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2-2

第十八話 2-2



 祭りのあとの朝は、もう穏やかには見えなかった。



 煙の匂い。


 乾いた穂の匂い。


 鹿の脂の匂い。


 木の実の甘い匂い。


 少し酸っぱい酒の残り香。



 それらは、さっきまで幸福の残り香だった。



 今は違う。



 全部が、燃える前の匂いに変わっていた。



 シンは、火のそばで膝をついたまま、息を吐けずにいた。



 フスンが鼻を鳴らす。


 コトが首を傾げる。


 ユナが火の向こうからこちらを見る。



「起きた?」



 同じ声だった。



 何も知らない声。



 昨日の夜、シンの肩に体重を預けた声。


 さっき、火の向こうで悲鳴になった声。



 シンは口を開いた。



 逃げろ。


 火を隠せ。


 穂を持て。


 子供を集めろ。


 森から来る。


 夕暮れに来る。


 石が飛ぶ。


 タダが斬られる。


 フスンが鳴く。


 ユナの髪が掴まれる。



 言葉が多すぎた。



 多すぎて、ひとつも形にならなかった。



「シン?」



 ユナが近づいてくる。



 髪は跳ねている。


 何も知らないまま。



 その髪を、今日も直してくれと言うはずだった。



 シンは、胃の底から何かがこみ上げるのを感じた。



「……来る」



 やっと、それだけ言った。



 ユナの足が止まる。



「何が?」



 シンは息を吸った。



「人が来る。夜、森から。石を投げる。火が壊される。穂が踏まれる。タダが、血を……フスンが、コトが、ユナが」



 喋っているうちに、自分でも分かった。



 これは駄目だ。



 言葉が壊れている。



 恐怖がそのまま口から出ているだけで、誰かを動かす形になっていない。



 ユナは顔を強張らせた。


 コトはフスンを抱きしめた。


 タダが、薪を持ったままこちらを見た。



「シン」



 タダの声は低かった。



「見たのか」



 シンは頷いた。



「死んだ」



 その言葉で、空気が変わった。



 ユナの顔から血の気が引く。


 コトが小さく「しんだ?」と呟く。


 年長の女が、火のそばから立ち上がった。



「火に聞く」


「聞いてる時間がない!」



 シンは叫んだ。



 叫んでから、失敗したと思った。



 年長の女は目を細めた。


 怒ったのではない。


 見ている。



 この男は何を見たのか。


 何に追われているのか。


 火の外から来たのか。


 それとも、頭の中の頼りない神に食われたのか。



 皆が見ている。



 その視線だけで、シンの喉は詰まった。



 それでも、止まっている時間はなかった。



「信じなくていい。全部信じなくていいから、動いてくれ」



 シンは言った。



「火と、種と、子供を離す。穂は隠す。森の方には行かない。夕暮れ前に、集まらない。火の近くに固まらない」


「なぜ」


 年長の女が聞いた。



「狙われるから」


「誰に」


「分からない」


「どこから」


「森」


「いくつ」


「分からない」



 分からないことばかりだった。



 分かっているのは、死んだことだけ。



 何度も思い出せるのは、怖かったことだけ。



 それでも、タダが動いた。



「火を小さく分ける」



 タダの一言で、何人かが動き始めた。



 ユナもすぐに立った。



「子供を集める?」


「集めすぎるな」


 シンは言った。



「前は集めて、そこを狙われた」


「前?」



 ユナが聞いた。



 シンは答えられなかった。



 前。



 今から来るはずの前。



 もう起きた前。



 言葉にできない。



「……とにかく、固めない」



 ユナはそれ以上聞かなかった。



「分かった」



 その一言が、シンには痛かった。



 信じてくれた。



 信じてくれたのに、自分にはまだ何も足りない。




 二度目の死は、前より酷かった。



 準備した。



 火を分けた。


 種の器を少し奥へ移した。


 子供たちを散らした。


 タダは最初から太い薪を持っていた。


 シンも、使えそうな棒を持った。



 それで、変わった。



 変わってしまった。



 夕暮れ。



 フスンが吠えた。



 前より早く。


 前より強く。



 タダが叫んだ。



「伏せろ!」



 最初の石は避けた。



 火のそばの男は倒れなかった。


 土器も割れなかった。



 シンは一瞬、変えられたと思った。



 その一瞬が、また甘かった。



 次の石は、火ではなく子供へ飛んだ。



 小さな体が、後ろへ倒れた。



 名前を、シンは知らなかった。



 知らないまま、血が出た。



 悲鳴が上がった。



 子供たちは散った。


 散らしたはずの子供たちが、恐怖でばらばらに走った。



 森が動いた。



 影が出てくる。



 泥の顔。


 獣の皮。


 黒い石の刃。


 木の棒。


 短い槍。



 今度は、前より荒かった。



 こちらが抵抗したからだ。



 タダが一人を打ち倒す。



 すると、二人が同時にタダへ石を投げた。


 肩。


 膝。



 タダが揺れる。



 そこへ横から刃が入った。



「タダ!」



 シンは叫んだ。



 タダは倒れない。



 倒れないまま、血を流す。



 それが余計に、相手を怒らせたように見えた。



