↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
138/149

父と娘

第百三十八話 父と娘


⸻


 それから間もなく、軍営の中を荷駄が行き交い始めた。


 俵。束ねた草鞋。矢竹と弓弦。馬具。荷縄。


 駄馬の鼻息が白く煙り、伊賀や大和の道を知る者たちが、積み下ろされる荷の間を走っている。


⸻


「米だ」


「見れば分かる」


「増えた」


「お前の飯が増えたんじゃない。軍の兵糧だ」


「俺も軍にいる」


「食いたいなら運べ」


⸻


 国継に押され、タダは素直に俵を二つ担いだ。


⸻


「一つでいい!」


「二つの方が早い」


「落としたら遅くなる!」


⸻


 昨日まで身体を休めていた兵たちも、今日は動いていた。


 新しい草鞋を合わせる者。矢の本数を数え直す者。傷んだ荷鞍から、まだ使える革と縄を外す者。


 歩けぬ傷兵は伊勢へ残す。名が呼ばれるたび、同じ隊の兵が黙って荷を分けた。


 休みが終わる。


 それでも、補われた米と矢と草鞋は、それだけで兵の顔を少し明るくした。


⸻


 顕家が小萩に髪を直されている。


⸻


「動くな」


「もう整っている!」


「整ってる人間は、烏帽子を斜めに被らないよ」


「これは風雅というものだ」


「寝癖だよ」


⸻


 小萩は容赦なく烏帽子を直した。


 昨夜、酒に酔ってシンの腕へしがみついていた娘は、もうどこにもいない。


 白と金の衣を整え、黒髪をまとめ、背筋を伸ばす。


 そこにいるのは、いつもの北畠顕家だった。


⸻


「シン。見ていないで何とか言え」


「小萩さんが正しい」


「役に立たぬ近習だな!」


「寝癖は勤務範囲外だ」


「はい、終わり。これなら親房様の前へ出せる」


「最初から出せた!」


⸻


 顕家は胸を張った。


 少し離れて見ていたモモが、ぽつりと言う。


⸻


「同じ」


「何が?」


「ヒカルも、顕家も」


⸻


 シンは返事をしかけて、やめた。


 その時、軍営の入口が騒がしくなった。


⸻


⸻


 先触れの武者に続き、供回りと荷駄の列が入ってきた。


 中央を進む男を見た瞬間、周囲の声が自然と低くなる。


 華美ではない。


 だが、兵の中にあっても、その男だけは都の空気をまとっていた。


 北畠親房。


 南朝を支える重臣だった。


⸻


「濡れた兵糧は分けよ。傷者へ回す分と、明日動く兵の分を混ぜるな」


⸻


 供の者が走る。


⸻


「矢は隊ごとに不足を見よ。伊勢へ残す傷者は名と属した隊を記せ。置き去りにするのではない。預けるのだ」


⸻


 声を荒らげない。


 それでも、一言ごとに人が動いた。


 兵を率いる顕家とは違う。


 人と物を配置し、全体を動かす男だった。


 誰もが南朝の重鎮を見ていた。


 シンだけは、別のものを見ていた。


 ――近いうちに、娘を失う父親。


 昨日、モモから聞いたばかりだった。


 五月二十二日。石津。


 そこへ至る道を、この男はまだ知らない。


 父親なら。


 この人なら、ヒカルを止められるかもしれない。


⸻


「父上。遠路、ご足労をおかけしました」


⸻


 顕家が進み出た。


 親房の視線が、娘の顔から肩、脇腹、足元へ一度だけ落ちる。


 傷を確かめるような目だった。


 だが、すぐに重臣の顔へ戻った。


⸻


「顕家。鎌倉、青野原、関の藤川。報せは読んだ。まず義良親王殿下の御様子を」


「御健勝です。ただ、長旅の疲れがございます。今日はお休みいただいております」


