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モモの決意

第百四十一話 モモの決意



⸻



「荷縄、よし」



⸻



声より先に、岩が来た。



頭蓋の奥で、もう一度だけ砕ける。



⸻



「――っ!」



⸻



シンは両腕で頭を覆い、朝の土へ伏せた。



硬い。



冷たい。



谷底ではない。



何も砕けていない。



分かっているのに、身体が起き上がらなかった。



⸻



「シン」



⸻



肩へ触れた手から、桃の香りがした。



シンは跳ねるように顔を上げ、その手を掴んだ。



⸻



「二回目……?」



「うん」



「今度は落ちた」



「見た」



⸻



モモは手を退けなかった。



シンの指が食い込んでも、そのまま握らせていた。



⸻



「二つ残ってる」



「何が」



「終わった記録」



⸻



矢が二本、身体を貫いた。



丸太が背を打ち、谷へ落ちた。



どちらも今の身体にはない。それでも脇腹と背中が同時に痛み、シンは息を止めた。



⸻



「持ち上げるなよ。確かめろと言ったのだ」



「見える」



「下ろせ!」



⸻



朝靄の向こうで、タダが荷を浮かせ、国継に叱られていた。



白馬が鼻を鳴らす。



新しい草鞋の緒が、同じ場所へ食い込んでいる。



⸻



「何をしている! 置いていくぞ!」



⸻



顕家が振り返った。



谷の上から手を伸ばした顔ではない。



ただ、出立前に道端へ伏せた近習を訝しんでいる顔だった。



⸻



「……今日も一緒にいる?」



「いる」



⸻



返事は前と同じだった。



ただし、モモは掴まれた手を離さず、そのままシンを立たせた。



⸻



⸻



偽の案内役を捕らえ、尾根の男たちを追うところまでは前と同じだった。



顕家へ示したのは、衣から出た白い土と細縄、尾根に残された合図だけだ。



シンが男を疑った理由は、モモが答えた。



⸻



「シンが、この人を見て怖がった」



「俺、そんなに顔に出てた?」



「全身」



「隠せてる気がしてたんだけど」



「気だけ」



⸻



顕家は二人を見比べたが、捕らえた者の口を割らせる方を優先した。



今ある証拠だけで、軍を動かす。



それで十分だった。



⸻



「また会ったね、シン君」



⸻



 倒木の上で、ワカレが握り飯を食べていた。



⸻



「……今回は初めましてだろ」



「俺には、そうでもないよ」



⸻



 ワカレはシンの胸、背中、それから二人が歩いてきた道へ目をやった。



⸻



「君、会うたび道を一本置いてくるね」



「落とし物みたいに言うな」



「拾って返せないのが困るところだねえ」



「何本ある」



「二本」



⸻



「分かるのか」



「どこで何があったかは分からない。一度目と、その先でもう一度、君の道が終わってる」



「シンが死んだ」



⸻



 モモが言った。



 ワカレの口元から笑いが消えた。



⸻



「二度とも?」



「うん」



「好きで死んでないからな」



「それは見れば分かるよ。俺も道案内で死んだ回数まで数えるとは思わなかったけど」



「誰も頼んでない」



「それもそうか」



⸻



 ワカレは一度だけ笑った。



 だが握り飯を葉へ戻し、白い印と新しい足跡を確かめる頃には、その笑いは消えていた。



⸻



「……これは、笑えないね」



「君たちが道を変えた後で、向こうも変えた。二本目は一つ目を避けた先で切れてる」



「たぶん」



「じゃあ今回は、少し本気で歩こうか」



「最初から本気でやってくれよ」



「道で本気を出すと、帰れなくなる人が出るからねえ」



「もう出てる」



⸻



 モモの声に、ワカレが一度だけ目を伏せた。



⸻



「話は終わったか」



⸻



顕家が白馬を寄せる。



⸻



「お前一人へ軍を預ける気はない。道を選べ。兵と馬と荷を通すのは私が決める」



「それでいいよ」



「当然だ。私は北畠顕家だぞ」



「それ、道にも効く肩書き?」



「効かせる!」



⸻



「先に言っておくけど、全部を楽に通せる道はないよ」



「楽である必要はない。兵も馬も荷も、置いていかなければよい」



「道が細ければ?」



「列を分ける」



「崩れていたら?」



「戻って別を選ぶ」



「遠回りになるよ」



「近道で兵を失うより速い」



⸻



ワカレは答えず、少しだけ首を傾けた。



今度の笑みは、からかう時のものではなかった。



⸻



顕家は扇を開き、軍列を三つへ分けた。



