光る君と最後の夜
第百四十八話 光る君と最後の夜
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奏状を運ぶ馬が、宿営地を出ていった。
顕家は見送った手を下ろすと、シンの前へ空の椀を突き出した。五月十五日の飯は、とうに冷めていた。
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「腹が減った!」
「書く前にも言ってたね」
「書いている間に、もっと減った!」
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鍋に残った粥を分けると、底が見えた。顕家は椀を覗き、一口すすってから、もう一方の椀へ戻しかけたシンの手を止めた。
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「お前の分まで取るか。食え」
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翌日には米袋が一つ減った。その次の宿では、脚を引きずる馬を置いた。直したはずの弓がまた折れ、替えを待つ兵が槍を持って列へ戻る。
西へ開けた街道から、海が見えた。シンが鼻を上げると、汗と馬の匂いに、塩辛い風が混じっていた。
石津へ通じる道を物見が報告した時、シンは荷縄を結ぶ手を止めた。顕家はこちらを一度見たが、何も聞かなかった。
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顕家が兵を集めたのは、その翌朝だった。
馬を下り、旗の前に立つ。シンは脇で白馬の手綱を持っていた。集まった者の間には、座り込んだままの兵もいる。隣の男が肩を貸そうとすると、顕家は手で止めた。
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「立たずとも聞こえる。私は声が大きいからな!」
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何人かが笑った。顕家はその顔を見渡した。欠けた兜。片方だけの籠手。布を巻いた足を土から浮かせ、腕で身体を支えている若い兵。
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「ここから先へ来いとは命じぬ。離れる者は、今、申し出よ」
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笑いが止んだ。南部師行は口を挟まず、顕家の横に立っていた。
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「怪我をした者も、馬を失った者も、家へ帰りたい者もだ。責めぬ。帰れる者は帰れ。生きて奥州へ戻れ」
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誰も動かなかった。白馬が鼻を鳴らし、シンの腕を引いた。その音で顔を上げた兵が、また足元を見た。
やがて、列の端から一人が出た。槍を杖にしていたが、傷は見えない。男は膝をつきかけ、途中で止めた。
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「俺は、帰りとうございます」
「うむ」
「子が……。まだ、顔を見ておりませぬ」
「では、見てこい」
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男の口が開いた。顕家は、その後ろで足を浮かせている若者を指した。
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「あれも連れていけるか。今すぐ北まで歩けとは言わぬ。まずは傷を休められる所へ」
「……はい」
「道で食う分を渡す。一人では行くな」
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二人目が出た。三人目は、寝かせてある兄を連れていきたいと言った。武具を外して置こうとする者へ、顕家は道中で要るから持てと告げた。
シンは米を小さな袋へ分けた。残りをすくう手が一度止まる。源次の村で、半分戻した米を受け取った手を思い出した。袋の口を縛り、男へ渡した。
離れる兵が頭を下げた。顕家は奥州へ持たせる短い文を預け、見えなくなるまで立っていた。
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「……さて。お前たちは?」
「殿をお連れして帰ります」
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南部が答えた。顕家が振り向くと、片眉を上げた。
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「置いて帰れば、奥州で叱られますのでな」
「私が迷子になるような言い方をするな!」
「すぐ先へお出になる」
「お前たちが遅いのだ!」
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槍の柄を握った兵が噴き出した。顕家も堪えず、大きく笑った。
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「ふははははっ! ならば、遅れず来い! 帰りは私が先に着くぞ!」
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シンは白馬を寄せた。鐙へ足を掛けた顕家が顔をしかめ、差し出した手を掴む。乗り終えると、もう残った兵へ声を張っていた。
道の向こうでは、離れた男が傷人の肩を背負い直していた。こちらを振り返らず、歩いていった。
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吉野では、奏状が後醍醐の前に広げられていた。
紙の端が巻き戻ろうとする。帝は指を置き、続きを読んだ。側に控える近臣は、顔色を窺ったまま動かなかった。
民を休ませよと書いた筆は、恩賞について記す所でも乱れていない。帝は途中で一度止まり、読み終えた箇所へ目を戻した。
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「……顕家は、今どこにいる」
「和泉の方へ進んでおります」
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帝は紙から指を離さなかった。近臣が何か言いかけたが、その先を読む目を見て口を閉じた。
外で、人の足音が行き交った。帝は最後の行まで読み、初めの紙をもう一度、手前へ引いた。
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伊勢で親房が聞いたのは、奏状の数条のあらましだった。
使者は全文を持っていなかった。租税を軽くすること、民を休ませること、官位と人の用い方を正すこと。聞き伝えた範囲を慎重に述べる間、親房は膝に置いた手を動かさなかった。
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「……あれが、自分で言ったか」
