一度目の死
第百三十九話 一度目の死
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数日前。
京。
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北畠軍が伊勢へ転じたとの報が届いた頃、絵図の上で北畠顕家は三人に増えていた。
鎌倉。
青野原。
伊勢。
そのすべてに、足利直義が小さな白石を置いたからだ。
白石の周りには書状が重なっている。鎌倉陥落。杉本の敗戦。青野原で退けられた諸将。関の藤川を前に伊勢へ転じた奥州軍。減った兵糧。潰れた馬。逃げ帰った者の弁明。
読めば読むほど、白石は京へ近づいて見えた。
直義は絵図を睨んだ。
兄は見ていなかった。
縁側に座り、早春の庭へ降りた雀を眺めている。膝の脇には、湯気の薄くなった茶があった。
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「兄上」
「うん」
「聞いておられますか」
「聞いているよ」
「ならば、こちらをご覧ください!」
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直義が書状を一通、畳へ叩きつけた。
雀が驚いて飛び去る。
尊氏は少し残念そうに、その行方を見送った。
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「鎌倉は落ちました。青野原では土岐、桃井らが退けられた。高師泰らが関の藤川で道を塞いだゆえ伊勢へ転じましたが、北畠軍そのものはまだ潰れておりません」
「そうだねえ」
「そうだねえ、ではない!」
「焦っても、顕家殿が遅くなるわけではないよ」
「兄上がのんびりしていれば遅くなるのですか!」
「それも、ならないなあ」
「ならばせめて、のんびりするのをやめてください!」
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直義の声が庭まで響いた。
尊氏は茶を一口飲む。
すでに冷めていたらしく、僅かに眉を下げた。
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「それに、家長が死にました」
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茶碗が止まった。
笑みが消えたのは、ひと息ほどだった。
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「義詮は」
「無事です。鎌倉から落ち延び、海路、房総へ渡ったとのことです。家長が杉本に残り、北畠軍を引きつけました」
「そうか」
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尊氏は庭へ目を戻した。
雀はもういない。
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「なら、家長は勝ったんだね」
「死んだのですぞ」
「うん。惜しいことをした」
「惜しいで済ませるおつもりですか」
「悲しんでいるよ」
「まったく、そのようには見えません!」
「見えるように悲しめば、戻ってくるかな」
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直義は言葉を失った。
尊氏は本当に分からないらしい。
悲しい。
死んだ者は戻らない。
その二つが、尊氏の中では何の争いもなく並んでいる。だから泣く代わりに次のことを考え、考えているようにも見えない顔で茶を飲む。
直義には、それが時々、戦より恐ろしかった。
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「失礼いたします」
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高師直が入ってきた。
南都の警固から戻ったばかりだった。声にも足取りにも急報の色はなく、手にした紙と足元の草鞋だけが泥で汚れている。
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「伊勢へ出した物見が戻りました。北畠軍は馬と矢を補い、伊賀から大和へ通じる道を探っております。旗、荷駄とも西へ向かう支度です」
「兵は」
「青野原以前より減っております。傷者を伊勢へ残し、速さを取り戻すつもりでしょう」
「やはり京へ来るか」
「来ます」
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師直は迷わなかった。
直義が絵図の北へ目を移す。
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「新田はどうした。顕家と同時に越前から南へ圧をかけられれば、こちらは守りを二方へ割かねばならぬ」
「新田勢は、なお越前におります。府中をめぐる戦も捨てられませぬ」
「それだけか」
「動けぬ理由を、さらに増やしました」
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師直は絵図の上へ三本の指を置いた。
近江へ出る道。
若狭へ抜ける道。
山を縫って美濃へ回る道。
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「一つ目には、近江から足利の大軍が北上したとの噂を。二つ目には、若狭の舟がすでに押さえられたと。三つ目には、北畠軍が青野原から越前へ転じるとの偽りを流しました」
「互いに違うではないか」
「ゆえに、どれが真か確かめねば動けませぬ。確かめる間にも、越前の戦は続きます」
「誰に流させた」
「山伏。馬借。猟師。寺の雑色。宿で飯を食い、渡しで順を待ち、聞かれれば別の話をする者たちです」
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旗を持たない者ばかりだった。
軍忠状に名を残すこともない。ある日は僧となり、次の日には荷を引き、その次には山の木を知る男として、軍勢より先に道へ混じる。
師直は彼らを、ただ「散らした者」と呼んでいた。
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「伊勢から北国へ向かう使いらしき者も、何人か道を違えさせました。斬ってはおりません。一日遅らせ、何も知らぬ顔で放した。どの文が読まれたか、向こうには分かりませぬ」
「……新田は越前を空にできぬ。そこへ、北畠との連絡まで疑わせたのか」
「はい。足利勢が北へ来る可能性も、捨てられなくなる」
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直義は白石を見た。
青野原の一石と、越前の一石。
二つが同時に京へ寄る可能性はあった。
その可能性を、兵ではなく噂が遠ざけている。
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「青野原の勝敗が届く前から、仕掛けていたのか」