歩兵を古い炭焼き道へ先行させ、荷駄は木の濃い窪地へ隠す。馬具の金具を布で包み、荷に付いた鈴を外す。国継の隊は最後に下がりながら足跡を崩した。



ワカレは沢と斜面を選んだ。



顕家は馬の汗、兵の息、列の長さを見て、進む順と間を変えた。



⸻



「先頭を止めろ! 荷駄との間を空けすぎるな。敵より先に飯へ逃げられるぞ!」



「兵は飯を追うんだ」



「お前が先頭で食べたからだ!」



⸻



タダの低い声が後ろから飛び、兵たちが短く笑った。



笑いながらも、足は止めない。



ワカレが道を選び、顕家が軍を一つの生き物にして通した。



⸻



前の時間で丸太が落ちた曲がりには、日が沈む前に着いた。



シンは谷を見なかった。



見なくても、身体が深さを覚えている。



モモが袖を握る。



対岸へ回った国継の兵が、木陰に伏せていた男を二人追い出した。



一本目の矢をモモが斬る。



二本目は木へ刺さった。



逃げた男の足元へ、ワカレが小石を蹴る。



男はその石を踏み、見事に転んだ。



⸻



「今の、狙った?」



「石も動きたい時があるんだよ」



「お前が蹴ったよな?」



⸻



返事はなかった。



顕家が捕らえた男の前へ立つ。



⸻



「私の軍を狙ったのか」



「違う」



⸻



男は土へ顔を押さえられたまま、シンを見た。



⸻



「そこの、黒髪の男だけだ」



⸻



顕家の扇が閉じた。



⸻



「シン。今後、私の視界から勝手に消えるな」



「守ってくれるの?」



「私の近習を、私の知らぬ理由で殺させるものか」



⸻



言い切った後、顕家はもう捕虜へ質問を重ねていた。



シンは返事をし損ねた。



代わりにモモの指が、袖の上から一度だけ締まった。



⸻



夜は火を使わず、冷えた雑穀を噛んだ。



月が山の端へ傾く頃、ワカレが先へ出る。



戻る。



少し進み、また止まる。



敵の目だけでなく、大軍が崩す土、荷車が沈む泥、水の尽きる尾根を避けていた。



夜明け前、木々の向こうから広い風が吹いた。



ワカレは平たい岩へ白い線を引く。



⸻



「ここから先は大和だよ」



⸻



顕家が最初に越えた。



兵が続く。



最後の駄馬が線を跨いだ時、外し忘れた小さな鈴が一度鳴った。



後ろでは、伊賀の案内人が偽の印を消していた。



その隣へ、自分たちにしか分からない印を一つ増やす。



ワカレはそれを見て、少しだけ笑った。



⸻



「俺はここまで」



「大和へ来ないのか」



「道を教えたつもりが、向こうも新しい道を作り始めた。しばらく見ていたい」



「お前が余計なことを教えたからだろ」



「少しはね」



⸻



悪びれずに認める。



顕家は鼻を鳴らした。



⸻



「お前がいなくても、私は大和へ出たぞ」



「うん。たぶん明日の夕方くらいにね」



「たしかにまだ夜明け前だ」



「だから来た甲斐はあったでしょ?」



「……働きだけは認める」



「花将軍ちゃんに褒められた」



「ちゃんを付けるな!」



⸻



「ミチヌシは?」



「山のどこかにいるらしいよ。誰かへ剣を教えているとか、いないとか」



「どの山だ」



「さあ。俺も会ってない」



「曖昧」



⸻



モモが言うと、ワカレは肩を竦めた。



⸻



「会う道なら会うよ」



⸻



最後にシンへ近づき、声を落とす。



⸻



「次も戻れるとは思わない方がいい」



「思ってない。死ぬのは、ちゃんと怖い」



「なら、その怖さは捨てないことだね」



⸻



ワカレは伊賀の山へ戻った。



北畠軍は、大和側の風へ歩き出した。



⸻



⸻



三度目の死は、大和へ出て二日目の夜に来た。



⸻



その日の夕餉は、タダが作った雑穀の汁だった。



シンの椀にだけ、干し肉が二切れ入っている。



⸻



「これ、えこひいき?」



「顔が減った」



「顔は減らないだろ」



「肉が減った」



「それは鍋の話だよな?」



⸻



タダは答えず、自分の椀からもう一切れ入れた。



モモはシンが食べ終わるまで隣を離れない。



少し先では、顕家が地面へ絵図を広げ、火を使わない明日の道を国継と選んでいた。



守られている。



そう思える夜だった。



だから、見張り火が倒れた時、シンは椀を落とした。



野営地へ火矢が入り、馬囲いの藁が燃えた。



馬が嘶く。



兵が跳ね起きる。



顕家はもう立っていた。



⸻



「燃えた藁を外へ崩せ! 馬は西へ! 国継、北を固めろ。敵は火を見せて南から入る!」



⸻



読み通り、南の闇から鬨の声が上がった。



