まつりのあと
第十七話 まつりのあと
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朝は、まだ祭りの匂いがした。
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火のそばで目を覚ますと、最初に鼻へ入ってきたのは、煙の匂いだった。
次に、鹿の脂。
木の実。
乾いた穂。
少し酸っぱい酒の残り香。
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そして、フスンの鼻息。
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「近い」
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シンは目を開ける前に言った。
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ふすん、と返事があった。
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「返事じゃねえ」
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目を開けると、フスンの鼻先がすぐそこにあった。
黒く濡れた鼻。
眠そうな目。
口の端に、昨日の汁の匂いがまだ残っている気がする。
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その向こうに、コトがいた。
フスンの腹を枕にして、半分寝たままこちらを見ている。
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「シン、起きた」
「起きた」
「まつり、終わった?」
「たぶん」
「たぶん?」
「まだ匂いは残ってる」
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コトは鼻をひくひくさせた。
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「しっぽの匂い」
「穂な」
「しっぽ」
「はい」
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火は弱く残っていた。
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完全には消えていない。
赤い火種が灰の下で息をしている。
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その近くに、ウロオボエ様土偶が座っていた。
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相変わらず、胸の前で手を合わせている。
相変わらず、頼りない顔をしている。
相変わらず、自分がなぜここに置かれたのか分かっていない顔をしている。
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シンは、それを見た。
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「……朝から腹立つ顔してるな」
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コトが起き上がった。
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「ウロオボエ様、聞こえる」
「聞こえても、たぶん怒らない」
「弱いから?」
「弱いから」
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コトは真剣に頷いた。
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「ウロオボエ様、弱い」
「信仰対象への理解が早い」
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フスンが土偶の方へ鼻を近づけようとした。
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「フスン、だめ!」
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コトが即座に止める。
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フスンは伏せた。
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「昨日から妙に礼儀を覚えたな」
シンが言った。
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「ウロオボエ様、食べない」
「食べられる神から食べない神へ昇格した」
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コトはよく分かっていない顔で笑った。
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ユナは、火の反対側にいた。
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髪は、やっぱり跳ねていた。
祭りの前に直したところも、夜のうちにすっかり元へ戻っている。
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彼女は、灰を寄せていた。
昨日の火を、今日の火として扱うために。
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シンが起き上がると、ユナがこちらを見た。
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「起きた」
「起きました」
「頭、痛い?」
「少し」
「酒?」
「たぶん」
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ユナは笑った。
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いつもより少しだけ、笑い方が近い気がした。
昨日の夜、シンの肩に預けられた重さが、まだそこに残っている。
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手の感触も。
酒の匂いも。
火の明かりで赤くなった頬も。
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全部、やけに鮮明だった。
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「ユナは?」
「少し、ふわふわする」
「それ、酒だな」
「でも、嫌じゃない」
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昨日と同じ言葉だった。
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シンは、何と返せばいいか少し迷った。
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「昨日、私、変だった?」
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ユナが聞いた。
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灰を寄せる手を止めずに。
けれど、目だけはこちらを見ている。
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シンは喉を鳴らした。
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「少し」
「どれくらい?」
「祭りのせいにできるくらい」
「じゃあ、大丈夫」
「大丈夫なのか」
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ユナは少し笑った。
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「シンは?」
「俺?」
「変だった?」
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シンは、昨夜の自分を思い出した。
同じ器。
手。
近い顔。
綺麗だと思う、と言った声。
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「かなり」
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ユナは目を細めた。
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「でも、嫌じゃなかった」
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その言葉で、シンの頭の中の悪い神様が一斉に起きそうになった。
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「寝ろ」
「何?」
「こっちの話」
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コトが土偶の前で手を合わせた。
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「ウロオボエ様、寝てて」
「だからそっちじゃない」
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ユナが笑った。
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朝は、穏やかだった。
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驚くほど、穏やかだった。
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祭りのあとにも、仕事はあった。
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火の周りを片付ける。
残った汁を分ける。
土へ戻す粒を湿らせないように移す。
食べる分の粒を、虫と鳥から守る。
子供たちが触らないようにする。
フスンが嗅がないようにする。
ウロオボエ様土偶をどこへ置くかで揉める。
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「火の近く」
年長の女は言った。
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「常設なんですか」
シンはまだ抵抗した。
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「常に聞く」
「答えないですって」
「たぶんでよい」
「この集落、“たぶん”に対する信頼が強すぎる」
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タダが土偶を見ていた。
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「ここがよい」
「タダも賛成するな」
「火が見える。穂も見える。邪魔にならん」
「合理的にウロオボエ様を配置するな」
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結局、土偶は火の近くの少し高い場所へ置かれた。
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丸い石を台にして。
頼りない顔で。
妙に堂々と。
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子供たちはその前を通るたびに、「たぶん」と言った。
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意味は分からない。
たぶん、挨拶だった。
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昼頃には、祭りの残りが少しずつ日常へ戻っていった。
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草干しの女は、干す場所を確認していた。
若い男たちは森の方へ出た。
子供たちは眠そうにしながらも、まだはしゃいでいる。
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コトはフスンを連れて、穂の束の周りを見回っていた。
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「フスン、ここ見る」
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フスンは匂いを嗅いだ。
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「そこ、だめ」
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フスンは伏せた。
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「こっち」
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フスンはついていく。
