青野原の死闘
第百三十六話 青野原の死闘
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青野原の向こうで、陣太鼓が鳴った。
一つ。
二つ。
三つ目が鳴る前に、東から馬が駆けてきた。
肩を血で濡らした武者が、泡を吹く馬を奥州の陣へ飛び込ませる。
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「志貴の渡し――伊達・信夫勢の勝ち!」
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鬨の声が上がった。
まだ目の前の敵とは、一矢も交えていない。
それでも勝報は、凍った野を火のように走った。
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「一つ」
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モモが言った。
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「追ってきた敵が、五つに分かれた」
「じゃあ、あと四つ」
「うん」
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シンは西を見た。
正面に残った軍勢は小さい。
さっき国継に教えられた二つの旗が、広い青野原に細い針のように立っている。
土岐。
桃井。
対するこちらは、見渡す限りの旗だった。
その中央で、白馬の顕家が軍扇を開く。
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「一つ目だ!」
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いつもの笑みが戻る。
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「残る四つも、今日のうちに片づけるぞ!」
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奥州兵が槍や長刀の石突で地を打った。
声が野を揺らす。
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次の知らせは洲俣から来た。
「北条勢、高勢を破りました!」
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「二つ!」
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北条時行の名が上がる。
続いて阿字賀から、南部・下山・結城勢が今川・三浦勢を退けたとの報。
さらに新田徳寿丸・宇都宮勢から、上杉勢退却の知らせが届いた。
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「四つ!」
「四つだ!」
「京まで敵は残らぬぞ!」
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声が膨らんだ。
京の酒。
京の女。
京の白い米。
まだ見ぬ都を取り合う声に、シンも笑いかけた。
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「まだ」
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モモの声で、口が止まった。
四つの敵が退いたのに、国継に名を教えられた二つの旗――土岐と桃井だけは、まだ傾いていない。
騎馬が静かに寄る。
槍。
太刀。
長刀。
持っている物は違う。
なのに、馬首だけが同じ方角へ揃っていく。
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「減った?」
「固まった」
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モモがフツへ触れた。
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「あれは、退く形ではない」
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顕家も軍扇を下ろした。
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「気を抜くな!」
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鋭い声が陣を断ち切る。
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「四つ退けた。だが、あれだけは動かなかった! 数で侮れば、こちらの首を持っていかれるぞ!」
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伊佐国継が前を走る。
結城宗広は義良親王の輿を下げ、両親王の周囲へ兵を集めた。
阿字賀を終えた南部勢の一部も、遅れて本陣へ寄ってきた。
顕家は凍った土、泥、風、敵と味方の位置を一息で見渡した。
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「国継。前を厚くしすぎるな。受ければ割られる」
「では?」
「通す」
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国継が顕家を見た。
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「……殿」
「全部ではない。狭く通せ」
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軍扇が中央より少し右を指す。
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「土岐は真っ直ぐ来る。桃井がその脇を埋める。ならば入れろ。入れた後で横腹を噛む」
「危険です」
「知っている!」
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顕家が笑った。
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「だから私がここにいる!」
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土岐と桃井の陣で、槍が伏せられた。
一騎が出る。
全騎が続く。
太鼓も鬨もない。
金具と蹄だけが近づいてくる。
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(来る)
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「射よ!」
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矢が上がった。
一本。
十本。
その後ろから、さらに何十本。
冬空が黒くなる。
一人の武者の喉へ矢が刺さった。
抜こうとして馬から落ち、後続の蹄に踏まれる。
別の矢は馬の眼へ入り、横倒しになった馬が騎手の脚を潰した。
男の叫びを、次の騎馬が踏み越えた。
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「……え」
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シンの喉が鳴った。
また、人が死んだ。
何度見ても、あっけなかった。
名も年も知らない男が、矢一本で泥の中に動かなくなった。
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「シン」
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モモが呼ぶ。
返事ができなかった。
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「まだ来る」
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その通りだった。
土岐勢は止まらない。
空いた場所を後ろが埋める。
細い針だった軍勢が、一つの黒い槍になった。
そして初めて、腹の底から鬨を上げた。
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「来るぞ!」
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槍と長刀が前へ出る。
次の瞬間、土岐勢がぶつかった。
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槍が折れた。
馬の胸が裂けた。
人が飛んだ。
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一人の奥州兵が腹を槍で貫かれた。
槍先が背中から出る。
それでも柄を掴んだが、抜かれた瞬間に座り込み、指の間から中身がこぼれた。
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「……っ」
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シンの膝が震えた。
横では土岐の騎馬が首を斬られ、血を浴びた奥州兵が一瞬目を閉じる。
