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Born to Run

第百四十九話 Born to Run


⸻


 白馬が駆けた。


 軍扇が下り、北畠の旗が前へ傾く。海風に押された鬨の声を、馬蹄が追い越した。シンの頭上を矢が飛んだ。


⸻


「下がるな! 楯の後ろへ入れ!」


⸻


 顕家の声だった。


 シンは隣の兵と肩をぶつけながら、立てられた楯の後ろへ飛び込んだ。木を叩く音が続く。一枚の楯へ三本刺さり、四本目が縁を削った。


 前には細川勢がいた。川沿いの道を塞ぎ、その脇の畑にも兵を広げている。道をまっすぐ進めば、正面と横から矢を浴びる。


 顕家は白馬を止めた。畑から走ってくる敵と、道に残った敵を見比べる。畑の兵は、足元の溝を越えるたびに列を乱していた。


⸻


「伊達、道を押さえよ! 南部は畑へ回れ。まだ当たるな!」


⸻


 伊達行朝が歩兵を道へ並べた。南部師行の騎馬は、前へ出ずに横へ走る。細川の兵がそれを追い、畑の中で槍の向きを変えた。


 敵の先頭だけが溝を越えた。後ろの兵はまだ、細い畦へ詰まっている。


 顕家が軍扇を振った。


⸻


「今だ! 南部、先の者だけを押し戻せ!」


⸻


 南部師行の馬が向きを変えた。騎馬が横一列に広がり、溝を越えたばかりの敵へぶつかる。敵は槍を揃えられず、後ろへ下がった。


 そこには、まだ渡ってくる味方がいる。前から押された兵と、前へ出たい兵が溝際で重なった。弓を引く場所もない。南部勢は深追いせず、馬を返してもう一度横へ回った。


⸻


「道が空くぞ! 伊達、押せ!」


⸻


 伊達行朝の兵が進んだ。畑の味方を助けようと横を向いていた敵へ、楯ごと当たる。道の中央にあった敵旗が揺れた。


 シンも走った。楯を運ぶ兵の背中が近い。足を止めればぶつかる。速すぎれば楯の外へ出る。


 矢が土を抉った。怖かった。それでも前の背中についていった。


 倒れた伝令が道の端で手を上げていた。足首が妙な向きになっている。シンはその腕を取り、隣の兵を呼んだ。二人で溝の陰へ引きずる。


⸻


「南部殿へ……道の兵が、出たと」


「分かった。ここにいて」


「足が、動かん」


「動かさなくていい。戻ってくるから」


⸻


 シンは立った。南部の旗は畑の向こうにある。剣を抜く代わりに両手を口へ当て、走りながら伝令の言葉を叫んだ。


 師行がこちらを見た。短く頷き、槍を高く上げる。


 南部勢が崩れた畑の兵を迂回した。今度は道を守る敵の横へ出る。


 正面には伊達。横には南部。


 細川勢は二つの方向から押された。


 敵旗が下がった。


⸻


「通った!」


⸻


 誰かが叫んだ。


 さっきまで槍で埋まっていた道に、向こうの土が見える。


 顕家はその道へ馬を入れた。


⸻


「ふははははっ! よし、よくやった!」


「追いますか!」


「追う! だが一人で行くな。まとまって押せ!」


⸻


 白と金の背が、シンの前を通った。今朝、シンが結んだ帯は曲がっていない。鎧の裾が跳ね、その下で傷めた脚が鐙を踏んでいる。


 笑っていた。


 昨夜、明日が怖いと言った人が、誰より大きな声で兵を進ませていた。


⸻


「シン! 何を見ておる!」


「見てない! 走ってる!」


「なら遅れるな!」


⸻


 シンは走った。


 後ろでは、さっき呼んだ兵が仲間を連れて伝令を担ぎ上げていた。溝の陰が空になるのを見て、ようやく前へ顔を戻せた。


 少なくとも、あの男はここから運び出せた。


⸻


 最初の敵陣を抜いても、顕家は馬を走らせ続けなかった。


 水を回させ、乱れた組をまとめ直す。矢を使い切った者には、退いた敵が残した矢束を運ばせた。折れた槍を抱えた兵には楯を持たせる。


 シンは水筒を受け取り、息を切らした兵へ渡した。男は一口だけ飲み、隣へ回した。朝には青かった顔が、今は泥だらけで笑っている。


⸻


