↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
143/149

般若坂

第百四十三話 般若坂


⸻


 男が地蔵の裏へ手を入れた。


 石の下から紙を取り出し、代わりに細縄を置く。立ち去ろうとしたところへ、モモが降り立った。


⸻


「誰から」


⸻


 男が小刀を抜く。モモは手首を蹴り上げ、落ちた刃を踏んだ。逃げる背を地面へ押さえつける。


 男の指に、道標と同じ白土がついている。紙には、黒髪の若者、女は離れた、とあった。


⸻


「次に渡す人は、どこ」


「坂の下の馬小屋だ。俺は運ぶだけだ!」


⸻


 モモは男を縛り、紙を取った。


⸻


⸻


 教えられた馬小屋へ着くと、男は、モモが紙を見せる前に言った。


⸻


「黒髪の若者なら、白馬の左へ来る」


⸻


 モモは足を止めた。届けるはずの男も、紙も、自分が押さえている。


⸻


「誰に聞いた」


「夢だ。春日大明神のお告げだ。あの若者を殺せば、南都は救われると」


「他にも聞いた人がいる?」


「さあな。俺は馬を用意するだけだ」


⸻


 男の後ろに、馬が二頭いた。壁には足利方の集合場所を書いた紙がある。


 モモは男を縛り、外で待たせていた北畠軍の斥候へ渡した。


⸻


「本隊へ。白馬の左を狙ってる。人の中継を止めても、声が届く」


「お前は戻らぬのか」


「この馬の行く先を調べる」


⸻


 遠くで、太鼓が二つ鳴った。モモは集合場所の紙を取った。


⸻


⸻


 どん、どん。


 二つの陣太鼓に、奥州兵が顔を上げた。


 般若坂の向こうで、足利の旗が一斉に動く。シンは白馬の鼻息を背に聞きながら、刀の柄を握った。井戸で飲んだ水は、もう腹の底まで冷えていた。


 北の坂を抜ければ、京へ続く道が開く。背後は奈良。荷駄と負傷者、その奥に義良親王の護衛がいる。


 敵は坂の正面と、右手の高みにいた。


⸻


「矢が来るぞ!」


⸻


 国継の声に盾が上がった。矢が何本も突き立つ。その陰で兵が駆け出し、坂の下に横一列の盾を並べた。


 先頭がぶつかった。盾が鳴り、太刀が振り下ろされる。シンの前を、負傷した兵が仲間の肩を借りて戻ってきた。


⸻


「正面を押すだけでは、上から射られる。伊達、高みを取れ! 南部は道を支えよ!」


⸻


 顕家が扇を振った。


 伊達行朝の勢が、道を外れて斜面へ取りつく。弓兵が援護の矢を放ち、その下を兵が駆け上がった。敵が向きを変えた途端、正面の圧が弱まる。


⸻


「今だ。押し上げよ!」


⸻


 南部師行の旗が進んだ。先頭が疲れれば後ろの兵が肩を並べ、倒れた者を引きずり出す。足利勢が初めて後ろへ下がった。


 シンは運ばれてきた兵をタダと受け取り、荷の陰へ寝かせた。前歯の欠けた兵が、次の負傷者を背負ってくる。


⸻


「まだ来る。布はあるか!」


「ここにある。こっちへ!」


⸻


 モモが戻るまで、ここで生きて働く。シンが次の布を取った時、顕家の声が止まった。


 誰もいない横へ顔を向けている。


⸻


「……高みを取れば、道は開く。そうであろう」


⸻


 たった今、自分が出した命令だった。


⸻


「シン。私の左へ来い。馬を受け取れ」


⸻


 シンは顔を上げた。国継が間へ入る。


⸻


「シンは後ろへ置くとのお達しです。馬は私が」


「……そうだったな。任せる」


⸻


「破ったぞ!」


⸻


 高みで伊達の旗が翻った。敵の弓兵が逃げ、奥州兵の歓声が坂を下ってくる。


 その声に隠れて、二騎の敵が正面を駆け下りてきた。退く味方の間を抜け、止まらずに本陣へ突っ込んでくる。