その一瞬で馬に胸を蹴られ、起きなくなった。
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敵も味方も、強さを見せる前に死ぬ者がいる。
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「入った!」
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誰かが叫んだ。
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「予定通り」
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モモが言う。
顕家の軍扇が下がる。
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「閉じるな! まだだ!」
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普通なら塞ぐ穴を、奥州兵が半歩開ける。
土岐勢が殺到した。
誘ったのだ。
だが――。
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「……速すぎる」
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モモの声が低くなる。
土岐勢は想定より深かった。
槍を受けても止まらず、馬を斬られれば落ちながら敵へ組みつく。
一騎が奥州兵の槍を喉へ受け、馬から落ちた。
その真後ろの騎馬は、手綱を引かなかった。
倒れた仲間ごと踏み越えて、同じ穴へ飛び込んでくる。
そいつも長刀を胸へ受けて落ちた。
また次が来た。
三騎目。
四騎目。
倒すたびに数は減っているはずなのに、土岐の旗だけは近づいてくる。
前の仲間が死んでも。
その馬が倒れても。
一度も振り返らない。
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「なんだよ、あいつら……!」
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怪物だった。
死ぬことを知らないのではない。
死ぬ場所を、自分で決めている。
顕家本陣まで届くためなら、それ以外を捨てている。
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「土岐頼遠」
「知ってる?」
「記録に残る。少勢でも何度も突っ込む。モンスター」
「最後だけ急に雑だな」
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「殿! 想定より早い!」
「見れば分かる!」
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顕家は白馬を二歩下げた。
逃げたのではない。
土岐に追わせる距離を二歩伸ばした。
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「右、三十騎だけ残せ! 残りは引け! 南部の一隊はまだ動かすな!」
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命令が即座に変わる。
策を破られた瞬間、その破られ方を次の策へ使う。
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「国継! 今は土岐だけ見ろ! 桃井は後だ!」
「後でいいのですか!」
「今は土岐を止めろ!」
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その言葉を証明するように、桃井勢が来た。
土岐ほど速くない。
派手でもない。
だが、止まらない。
馬が倒れれば降りる。
槍が折れれば太刀を抜く。
太刀を失えば落ちた長刀を拾う。
一度崩れても、数十歩のうちにまた集まる。
肩の矢を折って走る。
頬の血を袖で拭う。
馬を失えば、主を失った馬を捕まえて乗る。
また来る。
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「……あっちは何なんだよ」
「桃井直常」
「そっちも知ってる?」
「何度散らしても戻る。ゾンビ」
「例えが酷すぎる……」
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桃井勢が奥州兵へ噛みつく。
押す。
押し返される。
崩れる。
また戻る。
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「……なるほど」
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顕家が笑った。
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「あれは戻る。国継、桃井を追いすぎるな!」
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死んだ者が起き上がるわけではない。
なのに、さっき散らしたはずの場所から、また同じ旗が来る。
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「……確かにゾンビだな」
「うん」
「納得したくなかった」
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そして、奥州も弱くなかった。
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「奥州を舐めるなあッ!」
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伊達兵が馬上の土岐武者へ飛びつき、二人で泥へ落ちる。
脇を斬られても離さない。
仲間の槍が土岐武者を止めた時、伊達兵も動かなくなっていた。
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結城の兵が長刀で馬首を逸らす。
空いた場所へ国継の騎馬が入る。
一人倒れれば、隣が半歩寄る。
馬が落ちれば、人が穴を埋める。
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怖くないはずがない。
槍を構える手が震えている。
唇を噛み切った若者もいる。
皆、怖い。
怖いまま、逃げない。
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霊山から、白河から、利根川から、鎌倉から。
走りながら覚えてきた。
旗を見失うな。
崩れたら隣へ寄れ。
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顕家が天才なら。
その無茶へここまでついてきた奥州兵も、普通ではなかった。
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「右、戻せ! 今度こそ閉じろ!」
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奥州勢が動く。
伊達が土岐の後ろへ。
国継が桃井の横へ。
待たされていた南部の一隊も、そこで初めて前へ出る。
だが土岐勢はさらに速度を上げた。
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「顕家!」
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白馬が黒い騎馬へ呑まれた。
顕家本陣の大将旗が大きく揺れる。
旗持ちの胸へ槍が入った。
男が仰向けに倒れ、大将旗が泥へ落ちた。
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「将軍の旗が落ちた!」
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前より先に後ろが乱れる。
荷駄馬が嘶く。
義良親王の輿を守る兵まで、一歩下がった。
まだ誰も逃げていない。
だが、一人走れば全部が動く。
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(違う)
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旗が落ちた。
顕家が落ちたのではない。
そう言い切る根拠はない。
白馬も見えない。
声も聞こえない。
それでも、ここで見失えば終わる。
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「タダ!」
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シンは走った。
足元で柔らかいものを踏んだ。
泥から出た人の手だった。
吐き気が上がる。
倒れた馬の下では、潰された男がまだ呻いていた。
助けられない。
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(ごめん)
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シンは旗へ走った。
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泥の中に大将旗があった。
旗持ちはまだ生きている。
折れた竿を両腕で抱いていた。