「勝てるぞ」


⸻


 男が言った。


 シンは、すぐには頷かなかった。まだ敵旗は多い。だが、こちらの旗は進んでいた。


 般若坂からずっと後ろへ追いやられていた旗が、今日は前へ出ている。


⸻


「殿。細川が、川の曲がりへ兵を寄せております」


⸻


 行朝が馬を寄せた。顕家は敵陣を見た。川に守られた側は固い。反対の畑では、退いてきた兵と新しく並ぶ兵が入り交じっている。


⸻


「川へ追い落とそうとするな。あれではこちらも詰まる」


「では、畑から」


「うむ。伊達の旗を道に残せ。南部は私と来い」


⸻


 白馬が道を外れた。師行が続く。


 敵は道に残った伊達の旗へ弓を向けている。その横を北畠の騎馬が畦に沿って進んだ。溝の深い所を避け、乾いた土の上だけを選ぶ。


 敵の旗と旗の間が広い。畑から戻った兵が、その隙間を通って奥へ逃げている。


 そこへ白馬が迫った。


⸻


「南部! 私の横を空けるな!」


「心得ております!」


⸻


 二つの騎馬の組が並んで入った。逃げる兵に道を塞がれ、敵の槍が間に合わない。師行の兵が押し込み、顕家が開いた場所へ後続を通した。


 細川の旗が、また下がった。


 シンの横で旗持ちが転んだ。倒れかけた旗竿をシンが受け止める。海風が布を引き、腕まで持っていかれそうになる。


⸻


「持って!」


⸻


 旗持ちが下から支えた。二人で竿を立て直し、そのまま走った。


 旗が揚がると、後ろの兵がこちらへ集まってくる。


 その先で、顕家が振り返った。


⸻


「よいぞ! その旗を見せてやれ!」


⸻


 シンは竿を押し上げた。腕が痛い。それでも笑った。


 敵が退いていく。


 北畠顕家は、勝っていた。


⸻


⸻


 昼を過ぎた。


 朝には敵陣だった場所で、奥州兵が水を飲んでいた。奪った楯を並べ、矢を分けている。負傷者を運ぶ道もできた。


 シンは小さな飯の塊を二つに割った。片方を差し出すと、馬上の顕家が身を屈めて取った。


⸻


「砂がついておる」


「落としてないよ。手についてたんだ」


「同じであろう」


⸻


 文句を言いながら、顕家は食べた。


 白馬の首には汗が光っている。


 まだ生きている。


 五月二十二日の昼を過ぎても、この手で飯を食べ、同じように文句を言っている。


⸻


「どうした。お前の分まで食った覚えはないぞ」


「うん」


「うん、では分からぬ」


⸻


 近くの兵が去ったところで、シンは顔を上げた。


⸻


「変わったかもしれない」


⸻


 ヒカルは一度だけ黙り、わざと顎を突き出した。


⸻


「何だ。死ぬ日というから、もっと恐ろしい所かと思ったぞ」


「まだ終わってない」


「分かっておる! だから飯を食っておるのだ!」


⸻


 指についた米粒まで食べ、高く笑った。近くの兵も振り向いて笑う。


 シンにも、まだ行けると思えた。


 昨夜、同じ布を掛けて眠った。朝には帯を結び、うまくなったと褒められた。


 その続きが、明日もあるかもしれない。


 石津を抜けて、傷を治して、奥州へ帰る。国継の家へ行く。小萩に二人まとめて叱られる。タダの飯を腹が苦しくなるまで食べる。


 そして、モモを探す。


⸻


「帰ったら、もっと柔らかい飯にしてもらおう」


「鮭もだ」


「それは頼んで」


「任せよ。将軍の頼みだぞ」


「小萩には効かないだろ」


「……あれには効かぬ」


⸻


 二人で笑った。


 伝令の声が飛んだ。


⸻


「細川勢、さらに退いております!」


⸻


 行朝と師行が戻り、敵の退いた先を指す。川沿いの道からも、畑からも、足利の旗が下がっていた。


 兵の一人が拳を上げた。


⸻


「勝ったぞ!」


⸻


 声が広がった。


 シンはその向こうを見た。


 陸側の低い丘の前に、一か所だけ旗が残っていた。周りの兵が退いても動かない。逃げてきた兵を、その旗の下にいる者たちが左右へ振り分けている。


