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青野原の死闘

第百三十六話 青野原の死闘


⸻


 青野原の向こうで、陣太鼓が鳴った。


 一つ。


 二つ。


 三つ目が鳴る前に、東から馬が駆けてきた。


 肩を血で濡らした武者が、泡を吹く馬を奥州の陣へ飛び込ませる。


⸻


「志貴の渡し――伊達・信夫勢の勝ち!」


⸻


 鬨の声が上がった。


 まだ目の前の敵とは、一矢も交えていない。


 それでも勝報は、凍った野を火のように走った。


⸻


「一つ」


⸻


 モモが言った。


⸻


「追ってきた敵が、五つに分かれた」


「じゃあ、あと四つ」


「うん」


⸻


 シンは西を見た。


 正面に残った軍勢は小さい。


 さっき国継に教えられた二つの旗が、広い青野原に細い針のように立っている。


 土岐。


 桃井。


 対するこちらは、見渡す限りの旗だった。


 その中央で、白馬の顕家が軍扇を開く。


⸻


「一つ目だ!」


⸻


 いつもの笑みが戻る。


⸻


「残る四つも、今日のうちに片づけるぞ!」


⸻


 奥州兵が槍や長刀の石突で地を打った。


 声が野を揺らす。


⸻


 次の知らせは洲俣から来た。


「北条勢、高勢を破りました!」


⸻


「二つ!」


⸻


 北条時行の名が上がる。


 続いて阿字賀から、南部・下山・結城勢が今川・三浦勢を退けたとの報。


 さらに新田徳寿丸・宇都宮勢から、上杉勢退却の知らせが届いた。


⸻


「四つ!」


「四つだ!」


「京まで敵は残らぬぞ!」


⸻


 声が膨らんだ。


 京の酒。


 京の女。


 京の白い米。


 まだ見ぬ都を取り合う声に、シンも笑いかけた。


⸻


「まだ」


⸻


 モモの声で、口が止まった。


 四つの敵が退いたのに、国継に名を教えられた二つの旗――土岐と桃井だけは、まだ傾いていない。


 騎馬が静かに寄る。


 槍。


 太刀。


 長刀。


 持っている物は違う。


 なのに、馬首だけが同じ方角へ揃っていく。


⸻


「減った?」


「固まった」


⸻


 モモがフツへ触れた。


⸻


「あれは、退く形ではない」


⸻


 顕家も軍扇を下ろした。


⸻


「気を抜くな!」


⸻


 鋭い声が陣を断ち切る。


⸻


「四つ退けた。だが、あれだけは動かなかった! 数で侮れば、こちらの首を持っていかれるぞ!」


⸻


 伊佐国継が前を走る。


 結城宗広は義良親王の輿を下げ、両親王の周囲へ兵を集めた。


 阿字賀を終えた南部勢の一部も、遅れて本陣へ寄ってきた。


 顕家は凍った土、泥、風、敵と味方の位置を一息で見渡した。


⸻


「国継。前を厚くしすぎるな。受ければ割られる」


「では?」


「通す」


⸻


 国継が顕家を見た。


⸻


「……殿」


「全部ではない。狭く通せ」


⸻


 軍扇が中央より少し右を指す。


⸻


「土岐は真っ直ぐ来る。桃井がその脇を埋める。ならば入れろ。入れた後で横腹を噛む」


「危険です」


「知っている!」


⸻


 顕家が笑った。


⸻


「だから私がここにいる!」


⸻


 土岐と桃井の陣で、槍が伏せられた。


 一騎が出る。


 全騎が続く。


 太鼓も鬨もない。


 金具と蹄だけが近づいてくる。


⸻


(来る)


