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シン君伊賀越え

第百四十話 シン君伊賀越え


⸻




「荷縄、よし」



⸻



声が戻った。



次の瞬間、空気が胸へ飛び込んできた。



⸻



「――っ!」



⸻



シンは両手で胸を押さえた。



息がある。



胸が動く。



なのに身体だけが、まだ死んでいた。



脇腹へ、熱い杭。



胸へ、もう一本。



冷たい土。



伸ばした手。



桃の匂いが届く前に消えた視界。



⸻



「……やめろ」



⸻



誰にも触られていないのに後ずさった。



踵がもつれ、その場へ尻餅をつく。



胸元を掻き開く。



血がない。



矢もない。



何度触っても皮膚がある。



それでも矢尻が中に残っているような痛みだけが消えない。



⸻



「なんで……」



⸻



胃がひっくり返った。



横を向き、朝の空気だけを吐く。



朝靄。



白馬の鼻息。



新しい草鞋。



荷縄。



全部、見た。



全部、知っている。



隣ではタダが荷駄の縄を引いていた。



⸻



「持ち上げるなよ。確認しろと言ったんだ」



⸻



国継が言った。



タダは米俵ごと荷を浮かせる。



⸻



「見える」



「下ろせ!」



⸻



同じだ。



声も。



順番も。



死ぬ前の朝だった。



理解した瞬間、指先が震え始めた。



⸻



「……今日も一緒にいる?」



⸻



口が勝手に動いた。



右隣にモモがいる。



薄桃の衣。



黒い髪。



桃の飾り。



朝の続きを待つ顔ではなかった。



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「いる」



⸻



その声を聞いた途端、シンはモモの肩を掴んだ。



⸻



「俺、死んだ」



「うん」



「死んだよな?」



「うん」



⸻



肯定された。



夢ではなくなった。



⸻



「俺……死んだんだよな」



「うん」



⸻



モモの腕が背中へ回った。



シンも離さなかった。



衣を掴む。



触れる。



嗅ぎ慣れた桃の香り。



柔らかい温度。



生きている。



自分も。



モモも。



⸻



「何をしている! 置いていくぞ!」



⸻



顕家が振り返っていた。



白い息の向こうで、当然のように生きている。



尾根で叫んでいた顔ではない。



シンが死んだことも、自分がシンを尾根へ送ったことも知らない。



その顔を見た瞬間、シンはまた胸を押さえた。



⸻



「シン」



「……うん」



「私も覚えてる」



「全部?」



「全部」



⸻



モモが脇腹へ触れる。



⸻



「一本」



⸻



次に胸。



⸻



「もう一本」



⸻



シンの身体が反射的に跳ねた。



モモはすぐに手を離した。



⸻



「ごめん」



「いや……大丈夫」



⸻



大丈夫ではなかった。



傷はない。



それでも触れられるだけで身体が逃げる。



⸻



「記録が来た」



「最後まで?」



「うん」



⸻



モモが自分の手を見る。



⸻



「間に合わなかった」



「でも、戻った」



「戻った。でも、消えてない」



⸻



血などない手を、モモは強く握った。



⸻



「おい、どうした」



⸻



国継が近づく。



立とうとしたシンの膝が崩れ、タダが支えた。



⸻



「腹か」



「胸」



「飯ならある」



「胸に飯を入れるな」



⸻



国継が止める。



⸻



「汁もある」



「そういう問題じゃない」



⸻



いつもの声だった。



それだけで、少し息が戻った。



⸻



「道を開けろ」



⸻



顕家が白馬から降り、シンの額へ手を当てる。



⸻



「熱はない。脈は速いな。馬へ乗れ」



「誰の?」



「私のだ」



「総大将を歩かせたら国継に殴られる」



「殴りはしない」



⸻



国継が答えた。



⸻



「蹴る」



「ほら!」



⸻



顕家は眉を寄せた。



⸻



「では私の側を歩け。悪くなれば今度こそ乗せる」



⸻



あの尾根では届かなかった声が、今はすぐ近くにある。



怖い。



それでも、もう一度この朝からやれる。



その事実が、恐怖の隣へ並び始めていた。



⸻



出立前、シンとモモは荷駄の陰へ入った。



⸻



「今度は変える」



「あの案内役を捕まえる。尾根へ行かない。赤旗も立てない」



「うん」



「今度は死なない」



⸻



モモは袖を握り直した。



⸻



「今度は、間に合わせる」



⸻



⸻