 棒が増えた。


 石が増えた。


 人が増えた。



 抵抗すれば、暴力は止まるのではなく、形を変えて強くなった。



 穂の束が引き裂かれた。


 土器が割られた。


 火の近くの灰が蹴り散らされた。


 ウロオボエ様土偶が倒れた。



 コトが泣き叫ぶ。



「フスン! フスン!」



 フスンは男の足に噛みついていた。



 男が叫び、棒を振り下ろす。



 鈍い音。



 フスンの声が、途中で切れた。



 コトが走る。



 ユナが抱き止める。



「だめ!」


「フスン!」


「だめ!」



 その瞬間、別の男がユナの腕を掴んだ。



 シンは駆けた。



 だが、足が遅い。



 恐怖で遅い。


 痛みの記憶で遅い。


 何をすればいいのか、分からないまま遅い。



 ユナは暴れた。



 手を振りほどこうとした。


 爪を立てた。


 歯を剥いた。



 別の男が加わった。



 二人。


 三人。



 ユナの体が森の方へ引きずられる。



「ユナ!」



 シンは叫んだ。



 ユナがこちらを見た。



 顔が歪んでいた。



 恐怖。


 怒り。


 それでも、まだ負けていない目。



「シン!」



 その声が、森へ引かれていった。



 シンは追った。



 背中に衝撃。



 転ぶ。



 起き上がる。



 また殴られる。



 口の中に血が広がる。



 それでも、ユナの方へ這った。



 木々の奥。


 火の明かりが届かない場所。



 ユナが倒されていた。



 複数の影が、その上に覆い被さっていた。



 はっきりとは見えない。



 見えないのに、何が起きようとしているのかだけは分かった。



 ユナの悲鳴が聞こえた。



 昨日の夜、近くで笑っていた声。


 「怖いけど、嫌じゃない」と言った声。


 髪を直して、と言った声。



 それが、裂けるような悲鳴になっていた。



 シンの中で、何かが壊れた。



「やめろ!」



 叫んだ。



 声が裏返った。



「やめろ、やめろ、やめろ!」



 立とうとした。



 腕が動かない。


 足が滑る。


 血で濡れた土に、指が食い込む。



 目の前に、泥の顔があった。



 男がシンを見下ろしている。



 人間を見る目ではなかった。



 邪魔な枝。


 踏む草。


 動く肉。



 それを見る目だった。



 石の刃が振り上げられた。



 シンは、ユナの声を聞いていた。



 聞きながら死んだ。



 死ぬ最後の瞬間まで、聞こえていた。




 煙の匂い。



 乾いた穂の匂い。


 鹿の脂の匂い。


 木の実の甘い匂い。


 少し酸っぱい酒の残り香。



 フスンの鼻息。



「近い」



 自分の声がした。



 シンは目を開けた。



 フスンの鼻先。


 コトの顔。


 同じ朝。



 シンは、声にならない息を吐いた。



 吐いた息が震えていた。



「シン、起きた」



 コトが言った。



 シンは答えなかった。



 体を起こす。


 すぐにユナを見た。



 火の向こうにいる。



 髪は跳ねている。


 何も知らない顔で、灰を寄せている。



 生きている。



 触れられていない。



 引きずられていない。



 悲鳴を上げていない。



 そのことに、胸が詰まった。



 同時に、怒りで視界が白くなった。



 あいつらを殺す。



 それしか考えられなかった。



「シン?」



 ユナがこちらを見る。



 シンは立ち上がった。



 何も説明しなかった。



 タダにも言わなかった。


 ユナにも言わなかった。


 年長の女にも言わなかった。


 コトにも言わなかった。



 言えば止められる。



 止められたら、また間に合わない。



 間に合わなければ、またあの悲鳴を聞く。



 それだけは、嫌だった。



 絶対に嫌だった。



 シンは、火の脇に置いてあった太い棒を取った。



「どこ行くの?」


 コトが聞いた。



「森」



 ユナが立った。



「一人で?」



 シンは答えなかった。



「シン」



 ユナの声。



 それを聞くと、足が止まりそうになる。



 だから、振り返らなかった。



「すぐ戻る」



 嘘だった。



 戻るつもりはなかった。



 終わらせるつもりだった。




 三度目の死は、森の中だった。



 シンは走った。



 祭りの匂いを振り切るように。


 ユナの悲鳴を振り切るように。


 フスンの途切れた声を振り切るように。



 森の中へ入る。



 朝の森は、まだ静かだった。



 静かすぎる。



 鳥がいない。



 やはり、もういる。



 シンは棒を握りしめた。



 手が震えている。



 怒りで。


 恐怖で。


 それでも、戻れなかった。



「出てこい」



 小さく言った。



「出てこいよ」



 木々の間に、薄い跡があった。



 踏まれた草。


 折れた小枝。


 土に残った足跡。



 幅の広い足。


 つま先が外へ開いている。



 見つけた。



 シンは息を殺して進んだ。



 殺しきれなかった。



 怒りで、呼吸が荒かった。



 足音も大きかった。



 枝を踏んだ。



 乾いた音がした。



 その瞬間、横の茂みが動いた。



 シンは棒を振った。



 何もいなかった。



 違う。