「それでよい。兵は」


「戦える者はまだおります。ただし馬と矢が足りません。傷兵も多い。伊賀へ入り、隊を整えながら大和を目指します」


「もう決めたか」


「道と兵と荷を見れば、その程度は」


⸻


 顕家は平然と言った。


 親房の口元が、ごく僅かに緩む。


⸻


「ならば後ほど聞こう」


「はい」


⸻


 顕家が下がろうとした時、親房が呼び止めた。


⸻


「顕家」


「はい」


「肩を庇っているな」


「……この程度、傷のうちには入りません」


「それを決めるのは、そなたではない。次からは自分の傷も報告へ入れよ」


「父上、今は軍議の前です」


「だから申している。総大将の身体も軍のうちだ」


「承知しました」


⸻


 言葉だけを聞けば、父親の小言にも聞こえる。


 だが声音は崩れず、親房は最後まで「顕家」へ命じていた。


 心配しているのに、心配しているとは言わない。


 顕家もまた、娘としては答えない。


⸻


 親子の再会だった。


 なのに話しているのは、親王、兵、馬、道のことばかり。


 昨夜のヒカルを知っているシンには、妙に遠く見えた。


 親房の目がシンへ移る。


⸻


「そなたが、顕家の側に置かれた者か」


「シンです」


「家は」


「分かりません」


「……文字は書けるか」


「一応」


「一応とは何だ」


⸻


 顕家がすぐ割り込む。


⸻


「礼法も書状も心許ない男ですが、目はよい。鎌倉でも青野原でも働きました。大将旗を拾い上げたのもシンです」


「そうか」


⸻


 親房はシンを見た。


 褒めもしなければ、露骨に疑いもしない。


⸻


「顕家が側へ置くなら理由はあろう。ただし、殿下と軍の近くにいる以上、己一人の軽率では済まぬ。覚えておけ」


「はい」


⸻


 思わず背筋が伸びた。


 次に親房はモモへ目を向ける。


⸻


「名は」


「モモ」


「それだけか」


「それだけ」


⸻


 親房の視線が腰のフツへ落ちた。


 しかし何も問わない。


⸻


「顕家。変わった者を側へ置くなとは言わぬ。置いた以上は、そなたが責を持て」


「当然です。二人とも、私が側へ置くと決めましたから」


「私は自分でいる」


⸻


 モモが即座に言った。


 親房は娘を一度見ただけで、話を終えた。


 その横を俵を担いだタダが通る。


⸻


「そなた。今ある兵糧で何日もつ」


「四日くらい。馬の分は別。伊勢で足せれば、もう少し」


「傷者へ残す分は」


「分けた。あっちは触らない」


「よし。続けよ」


⸻


 タダは頷き、そのまま歩いていった。


 親房は笑わない。


 けれど、必要な働きをした者は、身分に関係なく見ている。


 シンは少しだけ分かった。


 怖い人というより、隙のない人だ。


 少なくとも今は。


⸻


⸻


 軍議では、親房が持参した絵図が広げられた。


 伊賀へ入る道。


 大和側から届いた敵の動き。


 兵糧を得られる場所。


 雨で崩れた山道。


 顕家は説明を聞きながら、必要なことだけを尋ねた。


⸻


「この道は荷駄が通れるか」


「騎馬は通れます。ただ、谷側が崩れております」


「なら縄を先へ出せ。荷は二つに割る。足利方の物見は」


「大和口に増えております」


「なら、こちらが大和へ急ぐと見ている」


⸻


 顕家の指が絵図を滑る。


⸻


「先行を伊賀へ出す。本隊と荷駄の間を空けろ。狭い道へ全軍を詰めれば、一頭倒れただけで軍が止まる。傷兵と歩けぬ馬は伊勢へ残す。草鞋は今日中に全員へ。矢は隊ごとの不足を埋めよ」


