Born to Run
第百四十九話 Born to Run
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白馬が駆けた。
軍扇が下り、北畠の旗が前へ傾く。海風に押された鬨の声を、馬蹄が追い越した。シンの頭上を矢が飛んだ。
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「下がるな! 楯の後ろへ入れ!」
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顕家の声だった。
シンは隣の兵と肩をぶつけながら、立てられた楯の後ろへ飛び込んだ。木を叩く音が続く。一枚の楯へ三本刺さり、四本目が縁を削った。
前には細川勢がいた。川沿いの道を塞ぎ、その脇の畑にも兵を広げている。道をまっすぐ進めば、正面と横から矢を浴びる。
顕家は白馬を止めた。畑から走ってくる敵と、道に残った敵を見比べる。畑の兵は、足元の溝を越えるたびに列を乱していた。
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「伊達、道を押さえよ! 南部は畑へ回れ。まだ当たるな!」
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伊達行朝が歩兵を道へ並べた。南部師行の騎馬は、前へ出ずに横へ走る。細川の兵がそれを追い、畑の中で槍の向きを変えた。
敵の先頭だけが溝を越えた。後ろの兵はまだ、細い畦へ詰まっている。
顕家が軍扇を振った。
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「今だ! 南部、先の者だけを押し戻せ!」
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南部師行の馬が向きを変えた。騎馬が横一列に広がり、溝を越えたばかりの敵へぶつかる。敵は槍を揃えられず、後ろへ下がった。
そこには、まだ渡ってくる味方がいる。前から押された兵と、前へ出たい兵が溝際で重なった。弓を引く場所もない。南部勢は深追いせず、馬を返してもう一度横へ回った。
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「道が空くぞ! 伊達、押せ!」
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伊達行朝の兵が進んだ。畑の味方を助けようと横を向いていた敵へ、楯ごと当たる。道の中央にあった敵旗が揺れた。
シンも走った。楯を運ぶ兵の背中が近い。足を止めればぶつかる。速すぎれば楯の外へ出る。
矢が土を抉った。怖かった。それでも前の背中についていった。
倒れた伝令が道の端で手を上げていた。足首が妙な向きになっている。シンはその腕を取り、隣の兵を呼んだ。二人で溝の陰へ引きずる。
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「南部殿へ……道の兵が、出たと」
「分かった。ここにいて」
「足が、動かん」
「動かさなくていい。戻ってくるから」
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シンは立った。南部の旗は畑の向こうにある。剣を抜く代わりに両手を口へ当て、走りながら伝令の言葉を叫んだ。
師行がこちらを見た。短く頷き、槍を高く上げる。
南部勢が崩れた畑の兵を迂回した。今度は道を守る敵の横へ出る。
正面には伊達。横には南部。
細川勢は二つの方向から押された。
敵旗が下がった。
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「通った!」
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誰かが叫んだ。
さっきまで槍で埋まっていた道に、向こうの土が見える。
顕家はその道へ馬を入れた。
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「ふははははっ! よし、よくやった!」
「追いますか!」
「追う! だが一人で行くな。まとまって押せ!」
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白と金の背が、シンの前を通った。今朝、シンが結んだ帯は曲がっていない。鎧の裾が跳ね、その下で傷めた脚が鐙を踏んでいる。
笑っていた。
昨夜、明日が怖いと言った人が、誰より大きな声で兵を進ませていた。
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「シン! 何を見ておる!」
「見てない! 走ってる!」
「なら遅れるな!」
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シンは走った。
後ろでは、さっき呼んだ兵が仲間を連れて伝令を担ぎ上げていた。溝の陰が空になるのを見て、ようやく前へ顔を戻せた。
少なくとも、あの男はここから運び出せた。
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最初の敵陣を抜いても、顕家は馬を走らせ続けなかった。
水を回させ、乱れた組をまとめ直す。矢を使い切った者には、退いた敵が残した矢束を運ばせた。折れた槍を抱えた兵には楯を持たせる。
シンは水筒を受け取り、息を切らした兵へ渡した。男は一口だけ飲み、隣へ回した。朝には青かった顔が、今は泥だらけで笑っている。
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「勝てるぞ」
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男が言った。
シンは、すぐには頷かなかった。まだ敵旗は多い。だが、こちらの旗は進んでいた。
般若坂からずっと後ろへ追いやられていた旗が、今日は前へ出ている。
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「殿。細川が、川の曲がりへ兵を寄せております」
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行朝が馬を寄せた。顕家は敵陣を見た。川に守られた側は固い。反対の畑では、退いてきた兵と新しく並ぶ兵が入り交じっている。
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「川へ追い落とそうとするな。あれではこちらも詰まる」
「では、畑から」
「うむ。伊達の旗を道に残せ。南部は私と来い」
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白馬が道を外れた。師行が続く。
敵は道に残った伊達の旗へ弓を向けている。その横を北畠の騎馬が畦に沿って進んだ。溝の深い所を避け、乾いた土の上だけを選ぶ。
