のまま死ぬ道から外れる。



 それだけ。



 シンは笑いそうになった。



 ウロオボエ様より曖昧だ。



 だが、その曖昧さの中にしか、もう道はなかった。




 集落へ戻ると、コトが真っ先に駆けてきた。



「シン!」


「コト」


「ウロオボエ様、食べられてない」


「ありがとう」



 シンはしゃがんだ。



 コトの目を見た。



 言わなければならない。



 最悪のことを。



「コト。畑を壊す」



 コトは、最初、意味が分からない顔をした。



「はたけ?」


「しっぽの実の場所」


「なんで」



 その一言が痛かった。



「道の上にあった」


「道?」


「うん。誰かが通る道。昔から、土の下にあった道」


「しっぽ、悪いことした?」


「してない」



 シンはすぐに言った。



「しっぽは悪くない。コトも悪くない。ユナも、タダも、誰も悪くない」


「じゃあ、なんで壊すの」



 コトの目に涙が溜まった。



 フスンが不安そうに鼻を鳴らす。



 シンは答えられなかった。



 代わりに、ユナが膝をついた。



「守るため」



 コトがユナを見る。



「壊すのに?」


「うん」



 ユナの声も震えていた。



「火を守る。種を守る。コトを守る。フスンを守る」


「しっぽは?」



 ユナは、一度目を閉じた。



「全部は、守れない」



 コトの涙が落ちた。



「やだ」



 小さな声だった。



「やだ。コト、守った。フスンも守った。トリビックリクンも、トリビックリママも守った」


「うん」


 シンは頷いた。



「守った。だから、次を残す」



「次?」


「土へ戻す粒を持って逃げる」



 コトは泣きながら首を振った。



「ここがいい」



 その言葉に、シンの胸が裂けそうになった。



 ここがいい。



 そうだ。



 みんな、ここが良かった。



 火があって。


 水があって。


 芽が出て。


 穂が垂れて。


 祭りをして。


 ユナが隣で眠って。



 ここが良かった。



 だが、ここだから狙われる。



 ここに置いたから、火も子供も穂も一緒に見られた。



「俺も、ここがいい」



 シンは言った。



「でも、ここにいると死ぬ」



 コトの顔が凍った。



 シンは続けた。



「俺は見た」



 言うつもりはなかった。


 でも、言った。



「ここが壊れるのを見た。フスンが鳴くのを聞いた。ユナが叫ぶのを聞いた。タダが血を流すのを見た」



 コトの目が大きくなった。



「やだ」


「俺も嫌だ」


「やだ!」



 コトは泣いた。



 フスンが、コトの顔を舐めようとする。



 コトはフスンに抱きついた。



 シンは立ち上がった。



 もう止まれなかった。




 畑の破壊は、静かには始まらなかった。



 最初に、タダが囲いを倒した。



 ばき、と枝が折れる。



 その音で、シンの胸のどこかも折れた。



 ユナが残っていた穂を切った。



 食べるためではない。


 祭るためでもない。



 印を薄くするため。



 穂が地面に落ちる。



 シンはそれを拾い、ひとまとめにする。



 無駄にはしない。


 できるものは持つ。


 持てないものは、散らす。



 年長の女は、土へ戻す粒を小さな皮に包んだ。



 火へ返す粒も、少しだけ別にした。



 火種は、灰ごと小さな器へ移す。



 ここを捨てるのではない。



 火を連れていく。



 種を連れていく。



 記憶を連れていく。



 だが、畑は残せない。



 トリビックリクンは倒された。



 コトが泣きながら見ていた。



「トリビックリクン……」



 シンは、骨と貝殻を外した。



「これは持っていく」



 コトが涙の中で顔を上げた。



「持っていく?」


「全部は無理。でも、音は持っていける」



 コトは泣きながら頷いた。



 トリビックリママも倒した。



 大きな皮が、朝の光の中で力なく揺れた。



 ユナがその皮を畳む。



 ゆっくり。


 丁寧に。



 まるで、本当に誰かの体を包むように。



「まま……」


 コトが呟いた。



 ユナは答えた。



「一緒に行く」



 それで、コトは少しだけ泣き止んだ。



 シンは土を踏み荒らした。



