般若坂
第百四十三話 般若坂
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男が地蔵の裏へ手を入れた。
石の下から紙を取り出し、代わりに細縄を置く。立ち去ろうとしたところへ、モモが降り立った。
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「誰から」
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男が小刀を抜く。モモは手首を蹴り上げ、落ちた刃を踏んだ。逃げる背を地面へ押さえつける。
男の指に、道標と同じ白土がついている。紙には、黒髪の若者、女は離れた、とあった。
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「次に渡す人は、どこ」
「坂の下の馬小屋だ。俺は運ぶだけだ!」
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モモは男を縛り、紙を取った。
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教えられた馬小屋へ着くと、男は、モモが紙を見せる前に言った。
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「黒髪の若者なら、白馬の左へ来る」
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モモは足を止めた。届けるはずの男も、紙も、自分が押さえている。
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「誰に聞いた」
「夢だ。春日大明神のお告げだ。あの若者を殺せば、南都は救われると」
「他にも聞いた人がいる?」
「さあな。俺は馬を用意するだけだ」
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男の後ろに、馬が二頭いた。壁には足利方の集合場所を書いた紙がある。
モモは男を縛り、外で待たせていた北畠軍の斥候へ渡した。
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「本隊へ。白馬の左を狙ってる。人の中継を止めても、声が届く」
「お前は戻らぬのか」
「この馬の行く先を調べる」
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遠くで、太鼓が二つ鳴った。モモは集合場所の紙を取った。
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どん、どん。
二つの陣太鼓に、奥州兵が顔を上げた。
般若坂の向こうで、足利の旗が一斉に動く。シンは白馬の鼻息を背に聞きながら、刀の柄を握った。井戸で飲んだ水は、もう腹の底まで冷えていた。
北の坂を抜ければ、京へ続く道が開く。背後は奈良。荷駄と負傷者、その奥に義良親王の護衛がいる。
敵は坂の正面と、右手の高みにいた。
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「矢が来るぞ!」
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国継の声に盾が上がった。矢が何本も突き立つ。その陰で兵が駆け出し、坂の下に横一列の盾を並べた。
先頭がぶつかった。盾が鳴り、太刀が振り下ろされる。シンの前を、負傷した兵が仲間の肩を借りて戻ってきた。
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「正面を押すだけでは、上から射られる。伊達、高みを取れ! 南部は道を支えよ!」
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顕家が扇を振った。
伊達行朝の勢が、道を外れて斜面へ取りつく。弓兵が援護の矢を放ち、その下を兵が駆け上がった。敵が向きを変えた途端、正面の圧が弱まる。
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「今だ。押し上げよ!」
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南部師行の旗が進んだ。先頭が疲れれば後ろの兵が肩を並べ、倒れた者を引きずり出す。足利勢が初めて後ろへ下がった。
シンは運ばれてきた兵をタダと受け取り、荷の陰へ寝かせた。前歯の欠けた兵が、次の負傷者を背負ってくる。
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「まだ来る。布はあるか!」
「ここにある。こっちへ!」
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モモが戻るまで、ここで生きて働く。シンが次の布を取った時、顕家の声が止まった。
誰もいない横へ顔を向けている。
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「……高みを取れば、道は開く。そうであろう」
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たった今、自分が出した命令だった。
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「シン。私の左へ来い。馬を受け取れ」
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シンは顔を上げた。国継が間へ入る。
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「シンは後ろへ置くとのお達しです。馬は私が」
「……そうだったな。任せる」
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「破ったぞ!」
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高みで伊達の旗が翻った。敵の弓兵が逃げ、奥州兵の歓声が坂を下ってくる。
その声に隠れて、二騎の敵が正面を駆け下りてきた。退く味方の間を抜け、止まらずに本陣へ突っ込んでくる。
国継が一騎の手綱を斬った。馬が横へそれる。もう一騎は白馬へ体当たりした。
顕家が鞍から投げ出された。
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「顕家!」
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片足が鐙に残っている。白馬が暴れれば、頭から引きずられる。
シンは荷の陰を出た。国継が白馬の手綱へ飛びつくのを見て、顕家の足を鐙から引き抜いた。
