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悲鳴

第百四十四話 悲鳴


⸻


 モモは枝を払い、坂へ走った。


 馬小屋はもう見えない。前方から大勢の叫びが響いた。戦いが始まっている。


「間に合って……!」


 唇を噛み、さらに足を速めた。


⸻


 白土の印を消した。細縄を切った。手紙を運ぶ男も馬も押さえた。


 それでも、手紙を見ていない男までシンの居場所を知っていた。


 春日の神に教わったと言い、迷わず白馬の左を指した。


 顕家も聞いた。


 敵も聞いた。


 吉野の近臣は、夢に現れた神人の『声』に従って御旗を進めた。そのせいで兵が押し合い、シンまで下敷きになった。


 味方か敵かは関係ない。


 立場の違う人間へ、同じ『声』が届いている。


⸻


「人を止めても、駄目」


⸻


 一人を捕まえても、別の誰かが聞く。


 全員を殺すことなどできない。それでシンを守れるとも思えなかった。


 倒木を越えた時、脇腹が痛んだ。


 モモに傷はない。


 シンの死の記録だった。


 腹を押さえても血が止まらない。


 死にたくない。


 記録の中のシンが、そう言った。


 胸の奥が締めつけられた。


 もう聞きたくない。


 もう、あんな思いをさせたくない。


 シンは命じられた荷を避けた。それでも顕家を助けに走り、斬られた。


 命令へ従わなくても、死から逃げ切れなかった。


⸻


 モモは腰のフツへ手を置いた。


 敵の男へ『声』が届いた瞬間、この鞘は冷えた。


 同じ時、視界にも白いちらつきが走った。


 何が繋がっているのかは分からない。


 ただ、『声』が届くたび、フツも自分も反応した。


 なら。


 触れてはいる。


 触れているのなら――斬れるかもしれない。


⸻


「なら、『声』そのものを、斬る」


⸻


 顕家を傷つけず、『声』だけへ届くのか。


 分からない。


 触れてはいけないものへ、自分から手を伸ばしている気もした。


 怖かった。


 それでも、試さなければ次はない。


 敵の旗が見えた。


 背後を突ける位置だったが、モモは戦わず南へ折れた。


 足利兵を何人斬っても、その間にシンが死ねば終わる。


 早く。


 シンのそばへ。


 次にシンが死んだら、もう戻ってこない。


 鞘は冷たいままだった。


 モモは手を離さず走った。


⸻


⸻


「右は取ったぞ!」


⸻


 伊達の旗が高みに立った。


 そこから奥州兵の矢が落ちる。前の時間では敵が射ていた場所を、今度は味方が奪っていた。


 西から回った足利勢も南部に止められている。


 シンは本陣の後ろで、タダと負傷兵を運んだ。


 結城が荷を道脇へ寄せている。人を背負ったままでも、楯板の陰まで下がれた。


 御旗も国継の兵が後方へ留めていた。


 近臣が何を言っても動かない。


 今度は違う。


 知っている罠には、誰も落ちていない。


 ただ、北の敵がなかなか攻めてこなかった。


⸻


「前は、この辺でもう馬が来てたのに」


「ほう。足利も手を変えたか」


⸻


 顕家が目を細めた。


 矢を受けた敵が退いても、後詰は出てこない。傷ついた兵を受け入れ、道を塞いだまま待っている。


⸻


「こちらが疲れるのを待つ気だな」


「親王を狙うんじゃないのか?」


「そちらにも兵は出そう。私が戻れば時を稼げる。戻らぬなら、このまま待てばよい」


⸻


 南から使者が来た。


 敵は姿を見せたが、結城は追っていない。親王の護衛も崩していないという。


 顕家は一度うなずき、また敵を見た。


 シンには聞かなかった。


⸻


「正面の兵を休ませよ。弓は交代で射て。馬も下げろ」


「ここで攻めるのをやめるのか?」


「やめぬ。場所を変える。国継、右へ十騎。旗を多く持たせよ。伊達には、まだ下るなと伝えろ」


⸻


 国継が使いを走らせた。


 顕家が狙ったのは、高みのさらに奥だった。


 旗が増える。


 足利方が動いた。