⸻


「あそこだけ、下がってない」


⸻


 顕家が目を細めた。


⸻


「……師直か」


⸻


 高師直の陣だった。


 川沿いを退いた敵が、そこへ寄ろうとしている。顕家は軍扇を開いた。敵が集まる前に押し崩せば、戦場の向こうまで道が通る。


⸻


「伊達は後ろを守れ。南部、あの陣を抜くぞ!」


「丘の向こうは、まだ見切れておりませぬ」


「物見をもう一人出せ。林から目を離すな」


⸻


 顕家は兵の列を見渡した。


⸻


「急くな! 勝った顔をするのは、帰ってからだ!」


⸻


 兵が笑った。


 白馬が進む。


 あと一つ。


 あの旗を退かせれば、本当に帰れる。


⸻


⸻


 高師直の前へ、折れた矢が転がってきた。


 楯の列が押されている。北畠の騎馬が近い。白馬の上で軍扇が動くたび、守りの薄い場所へ敵が寄ってくる。


⸻


「師直殿、ここも持ちませぬ!」


「分かっておる」


⸻


 師直は馬を動かさなかった。


 次の矢が、馬のすぐ前へ刺さった。


 白馬を見る。


 兵は減っている。馬も疲れている。それでも、こちらが一歩空ければ必ずそこへ入ってくる。


 般若坂から何度も追い詰めた。補給を断った。水場を押さえた。休ませず追った。合流も潰した。


 それでも、ここまで来た。


 今、自分の陣そのものを落とそうとしている。


 師直は息を吐いた。


⸻


「……負けだな」


⸻


 傍らの武者が聞き返した。


⸻


「は?」


「このままなら、俺の負けだ」


⸻


 師直は笑わなかった。


⸻


「あれは強い。兵も、もう大して残っておらんのにな」


⸻


 白馬がまた近づいた。


 師直は刀の柄へ手を置いた。


 そして、京を発つ前のことを思い出した。


⸻


⸻


 尊氏は庭を見ながら、菓子を一つ割っていた。


 師直の前には、巻かれた紙が置かれている。


⸻


「兵を少し、貸すよ」


「どこの兵です」


「うちの」


「それでは分かりませぬ」


⸻


 尊氏は困ったように笑った。


⸻


「骨喰衆」


⸻


 師直の手が止まった。


 知らない兵ではない。


 むしろ、足利に長く仕える者なら、知らぬ方がおかしかった。


 尊氏が若い頃から、戦場で拾い上げてきた者たちだった。


 家柄で選んだのではない。


 馬から落ちても戻ってくる者。

 味方が崩れても列を捨てぬ者。

 敗走の最中に後ろを見られる者。

 勝っている時ほど深追いをせぬ者。


 そういう武者を、尊氏は一人ずつ覚えていた。


 足利の軍が大きくなるたび、兵は増えた。


 だが骨喰衆だけは増やし過ぎなかった。


 尊氏自身が使い方を知る兵だけを残した。


 箱根でもいた。


 京を追われた時もいた。


 九州まで落ちた時にも、最後まで尊氏のそばにいた。


 負けて、逃げて、兵が散り、旗が減っても――最後まで散らないよう、尊氏がずっと手元に残してきた兵だった。


 師直自身、その背中に助けられたことが一度や二度ではない。


 尊氏が戦を嫌そうな顔で語る時も。


 もうやめたいと言う時も。


 戦わなければならなくなった時に、最後に抜く刃だけは、昔から研いであった。


⸻


「なぜ、あれを」


「顕家が来るから」


「来るのは分かっております」


「うん。でも、君の旗まで来るよ」


⸻


 師直は尊氏を見た。


 尊氏は割った菓子の片方を口へ入れた。


⸻


「勝てると思ったら、あの子は来る。君の旗を見たら、なおさらね」


「その時に出せと」


「それより前は駄目」


「理由は」


「逃げている時の北畠は捕まらないよ」


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 尊氏はもう片方も口へ入れた。


⸻


「勝つ時なら、前へ出るから」


⸻


