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同じ月の下で

第百四十六話 同じ月の下で


⸻


「静かになったなあ」


⸻


 般若坂の戦いの翌日。追手を残して京へ戻った師直を前に、尊氏は耳の後ろを掻いた。


 八幡大菩薩の声が聞こえない。昨夜も夢には現れなかった。隣では直義が、朝から書状を繰っている。


⸻


「静かで結構です。兄上、こちらにも目を通してください」


「うん。その前に、北畠はどうなった」


「逃げました。まだ軍の形を保っております」


⸻


 師直の袖口には、乾いた泥が残っていた。


 尊氏は膝へ頬杖をついた。


⸻


「大したものだなあ。あそこまで来て、まだ走れるのか」


「放っておけば、また向かってきます」


「そうだろうなあ。惜しいなあ」


⸻


 直義が紙を置いた。師直は返事を待っている。


 尊氏は庭を見たまま、頬杖を外した。


⸻


「でも、我々も生き残らなければならないし……。うん。師直、討ってくれ」


「承知しました」


「残念だなあ」


⸻


「今度は私も出よう」


 直義が言った。重ねた書状の端を揃え、師直を見る。


⸻


「鎌倉では散々走らされた。北畠には、返しておらぬ借りがある」


「……悪いが、弟殿は戦が弱い。出られても足手纏いです」


「なんだと!」


⸻


 尊氏の頬杖が、また戻った。


⸻


「鎌倉では事情があった。あれを私一人の戦下手で片づけるな」


「ですから、得意な方を頼みたい。裁許が滞れば、勝った兵まで所領の取り合いを始める。あれを収められるのは弟殿でしょう」


「それと、今の言い草は別だ」


「文仕事は今まで通り弟殿に。荒事は我ら高家が引き受けます」


⸻


 師直は、話がまとまった顔をしていた。直義はまとまっていない顔で、兄へ向き直った。


⸻


「兄上も何か言ってください」


「まあまあ」


⸻


 怒っている弟の指に、墨がついていた。師直はその前へ、次の書状を出している。


 尊氏は二人を眺めた。


 以前聞いた言葉が、ふと浮かんだ。


⸻


『お前もまた鬼となり、弟を殺す』


⸻


「……嫌だなあ」


⸻


 直義は師直の文面まで直し始めていた。師直は気にも留めず、指されたところを覗き込む。


 尊氏は膝の上で指を組んだ。


⸻


「やっぱり争いは何も生まないなあ」


⸻


⸻


 般若坂から二度目の朝を越え、シンたちは飛鳥の南、山あいの里へ入った。


 丘の裾を回った先でも、まっすぐ南へは進めなかった。敵旗が見えれば道を変え、物見が戻るまで林に伏せた。西へ出る道も敵に塞がれ、南へ下るうち、結城の使いがようやく追いついた。