 奥まで取られれば横から射られる。道を守っていた一団が、楯を抱えて斜面へ上がっていく。


 顕家は手を上げたまま待った。


 矢に驚いた白馬が跳ねた。顕家の身体が鞍から浮き、踏ん張った脚をひねる。


 顔を歪めた。


 それでも敵から目を離さない。


 最後の楯が斜面へ消えた。


⸻


「南部、前へ! 今だ!」


⸻


 奥州兵が坂を駆け上がった。


 戻ろうとする足利兵の横腹へ、薙刀が入る。


 楯が倒れた。


 その脇を次の兵が抜ける。


 足利方も踏みとどまるが、人が足りない。


 南部勢が押し込み、敵旗へ迫った。


 前歯の欠けた兵が、シンの隣で拳を振り上げた。


⸻


「よし、行けるぞ!」


⸻


 あの口から血が溢れた時間を、シンは知っている。


 今は生きている。


 そのことが嬉しかった。


 水を渡すと、男は一口だけ飲み、残りを横の負傷兵へ飲ませた。


 シンの頬も緩む。


 右の斜面から、足利の増援が下りてきた。


 正面を押す南部勢の脇へ出るつもりだ。


 顕家の手が振り下ろされた。


⸻


「伊達、今だ!」


⸻


 高みの旗が、一斉に下った。


 伊達勢が駆け下りる。


 向きを変えきれない敵へ横から突っ込んだ。


 馬体を寄せられ、楯が倒れる。その隙へ徒歩の兵が飛び込んだ。


⸻


「道を開けろ! 奥州勢が通るぞ!」


⸻


 伊達が太刀を振るう。


 退いた場所へ南部勢が続く。


 足利の旗が北へ下がった。


 ここまで進めたのは初めてだった。


⸻


「結城へ。南の敵は追うな。親王の道を守れ。手の空いた者は負傷兵を運べ」


⸻


 顕家の声が弾んだ。


 脚を痛めても、胸を張って敵を見ている。


 頼もしかった。


 負傷者が後方へ運ばれ、前へ進む道が空いていく。


 タダが一人を抱え、シンが脚を支えた。


 自分たちも、この前進の一部だった。


⸻


⸻


 高師直は、下がってくる味方の旗を睨んだ。


 右へ送った兵が戻り切る前に、正面を割られた。


 親王を脅しても、北畠は慌てなかった。


 守りを減らさず押してくる。


⸻


「後詰の二手を出せ。道を渡すな」


⸻


 まだ疲れていない兵が坂を下り、崩れた味方を受け止めた。


 それでも北畠の旗は近づいてくる。


 伊達へ向けば南部に突かれる。


 南部を止めれば伊達が来る。


 両方を止めるには兵が足りない。


 師直の顎が強張った。


 このままでは、抜かれる。


⸻


「水場と替え馬は残せ。それ以外は俺の旗へ集めろ」


⸻


 まだ終わってはいない。


 北畠も人だ。


 疲れる。


 喉が渇く。


 馬も潰れる。


 そこへ休んだ兵を当てる。


 師直は太刀の柄を握った。


 まだ通さぬ。


⸻


⸻


「向こうの予備が出た!」


⸻


 シンが指した先に、新しい旗が二つ見えた。


 前の時間では、あの兵に押し潰された。


 今は違う。


 味方が押しているから出てきた。


⸻


「正面で受け止めろ。伊達は追うな。南部は交代で休ませる」


「今なら、もっと押せるんじゃないか?」


「焦るな。あの新手を疲れさせる。あれを破れば、その次が来る前に道を開ける」


⸻


 顕家は痛めた脚をさすり、鐙へ掛け直した。


 南部勢が交代しながら受ける。


 息を切らした者を後ろへ下げ、休んだ者が前へ出た。


 崩れない。


 やがて伊達勢が横へ動いた。


 敵がそちらへ顔を向ける。


 顕家が白馬の腹を蹴った。


⸻


「今だ! 私に続け!」


⸻


 近衛が白馬に続く。


 顕家は敵の手前で太刀を横へ振った。


 前の一団が押し返され、後詰へなだれ込んだ。


 敵旗の隙間に、北の空が見えた。


 あと少しだった。


 あそこを越えれば、坂を抜けられる。


 味方が歓声を上げた。


 負傷兵まで起き上がろうとして、シンは慌てて肩を押さえた。


 その手まで震えていた。


 嬉しかった。


 この戦いにも先がある。


 もう死なずに、みんなで先へ行ける。


⸻