 国継が一騎の手綱を斬った。馬が横へそれる。もう一騎は白馬へ体当たりした。


 顕家が鞍から投げ出された。


⸻


「顕家!」


⸻


 片足が鐙に残っている。白馬が暴れれば、頭から引きずられる。


 シンは荷の陰を出た。国継が白馬の手綱へ飛びつくのを見て、顕家の足を鐙から引き抜いた。


 顕家が地面へ落ちる。シンはその襟を掴み、兵のいる方へ押した。


⸻


「受け取ってくれ!」


⸻


 手が伸び、顕家の身体を引いた。


 シンも続こうとした。その横腹へ、敵の馬がぶつかった。息が一度に抜け、足が地面を離れる。


 石垣へ背中から叩きつけられた。胸の奥で骨が折れた。


 痛みに口を開けても、空気が入ってこない。息を吸おうとするたび、折れた骨が肺へ刺さるように痛んだ。口から血が溢れ、喉を塞ぐ。


 馬上の男がシンを見下ろした。


⸻


「いた。白馬の左だ」


⸻


 顕家を助けた兵が、こちらへ走ってくる。シンは手を上げようとした。腕が動かず、息も止まった。


⸻


⸻


 シンは胸を押さえ、激しく咳き込んだ。


 血は出なかった。


 目の前に、まだ戦っていない兵が並んでいる。二つ目の太鼓が鳴り終わり、白馬が背後で鼻を鳴らした。


 井戸ではなかった。般若坂の本陣へ戻っていた。


 モモはいない。昨夜から、敵の指示を追っている。


⸻


「シン、どうした」


「右の高みから矢が来る。そのあと、左から使いが来る。南の水場を敵に取られたって」


⸻


 顕家が問い返すより先に、矢が飛んだ。盾が受け止める。続いて、左の道から使いが駆け込んだ。


 水場を奪われたという。顕家の目がシンへ戻った。


⸻


「お前は、何を知っている」


「この先を見た。お前は右の高みを取る。その判断は当たる。でも、そのあと声を聞いて、俺を白馬の左へ呼ぶ」


「……私の聞く声を、なぜ」


「そこで俺が死んだからだ」


⸻


 顕家はすぐには答えなかった。国継へ、左右の敵を見張らせる。話を聞く間も、戦は止まらない。


⸻


「全部を信じろとは言わない。けど、俺を呼ぶ前に、自分で何を考えたか確かめてくれ」


⸻


⸻


 モモの目の前から、走っていた山道が消えた。


 馬の腹。迫る石垣。胸の折れる痛み。


 シンの死の記録だった。


 縛った男が足元にいる。先ほど送り出した斥候も、まだ外にいた。シンが戻った時刻へ、自分も押し戻されていた。


⸻


「……間に合わなかった」


⸻


 文を止めた。馬も出させなかった。それでも別の馬が、シンを殺した。


 モモは斥候へ紙を押しつけた。


⸻


「本隊へ。白馬からシンを離して」


⸻


 自分は集合場所へ先回りする。そこにいる者へ、声を聞いたか問いただす。


 帰りたい。その足を、まだ北へ向けた。


⸻


⸻


「高みを取れ、か」


⸻


 顕家が呟いた。


 声が来たのだと、シンには分かった。顕家はしばらく斜面を見つめ、扇を閉じた。


⸻


「敵の声なら、望むようには動いてやらぬ。西へ開く。高みへは上がるな」


「逆へ行くのか」


「上を狙わせ、待ち受けているのかもしれぬ。広い所へ出れば、挟まれるのを避けられる」


⸻


 顕家の命で、兵が左の低地へ動き始めた。


 その時、吉野からの使者が、新たな一隊と数人の近臣を連れて坂へ入ってきた。


⸻


「右府殿。主上より重ねての仰せです。京へ進まれよ、と」


「見れば分かるであろう。今、そのために戦っている」


「されど、御旗が止まっております」


⸻


 顕家の眉が動いた。


⸻


「兵が詰まっている。新手は後ろへ回せ」


「なりませぬ」


⸻


 近臣は即座に言った。


⸻


