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今日は、一緒にいない

第百四十二話 今日は、一緒にいない


⸻


 五本目の終わった道を背に、白馬が大和側へ向いた。


 シンはまだ腿を押さえていた。傷はない。指先にも血は付いていない。それでも、顕家の上衣が赤く染まっていった冷たさだけは、身体の内側に残っている。


 モモが一歩出た。


 顕家とシンの間へ立つ。


⸻


「シンに、仕事をさせないで」


「何だと?」


⸻


 顕家の眉が跳ね上がった。


 今の顕家に、五つの死の記憶はない。だが伊賀で捕らえた男が「黒髪の男だけ」を狙っていたことは知っている。


⸻


「伝令も、物見も、旗も、渡しの縄もさせないで」


「私の近習を置物にする気か」


「置物でいい」


「よくない!」


「生きてる置物」


「どんな存在だ!」


⸻


 シンは思わず口を挟んだ。


⸻


「本人の意見を聞かない?」


「シンは黙ってて」


「置物に発言権はなかった……」


⸻


 顕家はこめかみを押さえたが、笑わなかった。


 モモの声が短いほど、譲るつもりがないことをもう知っている。


⸻


「……国継」


「はっ」


「伝令、物見、旗、渡し、斥候からシンを外せ。荷駄列の中央へ置く。単独で列の外へ出すな」


「承知しました」


「俺、クビ?」


「保護だ! 勝手に不名誉な名を付けるな!」


⸻


 顕家は扇でシンを荷駄の方へ追いやった。


 白線の伊賀側では、ワカレが五本の見えない道を眺めるように山へ目を細めていた。さっきまで消えていた笑みが、少しだけ戻る。


⸻


「じゃ、俺はここまで」


「また戻ったら会うのか」


「そういう聞き方、嫌だなあ」


「こっちも嫌なんだよ」


「だったら、次は普通に会おうよ」


⸻


 ワカレはシンの肩を軽く叩こうとして、やめた。


 代わりに荷駄を指す。


⸻


「置物なら、落とされないようにね」


「最後までそれで行くの?」


「真面目な別れは苦手でさ」


⸻


 一度だけ笑ってから、ワカレはモモを見る。


 その目だけは笑っていなかった。


⸻


「増えた道は消えない。でも、増やすために死ぬ必要もないよ」


「分かってる」


「ならいい」


⸻


 次に会う約束はしなかった。


 ワカレはひらひらと手を振り、伊賀の木立へ消えた。


 今度こそ姿が見えなくなった。


 北畠軍は大和へ進んだ。


⸻


⸻


 山が開くにつれ、人の暮らしが近づいた。


 枯れた田。低い土塀。細い水路。鎧姿の奥州兵を見ると、井戸端の女が子供を背へ隠した。


 顕家は村へ入る手前で軍列を止めた。


 井戸を見て、兵を見て、馬を見る。


⸻


「全軍を寄せるな。十人ずつだ。井戸を濁らせるな。馬は下の流れへ回せ」


⸻


 国継がすぐ兵を分けた。


 桶の縄が石縁を擦った。


 きい、と高い音がして、汲み上げた桶が井戸の縁へ一度だけ当たる。


 こつん。


 母の後ろへ隠れていた子供が、その音に顔を出した。


 最初に汲み上げた水を兵が顕家へ差し出したが、顕家は受け取らなかった。先に馬へやれ、と顎で示す。次は負傷兵。その次に荷を担ぐ者。自分の竹筒へ水を入れたのは、列がもう一度動き始めてからだった。