「勝ったぞ! 御旗を進めよ!」


⸻


 後ろから、得意げな声がした。


 国継の兵が御旗を止める。


 帝の近臣は鼻を鳴らした。


⸻


「兵を動かせとは言うておらぬ。御旗を将軍殿へお届けするだけだ。そこを開けよ」


⸻


 国継は前へ出ていた。


 命令を確かめに走った隙に、従者が旗を高く掲げる。


 新しく加わった兵まで立ち上がった。


 御旗へ続こうと、浮き立った顔で前へ出ていく。


 シンの前を脚が通る。


 楯板が遠ざかる。


 胸の熱が、一気に冷えた。


⸻


「待ってくれ! まだ怪我人がいる!」


「御旗のお通りだ。邪魔をするな!」


⸻


 近臣はシンを見なかった。


 北を向き、夢の続きを口にするように呟く。


⸻


「今こそ京へ。御旗を先に。神人も、そう仰せだ」


⸻


 矢が飛んだ。


 旗の横で兵が倒れる。


 後ろから来た兵が押され、負傷者のいる場所へ崩れ込んだ。


 シンは倒れかけた男を引いた。


 寝ている兵を潰させない。


 それだけで精いっぱいだった。


 護衛は人波の向こうだった。


 味方は勝っている。


 なのに、シンだけが守りの外へ出ていた。


⸻


「黒髪だ!」


⸻


 斜面の下から、足利兵がシンを見た。


 一人。


 さらに一人。


 御旗ではない。


 シンだけを見ている。


 刀を抜き、駆けてきた。


 シンは負傷者を楯板の陰へ押し込み、自分も立った。


⸻


「タダ!」


⸻


 タダは騎馬を押し返し、脚を痛めた顕家を白馬から下ろしていた。


 こちらへ来られない。


 シンは護身用に渡された刀を抜いた。


 敵の一撃を受ける。


 腕が痺れた。


 武芸の心得などない。


 押し込まれる。


 もう一人が横へ回った。


 斬られたはずの脇腹が、きゅっと痛んだ。


 次はない。


 ここで死んだら、もう戻れない。


 シンは逃げた。


 楯板の端を回る。


 刃が肩を掠め、服が裂けた。


 焼けるように痛い。


 それでも足は動く。


 土を蹴り上げた。


 男が目を庇う。


 その脇から、もう一本の刃が来た。


 身体を捻った。


 胸は避けた。


 二の腕が裂けた。


 熱い血が指まで流れ、刀の柄が滑る。


 襟を掴まれた。


 喉が締まる。


 肩を踏まれた。


 敵が両手で太刀を持ち、切っ先を胸へ向けた。


⸻


「嫌だ……!」


⸻


 シンは踏まれた腕を無理やり引いた。


 傷が裂けた。


 それでも構わなかった。


 逃げたい。


 生きたい。


 ただ、それだけだった。


 太刀が落ちる。


 高い音が鳴った。


 敵の刃が横へ弾かれた。


 懐かしい桃の香りがした。


⸻


「モモ……!」


⸻


 桃の髪飾りが目の前を横切った。


 モモが一人を蹴り飛ばし、もう一人の腕を斬る。


 シンの襟を掴む手が外れた。


 激しく咳き込みながら、自分の腕で身体を起こす。


⸻


「立てる?」


「立てる。俺、まだ生きてる」


「……うん」


⸻


 モモの眉がわずかに緩んだ。


 袖には枝葉が絡み、草履から覗く足は血に濡れていた。


 それでも、その足で戻ってきた。


 シンが袖へ触れようとした時、モモの顔が上がった。


 顕家を見た。


⸻


⸻


 タダが白馬を下げ、近衛が顕家の周りへ楯を立てた。


 その中から、顕家が北を指す。


⸻


「右を支えよ! まだ行ける。あの旗を――」


⸻


 言葉が止まった。


 顕家の声へ、別の『声』が重なろうとしている。


 モモには分かった。


 近臣が顔を上げる。


 敵の兵まで、一瞬動きを止める。


 同時にフツの鞘が冷えた。


 来た。


 誰も口を開いていない。


 なのに、戦場のあちこちで同じ何かを聞いている。


 顕家。


 近臣。


 敵兵。


 そして、自分。


 全部が一本の見えない道へ重なった。


 モモはフツを鞘へ収めた。


 目の前の誰かを斬るためではない。


 この戦場へ降りてくるもの、そのものを狙う。