顕家が地面へ落ちる。シンはその襟を掴み、兵のいる方へ押した。
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「受け取ってくれ!」
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手が伸び、顕家の身体を引いた。
シンも続こうとした。その横腹へ、敵の馬がぶつかった。息が一度に抜け、足が地面を離れる。
石垣へ背中から叩きつけられた。胸の奥で骨が折れた。
痛みに口を開けても、空気が入ってこない。息を吸おうとするたび、折れた骨が肺へ刺さるように痛んだ。口から血が溢れ、喉を塞ぐ。
馬上の男がシンを見下ろした。
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「いた。白馬の左だ」
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顕家を助けた兵が、こちらへ走ってくる。シンは手を上げようとした。腕が動かず、息も止まった。
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シンは胸を押さえ、激しく咳き込んだ。
血は出なかった。
目の前に、まだ戦っていない兵が並んでいる。二つ目の太鼓が鳴り終わり、白馬が背後で鼻を鳴らした。
井戸ではなかった。般若坂の本陣へ戻っていた。
モモはいない。昨夜から、敵の指示を追っている。
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「シン、どうした」
「右の高みから矢が来る。そのあと、左から使いが来る。南の水場を敵に取られたって」
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顕家が問い返すより先に、矢が飛んだ。盾が受け止める。続いて、左の道から使いが駆け込んだ。
水場を奪われたという。顕家の目がシンへ戻った。
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「お前は、何を知っている」
「この先を見た。お前は右の高みを取る。その判断は当たる。でも、そのあと声を聞いて、俺を白馬の左へ呼ぶ」
「……私の聞く声を、なぜ」
「そこで俺が死んだからだ」
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顕家はすぐには答えなかった。国継へ、左右の敵を見張らせる。話を聞く間も、戦は止まらない。
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「全部を信じろとは言わない。けど、俺を呼ぶ前に、自分で何を考えたか確かめてくれ」
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モモの目の前から、走っていた山道が消えた。
馬の腹。迫る石垣。胸の折れる痛み。
シンの死の記録だった。
縛った男が足元にいる。先ほど送り出した斥候も、まだ外にいた。シンが戻った時刻へ、自分も押し戻されていた。
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「……間に合わなかった」
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文を止めた。馬も出させなかった。それでも別の馬が、シンを殺した。
モモは斥候へ紙を押しつけた。
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「本隊へ。白馬からシンを離して」
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自分は集合場所へ先回りする。そこにいる者へ、声を聞いたか問いただす。
帰りたい。その足を、まだ北へ向けた。
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「高みを取れ、か」
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顕家が呟いた。
声が来たのだと、シンには分かった。顕家はしばらく斜面を見つめ、扇を閉じた。
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「敵の声なら、望むようには動いてやらぬ。西へ開く。高みへは上がるな」
「逆へ行くのか」
「上を狙わせ、待ち受けているのかもしれぬ。広い所へ出れば、挟まれるのを避けられる」
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顕家の命で、兵が左の低地へ動き始めた。
その時、吉野からの使者が、新たな一隊と数人の近臣を連れて坂へ入ってきた。
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「右府殿。主上より重ねての仰せです。京へ進まれよ、と」
「見れば分かるであろう。今、そのために戦っている」
「されど、御旗が止まっております」
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顕家の眉が動いた。
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「兵が詰まっている。新手は後ろへ回せ」
「なりませぬ」
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近臣は即座に言った。
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「帝の御旗は前へ。賊軍に背を見せれば、諸国の者は朝廷が退いたと見る」
「これは退却ではない。列を組み直しているのだ」
「武者は戦を難しく考えすぎます」
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国継が近臣を見た。
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「何?」
「主上の御旗が進めば兵は進む。京は目前。ここで勢いを止めることこそ、御運を損なうのです」
「その御運とやらは、腹が減った兵を歩かせるのか」
「兵糧など後から届きましょう」
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国継は南の道を見た。
荷駄の影はない。
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「届いてから言え」
「無礼な。これは主上の御軍ぞ」
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別の近臣が割って入った。