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「殿を……」
「生きてるのか?」
「旗を……落とすな……」
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タダが兵を抱き上げ、折れた竿を取る。
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「高いところ!」
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タダがしゃがんだ。
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「乗れ」
「え?」
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次の瞬間、シンは肩の上にいた。
顕家の大将旗が、もう一度戦場へ出る。
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「ひいぃ、高すぎる!」
「高い方がいい」
「限度がある!」
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逃げかけた兵が足を止めた。
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「旗はある!」
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シンは叫ぶ。
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「顕家は生きてる! 勝手に逃げるな!」
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声が震えた。
格好なんてつかなかった。
怖かった。
手も脚も震えていた。
それでも旗だけは下げなかった。
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代わりに、土岐の騎馬がこちらを向いた。
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「……まずくない?」
「そうだな」
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騎馬が来る。
下ろせば味方が崩れ、上げれば敵が来る。
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(逃げたい)
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何度死んでも、慣れはしない。
死ぬ瞬間は、いつも怖かった。
知っているからこそ、怖い。
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「シン」
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モモがタダの背を使って上がり、旗竿へ手を添えた。
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「一緒に持つ」
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二人で大将旗を立てる。
その下へ結城兵が集まった。
タダは二人を下ろし、槍を拾って前へ出た。
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「ここは通さん」
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一騎目の馬首を槍の柄で逸らす。
二騎目。
モモがフツを抜く。
白雷は出ない。
一閃。
斬ったのは人ではなく手綱だった。
馬が旗の脇を駆け抜ける。
騎手の槍がシンの袖を裂いた。
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「まだ来るのかよ!」
「土岐」
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モモが言った。
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「まだ折れてない」
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土岐の旗が近い。
先頭の武者は吹返しを失い、頬から口元まで血に濡れている。
それでも目だけが大将旗を見ていた。
傷を負った獣のようだった。
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その時だった。
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「ふはははははっ!」
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聞き慣れた高笑いが戦場を貫いた。
シンは反射で振り向いた。
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「はーっはっはっは! 誰が死んだと言った!」
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泥まみれの白馬が、黒い騎馬の横から飛び出す。
烏帽子はない。
金の紐が切れ、結った髪が半ばほどけている。
頬に血。
肩の具足も傷だらけだ。
それでも顕家は、今から戦が始まるみたいに笑っていた。
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「私がいるぞ! ならばまだ勝てる!」
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太刀を掲げる。
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「国継、右を締めろ! 南部の一隊は前へ! 行朝は左から押せ!」
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奥州勢が敵の側面へ寄る。
だが閉じ切らない。
東へ細い道だけを残した。
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「逃がすのですか!」
「いったん抜かせるのだ!」
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敵が自分で東を選ぶよう、他を消す。
伊達勢が咆え、国継が噛みつく。
土岐勢は一度、奥州軍を抜けた。
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「抜けた!」
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東へ抜けた土岐勢は、逃げなかった。
百歩ほど先で馬首を返した。
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「……嘘だろ」
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また来る。
数は減っている。
血だらけだ。
馬も脚を引きずっている。
それでもまた顕家本陣へ向いた。
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「美濃侍どもめ、なかなか骨があるではないか!」
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顕家が笑う。
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「よい! もう一度来い!」
「煽るなよ!」
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二度目の土岐勢が来る。
奥州兵も待っていた。
左右へ開く。
射る。
寄る。
また開く。
顕家の軍扇が動くたび、兵が半歩ずつ位置を変える。
土岐は力で道をこじ開け、顕家はその向きを変える。
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怪物と天才の喧嘩だった。
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その喧嘩を現実にしているのは奥州兵だった。
怖くても穴を埋め、馬を失えば槍を拾う。
顕家の頭の中の戦場を、兵が現実にしていく。
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「右、二十歩!」
「御意!」
「遅い! 十五でよい!」
「どちらです!」
「今は十五だ!」
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国継が怒鳴る。
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「殿の頭は追いつけても口が追いついておりません!」
「お前が追いつけ!」
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兵が笑った。
笑いながら動いた。
笑っていた兵の一人が、次の瞬間に矢を顔へ受けて倒れた。