奥州兵が槍を揃え、入り込んだ敵を火との間へ挟む。



その時、北東の物見から一人が走ってきた。



⸻



「物見の兵が取り残されます!」



「内側の木立から退かせろ。シン、伝えよ。護衛を二人付ける」



「分かった!」



⸻



鎧を着けず、すぐ走れる者が一番近くにいた。



戦の中では、正しい命令だった。



モモは馬囲いの反対側にいる。



名を聞いて振り向いたが、燃える藁と暴れる馬が間を塞いだ。



⸻



「シン、待って!」



⸻



声は届いた。



それでも、止まれば物見の兵が死ぬ。



怖かった。



木立へ入りたくなかった。



それでも、自分の代わりに名も知らない兵を置いてはいけないと思った。



シンは護衛と木立へ入った。



一本目の矢が頭を掠める。



二本目は盾へ当たった。



三本目だけが低く飛び、盾の下からシンの喉へ入った。



息が音にならない。



敵は物見へ向かわず、倒れたシンだけを見て闇へ退いた。



桃の香りが届いた時には、もう息を返せなかった。



⸻



⸻



小さな鈴が鳴った。



⸻



「ここから先は大和だよ」



⸻



 朝の風。



 平たい岩の白い線。



 シンは喉を押さえて膝をついた。



 モモの指が、傷のない首へ触れる。



⸻



「おかえり」



「……ただいまって言いたくないな」



⸻



「三つ目」



 モモが言うと、ワカレの笑みが薄くなった。



⸻



「一本、増えたね。……早いな」



⸻



 白馬の上から、顕家が振り返った。



⸻



「どうした。山を越えた後で倒れるな」



「ちょっと……大和の空気が喉に」



「どれだけ繊細なのだ、お前は」



⸻



呆れた声だったが、顕家は馬を降りた。



竹筒を押しつけ、シンが一口飲むまで先へ進まなかった。



⸻



「歩けるか」



「たぶん」



「たぶんを、歩きながら確かめろ。駄目なら私が止める」



⸻



命令ではなく、約束のように聞こえた。



⸻



その時間では、野営地を変えた。



夜襲は待ち伏せた国継の隊に阻まれ、物見へ使いを出す必要もなくなった。



翌日、川辺で小さな戦になった。



顕家は上流へ弓兵を置き、敵を浅瀬へ追い込む。負傷兵、荷駄、槍兵の順に渡し、最後に渡し縄を外させた。



⸻



「シン、最後の縄を頼む」



「私も行く」



⸻



モモが先に答えた。



顕家は二人を見比べ、すぐ頷く。



⸻



「よい。離れるな」



⸻



川岸へ着く。



モモが上流を見張り、シンが杭へ手を掛けた。



水音が変わる。



上流から、片輪の外れた荷車が流れてきた。



前の時間にはなかった。



⸻



「シン!」



⸻



モモが腕を引く。



同時に、濡れた岸が足元から崩れた。



モモの片膝まで水へ落ちる。フツを岸へ突き立て、もう一方の手でシンを掴んだ。



届いた。



だが流れてきた荷車の横木が、シンの帯へ食い込んだ。



身体が下流へ引かれる。



モモの爪が手首へ立つ。



岸の土がさらに崩れ、指が一本ずつ外れた。



今度は届いた。



届いたまま、離れた。



荷車の下へ沈んだ身体は、二度と水面へ戻らなかった。



⸻



⸻



鈴。



 白い線。



 乾いた肺が、水を吐こうとして咳き込む。



⸻



「四つ目」



⸻



 モモはシンの背を擦りながら、濡れてもいない自分の指を見た。



 それでも、掴んだ手首の感触だけが残っていた。



⸻



「また?」



 ワカレが齧りかけの握り飯を止めていた。



「また」



「君、道を増やす才能だけはあるねえ」



「いらない才能だ」



⸻



 ワカレは笑ったが、目は笑わなかった。



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「……増え方が速すぎる」



⸻



 タダが竹筒を差し出した。



⸻



「水」



「今は、ちょっと怖い」



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タダは理由を聞かなかった。



竹筒を引っ込め、代わりに乾いた握り飯を一つ渡した。



シンは笑えなかったが、受け取ることはできた。



⸻



今度は川を避け、野営もせず、シンを軍列の中央へ置いた。



顕家は捕虜の証言だけで決めた。



黒髪の男が狙われている。



理由が分からなくても、守る理由にはなる。



⸻



「私のすぐ後ろを歩け」



「総大将の背中って、安全?」



「日の本で最も安全だ」



「根拠は?」



「言うまでもない!」