 柄を握った。


 抜こうとした。


 動かない。


 鞘が凍ったように冷たい。


 肘まで痺れた。


 抜くな、と押し戻されているようだった。


 後ろからシンの荒い息が聞こえる。


 生きている。


 今はまだ。


 その息を、もう止めさせない。


⸻


「その『声』を、切る」


⸻


 モモは柄を引いた。


 フツが、わずかに抜けた。


 そこで止まる。


 腕が震えた。


「……お願い」


 誰へ言ったのか、自分でも分からなかった。


 フツか。


 自分自身か。


 それとも、何度も死んだシンへか。


 両手で柄を掴んだ。


 足を土へ食い込ませる。


 白いちらつきが視界を覆った。


 頭の奥へ、幾つもの『声』が流れ込んでくる。


 進め。


 殺せ。


 御旗を。


 黒髪を。


 正せ。


 戻せ。


 違う。


 全部、違う。


 シンの声だけを思い出した。


 死にたくない。


 モモの奥で、何かが弾けた。


⸻


「それを、やめろ……!」


⸻


 フツが抜けた。


 刀身が白い光を引いた。


 空を斬る。


 何もない場所だった。


 それでも途中で、刃が止まった。


 腕へ衝撃が返る。


 見えない何かへ食い込んでいる。


 モモの足が半歩下がった。


 腕が軋む。


 逃げるな。


 ここで離したら、またシンが死ぬ。


「斬れ……!」


 歯を食いしばる。


 両腕へ力を込める。


 フツが、一寸進んだ。


 さらに一寸。


 白いノイズが弾けた。


⸻


「いい加減、黙って……!」


⸻


 モモは全身で振り抜いた。


 何かが裂けた。


 音ではなかった。


 それでも、戦場にあったものが一つ、確かに切れた。


 手から冷たさが消えた。


 近臣が口を開いたまま止まる。


 神の名を唱えていた敵兵も、呆けたように周囲を見た。


 顕家が耳へ手を当てた。


 白馬の荒い息。


 楯板へ矢が突き立つ音。


 負傷者を呼ぶ兵。


 土を踏む足。


 刀と刀のぶつかる音。


 戦場の音が、一気に戻った。


 あの『声』だけがない。


⸻


「……斬れた」


⸻


 モモの肩から力が抜けた。


 振り返ろうとする。


 シンを見たかった。


 指が開かなかった。


 柄から離れない。


 力を抜いても、右腕が勝手に持ち上がる。


 左手で止めようとした。


 その左手まで、柄へ吸いつくように動いた。


 視界が白く染まった。


 耳の奥で、切ったはずの『声』が何重にも潰れて響く。


 違う。


 入ってきている。


 今、斬った場所から。


 斬ったはずの『声』が、逆向きに流れている。


 触れたから、向こうからも触れられた。


 モモの唇が勝手に動いた。


⸻


⸻


「……コンス……タンティン……」


⸻


 シンは聞き慣れない言葉を聞いた。


 何のことだ。


 モモの声なのに、モモ自身は苦しそうに顔を歪めている。


 言いたくない言葉を、無理やり口から引きずり出されているようだった。


 背後で鎧がぶつかった。


 顕家が膝から崩れた。


 タダが飛び込み、抱き止める。


 脚の負傷。


 連戦。


 長い行軍。


 張り詰めた緊張。


 それまで無理やり身体を支えていたものが、『声』の消失と一緒に一気に戻ってきたようだった。


 顕家の顔から血の気が消える。


⸻


「殿を囲め! 旗は動かすな!」


⸻


 国継が叫ぶ。


 近衛が顕家の周囲へ楯を寄せた。


 シンが駆け出そうとした。


 その前へ、モモの腕が伸びた。


 フツがシンの胸を向いている。


 モモは自分の右手首を掴んだ。


 押し戻す。


 それでも刃はシンへ向かう。


 足が土を掻く。


 肩が震える。


 モモの目が、シンを見た。


 恐怖で見開かれていた。


 自分の身体が、シンを殺そうとしている。


⸻


「い、や……」


⸻


 唇が震えた。


 顔が崩れた。


⸻