 誘われた。



 背後で、枯れ葉が鳴った。



 振り向く前に、足首に何かが絡んだ。



 蔓。


 いや、張られた縄。



 地面が跳ねた。



 シンの体が倒れる。



 腹から落ちる。


 息が潰れる。



 棒が手から離れた。



 拾おうとした。



 手の上に、足が乗った。



 骨が軋んだ。



 声が出た。



 見上げると、男がいた。



 泥の顔。


 獣の皮。


 黒い石の刃。



 斥候。



 その言葉が、ようやく浮かんだ。



 こいつは、襲撃の本隊ではない。


 見る者。


 待つ者。


 道を測る者。



 シンが来ることも、見ていた。



 怒りで突っ込んでくることも、たぶん読まれていた。



 男は何も言わなかった。



 ただ、シンの首元へ膝を乗せた。



 重い。



 息ができない。



 黒い石の刃が、朝の光を少しだけ返した。



 シンは、その石を見た。



 西の石。



 山の目。



 そう思った瞬間、刃が降りた。



 冷たい。



 首が冷たい。



 それから、熱い。



 ユナの悲鳴が、また耳の奥で響いた。



 朝へ戻った。




 煙の匂い。



 乾いた穂の匂い。


 酒の残り香。


 フスンの鼻息。



「近い」



 その言葉を、シンはもう憎んでいた。



 ふすん。



 同じ鼻息。



 シンは目を開けた。



 同じ朝。



 同じ火。



 同じウロオボエ様土偶。



 同じユナ。



 違うのは、シンだけだった。



 シンは起き上がれなかった。



 しばらく、灰の匂いを吸っていた。



 喉に、まだ刃の冷たさがある。


 耳に、まだユナの悲鳴がある。


 手に、まだ踏まれた痛みがある。



 目を閉じると、森の中の男の目が浮かぶ。



 見ていた。



 あいつは、見ていた。



 集落を。


 火を。


 穂を。


 逃げ道を。


 シンを。



 そして、たぶん。



 シンが一人で来ることまで。



「シン?」



 ユナの声がした。



 シンは、ゆっくり目を開けた。



 ユナが近くに立っている。



 何も知らない。



 でも、心配している。



 その顔を見ると、怒りがまた喉へ上がった。



 同時に、もう何もできない気がした。



 叫んでも駄目。


 備えても駄目。


 攻めても駄目。



 逃げようとしても、たぶん道を読まれる。



 彼らは、先に見ている。



 こちらより先に、道を見ている。



 シンは火のそばを離れた。



「シン?」



 ユナが呼ぶ。



「少し、外を見る」



 今度は嘘ではなかった。



 攻めに行くつもりはない。


 ただ、ここにいると、叫び出しそうだった。



 シンは集落から少し離れた。



 森の手前。


 火の匂いがまだ届く場所。


 でも、皆の声が少し遠くなる場所。



 そこに、モモがいた。



 白に近い薄桃色の衣。


 黒い髪。


 桃の飾り。



 まるで、最初からそこに配置されていたように。



 シンは立ち止まった。



「いたのか」


「りょ。」


「見てたのか」


「りょ。」



 シンの中に、また怒りが湧いた。



「何を」


「シンの死亡遷移」


「最悪の言い方をするな」



 モモは表情を変えなかった。



 だが、ほんの少しだけ、いつもより間が長かった。



「説明を要求する?」



 シンは笑いそうになった。



 笑えなかった。



「要求する」



 モモは頷いた。



「シンは、一定条件下で生命活動停止後、特定時点へ再配置されている」


「死んだら戻る、だろ」


「りょ。」


「最初からそう言え」



 モモは続ける。



「再配置時点は、祭り終了後の翌朝。火種残存。対象群の大多数は生存。ウロオボエ様土偶、未破損」


「土偶情報は今いらない」


「前回以前の死亡時、同土偶は損壊、灰付着、耳状突起一部欠損」


「だから土偶のダメージログを取るな!」



 モモは少しだけ目を伏せた。



「記憶固定媒体として、観測優先度が上昇している」


「……何?」


「祭り以降、シンの情動反応が同土偶に対して増加。よって、記憶固定媒体としての重要度を再評価」



 シンは言葉を失った。



 間違ってはいない。


 間違ってはいないのが腹立たしかった。



「敵は」



 シンは聞いた。



「あいつらは何だ」



 モモは森の奥を見た。



「人間集団」


「それは分かる」


「外部共同体に属すると推定」


「どこの」



 モモは沈黙した。



「情報開示に制限」



 シンの背筋が冷えた。



「制限?」


「りょ。」


「誰に」


「回答不可」


「何で」


「回答不可」


「知ってるのか」



 モモは、ほんの少しだけ視線を揺らした。



「推定情報は存在。ただし、確定情報として出力不可」


「難しい言い方するな。知ってるけど言えないのか」


「その表現は、近似」



 シンは奥歯を噛んだ。



「何なら言える」


「接近方向。行動傾向。襲撃時の優先対象。罠の存在。斥候の存在」


「それを言えよ」


「現時点で、シンが受け入れ可能な情報量を超過する可能性」


「いいから言え!」



 モモは淡々と続けた。



「襲撃集団は事前観測を行っている。火、穂、種、子供、逃走経路を優先対象として認識。森内に斥候。地表低位に繊維状罠。投石による初動制圧。抵抗時、攻撃強度上昇。逃走時、先回り配置あり」