⸻


「射よ!」


⸻


 矢が上がった。


 一本。


 十本。


 その後ろから、さらに何十本。


 冬空が黒くなる。


 一人の武者の喉へ矢が刺さった。


 抜こうとして馬から落ち、後続の蹄に踏まれる。


 別の矢は馬の眼へ入り、横倒しになった馬が騎手の脚を潰した。


 男の叫びを、次の騎馬が踏み越えた。


⸻


「……え」


⸻


 シンの喉が鳴った。


 また、人が死んだ。


 何度見ても、あっけなかった。


 名も年も知らない男が、矢一本で泥の中に動かなくなった。


⸻


「シン」


⸻


 モモが呼ぶ。


 返事ができなかった。


⸻


「まだ来る」


⸻


 その通りだった。


 土岐勢は止まらない。


 空いた場所を後ろが埋める。


 細い針だった軍勢が、一つの黒い槍になった。


 そして初めて、腹の底から鬨を上げた。


⸻


「来るぞ!」


⸻


 槍と長刀が前へ出る。


 次の瞬間、土岐勢がぶつかった。


⸻


 槍が折れた。


 馬の胸が裂けた。


 人が飛んだ。


⸻


 一人の奥州兵が腹を槍で貫かれた。


 槍先が背中から出る。


 それでも柄を掴んだが、抜かれた瞬間に座り込み、指の間から中身がこぼれた。


⸻


「……っ」


⸻


 シンの膝が震えた。


 横では土岐の騎馬が首を斬られ、血を浴びた奥州兵が一瞬目を閉じる。


 その一瞬で馬に胸を蹴られ、起きなくなった。


⸻


 敵も味方も、強さを見せる前に死ぬ者がいる。


⸻


「入った!」


⸻


 誰かが叫んだ。


⸻


「予定通り」


⸻


 モモが言う。


 顕家の軍扇が下がる。


⸻


「閉じるな! まだだ!」


⸻


 普通なら塞ぐ穴を、奥州兵が半歩開ける。


 土岐勢が殺到した。


 誘ったのだ。


 だが――。


⸻


「……速すぎる」


⸻


 モモの声が低くなる。


 土岐勢は想定より深かった。


 槍を受けても止まらず、馬を斬られれば落ちながら敵へ組みつく。


 一騎が奥州兵の槍を喉へ受け、馬から落ちた。


 その真後ろの騎馬は、手綱を引かなかった。


 倒れた仲間ごと踏み越えて、同じ穴へ飛び込んでくる。


 そいつも長刀を胸へ受けて落ちた。


 また次が来た。


 三騎目。


 四騎目。


 倒すたびに数は減っているはずなのに、土岐の旗だけは近づいてくる。


 前の仲間が死んでも。


 その馬が倒れても。


 一度も振り返らない。


⸻


「なんだよ、あいつら……!」


⸻


 怪物だった。


 死ぬことを知らないのではない。


 死ぬ場所を、自分で決めている。


 顕家本陣まで届くためなら、それ以外を捨てている。


⸻


「土岐頼遠」


「知ってる?」


「記録に残る。少勢でも何度も突っ込む。モンスター」


「最後だけ急に雑だな」


⸻


「殿! 想定より早い!」


「見れば分かる!」


⸻


 顕家は白馬を二歩下げた。


 逃げたのではない。


 土岐に追わせる距離を二歩伸ばした。


⸻


「右、三十騎だけ残せ! 残りは引け! 南部の一隊はまだ動かすな!」


⸻


 命令が即座に変わる。


 策を破られた瞬間、その破られ方を次の策へ使う。


⸻


「国継! 今は土岐だけ見ろ! 桃井は後だ!」


「後でいいのですか!」


「今は土岐を止めろ!」


⸻


 その言葉を証明するように、桃井勢が来た。


 土岐ほど速くない。


 派手でもない。


 だが、止まらない。


 馬が倒れれば降りる。


 槍が折れれば太刀を抜く。


 太刀を失えば落ちた長刀を拾う。


 一度崩れても、数十歩のうちにまた集まる。


 肩の矢を折って走る。


 頬の血を袖で拭う。


 馬を失えば、主を失った馬を捕まえて乗る。


 また来る。


⸻


「……あっちは何なんだよ」


「桃井直常」


「そっちも知ってる?」


「何度散らしても戻る。ゾンビ」


「例えが酷すぎる……」


⸻


 桃井勢が奥州兵へ噛みつく。


 押す。


 押し返される。


 崩れる。


 また戻る。


⸻


「……なるほど」


⸻


 顕家が笑った。