シンは笑えなくなった。
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土岐の二度目の突入が止まる。
先頭の武者が顔面を押さえた。
指の間から血が流れている。
それでも太刀を下ろさない。
だが横から、桃井勢がまた来た。
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「まだこっちもいる!」
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土岐ほど鋭くない。
なのに減って見えない。
馬を失った者は徒歩で戻り、槍を折った男は太刀を持つ。
片目を血で閉じた武者が、別の馬へ乗ってまた来る。
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「何回目?」
「分からない」
「……まだいるのか」
「ずっといる」
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桃井勢が南部の一隊へ食い込む。
南部兵の腕が斬り落とされ、泥へ落ちた。
本人が絶叫し、仲間が後ろへ引く。
空いた場所へ、すぐ別の兵が入った。
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「南部! 二段目を前へ!」
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一歩。
二歩。
三歩。
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「止まれ!」
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四歩目を踏まなかった。
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「前へ!」
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押し返す。
桃井勢が割れる。
だが、すぐまた集まった。
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「しぶとすぎる……」
「うん」
「もう嫌だ、あいつら」
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日が傾いた。
土岐も桃井も半分以下。
奥州側も馬と矢を失っている。
死体が重なり、足元の泥まで赤黒くなっていた。
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(これが、勝つってことなのか)
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それでも顕家は白馬を前へ出した。
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「奥州! まだ立てるか!」
「応ッ!」
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地面が揺れた。
生き残っている者の声だった。
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「ならば、終わらせる!」
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顕家は泥と騎馬跡を見る。
何度も馬が走り、乾いた地面と深い泥の境目ができていた。
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「桃井を西へ寄せろ! 土岐と離せ!」
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桃井は何度でも戻る。
だからこそ土岐と離す。
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「土岐は私が引く!」
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白馬が駆ける。
傷ついた土岐勢がまだ追う。
顕家は泥の縁を細く回った。
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「そこだ!」
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白馬だけが乾いた側へ切れる。
土岐の先頭が泥へ入り、一頭が滑った。
後続が乗り上げる。
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「今だ!」
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伊達。
国継。
南部。
左右から奥州勢が入った。
土岐の旗が大きく傾く。
先頭の武者が、とうとう馬首を東へ向けた。
敗走ではない。
残った者を生かすための向きだった。
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「土岐が退く!」
「追うな! 桃井がいる!」
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桃井勢は、まだいた。
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「……まだいるのかよ」
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土岐が退いても、またまとまる。
また来る。
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「見あげた性根だ……!」
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国継がつぶやく。
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「褒めておる場合か!」
「殿も褒めていたでしょう!」
「今はもうしつこいから嫌だ!」
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桃井が来る。
奥州が迎える。
もう策だけではない。
意地と意地だった。
抜けても戻る。
押し返されても、また来る。
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「何回目?」
「まだ数える?」
「やめとく」
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やがて、桃井の旗が東を向いた。
すぐには走らない。
落馬した者を拾い、傷ついた者を中央へ入れる。
最後まで隊列を作って、ゆっくり離れていった。
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「追えます!」
「追うな!」
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顕家が即座に止める。
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「こちらの馬も、もう走れぬ!」
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白馬の胸が激しく上下し、口元に泡がついている。
顕家はその首を撫で、東へ退く桃井を見送った。
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「土岐も桃井も、生きて逃したか」
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国継が悔しそうに言う。
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「違う」
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顕家は息を切らしながら笑った。
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「あれは、自分で帰ったのだ。見事ではないか」
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敵を褒める声に恐れはなかった。
本気で、あの死にもの狂いを美しいと思っていた。
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志貴。
洲俣。
阿字賀。
上杉。
そして、最後の土岐と桃井。
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「五つ」
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モモが言う。
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「全部?」
「うん」
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顕家を見る。
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「勝ち」
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青野原の陣太鼓が鳴る。