 自分で作った低い畝。


 水の逃げ道。


 芽を踏まないように避けてきた場所。



 全部を崩す。



 足で。


 手で。


 枝で。



 守るために作った線を消す。



 ここからここまで。


 ここは芽。


 ここは草。


 ここは入ってはいけない。



 そうやって作った線を、自分で壊す。



 シンは歯を食いしばった。



 泣いている暇はない。



 だが、涙は勝手に出た。



「ごめん」



 誰に言ったのか分からない。



 穂か。


 土か。


 コトか。


 ユナか。


 ウロオボエ様か。


 死んだ自分たちか。



「ごめん」



 ユナが隣に来た。



 何も言わず、同じように土を崩した。



 手が泥で汚れる。


 爪に土が入る。


 汗が額に滲む。



 ユナは泣かなかった。



 だが、顔は泣いているのと同じだった。



「シン」


「ん」


「次、また作る?」



 シンは、土を見た。



 壊した畑。


 潰した畝。


 散らした穂。



「作る」



 声がかすれた。



「絶対に」



 ユナは頷いた。



「じゃあ、壊す」



 その言葉が、シンを少しだけ支えた。



 作るために壊す。



 残すために捨てる。



 生きるために、ここを離れる。




 畑が畑ではなくなっていく。



 囲いがなくなる。


 鳥よけがなくなる。


 穂が消える。


 道の上に置かれていた印が、一つずつ外されていく。



 ミチヌシは、少し離れた場所で見ていた。



 何も言わない。



 青緑の石が、朝の光を受けて鈍く光っている。



 モモは、壊されていく畑を見ていた。



「保護対象を破壊」



 小さく言う。



「矛盾?」


 シンは聞いた。



 モモは少し沈黙した。



「以前は矛盾と判定」


「今は?」



 モモは、シンを見た。



「保留」



 シンは少しだけ笑った。



「ウロオボエ様っぽくなってきたな」


「不本意」


「だろうな」



 モモは、畑を見た。



「シンの苦痛反応、増大」


「そりゃな」


「しかし、行動停止しない」


「止まったら死ぬ」



 モモは何も言わなかった。



 ただ、前より少しだけ近くに立っていた。




 最後に、年長の女が火のそばからウロオボエ様土偶を持ってきた。



「持っていくのか」


 シンが聞いた。



「置いていけば、道に食われる」


「食われるんだ、こいつ」


「弱いからな」


「弱い神、持ち運び可能なのか」



 年長の女は答えなかった。



 土偶を、コトに渡した。



 コトは涙で濡れた顔のまま、両手で受け取った。



「ウロオボエ様、行く?」



 土偶は答えない。



 頼りない顔で合掌している。



「たぶん、行く」


 コトは自分で言った。



 シンは笑いそうになって、笑えなかった。



「たぶんじゃなくて、行く」



 コトは土偶を胸に抱いた。



「行く」



 フスンが、その横で鼻を鳴らした。



 火種が包まれる。


 種が包まれる。


 トリビックリクンの骨と貝殻が束ねられる。


 トリビックリママの皮が畳まれる。



 畑は、もう畑ではなくなった。



 ただの乱れた草地。


 踏まれた土。


 道の上に戻りかけた場所。



 ミチヌシが、ようやく口を開いた。



「少し、道が息をした」



 シンはその言葉を聞いて、深く息を吐いた。



 助かったわけではない。



 まだ、敵は来る。


 斥候はいる。


 襲撃は消えていない。



 だが、道は少しほどけた。



 初めて。



 シンはユナを見た。



 ユナもこちらを見ていた。



 髪は跳ねている。


 泥で汚れている。


 目は赤い。



 それでも、生きている。



 シンは言った。



「北へ行く」



 ミチヌシが頷いた。



「火を連れてな」



 その時、森の奥で鳥が一斉に飛んだ。



 黒い影が、朝の空へ散る。



 タダが杖を握り直した。



 フスンが唸る。



 モモが森を見た。



「接近、継続」



 ミチヌシは、森ではなく、地面を見ていた。



「急げ」



 静かに言った。



「道が、また固まる前に」



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