 井戸端の女たちは、まだ笑わない。それでも子供を隠していた腕が少し下がった。


 シンにも竹筒が回ってくる。


 冷たい水を一口飲んだ瞬間、桶の縄がもう一度、石縁を擦った。


 きい。


 こつん。


 今度は、音の順まで耳に残った。


 モモが、なぜか井戸を振り返った。


 瞳の焦点が一瞬だけ遠くなる。フツでも、敵でも、顕家でもない。石の井戸と、擦れた縄と、水を抱えて戻る兵を見ている。


 ほんの一瞬だった。


⸻


「何?」


「……何でもない」


⸻


 顕家はもう次を見ている。


 土地の薪も干し草も勝手に取るな。受け取った物は記せ。畦を踏み崩した者は直せ。白馬の口元に泡が見えれば荷を減らし、列が伸びれば先頭を止める。


 指示は途切れなかった。


 ただ、それを一つずつ見せつける必要はもうなかった。


 シンが旗を持たなくても、伝令に走らなくても、軍は進む。


 当然のことなのに、少しだけ手持ち無沙汰だった。


⸻


「俺、本当に歩いてるだけなんだけど」


「歩くのも仕事だ」


⸻


 隣で荷縄を確かめていたタダが答えた。


⸻


「じゃあ一袋持つよ」


「駄目だ」


「それも危険な軍務?」


「俺の飯が減る」


「袋ごと食う気?」


「必要なら」


⸻


 何が必要なのかは聞かなかった。


 シンは空いた手を振って歩いた。


 前を行くモモは、ときどき顕家を見る。そのたびに肩が固くなる。命令の末尾へ自分の名が付くのを、シンより先に恐れていた。


⸻


 昼近く、道が細くなった。


 右は竹と灌木。左は冬田へ落ちる低い斜面。


 壊れた背負子の先に、男が倒れていた。


 破れた袖から伸びた手が、土を掻いている。


 シンの足が列の外へ出た。


 次の一歩で止まる。


 喉。


 川。


 腿。


 五つの死が、行け、とも、行くな、とも言わなかった。


 代わりにシンは後ろを向く。


⸻


「タダ」


「ああ」


「まだ何も言ってない」


「助けるんだろ」


「……助けたい。でも、一人では行かない。一緒に来てくれ」


⸻


 タダが荷を下ろした。


 盾兵が二人付く。モモも並ぶ。


 五人で近づいた。


 男の呻きが止まる。


 散らばった薪の一本へ、細い弦が巻いてあった。


⸻


「止まって」


⸻


 モモが言った瞬間、男が跳ね起きた。


 袖から短刀。


 タダの脇を抜け、シンだけを狙う。


 タダが手首を掴んだ。骨が鳴り、短刀が落ちる。


 竹藪で弦が鳴った。


 矢は盾へ突き刺さった。


 二本目が低く抜ける。


 白い刃が横切った。


 フツに弾かれた矢が、冬田へ落ちる。


 射手は獣道へ逃げた。


 モモは追わない。


 シンの胸、腹、腿、喉を順に確かめる。


⸻


「生きてる」


「うん」


「生きてる」


「二回言う?」


「必要」


⸻


 シンは震えた。


 だが倒れてはいない。


 一人で近づかなかったから、短刀にも矢にも、他人の手が届いた。


⸻


「次も、一人では行かない」


「うん」


⸻


 死なずに、結果を変えた。


 それは五つの死より小さな出来事に見えた。


 シンには、その方がずっと重かった。


⸻


 捕らえた男の袖裏から、細長い料紙が出た。


 赤き標を待つに及ばず。


 黒髪の若き者。


 桃形の飾り、傍らにあり。


 軍役なき時は、傷人を――。


 末尾は破れている。


 その下へ、別の筆で二文字。


 自ら。


⸻


「いつ受け取った」


⸻


 顕家が問う。


 男は黙った。


 国継が細い赤縄を目の前へ落とす。


⸻


「古い指図は赤旗だったな。これは別の指図だ。いつ替わった」


⸻


 男の目が料紙へ動いた。


 モモがしゃがむ。


⸻


「どこで」


「……北の、欠けた地蔵の裏だ」


「いつ」


「昼前」


「誰から」


「会っていない。白土の線が二本あれば、石の下を探せと聞いていた。それだけだ」


⸻


 昼前。


 今朝、モモが顕家へシンを軍務から外すよう要求した後だ。


 赤旗を待つ命令が消えた。


 軍役から外れたことを知っている。


 モモが側にいることも、倒れた者を見ればシンが自分から出ることも知っている。


 速すぎた。


 人が馬で運んだ情報なら、どこから見て、誰へ渡し、どうやって先回りしたのか。


 モモの親指がフツの鍔へ触れた。


 すぐ離れる。


 鞘が冷えていた。


⸻