戦場の土もついていない狩衣の袖を押さえながら、坂の上を指す。
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「昨夜、吉野を発つ前にも吉兆がありました。夢に神人が現れ、御旗を北へ、一歩も退くなと告げられたのです」
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シンの背中が冷えた。
顕家も、近臣を見た。
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「……夢だと?」
「はい。天も京への道を開けと仰せなのでしょう。ならば迷う理由はありませぬ」
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近臣は誇らしげに御旗を指した。
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「旗を前へ。新手も続けよ。ここで押せば足利は崩れます」
「待て!」
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国継の制止より先に、旗持ちが前へ出た。
新手がそれに続く。
ちょうどその時、高みの敵が一斉に矢を放った。
西へ動いていた兵の背へ矢が降る。盾を右へ向けると、西から現れた敵に正面を突かれた。
足利勢は高みから下りてこない。上から射る兵と、低地から押す兵が、奥州軍を挟んだ。
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「戻せ! 道へ戻せ!」
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顕家が叫んだ。
低地へ出た兵が反転する。
だが、戻る道を帝の旗と新手が塞いでいた。
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「旗を退けろ! 道を空けよ!」
「御旗を敵に背けるおつもりか!」
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近臣が国継の前へ出た。
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「主上は進めと仰せだ! ここで兵を退かせれば、御威光に傷が――」
「兵が死んでから威光を飾る気か!」
「黙れ! 武者が朝議を語るな!」
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近臣はなおも旗持ちへ命じた。
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「前へ出せ! 御旗を見せれば兵は戻る!」
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旗が進んだ。
それを見て、新手も前へ詰める。
低地から戻ろうとする兵と正面からぶつかった。
一人が転ぶ。
後ろから押された兵がその上へ倒れる。
進めと叫ぶ者と、戻れと叫ぶ者が同じ道で押し合った。
顕家の命令は聞こえている。
それでも御旗が前へ進む。
兵は、どちらに従えばよいのか分からなくなった。
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「止まれ! 前を押すな!」
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国継が叫ぶ。
近臣はなお旗の横で、
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「進め! 主上の御命である!」
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と声を張った。
その一声で、後ろの兵がまた一歩詰めた。
倒れた者を起こす余地が消えた。
足利勢が追いついた。
先頭の奥州兵が斬られた。後ろの兵も、逃げ場がなく倒れた。横倒しになった旗を踏んで、敵が道へ上がってくる。
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「伊達勢、続け!」
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行朝が敵の横腹へ突っ込んだ。太刀を振るい、味方の逃げ道をこじ開ける。
敵の勢いが止まった、その数呼吸を南部師行が使った。
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「負傷した者から後ろへ! 歩ける者は、私の旗の下へ来い!」
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逃げる兵が旗を目指す。並び直した盾が、敵を受け止めた。
結城宗広は振り返らず、荷の番へ命じた。
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「俵を落とせ。親王と負傷者を通すぞ!」
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担いでいた米が道の脇へ投げられた。空いた肩へ、歩けない兵が背負われる。
シンもタダと走った。道端で、前歯の欠けた兵が若者を抱き起こそうとしていた。若者の足は、倒れた旗竿の下に挟まっている。
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「タダ、持ち上げてくれ! 俺が引く!」
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タダが竿を持ち上げた。シンは若者の両腕を掴み、後ろへ引いた。前歯の欠けた兵が、二人を守ろうと盾を上げる。
その盾の脇から、敵の薙刀が入った。
男の腹が裂けた。男は倒れながらも、若者をシンの方へ押した。
タダが若者を受け取る。シンは腹を押さえた男へ戻った。まだ目が動いている。
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「立てるか。肩を貸す、早く!」
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腕を回したところへ、崩れた味方が押し寄せた。シンは男と一緒に倒れた。
起き上がる前に、背中を踏まれた。次の足が首の横へ落ち、顔が土へ押しつけられる。叫ぼうとして泥を吸った。
誰かがシンの上へ倒れた。その上にも人が重なる。胸が潰れ、息を吐いたまま吸えなくなった。
背中を押す重さへ両腕で抗ったが、指が土を掻くだけだった。鼻と口は泥で塞がれ、脚にも感覚がなくなる。
すぐ隣に、男の顔があった。開いた口に、前歯が一本足りない。
