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国継

第百四十五話 国継


⸻


 林が遠ざかっていく。


 シンは引かれる腕を振りほどきかけた。もう一度見れば、桃の飾りが見えるかもしれない。枝の向こうで、モモもこちらを探しているかもしれない。


 足元に矢が刺さった。


 前の兵が振り返り、シンの胸を押した。歩け、と口が動いていた。声は聞こえたのに、言葉が頭へ入るまでに間があった。


⸻


「お前まで止まるな!」


⸻


 国継に背を叩かれた。肩の傷が痛み、シンはようやく前を向いた。


 タダが顕家を支えて歩いている。フツに斬られた腕から、まだ血が落ちていた。顕家の片脚は、ほとんど地面に着いていない。


 シンは反対側へ回ろうとした。二の腕を伸ばした途端、傷が引きつった。うまく持てない。指を握り直している間に、近衛が肩を貸した。


 また林を見た。


 もう何も見えなかった。


⸻


「伊達殿が押し返す。今のうちに下れ!」


⸻


 国継の声に、兵が足を速めた。


 西から迫っていた足利勢へ、伊達の騎馬が向かっていた。敵の先頭を押し退け、道の脇を空ける。その後ろを、負傷者を担いだ兵が通った。


 伊達勢が下がると、今度は南部勢が楯を立てた。追おうとした敵がそこで止まる。息を切らした伊達の兵が、その陰へ戻ってきた。


 ばらばらには逃げない。


 一方が戦い、一方が退く。南部が受ける間に伊達が先を押し返し、次は伊達の楯へ南部が下がった。


 だが、道の先にも敵がいた。


 南へ下った先、水場へ続く道の脇に弓兵が並んでいる。そこを避けて西へ出ようとすると、騎馬が横から寄せてきた。


 奥州兵は、道の東端へ押し寄せた。


⸻


⸻


「前の兵を下げろ。次を出せ」


⸻


 高師直は、息を切らして戻る兵を通した。追撃へ出ていた者の代わりに、休ませていた一団を道へ入れる。


 北畠の殿軍は崩れない。正面から追いすがれば、こちらも兵を失う。


 なら、追われる者より先へ行けばよい。


⸻


「弓は水場の道を離れるな。騎馬は西を塞げ。中へ踏み込むなよ。向こうから出てくる所を叩け」


⸻


 使いが馬を走らせた。


 師直の前で、北畠の兵が東へ寄っていく。広い道を使わせなければ、足の遅い者から詰まる。仲間を置いていかぬ軍なら、なおさらだった。


 顕家の旗が、また止まった。


 師直はそこを指した。


⸻


「あの旗を休ませるな」


⸻


⸻


 結城の兵が、道の東側へ突き出た敵を押し退けた。その隙間へ、親王の馬が通される。


 馬上の義良が後ろを見た。小萩も振り返りかけたが、傍らの兵が手綱を引いた。結城は二人を先へやり、自分は列の最後に残った。


⸻


「顕家殿の旗が遅れております!」


「戻らぬ。親王をお連れする。そう伝えよ」


⸻


 結城は北を見た。唇を固く結んだまま、使いを押し出した。


 シンたちにも、その言葉が届いた。親王の列は南へ抜け、吉野を目指す。顕家と合流するためには待たない。


 国継はうなずき、使いを返した。


 その間にも、南部勢が敵を止めていた。伊達の兵は負傷者を通し、次に下がる場所へ走っている。


 進める道はあった。


 顕家の近衛だけが、足を止めていた。


⸻


「殿、どちらへ」


⸻


 国継が指した先で、道が二つに分かれていた。