「向こうは、こっちを見ながら変えてる」


「伊賀からずっと目が付いていたなら――」


「それでも速い」


⸻


 モモは料紙を折る。


⸻


「人が運んでるだけじゃない」


⸻


 顕家の目が細くなった。


 だが異常へ軍そのものを預けない。


⸻


「ならば人の目と足は潰す。国継、欠けた地蔵へ回り込ませろ。軍は止めぬ。シンの左右も替えろ。同じ守り方を見せ続けるな」


「承知」


⸻


 顕家は最後にシンを見る。


⸻


「誰が、お前一人をそこまで恐れている」


「俺が聞きたい」


「なら生きて聞け。死んで答えを取りに行くな」


⸻


 シンは返事をしなかった。


 さっき、自分で一度止まれた。


 だから今度は、頷いた。


⸻


⸻


 京では、別の紙が開かれていた。


 伊賀から大和へ抜けた北畠軍。その後方で、黒髪の若い男を狙った者がまた捕らえられた。


 尊氏は報告を読み終えると、机の端へ置いた。


⸻


「八幡様は、ずいぶん一人の男がお嫌いらしい」


⸻


 向かいで高師直が大和の絵図を見ている。


⸻


「神が誰を嫌うかは、私には分かりませぬ」


「では、どうする」


「顕家卿を止めます」


⸻


 師直の指は、黒髪の男の名ではなく道を押さえた。


 奈良へ入る道。


 水を取れる場所。


 馬を替えられる場所。


 兵を休ませられる場所。


 奥州から駆け続けた軍が、どこで一度列をほどかなければならないか。どこで負傷兵を置き、どこで荷を積み直し、どこで土地の者から米を買わなければならないか。


 勝った軍にも必要な場所はある。


 むしろ速く進んだ軍ほど、必要な場所は増える。


⸻


「一人を追わせる者は追わせればよい。我らまで一緒に走る必要はありません。あの軍は奥州からここまで来た。強い軍ほど、止まらずにはいられぬ場所があります」


「そこを取る?」


「取るだけでは、別へ行かれます」


⸻


 師直は三つの地点へ指を置いた。


⸻


「米を買えなくする。馬を休ませなくする。こちらと戦わずに済む道を減らす。それでも顕家卿なら進むでしょう」


「ずいぶん買ってるね、顕家卿を」


「敵ですから」


「敵だから?」


「弱いと思って策を立てる方が危うい」


⸻


 尊氏の口元に浮かびかけた笑みが消えた。


⸻


「師直にそこまで言わせる相手かね」


「はい」


⸻


 尊氏は少しだけ黙った。


 神託の理由は分からない。


 だが顕家が京へ来れば、止めるのは自分たちの仕事だった。


⸻


「師直」


「は」


「奥州の兵も、皆強いよ」


「存じています。ですから、強さ比べはいたしません」


⸻


 師直は使者を呼んだ。


 命じたのは、黒髪の男の首ではなかった。


 道と、水と、休む場所だった。


⸻


⸻


 伊勢で、親房は筆を止めていた。


 大和へ入った。


 娘の軍から届いた短い報せは、それだけだった。


 卓上には吉野からの文がある。


 京へ。


 その二文字は、顕家が生まれるより前から続いてきた皇家と公家の秩序より、今は重かった。


 親房は別の紙を出した。


⸻


「顕家へ」


⸻


 書いて、止まる。


 伊勢で別れた時も、顕家は白馬の上で前を向いていた。


 父へ戻ってこいとは言わなかった。


 疲れたとも、怖いとも言わなかった。


 だから親房も、言わせなかった。


 京を取り戻せ。


 主上を支えよ。


 奥州軍をまとめよ。


 北畠の名を負え。


 命じる言葉なら、いくらでもあった。


 生きろ、と書けば父だった。


 戦え、と書けば臣だった。


 どちらも嘘ではない。


 だが今になって、どちらの言葉にも娘本人が入っていないことに気づいた。


 墨が筆先で膨らみ、紙へ落ちた。


 親房はその紙を折らなかった。


⸻


⸻


 吉野では、後醍醐が北を見ていた。


 山の向こうに京は見えない。


 大和へ入った顕家も見えない。


 見えるのは、届いた報告と、減っていく選択肢だけだった。


⸻


「顕家は、どこまで来た」


「伊賀を越え、大和へ入った由」


「兵は」


「長征にて、かなり疲れております」


⸻


 帝は目を閉じなかった。


 吉野へ集まる兵は多くない。朝廷を名乗れても、京を押さえるのは足利だ。恩賞を待つ武士も、寺社も、国々の者も、勝つ方を見ている。


 顕家を休ませたいという願いだけで、国は残らない。


⸻


「それでも進ませる」