「帝の御旗は前へ。賊軍に背を見せれば、諸国の者は朝廷が退いたと見る」


「これは退却ではない。列を組み直しているのだ」


「武者は戦を難しく考えすぎます」


⸻


 国継が近臣を見た。


⸻


「何?」


「主上の御旗が進めば兵は進む。京は目前。ここで勢いを止めることこそ、御運を損なうのです」


「その御運とやらは、腹が減った兵を歩かせるのか」


「兵糧など後から届きましょう」


⸻


 国継は南の道を見た。


 荷駄の影はない。


⸻


「届いてから言え」


「無礼な。これは主上の御軍ぞ」


⸻


 別の近臣が割って入った。


 戦場の土もついていない狩衣の袖を押さえながら、坂の上を指す。


⸻


「昨夜、吉野を発つ前にも吉兆がありました。夢に神人が現れ、御旗を北へ、一歩も退くなと告げられたのです」


⸻


 シンの背中が冷えた。


 顕家も、近臣を見た。


⸻


「……夢だと?」


「はい。天も京への道を開けと仰せなのでしょう。ならば迷う理由はありませぬ」


⸻


 近臣は誇らしげに御旗を指した。


⸻


「旗を前へ。新手も続けよ。ここで押せば足利は崩れます」


「待て!」


⸻


 国継の制止より先に、旗持ちが前へ出た。


 新手がそれに続く。


 ちょうどその時、高みの敵が一斉に矢を放った。


 西へ動いていた兵の背へ矢が降る。盾を右へ向けると、西から現れた敵に正面を突かれた。


 足利勢は高みから下りてこない。上から射る兵と、低地から押す兵が、奥州軍を挟んだ。


⸻


「戻せ! 道へ戻せ!」


⸻


 顕家が叫んだ。


 低地へ出た兵が反転する。


 だが、戻る道を帝の旗と新手が塞いでいた。


⸻


「旗を退けろ! 道を空けよ!」


「御旗を敵に背けるおつもりか!」


⸻


 近臣が国継の前へ出た。


⸻


「主上は進めと仰せだ! ここで兵を退かせれば、御威光に傷が――」


「兵が死んでから威光を飾る気か!」


「黙れ! 武者が朝議を語るな!」


⸻


 近臣はなおも旗持ちへ命じた。


⸻


「前へ出せ! 御旗を見せれば兵は戻る!」


⸻


 旗が進んだ。


 それを見て、新手も前へ詰める。


 低地から戻ろうとする兵と正面からぶつかった。


 一人が転ぶ。


 後ろから押された兵がその上へ倒れる。


 進めと叫ぶ者と、戻れと叫ぶ者が同じ道で押し合った。


 顕家の命令は聞こえている。


 それでも御旗が前へ進む。


 兵は、どちらに従えばよいのか分からなくなった。


⸻


「止まれ! 前を押すな!」


⸻


 国継が叫ぶ。


 近臣はなお旗の横で、


⸻


「進め! 主上の御命である!」


⸻


 と声を張った。


 その一声で、後ろの兵がまた一歩詰めた。


 倒れた者を起こす余地が消えた。


 足利勢が追いついた。


 先頭の奥州兵が斬られた。後ろの兵も、逃げ場がなく倒れた。横倒しになった旗を踏んで、敵が道へ上がってくる。


⸻


「伊達勢、続け!」


⸻


 行朝が敵の横腹へ突っ込んだ。太刀を振るい、味方の逃げ道をこじ開ける。


 敵の勢いが止まった、その数呼吸を南部師行が使った。


⸻


「負傷した者から後ろへ! 歩ける者は、私の旗の下へ来い!」


⸻


 逃げる兵が旗を目指す。並び直した盾が、敵を受け止めた。


 結城宗広は振り返らず、荷の番へ命じた。


⸻


「俵を落とせ。親王と負傷者を通すぞ!」


⸻


 担いでいた米が道の脇へ投げられた。空いた肩へ、歩けない兵が背負われる。


 シンもタダと走った。道端で、前歯の欠けた兵が若者を抱き起こそうとしていた。若者の足は、倒れた旗竿の下に挟まっている。


⸻