「殿の御指示です」
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師直の目が縁側へ向いた。
直義も兄を見る。
尊氏は雀の消えた庭を見ていた。
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「兄上。なぜ、北畠が勝つと分かったのです」
「八幡さまが、そうした方がよいと言ったから」
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尊氏は天気の話でもするように答えた。
直義の眉間へ皺が寄る。
師直だけは顔を変えない。
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「新田が動かぬなら、北畠は単独です」
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師直は話を先へ進めた。
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「伊賀から大和へ出るまでに足を鈍らせます。大軍を一か所へ置けば、顕家は別の道を選ぶ。少人数を先へ散らし、橋、宿、渡し、荷駄の通る道を一つずつ使いにくくする。止まったところへ兵を寄せます」
「すり潰すか」
「速い軍は、止まるたびに弱くなります」
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尊氏が振り返った。
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「では、師直に任せるよ」
「承知いたしました」
「兄上、今の三言で丸ごと任せるのですか!」
「師直なら、三言で足りるだろう」
「足ります」
「足らすな!」
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師直は一礼し、下がろうとした。
その時。
縁側へ射した白い光が、僅かに濃くなった。
尊氏の耳には何も鳴っていない。
それでも言葉は、初めから自分の中にあったように浮かんだ。
尊氏が八幡大菩薩と呼んでいる声。
だが、それは八幡の名を借り、人の信仰の中でもっとも拒みにくい形を選んでいるだけだった。
これまでは戦の先や、起こり得る災いを見せていた声が、この時初めて、一人の人間へ明確な殺意を向けた。
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『北畠顕家の傍らに、異なる者がいる』
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白と金の花。
その近くに立つ、黒髪の若い男。
武者にも、小姓にも見えない。
男の手で赤い旗が上がる景色まで見えた。
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『先に殺せ』
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「あ、師直」
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尊氏が呼び止めた。
師直は振り返る。
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「北畠顕家の側に、妙な若者がいるそうだ」
「名は」
「知らない。武者でも小姓でもない。黒い髪で、赤い旗を持つ」
「ほかに目印は」
「顕家殿と、桃の飾りをつけた娘の近くにいる」
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直義の目が細くなる。
師直は一つだけ問うた。
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「その者を、どうせよと」
「先に殺してくれ」
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あまりに軽い声だった。
菓子を一つ追加するような言い方だった。
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「承知いたしました」
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師直も理由を聞かなかった。
必要な目印があり、優先順位が決まった。それで仕事はできる。
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「伊賀へ散らした者へ伝えます」
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今度こそ、師直は下がった。
廊の先で別の者を呼ぶ声がする。命令は細かく分けられ、早馬を継ぎ、宿から宿へ渡っていく。その先で、旗を持たない者たちが動き始める。
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「また、八幡大菩薩ですか」
「うん」
「名も知らぬ者を、神託だけで殺せと?」
「顕家殿の近くにいるなら、放っておかない方がいいらしい」
「誰がそう決めるのです」
「八幡さまかな」
「兄上!」
「とりあえず聞いておけば、あまり悪いようにはならないよ」
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尊氏はそう言ってから、少しだけ口ごもった。
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「でもなあ……」
「何です」
「いや。何でもない。それより茶にしよう。良い菓子がある」
「今、飲んでおられたでしょう!」
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直義の声を聞きながら、尊氏は以前見た景色を思い出していた。
自分の膝へ横たわる弟。
飲み干された椀。
頬へ触れた指に残った冷たさ。
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『お前もまた鬼となり、弟を殺す』
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八幡大菩薩は、そうも言っていた。
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(それは、嫌だなあ)
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けれど今、直義は生きている。
元気に怒っている。
今すぐ困ることではない。
尊氏は菓子を半分に割り、片方を弟の前へ置いた。
未来のことは、菓子を食べてから考えることにした。
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朝靄を抜ける頃には、伊勢の宿営地はもう背後にあった。
