諫奏
第百四十七話 諫奏
⸻
水の器が、小さく鳴った。
シンは顔を上げた。天幕の布が朝の光を透かしている。枕元へ伸びた手が器を探し、縁へ指を掛けたところだった。シンは倒れないよう底を支えた。
ヒカルが水を飲む。二口目を飲み込んでから、こちらを見た。
⸻
「……お前、ずっとそこにいたのか」
「途中、寝た。今も寝てた」
「そうか」
⸻
器を返したヒカルは、天幕の入口へ目をやった。何かを呼びかけそうに唇が開き、そのまま閉じる。
小萩が座っていた場所には、もう髪を梳く手も、畳んだ装束もなかった。
シンは水に浸しておいた糒の器を寄せた。ヒカルがひと匙すくい、噛む。眉間に皺が寄った。
⸻
「硬い!」
「もう少し待てばよかったかな」
「待っておったら昼になる。よい、食える!」
⸻
もうひと匙を口へ入れ、また顔をしかめた。シンが笑うと、ヒカルも吹き出す。
⸻
「ふははっ! やはり硬いな!」
「だから言ったのに」
「次はうまく戻せ。この北畠顕家に朝から石を食わせるな」
⸻
器を置く音が二つ続いた。
入口の外から南部師行の声がした。
顕家は襟を合わせ、烏帽子へ手を添えた。シンが杖を渡すと、勢いよく受け取る。
⸻
「行くぞ。寝ておった分まで働く!」
⸻
飛鳥の南の山里を発った軍列は、西へ向かった。
峠へ入る手前で、道が二つに分かれた。下の道は広いが、谷の向こうに煙が見える。上の道には石が多く、馬を並べて通せなかった。
⸻
「どちらへ進みます」
⸻
南部に問われ、顕家の口が止まった。
馬上から煙を見る。後ろを振り返る。荷鞍の下で震える馬の脚。肩を貸し合う兵。山陰へ入りかけた日。
顕家の目が、一瞬だけ空へ上がった。
何もない。
鼻から息を吐く。
⸻
「煙の下まで物見を二人! 戻るまでは馬を休ませろ。水も先に回せ!」
⸻
物見が下の道の敵旗を報告すると、顕家は上を指した。
⸻
「上だ! 荷を分けよ! 馬の口は一人ずつ取れ! 急ぐな、列を切らすな!」
⸻
岩へ荷をぶつけ、何度も止まりながら尾根を越えた。下の道で敵の鬨が上がった時、最後の負傷兵も木立へ入っていた。
顕家が空を見る。
梢の間を風が通った。
やがて口元が上がる。
⸻
「……上等だ。ふはははっ! 黙っておるなら、こちらで決めるまでよ!」
⸻
南部が笑い、後ろの兵にも笑いが広がった。
河内へ抜けた後、川沿いの広場へ向かう兵を顕家が止めた。柔らかな土には新しい蹄の跡が重なっている。物見が敵の騎馬を見つけ、一行は畑の向こうへ離れた。
顕家の目が、また空へ上がる。
今度はほんの一瞬だった。
⸻
「あちらへ回る! 水を汲んだ者は最後尾へ合流せよ!」
⸻
次の夕刻、伊達行朝に日暮れまで進むかと聞かれた時、顕家は馬の背の擦れを確かめていた。
空は見なかった。
⸻
「今夜はここまでだ! 歩ける者で先を見ておけ。馬と傷人を先に休ませろ!」
⸻
寝場所を争う兵へ杖を向ける。
⸻
「そこ! 元気が余っておるなら薪を拾ってこい! 場所取りで勝っても腹は膨れぬぞ!」
⸻
兵が笑った。
顕家も笑い、自分で薪を拾おうとして脚を庇った。
⸻
「無理しない」
「しておらぬ!」
「顔に出てた」
「見間違いだ!」
⸻
声だけは、もう以前の顕家だった。
⸻
⸻
三月八日、天王寺の南で、細川顕氏方の旗が見えた。
顕家は南部へ正面を支えさせ、伊達を横の道へ回した。敵が前へ寄ったところへ、伊達の騎馬が側面から入る。
⸻
「押すな! 崩れたところだけ食え! 追い過ぎるなよ、帰りの脚まで残しておけ!」
⸻
シンには後ろの荷駄を近づける役が来た。
⸻
「一人で行くな。二人付ける」
「分かった」
「伝えたら三人で戻れ。途中で何か見つけてもだ」
「子供じゃないよ」
「お前は目を離すとすぐ死ぬ!」
「それは否定しづらい」
「なら走れ!」
⸻