「タダ、持ち上げてくれ! 俺が引く!」


⸻


 タダが竿を持ち上げた。シンは若者の両腕を掴み、後ろへ引いた。前歯の欠けた兵が、二人を守ろうと盾を上げる。


 その盾の脇から、敵の薙刀が入った。


 男の腹が裂けた。男は倒れながらも、若者をシンの方へ押した。


 タダが若者を受け取る。シンは腹を押さえた男へ戻った。まだ目が動いている。


⸻


「立てるか。肩を貸す、早く!」


⸻


 腕を回したところへ、崩れた味方が押し寄せた。シンは男と一緒に倒れた。


 起き上がる前に、背中を踏まれた。次の足が首の横へ落ち、顔が土へ押しつけられる。叫ぼうとして泥を吸った。


 誰かがシンの上へ倒れた。その上にも人が重なる。胸が潰れ、息を吐いたまま吸えなくなった。


 背中を押す重さへ両腕で抗ったが、指が土を掻くだけだった。鼻と口は泥で塞がれ、脚にも感覚がなくなる。


 すぐ隣に、男の顔があった。開いた口に、前歯が一本足りない。


 男はもう動かなかった。


 シンはその肩を掴んだまま、窒息した。


⸻


⸻


「布は、ここでよいか」


⸻


 前歯の欠けた男が、シンの前へ荷を下ろした。


 腹には傷がない。まだ誰も倒れていない坂へ向かって、太鼓の音が響いている。


 シンは顕家へ向き直った。唾を飲んでも、泥の味がした。


⸻


「逆も駄目だ。高みを捨てると、下で挟まれる。あの人たちが死ぬ」


⸻


 シンは矢と使者を言い当て、吉野から来る旗のことも告げた。


 使いが去ると、顕家はシンの汚れていない手を見た。シンはまだ、泥を拭うように指を擦っていた。


⸻


「私が、逆を選んだのか」


「ああ。でも最初に高みを見たのは、お前だ。声より先に、自分で分かってたんだ」


⸻


 顕家は、すぐには扇を開かなかった。


⸻


「では、私が考える」


⸻


 短い答えだった。


 国継を呼び、敵の数と、右の斜面を上がれる場所を確かめさせる。シンにも尋ねた。誰が倒れ、どこで兵が詰まったのか。


 胸が痛んでも、シンは覚えている限りを答えた。


⸻


⸻


 集合場所へ続く林が消え、馬小屋へ戻された。モモは目の前の壁を殴った。


 掌に刺さった木片を抜く間も惜しかった。飛び込んできた記録には、泥を吸う口と、人に押し潰されるシンがいた。


 戻っても、また死んだ。男も斥候も、同じ場所にいる。


 さっきの時間には、集合場所まで行けた。そこにいた兵も、声を聞いていた。文を持たない者が、同じ黒髪を知っていた。


 しかも彼は、モモの目の前で急に顔を上げた。


 高みを取らせよ。


 敵が自分たちの持ち場を捨てるように呟いた途端、フツの鞘が冷えた。


⸻


「どうして、こっちにも……」


⸻


 顕家には高みを取らせ、敵には譲らせる。シンが殺された場所まで、両方の兵が動かされていた。


 モモは斥候に男を任せ、走り出した。今度は集合場所へ入らず、そこを出る伝令を追う。声を受けた者が、戦場のどこへ命令を渡すのかを見る。


 腿に枝が刺さった。止まらずに抜いた。シンの死の記録だけが、自分より早く届く。


⸻


⸻


「押せ! 坂の上まで追い払え!」


⸻


 顕家の扇が開いた。


 今度の伊達勢は、弓兵の援護を受けながら二手に分かれて上がった。高みに伏せていた敵が片方へ矢を向けると、もう片方が横から斬り込む。


 敵の旗が倒れた。


 西から回り込んできた足利勢には、南部が先に盾を向けていた。右の高みからも奥州の矢が飛ぶ。挟むはずだった敵が、逆に挟まれて退いた。


 シンは思わず声を上げた。


⸻


「いける!」


⸻


 吉野の旗も道を塞がなかった。国継が使者を迎え、顕家の命として後ろへ通す。前の時間に潰れた場所を、負傷者が運ばれていった。