 師直は黙った。


⸻


「骨喰は、殿の切り札でしょう」


「うん」


「私に預けてよいのですか」


「師直なら、使うところを間違えないだろ」


⸻


 尊氏はあっさり言った。


 師直は眉を寄せた。


⸻


「私が使うところを、もう決めておられるではないですか」


「そうだったかな」


⸻


 尊氏は笑った。


⸻


「師直が負けそうになるまで、使わなくていいよ」


⸻


⸻


 石津。


 白馬が見える。


 軍扇が上がった。


 まっすぐ、自分の旗へ来ている。


 師直は目を細めた。


 自分は顕家の兵糧を削った。

 水を奪った。

 眠らせなかった。

 仲間と切り離した。


 それでも負ける。


 だが尊氏は、その負ける場所まで使っていた。


 顕家が最も強くなる瞬間。


 勝ったと思い、自分から一番深く入ってくる瞬間。


 そこまで待っていた。


 師直は、一度だけ目を閉じた。


⸻


「……やはり、殿には勝てぬな」


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 目を開ける。


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「骨喰衆を出せ」


⸻


 傍らの武者が息を呑んだ。


⸻


「全部、ですか」


「全部だ。北畠の後ろへ入れ。退路を断て」


⸻


 使いが丘の裏へ走った。


 朝から一度も戦っていない騎馬がいた。


 だが、隠れていたわけではない。


 師直の軍とともにここまで来て、陣を作り、馬へ水を飲ませ、武具を手入れし、それでも一度も前へ出されなかった者たちだった。


 周囲の兵が戦う間も待った。


 細川勢が押されても待った。


 師直の陣へ矢が届いても待った。


 尊氏から預けられた時に命じられた通り、ただ最後まで力を残していた。


 鎧は揃っていない。


 年も違う。


 若者ばかりでもない。


 それでも馬へ乗った時の動きだけは、一つだった。


 何人かの手首には、細い白縄が巻かれている。


 使いが一言だけ告げた。


⸻


「出よ」


⸻


 男たちは同時に動いた。


 足利二つ引両の旗が起きる。


 骨喰衆が走り出した。


⸻


⸻


 シンは、横から来た馬蹄の音を聞いた。


 振り向くと、林の端から騎馬が続けて出てくる。次々に足利の旗が立った。


 朝から戦っていた馬とは、速さが違った。


⸻


「横だ! 陸の方から来る!」


⸻


 叫んだ時には、後ろの列へ矢が落ちていた。


 伊達の兵が楯を回す。


 だが騎馬はそこへ突っ込まず、楯の前を擦るように走り、さらに奥へ回った。


 そのまま南部勢の側面へ入る。


 師行が馬を返した。


⸻


「南部、向きを変えよ! 槍を――」


⸻


 言い終わる前に、最初の騎馬が接触した。


 速かった。


 一騎が槍先を払えば、その脇を二騎目が抜ける。二騎目へ向いた兵の背へ、三騎目が入る。


 南部勢は疲れ切っていた。


 朝から何度も走り、細川勢を押し、顕家の横を守り続けている。


 馬も人も、一度向きを変えるだけで遅れた。


 骨喰衆は、その遅れだけを狙った。


 人を追い回さない。


 旗を落とす。

 組頭を分ける。

 馬を止める。

 隣の兵と兵の間を切る。


 ひとつの列が崩れる前に、その次の列へ入った。


 強いというより、崩し方を知っていた。


 南部の騎馬が一列、消えた。


 師行が槍を振る。一人を落とし、二人目の馬を逸らす。


 三人目が、その横を抜けた。


⸻


「旗を下げるな! 寄れ! 南部の者は私の旗へ寄れ!」


⸻


 師行が叫んだ。


 散った兵が戻ろうとする。


 その間へ骨喰衆が入った。


 二騎が旗持ちへ行く。

 一騎が師行を止める。

 後ろの三騎が、戻ろうとした兵をもう一度分けた。