戻った時には敵の旗が遠ざかり、顕家は追撃を止めていた。軍扇を高く掲げる。
⸻
「勝ったぞ! ふははははっ!」
⸻
歓声が上がった。
若い兵が空へ手を合わせる。
⸻
「神仏の御加護だ」
⸻
顕家は軍扇を肩へ乗せた。
⸻
「ほう。では神仏は荷駄まで引き、矢まで受け、横から駆け込んでくれたのか?」
⸻
若い兵が目を瞬いた。
⸻
「違う。皆が戦ったからだ。前も、横も、荷を運んだ者もな! 胸を張れ! それから水を飲め!」
⸻
兵たちが笑った。
だが、その勝ちで飯が増えることはなかった。
数日後には新たな敵勢に押され、確保した道を捨てた。来るはずの米も止まり、顕家が守れると見込んだ渡り場は日が落ちる前に奪われた。
シンが担いだ負傷兵は途中から足を動かせなくなった。もう一人と両脇を支え、陣まで戻る。
顕家は濡れた髪を頬へ貼りつかせ、崩れた列を見た。
⸻
「外した! 私の読み負けだ!」
⸻
誰も答えなかった。
顕家は自分の腿を一度叩く。
⸻
「よし、次だ! 川へは戻らぬ! 運べる米を先に分けろ。動けぬ者には馬を回せ!」
「殿のお馬もですか」
「当たり前だ! 私は歩く!」
⸻
顕家は杖を取った。シンの腕を掴んで立つ。足をついた途端に顔が歪んだ。
⸻
「痛いんじゃない」
「痛いぞ!」
「認めるんだ」
「痛いものは痛い! だが決めることはできる!」
⸻
杖を地面へ突く。
⸻
「師行! 最後尾を頼む! 負けた顔をして歩くな! まだ終わっておらぬぞ!」
⸻
先に顕家が笑った。
乾いた高笑いだった。それでも後ろから二人、三人と笑いが返った。
⸻
⸻
泊まる場所の名が、シンの頭の中で混ざり始めた。
摂津の寺の軒下。河内の焼け残った小屋。昨日まで床のあった寝場所は、今夜は泥の上だった。
その晩は、借りた小屋でヒカルの足の布を取り替えた。
⸻
「きつい!」
「これだと緩い?」
「緩い!」
「難しいな、これ」
「戦場で人を斬る方が器用ではないか!」
「比べるものじゃないと思う」
⸻
ヒカルが盛大に溜息をつき、結ぶ位置を指した。シンが結び目をずらす。
⸻
「ここ?」
「そこだ。うむ。やればできるではないか」
「急に偉そう」
「私は偉い」
⸻
胸を張ろうとして脚が動き、ヒカルが顔をしかめた。シンが笑う。
⸻
「笑うな!」
⸻
怒鳴りながら、ヒカル自身も笑った。
立つついでに帯が緩んだので、シンが結び直す。端を引くと、結び目が脇へ寄った。
⸻
「お前、わざとやっておるのか」
「真剣にやってこれなんだよ」
「このまま外へ出たら、小萩が夢に出てきて私を叱るぞ!」
⸻
シンは一度解き、やり直した。
⸻
「……これでどう」
「まだ曲がっておる」
「直す?」
「もうよい。笑った者は睨む!」
⸻
ヒカルは胸を張った。帯は少し曲がったままだった。
飯の器を二つ持ってくると、ヒカルは文を脇へ寄せるようになった。夜更けまで筆を置かない日は、シンも起きていた。
⸻
「寝ろ」
「ヒカルが寝たら」
「私はまだ三通ある」
「じゃあ三通待つ」
「面倒な男だな、お前は!」
⸻
そう言いながら、一通読むたびにシンへ渡した。
火を落とした後の暗さに、シンは何度か霊山の部屋を思い出した。
林へ消えた白い衣。桃の飾り。
まだ、何一つ分かっていない。
シンは朝になると、陣へ来る者や戻った物見に白い衣の娘を見なかったかと尋ねた。首を振る顔ばかりが増えた。
一度だけ、ヒカルがその返事を横で聞き、シンの肩を叩いた。
⸻
「諦める顔ではないな」
「うん」
「なら探せ。だが死ぬな!」
「注文が多い」
「私の近習なら当然だ!」
⸻
言ってから、ヒカルは少しだけ顔を逸らした。
⸻
⸻
四月の終わり、河内の村で米を出させた。
蔵の戸は開いていた。奥に俵がわずかに積まれ、運び出した跡だけが四角く乾いている。
兵が残りへ手を掛けた時、杖をついた老人が戸口へ出た。
⸻
「それで、しまいです」