「顕家卿が御自身で記され、差し出されたと」
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親房は頷いた。使者を休ませ、人を下がらせてから、紙を引き寄せた。
顕家へ命じることなら、幾つでも書けた。筆を下ろしかけ、止める。墨の先が紙へ触れ、小さな染みになった。
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「遅いな」
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新しい紙へ替えた。初めに、ヒカルと書いた。
その下へ続ける言葉は短かった。
生きよ。
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京の尊氏は、高師直から届いた報せを、膝の上で畳んだ。
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「本当に、よく走るなあ」
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使いの者が頭を下げていた。尊氏は、顕家の残る兵と馬の数をもう一度聞いた。答えを聞くと、畳んだ文を開き直した。
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「殺さずに済まないものかな」
「なお、お味方に戦を挑む構えにございます」
「うん。そうか」
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庭を風が通った。尊氏はそちらを見ていたが、使者が返答を待っていると気づくと、文を脇へ置いた。
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「……でも、止めないとね。師直に、そのまま進めと伝えてくれ」
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使者が退出した後も、尊氏は座っていた。開いたままの文の端が、風で鳴った。
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五月二十一日、夜。
シンが水を持って戻ると、ヒカルは小屋の壁へ背を預けていた。南部との話を終え、ようやく鎧を外したところだった。戸口の脇に具足が並び、その奥に二人が座るだけの筵が敷いてある。
小さな灯が、頬に残る汗を照らしていた。屋根の隙間から海風が入り、火が低くなる。外では馬が地を掻いた。誰かが武具を置く音の後、兵の寝息が聞こえてきた。
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「水、ここに置くよ」
「シン。お前は、何を知っておる」
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器の底が板に当たった。シンは手を離さず、ヒカルを見た。
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「敵の来る所を、来る前に知っていた。伊賀でも、般若坂でも。モモはもっと知っておった」
「……うん」
「石津と聞くたびに、その顔をする。明日、何がある」
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シンは戸口を見た。垂らした布の下を風が通り、足首に触れた。逃げられる方を探すように目を逸らした自分に気づき、ヒカルの正面へ座り直した。
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「長くなる」
「聞く」
「信じられないと思う」
「それは私が聞いて決める」
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シンは頷いた。膝の上で手を組んだが、指が落ち着かなかった。
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「俺、この時代だけで生きてきたんじゃない。もっと昔の、幾つもの時代を渡ってきた」
「昔?」
「平泉があった頃も。その、もっと前も。どうして俺なのかは、分からない」
「走湯で聞いた名も、そこで知ったのか」
「……うん。会った人の名前だった」
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ヒカルは口を結んだ。笑い飛ばさず、続きを待った。シンは組んだ手をほどき、片方の掌を筵へ押しつけた。
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「死ぬと、同じ時代の少し前へ戻ることがある。傷がなくなって、死ぬ前の朝にいる。周りの人は、その先に何があったか知らない」
「お前だけが、覚えておるのか」
「モモも、記録を持ってた。俺が死んで終わった方を、全部」
「それで、敵が来る所を……」
「でも、避けたら別の所で来た。毎回同じじゃなかった」
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矢が喉へ入った時の感触が戻った。シンは唾を飲もうとして、咳き込んだ。ヒカルが水を押し寄せる。受け取ると、指に彼女の指が触れた。
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「何度だ」
「この時代で、八度」
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ヒカルの指が器から離れた。すぐには膝へ戻らず、二人の間で止まっていた。
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「一つの時代で戻れるのは、八度までらしい。今は、九つ目の生なんだ」
「次は」
「死んでも、ここには戻れない。ヒカルの前から、いなくなる」
「なぜ、そんな顔で言う!」
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シンは口元を押さえた。笑おうとしていた。何でもない話にできれば、ヒカルの目を見て続きを言えると思った。
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「怖いんだ。何度死んでも、慣れない」
「……続けよ」
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声は低くなったが、ヒカルは目を逸らさなかった。
シンは神託のことを話した。正しい命令の先で、自分だけが死ぬ所へ置かれたこと。モモがそれを追い、般若坂で声を切ろうとしたこと。
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「俺を守ろうとしたんだ。でも、切った後で、モモの方が白いモモへ引き戻された」
「私の声を、あいつが止めたのか」
「うん。全部の仕組みは、俺にも分からない。あの後、モモは俺を殺しかけた」
