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桃園の朝

第百三十七話 桃園の朝


⸻


 ――目が覚める。


⸻


 まだ微睡んだまま、シンは違和感に気づいた。


 両腕が動かない。


 左も、右も。


 身体の両側がやけに温かく、腕には柔らかなものが押し当たっている。少し動こうとするたび、今度は逆腕へ別の柔らかさが触れた。


 まずい。


 左の頬を、長い髪がくすぐった。


 右の首筋にも、別の髪が触れている。


 女性が二人いる。


 しかも、どちらもシンの腕へ抱きついていた。


 左からは、花を思わせる淡い香り。


 右からは、知りすぎた桃の香り。


⸻


(……花と桃)


⸻


 シンは目を閉じたまま、必死に状況を整理した。


 左はヒカル。


 右はモモ。


 中央に、自分。


 そして三人は、同じ寝具の中にいる。


⸻


「……これが桃園の誓いか……!」


「……意味不明」


「起きてたの!?」


⸻


 右から、ごく普通の声が返った。


 モモは無表情のまま、シンの腕を抱えている。離れる気配はない。


⸻


「じゃあ何で黙ってたんだよ!」


「観察」


「何を!?」


⸻


 シンが声を上げた瞬間、左の身体がびくりと動いた。


 ヒカルが薄く目を開ける。


 自分の頬の下にあるシンの肩を見た。


 次に、胸元へ抱え込んでいるシンの腕を見た。


 最後に、反対側から同じ腕を抱くモモを見た。


⸻


「……なぜ、お前が私の寝床にいる!」


「俺が聞きたい!」


⸻


 なぜ、こうなったのか。


⸻


⸻


 話は、前日の朝まで戻る。


 伊勢へ入って数日。


 北畠方の宿営地には、久しぶりに戦のない朝が来ていた。


 甲冑を脱いだ奥州兵が、日向へ大の字になっている。


 包帯姿の男は、片手で草鞋を編み直していた。


 具足の紐を替える者。


 川で馬の脚を洗う者。


 故郷へ出す文を、字の書ける仲間に頼む者。


⸻


「俺は無傷で元気だ、と書いてくれ」


「頭と肩と脚に布を巻いて、どこが無傷だ」


「では、元気だけでよい」


⸻


 書き手が笑い、包帯の男も笑った。帰りを待つ者へ、傷ではなく生きていることを送るらしい。


 傷の深い兵へ飯を運び、そのまま隣で眠ってしまった者。


 青野原では槍を持ち、関の藤川では無傷の敵を前に息を詰めていた男たちが、今日はくだらない話で笑っていた。


 兵ではない。


 ただの男たちに戻っていた。


⸻


「国継も休むんだな」


⸻


 シンが言うと、木へ背を預けていた伊佐国継が片目を開けた。


⸻


「俺を何だと思っている」


「顕家を追いかける生き物」


「……否定しづらいことを言うな」


⸻


 国継はまた目を閉じた。


 その向こうでは、タダが巨大な鍋を洗い、もう夕方の飯を支度している。


 小萩は傷兵の衣を縫い、次にヒカルの衣を確かめ、ほつれを見つけるたび小さく舌打ちした。


 ただ一人を除いて、皆が休んでいた。


⸻


「私は休んでいる!」


⸻


 机へ向かったまま、顕家が言い張った。


 右には父・親房へ送る報告。


 左には吉野への書状。


 その間に諸将への返答、兵糧の算用、失った馬の数、傷兵を預ける先、次の進路を記した紙が積まれている。


⸻


「筆を置け」


「あと一通だ」


⸻


 シンが書状を取り上げると、顕家は別の紙を出した。


 紙をすべて押さえると、机へ文字を書き始めた。


 シンが袖で消す。


⸻


「私の報告を消すな!」


「机ごと吉野まで送る気か!」


⸻


 モモが筆を隠す。


 顕家は文箱から二本目を出した。


 モモがそれも取る。


 顕家は三本目を出した。


⸻


「何本持ってるんだよ!」


「公卿を何だと思っている!」


「公卿関係ない」


⸻


 墨を取り上げると、今度はシンを見た。


⸻


「では、私が言う。お前が書け」


「休む気が一切ない!」


⸻


 シンは戸口へ顔を向けた。


⸻


「国継〜〜!」


「俺を巻き込むな!」


⸻


 外から即答が返り、そのまま足音が遠ざかった。


 最後に小萩が入ってきた。


⸻


「あの馬鹿を休ませなと言っただろ」


「やってるよ!」


「成果がない」


⸻


 モモが冷静に報告する。


⸻


「私は休んでいるぞ!」


「机ごと外へ出しちまいな」


⸻


 顕家が書状へ覆いかぶさった。


⸻


「これは軍務だ! 奪うな!」


⸻