⸻


「あれは戻る。国継、桃井を追いすぎるな!」


⸻


 死んだ者が起き上がるわけではない。


 なのに、さっき散らしたはずの場所から、また同じ旗が来る。


⸻


「……確かにゾンビだな」


「うん」


「納得したくなかった」


⸻


 そして、奥州も弱くなかった。


⸻


「奥州を舐めるなあッ!」


⸻


 伊達兵が馬上の土岐武者へ飛びつき、二人で泥へ落ちる。


 脇を斬られても離さない。


 仲間の槍が土岐武者を止めた時、伊達兵も動かなくなっていた。


⸻


 結城の兵が長刀で馬首を逸らす。


 空いた場所へ国継の騎馬が入る。


 一人倒れれば、隣が半歩寄る。


 馬が落ちれば、人が穴を埋める。


⸻


 怖くないはずがない。


 槍を構える手が震えている。


 唇を噛み切った若者もいる。


 皆、怖い。


 怖いまま、逃げない。


⸻


 霊山から、白河から、利根川から、鎌倉から。


 走りながら覚えてきた。


 旗を見失うな。


 崩れたら隣へ寄れ。


⸻


 顕家が天才なら。


 その無茶へここまでついてきた奥州兵も、普通ではなかった。


⸻


「右、戻せ! 今度こそ閉じろ!」


⸻


 奥州勢が動く。


 伊達が土岐の後ろへ。


 国継が桃井の横へ。


 待たされていた南部の一隊も、そこで初めて前へ出る。


 だが土岐勢はさらに速度を上げた。


⸻


「顕家!」


⸻


 白馬が黒い騎馬へ呑まれた。


 顕家本陣の大将旗が大きく揺れる。


 旗持ちの胸へ槍が入った。


 男が仰向けに倒れ、大将旗が泥へ落ちた。


⸻


「将軍の旗が落ちた!」


⸻


 前より先に後ろが乱れる。


 荷駄馬が嘶く。


 義良親王の輿を守る兵まで、一歩下がった。


 まだ誰も逃げていない。


 だが、一人走れば全部が動く。


⸻


(違う)


⸻


 旗が落ちた。


 顕家が落ちたのではない。


 そう言い切る根拠はない。


 白馬も見えない。


 声も聞こえない。


 それでも、ここで見失えば終わる。


⸻


「タダ!」


⸻


 シンは走った。


 足元で柔らかいものを踏んだ。


 泥から出た人の手だった。


 吐き気が上がる。


 倒れた馬の下では、潰された男がまだ呻いていた。


 助けられない。


⸻


(ごめん)


⸻


 シンは旗へ走った。


⸻


 泥の中に大将旗があった。


 旗持ちはまだ生きている。


 折れた竿を両腕で抱いていた。


⸻


「殿を……」


「生きてるのか?」


「旗を……落とすな……」


⸻


 タダが兵を抱き上げ、折れた竿を取る。


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「高いところ!」


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 タダがしゃがんだ。


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「乗れ」


「え?」


⸻


 次の瞬間、シンは肩の上にいた。


 顕家の大将旗が、もう一度戦場へ出る。


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「ひいぃ、高すぎる!」


「高い方がいい」


「限度がある!」


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 逃げかけた兵が足を止めた。


⸻


「旗はある!」


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 シンは叫ぶ。


⸻


「顕家は生きてる! 勝手に逃げるな!」


⸻


 声が震えた。


 格好なんてつかなかった。


 怖かった。


 手も脚も震えていた。


 それでも旗だけは下げなかった。


⸻


 代わりに、土岐の騎馬がこちらを向いた。


⸻


「……まずくない?」


「そうだな」


⸻


 騎馬が来る。


 下ろせば味方が崩れ、上げれば敵が来る。


⸻


(逃げたい)