 前歯の欠けた兵が、若者と二人で担いでいる。シンは二人のために、道に落ちた盾をどかした。


 上から歓声が来た。伊達勢が坂の北口へ達したのだ。


 敵の旗の向こうに、先へ続く道が見えた。


⸻


「追撃はそこまで! 上がった者を休ませ、後ろと替えよ!」


⸻


 もう、死ななくていいかもしれない。


⸻


⸻


 高師直は、北の道から戻った使いに水を飲ませた。


⸻


「高みは取られました。西へ回した兵も退いております」


「追われたか」


「いいえ。顕家は追わせません」


「ならば予定どおりだ。南へ回した者を動かせ」


⸻


 京から先に出した命で、水場と兵糧は押さえてある。坂を取っても、奥州軍には兵と馬を休ませる場所がない。


 師直は、まだ戦っていない騎馬の列を見た。ここまで乗ってきた馬から、休ませておいた馬へ乗り換えている。


⸻


「親王の退路を攻めよ。顕家は必ず兵を送る。その兵が動いてから、こちらを出す」


「顕家が救援を出さなければ」


「そのまま退路を奪え。どちらでもよい」


⸻


 使いが走った。


 師直は坂へ向けた馬を、まだ進ませなかった。


⸻


⸻


 南から、味方の旗が大きく振られた。


 結城の使いが駆け込んでくる。


⸻


「親王の後ろへ敵! 結城勢が防いでおりますが、負傷者を逃がせません!」


⸻


 顕家は北と南を見た。坂を押さえる兵は交代の途中だ。手元の兵を出せば、本陣が薄くなる。


 国継が、伊勢からまだ兵糧も返書も届かぬと告げた。いま持っている荷を失えば、明日から食うものがない。


⸻


「分かっている。残る兵を南へ。親王と荷駄を守らせよ」


⸻


 顕家は迷った末に、自分で命じた。


⸻


⸻


 伊勢で親房は、ようやく文を閉じた。


 米を送る手配はした。だが護送の兵まで大和へ出せば、伊勢を守る兵が足りなくなる。ここを失えば、顕家へ米を送ることさえできなくなる。


 親房は出陣を求める者を留め、使いだけを出した。


⸻


「顕家を待たせるな。すぐ発て」


⸻


 追いつくための馬は、先の使いへ渡していた。文を抱えた男が徒歩で門を出る。


 机には、書き損じた紙が残った。


 帰れ。


 その二文字を、親房は娘へ送れなかった。消した上へ書いたのは、親王をお守りせよ、という命だった。


 新しい文が着く前にも、娘はその役目のために戦う。親房は分かっていて、使いを呼び戻さなかった。


⸻


⸻


 北から蹄の音が押し寄せた。


 交代のために下りてきた奥州兵へ、足利の騎馬が突っ込む。疲れた脚では横へ逃げ切れない。盾が飛び、馬と人が転がった。


⸻


「下がるな! 私のところへ集まれ!」


⸻


 顕家が白馬を走らせた。


 シンの前を、白い背が通り過ぎる。国継と護衛が追った。顕家は逃げる兵の前へ回り、太刀を抜いた。


 迫る敵騎と擦れ違い、その腕を斬る。落ちた手綱を後続の馬が踏み、敵の突進が乱れた。


⸻


「南部、ここを支えよ! 伊達は上から挟め!」


⸻


 声を聞いた兵が戻ってくる。南部の旗の下で、再び盾が並んだ。


 その間にも、南では結城勢が戦っている。どちらへも、これ以上は兵を送れない。


 顕家が守った正面の横を、数騎が抜けた。


 敵は南へ向かわず、本陣を目指した。顕家が追いついて馬を返す。シンは盾兵と一緒に、負傷者を荷の奥へ下げた。


 白馬が悲鳴を上げた。


 敵が馬を下り、薙刀で前脚を斬っていた。白馬の膝が折れ、顕家が地面へ投げ出される。


 今度はすぐに立った。だが敵兵が続けて斬り込み、顕家は荷駄の方へ押し戻された。


⸻


「荷を退けよ! 通れる道を作れ!」


⸻