⸻
傍らには女が立ち、その袖を子供が掴んでいた。
顕家は蔵の奥まで入り、空いた床を見て戻ると、積み出された俵を数えた。
⸻
「半分戻せ!」
「それでは我らが持ちません」
「昨日も減らしております。歩けなくなる者が出ます」
「知っておる!」
⸻
声が蔵へ響いた。
兵糧役も引かなかった。
顕家は俵を見て、老人を見る。
⸻
「私も腹が減っておる! 兵が食わねば戦えぬことも知っておる! だが、ここを空にすれば、この者らが食えぬ!」
⸻
老人は頭を下げなかった。
戻される米を一度だけ数えた。半分でも足りないのだと、シンには分かった。
床へ落ちた米を老人が拾う。シンも屈んだが、刀が戸口へ当たり、子供が母の背へ隠れた。
鞘を手で押さえてから、米粒を拾った。
⸻
「名を聞かせてくれ。受け取った分の証文を残す」
⸻
老人は袖から折れた紙を出した。
⸻
「前にも、これを頂きました」
⸻
別の軍が残したものだった。顕家は日付を見る。老人の指の跡が紙の端を黒くしていた。
⸻
「これで米が戻るのは、いつになります」
⸻
顕家はすぐには答えなかった。
⸻
「……今、日を約することはできぬ」
⸻
老人は紙を折った。
顕家が改めて名を聞くと、源次と名乗った。
帰り道、顕家は証文の控えを懐へ入れた。馬へ乗る時、シンの手を掴んだまま畑を振り返る。鍬を持った女の背が、土の上で小さく曲がっていた。
⸻
その夜の飯は、汁の下に米が沈んでいた。
シンの腹が鳴る。
⸻
「聞こえたぞ」
「聞こえたね」
「私も鳴っておる。勝負だな」
「もう二人とも負けてる」
⸻
ヒカルは一瞬黙り、声を上げて笑った。
⸻
「ふははっ! 確かに!」
⸻
笑いが収まると、器の底の米を一粒ずつ集めた。
⸻
「奥州なら、もう田の支度をしておるな」
「北の方は、まだ冷える?」
「朝はな。国継は道が乾くまで馬を出すなとうるさかった」
⸻
匙が器の縁を擦った。
⸻
「あやつなら、今日も『若、また勝手なことを』と言っただろうな」
「言いそう」
「その後で自分が一番働くのだ。全く、面倒な男だった!」
⸻
笑って言った。最後だけ、声が少し掠れた。
ヒカルは源次の名を指で辿る。
⸻
「奥州を守ると言って、奥州の者をここまで連れてきた。あちらの田にも、人の手が要るのに」
⸻
空の器の横に、人の名と米の量が残った。
ヒカルは両手で頬を叩く。
⸻
「よし! 落ち込んでも米は増えぬ! なら覚えておく。国継も、今日の村も、ここまで来た者も。全部だ!」
⸻
声には、いつもの勢いが戻っていた。
ただ、以前より抱えている名が増えていた。
⸻
飯を片づけても、ヒカルは寝ようとしなかった。
⸻
「全部終わったら、お前はどうする」
⸻
シンは座り直した。
⸻
「モモを探す」
⸻
ヒカルの指が器の縁を滑った。
⸻
「……そうか」
⸻
少しの間、灯を見た。
次にこちらを向いた時には、もう顎が上がっていた。
⸻
「なら、生きて探せ! 見つける前に死んだら、あやつも困る!」
「うん」
⸻
勢いよく言った後、ヒカルの耳が少し赤くなった。
⸻
「ヒカルは?」
「奥州へ帰る!」
⸻
返事は早かった。
⸻
「父上に山ほど文句を言う! 小萩には飯を作らせる! 殿下にもまた奥州へお越しいただく。今度は逃げ道ばかりではないぞ!」
⸻
指を一本ずつ立て、最後に止めた。
⸻
「……国継の家へも行く。何を言えばよいかは、まだ分からぬ。だが、文を一枚送って済ませたくない」
⸻
シンは黙って聞いた。
⸻
「……お前も来るのだろう」
「行くよ」
「当然だ! 私の近習なのだからな!」
「まだ近習なの?」
「嫌なのか!」
「行くって言ったじゃん」
「ならよい!」
⸻
ヒカルが笑い、シンも笑った。
⸻
「一緒に帰る」
⸻
もう一度言うと、ヒカルの笑いが少しだけ静かになった。
