父と娘
第百三十八話 父と娘
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それから間もなく、軍営の中を荷駄が行き交い始めた。
俵。束ねた草鞋。矢竹と弓弦。馬具。荷縄。
駄馬の鼻息が白く煙り、伊賀や大和の道を知る者たちが、積み下ろされる荷の間を走っている。
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「米だ」
「見れば分かる」
「増えた」
「お前の飯が増えたんじゃない。軍の兵糧だ」
「俺も軍にいる」
「食いたいなら運べ」
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国継に押され、タダは素直に俵を二つ担いだ。
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「一つでいい!」
「二つの方が早い」
「落としたら遅くなる!」
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昨日まで身体を休めていた兵たちも、今日は動いていた。
新しい草鞋を合わせる者。矢の本数を数え直す者。傷んだ荷鞍から、まだ使える革と縄を外す者。
歩けぬ傷兵は伊勢へ残す。名が呼ばれるたび、同じ隊の兵が黙って荷を分けた。
休みが終わる。
それでも、補われた米と矢と草鞋は、それだけで兵の顔を少し明るくした。
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顕家が小萩に髪を直されている。
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「動くな」
「もう整っている!」
「整ってる人間は、烏帽子を斜めに被らないよ」
「これは風雅というものだ」
「寝癖だよ」
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小萩は容赦なく烏帽子を直した。
昨夜、酒に酔ってシンの腕へしがみついていた娘は、もうどこにもいない。
白と金の衣を整え、黒髪をまとめ、背筋を伸ばす。
そこにいるのは、いつもの北畠顕家だった。
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「シン。見ていないで何とか言え」
「小萩さんが正しい」
「役に立たぬ近習だな!」
「寝癖は勤務範囲外だ」
「はい、終わり。これなら親房様の前へ出せる」
「最初から出せた!」
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顕家は胸を張った。
少し離れて見ていたモモが、ぽつりと言う。
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「同じ」
「何が?」
「ヒカルも、顕家も」
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シンは返事をしかけて、やめた。
その時、軍営の入口が騒がしくなった。
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先触れの武者に続き、供回りと荷駄の列が入ってきた。
中央を進む男を見た瞬間、周囲の声が自然と低くなる。
華美ではない。
だが、兵の中にあっても、その男だけは都の空気をまとっていた。
北畠親房。
南朝を支える重臣だった。
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「濡れた兵糧は分けよ。傷者へ回す分と、明日動く兵の分を混ぜるな」
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供の者が走る。
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「矢は隊ごとに不足を見よ。伊勢へ残す傷者は名と属した隊を記せ。置き去りにするのではない。預けるのだ」
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声を荒らげない。
それでも、一言ごとに人が動いた。
兵を率いる顕家とは違う。
人と物を配置し、全体を動かす男だった。
誰もが南朝の重鎮を見ていた。
シンだけは、別のものを見ていた。
――近いうちに、娘を失う父親。
昨日、モモから聞いたばかりだった。
五月二十二日。石津。
そこへ至る道を、この男はまだ知らない。
父親なら。
この人なら、ヒカルを止められるかもしれない。
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「父上。遠路、ご足労をおかけしました」
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顕家が進み出た。
親房の視線が、娘の顔から肩、脇腹、足元へ一度だけ落ちる。
傷を確かめるような目だった。
だが、すぐに重臣の顔へ戻った。
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「顕家。鎌倉、青野原、関の藤川。報せは読んだ。まず義良親王殿下の御様子を」
「御健勝です。ただ、長旅の疲れがございます。今日はお休みいただいております」
「それでよい。兵は」
「戦える者はまだおります。ただし馬と矢が足りません。傷兵も多い。伊賀へ入り、隊を整えながら大和を目指します」
「もう決めたか」
「道と兵と荷を見れば、その程度は」
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顕家は平然と言った。
親房の口元が、ごく僅かに緩む。
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「ならば後ほど聞こう」
「はい」
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顕家が下がろうとした時、親房が呼び止めた。
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「顕家」
「はい」
「肩を庇っているな」
「……この程度、傷のうちには入りません」
「それを決めるのは、そなたではない。次からは自分の傷も報告へ入れよ」
「父上、今は軍議の前です」
「だから申している。総大将の身体も軍のうちだ」
「承知しました」
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言葉だけを聞けば、父親の小言にも聞こえる。
だが声音は崩れず、親房は最後まで「顕家」へ命じていた。
心配しているのに、心配しているとは言わない。
顕家もまた、娘としては答えない。
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親子の再会だった。
なのに話しているのは、親王、兵、馬、道のことばかり。
昨夜のヒカルを知っているシンには、妙に遠く見えた。
親房の目がシンへ移る。
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「そなたが、顕家の側に置かれた者か」
「シンです」
「家は」
「分かりません」
「……文字は書けるか」
「一応」