 吉野へ越える峠の手前に、味方がいるという。


 斜面に寄り添う家々が見えた時、先を歩く兵がつまずいた。隣の男が肩を入れる。起こされた男は礼も言えず、顎を胸へ落としたまま歩いた。


 寺の軒下に、結城の旗があった。


⸻


「顕家!」


⸻


 義良が縁から下りかけた。小萩が袖を掴み、足元の泥を指す。


 顕家は馬上で頭を下げた。降りようとして脚が止まり、タダが両脇へ手を入れる。地面へ下ろされるまで、義良は何も言わなかった。


 白い鎧の金飾りが、一つ曲がっていた。背へ回った紐は別の縄で継がれ、裾には洗い落とす水さえなかった血が固まっている。


 結城が列の後ろへ目を向けた。


 負傷者を載せた馬が通る。楯を担いだ兵が続いた。減った旗の間を、結城の目がもう一度往復した。


 列の後ろへ目を向けた小萩も、足を止めた。


⸻


 顕家が頭を下げたまま、拳を握った。


 結城は尋ねなかった。傍らの兵へ、傷の深い者から堂へ入れるよう命じた。小萩も袖をたくし上げ、水を持ってこさせる。


 義良だけが、しばらく道を見ていた。


 最後の馬の後ろからは、誰も来なかった。


⸻


 シンは借りた桶へ手を入れた。冷たさが指の割れ目へ沁みた。顔を洗おうとして腕が上がらず、水だけが胸へこぼれる。


 タダが桶を持ち上げた。シンは顔を寄せ、額の泥を落とした。


⸻


「お前の腕は」


「あとで巻き直す」


「今やれよ」


「お前が済んでからだ」


⸻


 シンは水をすくう手を速めた。


 顔を上げると、顕家が歩いていた。棒を頼りに片脚をかばい、堂の前へ並べられた負傷者を見ている。南部がその後ろについていた。


⸻


「歩ける者は、これで全部か」


「まだ、伊達殿のところから遅れた者が来ます。北の道には見張りを残しております」


「戻った者を数えよ。傷のある者は、歩けても別に分ける」


⸻


 南部が兵を呼んだ。


 顕家は馬のつながれた木へ向かった。鼻先を地へ下げた馬が、呼ばれても顔を上げない。隣の一頭は前脚へ体重を掛けるのを嫌がった。


 顕家がその二頭を外させる間に、北の見張りから使いが戻った。追手は見えていない。ただ、里へ入る道をいつまでも隠してはおけないという。


 結城は、南の峠へ先導を出していた。吉野側へ使いも通った。親王を迎え入れる支度はできる。


 顕家は報告を最後まで聞き、義良の前へ膝をついた。


⸻


「殿下は、吉野へお入りください」


「顕家は」


「兵をまとめ、河内へ出る道を探します」


「一緒には来ぬのか」


⸻


 義良の手が膝へ重なった。顕家はその小さな手を見た。


⸻


「……こちらへお留めすれば、殿下を守る兵も、傷ついた者も、同じ道へ追われます」


⸻


 義良は唇を結んだ。堂の中から、苦しそうな咳が聞こえた。


 やがて、うなずいた。


⸻


「結城。殿下を頼む。タダ、お前も行け」


⸻


 シンは顔を上げた。


 タダは巻き直した腕を曲げ、顕家の脚を見た。その目がシンの腕へ移る。


⸻


「こっちは、いいのか」


「伊達や南部がおる。近衛も、シンも」


⸻


 顕家は棒を握り直した。


⸻


「馬の通れぬ所では、お前が殿下を運べ。小萩も連れていけ」


⸻


 タダは一度、息を吐いた。


⸻


「分かった」


⸻


 顕家が小萩を呼んだ。


⸻


「殿下のお世話を頼む。食事も、お召し物も。お前なら分かるだろう」


⸻


 小萩は顕家の顔を見た。次いで、まだ棒を離せない手を見た。


⸻


「……あんたは?」


「自分でできる」


「今朝、髪は梳いたかい」


⸻


 顕家の口が止まった。


 小萩は返事を待たず、シンへ顎を向けた。


⸻


「幕を借りてきな。人の入らない所だよ」


⸻


⸻


 寺の建物は負傷者で埋まっていた。シンたちは裏手の平地へ、結城勢の天幕を一つ立ててもらった。


 中へ入った小萩は、まず顕家の鎧を外させた。シンは幕の外で待ち、呼ばれてから水桶を運び込む。


 脚の手当てと着替えは済んでいた。顕家は畳んだ敷物へ座り、小萩に髪を預けている。


 櫛が途中で止まった。


⸻


「引っ張るな」


「泥を結い込んでるんだよ。動くんじゃない」


「好きで入れたのではない」


「知ってるよ」


⸻


 小萩は絡んだところを指で分け、毛先から梳き直した。途中に草の茎が一本あった。膝へ落とし、また櫛を入れる。


 シンは桶を置いた。


 霊山でも、こんなふうに待った。早く行くぞと顕家が急かし、小萩が頭を押さえる。外には馬がいて、出立が遅れると国継が顔を出した。


 シンは入口へ目をやった。


 風が幕の裾を持ち上げただけだった。


⸻


「顎を上げな」