片づけようとしたシンの袖を指が摘まむ。今度はすぐに離れなかった。
ヒカルは灯の下の紙を二人の前へ引いた。
⸻
「なら、その前に一つ片づけるぞ。言っておかねばならぬことがある!」
⸻
⸻
五月十五日、和泉の宿営地へ、吉野から使者が来た。
義良親王が無事に過ごしていると聞き、顕家は大きく息を吐いた。結城も健在だという。殿下の側に大男と口の達者な老女房がいる、と続く。
⸻
「ふははっ! それなら殿下も退屈はせぬな!」
⸻
使者が面食らった。
朝廷に仕える公家だった。継ぎの当たった装束の裾には山道の泥が乾いている。供は一人しかいない。
諸方の戦況を伝え、帰路に届ける文はあるかと尋ねると、顕家は低い机に重ねた紙を叩いた。
⸻
「ある! 主上に申し上げたいことが山ほどある! 今宵には整える!」
⸻
村を出てから夜ごとに書いてきたものだった。
取り次ぐにあたり趣旨を伺いたい、と使者が言う。顕家は紙を広げた。
⸻
「まず、租税を軽くして民を休ませていただく!」
「軍の米が足りぬ折に、ですか」
「足りぬから取る。取れば次が減る。減ったからまた取る。そんなことを続けて、最後は誰から取る!」
⸻
次の紙を出す。
⸻
「宴や行幸に費やすものを抑える! 官位や恩賞を身近な者へ偏らせず、働きを見て与える! 遠い国の政は、その土地を知る者に任せる!」
⸻
軍功を書きつけた文も傍らへ置いた。
⸻
「この者は馬を失った。こちらは兄を。働いたことを申し立てる間にも、次の戦へ出ねばならぬ! 行朝も、師行も、それぞれの土地を空けてここにおる!」
⸻
使者は最後まで目を通し、紙を重ね直した。
⸻
「北畠卿。これは、今お出しになる文ではありません」
⸻
顕家の眉が上がった。
⸻
「なぜだ」
「主上の御政道が誤っている。そう読まれます」
「改めていただきたいことを書いた。当然であろう」
「卿の御名で、それを言われる重さをお考えください。京の敵は、こちらが割れるのを待っている。北畠まで主上を見限ったと広められれば、誰が否定できます」
「見限ってなどおらぬ!」
「承知しております。ですが、皆が卿の心の通りに読むとは限りませぬ」
⸻
顕家が言い返しかけた口を閉じた。
使者は続ける。
⸻
「奥州を守るにも、まず朝廷が残らねばならない。主上の御威光まで失えば、卿が残す証文も誰が重んじましょう」
⸻
顕家の笑みが消えた。
正論だった。
⸻
「せめて戦が鎮まるまで。この文は預かります」
「……主上へは」
「今は、お目に入れるべきではありません」
⸻
使者が紙を持って立つ。
顕家は机に手をついた。口が開いたが、声は出ない。
シンは、その肩へ顔を寄せた。
⸻
「ヒカル、それでいいの?」
⸻
机に置いた指が曲がる。
傷めた脚を引き寄せ、立った。
⸻
「待て!」
⸻
使者が振り返る。
顕家は最初の一歩で身体を傾けたが、壁へ手をついて支えた。
⸻
「北畠卿。これは主上のためです」
「分かっておる! 私も主上のために書いた!」
「ならば、この文はお引きください」
「嫌だ!」
⸻
顕家は息を整え、使者を見た。
⸻
「私は、名を知ってしまった」
「……誰の名を」
「死んだ兵の名だ。米を出した村の者の名だ!」
⸻
使者の手の中で紙の端が揺れた。
⸻
「伊佐国継という男がいた! 奥州に妻と幼い子を残しておる。私を逃がして死んだ!」
「卿のお心は分かります。ですが、一家の悲嘆で国の政は決められませぬ」
「だから政へ書くのだ!」
⸻
顕家が一歩出る。
⸻
「一人を悼んで、次の百人を同じように死なせる。それで臣の務めを果たしたとは思えぬ!」
「文を出せば救えると、お考えか」
⸻
勢いが一度だけ止まった。
⸻
「分からぬ!」
⸻
答えは大きかった。
⸻
「出したことで害が生じるかもしれぬ! 主上がお怒りになるかもしれぬ! 私が間違っておるかもしれぬ!」