「一応とは何だ」
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顕家がすぐ割り込む。
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「礼法も書状も心許ない男ですが、目はよい。鎌倉でも青野原でも働きました。大将旗を拾い上げたのもシンです」
「そうか」
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親房はシンを見た。
褒めもしなければ、露骨に疑いもしない。
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「顕家が側へ置くなら理由はあろう。ただし、殿下と軍の近くにいる以上、己一人の軽率では済まぬ。覚えておけ」
「はい」
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思わず背筋が伸びた。
次に親房はモモへ目を向ける。
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「名は」
「モモ」
「それだけか」
「それだけ」
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親房の視線が腰のフツへ落ちた。
しかし何も問わない。
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「顕家。変わった者を側へ置くなとは言わぬ。置いた以上は、そなたが責を持て」
「当然です。二人とも、私が側へ置くと決めましたから」
「私は自分でいる」
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モモが即座に言った。
親房は娘を一度見ただけで、話を終えた。
その横を俵を担いだタダが通る。
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「そなた。今ある兵糧で何日もつ」
「四日くらい。馬の分は別。伊勢で足せれば、もう少し」
「傷者へ残す分は」
「分けた。あっちは触らない」
「よし。続けよ」
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タダは頷き、そのまま歩いていった。
親房は笑わない。
けれど、必要な働きをした者は、身分に関係なく見ている。
シンは少しだけ分かった。
怖い人というより、隙のない人だ。
少なくとも今は。
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軍議では、親房が持参した絵図が広げられた。
伊賀へ入る道。
大和側から届いた敵の動き。
兵糧を得られる場所。
雨で崩れた山道。
顕家は説明を聞きながら、必要なことだけを尋ねた。
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「この道は荷駄が通れるか」
「騎馬は通れます。ただ、谷側が崩れております」
「なら縄を先へ出せ。荷は二つに割る。足利方の物見は」
「大和口に増えております」
「なら、こちらが大和へ急ぐと見ている」
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顕家の指が絵図を滑る。
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「先行を伊賀へ出す。本隊と荷駄の間を空けろ。狭い道へ全軍を詰めれば、一頭倒れただけで軍が止まる。傷兵と歩けぬ馬は伊勢へ残す。草鞋は今日中に全員へ。矢は隊ごとの不足を埋めよ」
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誰かが答えを与えるのを待ってはいない。
見て、聞いて、決める。
親房は何も助けず、娘が絵図の上へ道を作るのを見ていた。
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「異論はない。顕家の案で進めよ」
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その声音は、父親が娘を褒めるものではなかった。
南朝の重臣が、一人の将の策を認める声だった。
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「明朝、出立せよ」
「承知しました」
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顕家も将として頭を下げる。
やはり遠い。
シンには、そう見えた。
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夕刻。
親房は伊勢へ残す傷兵の名を確認していた。
シンは供の者たちの前へ出た。
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「親房卿」
「何だ」
「二人で話したい」
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供の一人が眉をひそめる。
親房はシンをしばらく見た。
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「よい。皆、外せ」
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人が下がった。
最後の一人まで離れたことを確かめ、親房は軍営の外れへ歩く。
冬枯れの木と低い土塀の間。
遠くに荷駄の音はする。
ここには二人しかいなかった。
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「申せ」
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声はさっきまでと同じだった。
南朝の重臣。
北畠家の当主。
シンは、その顔を見上げる。
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「ヒカルを、もう戦わせないでくれ」
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親房の目が僅かに動いた。
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「その名を……あれがお前に教えたのか」
「ああ」
「そうか」
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返事が、初めて遅れた。
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「ならば、あれがお前をどこまで内へ入れたかは分かった」
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親房は一度、周囲を見た。
誰もいないことを改めて確かめる。
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「このままじゃ、ヒカルは死ぬ」
「戦場に立つ者ならば――」
「そういう話じゃない」
