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ゆきゆきて、皇軍

第百三十五話 ゆきゆきて、皇軍


⸻


 翌朝、モモの袖は凍っていた。


 焚き火の前で両腕を伸ばすと、小袖の先が板のように立った。


⸻


「……硬い」


「そりゃ真冬に服のまま湯へ入ればな」


⸻


 シンが袖を指で弾く。


 こつん、と鳴った。


⸻


「面白い状態」


「面白くないよ!」


⸻


 小萩がモモの襟首を掴んだ。


⸻


「風邪ひく気かい。脱ぎな」


「不同意」


「着替えな」


「フツは外さない」


「じゃあ刀佩いたまま着替えな!」


⸻


 モモはそのまま天幕へ引きずられていった。


 昨夜あれほど笑っていたヒカルは、もういない。


 白と金の具足。


 黒い烏帽子。


 長い髪を金の紐で束ね、白馬の上から兵を動かしている。


⸻


「顕家」


⸻


 呼ぶと、白馬がこちらを向いた。


 ほんの一瞬だけ、昨夜と同じ顔になった。


⸻


「何だ」


「いや、何でもない」


「なら呼ぶなっ! 忙しいのだ」


⸻


 いつもの顕家だった。


 それが少し嬉しくて、シンは笑った。


⸻


「何がおかしい」


「ごめんごめん、何でもないって」


⸻


 顕家は首を傾げたが、すぐ前へ向き直った。


 走湯山を発つ声が飛ぶ。


 湯気の残る海辺から、軍がまた動き始めた。


⸻


⸻


 正月七日。


 三嶋社。


 その日の暮れ、顕家は社前で筆を執っていた。


 兵たちは門の外で凍えた手を擦り、馬は白い息を吐いている。


 机の上には、伊豆国安久郷を三嶋社へ寄進する文が置かれていた。


 シンには、細い文字のほとんどが読めない。


⸻


「土地あげるの?」


「安久郷を三嶋社へ寄進するのだ」


「丸ごと?」


「お前の考える『あげる』とは少し違う!」


「やっぱ難しい」


⸻


 隣のモモが文を覗き込む。


⸻


「天下泰平。所願成就」


「戦に勝ちたい、じゃないんだ」


⸻


 筆が止まった。


 聞こえていたらしい。


⸻


「勝つのは私の務めだ。神へ頼むことではない」


「じゃあ、何を頼んだ?」


⸻


 顕家はもう一度、紙へ目を落とした。


⸻


「勝った後のことだ」


⸻


 さらさらと、筆が進んだ。


 その横顔を見ながら、モモが腰のフツへ触れた。


⸻


「今、来た」


「何が?」


「神託」


⸻


 モモは顕家を見た。


⸻


「また、後から」


⸻


 シンには聞こえない。


 顕家も、何もなかったように筆を置いた。


 ただ、置いた指が少し強かった。


⸻


「シン。モモ。タダ」


⸻


 三人を呼ぶ。


⸻


「明日から軍の後ろへ回れ」


「後ろ?」


「荷駄、負傷者、遅れた兵。それから、道に落ちたものを見ろ」


⸻


 顕家は立ち上がった。


⸻


「前は私から見える。後ろは見えぬ」


⸻


 真っ直ぐ、シンを見る。


⸻


「落ちた者を、見落とすな」


⸻


 鎌倉で、シンとモモが何を選んだか。


 顕家は忘れていなかった。


 責めてもいなかった。


 だからこそ、任せた。


⸻


「りょ。」


「それはモモの返事だろう!」


「移った」


⸻


 モモは微妙な顔をした。


 顕家の口元が、少しだけ緩んだ。


⸻


⸻


 軍の後ろは、遅かった。


 先頭の旗は、丘を越えるたびに見えなくなる。


 代わりに見えるのは、荷駄だった。


 傾いた荷鞍。


 切れた荷縄。


 蹄を痛め、足を引きずる馬。


 草鞋を血で濡らし、それでも歩く兵。


⸻


「速い軍って聞いてたんだけど」


「先頭は速い」


「俺たちも同じ軍だよな?」


「たぶん」


「そこは断言してくれよ」


⸻


 一頭の荷駄馬が泥へ脚を取られた。


 荷鞍が大きく傾き、米俵がずり落ちかける。


 兵が駆け寄り、切れかけた荷縄を結び直した。


 その間に、前の一隊がまた見えなくなる。


⸻


「置いていかれてない?」


「追いつく」


「どうやって?」


⸻


 モモがタダを見た。


 タダは馬の腹の下へ両腕を入れた。


 次の瞬間、荷を載せたままの馬体が泥から浮いた。


⸻


「馬を持ち上げるな!」


「だが、速い」


⸻


 速かった。


 誰も反論できなかった。


⸻