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番犬というより、完全にコトの弟子だった。
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「優秀だな」
シンが言った。
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「コトが?」
ユナが聞く。
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「両方」
「フスンも?」
「半分くらい」
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ユナは笑った。
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その笑い声に、昨日の酒の名残が少し混じっている気がした。
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祭りは終わったのに、距離だけが少し戻りきっていない。
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ユナは、隣に来ると近かった。
肩が触れるほどではない。
けれど、前より少しだけ近い。
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手を伸ばせば届く距離。
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いや、届いてしまう距離。
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「シン」
「はい」
「髪、また跳ねてる?」
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ユナは自分の後ろ髪を少しつまんだ。
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「跳ねてる」
「昨日、シンが直してくれた」
「直したつもりだったけど、まあ、結局跳ねたな」
「でも、触り方、やさしかった」
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シンは言葉に詰まった。
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「それ、褒めてる?」
「褒めてる」
「髪の出来じゃなくて?」
「うん。手」
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ユナは当然のように言った。
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シンは一瞬、何も返せなかった。
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「……手」
「今日は、もう少しちゃんと直して」
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ユナはそう言って、シンに背を向けて座った。
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あまりにも自然だった。
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昨日の夜、肩にもたれたことも。
手を重ねたことも。
怖いけど嫌じゃないと言ったことも。
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全部が、まだ空気の中に残っている。
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シンは後ろに回り、跳ねた髪に触れた。
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昨日よりは、少しだけ上手くできた気がした。
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髪に指を入れる。
絡んだところをほぐす。
火と草の匂い。
ユナの首筋。
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昨日と同じなのに、昼の光の中ではまた違って見えた。
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「くすぐったい?」
シンが聞く。
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「少し」
「やめる?」
「やめない」
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シンの指が止まりかけた。
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ユナは振り向かない。
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ただ、耳が少し赤かった。
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「……祭り、終わったんだけどな」
シンが言った。
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「まだ匂いが残ってる」
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ユナはそう答えた。
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シンは、何も言えなくなった。
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昼の終わり頃、風が変わった。
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最初に気づいたのは、フスンだった。
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火のそばで寝ていたフスンが、急に頭を上げた。
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耳を立てる。
鼻を動かす。
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それから、森の方を見た。
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西でも、南でもないように見えた。
ただ、木々の濃い方。
昨日の笑い声がまだ残っている集落の外。
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「フスン?」
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コトが声をかけた。
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フスンは返事をしなかった。
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低く唸った。
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シンはそちらを見た。
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「何かいるのか」
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森は静かだった。
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静かすぎた。
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鳥の声が、少ない。
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さっきまで穂の束を狙っていた鳥たちが、今は見えない。
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「鳥、いない」
コトが言った。
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「昨日、食べ過ぎて寝てるんじゃないか」
シンは軽く言った。
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自分でも、あまり上手い冗談ではないと思った。
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フスンは、まだ唸っている。
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ユナが手を止めた。
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「変?」
「少し」
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シンは森を見た。
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木々の間。
影。
風。
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何かが動いたような気がした。
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だが、次の瞬間には何もなかった。
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「タダに言うか」
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シンはそう言った。
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その時、年長の女が火の方から呼んだ。
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「シン」
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土へ戻す粒の置き場所を相談したいらしい。
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ほんの少しだけ。
火の近くか。
もっと奥か。
湿りを避けるならどこか。
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シンは、森をもう一度見た。
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何も見えない。
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「……後で見る」
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そう言った。
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フスンは、まだ唸っていた。
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夕暮れが来た。
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祭りの翌日の夕暮れは、妙に寂しかった。
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昨日あれだけ大きかった火は、今日は少し小さい。
笑い声も少ない。
子供たちも疲れている。
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だが、寂しさは悪いものではなかった。
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楽しかったものが終わった後にだけ残る、柔らかい寂しさ。
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シンはそれを、少し気に入っていた。
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ユナは、火のそばで残りの汁を温めている。
コトはフスンに何かを教えている。
タダは薪を選んでいる。
年長の女は、ウロオボエ様土偶の前に少しだけ灰を寄せた。
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土偶は、困った顔で合掌している。
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昨日より、ほんの少し偉そうに見えた。
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「慣れるの早いな、お前」
シンは土偶に言った。
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返事はない。
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たぶん、ない。
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ユナが横から器を渡した。