男はもう動かなかった。
シンはその肩を掴んだまま、窒息した。
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「布は、ここでよいか」
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前歯の欠けた男が、シンの前へ荷を下ろした。
腹には傷がない。まだ誰も倒れていない坂へ向かって、太鼓の音が響いている。
シンは顕家へ向き直った。唾を飲んでも、泥の味がした。
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「逆も駄目だ。高みを捨てると、下で挟まれる。あの人たちが死ぬ」
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シンは矢と使者を言い当て、吉野から来る旗のことも告げた。
使いが去ると、顕家はシンの汚れていない手を見た。シンはまだ、泥を拭うように指を擦っていた。
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「私が、逆を選んだのか」
「ああ。でも最初に高みを見たのは、お前だ。声より先に、自分で分かってたんだ」
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顕家は、すぐには扇を開かなかった。
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「では、私が考える」
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短い答えだった。
国継を呼び、敵の数と、右の斜面を上がれる場所を確かめさせる。シンにも尋ねた。誰が倒れ、どこで兵が詰まったのか。
胸が痛んでも、シンは覚えている限りを答えた。
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集合場所へ続く林が消え、馬小屋へ戻された。モモは目の前の壁を殴った。
掌に刺さった木片を抜く間も惜しかった。飛び込んできた記録には、泥を吸う口と、人に押し潰されるシンがいた。
戻っても、また死んだ。男も斥候も、同じ場所にいる。
さっきの時間には、集合場所まで行けた。そこにいた兵も、声を聞いていた。文を持たない者が、同じ黒髪を知っていた。
しかも彼は、モモの目の前で急に顔を上げた。
高みを取らせよ。
敵が自分たちの持ち場を捨てるように呟いた途端、フツの鞘が冷えた。
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「どうして、こっちにも……」
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顕家には高みを取らせ、敵には譲らせる。シンが殺された場所まで、両方の兵が動かされていた。
モモは斥候に男を任せ、走り出した。今度は集合場所へ入らず、そこを出る伝令を追う。声を受けた者が、戦場のどこへ命令を渡すのかを見る。
腿に枝が刺さった。止まらずに抜いた。シンの死の記録だけが、自分より早く届く。
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「押せ! 坂の上まで追い払え!」
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顕家の扇が開いた。
今度の伊達勢は、弓兵の援護を受けながら二手に分かれて上がった。高みに伏せていた敵が片方へ矢を向けると、もう片方が横から斬り込む。
敵の旗が倒れた。
西から回り込んできた足利勢には、南部が先に盾を向けていた。右の高みからも奥州の矢が飛ぶ。挟むはずだった敵が、逆に挟まれて退いた。
シンは思わず声を上げた。
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「いける!」
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吉野の旗も道を塞がなかった。国継が使者を迎え、顕家の命として後ろへ通す。前の時間に潰れた場所を、負傷者が運ばれていった。
前歯の欠けた兵が、若者と二人で担いでいる。シンは二人のために、道に落ちた盾をどかした。
上から歓声が来た。伊達勢が坂の北口へ達したのだ。
敵の旗の向こうに、先へ続く道が見えた。
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「追撃はそこまで! 上がった者を休ませ、後ろと替えよ!」
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もう、死ななくていいかもしれない。
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高師直は、北の道から戻った使いに水を飲ませた。
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「高みは取られました。西へ回した兵も退いております」
「追われたか」
「いいえ。顕家は追わせません」
「ならば予定どおりだ。南へ回した者を動かせ」
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京から先に出した命で、水場と兵糧は押さえてある。坂を取っても、奥州軍には兵と馬を休ませる場所がない。
師直は、まだ戦っていない騎馬の列を見た。ここまで乗ってきた馬から、休ませておいた馬へ乗り換えている。
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「親王の退路を攻めよ。顕家は必ず兵を送る。その兵が動いてから、こちらを出す」
「顕家が救援を出さなければ」
「そのまま退路を奪え。どちらでもよい」
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使いが走った。
師直は坂へ向けた馬を、まだ進ませなかった。
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南から、味方の旗が大きく振られた。
結城の使いが駆け込んでくる。
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「親王の後ろへ敵! 結城勢が防いでおりますが、負傷者を逃がせません!」
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顕家は北と南を見た。坂を押さえる兵は交代の途中だ。手元の兵を出せば、本陣が薄くなる。
国継が、伊勢からまだ兵糧も返書も届かぬと告げた。いま持っている荷を失えば、明日から食うものがない。