「いやああああああああっ!」


⸻


 シンの足が止まった。


 モモの『声』だと分かるまで、一瞬かかった。


 戦場が遠のいた。


 叫びが途切れる。


 左手が落ちた。


 首が傾く。


⸻


 桃の香りが、凍った。


⸻


 甘さは残っている。


 けれど、あの温かさだけがない。


 吸い込むと、喉の奥が冷えた。


 その時、モモの袖から薄桃色が抜け始めた。


 濡れた布が乾くような変化ではない。


 桃色だけが、凍りつくように端から消えていく。


 襟へ。


 帯へ。


 裾へ。


 土も、血も、裂けた跡も残っている。


 それなのに、衣の地色だけが白くなった。


 髪も。


 桃の飾りも。


 何も変わっていない。


 薄桃の少女だけが、冷たい白へ塗り替えられていく。


 モモの首が、かくりと傾いた。


 一度。


 もう一度。


 指が意味もなく開き、閉じる。


 口が動いた。


⸻


「モモ……?」


「対象……排……八幡……繧キ繝ウ……■%……」


⸻


 言葉の途中から、もう言葉ではなかった。


 神の名と命令の断片、その間へ壊れた音が混じる。


 モモの喉から出ているのに、モモが話しているようには聞こえない。


 シンの背中に寒気が走った。


 フツが上がる。


 腕が一度、不自然に止まった。


 次の瞬間には、もう刃が走っていた。


 足利兵が横から斬りかかった。


 モモは顔すら向けなかった。


 一閃。


 太刀ごと腕が弾かれ、返す刃が肩を裂く。


 次の兵が槍を突き出す。


 フツがその柄を断った。


 もう一度振られた時には、男が地面へ転がっていた。


 動きは狂っている。


 それでも、刃だけは異様なほど正確だった。


 奥州兵がシンの前へ楯を差し入れる。


⸻


「味方だ、モモ!」


⸻


 フツが走った。


 楯板が裂ける。


 その向こうの鎧まで斬れた。


 兵が倒れる。


 モモは止まらない。


 右から来た足利兵。


 左から止めようとした奥州兵。


 敵味方など、もう見ていなかった。


 一人を斬る。


 振り返らず、その背後の槍を断つ。


 身体を沈め、横薙ぎの一撃で二人を退かせる。


 騎馬が迫る。


 モモは正面へ踏み込んだ。


 フツが馬の前を白く走る。


 手綱を引いた騎馬武者が体勢を崩し、落ちる。


 その横を駆け抜け、次の兵の太刀を根元から弾いた。


 誰かが背後から組みつこうとした。


 見てもいない。


 身体だけが回り、柄頭が顔へ入る。


 男が倒れるより早く、フツは別の方向へ振られていた。


 白い衣が血と土を巻き上げる。


 桃の香りだけが冷たく残る。


 負傷兵の前へ刃が落ちかけた。


 ほんの一瞬、止まった。


 切っ先が震え、土へ逸れた。


 モモだ。


 まだいる。


 そう思った次の瞬間には、また白桃が動いていた。


 逃げる足利兵へ追いつく。


 太刀を斬る。


 脚を払う。


 振り向いた奥州兵の槍を断つ。


 止めようとする者から、次々に弾き飛ばされていく。


 誰も近づけなくなった。


 敵も味方も、白桃の前から道を空けた。


 戦場の真ん中に、不自然な空白が生まれていく。


 そこを、白桃だけが歩いてきた。


⸻


⸻


 師直は手綱を引いた。


 白い衣の女が、足利兵を斬った。


 次には北畠の兵を斬った。


 一人ではない。


 近づいた者から、次々に倒れていく。


 太刀も槍も届かない。


 騎馬ですら止められない。


 背中へ冷たい汗が流れた。


⸻


「……天魔鬼神の類か」


⸻


 口から出た言葉に、自分で舌打ちした。


 戦場でそんなものを信じている暇はない。


⸻


「近づくな! 間を空けろ! あの女の前へ兵を出すな!」


⸻


 弓を構えた兵まで止めた。


 刺激してこちらへ向かせれば、それだけ兵が減る。


 師直は女から目を離し、北畠の本陣を見る。


 近衛が集まっている。


 使いが出てこない。


 伊達も南部もまだ戦っている。