⸻


 濡らした布が、顕家の首筋を拭いた。小萩は襟に残った血を確かめ、肌へ当たらないよう内側を折り直す。


⸻


「帯まで斜めだ。これで自分でできるとはね」


「結べておればよいだろう」


「歩くうちに緩むんだよ」


⸻


 小萩が結び目へ指を入れると、簡単にほどけた。


 顕家は不満そうに鼻を鳴らした。それでも、言われる前に両腕を少し広げた。小萩の手が脇を通り、帯を回す。


 細い指の節が腫れていた。親指の爪の脇にも、小さな裂け目がある。


⸻


「小萩も、手を巻け」


「これが済んだらね」


「それは、私が言うと叱られる返事だ」


⸻


 小萩が口の端を上げた。


「よく覚えてるじゃないか」


⸻


 黒い烏帽子が載った。小萩は一歩離れて傾きを確かめ、額の髪を指先で整えた。


 髪も襟も、元へ戻った。


 顔に残る泣き腫らした跡だけは、布では落ちなかった。小萩はそこを拭かなかった。


⸻


「替えの布はこの包み。濡れたのを巻きっぱなしにするんじゃないよ」


「分かっておる」


「飯は、出された時に食べる」


「分かっておると言っている」


⸻


 小萩は襟へもう一度手を伸ばした。


 直すところはなかった。その縁を二本の指で押さえ、平らに撫でた。


⸻


「あんた、アタシより先に死ぬんじゃないよ」


⸻


 顕家が、小萩を見上げた。


 返事までに一息かかった。


⸻


「……お前、まだ随分生きるつもりだな」


「困るかい」


「困らぬ」


⸻


 小萩はうなずき、手を離した。


 立つ時だけ、顕家の肩を支えにした。顕家は動かずに待ち、小萩が膝を伸ばしてから、自分の手を下ろした。


⸻


「では、殿下を頼む」


「ああ」


⸻


 小萩は包みを抱えた。入口でシンに目を留め、空の水桶を指す。


⸻


「その子が寝たら、あんたも寝るんだよ」


「……うん」


⸻


 幕が開き、小萩は殿下の支度へ戻っていった。


 顕家は正面を向いたまま、襟の縁を親指で押さえた。


⸻


⸻


 夕方、天幕へ飯の匂いが入ってきた。


 寺から分けてもらった米と粟を、タダが大鍋で軟らかく煮ていた。細かく刻んだ干し大根が混じっている。塩を入れると、縁へ集まっていた兵が身を起こした。


 椀を持てない者へは、隣の者が食わせた。


 シンも運ぶのを手伝った。片手に一つずつではこぼすので、盆へ二椀載せ、傷の浅い方の腕で抱える。二度往復したところで、タダに盆を取られた。


⸻


「お前も食え」


「あと一回」


「それは殿の真似か」


⸻


 シンは口を閉じた。


 タダは鍋の底からすくい、シンの椀へ足した。


⸻


 天幕の奥では、顕家が南部から最後の報告を聞いていた。


 兵をどこで休ませるか。夜番を誰と替えるか。朝、道を見に出す者は決まったか。


 南部が答えるたび、顕家は一つずつうなずいた。


⸻


「急ぎの報せは、ここへ」


「承知しました」


⸻


 南部は去り際にタダの椀を見て、近衛へも飯を回させると言った。


 顕家はもう筆を取らなかった。


⸻


「食うぞ」


⸻


 タダが、入口近くへ腰を下ろした。外の焚き火が幕の開いたところから見え、敷物の端を赤く照らしている。


 シンは椀を受け取った。粒が舌で潰れる。大根を噛むと、薄い甘さが出た。飲み込んだものが、冷えた腹まで落ちていくのが分かった。


⸻


「……うまい」


「熱いぞ」


「先に言えよ」


⸻


 タダが笑った。


 顕家も両手で椀を持っている。一口ずつ、確かめるように食べた。


 シンは横を空けかけた。


 タダはもう座っている。ほかに、場所を作る相手はいなかった。


⸻


「まだ、鍋にあるのか」


 顕家が聞いた。


⸻


「皆の分を取っても、少しな」


「なら、もう少しくれ」


⸻


 椀が差し出された。タダは大きくうなずき、受け取って外へ出た。


 誰も、珍しいとは言わなかった。


 シンは自分の椀へ目を落とした。たった今、顕家が欲しがったものを、冷まさないうちに食べた。


 戻ってきたタダは、顕家へ椀を渡すと立ったままだった。


⸻


「もう行くのか」


「ああ。結城殿に呼ばれてる。先導が戻った」


⸻


 日暮れまでに、峠道を知る里の者が来ていた。結城は親王の一行を先へ送り、自分もその列へ付く。タダが義良の馬につけば、出発できるという。


 顕家は椀を置いた。


⸻


「殿下は」


「食った。婆さんもついてる」


「そうか」


⸻


 タダが空の椀を重ねた。三つ目へ手を伸ばしかけ、顕家がまだ食べていると気づいて引っ込めた。


⸻


「それは置いとけ」


「洗って返すよ」