 花将軍強制休暇作戦は、机を守ろうとする総大将を、シンとモモが左右から引き剝がすところまで発展した。


 結局、顕家は外へ連れ出された。


⸻


「これは休暇ではない。巡察だ」


「散歩だろ」


「散歩」


「巡察だ!」


⸻


 三人で宿営地を歩く。


 兵から声を掛けられるたび、顕家は傷を見て、飯を食ったかと聞き、直した具足を確かめた。


⸻


「シン。お前は私の近習なのだから、こちらを歩け」


⸻


 顕家が自分の右を指した。


 シンが移ろうとすると、反対側からモモが袖を摘んだ。


⸻


「なぜお前までついてくる!」


「シンと来たから」


「今は私の近習だ!」


「私の方が先」


「俺を所有物みたいに扱うな」


「扱ってない」


「扱っておらぬ!」


⸻


 二人の声だけが綺麗に重なった。


⸻


「じゃあ袖を離せよ」


⸻


 二人とも離さなかった。


 そのまま歩いていると、小萩が正面から現れた。


 顕家の手首を掴む。


⸻


「傷を見せな。着替えもするよ。髪も酷い」


「私は今、巡察を……」


「いいから来な」


⸻


 有無を言わせず連れていく。


 シンとモモだけが、軍営の端へ取り残された。


⸻


⸻


 近くを流れる細い川のそばへ座った。


 浅い水が、石の間を流れている。


⸻


「……昨日の声」


⸻


 シンが聞いた。


⸻


「やっぱり、今までより強かった?」


「うん」


⸻


 モモは膝へフツを置いた。


⸻


「これまでの時代でも、神や神託は名を変えた」


「信仰。恐れ。正しさ。そういうものに重なって、人の判断へ入ってきたように見える」


「何で、この時代なんだろうな」


「分からない」


「神様を信じてないから、今までは声が弱かったとか?」


「逆」


「逆?」


⸻


「みんな信じてる。でも、同じ答えを信じてない」


⸻


 朝廷は二つに割れている。


 公家も、武士も、寺社も、それぞれ別の正しさへついている。


 敵も味方も同じ神仏へ勝利を祈ることがあり、神と仏さえ、きれいには分かれていない。


⸻


「一つの声で、大勢を同じ方向へ動かしにくいのかも」


「じゃあ、ヒカルは?」


「自分で答えを出す。そこへ、神託が同じ答えを返す」


⸻


 利根川でも、青野原でも、顕家が自分で出した答えへ、同じ言葉が重なるように来た。


⸻


「ヒカルが考えたのに、ヒカルは神様が教えてくれたと思ってるってことか」


「たぶん」


「じゃあ、昨日は?」


⸻


 関の藤川。


 西も選べる状態で、南を強く押した声。


 モモは川面を見た。


⸻


「私たちが動いたから、条件が少し変わった。だから声も強くなった……可能性はある」


「断定は?」


「できない」


「……俺たちって、結局、何しに来てるんだろうな」


「分からない」


「それもか」


「シンも分からない?」


「何も覚えてないからな。死ぬと戻る。たまに次の時代へ飛ぶ。行った先にはお前がいる。それだけ」


「でも、歴史の大きなところは変わってないんだろ」


⸻


 アテルイも。


 義経も。


 奥州藤原氏も。


 救いたかったものは、最後には大きな流れへ呑まれた。


⸻


「大筋は、史実に近い」


「じゃあ、俺たちがいた意味ってあるのかな」


⸻


 モモはすぐには答えなかった。


 水へ手を伸ばし、流れかけた細い枝を指で止める。


⸻


「シンが助けた人はいる」


「うん」


「生きた兵。別の場所へ行った人。残った言葉。覚えている人」


⸻


 枝を離す。


 少し向きの変わった枝が、石を避けて流れていった。


⸻


「バタフライエフェクトという概念がある」


「バタフライエフェクト?」


「蝶の羽ばたきが、遠くで嵐になる」


「今回は、旗」


⸻


 青野原で落ちた大将旗。


 あの時、シンとモモとタダがいなければ、本陣は崩れていたかもしれない。


⸻


「小さい差が、初めて大きな分かれ目まで育った?」


「かも」


⸻


 だから、声も強くなったのかもしれない。


 何が戻そうとしているのかまでは、二人とも分からなかった。


 モモは流れる枝を見送り、静かに言った。


⸻


「もう一つ。話してなかった」


「何を?」


⸻


「北畠顕家は、死ぬ」


⸻


 川の音だけが残った。


⸻


「……いつ」


「延元三年、五月二十二日。和泉国、石津の戦い」


「……あと三か月くらいしか無いじゃないか」


「だいたい」


「何で、今まで言わなかった」