伊賀へ通じる山道は、前と同じ顔で待っていた。



曲がった杉。



苔の石。



崩れた小さな祠。



前を歩く兵の悪態まで、シンは先に知っている。



だが安心はできない。



枝が鳴るたび肩が跳ねた。



弦の音に聞こえる。



⸻



「近くにいろ」



⸻



白馬の上から顕家が言う。



⸻



「なぜモモに袖を持たれている」



「逃走防止」



「俺、捕虜なの?」



「保護対象」



「もう少し優しく」



「不同意」



⸻



袖がさらに強く引かれた。



⸻



「そのまま引いておけ」



「二対一だ」



「私を数に入れるな。総大将だぞ」



「じゃあ一対一と総大将一人」



「一番うしろに置くでない!」



⸻



声を上げた分だけ、胸の冷たさが薄れた。



⸻



昼前。



見覚えのある男が道端へ現れた。



粗い衣。日に焼けた顔。腰に鉈。



⸻



「この先は昨夜の雨で――」



「雨の前に、だろ」



⸻



男の口が止まる。



モモが一歩出た。



⸻



「この人は駄目」



「何がだ」



「敵の間者」



⸻



男の手が腰へ落ちた。



衣の内側から短い刃。



抜き切る前に国継の鞘が手首を打った。



男が膝をつき、兵が押さえ込む。



⸻



「何の真似だ!」



「こいつの仲間が尾根に二人いる」



⸻



シンは上を指す。



⸻



「崩れた祠の先。山伏が一人、猟師みたいなのが一人」



「なぜ知っている」



「死ぬほど覚えさせられた」



「ふざけている場合か!」



「ふざけてない」



⸻



モモが言った。



顕家は二人を見てから、捕らえた男へ視線を戻す。



⸻



「国継。十人で尾根を裏から回れ。シンの言葉が正しければ生け捕れ」



「承知」



「違えば、戻ってこいつを殴れ」



「俺を?」



「私を謀った代金だ」



「違った時の罰が重い!」



「死ぬほどではない」



⸻



シンの口が止まった。



顕家の顔も僅かに曇る。



⸻



「……後で、全て話せ」



「うん」



⸻



尾根には本当に二人いた。



一人は逃げ、山伏姿の一人だけが捕らえられた。



戻った兵の中に、前の時間で死んだ二人がいた。



今は泥を跳ね上げ、何事もなかったように息を切らしている。



⸻



「どうした」



「いや。生きてるなと思って」



「縁起でもないことを言うな」



⸻



兵が笑う。



シンはうまく笑えなかった。



変わった。



自分が戻っただけではない。



この二人が死ななかった道を、本当に作れた。



⸻



捕らえた男は経の文句を知り、獣の足跡を読み、荷縄を馬借のように結べた。



衣から出たのは頭巾、火打ち石、白い土、細縄。



武家の名も旗もない。



⸻



「面倒なのがいるねえ」



⸻



頭上から声がした。



倒木の上に金髪の男が座っている。



片手には、なぜか握り飯。



⸻



「お前……!」



「久しぶり、シン君。百五十年ぶりくらい?」



「いつもより近い気がする!」



「百五十年で?」



「前よりは!」



「時間の感覚、壊れてきたねえ」



「確かに!」



⸻



シンが手を伸ばすと、ワカレは少し横へずれた。



⸻



「相変わらずだな」



「君もね」



⸻



ワカレの目がシンの胸へ落ちる。



次に、袖を握るモモの手。



最後に、二人が歩いてきたはずの道を見る。



⸻



「君、一度死んだね」



⸻



シンの息が止まった。



⸻



「……分かるのか」



「分かるよ。君の道が一度、途中で終わってる」



「どこで?」



「そこまでは分からない」



⸻



ワカレは指先で空中へ一本の線を引き、途中で止めた。



そこから少し手前へ、指を戻す。



⸻



「終わった君がいる。なのに今の君は、終わる前の道をまた歩いてる」



「シンが死んだ」



⸻



モモが言った。



⸻



「戻った。でも記録は残ってる」



「うん。死んで、戻ってきた。それは分かる」



「じゃあ、なんで戻ったかも分かる?」



「それは知らない」



「そこは知らないの!?」



「道が終わったことと、どうやって手前へ戻ったかは別の話だからね」



⸻



ワカレは生きて戻った兵を見る。



さっき死んだことすら知らず、泥を跳ね上げて笑っている。



⸻



「俺に分かるのは、終わった道が残ってること。君がそこから戻って、別の方へ歩き直してること。それだけ」



「……前と違う道にした」



「なら、今度はその道がどこへ行くか見ればいい」



⸻



ワカレは笑った。



⸻



「選び直せるうちはね」



⸻



それ以上は説明しなかった。



⸻



「だから来た?」



「違う。伊賀を歩いてたら君がいた」



「偶然かよ!」