 南へまっすぐ下れば、親王たちに続ける。ただし、水場の弓兵がさらに寄ってくれば塞がれる。


 東の細道は、低い丘の陰へ入る。馬を並べては通れないが、敵からも見えにくかった。丘の向こうで南へ折れれば、今の道を避けて下れる。


 顕家は両方を見た。


 口が開く。東へ上がりかけた指が、南の敵旗を見て止まった。


⸻


「殿」


「……待て」


⸻


 国継は待った。


 近衛も待った。


 顕家の額から汗が落ちた。脚を支える兵の腕を握り、何か言おうとしている。敵がどこにいるのかは見えている。その目が、道と兵の間を何度も往復した。


 シンは、勝ちかけた坂で胸を張っていた顔を思い出した。


 あの顕家が、間違えることを恐れている。


 シンも口を開いた。東へ行けば、と言いかけて声が詰まる。林へ消えた白い袖が浮かんだ。モモも東へ行った。その先へ行きたいだけではないのか。


 誰にも、何も言えなかった。


 後ろで、兵がぶつかる音がした。


⸻


「先はまだか!」


⸻


 負傷者を担いだ兵が立ち往生していた。後ろから人が来る。顕家の旗の周りへ、逃げてきた者まで溜まり始める。


 タダが道を塞いだ荷袋を放り出した。疲れた馬を引いて端へ寄せ、腰の立たない兵を背へ乗せる。腕の傷には、片手で布を巻いただけだった。


 それでも、先頭が動かなければ通れない。


 国継が顕家を見た。


 今度は尋ねなかった。


⸻


「東へ入れ。馬は一頭ずつ。歩ける者から先の道を空けろ!」


⸻


 近衛が動き出した。顕家はその背を追うように顔を上げたが、国継を止めなかった。


 細道の入口には、崩れかけた土手と、根を出した木があった。内側へ入れば矢は避けられる。だが、列が入る前に後ろから押されたら逃げ場がない。


 南部勢は、すでに下の曲がりで戦っていた。ここまで戻せば、今度はそちらの道が塞がる。


 国継が、後ろを振り返った。


⸻


「伊佐の者、こっちへ来い。国府からの古い連中もだ」


⸻


 荷を運んでいた男が顔を上げた。白い顎鬚の兵が楯を抱えて来る。馬の手綱を若者へ渡した男も、黙って国継のそばへ立った。


 どの顔も、シンは知っていた。


 霊山で門を開けた男。夜番の火へ薪を足していた男。顕家の出立が遅れるたび、馬をなだめながら待っていた男。


 国継と同じ北奥の者たちだった。顕家が陸奥へ来た頃から、国府でも霊山でも、その足元の仕事をしてきた。


⸻


「俺は残る。ここで追手を止める」


⸻


 顎鬚の兵が、抱えていた楯を下ろした。


 聞き返さなかった。


 国継は若い兵の胸を押し、先へ行かせた。


⸻


「お前は走れる。南部殿へ、殿が東へ入ると伝えろ。その後は戻るな」


「俺も残ります」


「使いが届かなけりゃ、誰も逃げられん。行け」


⸻


 若者は歯を食いしばり、駆け出した。


 もう一人、槍を構えた男にも国継は首を振った。


⸻


「お前の子は、去年生まれたばかりだろう。馬を引け。あの怪我人を運べ」


「国継殿だって」


「だから頼むんだ。郷へ帰れる者を残す」


⸻


 男は何か言いたそうにしたが、槍を別の兵へ渡した。負傷者の馬へ走り、手綱を取る。


 四人が残った。


 国継はそれ以上集めなかった。楯を置く場所と、退く先の曲がりを指で示す。兵たちは道を見て、すぐに散った。二人が楯を支え、顎鬚の兵が弓を取る。近づきかけた敵が、飛んできた矢を避けて土手へ伏せた。