⸻


 誰かが答えを与えるのを待ってはいない。


 見て、聞いて、決める。


 親房は何も助けず、娘が絵図の上へ道を作るのを見ていた。


⸻


「異論はない。顕家の案で進めよ」


⸻


 その声音は、父親が娘を褒めるものではなかった。


 南朝の重臣が、一人の将の策を認める声だった。


⸻


「明朝、出立せよ」


「承知しました」


⸻


 顕家も将として頭を下げる。


 やはり遠い。


 シンには、そう見えた。


⸻


⸻


 夕刻。


 親房は伊勢へ残す傷兵の名を確認していた。


 シンは供の者たちの前へ出た。


⸻


「親房卿」


「何だ」


「二人で話したい」


⸻


 供の一人が眉をひそめる。


 親房はシンをしばらく見た。


⸻


「よい。皆、外せ」


⸻


 人が下がった。


 最後の一人まで離れたことを確かめ、親房は軍営の外れへ歩く。


 冬枯れの木と低い土塀の間。


 遠くに荷駄の音はする。


 ここには二人しかいなかった。


⸻


「申せ」


⸻


 声はさっきまでと同じだった。


 南朝の重臣。


 北畠家の当主。


 シンは、その顔を見上げる。


⸻


「ヒカルを、もう戦わせないでくれ」


⸻


 親房の目が僅かに動いた。


⸻


「その名を……あれがお前に教えたのか」


「ああ」


「そうか」


⸻


 返事が、初めて遅れた。


⸻


「ならば、あれがお前をどこまで内へ入れたかは分かった」


⸻


 親房は一度、周囲を見た。


 誰もいないことを改めて確かめる。


⸻


「このままじゃ、ヒカルは死ぬ」


「戦場に立つ者ならば――」


「そういう話じゃない」


⸻


 シンは遮った。


⸻


「寝ない。飯も忘れる。兵が減れば、自分が余計に働けばいいと思ってる。誰かが死ねば、自分の判断が悪かったって顔をする。それでも前へ行く」


⸻


 親房は黙って聞いている。


⸻


「分かってるなら止めろよ。父親なんだろ」


⸻


 長い沈黙の後、親房が息を吐いた。


 ほんの僅かに肩が落ちる。


⸻


「そうだ」


⸻


 軍を動かしていた声ではなかった。


⸻


「私は、あれの父だ」


⸻


 親房は木の向こうを見た。


⸻


「ヒカルの母は、西国の女だった。都の者ではない」


⸻


 シンは黙って聞く。


⸻


「あの子を産んだ後、すぐに亡くなった。最後に残したのが、ヒカルという名だった」


⸻


 親房は一度、言葉を選ぶように目を伏せた。


⸻


「その後は、妻の行子が育てた。血を分けた母ではないが、あれにとっては母も同じだ」


「それで、男として育てた?」


「あの頃、北畠に男子の後継がいなかった。初めは暫しのつもりだった。男子が生まれるまで。顕家という名を与え、嫡男として置いた」


「弟が生まれても戻さなかった」


「戻せなかった」


⸻


 親房はそこで首を振った。


⸻


「いや。戻さなかった。私が」


⸻


 初めて、自分を裁くような声だった。


⸻


「幼い頃から、あれはよく見えた。人の顔、空模様、馬の疲れ、道の違い。別々のものを一度に見て、一つの答えにする。宮中へ出せば帝の目に留まり、陸奥へ下せば兵をまとめ、政までこなした」