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「分かっている。残る兵を南へ。親王と荷駄を守らせよ」
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顕家は迷った末に、自分で命じた。
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伊勢で親房は、ようやく文を閉じた。
米を送る手配はした。だが護送の兵まで大和へ出せば、伊勢を守る兵が足りなくなる。ここを失えば、顕家へ米を送ることさえできなくなる。
親房は出陣を求める者を留め、使いだけを出した。
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「顕家を待たせるな。すぐ発て」
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追いつくための馬は、先の使いへ渡していた。文を抱えた男が徒歩で門を出る。
机には、書き損じた紙が残った。
帰れ。
その二文字を、親房は娘へ送れなかった。消した上へ書いたのは、親王をお守りせよ、という命だった。
新しい文が着く前にも、娘はその役目のために戦う。親房は分かっていて、使いを呼び戻さなかった。
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北から蹄の音が押し寄せた。
交代のために下りてきた奥州兵へ、足利の騎馬が突っ込む。疲れた脚では横へ逃げ切れない。盾が飛び、馬と人が転がった。
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「下がるな! 私のところへ集まれ!」
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顕家が白馬を走らせた。
シンの前を、白い背が通り過ぎる。国継と護衛が追った。顕家は逃げる兵の前へ回り、太刀を抜いた。
迫る敵騎と擦れ違い、その腕を斬る。落ちた手綱を後続の馬が踏み、敵の突進が乱れた。
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「南部、ここを支えよ! 伊達は上から挟め!」
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声を聞いた兵が戻ってくる。南部の旗の下で、再び盾が並んだ。
その間にも、南では結城勢が戦っている。どちらへも、これ以上は兵を送れない。
顕家が守った正面の横を、数騎が抜けた。
敵は南へ向かわず、本陣を目指した。顕家が追いついて馬を返す。シンは盾兵と一緒に、負傷者を荷の奥へ下げた。
白馬が悲鳴を上げた。
敵が馬を下り、薙刀で前脚を斬っていた。白馬の膝が折れ、顕家が地面へ投げ出される。
今度はすぐに立った。だが敵兵が続けて斬り込み、顕家は荷駄の方へ押し戻された。
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「荷を退けよ! 通れる道を作れ!」
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顕家の声で、シンは振り向いた。
横倒しの荷が、味方へ戻る道を塞いでいる。
これを退ければ、顕家たちを通せる。
シンがタダを呼ぼうとした時、顕家が不意に顔を上げた。
敵ではない場所を見る。
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「……シン、手前の荷を解け」
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まただった。
戦場を見る顕家自身の判断へ、最後にシンの名だけが付いた。
手前へ出れば、敵から丸見えになる。
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「タダ。奥から崩すぞ!」
「ああ!」
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二人で荷の後ろへ回った。
シンが縄を切り、タダが俵を押す。
積み荷が崩れ、道の中央へ隙間ができた。
手前には出なかった。
言われた通りにも動かなかった。
それでも、開いたその隙間は、敵と顕家とシンを一直線に繋いでいた。
シンは息を呑んだ。
方法は変えた。
だが声が欲しがった場所だけが、残った。
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兵が一人、その隙間から転がり込んでくる。
シンは腕を掴み、荷の陰へ引いた。
もう一人。
その次に、顕家が見えた。
敵の太刀を受け、片膝をついている。
先ほど白馬から落ちた時に足を痛めたらしい。立とうとして、また膝が崩れた。
国継が敵を押さえている。
タダのいる荷の陰までは、ほんの数間だった。
シンは隙間の内側にいる。
ここにいれば生きられる。
顕家を迎えに出れば、敵の刃が届く。
脚が震えた。
石へ叩きつけられた胸の痛み。
泥の中で息を奪われた苦しさ。
どちらも、身体がまだ覚えている。
今度死ねば、残るのはあと一度だけだった。
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「国継! その敵を止めてくれ!」
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叫んでから、シンは走った。
声に命じられたからではない。
顕家を迎えに出ろとは、誰にも言われていない。
ここから先は、自分で選んだ。
国継が太刀を払い、顕家へ迫る敵を押し返す。
シンはその隙に顕家の腕を肩へ回した。
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「立てるか!」
「立てる……!」
「じゃあ、俺につかまれ!」
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重い。
顕家自身も足を引きずりながら、それでも前へ出ようとする。
シンは腰へ腕を回し、一歩ずつ後ろへ下がった。
怖かった。
背を向ければ斬られる。
横へ逃げれば、顕家が倒れる。
それでも荷の陰が近づいてくる。
タダが手を伸ばした。
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「こっちだ!」
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シンは最後の一歩で顕家を押した。
タダが受け止め、荷の陰へ引き込む。
顕家が助かった。
シンも続こうとした。
国継が押さえている敵の後ろから、もう一人が回り込んでいた。
太刀が横から来る。
シンは反射的に刀を上げた。
刃と刃がぶつかった。
手首まで痺れた。
力負けした刀身が押し込まれ、敵の刃が滑る。
左の脇腹へ、深く入った。