 その日の午後、浅い川で一頭の荷駄馬が足を滑らせた。


 凍った石へ蹄を取られ、荷鞍が傾く。


 積んでいた米俵が一つ、水へ落ちた。


 シンは咄嗟に縄を掴んだ。


 次の瞬間、足を払われた。


⸻


「うわっ!」


⸻


 冷たい水が膝まで来る。


 縄の先では、米俵が流れに引かれていた。


 手を放せば、冬を越えてきた米が消える。


 放さなければ、自分が転ぶ。


⸻


「シン」


⸻


 襟を掴まれた。


 モモが片手でシンを引き戻し、もう片方の手で縄を取る。


 タダは倒れかけた荷駄馬の胴へ肩を入れた。


 川底の石が鳴った。


 馬体が、ゆっくり起き上がる。


⸻


「米!」


「シンが先」


「俺は浮く! 米は浮かない!」


「たぶん、逆」


⸻


 米俵も、シンも助かった。


 代わりに、車を引いていた馬が岸へ上がれなかった。


 脚を震わせ、鼻先を泥へつけた。


 兵が鞍を外す。


 タダが首を撫でる。


 誰も急かさなかった。


 やがて馬の白い息が止まると、荷は人の背へ分けられた。


 濡れた米俵は、タダが一人で担いだ。


 軍は、馬一頭分だけ遅くなった。


 それでも、西へ進んだ。


⸻


 駿河を抜ける頃、笑う者はまだ多かった。


 走湯で肩を岩へ出したまま「生きてるなあ」と言った若い兵も、その一人だった。


 腕を吊り、片手で馬の口を取って歩いていた。


⸻


「京には、もっとでかい湯がありますかな」


「京に温泉は期待しない方がいい」


「では、勝ったら走湯へ戻りましょう」


「いいな、それ」


⸻


 翌日、その兵は馬へ乗せられた。


 さらに翌日、即席の担架へ移された。


 傷は閉じていた。


 だが、熱が下がらない。


 唇が乾き、目だけが妙に明るかった。


⸻


「歩ける」


⸻


 何度もそう言った。


 立たせると、三歩で膝が折れた。


 モモが首へ手を当てる。


⸻


「このまま進めば、死ぬ」


「生きてても、戦には間に合わねえ」


⸻


 兵は悔しがった。


 近くの寺へ預けることになった。


 米を一俵。


 干し肉。


 顕家の花押を据えた文。


 顕家は先頭から戻り、自分で寺の僧へ頭を下げた。


⸻


「帰路に、必ず迎えを寄越す」


「殿」


⸻


 若い兵が呼び止めた。


⸻


「必ず追いつきます」


⸻


 顕家は何か言おうとした。


 だが、言わなかった。


 ただ一度、頷いた。


⸻


 軍はまた西へ進んだ。


 シンは何度も振り返った。


 寺の門に立つ兵は、やがて道の向こうへ消えた。


 その日の報告で、シンは最初にその兵の経緯を話した。


 顕家は黙って聞き、文の端へ寺の名を書き足した。


⸻


「忘れないんだな」


「忘れれば、置き去りにしたことになる」


「本当に、迎えに戻れるのか?」


⸻


 顕家の筆が止まった。


⸻


「分からぬ」


⸻


 強がらなかった。


⸻


「だから書く。戻れなかった時にも、誰かがあの文を読めるように」


⸻


 顕家は顔を上げなかった。


 灯明の下には、まだ読まなければならない文が積まれていた。


⸻


「少し寝れないのか?」


「寝ている」


「いつ?」


「お前が見ていない時だ」


「じゃあ今、俺が外に出るから寝ろ」


「屁理屈を言うな……!」


⸻


 声には力があった。


 目の下には、薄い影があった。


 人の気配が近づいた。


⸻


「ヒ――」


⸻


 シンは途中で飲み込む。


⸻


「……顕家。報告、ここに置いとく」


「うむ」


⸻


 使えるようになった名ほど、使えない場所では意識した。


⸻


⸻


 正月十二日。


 遠江国、橋本。


 海と湖の境に、松原が続いていた。


 風は塩を含み、道の砂を低くさらっていく。


 そこで、別の軍勢が待っていた。


 旗の間から、一人の男が馬を進める。


 鎧姿をしていたが、指は細く、袖口には墨の跡があった。


⸻


「兄上!」


⸻


 義良親王が輿から身を乗り出した。


 男――宗良親王は馬を降り、駆け寄った弟の肩へ手を置いた。


⸻


「義良。よく、ここまで来た」


「顕家がおります。何も案ずることなく、ここまで来れました」


「そうか」


⸻


 宗良は顕家を見た。


 顕家は胸を張った。


⸻


「そのとおりです、親王殿下!」


「顕家。弟から届いた文は、お前の自慢ばかりだったぞ」