「道ではよくある」



⸻



顕家が白馬を寄せる。



⸻



「その目に痛い男は何者だ」



「ワカレ。道案内みたいなやつ」



「信用は?」



「できない」



「でも道は知ってる」



⸻



モモが補足した。



⸻



「十分な紹介だね」



「どこがだ」



⸻



ワカレは捕虜の前へしゃがみ、細縄と白い土を見る。



⸻



「これ、目印?」



⸻



返事はない。



ワカレは石へ白い線を一本引いた。



少し離れた木には違う印。



⸻



「一つしか決めないと追う側にも読まれるよ。本当に通る方と、通ったと思わせる方。二つあれば一度迷う」



⸻



捕虜が顔を上げた。



⸻



「あ。知らなかった?」



「敵に教えるな!」



⸻



国継が怒鳴る。



⸻



「聞かれたから」



「誰も教えろとは言っていない!」



⸻



ワカレは悪びれない。



⸻



「道を塞ぐ時も全部塞がない方がいい。人は空いてる方へ行くから。行かせたい道を一つ残せばいい」



⸻



捕虜だけでなく、周囲にいた伊賀の案内人まで耳を傾け始めた。



ワカレは気にせず土へ枝で線を引く。



沢。



尾根。



獣道。



見える道。



見えない道。



⸻



「山は道だらけだよ。人が道じゃないと思ってるところまで含めればね」



⸻



本人に特別な技を教えるつもりはないらしい。



ただ普段の歩き方を話しているだけだった。



モモだけが、聞いている伊賀の者たちを見ていた。



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「……何?」



「たぶん、残る」



「何が?」



「今のやり方」



⸻



シンが首を傾げる。



⸻



「この時代にも間者はいる。山伏や商人、土地の者に紛れて情報を取ることも、伊賀だけの仕事ではない」



「うん」



「でも伊賀では、鎌倉末から南北朝期にかけて、東大寺領の黒田荘などで『悪党』と呼ばれた在地勢力が史料に出る。弘安の頃には東大寺が鎮圧を訴えている」



「悪いやつ?」



「必ずしもそうとは言えない。荘園領主から見て支配に従わない武装勢力までそう呼ばれた。地侍や在地領主が自分たちの土地と道を守りながら、寺社や守護と争っていた」



⸻



モモは山を見る。



⸻



「この土地では、谷を一つ越えるだけで別の道がある。誰がどこを通ったか、どの沢に水があるか、どこなら馬を隠せるか。そういう知識そのものが力になる」



「それが忍者になる?」



「すぐにはならない。後世の伊賀者や『忍び』が、今ここで完成しているわけじゃない」



「じゃあ、まだ忍者じゃない」



「うん。戦国期になると、伊賀衆が敵地へ忍び込み、放火した記録まで出てくる。でもそこへ至るまでに、二百年近く別々の技が積み重なる」



⸻



モモがワカレを見る。



今度は伊賀の案内人へ、足跡の残りにくい場所を示している。



⸻



「間者。地侍。山の案内。修験。荷を運ぶ者の道。別々の知恵が重なっていく」



「つまりワカレも忍者のご先祖様?」



「たぶん」



「本人、分かってないぞ」



「分かってない」



⸻



即答だった。



⸻



「記録にも残らないと思う」



「祖なのに?」



「祖は一人じゃない」



⸻



モモは白い印を見る。



⸻



「名前が残らなくても、やり方は残る」



⸻



シンも見る。



ワカレの真似をする伊賀の者。



教えた本人はもう握り飯を食べている。



誰か一人が忍者を作るわけではない。



ただ、この山にあった技の一つへ、ワカレの道が混ざった。



それで十分だった。



⸻



「で、花将軍ちゃん」



⸻



ワカレが立ち上がる。



⸻



「誰が花将軍ちゃんだ」



「君」



「……見る目はあるようだ」



「評価が速いな!」



「審美眼だけは認めよう」



「単純」



「誰が単純だ!」



⸻



ワカレが握り飯を齧る。



タダが見る。



⸻



「それ、俺のだ」



「道に落ちてた」



「荷の上は道じゃない」



「俺が歩けば道になる」



⸻



タダは考える。



⸻



「もう一個いるか」



「いる」



「そこで仲良くなるな!」



⸻



国継の声が山へ響いた。



⸻



「それで」



⸻



顕家が扇で先を指す。



⸻



「大和へ出たい。兵と馬を通す。荷駄は捨てぬ。足利方に押さえられた道も避ける。日暮れまでに水が取れる場所へ出ろ」



「注文が多いなあ」



「私は北畠顕家だぞ」



「理由になる?」



「なる」



「なるんだ」



⸻



ワカレがシンへ笑う。



⸻



「じゃあ始めようか」



「何を」



「シン君、伊賀越え」



「何か聞いたことある!」



「花将軍ちゃんと白桃ちゃん付き」