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シンは遮った。
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「寝ない。飯も忘れる。兵が減れば、自分が余計に働けばいいと思ってる。誰かが死ねば、自分の判断が悪かったって顔をする。それでも前へ行く」
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親房は黙って聞いている。
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「分かってるなら止めろよ。父親なんだろ」
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長い沈黙の後、親房が息を吐いた。
ほんの僅かに肩が落ちる。
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「そうだ」
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軍を動かしていた声ではなかった。
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「私は、あれの父だ」
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親房は木の向こうを見た。
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「ヒカルの母は、西国の女だった。都の者ではない」
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シンは黙って聞く。
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「あの子を産んだ後、すぐに亡くなった。最後に残したのが、ヒカルという名だった」
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親房は一度、言葉を選ぶように目を伏せた。
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「その後は、妻の行子が育てた。血を分けた母ではないが、あれにとっては母も同じだ」
「それで、男として育てた?」
「あの頃、北畠に男子の後継がいなかった。初めは暫しのつもりだった。男子が生まれるまで。顕家という名を与え、嫡男として置いた」
「弟が生まれても戻さなかった」
「戻せなかった」
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親房はそこで首を振った。
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「いや。戻さなかった。私が」
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初めて、自分を裁くような声だった。
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「幼い頃から、あれはよく見えた。人の顔、空模様、馬の疲れ、道の違い。別々のものを一度に見て、一つの答えにする。宮中へ出せば帝の目に留まり、陸奥へ下せば兵をまとめ、政までこなした」
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親房が苦く笑う。
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「私は、あれの才が欲しかった」
「娘なのに」
「娘だから、止めるべきだった」
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親房の指が袖の中で強く握られる。
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「父なら、娘が優れていることを喜べばよい。だが私は、その才を見た時、先に使い道を考えた。顕家ならば北畠を支えられる。陸奥を治められる。帝を支えられる、と」
「親としてじゃなくて?」
「……その時の私は、先に北畠の当主だった」
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返事は早かった。
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「だが、朝廷が必要とした。帝が必要とした。奥州の兵が必要とした。そして私も、私の志のために必要とした」
「それで、本人も顕家でいたがったからって言い訳した?」
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親房がシンを見る。
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「……その通りだ」
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否定しなかった。
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「本人が望んでいる。ならば父が奪うべきではない。そう言えば、私は決めずに済んだ」
「ずるいな」
「そうだ。父としては、ずるい」
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南朝の重臣なら、こんな顔はしなかっただろう。
帝を支え、国の行く先を語る北畠親房なら、迷いなど見せない。
けれどここにいるのは、娘を顕家にした父親だった。
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「ヒカルって名前を、どうして残したんだ」
「母が残した名だからだ」
「顕家として生かすなら、消した方が都合よかっただろ」
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親房はしばらく答えなかった。
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「あれを顕家にしたのは私だ。だからせめて、私の前でまで顕家だけにしてはならぬと思った」
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声が弱くなる。
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「母の名を残せば、どこかには娘として帰る場所が残る。そう思った」
「帰らせてないじゃん」
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親房は目を閉じた。
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「……そうだな」
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その返事に、シンは何も言えなかった。
父親なら娘を助ける。
そんな簡単な話ではなかった。
親房は自分が何をしてきたのか分かっている。