⸻


 側近が頭を垂れる。


⸻


「主上、顕家卿の軍は――」


「分かっている」


⸻


 後醍醐は言葉を重ねさせなかった。


 京を足利に預けたままでは、吉野から出す命は山中の命令で終わる。


 顕家を進ませれば、さらに兵が死ぬ。


 止めれば、南朝そのものが細る。


 どちらを選んでも誰かへ代価を払わせる。


 後醍醐は、その代価を知らぬふりだけはしなかった。


⸻


「朕が進める。責は朕にある」


⸻


 そのまま次の文を命じた。


⸻


⸻


 夕刻、北畠軍は低い丘を背にした乾いた河原へ入った。


 欠けた地蔵へ向かった兵が戻る。


 人影はない。


 石の裏には白土が一本。下から切られた細縄。踵の欠けた足跡が、白い粉を落としながら丘へ続いていた。


 捕虜を別々に尋ねると、同じ答えが返った。


 荷を受けた者が真ん中の結び目を解き、次の場所へ結び直す。


 会わない。


 名を知らない。


 白い線だけを追う。


 欠けた地蔵が終点ではない。


 モモは料紙を畳んだ。


⸻


「私が行く」


⸻


 シンの手が伸びる。


 いつもなら、その前にモモが袖を掴んでいた。


 今は触れない。


⸻


「一人で?」


「うん」


「なら俺も――」


「駄目」


⸻


 声が短く落ちた。


⸻


「今まで、来てから止めた。呼ばれてから戻した。隣で待って、届かなかった」


⸻


 喉。


 川。


 腿。


 説明されなくても分かった。


⸻


「だから、来る前を追う」


「でも、一人なら今度はモモが――」


「二人なら、シンが来たと知らせる」


「俺を囮にすれば――」


⸻


 言いかけて、シンは止めた。


 死ねば戻れる。


 狙われているなら使えばいい。


 そう考えることに、もう慣れ始めていた。


 だが昼、自分は止まった。


 一人で行かず、それでも助けようとした。


 死ななくても結果は変わった。


⸻


「……違うな。それじゃ、また同じだ」


⸻


 顕家が二人の前へ来た。


 白土の残る方角と、明日の進路を地図で重ねる。


⸻


「モモ。これは私から命じたことではない。お前が決めたのだな」


「うん」


「明日の昼、南へ下る道と交わる。そこで戻れ。印が途切れたら追うな。相手が多ければ戦うな」


「了解」


「シンは残れ」


「分かってる」


⸻


 顕家が僅かに眉を上げた。


⸻


「今日は聞き分けがよいな」


「成長期だからな」


「まだ育つ気か……」


⸻


 シンは笑った。


 笑えてしまったことが、少しだけ怖かった。


 それでも、自分で残る。


 モモが選んだ道へ、自分の死を持ち込まない。


⸻


「俺は残る。勝手に追わない」


「うん」


「その代わり、ちゃんと帰ってきて」


⸻


 モモはすぐに答えなかった。


 五つの記録では、いつも自分が追いつけなかった。


 今度は自分から離れる。


 守るために隣を離れるという選択を、まだ自分でも好きにはなれなかった。


 それでも、シンの袖には触れなかった。


 モモは乾いた飯を小袋へ入れ、水の竹筒を腰へ結んだ。


 桃の飾りへ暗い布を巻く。


 フツの鞘へ手を置いた時だけ、指が止まった。


 昼に触れた時と同じ冷たさが、掌へ残っている。


 モモは何も言わず、鞘から手を離した。


 シンは見ていたが、訊かなかった。今ここで「大丈夫」と言わせても、大丈夫になるわけではない。


 河原の端には、白土が僅かに残る細道がある。


 その先は暮れかけた田の間へ入り、丘の陰で見えなくなる。


 モモがシンを見つめる。


⸻


「今日は、一緒にいない」


⸻


 袖へ伸びかけた手を、自分の側へ戻す。


 一拍。


⸻


「けど、戻る」


⸻


 モモは振り返らず、白い印の続く道へ入った。


 桃の香りが遠ざかる。


 シンの足が一度だけ前へ出る。


 止める。


 追わなかった。


⸻


⸻


 同じ夜。


 京から南へ、馬が出た。


 吉野から北へ、文を抱えた使者が出た。


 伊勢では、親房の書きかけの紙だけが灯の下に残った。


 そして大和では、モモが一人、誰の名も書かれていない道を逆へ辿っていた。


 北畠軍は、その全部が自分たちへ近づいていることをまだ知らなかった。


⸻


(第百四十三話へ)


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