⸻
声が少し低くなる。
⸻
「それでも、知ってしまった者を、もう兵の数や米の量だけには戻せぬ。私が連れてきた兵だ。私が取らせた米だ」
⸻
手を差し出した。
⸻
「それを伏せて、主上に何をお決めいただく!」
⸻
使者は文を見下ろした。
⸻
「取り次ぐ者も、責めを受けます」
「私が出せと命じた旨を添えよ! 文の責めは私が負う!」
「それで済むとは限りませぬぞ」
「承知の上だ!」
⸻
使者は長く顕家を見た後、紙を差し出した。
⸻
「今宵、お預かりいたします。お考え直しになるなら、それまでに」
「考え直すためではない。もっと伝わるように書き直す!」
⸻
顕家は両手で文を受け取った。
⸻
⸻
灯を入れると、紙を押さえる指の影が揺れた。
ヒカルの持つ筆も、小さく震えていた。
⸻
「怖い?」
⸻
筆が止まる。
⸻
「……怖い」
⸻
右手を膝へ隠しかける前に、シンが手を差し出した。
ヒカルは見下ろし、やがて指先を重ねた。
握ると、こちらの指を掴み返す。
⸻
「主上には、幼い頃からお仕えしてきた。父上がこの文を見て何と言うかも分からぬ」
「うん」
「褒められたいわけではない」
「うん」
「……嫌われたいわけでもない」
⸻
シンは手を握ったまま隣へ座った。膝が触れる。
ヒカルはしばらく黙り、急に胸を張った。
⸻
「だが、怖いから黙るのはもっと嫌だ!」
⸻
シンが笑う。
⸻
「やっぱりヒカルだね」
「どういう意味だ!」
⸻
ヒカルも笑った。
⸻
「帝が欲しい答えを書く?」
「違う! 私の答えだ!」
⸻
即答だった。
⸻
「お前が、答えを決めるなよ」
「決めない」
「絶対だぞ」
「決めないよ。でも、書くなら隣にいる」
⸻
ヒカルの口元が上がった。
⸻
「当然だ! 最後まで付き合え! まず硯へ水を。ほんの少しだぞ!」
「それくらいはできる」
「帯もそう言っておった!」
⸻
二人で笑った。
ヒカルは書き直す紙を選ぶ。
シンが墨を磨る。ヒカルは削り、書き足した。土地のことを誰に任せるか。何を控え、誰の働きを確かめるか。兵が食えぬことも、村が差し出せぬことも、どちらかを消さずに書いた。
途中で筆が止まる。
⸻
「違うな。これでは怒っておるだけだ」
「怒ってるでしょ」
「怒っておる! だが、怒っただけでは政は動かぬ!」
⸻
一行を消し、書き直す。
やがて最後の行へ筆が進んだ。
⸻
「できた?」
「……ああ!」
⸻
初めから読み返し、一字だけ直した。
⸻
「言い過ぎたところ、あった?」
「山ほどあるかもしれぬ!」
「直す?」
「直さぬ!」
⸻
顕家は紙を揃えた。
⸻
「言わねばならぬことを、言わぬ方が嫌だ。主上に、お決めいただく」
⸻
日付を書き、自分の名と花押を据えた。
延元三年五月十五日。
シンはその日付から目を離せなかった。
五月二十二日。
あと七日。
ヒカルが大きく伸びをした。
⸻
「終わったあ!」
⸻
後ろへ倒れそうになり、シンが肩を支えた。
⸻
「危ない」
「疲れただけだ!」
「それを危ないって言うんだよ」
「細かい!」
⸻
ヒカルは笑いながら起き直した。
使者が入口へ来た。
顕家は文を包み、封をした。差し出す時に手が一度止まる。
それから、いつものように胸を張った。
⸻
「主上へ! 北畠顕家が申し上げる!」
⸻
今度は、自分から手を離した。
使者の持つ灯が宿営地を遠ざかっていく。
顕家は杖をつきながら、その火へ顎を上げた。
⸻
「届くぞ」
「うん」
「返事も聞く」
「うん」
「奥州へも帰る!」
「うん」
「お前も来る!」
「それはさっき聞いた」
「何度でも言う!」
⸻
顕家が笑った。
戦場で兵を立たせてきた、あの高い笑い声だった。
シンも笑う。
灯は遠ざかっていく。
顕家はもう空を見なかった。
⸻
延元三年五月十五日。
石津まで、あと七日。
⸻
(第百四十八話へ)