⸻



顕家は振り返りもしなかった。



モモが、ほんの少しだけ頷いた。



国継はシンの左右へ盾を持つ兵を一人ずつ付けた。



⸻



「さすがに大げさじゃない?」



「名指しで狙われてなお軽口を叩く男には足りぬ」



「私もいる」



「ならば三重だ。今度こそ死角を作るな」



⸻



誰も、何度目の「今度」かは知らない。



それでも守ろうとしていることだけは、シンにも分かった。



⸻



夕刻、足利方の一隊が正面へ現れた。



顕家は退くふりをして兵を左右の林へ回し、敵が坂を上りきったところで挟んだ。



敵は旗を捨てて逃げる。



追撃はさせなかった。



⸻



「旗を下げろ。次の敵へ位置を教えるな」



⸻



右の旗に、シンが一番近かった。



⸻



「シン、頼む」



「私も行く」



「十歩だぞ」



「一緒に行く」



「……好きにしろ」



⸻



顕家は笑い、次の指示へ向き直った。



シンとモモが旗へ近づく。



倒れた敵兵が、二人同時に身を起こした。



一人目の矢をモモが斬る。



もう一人は、捨てられた旗の陰から低く引いた。



矢がシンの腿の内側へ入る。



モモは次の瞬間には二人を斬っていた。



⸻



「浅い」



「触らないで」



⸻



モモが矢柄を折り、傷より上を布で縛る。



だが布はすぐ赤くなった。



重ねても、押さえても、色が広がる。



タダがシンを背負った。



⸻



「軽い」



「今、それ褒めてる?」



「生きて食えば重くなる」



「じゃあ……あとで、いっぱい食わせて」



「ああ」



⸻



タダは走った。



モモは横を離れない。



顕家が医師を呼び、外した自分の上衣をシンへ掛けた。



⸻



「眠るな、シン」



「命令?」



「そうだ。私の命令は聞け」



「だいたい……聞いてるよ」



「ならば今回も聞け!」



⸻



勝った戦の声が、遠くなる。



身体は震えているのに、指先から熱が消えていく。



モモが何度も名を呼んだ。



顕家は、命令を取り消さなかった。



それでも日が落ちる前に、心臓が止まった。



五度目の死は、勝った戦の後まで追ってきた。



⸻



⸻



腿を押さえた手に、血がなかった。



 朝の風。



 平たい岩の白い線。



 シンは目を開けなかった。



 モモが袖を握る。



⸻



「五つ目」



「あと何回、死ぬんだろうな」



「死なせない」



「でも、もう五回だ」



⸻



 ワカレが少し離れたところに立っていた。



 今度は、笑っていない。



⸻



「……五本」



「今日は笑わないんだな」



「笑える道なら笑うよ」



⸻



 ワカレは白い線の向こうを見た。



⸻



「五本とも違う方へ伸びたのに、君のところで切れてる。理由は分からない。でも、俺もこれは好きじゃない」



⸻



 袖の下で、シンの腕が震えていた。



モモはその震えを指で確かめた。



記録の中で、五つの声が重なる。



⸻



『シンを遣わせよ』



『曲がりへ立て』



『物見へ伝えよ』



『最後の縄を頼む』



『旗を下げろ』



⸻



どれも、その場では正しい判断の中にあった。



道も。



旗も。



物見を救うことも。



川を渡る順番も。



追撃を止めることも。



間違っているのは、最後だけだった。



シンが、そこに置かれる。



そして五つとも、その先でシンが死んだ。



顕家が殺しているのではない。



正しい判断の行き先だけが、死へ曲げられている。



⸻



「何をしている! 大和へ出るぞ!」



⸻



前方から顕家が呼ぶ。



今初めてこの境へ着いた顔で、白馬の上から手を差し出していた。



モモはその手を見た。



次に、目を閉じたままのシンを見る。



駆けつけても届かない。



隣にいても奪われる。



なら、次の命令が下りてから動くのでは遅い。



⸻



「今日も一緒にいる?」



⸻



シンがようやく目を開けた。



⸻



「……いる」



⸻



モモはいつも通り答えた。



ただし今度は、シンの袖を引かなかった。



自分が一歩前へ出て、白馬とシンの間へ立った。



何をするかは、まだ決めていない。



神託の仕組みも、死を止める方法も分からない。



それでも、六度目の死が来るまで待つつもりはなかった。



次は、自分から道を変える。



その決意だけは、まだシンへ言わなかった。



⸻



(第百四十二話へ)

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