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「飲む?」
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酒ではない。
温めた汁だった。
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「ありがとう」
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受け取る時、指が触れた。
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少しだけ。
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ユナは離さなかった。
ほんの一瞬だけ、そのままだった。
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シンは、その一瞬に全部持っていかれそうになった。
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「昨日より、逃げない」
ユナが小さく言った。
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「今それ言う?」
「今、思ったから」
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シンは器を見た。
湯気が上がっている。
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「逃げないようにする」
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言ってから、少し恥ずかしくなった。
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ユナは笑った。
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その笑顔を、シンは忘れたくないと思った。
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本当に。
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心の底から。
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その時だった。
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フスンが吠えた。
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今まで聞いたことのない吠え方だった。
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遊びではない。
鳥を追う声でもない。
尻尾に驚いた声でもない。
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喉の奥から絞るような、低く、硬い声。
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コトが振り向いた。
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「フスン?」
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フスンは森へ向かって吠えた。
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もう一度。
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今度は、タダが動いた。
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「火を寄せろ」
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低い声だった。
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「何?」
シンが聞く。
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タダは答えなかった。
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薪を置き、立ち上がる。
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その瞬間。
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森の中から、何かが飛んできた。
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石だった。
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拳ほどの石。
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それが、火のそばにいた男の額へ当たった。
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鈍い音がした。
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男は声もなく倒れた。
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シンは、何が起きたのか分からなかった。
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次の石が飛んだ。
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今度は土器に当たった。
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割れた。
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温めていた汁が、火のそばの土へ流れた。
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コトが悲鳴を上げた。
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フスンが飛び出した。
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「フスン!」
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コトの声。
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タダが叫んだ。
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「下がれ!」
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だが、その声より早く、森が動いた。
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人だった。
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何人も。
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影のように、木々の間から出てきた。
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顔に泥を塗っている者。
獣の皮を被っている者。
腕に黒い紐のようなものを巻いた者。
手には石の刃。
木の棒。
短い槍。
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誰も名乗らなかった。
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何も言わなかった。
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ただ、来た。
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火へ。
穂へ。
人へ。
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シンは立ち上がろうとした。
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ユナが腕を掴む。
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「シン」
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その声が、震えていた。
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シンは、初めて本当に怖くなった。
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説明できる恐怖ではなかった。
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敵だ。
襲撃だ。
逃げろ。
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そんな言葉が、頭の中で遅れて浮かぶ。
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だが、体の方が先に固まっていた。
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男の一人が、穂の束を蹴った。
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乾いた穂が散る。
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別の男が、土へ戻す粒の器を掴んだ。
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年長の女が叫んだ。
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「それは土へ戻すものだ!」
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男は意味を分からなかったのか、分かった上で無視したのか、器を抱えたまま女を突き飛ばした。
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女は火のそばに倒れた。
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ウロオボエ様土偶が、転がった。
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合掌したまま。
困った顔のまま。
火の灰の中へ、横向きに倒れた。
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シンの頭のどこかで、変な怒りが起きた。
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こんな時に。
こんなことで。
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でも、確かに怒りだった。
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「やめろ!」
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シンは叫んだ。
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声は、あまりにも小さかった。
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誰も止まらなかった。
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タダが前へ出た。
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大きな体で、火と子供たちの間に立つ。
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手には薪。
ただの薪だ。
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だが、タダが持つと棍棒のように見えた。
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最初の男が飛びかかった。
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タダは薪で打った。
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男が倒れる。
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次の男が来る。
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タダは受ける。
押し返す。