「言えば、シンは変えようとするから」


「今、言ったじゃん」


「もう変わり始めてるから」


⸻


 シンは、ヒカルが連れていかれた方を見た。


 朝から一人だけ休まず、筆を取り上げれば別の筆を出し、散歩を巡察と言い張った女。


 三か月後には、いない。


 そんな形でこの時代が終わることを、急に受け入れられるはずがなかった。


 これまでも助けようとし、誰かを失い、自分も死んだ。気づけば次の時代に一人で立っていた。


 だが、今は違う。


 モモがいる。


 ヒカルがいる。


 三人で、くだらないことで言い合っている。


⸻


「今度こそ、ヒカルを死なせない」


⸻


 口にすると、願いが形になった。


⸻


「石津へ行かせない。行っても死なせない。今度こそ、この旅を誰かの死で終わらせたくない」


⸻


 モモがシンを見る。


⸻


「この時代なら、お前もいる」


「うん」


「だから、今回は最後まで一緒にいよう。三人で生きよう」


⸻


 モモは黙った。


 表情はほとんど変わらない。


 それでも、シンの袖を摘む指が少しだけ深くなった。


⸻


「……うん」


「それ、嬉しい?」


「たぶん」


「たぶんかよ」


「悪くない」


⸻


 シンには、少しだけ嬉しそうに見えた。


 モモも、ほんの少し目を細めた。


 ただ、もう片方の手はフツの鞘へ置かれていた。


 関の藤川で、重なるように響いた声。


 シンには、鞘を押さえる指がなぜ固くなったのか分からなかった。


⸻


「何を二人でこそこそ話していた!」


⸻


 重くなりかけた空気を、戻ってきたヒカルが一声で壊した。


 髪は整えられ、衣も替わっている。小さな切り傷には、新しい白布が巻かれていた。


⸻


「秘密」


「私の近習と、私の陣中で秘密の話をするな!」


「どんな権利だよ」


「大将の権利だ!」


「そんなのない」


「ある!」


⸻


 モモは立ち上がり、またシンの袖を持った。


 ヒカルも反対側を取る。


 そのまま厩へ行くと、青野原を駆けた白馬が、顕家の肩へ鼻先を押しつけた。


⸻


「見ろ。私が休めば、この馬が寂しがる」


「休んでほっとしてるんじゃないか?」


「馬に聞く」


⸻


 モモが白馬の目を覗き込む。


⸻


「どっちだ?」


「草が欲しい。と」


「適当な事をいうな!」


⸻


 シンが笑いながら手を伸ばすと、白馬はその袖だけを噛んだ。


⸻


「何で俺だけ!」


⸻


 ヒカルが吹き出し、モモも口元を緩めた。


 馬が水を跳ね、兵の下手な歌が聞こえる中で、何も起こらない午後が過ぎていった。


⸻


⸻


 夕刻。


 タダの大鍋から、白い湯気が立った。


 米へ雑穀を混ぜ、菜と砕いた干魚を煮た、温かく腹へ溜まる飯だった。


⸻


「食えば治る」


⸻


 タダはそう言って、傷兵の椀へ山ほど盛った。


⸻


「何が治るんだ?」


「だいたい」


⸻


 国継も今度こそ仕事を置き、火のそばで椀を抱えた。


 小萩が酒を出す。


⸻


「私は書状が残っている」


⸻


 顕家だけが立とうとした。


 小萩が肩を押さえる。


⸻


「座りな」


「しかし」


「休め」


「休むべき」


「今日は休め、殿」


「酒」


⸻


 シン、モモ、国継、タダまで加わった。


⸻


「お前たち、誰の家臣だ!」


「殿を休ませたい殿の家臣です」


⸻


 国継が杯を渡した。


 一杯目は、まだいつもの顕家だった。


⸻


「この程度、水と変わらぬ!」


⸻


 二杯目で、声が少し大きくなった。


⸻


「青野原の土岐はな! 私があと一間ずれていれば、さらに美しく崩せたのだ!」


⸻


 三杯目で、顕家として張っていた糸が緩んだ。


⸻


「……シン」


⸻


 袖を掴まれた。


⸻


「何だよ」


「そこにいろ」


「いるだろ」


「勝手にどこかへ行くな」


⸻


 肩へ頭が寄ってきた。


 花の香りと酒の匂いが近い。


 シンの胸が速く鳴った。


 モモがそれを見ている。


⸻


「ヒカル」


⸻


 周囲へ届かない声で、モモが呼んだ。


⸻


「なんだ」


「シン、好き?」


⸻


 ヒカルが盛大にむせた。


⸻


「な、な、何を言っている!」


「好き?」


「二度聞くな!」


⸻


 顔が酒とは別の赤に染まる。


⸻


「なら、お前はどうなのだ!」


「好き」


⸻


 今度は、シンが固まった。