 南部勢は弱くなかった。


 朝から細川勢を何度も押し返した軍だった。


 だからこそ、もう限界まで戦っていた。


 骨喰衆は、その最後の一息へ新しい馬で入った。


 数呼吸だった。


 さっきまで一つだった南部勢が、三つに割れた。


 次の数呼吸で、その三つも互いを見失った。


⸻


「師行!」


⸻


 顕家が叫んだ。


 師行が振り向いた。


 遠かった。


 その間に、骨喰衆がいる。


 師行は一瞬だけ顕家を見た。


 それから槍を返した。


 逃げてくる味方を一人、自分の後ろへ通す。


 もう一人を通す。


 そのために、前へ出た。


 骨喰衆が三騎並んだ。


 師行も馬を出した。


 槍がぶつかった。


 南部の旗が大きく揺れた。


 敵の旗が重なる。


 次に風が吹いた時、南部の旗は見えなかった。


⸻


「南部殿!」


⸻


 走ってきた兵が叫んだ。肩から血を流している。


⸻


「南部勢、持ちませぬ! 師行殿も――!」


⸻


 最後まで言えなかった。


 顕家の軍扇が止まった。


 シンは、さっきまで師行の旗があった場所を見た。


 足利二つ引両しかない。


 骨喰衆は止まらなかった。


 師行を倒したことさえ確かめない。


 そのまま向きを変え、伊達勢と顕家の間へ回り込んでいく。


 南部師行は戻らなかった。


 顕家が唇を噛む。白馬の首が一度、そちらへ向いた。


 だが、自分で引き戻した。


⸻


「……師行が開けた道を、閉じさせるな!」


⸻


 声が戻った。


⸻


「伊達! 兵をまとめよ! 傷人を先へ通せ!」


⸻


 行朝の旗が動く。細道へ負傷兵を集め、戦える兵が外へ回った。


 シンは朝、溝の陰へ運んだ伝令を見つけた。足首には布が巻かれ、別の兵に肩を貸されている。


⸻


「戻ってきたろ」


⸻


 男は頷いた。


 シンは馬を引く兵を呼び、男を背へ乗せた。


 行朝の旗へ向かって、人が流れ始める。


⸻


「殿! お早く!」


⸻


 行朝が叫んだ。


 顕家もそちらへ進もうとした。


 骨喰衆がまた回った。


 追うのではない。


 顕家と細道の間だけを切る。


 顕家が右へ行けば、先に右へ回る。

 戻ろうとすれば、戻る道へ旗が出る。


 師直の戦い方とは違った。


 もっと近い。


 人が何をするかではなく、顕家という一人の武将がどう動くかを知っているようだった。


 シンは、その意味に気づいた。


 師直だけではない。


 もっと前から、ヒカルを見ていた人間がいる。


⸻


「……尊氏」


⸻


 顕家も同じ名を口にした。


 軍扇を握り直す。


⸻


「伊達、行け!」


「しかし、殿が!」


「兵を戻すな! そちらまで囲まれる!」


⸻


 行朝の後ろには、傷人を乗せた馬がいた。


 顕家はその列を指した。


⸻


「奥州へ帰せ! 私も後から追う!」


⸻


 行朝が深く頭を下げ、馬を返す。


⸻


「遅れた者を拾え! 伊達の旗についてこい!」


⸻


 歩ける者が歩けない者を支え、細道を上っていく。


 骨喰衆の一部が追おうとする。


 その前へ、南部の残兵が入った。


 師行の旗はない。


 それでも槍を並べた。


⸻


「南部の者か!」


⸻


 顕家が叫ぶ。


⸻


「おります!」


⸻


 返事がした。


 それが、最後だった。


 骨喰衆がぶつかった。


 槍列が揺れた。


 一度。


 二度。


 三度目には、伊達の旗との間に足利の旗が何本も立っていた。


 行朝たちは坂の向こうへ消えた。


 顕家は追わなかった。


 戻せば全員が囲まれる。


 軍扇を前へ向けた。


⸻


「川へ下りる! 道を塞がれたなら、その下を行くぞ!」


⸻


 残った兵が返事をした。


 その数は、もう声を張らなくても聞き分けられた。


⸻


 川岸の道は細かった。