敵の旗と旗の間が広い。畑から戻った兵が、その隙間を通って奥へ逃げている。
そこへ白馬が迫った。
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「南部! 私の横を空けるな!」
「心得ております!」
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二つの騎馬の組が並んで入った。逃げる兵に道を塞がれ、敵の槍が間に合わない。師行の兵が押し込み、顕家が開いた場所へ後続を通した。
細川の旗が、また下がった。
シンの横で旗持ちが転んだ。倒れかけた旗竿をシンが受け止める。海風が布を引き、腕まで持っていかれそうになる。
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「持って!」
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旗持ちが下から支えた。二人で竿を立て直し、そのまま走った。
旗が揚がると、後ろの兵がこちらへ集まってくる。
その先で、顕家が振り返った。
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「よいぞ! その旗を見せてやれ!」
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シンは竿を押し上げた。腕が痛い。それでも笑った。
敵が退いていく。
北畠顕家は、勝っていた。
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昼を過ぎた。
朝には敵陣だった場所で、奥州兵が水を飲んでいた。奪った楯を並べ、矢を分けている。負傷者を運ぶ道もできた。
シンは小さな飯の塊を二つに割った。片方を差し出すと、馬上の顕家が身を屈めて取った。
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「砂がついておる」
「落としてないよ。手についてたんだ」
「同じであろう」
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文句を言いながら、顕家は食べた。
白馬の首には汗が光っている。
まだ生きている。
五月二十二日の昼を過ぎても、この手で飯を食べ、同じように文句を言っている。
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「どうした。お前の分まで食った覚えはないぞ」
「うん」
「うん、では分からぬ」
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近くの兵が去ったところで、シンは顔を上げた。
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「変わったかもしれない」
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ヒカルは一度だけ黙り、わざと顎を突き出した。
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「何だ。死ぬ日というから、もっと恐ろしい所かと思ったぞ」
「まだ終わってない」
「分かっておる! だから飯を食っておるのだ!」
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指についた米粒まで食べ、高く笑った。近くの兵も振り向いて笑う。
シンにも、まだ行けると思えた。
昨夜、同じ布を掛けて眠った。朝には帯を結び、うまくなったと褒められた。
その続きが、明日もあるかもしれない。
石津を抜けて、傷を治して、奥州へ帰る。国継の家へ行く。小萩に二人まとめて叱られる。タダの飯を腹が苦しくなるまで食べる。
そして、モモを探す。
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「帰ったら、もっと柔らかい飯にしてもらおう」
「鮭もだ」
「それは頼んで」
「任せよ。将軍の頼みだぞ」
「小萩には効かないだろ」
「……あれには効かぬ」
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二人で笑った。
伝令の声が飛んだ。
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「細川勢、さらに退いております!」
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行朝と師行が戻り、敵の退いた先を指す。川沿いの道からも、畑からも、足利の旗が下がっていた。
兵の一人が拳を上げた。
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「勝ったぞ!」
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声が広がった。
シンはその向こうを見た。
陸側の低い丘の前に、一か所だけ旗が残っていた。周りの兵が退いても動かない。逃げてきた兵を、その旗の下にいる者たちが左右へ振り分けている。
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「あそこだけ、下がってない」
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顕家が目を細めた。
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「……師直か」
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高師直の陣だった。
川沿いを退いた敵が、そこへ寄ろうとしている。顕家は軍扇を開いた。敵が集まる前に押し崩せば、戦場の向こうまで道が通る。
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「伊達は後ろを守れ。南部、あの陣を抜くぞ!」
「丘の向こうは、まだ見切れておりませぬ」
「物見をもう一人出せ。林から目を離すな」
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顕家は兵の列を見渡した。
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「急くな! 勝った顔をするのは、帰ってからだ!」
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兵が笑った。
白馬が進む。
あと一つ。
あの旗を退かせれば、本当に帰れる。
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高師直の前へ、折れた矢が転がってきた。
楯の列が押されている。北畠の騎馬が近い。白馬の上で軍扇が動くたび、守りの薄い場所へ敵が寄ってくる。