一度。
二度。
三度。
今度は途切れなかった。
顕家が太刀を天へ突き上げる。
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「敵五陣、すべて退いた!」
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息を吸う。
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「青野原は、我らの勝ちだ!」
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声が爆発した。
槍が上がる。
弓が上がる。
空の手まで上がる。
シンも叫んだ。
喉が裂けるほど叫んだ。
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「勝った!」
「うん」
「勝ったぞ、モモ!」
「聞こえてる」
「もっと喜べよ!」
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モモが軽く手をあげた。
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「えいえいおー」
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シンは目を見開き、それから笑った。
モモも笑う。
タダの笑い声が二人を呑み込んだ。
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足元では、敵も味方も同じ泥に顔をつけていた。
シンは一瞬だけ声を止める。
それでも勝鬨は止まらない。
生き残った者が、生き残ったことを叫んでいた。
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誰かが叫ぶ。
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「京へ!」
「京へ!」
「京へ!」
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勝鬨が、次の願いへ変わった。
その時は誰も疑わなかった。
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顕家が白馬で近づく。
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「シン。いつまで私の旗を持っている」
「落ちてたから拾ったんだよ!」
「私は落ちておらぬぞ!」
「見えなかったんだよ!」
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周りの兵が笑った。
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「……ならば、もっと高く上げろ!」
「まだ上げるのかよ!」
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タダが無言でしゃがむ。
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「やめろ」
「高い方がいい」
「今度は自分で上げる!」
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顕家まで腹を抱えて笑った。
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その夜、米が炊かれ、酒も出た。
傷を縛った兵が、同じ武勇を何度も語った。
話すたび、土岐と桃井の騎馬は増えた。
話すたび、顕家の白馬は高く跳んだ。
話すたび、シンの掲げた大将旗も大きくなった。
最後には、タダがシンごと旗を天まで持ち上げたことになった。
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「そこは、だいたい合ってる」
「合ってない!」
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笑い声は夜更けまで続いた。
少し離れた場所では、死んだ者の名が数えられていた。
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西の星の下に、京がある。
あと一つ山を越えれば、もう誰にも止められない。
兵たちは、そう信じて眠った。
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二月六日。
関の藤川。
青野原の勝利を背負い、軍は西へ動いた。
先頭では、あの日の歌が続いていた。
五陣を破り、土岐も桃井も退けた。
北畠顕家が、京への道を開いた。
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たった数日前のことなのに、シンの記憶より歌の中の青野原はもう派手になっていた。
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シンも何度か一緒に歌った。
長い坂を上り切るまでは。
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先頭が止まった。
その後ろが止まる。
歌だけが少し遅れて進み、やがて消えた。
シンは荷駄の列を抜け、坂の上へ走った。
モモとタダも続く。
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「何があった?」
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答える必要はなかった。
坂の向こうに、火があった。
一列。
二列。
その後ろにも続いている。
昼なのに炊煙が平野を灰色に塞ぐ。
煙の下には、泥のついていない旗と槍。
馬も列を乱していない。
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青野原を戦っていない軍だった。
シンには、どれが誰の旗なのかまでは分からない。
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「京からの新手です」
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物見の武者の声が乾いていた。
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「高師泰、高師冬らの軍。関の藤川を前に、黒地川を背にして陣を置いております」
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無傷の敵軍だった。
シンの目には、道そのものを塞ぐ壁に見えた。
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顕家は白馬の上で黙って見ていた。
白馬が一歩動く。
前脚が小さく震えた。
顕家はすぐ止める。
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「何人いる」
「青野原で最後まで残った勢とは、比べものになりませぬ」
「馬はどうか」
「疲れが見えませぬ」
「矢は」
「不足している様子はありませぬ」
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顕家は振り返った。
泥で固まった馬脚。
包帯。
荷駄の負傷者。
二人の親王。
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勝った軍だった。
だが、もう一度戦えばまた人が死ぬ。
シンの頭に、泥から出ていた指が浮かんだ。
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「破れるか?」
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シンが聞いた。
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「破れる」
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顕家は即答した。
敵陣の端から端までを見る。
水の浅い場所。
煙の薄い場所。
馬が走れそうな乾いた地面。
シンには何が見えているのか分からない。
ただ、顕家がもう崩し方を探しているのは分かった。
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「ここを破って、そのまま西へ走る手はある」
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軍扇が京の方角へ向く。
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「乾坤一擲だ。行くなら、ここで止まっている暇はない」
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国継が低く聞いた。
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「もう一つは」
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軍扇が南へ動いた。