分かっていて、それでも止められない。
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「一つ、覚えておけ」
「何」
「顕家の才を、神仏から借りたものと思うな」
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シンが顔を上げる。
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「今日の軍議を見ただろう。あれは昔からだ。誰かに答えを与えられているのではない。見たものを繋ぎ、自分で答えを出す」
「ヒカルは、自分を信じてないけど」
「だから困っている」
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親房の口元に、ほんの少しだけ父親らしい苦笑が浮かんだ。
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「あれは己の才だけは、どうしても信じぬ」
「父親が褒めればいいじゃん」
「褒めた」
「足りなかったんじゃない?」
「……そうかもしれぬ」
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シンも僅かに笑った。
すぐに真顔へ戻る。
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「俺は、まだ止めた方がいいと思ってる」
「それでよい」
「親房卿が止めないなら、俺が別の道を探す」
「そうしてくれ」
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シンは眉を寄せる。
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「……いいのか」
「父としては、頼みたい」
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親房の顔から、僅かな弱さが消えた。
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「朝臣としては、今日会ったばかりの、素性も知れぬ男を信用してはおらぬがな」
「どっちなんだよ」
「どちらも私だ」
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親房はそこで姿勢を正した。
落ちていた肩が戻る。
声も戻った。
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「話は終わりだ。明朝、軍は発つ。近習なら遅れるな」
「はい」
「それと、公の場であの名を軽々しく呼ぶな」
「分かってる」
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シンが歩き出す。
振り返った時には、親房はもう供の者を呼び戻していた。
傷兵の名を確かめ、兵糧を問い、何事もなかったように指示を出している。
さっきの父親は、もう見えなかった。
ヒカルと顕家。
父親と公卿。
どちらも嘘ではない。
どちらかだけが本当でもない。
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その夜、親房と顕家は明日の行程を確認した。
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「殿下を奉じ、大和へ入れ」
「はい」
「兵を失うことを恐れて時を失うな。ただし、時を急いで兵を捨てるな」
「心得ております」
「都だけを見るな。伊勢へ残す傷者も、後ろにいる奥州の兵も、すべてそなたの軍だ」
「無論です」
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重臣と将だった。
見事なくらいに。
最後に親房が娘を呼ぶ。
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「顕家」
「はい」
「生きて戻れ」
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ほんの一瞬だけ、顕家の顔から力が抜けた。
それから、いつものように胸を張る。
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「当然です。この北畠顕家が、そう易々と死ぬものですか」
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シンだけが、その言葉を笑えなかった。
父親に止めてもらう道は、消えた。
ならば別の道を探す。
まだ三か月ある。
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翌朝。
伊勢の宿営地は薄い朝靄に包まれていた。
馬の鼻息が白く浮かぶ。
新しい草鞋はまだ藁が硬い。
昨日運び込まれた俵は荷駄へ分けられ、縄で固く締められている。
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「荷縄、よし」
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タダが結び目を引いた。
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「持ち上げるなよ」
「引いただけ」
「それでいい」
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国継が釘を刺す。
少し離れたところでは、小萩が兵へ竹筒を配っている。
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「新しい草鞋だからって、脚まで新しくなったと思うんじゃないよ。痛む前に言いな!」
「はい!」
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昨日まで静かだった軍営が、また軍へ戻っていく。
シンは草鞋の緒を結び直した。
隣にはモモがいる。
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「今日も一緒にいる?」
「いる」
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短い答えだった。
それだけで、シンは笑った。
前方で白馬が動く。
顕家が振り返った。
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「何をしている! 置いていくぞ!」
「待ってるじゃん」
「待っていない! 馬が勝手に止まったのだ!」
「賢い馬」
「主人よりな」
「聞こえているぞ、シン!」
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シンが走る。
モモも、その隣を走った。
白馬は二人が追いつくまで、やはり歩みを速めなかった。
三人が並ぶ。
朝靄の向こうへ、道が続いていた。
今度こそ。
三人で、生きて帰るために。
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(第百三十九話へ)