 一息で言った。



 難しい言葉が並ぶ。



 だが、今度は分かった。



 分かりたくなかった。



 全部、死んで覚えたことだった。



「じゃあ、どうすればいい」



 シンは聞いた。



 モモは答えなかった。



「どうすれば、ユナを助けられる」



 モモは、少しだけ目を細めた。



「ユナ個体の保存を最優先目標として設定する理由が不明」



 シンは、一瞬、何を言われたのか分からなかった。



 次の瞬間、頭に血が上った。



「理由?」



 声が低くなった。



「理由が必要か」


「行動資源配分には、優先順位が必要」


「ユナが」



 シンは言いかけて、詰まった。



 好きだから。



 そう言うには、まだ早い気がした。


 でも、違う言葉では足りなかった。



 ユナが笑った。


 手を重ねた。


 怖いけど嫌じゃないと言った。


 髪を直してと言った。


 悲鳴を上げた。



 理由なんて、全部だった。



「助けたいからだ」



 シンは言った。



「それじゃ駄目か」



 モモは黙った。



 森の奥から、鳥ではない音がした。



 枝が、わずかに折れる音。



 シンはそちらを見た。



 モモも見た。



「接近」



 モモが言った。



「早く言え」


「現在言った」


「そういうことじゃない!」



 影が動いた。



 木々の間。



 泥を塗った顔。



 斥候。



 さっきシンを殺した男か。


 別の男か。


 分からない。



 だが、見られていた。



 ここでも。



 モモの前でも。



 シンは後ずさった。



「モモ」



 声が震えた。



「助けろ」



 モモは動かなかった。



 だが、完全に無表情ではなかった。



 眉が、ごくわずかに寄った。



「直接介入は、現条件では未承認」


「誰の承認だよ!」


「回答不可」



 男が石を投げた。



 シンは避けようとした。



 石は肩に当たった。



 衝撃。



 体が回る。



 次の瞬間、別の影が横にいた。



 近い。



 速い。



 黒い石の刃が見えた。



 シンはモモを見た。



 モモは、こちらを見ていた。



 目が合った。



 その目に、初めて、ほんの少しだけ揺れがあった。



 ノイズ。



 エラー。



 いや、違う。



 たぶん、嫌な感じ。



 シンが死ぬことに対する、まだ名前のない嫌な感じ。



「モ、モ」



 呼ぼうとした。



 刃が腹に入った。



 息が抜けた。



 膝が落ちる。



 男が刃を引き抜く。



 熱い。



 痛い。



 シンは倒れた。



 地面が近い。



 土の匂い。


 湿った葉の匂い。


 桃の匂い。



 モモが近づいていた。



 一歩。



 ほんの一歩。



 それだけだった。



 彼女は手を伸ばしていない。


 敵を斬ってもいない。


 シンを抱えてもいない。



 ただ、一歩だけ近づいていた。



 その顔に、いつもの硬さとは違うものがあった。



「シン」



 モモが呼んだ。



 音が、かすかに乱れていた。



 シンは笑おうとした。



 笑えなかった。



「……りょ、って言えよ」



 声になったか分からない。



 モモは言わなかった。



 言えなかったのかもしれない。



 シンは、モモの目の前で死んだ。




 煙の匂い。



 乾いた穂の匂い。


 鹿の脂の匂い。


 木の実の甘い匂い。


 少し酸っぱい酒の残り香。



 フスンの鼻息。



「近い」



 シンは、目を開ける前に言った。