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「師直殿、ここも持ちませぬ!」
「分かっておる」
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師直は馬を動かさなかった。
次の矢が、馬のすぐ前へ刺さった。
白馬を見る。
兵は減っている。馬も疲れている。それでも、こちらが一歩空ければ必ずそこへ入ってくる。
般若坂から何度も追い詰めた。補給を断った。水場を押さえた。休ませず追った。合流も潰した。
それでも、ここまで来た。
今、自分の陣そのものを落とそうとしている。
師直は息を吐いた。
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「……負けだな」
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傍らの武者が聞き返した。
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「は?」
「このままなら、俺の負けだ」
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師直は笑わなかった。
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「あれは強い。兵も、もう大して残っておらんのにな」
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白馬がまた近づいた。
師直は刀の柄へ手を置いた。
そして、京を発つ前のことを思い出した。
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尊氏は庭を見ながら、菓子を一つ割っていた。
師直の前には、巻かれた紙が置かれている。
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「兵を少し、貸すよ」
「どこの兵です」
「うちの」
「それでは分かりませぬ」
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尊氏は困ったように笑った。
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「骨喰衆」
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師直の手が止まった。
知らない兵ではない。
むしろ、足利に長く仕える者なら、知らぬ方がおかしかった。
尊氏が若い頃から、戦場で拾い上げてきた者たちだった。
家柄で選んだのではない。
馬から落ちても戻ってくる者。
味方が崩れても列を捨てぬ者。
敗走の最中に後ろを見られる者。
勝っている時ほど深追いをせぬ者。
そういう武者を、尊氏は一人ずつ覚えていた。
足利の軍が大きくなるたび、兵は増えた。
だが骨喰衆だけは増やし過ぎなかった。
尊氏自身が使い方を知る兵だけを残した。
箱根でもいた。
京を追われた時もいた。
九州まで落ちた時にも、最後まで尊氏のそばにいた。
負けて、逃げて、兵が散り、旗が減っても――最後まで散らないよう、尊氏がずっと手元に残してきた兵だった。
師直自身、その背中に助けられたことが一度や二度ではない。
尊氏が戦を嫌そうな顔で語る時も。
もうやめたいと言う時も。
戦わなければならなくなった時に、最後に抜く刃だけは、昔から研いであった。
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「なぜ、あれを」
「顕家が来るから」
「来るのは分かっております」
「うん。でも、君の旗まで来るよ」
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師直は尊氏を見た。
尊氏は割った菓子の片方を口へ入れた。
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「勝てると思ったら、あの子は来る。君の旗を見たら、なおさらね」
「その時に出せと」
「それより前は駄目」
「理由は」
「逃げている時の北畠は捕まらないよ」
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尊氏はもう片方も口へ入れた。
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「勝つ時なら、前へ出るから」
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師直は黙った。
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「骨喰は、殿の切り札でしょう」
「うん」
「私に預けてよいのですか」
「師直なら、使うところを間違えないだろ」
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尊氏はあっさり言った。
師直は眉を寄せた。
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「私が使うところを、もう決めておられるではないですか」
「そうだったかな」
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尊氏は笑った。
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「師直が負けそうになるまで、使わなくていいよ」
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石津。
白馬が見える。
軍扇が上がった。
まっすぐ、自分の旗へ来ている。
師直は目を細めた。
自分は顕家の兵糧を削った。
水を奪った。
眠らせなかった。
仲間と切り離した。
それでも負ける。
だが尊氏は、その負ける場所まで使っていた。
顕家が最も強くなる瞬間。
勝ったと思い、自分から一番深く入ってくる瞬間。
そこまで待っていた。
師直は、一度だけ目を閉じた。
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「……やはり、殿には勝てぬな」
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目を開ける。
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「骨喰衆を出せ」
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傍らの武者が息を呑んだ。
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「全部、ですか」
「全部だ。北畠の後ろへ入れ。退路を断て」