 上の道から敵が追ってくる。顕家は残った弓兵を土手へ向け、先頭だけを射させた。その間に歩けない兵を馬へ移す。


 シンが振り向いた。


 旗は数本しかない。


 朝には声を張らなければ聞こえなかった馬蹄が、今は一頭ずつ聞き分けられた。


 少し前まで、勝っていた。


 本当に勝てると思った。


 今日を越えられると思った。


 その景色が、ほんのわずかな時間でなくなっていた。


 シンは振り返った。


 師行はいない。


 南部の旗もない。


 伊達の旗だけが、ずっと遠くへ進んでいる。


 敵旗は増えていた。


 どう数えても、どう見ても、もう戦をひっくり返せる数ではなかった。


 初めて、ヒカルが何も言わなくなった。


 白馬の上で前を見たまま、軍扇を膝へ下ろしている。


 シンは隣まで走った。


⸻


「ヒカル」


⸻


 返事がなかった。


 もう一度呼ぼうとした時、ヒカルが小さく息を吐いた。


⸻


「……負けたな」


⸻


 シンは答えられなかった。


⸻


「なあ、シン。これは、負けたのであろう」


⸻


 声は、いつもの大将軍の声ではなかった。


 昨夜のヒカルの声だった。


⸻


「……うん」


⸻


 言うと、胸の中に残っていたものが落ちた。


 勝てるかもしれない。


 歴史を変えたかもしれない。


 明日も続くかもしれない。


 ずっと握っていたものが、なくなった。


 ヒカルは前を見ていた。


⸻


「悔しいな」


「うん」


「師行も死んだ」


「うん」


「兵も、ほとんどいなくなった」


「……うん」


⸻


 ヒカルが鼻をすすった。


 泣いたのかと思った。


 だが次に出たのは、短い笑いだった。


⸻


「何だ。負けるというのは、もっと特別なものかと思っておった」


⸻


 シンは顔を上げた。


⸻


「腹が立つし、悔しいし、怖い。だが――まだ脚がある」


⸻


 ヒカルが鐙から片足を少し上げた。


 痛んだのか、すぐ顔をしかめる。


⸻


「痛いけどね」


「うるさい!」


⸻


 今度は、ちゃんと笑った。


 シンも笑った。


 負けた。


 それでも笑えた。


 それが、少し不思議だった。


 ヒカルは軍扇をもう一度上げた。


⸻


「勝てぬなら、勝たずに帰ればよい」


⸻


 残った兵が顔を上げた。


⸻


「殿?」


「私は勝って帰ると言った。だが、間違えた!」


⸻


 ヒカルは振り返った。


⸻


「負けたから帰ってはならぬなどと、誰が決めた!」


⸻


 誰も答えなかった。


 ヒカルは自分で答えた。


⸻


「私は知らぬ!」


⸻


 高く笑った。


⸻


「ふははははっ! なら、帰るぞ!」


⸻


 少ない声が返った。


 それでも鬨になった。


 シンは、その声を聞いた。


 昨日までなら、歴史を変えなければと思っていた。


 石津で顕家を死なせなければ、未来が変わる。


 正しい未来を作らなければ。


 だが今は違った。


 勝った未来でなくてもいい。


 史書に書かれたものと違わなくてもいい。


 あと一歩。


 あと一息。


 この人と生きている時間を、前へ運びたかった。


 ヒカルがこちらを見た。


⸻


「シン」


「何?」


「まだ走れるか」


⸻


 シンは自分の脚を見た。


 痛い。


 重い。


 怖い。


 それでも立っている。


⸻


「走れる」


⸻


 ヒカルが笑った。


⸻


「なら、それで十分だ」


⸻


 白馬が進んだ。


 負けた軍が、もう一度前へ動いた。


 勝つためではない。


 帰るために。


⸻


 前方には、川岸から畑へ上がる細い坂が見えた。そこを抜ければ、伊達勢の退いた方へ回れる。


 顕家は軍扇で指した。


⸻


「あの坂だ! 上がれる者から上がれ!」