 だが後ろが止まっている。


 顕家の旗は立っている。


 命令だけが来ない。


 師直の目が変わった。


⸻


「予備を西へ回せ」


⸻


 使いが走る。


⸻


「白い女には近づくな。北畠の後ろへ出ろ。正面は追いすぎるな。退く道だけ狭めろ」


⸻


 何が起きているのかは分からない。


 分かる必要もない。


 北畠の指揮が止まった。


 それだけで十分だった。


⸻


⸻


「西に新手!」


⸻


 シンが振り返った。


 南へ下る道の脇に、足利の旗がある。


 さっきまでいなかった。


 前線の奥州兵まで後ろを見た。


 顕家の命令は来ない。


 タダは近衛の楯の内側で、顕家を抱えている。


 白桃が迫った。


 タダは折れた旗竿を拾い、片手で前へ出した。


 顕家を抱く腕は離さない。


 フツが旗竿を断った。


 タダの腕から血が流れた。


 顔を歪める。


 それでも顕家を放さなかった。


 次の切っ先がシンへ向く。


 シンは離れた。


 ここにいれば、タダも顕家も巻き込む。


 人の少ない南へ走った。


⸻


「坂は捨てる!」


⸻


 結城宗広の声が飛んだ。


⸻


「親王を下げよ! 歩けぬ者から運べ! 米は捨てろ。馬へ人を乗せよ!」


⸻


 兵が俵を落とす。


 空いた馬の背へ負傷者を載せる。


 担ぎ棒へ楯を括りつけ、起き上がれない兵を乗せる。


 前歯の欠けた兵が、その棒を担いだ。


 重さに顔を歪めながら、寝ている仲間を何度も振り返る。


 近臣が御旗へしがみついた。


⸻


「待て! 将軍殿はまだ退けとは仰せでない! 御旗を下げては――」


「では、ご自分でお持ちになれ」


⸻


 国継は旗竿を近臣へ渡した。


 旗を守っていた兵を、顕家の周囲へ戻す。


⸻


「倒すな。皆と一緒に運べ」


⸻


 使いを走らせる。


 結城の守る親王を先へ。


 その後ろへ顕家。


 南部には殿を。


 伊達には戻る道を。


 逃げる先が決まり、兵が動き始めた。


 西から矢が飛んだ。


 親王の列へ続こうとする兵が押し戻される。


 足利方が先に回っていた。


 そこへ伊達の旗が坂を駆け下りてきた。


 シンは合流するのだと思った。


 伊達勢は、敵へ向き直った。


⸻


「ここで止める! 続け!」


⸻


 騎馬が敵へ突っ込む。


 後続が続く。


 足利兵が斜面へ押し返された。


 退く奥州兵が思わず足を止める。


 まだ勝てるのではないか。


 そんな顔で伊達の旗を見る。


⸻


「止まるな! 伊達殿が道を作っている! 今のうちに行け!」


⸻


 国継が兵を叱りつけた。


 伊達勢は追わない。


 味方が抜ける時間だけを稼いでいる。


 北から南部勢が下りてきた。


 道へ楯を立てる。


 逃げてきた兵を掴み、その後ろへ入れる。


 武器を失った者へ別の槍を渡す。


 肩を叩く。


 立たせる。


 崩れてきた兵が、そこでまた軍になった。


 追ってくる足利勢が止まる。


 だが西の敵はさらに南へ回る。


 退路の横へ弓兵が出た。


 置いてきた荷も奪われる。


 水桶が倒れ、土が濡れた。


 乾いた喉が痛んだ。


 それでも戻れば終わる。


⸻


「東へ寄れ! 前に続け! 列を切るな!」


⸻


 奥州軍は南へ退いた。


 もう坂を取り返そうとする兵はいない。


 その時、顕家が目を開けた。


 タダの腕を掴む。


 起き上がろうとして、膝が折れた。


⸻


「南部は……どうした」


「後ろを守っております。伊達殿も戻ってこられます」


⸻


 顕家は北を見た。


 西の敵旗を見る。


 大きく息を吸う。


 国継が待つ。


 顕家は指を上げかけた。


 止まる。


 握り込んだ。


 まだ答えが出ない。


 ついさっきまで勝利へ手を掛けていた顔が、今は泣くのを堪える子供のようだった。


 シンは顕家へ向かおうとした。


 背後で刃が楯板を擦った。


⸻


⸻


 白桃が、捨てられた楯を越えてきた。