⸻


 シンが答えると、タダは腰の小袋を外した。中には、明日の分に取り置いた糒があった。


⸻


「水で戻せ。固いまま、慌てて食うな」


「分かってる」


「殿にも食わせろ」


「私は聞こえておるぞ」


⸻


 タダはうなずいた。シンへ袋を渡す時、目が合った。


⸻


「頼むぞ」


「ああ。そっちも」


⸻


 タダはシンの肩を叩こうとして、途中で手を下げた。背中へ、掌を一度置く。


 それから身を屈め、幕の外へ出た。


 隠れていた焚き火が、全部見えた。


⸻


 顕家は残りをゆっくり食べた。


 外から、馬を動かす声が聞こえた。草鞋が土を擦り、誰かが荷縄を確かめる。低いタダの返事も、一度だけ聞こえた。


 箸が止まった。


 入口の方を向く。立とうとはしなかった。聞き終えるまで待ち、また椀へ顔を戻した。


 シンも何も言わなかった。


 食べ終わる頃には、馬の足音が遠くなっていた。


⸻


 顕家が空になった椀を置いた。指に米が一粒ついていて、それを取ろうとしていた。


 そのまま、手が止まった。


⸻


「ヒカル?」


「……寝ておらぬ」


「まだ何も言ってない」


⸻


 瞼が持ち上がった。シンを見たはずの目が、すぐに下がる。


 烏帽子を外したところまでは、自分でできた。膝の横へ置き、深く息を吐く。頭が前へ傾いた。


 シンは椀を遠ざけた。


⸻


 名前を呼び直すのをやめた。


 眠っている。


 さっきまで、誰を生かすかを決めていた人が、敷物の上で首を落としている。眉間にはまだ皺が寄り、膝へ置いた手も半ば握られていた。


 シンは畳まれた衣を寄せ、枕にした。傷のある腕では抱えられない。そばへ膝をつき、ヒカルの背を支えて、少しずつ横へ傾けた。


 身体が傾くと、ヒカルが息を詰めた。


 痛めた脚が引かれていた。シンは動きを止め、膝の下へ布を足す。呼吸が戻るまで、その姿勢で待った。


 頭が枕へ落ち着いた。


 肩を支えていた手を、そっと抜いた。


⸻


 襟がずれていた。


 小萩がきれいに合わせたはずの上衣が、横になった拍子に少し開いている。


 シンは、目を逸らすのが一拍遅れた。


 白い首筋から、鎖骨へ続く線が見えた。鎧の下では意識したことのない、細い肩だった。布の奥へ続く柔らかな丸みが、呼吸に合わせてわずかに上下している。


 女なんだ、と今さらのように思った。


 知っていたはずなのに、頭の中で知っていることと、目の前に眠る身体は違った。


 胸の奥が妙に熱くなった。


 見てはいけない。


 そう思うほど、すぐには目を離せなかった。


 頬まで熱くなるのが分かった。


 シンは慌てて掛け布を取った。


 その時だった。


 鎖骨の下に、白い線があった。


⸻


 古い傷だった。


 細く、皮膚へ沈むように残っている。そのすぐ脇には、まだ赤みのある新しい傷の端と、巻き直した布が見えた。


 腕にも打ち身があった。消えかけた黄色の隣に、青紫が重なっている。手首の擦れた皮膚は赤く、指の付け根は硬くなっていた。


 さっきまで感じていた熱が、別のものへ変わった。


 シンは息を止めた。


 どの戦でついた傷なのか、分からなかった。


 一緒にいたのに。


⸻


 肩の傷へ、手が伸びかけた。


 触れたら痛い。


 シンは指を止め、肌に触れないよう衣の端だけを摘んだ。襟を戻す。小萩のようには揃わず、少し曲がった。何度も触って起こすのが嫌で、そのままにした。


 脚にも布を掛けた。膨らんだ足首へ重さが乗らないよう、端を折り返す。


 傷が隠れても、シンの手は膝の上で開いたままだった。


⸻


 北畠顕家は強い。


 ずっと、そう思っていた。


 誰より早く敵を見つけ、誰より大きな声で笑う。白と金の鎧が前へ出ると、兵がついていく。シンも、あの背中が見えれば走れた。


 怖がることも知っていた。眠らずに働き、腹を空かせ、叱られれば子供のように言い返すことも。


 けれど、鎧を着て立てば、また大丈夫だと思ってしまった。


 傷は、その間にも増えていた。


 シンは、布の下の肩を見た。


 二人きりになれば、顕家ではなくヒカルと呼べる。


 そのヒカルが、一つずつ受けていた。


⸻


 ヒカルの口がわずかに開いた。声は出ず、息だけが漏れた。


 飯をお代わりした椀が、膝の横に残っていた。


 まだ若い顔だった。


 小萩に向かって、まだ随分生きるつもりだなと言った。その時の、ようやく返せた強がりを思い出す。


 ヒカルが小萩ほど年を取ったところを、シンは想像しようとした。


 すぐには浮かばなかった。


 今の顔で、今の声で、戦場を走る姿ばかりが出てきた。


 腹が立った。