⸻


 何度死んでも、慣れはしない。


 死ぬ瞬間は、いつも怖かった。


 知っているからこそ、怖い。


⸻


「シン」


⸻


 モモがタダの背を使って上がり、旗竿へ手を添えた。


⸻


「一緒に持つ」


⸻


 二人で大将旗を立てる。


 その下へ結城兵が集まった。


 タダは二人を下ろし、槍を拾って前へ出た。


⸻


「ここは通さん」


⸻


 一騎目の馬首を槍の柄で逸らす。


 二騎目。


 モモがフツを抜く。


 白雷は出ない。


 一閃。


 斬ったのは人ではなく手綱だった。


 馬が旗の脇を駆け抜ける。


 騎手の槍がシンの袖を裂いた。


⸻


「まだ来るのかよ!」


「土岐」


⸻


 モモが言った。


⸻


「まだ折れてない」


⸻


 土岐の旗が近い。


 先頭の武者は吹返しを失い、頬から口元まで血に濡れている。


 それでも目だけが大将旗を見ていた。


 傷を負った獣のようだった。


⸻


 その時だった。


⸻


「ふはははははっ!」


⸻


 聞き慣れた高笑いが戦場を貫いた。


 シンは反射で振り向いた。


⸻


「はーっはっはっは! 誰が死んだと言った!」


⸻


 泥まみれの白馬が、黒い騎馬の横から飛び出す。


 烏帽子はない。


 金の紐が切れ、結った髪が半ばほどけている。


 頬に血。


 肩の具足も傷だらけだ。


 それでも顕家は、今から戦が始まるみたいに笑っていた。


⸻


「私がいるぞ! ならばまだ勝てる!」


⸻


 太刀を掲げる。


⸻


「国継、右を締めろ! 南部の一隊は前へ! 行朝は左から押せ!」


⸻


 奥州勢が敵の側面へ寄る。


 だが閉じ切らない。


 東へ細い道だけを残した。


⸻


「逃がすのですか!」


「いったん抜かせるのだ!」


⸻


 敵が自分で東を選ぶよう、他を消す。


 伊達勢が咆え、国継が噛みつく。


 土岐勢は一度、奥州軍を抜けた。


⸻


「抜けた!」


⸻


 東へ抜けた土岐勢は、逃げなかった。


 百歩ほど先で馬首を返した。


⸻


「……嘘だろ」


⸻


 また来る。


 数は減っている。


 血だらけだ。


 馬も脚を引きずっている。


 それでもまた顕家本陣へ向いた。


⸻


「美濃侍どもめ、なかなか骨があるではないか!」


⸻


 顕家が笑う。


⸻


「よい! もう一度来い!」


「煽るなよ!」


⸻


 二度目の土岐勢が来る。


 奥州兵も待っていた。


 左右へ開く。


 射る。


 寄る。


 また開く。


 顕家の軍扇が動くたび、兵が半歩ずつ位置を変える。


 土岐は力で道をこじ開け、顕家はその向きを変える。


⸻


 怪物と天才の喧嘩だった。


⸻


 その喧嘩を現実にしているのは奥州兵だった。


 怖くても穴を埋め、馬を失えば槍を拾う。


 顕家の頭の中の戦場を、兵が現実にしていく。


⸻


「右、二十歩!」


「御意!」


「遅い! 十五でよい!」


「どちらです!」


「今は十五だ!」


⸻


 国継が怒鳴る。


⸻


「殿の頭は追いつけても口が追いついておりません!」


「お前が追いつけ!」


⸻


 兵が笑った。


 笑いながら動いた。


 笑っていた兵の一人が、次の瞬間に矢を顔へ受けて倒れた。


 シンは笑えなくなった。


⸻


 土岐の二度目の突入が止まる。


 先頭の武者が顔面を押さえた。


 指の間から血が流れている。


 それでも太刀を下ろさない。


 だが横から、桃井勢がまた来た。


⸻


「まだこっちもいる!」


⸻


 土岐ほど鋭くない。


 なのに減って見えない。


 馬を失った者は徒歩で戻り、槍を折った男は太刀を持つ。


 片目を血で閉じた武者が、別の馬へ乗ってまた来る。


⸻


「何回目?」


「分からない」


「……まだいるのか」


「ずっといる」


⸻


 桃井勢が南部の一隊へ食い込む。


 南部兵の腕が斬り落とされ、泥へ落ちた。


 本人が絶叫し、仲間が後ろへ引く。


 空いた場所へ、すぐ別の兵が入った。


⸻


「南部! 二段目を前へ!」


⸻


 一歩。


 二歩。


 三歩。


⸻


「止まれ!」


⸻


 四歩目を踏まなかった。


⸻


「前へ!」


⸻


 押し返す。


 桃井勢が割れる。


 だが、すぐまた集まった。


⸻


「しぶとすぎる……」


「うん」


「もう嫌だ、あいつら」


⸻


 日が傾いた。


 土岐も桃井も半分以下。


 奥州側も馬と矢を失っている。


 死体が重なり、足元の泥まで赤黒くなっていた。


⸻


(これが、勝つってことなのか)