 敵も味方も道を空ける。


 誰も近づけない。


 シンは刀の柄へ服の裾を巻きつけた。


 血で滑らせたくなかった。


 肩が痛む。


 喉も痛い。


 それでも死ねない。


 南には味方がいる。


 東の林には、斜めに倒れかかった木がある。


 幹の下に、人一人が通れる隙間があった。


 シンはそちらへ走った。


 すぐ後ろに白桃が来る。


 フツを刀で受けた。


 重い。


 手首が折れそうになった。


 刀が弾かれ、木の根へ落ちる。


 拾う暇はない。


 シンは倒木の下へ滑り込んだ。


 服が枝へ引っかかる。


 力任せに引きちぎる。


 頭の上で枝が斬れた。


⸻


「モモ、やめろ!」


⸻


 後ろへ下がる。


 根へ足を取られ、尻から転んだ。


 ついた腕に激痛が走る。


 涙が滲んだ。


 それでも目を逸らさない。


 白桃が木の向こうから出てくる。


 シンは片足で土を蹴り、後ろへ這った。


 みっともなくてもいい。


 逃げたい。


 生きたい。


 フツが来た。


 喉へ真っ直ぐ。


 シンは顎を引き、首を捻った。


 避けきれない。


 切っ先が迫る。


 指二本。


 それだけの距離まで来た。


 そこで。


 止まった。


⸻


 戦場の音が、消えたように感じた。


⸻


 矢は飛んでいる。


 兵は叫んでいる。


 馬も走っている。


 それなのに、シンには何も聞こえなかった。


 目の前にあるのは、喉の前の白い刃だけだった。


 白桃の右腕が、さらに押し込もうと震える。


 その手首を。


 左手が掴んだ。


 モモの手だった。


⸻


「モモ」


⸻


 目が合った。


 ほんの一瞬だった。


 凍っていた桃の香りの奥に、知っているモモが戻った。


 眉が苦しそうに寄る。


 右腕を左手で押し返す。


 指が食い込む。


 爪が皮膚を裂く。


 血が手首を伝う。


 白桃の腕は、なおシンを殺そうとする。


 モモの腕は、それを止めようとする。


 同じ身体の中で、二人が引き合っていた。


 フツの切っ先が震える。


 一寸。


 半寸。


 ほんのわずか、横へ逸れた。


 シンは息もできなかった。


 モモの唇が開く。


⸻


「……不同意」


⸻


 小さかった。


 それでも。


 シンには、戦場のどんな怒号よりもはっきり聞こえた。


 モモだった。


 シンは手を伸ばした。


 触れたかった。


 その手を見た瞬間、モモの顔が歪んだ。


 右手がまた柄を締める。


 白桃が戻ろうとしている。


 モモは首を振った。


 シンから目を逸らした。


 フツを横へ振る。


 倒木を支えていた枝が切れた。


 幹が落ちた。


 シンは転がって避ける。


 二人の間に木が横たわった。


 伸ばした手が届かない。


 モモは刀を持つ腕を胸へ抱え込んだ。


 一歩。


 シンから離れる。


 もう一歩。


 身体が戻ろうとするたび、無理やり遠ざける。


 そのまま木の向こうへ跳んだ。


 シンは幹へ手を掛けた。


 追いたい。


 腕に力が入らない。


 胸をぶつけても脚を上げる。


 すぐ横の幹へ矢が刺さった。


 足利兵が南まで迫っている。


 逃げる奥州兵がシンへぶつかった。


 倒れかける。


 シンは反射的に腕を掴んだ。


 放せなかった。


⸻


「シン、離れるな!」


⸻


 国継の声がした。


 兵が前へ楯を立てる。


 その後ろを、タダと顕家が通っていく。


 南部の兵が後ずさりながら追手を防いでいた。


 シンは掴んだ兵を立たせた。


 すぐ林を見る。


 まだ。


 そこにいてくれ。


 枝の間に、桃の飾りが見えた。


 一瞬だけ。


 黒い髪が揺れた。


 次には、もう何も見えなかった。


⸻


「モモ――!」


(第百四十五話へ)

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