⸻


 二頭、三頭と坂へ入る。


 白馬が続こうとして、足を滑らせた。


 前脚が崩れ、顕家の身体が大きく傾く。シンは駆け寄って手綱を掴んだ。


 馬は立ち直ったが、次の一歩が出ない。脚を震わせ、荒く息を吐いている。


⸻


「ヒカル、降りて!」


⸻


 顕家は鞍から滑り下りた。傷めた脚をついた途端、顔が歪む。それでもすぐ身体を起こした。


 上では、馬を替えようと兵が戻りかけていた。


 そこへ敵の矢が飛ぶ。


⸻


「戻るな! 先へ行け!」


⸻


 兵は一瞬ためらい、傷人の馬を追って坂の向こうへ消えた。


 シンは白馬の手綱を引いた。歩けた。だが、人の駆ける速さにはついてこられない。


 ヒカルが馬の頬へ手を当てた。


⸻


「よく走った。もうよい」


⸻


 手綱を鞍へ掛け直し、敵のいない川下へ放した。


 白馬は鼻を鳴らし、ゆっくり歩き出した。


 土手の上で敵が二人を指した。


⸻


「北畠だ! 白い鎧を逃がすな!」


⸻


 ヒカルは川岸の先を見た。


 もう少し下れば、岸が低くなっている。


 追手より先に、あそこまで行く。


⸻


「走れる?」


「先ほど聞いたであろう!」


「脚、痛いだろ!」


「痛いわ! 見れば分かるであろう!」


⸻


 ヒカルが走り出した。


 最初の一歩だけ、右へよろめいた。シンが腕を取る。


 次の一歩では、ヒカルの方が前へ出た。


 背後で水が跳ねた。


 矢だった。


 シンは身を低くし、ヒカルと並んで走った。


⸻


「シン!」


「いる!」


「遅れるな!」


「ヒカルが速いんだよ!」


⸻


 笑い声が返った。


 霊山で聞いた声だった。


 つまらないことで怒鳴り、飯で機嫌を直し、走り出せば誰にも譲らなかった。


 今も同じだった。


 負けたばかりなのに。


 大勢を失ったばかりなのに。


 それでも同じ声で笑っていた。


 手を離していない。


 追手が迫れば、先に気づいた方が引く。シンが石を踏めばヒカルが支え、ヒカルの脚が鈍ればシンが一歩前へ出た。


 傷が熱い。喉に血の味がした。


 死にたくなかった。


 戻れるかどうかを試すためではない。


 勝った未来へ行くためでもない。


 この手を離さず、今日の続きを生きたかった。


⸻


「川から離れるぞ! あそこへ上がる!」


「見えてる!」


⸻


 ヒカルが示した先には、煙が流れていた。その下へ日が差し、白い砂が光っている。


 煙の切れ目に、低い岸の斜面が見えた。


 あそこを上がる。


 その先に何があるかは分からない。


 もう、分からなくてもよかった。


 シンはヒカルの手を握り直した。


⸻


「モモも、探さないと」


「分かっておる!」


⸻


 ヒカルは走りながら顔を向けた。


⸻


「見つけたら、知らせよと言ったであろう!」


「うん!」


「だから、お前も帰るのだ!」


⸻


 シンは頷いた。


 喉へ刃を向けながら、自分の手を自分で止めたモモ。林の向こうで揺れた桃の飾り。


 あのままにはしない。


 そして、隣の人も失いたくない。


 欲張りでいい。


 もう、どちらかを捨てて正しい答えを選ぼうとは思わなかった。


 目の前へ槍が出た。


 シンがヒカルを引く。刃が肩を掠める。二人で川側へ避け、その横を抜けた。


 ヒカルがシンの袖を掴んだ。


⸻


「無茶をするな!」


「そっちこそ!」


「私はいつものことだ!」


「威張るなよ!」


⸻


 二人とも息が切れていた。


 それでも笑った。


 シンはその顔を見た。


 昨夜の灯の下で頬を赤くした顔。怖いと認め、それでも生きる方へ走ると言った顔。


 勝っている時だけではなかった。


 負けても。


 怖くても。


 仲間を失っても。


 自分で次を選んで、また前を見る。


 今は泥も血もついていた。烏帽子が傾き、頬へ髪が貼りついている。