⸻


 それでも顕家は白馬を前へ出した。


⸻


「奥州! まだ立てるか!」


「応ッ!」


⸻


 地面が揺れた。


 生き残っている者の声だった。


⸻


「ならば、終わらせる!」


⸻


 顕家は泥と騎馬跡を見る。


 何度も馬が走り、乾いた地面と深い泥の境目ができていた。


⸻


「桃井を西へ寄せろ! 土岐と離せ!」


⸻


 桃井は何度でも戻る。


 だからこそ土岐と離す。


⸻


「土岐は私が引く!」


⸻


 白馬が駆ける。


 傷ついた土岐勢がまだ追う。


 顕家は泥の縁を細く回った。


⸻


「そこだ!」


⸻


 白馬だけが乾いた側へ切れる。


 土岐の先頭が泥へ入り、一頭が滑った。


 後続が乗り上げる。


⸻


「今だ!」


⸻


 伊達。


 国継。


 南部。


 左右から奥州勢が入った。


 土岐の旗が大きく傾く。


 先頭の武者が、とうとう馬首を東へ向けた。


 敗走ではない。


 残った者を生かすための向きだった。


⸻


「土岐が退く!」


「追うな! 桃井がいる!」


⸻


 桃井勢は、まだいた。


⸻


「……まだいるのかよ」


⸻


 土岐が退いても、またまとまる。


 また来る。


⸻


「見あげた性根だ……!」


⸻


 国継がつぶやく。


⸻


「褒めておる場合か!」


「殿も褒めていたでしょう!」


「今はもうしつこいから嫌だ!」


⸻


 桃井が来る。


 奥州が迎える。


 もう策だけではない。


 意地と意地だった。


 抜けても戻る。


 押し返されても、また来る。


⸻


「何回目?」


「まだ数える?」


「やめとく」


⸻


 やがて、桃井の旗が東を向いた。


 すぐには走らない。


 落馬した者を拾い、傷ついた者を中央へ入れる。


 最後まで隊列を作って、ゆっくり離れていった。


⸻


「追えます!」


「追うな!」


⸻


 顕家が即座に止める。


⸻


「こちらの馬も、もう走れぬ!」


⸻


 白馬の胸が激しく上下し、口元に泡がついている。


 顕家はその首を撫で、東へ退く桃井を見送った。


⸻


「土岐も桃井も、生きて逃したか」


⸻


 国継が悔しそうに言う。


⸻


「違う」


⸻


 顕家は息を切らしながら笑った。


⸻


「あれは、自分で帰ったのだ。見事ではないか」


⸻


 敵を褒める声に恐れはなかった。


 本気で、あの死にもの狂いを美しいと思っていた。


⸻


 志貴。


 洲俣。


 阿字賀。


 上杉。


 そして、最後の土岐と桃井。


⸻


「五つ」


⸻


 モモが言う。


⸻


「全部?」


「うん」


⸻


 顕家を見る。


⸻


「勝ち」


⸻


 青野原の陣太鼓が鳴る。


 一度。


 二度。


 三度。


 今度は途切れなかった。


 顕家が太刀を天へ突き上げる。


⸻


「敵五陣、すべて退いた!」


⸻


 息を吸う。


⸻


「青野原は、我らの勝ちだ!」


⸻


 声が爆発した。


 槍が上がる。


 弓が上がる。


 空の手まで上がる。


 シンも叫んだ。


 喉が裂けるほど叫んだ。


⸻


「勝った!」


「うん」


「勝ったぞ、モモ!」


「聞こえてる」


「もっと喜べよ!」


⸻


 モモが軽く手をあげた。


⸻


「えいえいおー」


⸻


 シンは目を見開き、それから笑った。


 モモも笑う。


 タダの笑い声が二人を呑み込んだ。


⸻


 足元では、敵も味方も同じ泥に顔をつけていた。


 シンは一瞬だけ声を止める。


 それでも勝鬨は止まらない。


 生き残った者が、生き残ったことを叫んでいた。


⸻


 誰かが叫ぶ。


⸻


「京へ!」


「京へ!」


「京へ!」


⸻


 勝鬨が、次の願いへ変わった。


 その時は誰も疑わなかった。


⸻


 顕家が白馬で近づく。


⸻


「シン。いつまで私の旗を持っている」


「落ちてたから拾ったんだよ!」


「私は落ちておらぬぞ!」


「見えなかったんだよ!」


⸻


 周りの兵が笑った。


⸻


「……ならば、もっと高く上げろ!」


「まだ上げるのかよ!」


⸻


 タダが無言でしゃがむ。


⸻


「やめろ」


「高い方がいい」


「今度は自分で上げる!」


⸻


 顕家まで腹を抱えて笑った。


⸻


⸻


 その夜、米が炊かれ、酒も出た。


 傷を縛った兵が、同じ武勇を何度も語った。


 話すたび、土岐と桃井の騎馬は増えた。


 話すたび、顕家の白馬は高く跳んだ。


 話すたび、シンの掲げた大将旗も大きくなった。


 最後には、タダがシンごと旗を天まで持ち上げたことになった。


⸻