 顕家の声で、シンは振り向いた。


 横倒しの荷が、味方へ戻る道を塞いでいる。


 これを退ければ、顕家たちを通せる。


 シンがタダを呼ぼうとした時、顕家が不意に顔を上げた。


 敵ではない場所を見る。


⸻


「……シン、手前の荷を解け」


⸻


 まただった。


 戦場を見る顕家自身の判断へ、最後にシンの名だけが付いた。


 手前へ出れば、敵から丸見えになる。


⸻


「タダ。奥から崩すぞ!」


「ああ!」


⸻


 二人で荷の後ろへ回った。


 シンが縄を切り、タダが俵を押す。


 積み荷が崩れ、道の中央へ隙間ができた。


 手前には出なかった。


 言われた通りにも動かなかった。


 それでも、開いたその隙間は、敵と顕家とシンを一直線に繋いでいた。


 シンは息を呑んだ。


 方法は変えた。


 だが声が欲しがった場所だけが、残った。


⸻


 兵が一人、その隙間から転がり込んでくる。


 シンは腕を掴み、荷の陰へ引いた。


 もう一人。


 その次に、顕家が見えた。


 敵の太刀を受け、片膝をついている。


 先ほど白馬から落ちた時に足を痛めたらしい。立とうとして、また膝が崩れた。


 国継が敵を押さえている。


 タダのいる荷の陰までは、ほんの数間だった。


 シンは隙間の内側にいる。


 ここにいれば生きられる。


 顕家を迎えに出れば、敵の刃が届く。


 脚が震えた。


 石へ叩きつけられた胸の痛み。


 泥の中で息を奪われた苦しさ。


 どちらも、身体がまだ覚えている。


 今度死ねば、残るのはあと一度だけだった。


⸻


「国継! その敵を止めてくれ!」


⸻


 叫んでから、シンは走った。


 声に命じられたからではない。


 顕家を迎えに出ろとは、誰にも言われていない。


 ここから先は、自分で選んだ。


 国継が太刀を払い、顕家へ迫る敵を押し返す。


 シンはその隙に顕家の腕を肩へ回した。


⸻


「立てるか!」


「立てる……!」


「じゃあ、俺につかまれ!」


⸻


 重い。


 顕家自身も足を引きずりながら、それでも前へ出ようとする。


 シンは腰へ腕を回し、一歩ずつ後ろへ下がった。


 怖かった。


 背を向ければ斬られる。


 横へ逃げれば、顕家が倒れる。


 それでも荷の陰が近づいてくる。


 タダが手を伸ばした。


⸻


「こっちだ!」


⸻


 シンは最後の一歩で顕家を押した。


 タダが受け止め、荷の陰へ引き込む。


 顕家が助かった。


 シンも続こうとした。


 国継が押さえている敵の後ろから、もう一人が回り込んでいた。


 太刀が横から来る。


 シンは反射的に刀を上げた。


 刃と刃がぶつかった。


 手首まで痺れた。


 力負けした刀身が押し込まれ、敵の刃が滑る。


 左の脇腹へ、深く入った。


⸻


「――っ、あああっ!」


⸻


 焼けた鉄を差し込まれたような痛みが、腹から背中へ突き抜けた。


 シンは膝をついた。


 脇腹を押さえる。


 指の間から、熱い血が溢れた。


 立とうと腹へ力を入れた瞬間、傷の奥が裂ける。


 さらに血が流れた。


⸻


「シン!」


⸻


 国継が敵を斬り伏せる。


 タダがシンの襟を掴み、荷の陰へ引きずり込んだ。


 助かった顕家が、今度は這うようにシンの方へ戻ってくる。


⸻


「布を寄越せ!」


⸻


 顕家が傷へ布を押し当てた。


 圧迫された瞬間、シンの腰が浮くほど痛んだ。


⸻


「痛っ……!」


「我慢せよ!」


「無茶……言うな……」


⸻


 血は止まらない。


 布の色が変わる。


 もう一枚。