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使いが丘の裏へ走った。
朝から一度も戦っていない騎馬がいた。
だが、隠れていたわけではない。
師直の軍とともにここまで来て、陣を作り、馬へ水を飲ませ、武具を手入れし、それでも一度も前へ出されなかった者たちだった。
周囲の兵が戦う間も待った。
細川勢が押されても待った。
師直の陣へ矢が届いても待った。
尊氏から預けられた時に命じられた通り、ただ最後まで力を残していた。
鎧は揃っていない。
年も違う。
若者ばかりでもない。
それでも馬へ乗った時の動きだけは、一つだった。
何人かの手首には、細い白縄が巻かれている。
使いが一言だけ告げた。
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「出よ」
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男たちは同時に動いた。
足利二つ引両の旗が起きる。
骨喰衆が走り出した。
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シンは、横から来た馬蹄の音を聞いた。
振り向くと、林の端から騎馬が続けて出てくる。次々に足利の旗が立った。
朝から戦っていた馬とは、速さが違った。
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「横だ! 陸の方から来る!」
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叫んだ時には、後ろの列へ矢が落ちていた。
伊達の兵が楯を回す。
だが騎馬はそこへ突っ込まず、楯の前を擦るように走り、さらに奥へ回った。
そのまま南部勢の側面へ入る。
師行が馬を返した。
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「南部、向きを変えよ! 槍を――」
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言い終わる前に、最初の騎馬が接触した。
速かった。
一騎が槍先を払えば、その脇を二騎目が抜ける。二騎目へ向いた兵の背へ、三騎目が入る。
南部勢は疲れ切っていた。
朝から何度も走り、細川勢を押し、顕家の横を守り続けている。
馬も人も、一度向きを変えるだけで遅れた。
骨喰衆は、その遅れだけを狙った。
人を追い回さない。
旗を落とす。
組頭を分ける。
馬を止める。
隣の兵と兵の間を切る。
ひとつの列が崩れる前に、その次の列へ入った。
強いというより、崩し方を知っていた。
南部の騎馬が一列、消えた。
師行が槍を振る。一人を落とし、二人目の馬を逸らす。
三人目が、その横を抜けた。
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「旗を下げるな! 寄れ! 南部の者は私の旗へ寄れ!」
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師行が叫んだ。
散った兵が戻ろうとする。
その間へ骨喰衆が入った。
二騎が旗持ちへ行く。
一騎が師行を止める。
後ろの三騎が、戻ろうとした兵をもう一度分けた。
南部勢は弱くなかった。
朝から細川勢を何度も押し返した軍だった。
だからこそ、もう限界まで戦っていた。
骨喰衆は、その最後の一息へ新しい馬で入った。
数呼吸だった。
さっきまで一つだった南部勢が、三つに割れた。
次の数呼吸で、その三つも互いを見失った。
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「師行!」
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顕家が叫んだ。
師行が振り向いた。
遠かった。
その間に、骨喰衆がいる。
師行は一瞬だけ顕家を見た。
それから槍を返した。
逃げてくる味方を一人、自分の後ろへ通す。
もう一人を通す。
そのために、前へ出た。
骨喰衆が三騎並んだ。
師行も馬を出した。
槍がぶつかった。
南部の旗が大きく揺れた。
敵の旗が重なる。
次に風が吹いた時、南部の旗は見えなかった。
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「南部殿!」
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走ってきた兵が叫んだ。肩から血を流している。
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「南部勢、持ちませぬ! 師行殿も――!」
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最後まで言えなかった。
顕家の軍扇が止まった。
シンは、さっきまで師行の旗があった場所を見た。
足利二つ引両しかない。
骨喰衆は止まらなかった。
師行を倒したことさえ確かめない。
そのまま向きを変え、伊達勢と顕家の間へ回り込んでいく。
南部師行は戻らなかった。
顕家が唇を噛む。白馬の首が一度、そちらへ向いた。
だが、自分で引き戻した。
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「……師行が開けた道を、閉じさせるな!」
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声が戻った。
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「伊達! 兵をまとめよ! 傷人を先へ通せ!」
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行朝の旗が動く。細道へ負傷兵を集め、戦える兵が外へ回った。
シンは朝、溝の陰へ運んだ伝令を見つけた。足首には布が巻かれ、別の兵に肩を貸されている。
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「戻ってきたろ」
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男は頷いた。
シンは馬を引く兵を呼び、男を背へ乗せた。
行朝の旗へ向かって、人が流れ始める。
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「殿! お早く!」
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行朝が叫んだ。
顕家もそちらへ進もうとした。
骨喰衆がまた回った。
追うのではない。
顕家と細道の間だけを切る。
顕家が右へ行けば、先に右へ回る。
戻ろうとすれば、戻る道へ旗が出る。
師直の戦い方とは違った。
もっと近い。
人が何をするかではなく、顕家という一人の武将がどう動くかを知っているようだった。