「そこは、だいたい合ってる」


「合ってない!」


⸻


 笑い声は夜更けまで続いた。


 少し離れた場所では、死んだ者の名が数えられていた。


⸻


 西の星の下に、京がある。


 あと一つ山を越えれば、もう誰にも止められない。


 兵たちは、そう信じて眠った。


⸻


⸻


 二月六日。


 関の藤川。


 青野原の勝利を背負い、軍は西へ動いた。


 先頭では、あの日の歌が続いていた。


 五陣を破り、土岐も桃井も退けた。


 北畠顕家が、京への道を開いた。


⸻


 たった数日前のことなのに、シンの記憶より歌の中の青野原はもう派手になっていた。


⸻


 シンも何度か一緒に歌った。


 長い坂を上り切るまでは。


⸻


 先頭が止まった。


 その後ろが止まる。


 歌だけが少し遅れて進み、やがて消えた。


 シンは荷駄の列を抜け、坂の上へ走った。


 モモとタダも続く。


⸻


「何があった?」


⸻


 答える必要はなかった。


 坂の向こうに、火があった。


 一列。


 二列。


 その後ろにも続いている。


 昼なのに炊煙が平野を灰色に塞ぐ。


 煙の下には、泥のついていない旗と槍。


 馬も列を乱していない。


⸻


 青野原を戦っていない軍だった。


 シンには、どれが誰の旗なのかまでは分からない。


⸻


「京からの新手です」


⸻


 物見の武者の声が乾いていた。


⸻


「高師泰、高師冬らの軍。関の藤川を前に、黒地川を背にして陣を置いております」


⸻


 無傷の敵軍だった。


 シンの目には、道そのものを塞ぐ壁に見えた。


⸻


 顕家は白馬の上で黙って見ていた。


 白馬が一歩動く。


 前脚が小さく震えた。


 顕家はすぐ止める。


⸻


「何人いる」


「青野原で最後まで残った勢とは、比べものになりませぬ」


「馬はどうか」


「疲れが見えませぬ」


「矢は」


「不足している様子はありませぬ」


⸻


 顕家は振り返った。


 泥で固まった馬脚。


 包帯。


 荷駄の負傷者。


 二人の親王。


⸻


 勝った軍だった。


 だが、もう一度戦えばまた人が死ぬ。


 シンの頭に、泥から出ていた指が浮かんだ。


⸻


「破れるか?」


⸻


 シンが聞いた。


⸻


「破れる」


⸻


 顕家は即答した。


 敵陣の端から端までを見る。


 水の浅い場所。


 煙の薄い場所。


 馬が走れそうな乾いた地面。


 シンには何が見えているのか分からない。


 ただ、顕家がもう崩し方を探しているのは分かった。


⸻


「ここを破って、そのまま西へ走る手はある」


⸻


 軍扇が京の方角へ向く。


⸻


「乾坤一擲だ。行くなら、ここで止まっている暇はない」


⸻


 国継が低く聞いた。


⸻


「もう一つは」


⸻


 軍扇が南へ動いた。


⸻


「伊勢へ外す。兵を休ませ、馬と米を得る。伊賀から大和へ出て、もう一度京を狙う」


「堅い策です」


「遅い策でもある」


⸻


 顕家は西を見る。


 南を見る。


 また西を見る。


⸻


 迷っている。


⸻


 いつもなら、地形を見ているうちに答えが出る。


 今回は違った。


 西へ押すか。


 南へ外すか。


 まだ、どちらも捨てていない。


⸻


「……殿?」


⸻


「待て」


⸻


 顕家は軍扇を西へ戻した。


⸻


「……ここまで来た」


⸻


 青野原で流れた血を思い出しているのか。


 シンには分からない。


 ただ、顕家の目はまだ西を離れていなかった。


⸻


 その時。


 モモがフツへ触れた。


⸻


「来た」


「神託?」


「うん」


⸻


 モモの顔が固くなる。


⸻


「強い」


「何が?」


「声」


⸻


 顕家の肩が、ごく僅かに揺れた。


⸻


「伊勢へ。退け。兵を残せ。生きて、京へ」


⸻


 一度ではなかった。


 同じ意味の言葉が、重なるように来ているらしい。


 顕家の軍扇が止まった。


⸻


「……モモ?」


⸻


 モモは顕家ではなく、奥州軍の後ろを見た。


 荷駄。


 負傷者。


 青野原を生き残った兵。


⸻


「鎌倉から、少しずれてる」


「何が?」


「流れ」


「流れ?」


「うん。私たちが触った分」


⸻


 モモは奥州軍の後ろを見る。


⸻


「今日も。旗が落ちたあと、本陣が崩れなかった」


⸻


 シンは自分の手を見る。


 さっきまで大将旗を握っていた手だった。


⸻


「俺たちがいたから?」


「少なくとも、同じ条件じゃない」


⸻


 シンは西を見た。


 京は見えない。


⸻


「それで、声が強くなった?」


「断定できない」


⸻


 モモはすぐに否定した。