「殿下は事実をよくご覧です!」


「半分しか書いておらぬ」


⸻


 義良が真顔で言った。


 宗良が少し目を見開く。


⸻


「まだあったのか……」


「当然です!」


⸻


 兵たちから笑いと歓声が上がった。


 新しい旗が加わった。


 新しい馬が加わった。


 新しい兵が、道を埋めた。


 道が埋まると、軍はすぐに動けなくなった。


 一頭の荷駄馬へ、東へ回せという使者と、西へ回せという使者が同時に来た。


 遠江の兵は宗良の命を待ち、奥州の兵は顕家の旗を見た。


 誰も怠けていない。


 全員が違う命令へ急いでいた。


⸻


「これで、強くなったのか?」


「たぶん」


「また、たぶんか……」


⸻


 モモは道の左右へ枝を立て、荷駄と騎馬を分けた。


 シンは二人の使者を顕家のもとへ走らせる。


 タダは道の真ん中で立ち往生した荷駄馬を、荷ごと脇へ持ち上げた。


 結局、最後に解決したのはタダだった。


⸻


「……俺たちが道分けた意味あった?」


「あった」


「本当に?」


「たぶん」


「またそれかよ」


⸻


「とにかく、増えたな」


⸻


 シンが言った。


 モモは、炊き出しの鍋を見ていた。


 粥へ、また水が足された。


⸻


「増えすぎたかも」


「兵が?」


「守るもの」


⸻


 親王が二人。


 旗の印も、命令を出す者も増えた。


 顕家の前へ運ばれる文は、前日の倍になった。


 それでも出立の刻は遅れなかった。


⸻


 橋本を発って三日目、後方の物見が土手の下で焚き火の跡を見つけた。


 灰は冷えていた。


 だが、その上に落ちた霜だけが薄い。


 馬の跡は五つ。


 西へ向かった後、一つだけ東へ戻っている。


⸻


「見られてる」


⸻


 モモが言った。


⸻


「何を?」


「数。速さ。弱っている場所」


⸻


 シンは自分たちが歩いてきた道を見た。


 蹄の跡。


 馬糞。


 血の付いた布。


 捨てられた草鞋。


 隠しようがなかった。


⸻


「こっちも、向こうを見られないのか」


「見てる」


⸻


 モモは西を向いた。


⸻


「でも、向こうの方が先に備えてる」


⸻


 風の音が変わった気がした。


 それからは、丘の上の影がすべて物見に見えた。


 遠くで鳥が飛ぶだけで、兵が槍へ手を掛けた。


 翌朝、本当に影が現れた。


 低い丘の上。


 馬上の男が一人、こちらを見ている。


 奥州の騎馬が二騎、飛び出そうとした。


⸻


「追うな!」


⸻


 前方から顕家の声が飛んだ。


 同時に、モモが丘の右を指す。


 枯れた藪の奥で、別の馬の耳が動いた。


 一人ではない。


 追えば、道から引き離される。


 丘の男は槍を立て、まるで挨拶するように一度傾けた。


 そして、西へ消えた。


⸻


「逃げた?」


「違う」


⸻


 モモは足元の長い隊列を見た。


⸻


「数え終わった」


⸻


 戦はまだ始まっていない。


 だが、見えない戦はもう道の両側にいた。


⸻


⸻


 尾張へ入ると、旗はさらに増えた。


 道端で待っていた武士が十騎、二十騎と加わる。


 村の若者が槍を持って追ってくる。


 昨日まで名も知らなかった者が、今日は北畠の旗の下を歩いている。


 前方では、合流のたびに鬨の声が上がった。


 後方では、馬が一頭ずつ減った。


 痩せた馬から荷を下ろす。


 持てる物だけを人が背負う。


 持てない物は、道の脇へ積んだ。


 替えの鍋。


 濡れた薪。


 折れた槍。


 持ち主のいない笠。


⸻


「これも見るのか」


「うん」


「どうする?」


「覚えておく」


⸻


 モモは短く答えた。


 シンも、笠の形を見た。


 次の曲がり角まで、忘れないようにした。


⸻


 黒田の宿へ入った夜、笑い声はほとんどなかった。


 火を囲んでも、兵は食べるとすぐ横になった。


 走湯で歌っていた男たちも、今は口を開けたまま眠っている。


 伊達行朝と結城宗広だけが、地図の上でまだ言い争っていた。


 その声も低い。


⸻


「軍は大きくなったのに、静かになったな」


⸻


 シンが呟く。


⸻


「疲労」


「分かってる」


「恐怖も」


⸻


 モモの指が、またフツの柄に触れていた。


⸻


「神託、来てるのか?」


「繰り返してる」


「何て?」


⸻