新しい草鞋は、昼を待たずに泥を吸った。硬かった藁が踵を擦り、シンは歩きながら何度目か分からない結び直しをする。
奥州軍は伊賀へ通じる山道へ入っていた。
空が狭い。
兵糧を積んだ駄馬。矢を背負う兵。傷へ布を巻いたまま具足を着けた者。先頭の旗は見えても、その先の道は見えず、振り返れば荷駄の列が木々の向こうへ消えている。
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『脚まで新しくなったと思うんじゃないよ』
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小萩の声を思い出していると、隣のモモが同じ調子で言った。
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「痛む前に言いな」
「モノマネやめい」
「もう痛い?」
「ちょっと」
「言うのが遅い」
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前を行く白馬が歩みを緩めた。
顕家が振り返る。
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「何を揉めている」
「俺の足と小萩さん」
「意味が分からぬ。遅れるなら馬の尾へ結ぶぞ」
「負傷者への配慮が雑すぎるっ」
「口は達者ではないか!」
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顕家が前へ戻る。
白い肩が僅かに上がるたび、シンは昨日、親房が見抜いた傷を思った。
父親に止めてもらう道はなかった。
だが、何も得られなかったわけではない。
誰かに答えを与えられる前から、ヒカルは見ている。
親房はそう言った。
それが本当なら、頼るものを失っても、この軍を率いる力は残る。
助ける道は、まだあるはずだった。
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「モモ」
「なに」
「さっきから、顕家ばっかり見てない?」
「見てる」
「何かあるのか」
「どっちが先か見てる」
「どっち?」
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モモは答えず、白馬の背を見た。
右手の指が、フツの鍔へ一度だけ触れる。
シンには、それ以上聞くなという意味に見えた。
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「止まれ!」
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前から声が飛んだ。
馬の足が止まり、後ろの兵が詰まる。荷縄が軋み、駄馬が嫌がって首を振った。
道の先に、倒れた木があった。
一本ではない。斜面から崩れた土ごと、何本もの幹が道を塞いでいる。
顕家が馬を降りた。
国継と、伊賀の猟師を名乗る案内の男が地面へ膝をつく。
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「いつ崩れた」
「昨夜かと。土がまだ濡れております」
「先へ出した物見は」
「この尾根までは異状なしと」
「荷駄は通せぬな」
「木を払うだけでも半日は」
「半日も止まれば雨が来る。古い脇道は」
「少し戻ったところにございます。ただ、分かれ目が木立へ隠れ、後ろの隊は見落とします」
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顕家は空を見た。
雲の低さ。
斜面の土。
軍列の長さ。
荷を降ろせば通せる場所と、馬が脚を取られる場所。
目が順に動き、すぐ止まる。
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「倒木は触るな。先に脇道の出口を確かめる。荷駄を二つに割り、前から順に通せ。尾根へ赤旗を立て、後続へ曲がる場所を示せ」
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答えは速かった。
迷いもない。
その後で、顕家の肩が僅かに揺れた。
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『シンを遣わせよ』
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顕家の目がシンへ向いた。
鎌倉でも青野原でも旗を扱った。決まった隊を持たず、後続の将兵にも顔を知られている。身軽で、尾根へ上がるだけなら危険も少ない。
理由は、後からいくつも並んだ。
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「シン。赤旗を持て」
「また旗担当?」
「この軍で大将旗を拾った男だ。今さら小旗を嫌がるな」
「経歴って、こうやって勝手に育つんだな……」
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国継が兵を二人呼ぶ。
顕家は案内の男へ道筋をもう一度言わせ、尾根の古い祠より先へ出ないこと、旗を立てた後も護衛を離さないことを命じた。
軽い仕事でも、シン一人では行かせない。
シンは赤旗を受け取った。
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「顕家」
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モモが呼んだ。
声は低い。
顕家が見返す。
二人の間で、視線だけが止まった。
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「最初に決めたのは、旗まで?」
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顕家の指が、扇の骨を強く挟んだ。
何を聞かれたのか分かった顔だった。
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「……そうだ」
「なら、人は替えられる」
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顕家はすぐに否定しなかった。
赤旗を持って案内役の横へ立ったシンを見る。
自分が先に見つけた答えと、後から加わったもの。その境を探すように目を細めた。
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「シン、待て。旗は――」
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後ろで駄馬が嘶いた。
詰まった列の中で一頭が足を滑らせ、括りつけた荷が傾く。俵が落ち、谷側にいた兵の肩へぶつかった。
悲鳴。
荷縄が切れる音。
顕家の声が掻き消された。
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「馬の頭を山へ向けろ! 荷を捨てて兵を先に起こせ! 後ろは詰めるな!」