 それから、少しだけ間を置く。


⸻


「でも、ここ。分かれ目だったかも」


「何の?」


⸻


 モモの目が、西から南へ動いた。


⸻


「この先の歴史が変わるかどうか」


⸻


 シンの背中に、戦場とは別の冷たさが走った。


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「西も選べる状態だった。そこへ、南を強く押す声が来た」


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 それだけだった。


 それ以上は、モモにも分からない。


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 顕家の声がした。


 西を見ていた目が、ゆっくり南へ動く。


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「……天は、まだここで尽きるなと仰せか」


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 国継が黙って待つ。


 顕家はもう一度だけ西を見た。


 長かった。


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 それから軍扇を南へ向けた。


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「伊勢へ向かう!」


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 誰かが息を呑んだ。


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「京は、西です」


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 青野原の夜、「京へ」と叫んでいた若い兵だった。


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「知っている!」


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 顕家は胸を張った。


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「天は、ここで兵を捨てるなと仰せだ! 伊勢で整え、伊賀から大和へ出る。そしてもう一度、京を狙う!」


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 迷いを捨てた声だった。


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 軍扇を南へ向けたのは顕家だった。


 けれど、その背中を押した声を、シンはもう知っている。


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 少しずつ声が返る。


 旗が南へ向く。


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「モモ」


「うん」


「今ので、戻ったのか?」


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 モモは西を見たまま答えた。


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「分からない」


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 少し間を置く。


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「でも、記録に残る方へ進んだ」


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 北畠軍の旗列が南へ向きを変えた。


 その後ろで、一つずつ旗が続く。


 軍はまた歩き始めた。


 青野原の勝利を語る声は、もう聞こえなかった。


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 西に、京がある。


 顕家が最後まで見ていた道も、西にあった。


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 ただ。


 歴史に残った道は。


 ここから南へ曲がっていた。


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(第百三十七話へ)


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