 逃げる列の脇で、シンだけが国継を見ていた。


⸻


「五人で、何ができるんだよ」


「一度に入ってこられるのは二、三人だ。ここなら、多少は待たせられる」


「その後は?」


⸻


 国継は楯を引きずり、入口を狭めた。


 シンを見ずに、土へ楯の端を押し込む。押す手が一度滑った。国継は掌の泥を服で拭い、もう一度力を込めた。


⸻


「お前に頼むことがある」


⸻


 シンは首を振った。聞きたくなかった。


 国継は構わず続けた。


⸻


「北に女房と、まだちっこいのがいる。俺が戻らなかったら、よろしく頼む」


「……子供、いたのか」


「ああ。出る時は、まだ抱かれる方が多かった。今は走ってるかもしれん」


⸻


 口元が緩んだ。だが、その先は話さなかった。


 国継はシンの二の腕へ布を巻いた。緩んでいた服の切れ端を外し、新しい布で締める。痛くて顔をしかめると、動くな、と肩を押された。


⸻


「霊山へ戻れば、家は分かる。さっきの馬引きも知ってる」


「自分で帰ってくれよ」


「帰りたいさ」


⸻


 結び目を引く手が止まった。


 国継はシンを見た。いつもの困ったような顔だった。


⸻


「だから、お前までここで使えん。殿に死なれちゃ、北にいる奴らも困る」


⸻


 土手の陰で、顕家が顔を上げた。


 近衛が通り過ぎるのを待つ間、タダに支えられて座っていた。国継が残る話も、妻子の話も、聞こえていたはずだった。


 何かを言おうとするたび、唇を噛んでいた。


 国継はその前へしゃがんだ。


⸻


「家族はいいものですよ、殿」


「……今、何の話を」


「戦が済んだら、殿も娘に戻ればいい。そこのシンとでも所帯を持って。子でも抱いて、奥州でゆっくり暮らしなさい」


⸻


 顕家がぽかんと口を開けた。


 その顔へ、見る間に赤みが差す。


⸻


「な、なぜお前が、それを知っている!」


「国府の頃からお仕えしてるんです。今さらでしょう」


「今さらとは何だ! 私は誰にも」


「ええ。殿が一生懸命隠しておられたので、こちらも知らぬ顔をしておりました」


⸻


 顎鬚の兵が、楯の向こうで肩を揺らした。


⸻


「お可愛らしい将軍様だとは、皆で申しておりました」


「皆だと!」


「古い者のうち、何人かは。口には出しませんでしたがね」


「今、出しておるではないか!」


「鎮守府将軍殿がこんなに可愛いわけがない!などと喚くヤツもおりましたな!」


⸻


 もう一人が吹き出した。矢をつがえながら、顔だけを背ける。


 顕家は真っ赤になって睨んだ。怒っているのに、口元まで動いてしまう。誰かを叱れば、別の誰かが笑う。霊山で何度も見た顔だった。


 シンの喉からも、短い息が漏れた。


⸻


「もう諦めろ、ヒカル」


⸻


 言ってから、気づいた。


 顕家がシンを見た。国継も顔を向ける。


⸻


「ヒカル?」


⸻


 シンは口を閉じた。


 国継は聞き直さなかった。初めて知った名を、胸の中で確かめるように顕家を見た。


 兵の笑いも止まっていた。


 国継が立ち上がる。膝の土を払い、顕家の前で一度だけ頭を下げた。


⸻


「……ヒカル殿」


⸻


 顕家の顔から赤みが引いた。


 さっきまで怒っていた口が、今は何も言えずに開いていた。


⸻


「俺たちの家族を頼む。奥州を頼む」


⸻


 北へ帰れと、言われていた。


 勝って名を上げろでも、仇を取れでもない。待っている人の所へ、生きて帰れと。


 国継はシンの布の結び目を指で確かめ、タダへうなずいた。


 それから、楯の向こうへ行った。


⸻


「ま、待て!」


⸻


 顕家が立ち上がった。


 痛めた脚がもつれ、土へ手をつく。それでも国継へ這い寄ろうとした。


⸻


「命令だ! 戻れ、国継!」


⸻


 国継は振り返らなかった。


 タダが顕家を抱え上げた。背へ回して担ぎ、立つ。顕家が肩越しに腕を伸ばしたが、もう国継には届かなかった。


⸻


「下ろせ! 国継を連れ戻せ!」


「国継が怒るぞ」


⸻


 タダが走った。


 顕家はその背を拳で叩いた。下ろせと叫び、何度も後ろへ身をよじる。タダは傷ついた腕でも脚を抱え直し、走るのをやめなかった。


 シンは楯の前に立ち尽くした。


 国継が槍を構えた。その肩越しに、敵の兜が見えた。


⸻


「行け、シン!」


⸻


 シンは一歩、後ずさった。


 小さな子がいる。国継の帰りを待つ人がいる。何も知らず、北で暮らしている。


 託された腕の布を押さえ、シンはタダを追った。


⸻


⸻


 最初の騎馬が、狭い道へ入ってきた。