 その下からも赤が広がった。


 さっきまで焼けるようだった傷が、今度は冷たくなっていく。


 指先の感覚も薄れ始めた。


⸻


「運ぶぞ。立て、シン。私につかまれ!」


⸻


 顕家が肩を差し入れようとする。


 自分だってまともに立てていない。


 そんなことを言おうとして、息が続かなかった。


 シンは顕家の袖を掴もうとした。


 指が閉じない。


⸻


「俺……死にたく、ない」


⸻


 言葉にした瞬間、本当に怖くなった。


 戻れるからではない。


 モモに会いたかった。


 この戦を抜けたかった。


 顕家にも、生きていてほしかった。


⸻


「死なせぬ!」


⸻


 顕家は迷わず答えた。


 傷を押さえる手へ、さらに力が入る。


 痛い。


 それでもシンは、その手首を離さなかった。


 桃の匂いはしない。


 モモが戻る前に、また終わる。


⸻


「顕家……」


「喋るな」


「……助かって、よかった」


「馬鹿者。お前も助かる!」


⸻


 声はすぐ近くにあるのに、遠くなっていく。


 顕家の袖が赤く染まっていた。


 五つ目の死でも見た色だった。


 けれど今度、その血は全部シンのものだった。


 息を吸う。


 浅い。


 もう一度。


 途中で止まる。


 最後まで生きようとしたまま、シンの指から力が抜けた。


⸻


⸻


 モモは走っていた。


 追っていた伝令は、坂の上の敵陣へ入った。そこで受けた言葉を、次の兵が本陣へ運ぶ。黒髪。荷駄。顕家のそば。


 モモは道を変えた。もう受け手を捕まえるより、シンの方へ戻った方が早い。


 その時、視界が赤く染まった。


 腹を斬られた痛み。血に濡れた顕家の手。死にたくないというシンの声。


 モモの足が止まった。


 次の瞬間には、馬小屋の前にいた。遠くから二つの太鼓が聞こえた。


 戻りかけた道も、シンへ近づいた距離も、なくなっていた。


⸻


「待って」


⸻


 目の前にいないシンへ、手を伸ばした。


 記録の中で、顕家が顔を上げた。集合場所の兵と同じだった。敵を動かす声も、シンを呼ぶ声も、あの戦場で繋がっている。


 モモは鞘へ手を置いた。シンが傷口を押さえていた指の感触が、自分の指から消えなかった。


⸻


⸻


 太鼓が鳴り終わった。


 シンは腹へ手を当てた。服も皮膚も破れていない。隣では、前歯の欠けた兵が布を運んでいた。


 顕家が白馬の上から坂を見ている。


 九つ目だった。


 シンは、モモのいない側へ顔を向けた。あの記録が届いたはずだ。死にたくないと漏らした声まで、聞かせてしまっただろうか。


 次に死ねば、ここには戻れない。


⸻


「顕家」


「何だ」


「話がある。今度は、最後まで聞いてくれ」


⸻


 生きるために話す。知っていることを全部渡して、それでも足りないところを、ここにいる人たちと埋める。


 シンは白馬の横へ歩いた。


⸻


⸻


 モモは集合場所の紙を斥候へ渡した。


⸻


「ここを押さえて。私は本隊へ戻る」


「先は追わぬのか」


「切る場所が違った」


⸻


 白土も、細縄も、夢を聞く者も、その先で同じ戦場へ繋がっていた。


 顕家のそばへ行く。あの声がシンの名を呼ぶ前に止める。


 シンの死で確かめる時間は、もうない。


 モモは桃飾りを包んでいた布を外した。隠れて調べるための布を、その場へ置く。


⸻


「戻る」


⸻


 今度は、誰の足跡も追わなかった。


 シンのいる坂へ、モモは走った。


(第百四十四話へ)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。