シンは、その意味に気づいた。
師直だけではない。
もっと前から、ヒカルを見ていた人間がいる。
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「……尊氏」
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顕家も同じ名を口にした。
軍扇を握り直す。
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「伊達、行け!」
「しかし、殿が!」
「兵を戻すな! そちらまで囲まれる!」
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行朝の後ろには、傷人を乗せた馬がいた。
顕家はその列を指した。
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「奥州へ帰せ! 私も後から追う!」
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行朝が深く頭を下げ、馬を返す。
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「遅れた者を拾え! 伊達の旗についてこい!」
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歩ける者が歩けない者を支え、細道を上っていく。
骨喰衆の一部が追おうとする。
その前へ、南部の残兵が入った。
師行の旗はない。
それでも槍を並べた。
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「南部の者か!」
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顕家が叫ぶ。
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「おります!」
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返事がした。
それが、最後だった。
骨喰衆がぶつかった。
槍列が揺れた。
一度。
二度。
三度目には、伊達の旗との間に足利の旗が何本も立っていた。
行朝たちは坂の向こうへ消えた。
顕家は追わなかった。
戻せば全員が囲まれる。
軍扇を前へ向けた。
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「川へ下りる! 道を塞がれたなら、その下を行くぞ!」
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残った兵が返事をした。
その数は、もう声を張らなくても聞き分けられた。
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川岸の道は細かった。
上の道から敵が追ってくる。顕家は残った弓兵を土手へ向け、先頭だけを射させた。その間に歩けない兵を馬へ移す。
シンが振り向いた。
旗は数本しかない。
朝には声を張らなければ聞こえなかった馬蹄が、今は一頭ずつ聞き分けられた。
少し前まで、勝っていた。
本当に勝てると思った。
今日を越えられると思った。
その景色が、ほんのわずかな時間でなくなっていた。
シンは振り返った。
師行はいない。
南部の旗もない。
伊達の旗だけが、ずっと遠くへ進んでいる。
敵旗は増えていた。
どう数えても、どう見ても、もう戦をひっくり返せる数ではなかった。
初めて、ヒカルが何も言わなくなった。
白馬の上で前を見たまま、軍扇を膝へ下ろしている。
シンは隣まで走った。
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「ヒカル」
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返事がなかった。
もう一度呼ぼうとした時、ヒカルが小さく息を吐いた。
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「……負けたな」
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シンは答えられなかった。
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「なあ、シン。これは、負けたのであろう」
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声は、いつもの大将軍の声ではなかった。
昨夜のヒカルの声だった。
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「……うん」
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言うと、胸の中に残っていたものが落ちた。
勝てるかもしれない。
歴史を変えたかもしれない。
明日も続くかもしれない。
ずっと握っていたものが、なくなった。
ヒカルは前を見ていた。
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「悔しいな」
「うん」
「師行も死んだ」
「うん」
「兵も、ほとんどいなくなった」
「……うん」
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ヒカルが鼻をすすった。
泣いたのかと思った。
だが次に出たのは、短い笑いだった。
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「何だ。負けるというのは、もっと特別なものかと思っておった」
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シンは顔を上げた。
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「腹が立つし、悔しいし、怖い。だが――まだ脚がある」
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ヒカルが鐙から片足を少し上げた。
痛んだのか、すぐ顔をしかめる。
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「痛いけどね」
「うるさい!」
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今度は、ちゃんと笑った。
シンも笑った。
負けた。
それでも笑えた。
それが、少し不思議だった。
ヒカルは軍扇をもう一度上げた。
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「勝てぬなら、勝たずに帰ればよい」
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残った兵が顔を上げた。