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強い。
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やっぱり、タダは強い。
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シンは一瞬、助かると思った。
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その一瞬が、甘かった。
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横から石が飛んだ。
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タダの肩に当たる。
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タダがわずかに揺れる。
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そこへ、別の男が低く飛び込んだ。
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石の刃が、タダの脇腹を裂いた。
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「タダ!」
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シンは叫んだ。
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タダは倒れなかった。
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倒れず、男の首を掴んだ。
そのまま地面へ叩きつけた。
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鈍い音がした。
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だが、血が流れている。
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タダの足元に。
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赤黒い血が。
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コトが泣いていた。
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「フスン! フスン!」
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フスンは見えなかった。
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吠え声だけが聞こえた。
それから、短く、痛そうな鳴き声。
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コトが走り出そうとした。
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ユナが抱き止めた。
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「だめ!」
「フスン!」
「だめ!」
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その時、別の影がユナの方へ来た。
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シンは動いた。
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考えるより先だった。
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ユナとコトの前に出る。
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手には何もない。
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近くに落ちていた木の枝を掴んだ。
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細い。
軽い。
役に立たない。
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それでも構えた。
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男の顔が見えた。
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泥で汚れている。
目だけが光っている。
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若いのか、年寄りなのかも分からない。
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腹が減っている目だった。
怒っている目だった。
何かを失った目だった。
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そして、こちらを人間として見ていない目だった。
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男は短い棒を振った。
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シンは受けようとした。
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無理だった。
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腕に衝撃。
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骨の奥に、嫌な音がした。
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「っ、あ」
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痛い。
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痛すぎて、声が出なかった。
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次に腹を蹴られた。
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息が消えた。
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地面が近くなる。
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倒れたところに、誰かの足があった。
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土。
灰。
こぼれた粒。
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踏まれている。
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昨日、火の前で分けた粒。
土へ戻すはずだった粒。
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踏まれている。
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シンは手を伸ばした。
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何のためか分からない。
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粒を拾うためか。
ユナへ伸ばしたのか。
コトへ伸ばしたのか。
火へ伸ばしたのか。
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自分でも分からなかった。
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「シン!」
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ユナの声。
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見上げると、ユナが男に腕を掴まれていた。
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彼女は暴れている。
爪を立てている。
噛みつこうとしている。
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髪が乱れていた。
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昨日、シンが直した髪。
今日、また直した髪。
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火の光の中で揺れていた髪。
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それが、乱暴な手に掴まれている。
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シンの中で、何かが切れた。
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「ユナ!」
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立とうとした。
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腕が動かない。
腹が痛い。
息が足りない。
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それでも立とうとした。
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その時、背中に重い衝撃が落ちた。
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地面に叩きつけられる。
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口の中に土が入った。
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血の味。
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煙。
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酒の残り香。
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鹿の脂。
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燃え始めた草の匂い。
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火が、広がっていた。
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誰かが倒した薪に、乾いた草が触れたのだ。
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トリビックリクンが燃えていた。
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骨と貝殻が黒くなり、紐が切れて、崩れ落ちる。
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トリビックリママの皮にも火が移った。
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風を受けて、ぱたぱたと鳴っていた皮が、赤く縮んでいく。
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シンは、それを見た。
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なぜか、涙が出そうになった。
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こんなものまで。
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こんなくだらなくて、大事なものまで。
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壊される。
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壊されていく。
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集落は、音で満ちていた。
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悲鳴。
怒号。
泣き声。
木の折れる音。
土器の割れる音。
火の爆ぜる音。
フスンの声。