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白い袖。泥と血の残った裾。桃の飾りを揺らし、真っすぐに来たフツ。シンは自分の喉へ手を上げた。
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「ここで止まった。左手で、自分の右手を掴んでた。『不同意』って、一度だけ言って。俺を斬らずに、林へ消えた」
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ヒカルはその手を見ていた。シンが下ろすまで、何も言わなかった。
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「だから、探すのだな」
「うん。見つけたい」
「……明日のことは」
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シンは息を吸った。これだけを避けたまま、朝にすることはできなかった。
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「前に、モモから聞いた。延元三年五月二十二日、石津で北畠顕家が死ぬって」
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ヒカルの目が大きくなった。次の瞬間、胸元を掴まれた。
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「お前、それを知っておって、ここまで来たのか!」
「……うん」
「なぜ言わなかった!」
「俺が決めていいことじゃないと思った」
「言うのと、決めるのは違う!」
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衣が引かれた。シンは逃げず、その手を見た。奏状を書いた夜、震えていた指だった。
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「そうだね。……ごめん。俺が何とかして、言わずに済ませたいと思ってた。言ったら、今ここにいるヒカルまで遠くなる気がして」
「勝手に、私を死んだ者のように扱うな!」
「うん」
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ヒカルはもう一度、衣を引いた。それから口を開き、声を出さずに閉じた。掴んでいる手の力が、急に弱くなった。
遠くで馬が鳴いた。ヒカルはそちらへ顔を向けかけ、途中で止めた。
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「……私は、明日死ぬのか」
「分からない」
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シンの衣を握る指が震えた。ヒカルはそれを隠すように握り直したが、肩まで揺れた。唇を噛んだまま、息だけを何度か吐いた。
シンは背へ手を回した。引き寄せると、ヒカルの身体が固くなった。腕を緩めかけたところで、額が肩へ当たった。
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「まだ、帰っておらぬ」
「うん」
「国継の子にも、会っておらぬ」
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声が衣にくぐもった。シンは頷き、背を支えた。肩口が温かく濡れたが、顔を覗こうとはしなかった。
しばらくして、ヒカルの手が胸元を離れた。両腕がシンの背へ回る。きつく掴まれて、息が一つ詰まった。
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「……それは、決まったことなのか」
「まだ起きてない。俺たちが変えたこともある。でも、明日どうなるかは、分からない」
「ならば、明日までしかないと決まったのではないな」
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ヒカルが顔を上げた。目は赤かった。鼻をすすり、シンの襟を握ったまま、こちらを睨んだ。
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「モモの知る先で、明日、私が死んだことがある。そういうことだろう。それを、今の私への命令にするな」
「……しない」
「私は、生きる方へ走る」
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ヒカルは膝を動かし、痛みに眉を寄せた。それでも顔を上げていた。
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「父上へ言うことが山ほどある。小萩の飯も食う。国継の家へ行って、奥州で暮らす。まだ何一つ、済んでおらぬ!」
「うん」
「それでも届かぬなら、その時に考える。今から立ち止まるのは御免だ。……お前は?」
「一緒に走る」
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シンは背へ回した腕に力を込めた。見ているだけで手が届く所ではなかった。明日は自分も、その道を行く。
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「最後まで、そばで見てる。置いていかれないようにする」
「当然だ。帰り道もあるのだからな」
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ヒカルが笑おうとした。息が引っかかり、変な声になった。腹を立てた顔で目を拭うので、シンもつられて笑った。
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「笑うな!」
「ヒカルも笑った」
「私はよい!」
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離れようと思えば離れられた。けれど、背中の腕はほどけなかった。
シンはヒカルの頬へ触れた。涙の跡を親指で拭い、耳に掛かる髪をよける。ヒカルの目が指を追い、それからシンへ戻った。
こちらの頬にも手が触れた。顎の辺りで迷い、指先が傷のない所を探した。シンが顔を寄せると、ヒカルも同じだけ近づいた。
唇が触れた。
息を止めていたと気づいたのは、離れてからだった。ヒカルが間近で瞬きをした。シンは何か言おうとしたが、名前さえうまく出なかった。
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「……何か言え」
「今、考えてる」
「遅い」
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襟を引かれた。今度はヒカルが顔を上げて、口づけた。
シンはその背と腰を抱いた。衣越しに、息を吸う身体の動きが伝わる。肩を押さえた手に古い傷が当たり、力を緩めると、ヒカルの指が背へ食い込んだ。
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「離せとは、言っておらぬ」