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顕家と国継が同時に動く。
モモも倒れた兵へ手を伸ばした。
ほんの僅かな間だった。
シンは命令が変わったことに気づかないまま、二人の護衛と木立へ入った。
案内の男が先に立つ。
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「こちらです。雨の前に」
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男は倒れた馬を見なかった。
道も見なかった。
赤旗を持つシンの顔だけを、一度振り返った。
モモは兵を引き起こしながら、その目を見た。
立ち上がる。
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「違う」
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顕家が即座に振り向いた。
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「何がだ」
「あの男。道を見てない」
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モモはもう駆け出していた。
顕家の顔色が変わる。
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「シンを戻せ! 前列は動くな! 国継、ここを預ける!」
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白馬へ飛び乗る。
だが狭い道には兵と駄馬が詰まり、馬首を返す場所すらない。
モモだけが列を外れ、斜面へ入った。
木の根を踏む。
岩を蹴る。
人が走る道ではない場所を、真っ直ぐ尾根へ上がっていく。
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尾根には、小さな祠の跡があった。
屋根は落ち、石だけが苔の中に残っている。
シンは赤旗の柄を地面へ突き立てた。
下の道からも見える。
後ろの隊で旗が一度上がった。
合図は届いた。
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「これでいい?」
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振り返った時、案内の男はいなかった。
護衛の一人も、それに気づく。
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「どこへ行った」
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返事の代わりに、弦が鳴った。
兵の胸へ矢が刺さる。
倒れる前に、二本目がもう一人の腿を射抜いた。
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「伏せろ!」
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兵がシンを石の陰へ押した。
木々の間に、三つの影が見える。
鎧を着ていない。
旗もない。
一人は山伏の衣。もう一人は猟師。残る一人は、さっきまで道を教えていた男だった。
男がシンを見る。
次に赤旗を見る。
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「黒髪。赤旗」
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低い声だった。
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「その男だけでよい」
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何のために狙われたのか、シンには分からなかった。
顕家ではない。
義良親王でもない。
荷駄へ火を掛けるでもない。
最初から、自分だけを待っていた。
背中が冷える。
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「走れ!」
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倒れた兵が叫んだ。
その肩が赤旗の柄へ当たった。
赤が傾く。
下の軍は、この旗を見て動いている。
シンは逃げる前に柄を掴み、地面へ突き直した。
遅れたのは、ほんの一瞬だった。
その一瞬で矢が来た。
脇腹へ、熱い杭を打ち込まれた。
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「っ……!」
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身体が横へ回る。
赤旗が手から滑った。
痛みより先に息がなくなった。
膝をつく。
立とうとして、右脚が動かない。
影の一人が弓へ次の矢を番える。
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「シン!」
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遠くで、モモの声がした。
木々の間に桃の飾りが見える。
フツが抜かれていた。
案内の男が振り向く。
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「早い」
「構うな。射ろ」
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弦が鳴った。
シンは立てなかった。
胸を強く押される。
何かが身体を抜けた。
冷たい土へ、仰向けに倒れる。
空が枝の間で細く揺れていた。
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(今日も一緒にいる?)
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朝の自分の声が聞こえた。
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(いる)
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モモの答えも。
手を伸ばそうとした。
指が僅かに土を掻いただけだった。
モモがこちらへ走ってくる。
その後ろで、白馬が兵の列を押し分けていた。
ヒカルが何か叫んでいる。
聞こえない。
三人で生きて帰るために、伊勢を出たばかりだった。
怖い。
死にたくない。
モモの手が伸びる。
あと少し。
桃の匂いが届くより先に、シンの視界は消えた。
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(第百四十話へ)