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「――っ、あああっ!」
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焼けた鉄を差し込まれたような痛みが、腹から背中へ突き抜けた。
シンは膝をついた。
脇腹を押さえる。
指の間から、熱い血が溢れた。
立とうと腹へ力を入れた瞬間、傷の奥が裂ける。
さらに血が流れた。
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「シン!」
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国継が敵を斬り伏せる。
タダがシンの襟を掴み、荷の陰へ引きずり込んだ。
助かった顕家が、今度は這うようにシンの方へ戻ってくる。
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「布を寄越せ!」
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顕家が傷へ布を押し当てた。
圧迫された瞬間、シンの腰が浮くほど痛んだ。
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「痛っ……!」
「我慢せよ!」
「無茶……言うな……」
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血は止まらない。
布の色が変わる。
もう一枚。
その下からも赤が広がった。
さっきまで焼けるようだった傷が、今度は冷たくなっていく。
指先の感覚も薄れ始めた。
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「運ぶぞ。立て、シン。私につかまれ!」
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顕家が肩を差し入れようとする。
自分だってまともに立てていない。
そんなことを言おうとして、息が続かなかった。
シンは顕家の袖を掴もうとした。
指が閉じない。
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「俺……死にたく、ない」
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言葉にした瞬間、本当に怖くなった。
戻れるからではない。
モモに会いたかった。
この戦を抜けたかった。
顕家にも、生きていてほしかった。
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「死なせぬ!」
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顕家は迷わず答えた。
傷を押さえる手へ、さらに力が入る。
痛い。
それでもシンは、その手首を離さなかった。
桃の匂いはしない。
モモが戻る前に、また終わる。
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「顕家……」
「喋るな」
「……助かって、よかった」
「馬鹿者。お前も助かる!」
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声はすぐ近くにあるのに、遠くなっていく。
顕家の袖が赤く染まっていた。
五つ目の死でも見た色だった。
けれど今度、その血は全部シンのものだった。
息を吸う。
浅い。
もう一度。
途中で止まる。
最後まで生きようとしたまま、シンの指から力が抜けた。
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モモは走っていた。
追っていた伝令は、坂の上の敵陣へ入った。そこで受けた言葉を、次の兵が本陣へ運ぶ。黒髪。荷駄。顕家のそば。
モモは道を変えた。もう受け手を捕まえるより、シンの方へ戻った方が早い。
その時、視界が赤く染まった。
腹を斬られた痛み。血に濡れた顕家の手。死にたくないというシンの声。
モモの足が止まった。
次の瞬間には、馬小屋の前にいた。遠くから二つの太鼓が聞こえた。
戻りかけた道も、シンへ近づいた距離も、なくなっていた。
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「待って」
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目の前にいないシンへ、手を伸ばした。
記録の中で、顕家が顔を上げた。集合場所の兵と同じだった。敵を動かす声も、シンを呼ぶ声も、あの戦場で繋がっている。
モモは鞘へ手を置いた。シンが傷口を押さえていた指の感触が、自分の指から消えなかった。
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太鼓が鳴り終わった。
シンは腹へ手を当てた。服も皮膚も破れていない。隣では、前歯の欠けた兵が布を運んでいた。
顕家が白馬の上から坂を見ている。
九つ目だった。
シンは、モモのいない側へ顔を向けた。あの記録が届いたはずだ。死にたくないと漏らした声まで、聞かせてしまっただろうか。
次に死ねば、ここには戻れない。
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「顕家」
「何だ」
「話がある。今度は、最後まで聞いてくれ」
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生きるために話す。知っていることを全部渡して、それでも足りないところを、ここにいる人たちと埋める。
シンは白馬の横へ歩いた。
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モモは集合場所の紙を斥候へ渡した。
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「ここを押さえて。私は本隊へ戻る」
「先は追わぬのか」
「切る場所が違った」
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白土も、細縄も、夢を聞く者も、その先で同じ戦場へ繋がっていた。
顕家のそばへ行く。あの声がシンの名を呼ぶ前に止める。
シンの死で確かめる時間は、もうない。
モモは桃飾りを包んでいた布を外した。隠れて調べるための布を、その場へ置く。
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「戻る」
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今度は、誰の足跡も追わなかった。
シンのいる坂へ、モモは走った。
(第百四十四話へ)