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「殿?」
「私は勝って帰ると言った。だが、間違えた!」
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ヒカルは振り返った。
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「負けたから帰ってはならぬなどと、誰が決めた!」
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誰も答えなかった。
ヒカルは自分で答えた。
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「私は知らぬ!」
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高く笑った。
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「ふははははっ! なら、帰るぞ!」
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少ない声が返った。
それでも鬨になった。
シンは、その声を聞いた。
昨日までなら、歴史を変えなければと思っていた。
石津で顕家を死なせなければ、未来が変わる。
正しい未来を作らなければ。
だが今は違った。
勝った未来でなくてもいい。
史書に書かれたものと違わなくてもいい。
あと一歩。
あと一息。
この人と生きている時間を、前へ運びたかった。
ヒカルがこちらを見た。
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「シン」
「何?」
「まだ走れるか」
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シンは自分の脚を見た。
痛い。
重い。
怖い。
それでも立っている。
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「走れる」
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ヒカルが笑った。
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「なら、それで十分だ」
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白馬が進んだ。
負けた軍が、もう一度前へ動いた。
勝つためではない。
帰るために。
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前方には、川岸から畑へ上がる細い坂が見えた。そこを抜ければ、伊達勢の退いた方へ回れる。
顕家は軍扇で指した。
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「あの坂だ! 上がれる者から上がれ!」
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二頭、三頭と坂へ入る。
白馬が続こうとして、足を滑らせた。
前脚が崩れ、顕家の身体が大きく傾く。シンは駆け寄って手綱を掴んだ。
馬は立ち直ったが、次の一歩が出ない。脚を震わせ、荒く息を吐いている。
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「ヒカル、降りて!」
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顕家は鞍から滑り下りた。傷めた脚をついた途端、顔が歪む。それでもすぐ身体を起こした。
上では、馬を替えようと兵が戻りかけていた。
そこへ敵の矢が飛ぶ。
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「戻るな! 先へ行け!」
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兵は一瞬ためらい、傷人の馬を追って坂の向こうへ消えた。
シンは白馬の手綱を引いた。歩けた。だが、人の駆ける速さにはついてこられない。
ヒカルが馬の頬へ手を当てた。
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「よく走った。もうよい」
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手綱を鞍へ掛け直し、敵のいない川下へ放した。
白馬は鼻を鳴らし、ゆっくり歩き出した。
土手の上で敵が二人を指した。
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「北畠だ! 白い鎧を逃がすな!」
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ヒカルは川岸の先を見た。
もう少し下れば、岸が低くなっている。
追手より先に、あそこまで行く。
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「走れる?」
「先ほど聞いたであろう!」
「脚、痛いだろ!」
「痛いわ! 見れば分かるであろう!」
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ヒカルが走り出した。
最初の一歩だけ、右へよろめいた。シンが腕を取る。
次の一歩では、ヒカルの方が前へ出た。
背後で水が跳ねた。
矢だった。
シンは身を低くし、ヒカルと並んで走った。
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「シン!」
「いる!」
「遅れるな!」
「ヒカルが速いんだよ!」
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笑い声が返った。
霊山で聞いた声だった。
つまらないことで怒鳴り、飯で機嫌を直し、走り出せば誰にも譲らなかった。
今も同じだった。
負けたばかりなのに。
大勢を失ったばかりなのに。
それでも同じ声で笑っていた。
手を離していない。
追手が迫れば、先に気づいた方が引く。シンが石を踏めばヒカルが支え、ヒカルの脚が鈍ればシンが一歩前へ出た。
傷が熱い。喉に血の味がした。
死にたくなかった。
戻れるかどうかを試すためではない。
勝った未来へ行くためでもない。
この手を離さず、今日の続きを生きたかった。
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「川から離れるぞ! あそこへ上がる!」
「見えてる!」
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ヒカルが示した先には、煙が流れていた。その下へ日が差し、白い砂が光っている。