 モモは、前方の白い天幕を見た。


⸻


「京へ」


⸻


 その一言だけだった。


 何頭の馬が倒れても。


 何人の兵が道に残っても。


 声は数えない。


 ただ、西を指す。


⸻


「顕家も?」


「聞いてる」


「苦しそう?」


「……嬉しそう」


⸻


 それが一番、嫌だった。


⸻


 その夜、最後の報告を持って天幕へ入ると、顕家は座ったまま眠っていた。


 膝には開いた文。


 右手には筆。


 眠っていても、眉間の皺が消えていない。


 シンは肩へ外套を掛けた。


 顕家の手が動き、短刀の柄を掴む。


 目が開いた。


⸻


「……シンか」


「ごめん。起こした」


⸻


 周りに人はいなかった。


 シンは声を落とした。


⸻


「ヒカル。少し寝ろ」


⸻


 黒い瞳が、一瞬だけ柔らかくなる。


⸻


「……青野原まで行ったらな」


「約束?」


「私へ命令するな」


「じゃあお願いする」


「考えておく……」


⸻


 考える時の返事ではなかった。


 守れそうにない時の返事だった。


⸻


⸻


 黒田を出てから、道は妙に歩きやすくなった。


 外された橋もない。


 隠された舟もない。


 馬草を焼いた跡もない。


 村は戸を閉ざしていたが、進む道だけは空いている。


 止められていた時より、シンは落ち着かなかった。


⸻


「急に諦めたのかな」


「違う」


⸻


 モモは即答した。


⸻


「通されてる」


「どこへ?」


⸻


 答えの代わりに、西の空で黒い鳥が一斉に飛び立った。


 道は、そこへ真っ直ぐ続いていた。


⸻


⸻


 正月二十八日。


 美濃国、青野原。


 雪はなかった。


 その代わり、凍った土が馬の蹄で割れ、黒い泥を覗かせていた。


 長い坂を上り切ったところで、先頭が止まった。


 次に、その後ろが止まる。


 止まったという声が、波のように後方へ伝わってきた。


⸻


「着いた?」


「違う」


⸻


 モモが坂の上を見た。


⸻


「待ってた」


⸻


 シンたちも丘へ上がった。


 平野があった。


 広かった。


 そして、その広さを埋めるように旗が立っていた。


 黒。


 赤。


 白。


 風に鳴る旗の下で、槍が冬の日を返している。


 陣火の煙が幾筋も上がり、その向こうにも、まだ兵がいた。


⸻


「あの旗」


⸻


 シンにも、一つだけ分かった。


 利根川の向こうにあった上杉の旗。


 逃げたまま消えたのではない。


 兵を集め直し、ここまで追ってきた。


⸻


「今川。上杉。桃井……それに土岐」


⸻


 国継が低く言った。


⸻


「ずいぶん集めたな」


⸻


 白馬が前へ出た。


 白と金の花が、冬の平野へ咲く。


 顕家は敵陣を見渡した。


 怯まなかった。


 むしろ、笑った。


⸻


「よい!」


⸻


 声が平野へ飛ぶ。


⸻


「これほど集まったなら、探して回る手間が省けた!」


⸻


 奥州の兵たちが顔を上げる。


 疲れていた者まで、槍を立てた。


 顕家は馬上で風を受け、敵の旗、地面、川筋、陽の傾きを順に見た。


 その目はもう、戦の中にいる。


⸻


「行朝は左。宗広は親王殿下の守りを固めよ。国継、前へ来い。敵の右は厚い。だが、足元が悪い。あそこから崩す」


⸻


 迷いがない。


 誰かに教えられる前から、答えを持っている。


 顕家の肩が、ごく僅かに揺れた。


 モモが息を止めた。


⸻


「今、来た」


「同じ答え?」


「うん」


⸻


 神託は、また顕家の後から来た。


 なのに顕家は、天に自分の答えを認められたように笑っていた。


 その笑顔へ、兵たちの歓声が重なる。


 軍は大きくなった。


 旗も増えた。


 だが、走湯山を出た朝にあった足音のいくつかは、ここまで届かなかった。


⸻


「勝てるか?」


⸻


 シンは聞いた。


 モモは顕家を見た。


 白と金の花将軍は、もう次の命令を飛ばしている。


⸻


「……勝つ」


⸻


 モモは答えた。


 そして、敵の旗よりも遠い西を見た。


⸻


「でも、京にはいけない……」


⸻


 青野原の向こうで、陣太鼓が鳴った。


⸻


(第百三十六話へ)


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