「私は付属品ではないぞ!」



「私も。あと白桃ちゃんは嫌」



「じゃあモモちゃん」



「それも嫌」



「難しいなあ」



「私を放置するな!」



⸻



笑い声が山道を先へ進んだ。



⸻



⸻



ワカレが選んだ道は細かった。



古い炭焼き道を抜け、沢沿いから獣道に近い斜面へ入る。



ワカレは魔法のように軍を運ばない。



足跡を見る。



土を擦る。



人が大勢通った跡を避け、山仕事の跡を使う。



さっきの伊賀の案内人が二人、いつの間にか後ろについていた。



同じ場所で止まり、同じ土へ触れる。



ワカレは振り返らない。



教えているつもりすらない。



それでも二人は見ていた。



顕家も任せきりにはしない。



斜面。



沢の水量。



馬の息。



兵の列。



空の色。



自分で見て進む速さを決める。



昼を過ぎても、あの尾根へ向かう者はいない。



赤旗も上がらない。



シンは生きていた。



胸には傷がない。



モモが隣にいる。



⸻



「道が細いぞ!」



「敵に知られていない道をご希望かと」



「獣道を出すな!」



「太くて誰も知らない道は少ないよ」



「作れ!」



「無茶言うなあ、花将軍ちゃん」



⸻



許している声だった。



シンは少し笑った。



今度は変えられた。



死んだ兵も生きている。



⸻



(やれる)



⸻



そう思った。



死んでも戻れる。



戻れば、変えられる。



その考えが、まだ救いに見えていた。



⸻



夕刻前。



軍列は山腹の狭い曲がりへ出た。



上は急斜面。



下は深い谷。



馬一頭がようやく通れる幅しかない。



ワカレは先へ出ている。



顕家は白馬から降り、土と荷駄と馬の脚を見る。



⸻



「重い荷は降ろせ。兵を先へ渡し、向こうから縄を取れ。馬は一頭ずつ。人を谷側へ立たせるな」



⸻



迷いはない。



国継が兵を動かす。



タダが荷を二つ持ち上げた。



⸻



「一つずつだ!」



「二つ持てる」



「そういう話ではない!」



⸻



兵が笑う。



馬が一頭、また一頭と通る。



木立からワカレが戻った。



⸻



「先は出られるよ。少し下れば沢へ合う」



⸻



顕家の判断は正しかった。



モモが近くの木へ目を留める。



白い土の細い線。



捕らえた男が持っていたものと同じ色。



指で擦る。



新しい。



ワカレがさっき通った時には、なかった。



軍より先に、旗を持たない者が道へ入る。



選び直した道にも、すでに誰かがいた。



⸻



顕家の指が扇の骨を挟んだ。



目が一度だけ、道ではない場所を見る。



⸻



「シン」



「何?」



「曲がりへ立て。後ろを止め、最後の馬が渡ったら合図しろ」



⸻



危険には見えない。



敵はいない。



兵の列の中。



三十歩もない。



シンは胸へ手を当てる。



傷はない。



尾根でもない。



赤旗もない。



⸻



「りょ」



⸻



歩き出す。



モモが白い印から顔を上げた。



顕家を見る。



シンを見る。



⸻



「待って」



⸻



顕家も即座に振り向く。



⸻



「シン、戻れ!」



⸻



シンが足を止める。



上の斜面で縄が緩んだ。



乾いた音。



丸太を留めていた杭が外れる。



⸻



「上だ!」



⸻



丸太が土と石を巻き込み、落ちてくる。



シンの前で若い兵が立ち尽くしていた。



⸻



「伏せろ!」



⸻



シンは兵を突き飛ばした。



その背中へ丸太が当たる。



身体だけが浮いた。



足元から道が消える。



⸻



「シン!」



⸻



モモが走る。



フツを抜き、二本目を斬った。



白い光が木を裂く。



だが、シンはもう谷側へ出ていた。



指先が土を掻く。



顕家も駆ける。



⸻



「掴まれ!」



⸻



届かない。



身体が谷へ落ちる。



枝が頬を打つ。



空と斜面が入れ替わる。



上に三人の顔。



モモ。



顕家。



笑っていないワカレ。



前とは違う。



尾根へは行かなかった。



赤旗も持たなかった。



案内役も捕まえた。



道まで変えた。



⸻



(なのに)



⸻



死んでも戻れる。



戻れば変えられる。



なら。



もう一度戻ればいい。



そう思った自分に、落ちながらぞっとした。



谷底の岩が迫る。



死ぬのは怖い。



身体は覚えている。



それでも、もう「初めて」ではなかった。



衝撃は一度だけだった。



そこで、何もなくなった。



⸻



(第百四十一話へ)


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