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「伊勢へ外す。兵を休ませ、馬と米を得る。伊賀から大和へ出て、もう一度京を狙う」
「堅い策です」
「遅い策でもある」
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顕家は西を見る。
南を見る。
また西を見る。
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迷っている。
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いつもなら、地形を見ているうちに答えが出る。
今回は違った。
西へ押すか。
南へ外すか。
まだ、どちらも捨てていない。
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「……殿?」
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「待て」
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顕家は軍扇を西へ戻した。
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「……ここまで来た」
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青野原で流れた血を思い出しているのか。
シンには分からない。
ただ、顕家の目はまだ西を離れていなかった。
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その時。
モモがフツへ触れた。
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「来た」
「神託?」
「うん」
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モモの顔が固くなる。
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「強い」
「何が?」
「声」
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顕家の肩が、ごく僅かに揺れた。
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「伊勢へ。退け。兵を残せ。生きて、京へ」
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一度ではなかった。
同じ意味の言葉が、重なるように来ているらしい。
顕家の軍扇が止まった。
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「……モモ?」
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モモは顕家ではなく、奥州軍の後ろを見た。
荷駄。
負傷者。
青野原を生き残った兵。
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「鎌倉から、少しずれてる」
「何が?」
「流れ」
「流れ?」
「うん。私たちが触った分」
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モモは奥州軍の後ろを見る。
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「今日も。旗が落ちたあと、本陣が崩れなかった」
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シンは自分の手を見る。
さっきまで大将旗を握っていた手だった。
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「俺たちがいたから?」
「少なくとも、同じ条件じゃない」
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シンは西を見た。
京は見えない。
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「それで、声が強くなった?」
「断定できない」
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モモはすぐに否定した。
それから、少しだけ間を置く。
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「でも、ここ。分かれ目だったかも」
「何の?」
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モモの目が、西から南へ動いた。
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「この先の歴史が変わるかどうか」
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シンの背中に、戦場とは別の冷たさが走った。
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「西も選べる状態だった。そこへ、南を強く押す声が来た」
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それだけだった。
それ以上は、モモにも分からない。
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顕家の声がした。
西を見ていた目が、ゆっくり南へ動く。
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「……天は、まだここで尽きるなと仰せか」
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国継が黙って待つ。
顕家はもう一度だけ西を見た。
長かった。
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それから軍扇を南へ向けた。
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「伊勢へ向かう!」
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誰かが息を呑んだ。
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「京は、西です」
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青野原の夜、「京へ」と叫んでいた若い兵だった。
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「知っている!」
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顕家は胸を張った。
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「天は、ここで兵を捨てるなと仰せだ! 伊勢で整え、伊賀から大和へ出る。そしてもう一度、京を狙う!」
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迷いを捨てた声だった。
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軍扇を南へ向けたのは顕家だった。
けれど、その背中を押した声を、シンはもう知っている。
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少しずつ声が返る。
旗が南へ向く。
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「モモ」
「うん」
「今ので、戻ったのか?」
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モモは西を見たまま答えた。
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「分からない」
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少し間を置く。
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「でも、記録に残る方へ進んだ」
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北畠軍の旗列が南へ向きを変えた。
その後ろで、一つずつ旗が続く。
軍はまた歩き始めた。
青野原の勝利を語る声は、もう聞こえなかった。
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西に、京がある。
顕家が最後まで見ていた道も、西にあった。
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ただ。
歴史に残った道は。
ここから南へ曲がっていた。
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(第百三十七話へ)