⸻


 親房が苦く笑う。


⸻


「私は、あれの才が欲しかった」


「娘なのに」


「娘だから、止めるべきだった」


⸻


 親房の指が袖の中で強く握られる。


⸻


「父なら、娘が優れていることを喜べばよい。だが私は、その才を見た時、先に使い道を考えた。顕家ならば北畠を支えられる。陸奥を治められる。帝を支えられる、と」


「親としてじゃなくて?」


「……その時の私は、先に北畠の当主だった」


⸻


 返事は早かった。


⸻


「だが、朝廷が必要とした。帝が必要とした。奥州の兵が必要とした。そして私も、私の志のために必要とした」


「それで、本人も顕家でいたがったからって言い訳した?」


⸻


 親房がシンを見る。


⸻


「……その通りだ」


⸻


 否定しなかった。


⸻


「本人が望んでいる。ならば父が奪うべきではない。そう言えば、私は決めずに済んだ」


「ずるいな」


「そうだ。父としては、ずるい」


⸻


 南朝の重臣なら、こんな顔はしなかっただろう。


 帝を支え、国の行く先を語る北畠親房なら、迷いなど見せない。


 けれどここにいるのは、娘を顕家にした父親だった。


⸻


「ヒカルって名前を、どうして残したんだ」


「母が残した名だからだ」


「顕家として生かすなら、消した方が都合よかっただろ」


⸻


 親房はしばらく答えなかった。


⸻


「あれを顕家にしたのは私だ。だからせめて、私の前でまで顕家だけにしてはならぬと思った」


⸻


 声が弱くなる。


⸻


「母の名を残せば、どこかには娘として帰る場所が残る。そう思った」


「帰らせてないじゃん」


⸻


 親房は目を閉じた。


⸻


「……そうだな」


⸻


 その返事に、シンは何も言えなかった。


 父親なら娘を助ける。


 そんな簡単な話ではなかった。


 親房は自分が何をしてきたのか分かっている。


 分かっていて、それでも止められない。


⸻


「一つ、覚えておけ」


「何」


「顕家の才を、神仏から借りたものと思うな」


⸻


 シンが顔を上げる。


⸻


「今日の軍議を見ただろう。あれは昔からだ。誰かに答えを与えられているのではない。見たものを繋ぎ、自分で答えを出す」


「ヒカルは、自分を信じてないけど」


「だから困っている」


⸻


 親房の口元に、ほんの少しだけ父親らしい苦笑が浮かんだ。


⸻


「あれは己の才だけは、どうしても信じぬ」


「父親が褒めればいいじゃん」


「褒めた」


「足りなかったんじゃない?」


「……そうかもしれぬ」


⸻


 シンも僅かに笑った。


 すぐに真顔へ戻る。


⸻


「俺は、まだ止めた方がいいと思ってる」


「それでよい」


「親房卿が止めないなら、俺が別の道を探す」


「そうしてくれ」


⸻


 シンは眉を寄せる。


⸻


「……いいのか」


「父としては、頼みたい」


⸻


 親房の顔から、僅かな弱さが消えた。


⸻


「朝臣としては、今日会ったばかりの、素性も知れぬ男を信用してはおらぬがな」


「どっちなんだよ」


「どちらも私だ」


⸻


 親房はそこで姿勢を正した。


 落ちていた肩が戻る。


 声も戻った。


⸻


「話は終わりだ。明朝、軍は発つ。近習なら遅れるな」


「はい」


「それと、公の場であの名を軽々しく呼ぶな」


「分かってる」


⸻


 シンが歩き出す。


 振り返った時には、親房はもう供の者を呼び戻していた。


 傷兵の名を確かめ、兵糧を問い、何事もなかったように指示を出している。


 さっきの父親は、もう見えなかった。


 ヒカルと顕家。


 父親と公卿。


 どちらも嘘ではない。


 どちらかだけが本当でもない。


⸻


⸻


 その夜、親房と顕家は明日の行程を確認した。


⸻


「殿下を奉じ、大和へ入れ」


「はい」


「兵を失うことを恐れて時を失うな。ただし、時を急いで兵を捨てるな」


「心得ております」


「都だけを見るな。伊勢へ残す傷者も、後ろにいる奥州の兵も、すべてそなたの軍だ」


「無論です」


⸻


 重臣と将だった。


 見事なくらいに。


 最後に親房が娘を呼ぶ。


⸻


「顕家」


「はい」


「生きて戻れ」


⸻


 ほんの一瞬だけ、顕家の顔から力が抜けた。


 それから、いつものように胸を張る。


⸻


「当然です。この北畠顕家が、そう易々と死ぬものですか」


⸻


 シンだけが、その言葉を笑えなかった。


 父親に止めてもらう道は、消えた。


 ならば別の道を探す。


 まだ三か月ある。


⸻


⸻


 翌朝。


 伊勢の宿営地は薄い朝靄に包まれていた。


 馬の鼻息が白く浮かぶ。


 新しい草鞋はまだ藁が硬い。


 昨日運び込まれた俵は荷駄へ分けられ、縄で固く締められている。


⸻


「荷縄、よし」


⸻


 タダが結び目を引いた。


⸻


「持ち上げるなよ」


「引いただけ」


「それでいい」


⸻


 国継が釘を刺す。


 少し離れたところでは、小萩が兵へ竹筒を配っている。


⸻


「新しい草鞋だからって、脚まで新しくなったと思うんじゃないよ。痛む前に言いな!」


「はい!」


⸻


 昨日まで静かだった軍営が、また軍へ戻っていく。


 シンは草鞋の緒を結び直した。


 隣にはモモがいる。


⸻


「今日も一緒にいる?」


「いる」


⸻


 短い答えだった。


 それだけで、シンは笑った。


 前方で白馬が動く。


 顕家が振り返った。


⸻


「何をしている! 置いていくぞ!」


「待ってるじゃん」


「待っていない! 馬が勝手に止まったのだ!」


「賢い馬」


「主人よりな」


「聞こえているぞ、シン!」


⸻


 シンが走る。


 モモも、その隣を走った。


 白馬は二人が追いつくまで、やはり歩みを速めなかった。


 三人が並ぶ。


 朝靄の向こうへ、道が続いていた。


 今度こそ。


 三人で、生きて帰るために。


⸻


(第百三十九話へ)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。