 光る君。


 小さな灯の下だけではなかった。


 こんな所でも、この人を見失う気がしなかった。


⸻


「ヒカル!」


「何だ!」


「一緒に帰るぞ!」


⸻


 ヒカルの目が大きくなった。


 それから口元が上がる。


⸻


「ようやく、お前から言ったな!」


⸻


 引かれる手に力がこもった。


 まだ軍扇を持っている。鎧も脱ぎ捨てていない。


 兵を動かし、帝へ文を書き、国継に奥州を託され、師行を失い、戦に負けた人が、その全部を抱えたまま走っている。


 シンは隣へ追いついた。


 空は見なかった。


 二人で、岸の先を見た。


⸻


 光が強くなった。


 海面の照り返しかと思った。煙の向こうが白く、岸の輪郭まで見えにくい。走るたび、ヒカルの金の飾りがその光を弾いた。


 背後では敵が叫んでいた。矢が飛び、足元に砂が跳ねる。


 まだ戦場だった。


 まだ負けた戦の中にいた。


 それでも、二人は前へ走っていた。


 声が遠くなっていく。


 シンの耳に、ヒカルの息だけが近く聞こえた。


⸻


「あそこまでだ! 先に着いた方の勝ちだぞ!」


「戦には負けたのに?」


「うるさい! これは別だ!」


「手、掴んでるだろ!」


「なら引き分けでよい!」


⸻


 高い笑い声が響いた。


 シンも笑った。


 涙が出た。


 今朝の続きをしたかった。


 また帯を結んでやりたい。髪へ触れれば怒られ、飯を分ければ少ないと言われたい。奥州の雪も、春の田も、一緒に見たかった。


 勝ったからではない。


 負けても、その続きをしたかった。


 光が腕へ重なった。


 握っている手の輪郭が、少しずつ薄くなる。


 シンは強く掴んだ。


 まだ温かい。


 まだ走っている。


 ヒカルがこちらを向いた。


 光の中で目が合った。


⸻


「シン!」


「ヒカル!」


⸻


 呼び返すと、ヒカルは顔を赤くした。


 走る足は止めなかった。


⸻


「私は、お前が好きだ!」


⸻


 戦場へ命令を飛ばす時と同じ、大きな声だった。


 照れて、怒ったように眉を上げ、それでも笑っていた。


 シンは口を開いた。


 答えはあった。


 もう、とっくにあった。


 それを声にしようと息を吸った。


 光が二人の顔を包んだ。


 握った指も、白と金の鎧も、並んで踏み出した足も、白くなった。


 シンの返事は、声にならなかった。


 二人は走ったまま、光の中へ消えた。


⸻


⸻


 戦場から離れた高台に、モモが立っていた。


 白い衣の裾を、海風が揺らしている。般若坂でついた泥は乾き、血の跡は黒くなっていた。裂けた袖も、そのままだった。


 髪には桃の飾りがあった。


 右手にはフツがあった。


 モモの顔は、川岸の光へ向いていた。


 白と金の鎧と、その隣を走る人影が光に包まれた。二つの姿が見えなくなる。


 少し遅れて、川岸の光も消えた。


 煙の下を足利兵が走っていた。川面には、また日の光が細かく揺れている。


 そこに、シンとヒカルの姿はなかった。


 モモは動かなかった。


 フツを握る指だけが、わずかに緩んだ。


⸻


 今度は、モモの手が白く光った。


 指先から手首へ、光が広がる。フツの刃も光り、衣の縁が白く滲んだ。風で揺れる袖の向こうに、高台の草が透け始める。


 足元から伸びていた影が薄くなった。


 モモは顔を上げたまま、一言も発しなかった。


 黒い髪が光に包まれ、白い衣との境がなくなる。


 次の風が吹いた時、そこに身体はなかった。


 フツもなかった。


 桃の飾りだけが、最後まで光っていた。


 それも、消えた。


⸻


⸻ Starting Over


⸻


(第六章 了 第百五十話へ)

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