 ヒカルも固まった。


⸻


「シンが好き」


「お、お前、そういうのはもう少し……!」


「何?」


「何でもない!」


⸻


 ヒカルは杯を一息に空けた。


 モモはその顔を見て、付け足す。


⸻


「ヒカルも好き」


「私も!?」


「うん」


⸻


 ヒカルは口を開け、閉じた。


⸻


「……同じ意味か?」


⸻


 モモは少し考えた。


⸻


「少し違う」


⸻


 ヒカルはさらに赤くなった。


⸻


「モモは、いつもシンへくっついてずるい」


「じゃあ、ヒカルもくっつけばいい」


「…………そうか」


「納得するな!」


⸻


 ヒカルは本当にシンの左へくっついた。


 モモも当然のように右へ寄った。


 逃げ場が消えた。


 国継は遠くへ移り、こちらを見ないまま酒を飲んでいる。


 小萩は口元を隠しもしない。


⸻


「若いねえ」


「見てないで助けてくれ!」


「何をだい?」


⸻


 タダが大鍋を持ってきた。


⸻


「まだある」


「飯で解決する状況じゃない!」


⸻


⸻


 夜。


 完全に寝落ちしたヒカルを、シンとモモで寝所へ運んだ。


 横たえても、ヒカルはシンの袖を離さない。


⸻


「おい。着いたぞ」


「……行くな」


⸻


 寝言だった。


 指だけが、さらに強く布を掴む。


⸻


「どうすんだよ、これ」


「寝れば?」


「どこで?」


「ここ」


「駄目だろ!」


⸻


 シンは袖を抜こうとした。


 ヒカルが腕ごと抱え込む。


 動けない。


⸻


「ほら」


「何が、ほら、だ!」


⸻


 モモは反対側へ回り、当然のように寝具へ入った。


⸻


「お前まで入るな!」


「いつも近くで寝てる」


「今日は条件が違う!」


「何が?」


⸻


 説明できなかった。


 青野原から続いた疲れは、酒を飲んでいないシンの身体にも残っている。


 抗議する声が次第に小さくなった。


 花と桃の香りの間で、シンはいつの間にか眠っていた。


⸻


⸻


 そして、朝。


 左には眠ったヒカル。右には、最初から起きているモモ。両腕は動かない。


⸻


(……花と桃)


⸻


「なぜお前が私の寝床にいる!」


「俺が聞きたい!」


「私が許すはずがなかろう!」


「ヒカルが『行くな』って言った」


⸻


 モモが暴露した。


⸻


「言っておらぬ!」


「俺も聞いた」


「お前は黙れ!」


「シン、好きって聞いた」


「言うなあああ!」


「ヒカルは答えなかった」


「ならよいだろう!」


「否定もしてない」


「モモ!」


⸻


 ヒカルは寝具から逃げようとし、そこで自分がまだシンの腕を抱えていることへ気づいた。


 勢いよく離す。


 起き上がりざまに裾を踏み、危うく転びかけた。


 モモは離れない。


⸻


「お前も離れろ!」


「嫌」


「なぜだ!」


「対抗」


「まだ続いているのか!」


⸻


 戸が開いた。


 小萩が三人を見た。


⸻


「朝から仲良しだねえ」


「違う!」


⸻


 外から国継の声がした。


⸻


「何事です」


「入らない方がいいよ」


「では失礼します」


⸻


 足音が即座に遠ざかる。


⸻


「国継! 戻れ! 誤解を解け!」


⸻


 代わりにタダが朝飯の盆を持って入ってきた。


⸻


「飯」


「お前は少しくらい疑問を持て!」


⸻


 タダは考え、椀をもう一つ置いた。


⸻


「まだある」


「そうじゃない!」


⸻


 騒ぎがようやく収まりかけた時、戸口へ使者が現れた。


 さすがに中へは入らず、外から声を掛ける。


⸻


「顕家卿。申し上げます」


⸻


 ヒカルは乱れた髪を押さえ、咳払いした。


⸻


「申せ」


「親房卿の一行が、こちらへ向かわれております。本日中にも合流されるとのこと」


⸻


「……父上が?」


⸻


 さっきまで酒の残る赤い顔で騒いでいたヒカルの背が伸びた。


 衣の襟を直す。


 声が整う。


 それだけで、いつもの北畠顕家になった。


 シンは、昨日モモから聞いた日を思い出した。


 五月二十二日。


 父である親房なら、ヒカルがここまで走ってきた理由を知っているかもしれない。


 顕家は立ち上がった。


 今度は、裾を踏まなかった。


⸻


(第百三十八話へ)


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