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シンは頷き、もう一度抱き寄せた。ヒカルは目を閉じ、額を頬へ押しつけた。控えめな香と女性の匂いがした。その間で聞く息が、どうしても手放したくないほど近かった。
モモの声も、消えてはいなかった。喉元で刃を止めた手を、探しに行く。それをやめる約束はできない。けれど、今この腕をほどいて離れたいとも思わなかった。
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「モモを見つけたら、知らせよ」
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ヒカルは胸へ額を預けたまま言った。返事を待つ指が、衣の縫い目をつまんでいた。
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「うん」
「私は奥州におる。勝手に、いなくなったことにするな」
「しない。……会いに行く」
「来い」
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顔を上げたヒカルへ、シンは頬を寄せた。ヒカルも逃げなかった。二人の鼻がぶつかり、今度は同時に笑った。
戸口の外で夜番が交代した。二人は口を閉じ、その足音を聞いた。ヒカルの赤い顔を誰かに見られたら、明日の朝まで怒られそうだった。
シンは手を伸ばして畳んであった布を引き、二人の足へ掛けた。壁に背を寄せると、ヒカルが隣へずれた。衣の袖を直し、傷めた脚を伸ばして、シンの胸へ頭を置いた。
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「ここで寝るの?」
「不服か」
「全然。脚、痛くない?」
「今はよい」
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シンはその背へ腕を回した。空いた手に、ヒカルの手が重なった。灯を消そうとしたが、指を握られ、やめた。
小さな火が、目の縁を照らしている。涙はもう乾いていた。髪に光が移り、ヒカルが顔を動かすと、また頬へ戻った。
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「いい名前だね。ヒカルって」
「急に何だ」
「今、そう思った」
「私を産んだ母が、そう呼んだそうだ」
「……うん。親房殿に聞いた」
「父上が?」
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ヒカルが身体を起こしかけた。シンは頷いた。伊勢で言われたことを全部、今ここへ持ってくるつもりはなかった。名を残した母のことだけを、短く伝えた。
ヒカルは灯を見た。握っていた手の指を一本ずつ動かし、シンの指の間へ入れた。
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「似合うか」
「うん。光る君、って感じ」
「何だ、その雑な言い方は」
「うまく言えないけど。ヒカルを見ると、そっちへ行きたくなる」
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言ってから、シンは目を逸らした。ヒカルの耳が赤くなった。しばらくこちらを見て、それから得意そうに顎を上げた。
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「見る目はあるな」
「はい」
「ならば、よく見ておれ。置いていかれても知らぬぞ」
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大声にはならなかった。ヒカルはまた胸へ頭を戻した。シンが布を肩まで引き上げると、その下で指が握り返された。
灯を吹き消した後も、しばらく二人とも眠れなかった。ヒカルが小さく身じろぎするたび、シンも目を開けた。
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「シン」
「うん?」
「朝、起こせよ」
「起きられたら」
「起きろ!」
「声、大きいって」
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胸元で笑いが震えた。シンは重なる手を握り直し、壁へ頭を預けた。やがてヒカルの息が長くなった。確かめるように一度見下ろし、自分も目を閉じた。
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五月二十二日。先に起きたのはヒカルだった。
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「起きろと言ったであろう!」
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シンは肩を揺すられ、目を開けた。首が痛かった。ヒカルも腰を押さえていたが、口にすると怒られそうなので、水を渡した。
外はもう明るかった。シンが布を畳んでいる間に、ヒカルは髪を整えた。襟を合わせ、差し出された帯を受け取る。
シンは腰へ回し、一度で結んだ。ヒカルが下を向き、指で結び目を確かめた。
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「上手くなったではないか」
「この七日、毎朝怒られたからね」
「教えがよいのだ」
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シンが襟の端を直すと、ヒカルの顎に指が触れた。昨夜の口づけが戻り、手が止まった。ヒカルもこちらを見て、さっと赤くなった。
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「手を止めるな!」
「はい」
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鎧の紐を締め、烏帽子を整える。戸口の布を上げると、海風が一度に入った。
外では南部師行が待っていた。残った奥州兵が槍を立てる。白馬の息がシンの掌へ掛かった。北畠の旗が、継いだ箇所から大きく膨らんだ。
顕家は鞍へ手を置き、馬に乗った。脚を収め、軍扇を取る。顔を上げたが、空は見なかった。
シンを見た。
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「行くぞ、シン!」
「うん!」
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シンは馬の脇へついた。顕家が軍扇を高く掲げた。
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「北畠顕家、参るぞ!」
「ふははははっ!」
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笑い声に、兵の鬨が重なった。白馬が踏み出す。シンも走った。
海風の向こうで、敵の旗が動いていた。
その先に、石津があった。
(第百四十九話へ)