煙の切れ目に、低い岸の斜面が見えた。
あそこを上がる。
その先に何があるかは分からない。
もう、分からなくてもよかった。
シンはヒカルの手を握り直した。
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「モモも、探さないと」
「分かっておる!」
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ヒカルは走りながら顔を向けた。
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「見つけたら、知らせよと言ったであろう!」
「うん!」
「だから、お前も帰るのだ!」
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シンは頷いた。
喉へ刃を向けながら、自分の手を自分で止めたモモ。林の向こうで揺れた桃の飾り。
あのままにはしない。
そして、隣の人も失いたくない。
欲張りでいい。
もう、どちらかを捨てて正しい答えを選ぼうとは思わなかった。
目の前へ槍が出た。
シンがヒカルを引く。刃が肩を掠める。二人で川側へ避け、その横を抜けた。
ヒカルがシンの袖を掴んだ。
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「無茶をするな!」
「そっちこそ!」
「私はいつものことだ!」
「威張るなよ!」
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二人とも息が切れていた。
それでも笑った。
シンはその顔を見た。
昨夜の灯の下で頬を赤くした顔。怖いと認め、それでも生きる方へ走ると言った顔。
勝っている時だけではなかった。
負けても。
怖くても。
仲間を失っても。
自分で次を選んで、また前を見る。
今は泥も血もついていた。烏帽子が傾き、頬へ髪が貼りついている。
光る君。
小さな灯の下だけではなかった。
こんな所でも、この人を見失う気がしなかった。
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「ヒカル!」
「何だ!」
「一緒に帰るぞ!」
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ヒカルの目が大きくなった。
それから口元が上がる。
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「ようやく、お前から言ったな!」
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引かれる手に力がこもった。
まだ軍扇を持っている。鎧も脱ぎ捨てていない。
兵を動かし、帝へ文を書き、国継に奥州を託され、師行を失い、戦に負けた人が、その全部を抱えたまま走っている。
シンは隣へ追いついた。
空は見なかった。
二人で、岸の先を見た。
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光が強くなった。
海面の照り返しかと思った。煙の向こうが白く、岸の輪郭まで見えにくい。走るたび、ヒカルの金の飾りがその光を弾いた。
背後では敵が叫んでいた。矢が飛び、足元に砂が跳ねる。
まだ戦場だった。
まだ負けた戦の中にいた。
それでも、二人は前へ走っていた。
声が遠くなっていく。
シンの耳に、ヒカルの息だけが近く聞こえた。
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「あそこまでだ! 先に着いた方の勝ちだぞ!」
「戦には負けたのに?」
「うるさい! これは別だ!」
「手、掴んでるだろ!」
「なら引き分けでよい!」
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高い笑い声が響いた。
シンも笑った。
涙が出た。
今朝の続きをしたかった。
また帯を結んでやりたい。髪へ触れれば怒られ、飯を分ければ少ないと言われたい。奥州の雪も、春の田も、一緒に見たかった。
勝ったからではない。
負けても、その続きをしたかった。
光が腕へ重なった。
握っている手の輪郭が、少しずつ薄くなる。
シンは強く掴んだ。
まだ温かい。
まだ走っている。
ヒカルがこちらを向いた。
光の中で目が合った。
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「シン!」
「ヒカル!」
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呼び返すと、ヒカルは顔を赤くした。
走る足は止めなかった。
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「私は、お前が好きだ!」
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戦場へ命令を飛ばす時と同じ、大きな声だった。
照れて、怒ったように眉を上げ、それでも笑っていた。
シンは口を開いた。
答えはあった。
もう、とっくにあった。
それを声にしようと息を吸った。
光が二人の顔を包んだ。
握った指も、白と金の鎧も、並んで踏み出した足も、白くなった。
シンの返事は、声にならなかった。
二人は走ったまま、光の中へ消えた。
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戦場から離れた高台に、モモが立っていた。
白い衣の裾を、海風が揺らしている。般若坂でついた泥は乾き、血の跡は黒くなっていた。裂けた袖も、そのままだった。
髪には桃の飾りがあった。
右手にはフツがあった。
モモの顔は、川岸の光へ向いていた。
白と金の鎧と、その隣を走る人影が光に包まれた。二つの姿が見えなくなる。
少し遅れて、川岸の光も消えた。
煙の下を足利兵が走っていた。川面には、また日の光が細かく揺れている。
そこに、シンとヒカルの姿はなかった。
モモは動かなかった。
フツを握る指だけが、わずかに緩んだ。
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今度は、モモの手が白く光った。
指先から手首へ、光が広がる。フツの刃も光り、衣の縁が白く滲んだ。風で揺れる袖の向こうに、高台の草が透け始める。
足元から伸びていた影が薄くなった。
モモは顔を上げたまま、一言も発しなかった。
黒い髪が光に包まれ、白い衣との境がなくなる。
次の風が吹いた時、そこに身体はなかった。
フツもなかった。
桃の飾りだけが、最後まで光っていた。
それも、消えた。
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⸻ Starting Over
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(第六章 了 第百五十話へ)