 どうして、その先がない。


⸻


 歳を取れば、あの髪にも白いものが混じるだろう。人の言うことを聞かないまま、腰が痛いと文句を言うかもしれない。


 飯が少ないと怒る。気に入ったものは、今日みたいにもう一椀欲しがる。


 奥州の、戦の音がしない家で。


 朝、髪を梳き、自分で結んだ帯が曲がったと誰かに笑われる。日が暮れたら帰ってきて、また飯を食う。


 その帰り道に、自分もいられたらと思った。


⸻


 国継の軽口が、記憶の底で短く響いた。


 所帯を持って。子でも抱いて。


 あの時は、ヒカルの赤い顔を見て笑った。


 今なら、笑わずに聞いたと思う。


 誰と暮らすのかも、どんな家に住むのかも、ヒカルが決めればいい。


 ただ、毎朝のように人が死ぬ方へ出ていかなくていい暮らしがあってほしい。


 小萩と同じように、若い誰かを叱れるところまで生きてほしい。


 シンは掛け布の角を伸ばした。


 その時、川のそばで聞いたモモの声を思い出した。


⸻


 石津。


 五月二十二日。


 死ぬ。


⸻


 息を吸いかけた胸が止まった。


 シンはヒカルの顔へ目を戻した。布の端が、呼吸に合わせて動いている。


 いる。


 まだ、ここにいる。


 変えると決めたのに、般若坂でさえ失う寸前まで行った。国継は帰ってこなかった。


 知っているだけでは、誰も助からない。


 シンは腕の結び目へ触れた。国継が締めてくれた布は、手当ての時に外され、今は脇へ畳んであった。新しい布の上から押さえても、あの指の固さを覚えていた。


 死んで戻ることも、もうできない。


 次に死ねば、この時代からいなくなる。ヒカルを残して。モモを見つけられないまま。


⸻


 シンは足を組み直した。痺れた指先へ、ゆっくり血が戻ってきた。


 朝までに、できることを考えた。


 飯を食わせる。眠れる時に眠らせる。脚が痛むなら、歩かずに済むよう人を呼ぶ。自分も倒れない。何でも一人で引き受けて、あの背中を追うだけには戻らない。


 それだけで石津を変えられるとは思えなかった。


 それでも、目の前の一息を守るところからしか始められない。


⸻


「死なせない」


⸻


 寝息を乱さない声で言った。


 石津までではない。その先へ行く。


 また腹を空かせて、朝の飯を待つところまで。もっと先まで。


 一緒に奥州へ帰る。


 シンは枕元へ水を寄せた。目が覚めた時、手の届く場所へ置いた。


⸻


 外で枝が鳴った。


 シンは振り向いた。白いものが幕の隙間を横切ったように見えた。


 何もなかった。


 近衛が焚き火へ枝をくべていた。火に照らされた煙が、細く流れている。


 それでも、シンは入口から目を離せなかった。


⸻


 薄桃色が抜けた衣。


 泥も血もそのままで、白くなった袖。


 喉の前のフツ。


 刃を持つ右手首を、左手で押さえたモモ。


⸻


 指が食い込んでいた。自分の手を傷つけながら、シンへ来ようとする刃を止めていた。


 あの距離で目が合った。


⸻


『……不同意』


⸻


 覚えている。


 シンは自分の右手首を握った。強く掴むと、脈が指へ当たった。


 離した。


 代わりにはならなかった。


⸻


 探したい。


 声の届くところまで行って、もう一度あの手を取る。


 シンは振り返った。


 ヒカルが眠っていた。


 小萩が整えた髪が、枕の上へ広がっている。


 どちらも失いたくない。


 それだけだった。


⸻


 風が冷たくなった。


 シンは幕を閉じようとして、空を見た。


 山の上に月があった。


 薄い雲が縁をかすめ、ゆっくり離れていく。焚き火の届かない土にも、淡い光が落ちていた。


 奥で、布の擦れる音がした。ヒカルは目を閉じたまま、顔の向きを変えただけだった。


 シンは風の入る側を閉じた。細く残した隙間から、もう一度空を見る。


 北へ帰る道も、林の向こうも、ここからは見えなかった。


 月は、山の上に残っていた。


⸻


⸻


 山中で、白い袖が揺れた。


 モモは木々の切れた場所に立っていた。薄桃色の抜けた衣には、乾いた血と泥が残っている。裂けた裾が草へ触れた。


 黒い髪には、桃の飾りがあった。


 右手にフツを持っている。


 モモが顔を上げた。


⸻


 月があった。


 薄い雲が離れ、頬へ光が届いた。表情は動かなかった。


 風に桃の飾りが揺れた。


 フツを握る指が、一瞬だけ緩んだ。


 モモは、月を見上げていた。


⸻


(第百四十七話へ)

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