 国継は楯の陰で待った。馬が根に足を取られた瞬間、横から槍を突き出す。騎乗の男が落ち、後ろの馬が急に止まった。


 顎鬚の兵が矢を射た。


 続いてきた馬が崩れ、道に横たわる。後ろの兵が乗り手を引き出そうとする間、国継たちは次の曲がりへ退いた。


⸻


「楯を捨てるな。あと一度使う」


⸻


 二人で楯を引き、木の根へ立てかけた。荷を持つ時と同じように息を合わせる。追ってきた徒歩の兵が、倒れた馬を越えてきた。


 弓を持つ男の肩へ矢が刺さった。男はよろめいたが、弓を落とさず、残った一本をつがえた。


 足利兵は無理に押し込んでこなくなった。


 前から楯を突き、横の土手へ別の兵が上る。国継がそちらへ槍を向けると、正面から刃が出た。


 脇の男が倒れた。


 顎鬚の兵も、楯を支えたまま膝をついた。国継は肩を貸しかけ、すぐに槍を戻した。今、手を離せば二人とも刺される。


 背後へ目をやった。


 顕家の白い鎧は、もう見えなかった。


 代わりに、出会った頃の顕家の、まだ幼く白い顔が浮かんだ。


⸻


⸻


 あれは顕家が陸奥へ下って来たばかりの頃だった。


 都から来た若い公家は、国府の外を見て、朝から露骨に顔を曇らせていた。道は泥に沈み、風は冷たい。見渡しても田と野と低い家ばかりだった。


⸻


「馬は汚れる。風は痛い。どこまで行っても山しかないではないか……」


⸻


 声にも足取りにも力がなかった。


 このままでは、殿が陸奥を嫌いになる。


 若かった国継たちは、本気で困った。見せられる御殿も、華やかな市もない。最後にはタダが腹を叩いた。


⸻


「なら、食わせるべ」


⸻


 焼いた鮭が運ばれた。皮から脂が落ち、炭の上で音を立てていた。椀には鮭の卵をほぐし、塩にしたものが山ほど盛られていた。


 顕家は最初、それを怪しそうに箸でつついた。


 一粒を口へ入れた。


 次に、鮭の身を大きく取った。


 白い頬が緩んだ。


⸻


「……もう一椀」


⸻


 タダが笑い、国継たちも笑った。顕家は耳まで赤くしながら二椀目を受け取り、今度は隠そうともせず鮭の卵を頬張った。


 食べ終わる頃には、自分から外へ出ていた。


 夕日が、遠い山の端へ落ちていた。水を張った田が赤く光り、その向こうを北から来た川が曲がっている。泥だらけだった道も、人家から上る煙も、暮れかけた空の下では一枚の景色になっていた。


 顕家は長く、それを見ていた。


⸻


「美しいな」


⸻


 それから、後ろにいた国継たちへ振り返った。さっきまで沈んでいた目が、もう光っていた。


⸻


「決めたぞ。ここを、日の本一の美しい国にする」


⸻


 京から下る者は、北の人間を田舎者と笑った。陸奥を、任が終われば都へ帰る土地としてしか見なかった。


 顕家は違った。


 何もないと嘆いたその日のうちに、ここにあるものを食い、ここに立つ者と笑い、同じ夕日を見た。そして、この土地を美しくすると言った。


 土着の武士たちは、都から来た白い公家を、自分たちの将軍として追い始めた。


 まだ背も今より小さかった。白い装束で野を走り、土地の名を尋ね、知らぬ草木にまで足を止める。その姿を、誰かが花のようだと言った。


 若い国継は笑っていた。


 この将軍なら、ついていけると思った。


⸻


⸻


 楯が倒された。


 突き出した槍を敵に掴まれる。国継は放して太刀を抜こうとした。その胸へ、別の槍が入った。


 息が詰まった。


 柄に掛けた手が離れ、膝が土へ落ちる。最後までそばにいた兵が国継を引こうとして、同じ場所へ倒れた。


 敵の脚の間から、南へ続く道が見えた。


 その先で、白い花が遠ざかっていく。


 国継は血を吐いた。喉が鳴り、なぜか笑いが混じった。


 あの日の約束は、まだ終わっていない。


 泥に手をつき、残った息を吸った。


⸻


「……走れ、花将軍」


⸻


 声は、追手の足音に呑まれた。


 伊佐の旗が、道を塞ぐ木へ引っかかった。


 やがて、それも土へ落ちた。


⸻


⸻


「国継……!」


⸻


 顕家が、タダの背で振り返った。


 丘の陰へ入る手前から、さっきの曲がりが見えた。立っていた旗がない。追手の兜が、楯のあった場所を越えてくる。


 国継の最後の声は、言葉までは届かなかった。


 それでも、自分を呼んだのだと分かった。


 顕家の拳がタダの背へ落ちた。もう叩く力もなく、服を掴むだけだった。


 焼いた鮭の匂いがした。


 あるはずのない匂いだった。


 水を張った田。夕日に染まった山。土着の武士たちの、遠慮のない笑い声。都を離れて以来、初めて美しいと思った陸奥の空。


 あの日、自分は言った。


⸻


(ここを、日の本一の美しい国にする)