コトの声。
ユナの声。
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全部が一緒になって、何も分からなくなる。
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シンは、這った。
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ユナの方へ。
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一寸でも。
一呼吸でも。
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届かない。
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手が、何かに触れた。
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土だった。
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いや。
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ウロオボエ様土偶だった。
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倒れている。
灰をかぶっている。
片方の耳のような突起が欠けていた。
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それでも、胸の前で手を合わせていた。
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困った顔のまま。
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「……お前」
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シンは、血と土の混じった口で呟いた。
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「たぶんでいいから……何とかしろよ」
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土偶は答えない。
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当たり前だ。
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ただの土だ。
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弱い神だ。
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いや、神ですらない。
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俺の頭の奥の、頼りない何か。
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集落が笑って作った、変な形の記憶。
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それすらも、灰にまみれている。
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シンは、土偶を掴もうとした。
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指が届いた。
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その瞬間。
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視界の端で、ユナが見えた。
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彼女がこちらを見ていた。
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叫んでいる。
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何を言っているかは聞こえない。
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シン、と言っている気がした。
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逃げて、と言っている気もした。
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助けて、ではなかった。
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たぶん。
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たぶん、違った。
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シンは、立ち上がろうとした。
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今度こそ。
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今度こそ。
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頭に、衝撃が来た。
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音が消えた。
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火が横へ流れた。
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ユナの顔が遠くなった。
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コトの泣き声も。
フスンの声も。
タダの影も。
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全部、遠くなった。
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最後に見えたのは、火のそばに転がるウロオボエ様土偶だった。
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灰まみれで。
片耳を欠いて。
胸の前で、まだ手を合わせていた。
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たぶん。
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まだ、祈っているように見えた。
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煙の匂いがした。
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乾いた穂の匂い。
鹿の脂の匂い。
木の実の甘い匂い。
少し酸っぱい酒の残り香。
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フスンの鼻息。
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「近い」
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シンは、目を開ける前に言った。
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ふすん、と返事があった。
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シンは目を開けた。
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フスンの鼻先が、すぐそこにあった。
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その向こうに、コトがいた。
フスンの腹を枕にして、半分寝たままこちらを見ている。
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「シン、起きた」
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同じ声。
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同じ朝。
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同じ火。
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シンは、息を止めた。
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ゆっくりと火の方を見る。
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赤い火種。
灰。
穂の束。
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そして。
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火の近くの少し高い場所に、ウロオボエ様土偶が座っていた。
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耳は欠けていない。
灰にもまみれていない。
頼りない顔で、胸の前に手を合わせている。
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シンは、しばらくそれを見ていた。
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喉が震えた。
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「……お前が」
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声がかすれる。
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「セーブポイント面すんな」
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コトが首を傾げた。
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「せーぶ?」
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シンは答えなかった。
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答えられなかった。
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全身が震えていた。
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ユナの悲鳴が、まだ耳に残っている。
タダの血が、まだ目に焼きついている。
フスンの短い鳴き声が、まだ胸の奥で響いている。
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トリビックリクンが燃えていた。
トリビックリママが燃えていた。
土へ戻す粒が踏まれていた。
ユナの髪が掴まれていた。
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全部、覚えている。
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嫌になるほど、覚えている。
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火の向こうで、ユナがこちらを見た。
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髪は跳ねている。
昨日のまま。
何も知らない顔。
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「起きた?」
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声も、同じだった。
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シンは、何度も息を吸った。
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吐いた。
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それでも、喉の奥の震えは止まらない。
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祭りのあと。
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その朝は、もう二度と穏やかには見えなかった。
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(第十八話へ)