 ふすん。



 同じ鼻息。



 だが、今回は違った。



 桃の匂いが、最初からあった。



 シンは目を開けた。



 フスン。


 コト。


 火。


 灰。


 ウロオボエ様土偶。



 そして、その向こう。



 モモがいた。



 火のそばに。



 森の奥ではない。


 集落の外でもない。



 最初から、そこにいた。



 白に近い薄桃色の衣。


 黒い髪。


 桃の飾り。



 彼女は、シンを見ていた。



「モモ」



 シンは起き上がった。



「お前、覚えてるのか」



 モモは少し沈黙した。



「断片的に」



 シンの心臓が強く打った。



「どこまで」


「シンの生命活動停止。腹部損傷。血液流出。呼吸不全。視線接触。呼称」


「そこだけ細かいな」


「重要度が上昇した」



 モモの声は、いつもよりわずかに低かった。



「シンの死亡時、内部処理に不要な負荷が発生」


「不要な負荷?」


「不快に近い」



 シンは息を止めた。



 モモは自分の胸に手を当てた。



「名称不明。処理継続中」



 それは、感情と呼ぶにはまだ幼かった。



 同情でもない。


 愛でもない。


 怒りでもない。



 もっと手前。



 シンが壊れることを、モモの中の何かが嫌がっている。



 ただ、それだけ。



 けれど、それだけで十分だった。



「助けられるか」



 シンは聞いた。



 モモは目を伏せた。



「直接介入は、依然として制限下」


「じゃあ」


「補助情報の提示は可能。ただし制限あり。敵集団の正体、広域背景、上位因果に関する出力は不可」


「やっぱり知ってるのか」


「推定情報は存在」


「言えない」


「りょ。」



 シンは奥歯を噛んだ。



「なら、どうする」



 モモは森の方を見た。



「現在の手段では失敗確率が高い」


「備えても駄目。攻めても駄目。逃げても道を読まれる」


「りょ。」


「じゃあ、見えてる道は全部駄目だ」



 シンは火を見た。



 火のそばに、ウロオボエ様土偶がいる。



 頼りない顔で。


 何も知らない顔で。


 胸の前に手を合わせている。



 その背中には、曲がった線がある。



 道。



 寝癖みたいな道。



 シンは、ミチヌシの線を思い出した。



 南から来る線。


 西から来る線。


 北へ抜ける線。



 火を逃がす道。



 見える道ではない。


 皆が踏む道ではない。


 襲撃者が読んでいる道ではない。



 もっと古い道。


 土の下の道。


 火の外へ出る道。



 シンは立ち上がった。



「やり方を変える」



 モモがこちらを見る。



「具体案は?」


「ない」


「成功確率、算出不能」


「だろうな」



 シンは息を吸った。



「道に聞く」



 モモは一瞬、動きを止めた。



「道?」


「ミチヌシだ」



 その名を出すと、火のそばの空気が少しだけ変わった気がした。



 年長の女が、遠くからこちらを見た。


 タダも、薪を持つ手を止めた。


 ユナが、灰のそばから顔を上げる。



 シンは森を見た。



 そこには、もう敵がいる。


 斥候がいる。


 罠がある。


 読まれた道がある。



 だからこそ、読まれていない道を探すしかない。



「道に尋ねるしかない」



 シンは言った。



 モモは、いつものように「りょ。」とは言わなかった。



 ただ、シンの横に立った。



 ほんの少しだけ。



 前より近く。



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