⸻


 国継が、一番近くで笑っていた。


 何も知らなかった自分に、道を教えた。土地の名を教えた。雪の越え方も、人の頼り方も、鮭のうまさも教えた。


 都から来た将軍を、客のままにはしなかった。


 奥州の者にしてくれた。


 その国継を、置いていく。


⸻


「嫌だ……」


⸻


 顕家の喉から、子供のような声が漏れた。


 タダの背へ額を押しつけた。歯を食いしばっても止まらない。涙も声も隠せず、息を吸うたび胸が引きつった。


 シンは口を閉じたまま走った。何か言わなければと思っても、喉がひりつくだけだった。


 顕家は国継の名を呼んだ。何度も呼んだ。返事がないと分かっていても、丘の向こうへ隠れるまでやめなかった。


 タダは前を見たまま、鼻をすすった。誰も止まらなかった。


⸻


 丘の裏へ入ると、追手の姿が隠れた。


 近衛が交代でタダを支え、顕家を低い石へ下ろした。タダも膝をつく。腕を巻いた布が、血で濡れていた。


 休める場所ではない。先の者が斜面を下る間、息を整えるだけだった。


 顕家は北へ身体を向けた。


⸻


「戻らねば……」


⸻


 脚を動かし、顔を歪めた。シンが手を出す前に、近衛が支えた。


 下の道から、南部の使いが来た。国継が出した若い兵を連れている。二人は顕家を見つけ、膝をついた。


⸻


「先は通れます。伊達殿が敵を退けました。南部殿も、こちらが下るまで支えると」


⸻


 顕家は返事をしなかった。


 若い兵が、国継を探して周りを見た。誰もいないと分かると、握っていた手が膝の上で止まった。


 顕家はその手を見ていた。


⸻


「私が……早く決めていれば」


⸻


 声が詰まった。拭っても、すぐ次の涙が落ちた。


 シンは否定できなかった。自分だって、林ばかり見ていた。動かなければと分かっていて、動けなかった。


 だが、今も前へ進む人がいた。


 さっき国継に行けと言われた馬引きが、負傷兵を運んでいる。馬がつまずくと足を止め、背の男へ何度も声を掛けた。


 顕家がそれを目で追った。


⸻


「結城は、親王を連れて行ったのだな」


「ああ」


「私を待たずに」


⸻


 シンはうなずいた。


 顕家は下の道を見た。伊達が開け、南部が守っている道だった。自分の命令がなくても、兵はそこを通って逃げている。


⸻


「皆、自分で決めたのだな」


⸻


 小さな声だった。


 顕家は、まだ肩を震わせていた。北を向けば、また戻れと言いそうになる。そのたび唇を噛み、逃げていく兵へ目を戻した。


 国継も、自分で残った。


 命令されてではない。帰りたくないからでもない。


 帰りたいと言って、家族を託した。


 夕日に染まった田が、顕家の目にもう一度浮かんだ。あの景色を美しくすると、自分は国継に誓った。


⸻


「まだ、終わっておらぬ」


⸻


 涙の間から、顕家は逃げていく兵を見た。


⸻


「……忘れぬ」


⸻


 顕家が泥のついた手で頬を拭いた。


⸻


「国継も、ここで死んだ者も。一人も忘れぬ」


⸻


 声が震えた。胸を張ろうとしても、肩は上がらなかった。


 それでも、近衛の手を借りて立った。


⸻


「必ず勝つ。そして……私は奥州へ帰る」


⸻


 京でも、帝の御前でもなかった。


 帰りたい場所を、顕家は口にした。


 シンの目にも、霊山の門が浮かんだ。あそこへ帰れば、国継の家が分かる。まだ知らない妻と子に会える。


 同時に、林へ消えた桃の飾りが浮かんだ。


 モモを探したい。


 諦めない。


 けれど、目の前の人を置いていくこともできない。


⸻


「俺も行く。最後まで一緒に」


⸻


 顕家が顔を上げた。


 シンは国継が巻いた布へ触れた。まだ結び目は固い。


⸻


「生きて、奥州へ帰ろう」


⸻


 顕家は息を吸い、何度も小さくうなずいた。


 タダが立ち、また肩を貸した。顕家もその肩を掴む。自分の脚へ体重を掛け、前へ出た。


 丘の先から、西の道が見えた。遠くに足利の旗が動いている。水場へ下る者を待つように、道の曲がりへ兵が寄っていた。


 顕家が足を止めた。


 近衛が顔を見る。シンも、一瞬だけ息を詰めた。


⸻


「水場へは行かず、丘の裾を回る」


⸻


 顕家は南へ続く細道を指した。その先で西へ回れば、河内へ向かう道を探せる。


 国継はいない。


 顕家は待たず、自分で若い兵を呼んだ。


⸻


「二人で先を見よ。道が塞がっていたら戻れ。残る者は負傷兵を運ぶ。馬は歩けぬ者に使え」


⸻


 若い兵が立った。隣の兵と顔を見合わせ、細道へ走っていく。


 顕家はその背を見送った。頬には涙の筋が残っている。後ろからは、また追手の声が近づいていた。


⸻


「それで、抜けられるのか」


「まだ分からぬ」


⸻


 顕家は敵旗を見た。


 耳を澄ませなかった。震える指で、今度ははっきり道を指した。


⸻


「だが――私が決める」


⸻


(第百四十六話へ)


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