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湯煙と静かな夜

第百三十四話 湯煙と静かな夜


⸻


 延元三年/建武五年、一月。


 伊豆国、走湯山。


 冬の海風は冷たかった。


 甲冑の隙間へ入り込み、鎌倉から引きずってきた疲れを、骨の奥まで冷やしていく。


⸻


 その山腹から、湯が走っていた。


 岩の割れ目から白い湯気を噴き、熱い流れが幾筋にも分かれて海へ落ちている。


 岩棚には大小の湯溜まりが連なっていた。


 上は熱い。


 下へ行くほど沢の水が混じり、ぬるくなる。


 十人、二十人と入ってもまだ余る。


 浅い場所なら、傷を濡らせない兵でも脚だけ沈められた。


⸻


「……温泉」


⸻


 シンの足が止まった。


 次の瞬間、重かった身体が別人のように起きる。


⸻


「温泉だッッ!」


⸻


 白馬の上で顕家が肩を跳ねさせた。


⸻


「分かっている! 目の前にある!」


「今日はここ! 絶対ここ!」


「なぜお前が決める!」


「見ろよ! あれなら全員入れる!」


⸻


 顕家も湯気の向こうを見た。


 包帯を巻いた者。


 足を引きずる者。


 寒さに唇を紫にした者。


 そして、湯を見た途端に明らかに元気になった奥州武士たち。


⸻


「……今夜は、ここに陣を置く」


⸻


 地鳴りのような歓声が上がった。


⸻


「傷の深い者を先にしろ! 熱さは必ず確かめよ! 傷口まで湯へ突っ込むな!」


「御意!」


⸻


 兵が一斉に動き出す。


 顕家は馬を降りたが、湯へは向かわなかった。


 国継を呼び、見張りと野営地を決め始める。


 シンが振り返った。


⸻


「顕家は入らないのか?」


「私は大将だ。先に兵を休ませる」


⸻


 言い切った。


 目だけが湯気を追った。


⸻


「六度目だね」


⸻


 小萩が横から言った。


⸻


「何がだ」


「湯を見たのがさ」


「兵を見ている!」


「そうかい」


⸻


 言いつつ顕家は、七度目の視線を湯に向けていた。


⸻


⸻


 待つ必要などなかった。


 着いた者から、温度の合う湯へ散っていった。


 深手の者には仲間がつき、傷を岩へ出したまま身体を温める。


 冷えた脚へ血が戻る。


 固まっていた肩が落ちる。


 肩を射られた若い兵は、包帯を岩へ出したまま湯へ沈み、やがて隣の兵へ笑った。


⸻


「生きてるなあ」


「今さら気づいたか」


⸻


 岸の顕家も少し笑った。


 最初に出たのは、呻き声だった。


 次に、笑い声。


 その次には――


⸻


「どけ! そこは俺の湯だ!」


「湯にお前の家紋でも彫ってあるのか!」


「先に入った者の領地よ!」


「ここは我が所領だ!」


⸻


 もう喧嘩である。


 いや、全員笑っていた。


 誰が一番熱い湯へ長く入れるか。


 誰が一番遠くまで湯を飛ばせるか。


 伊達と結城の兵は、なぜか陸奥の雪の深さで張り合い始めた。


 そのうち伊達行朝と結城宗広まで、上の熱い湯へ移った。


⸻


「先に出た方が負けだ」


「望むところ」


⸻


 二人とも汗だくだった。


⸻


「お二方。鎌倉を落として、湯で討死なさるおつもりか」


⸻


 国継に止められ、二人は同時に立ち上がった。


⸻


 その隣では、歌まで始まった。


 音程はひどかった。


 人数だけ増えた。


⸻


「うるせえ!」


「お前も歌え!」


「歌えるか!」


⸻


 シンは首まで湯へ沈んでいた。


 右から湯が飛んでくる。


 左から誰かの脚が伸びてくる。


 後ろでは裸の武士二人が組み合いを始めた。


⸻


(……くつろげない)


⸻


 湯は最高だった。


 客が最悪だった。


⸻


「シン」


⸻


 タダが呼んだ。


 湯の中央に、岩のように座っている。


 その周りで三人の兵が肩を押していた。


⸻


「何してるんだ?」


「タダを動かせたら、酒一杯だと」


「誰が始めたんだよ、その遊び!」


「分からない」


「お前も参加してるのかよ!」


⸻


 三人が声を合わせた。


⸻


「せーの!」


⸻


 タダは一寸も動かなかった。


 代わりに三人が滑り、まとめて湯へ沈んだ。


 大きな水柱が上がる。


⸻


「勝った」


「一体何の勝負なんだっ!」


⸻


 浜じゅうが笑った。


 岸では顕家が呆れた顔で見ている。


 兵が気づいて手を振った。


⸻


「殿も入りませ!」


「今なら場所が空いておりますぞ!」


「大将が、この騒ぎの中へ入れるか!」


「怖いのでござるか!」


「誰が怖いものか!」


⸻


 また笑いが起きた。


 顕家の頬が赤くなる。


 小萩は何も言わず、その顔を見ていた。


 モモも隣で湯を見ている。


⸻


 シンはとうとう湯から上がった。


⸻


「夜、もう一回来る」


「夜?」


「静かになってから。今度こそ温泉に入る」


⸻


 モモは少し考えた。


⸻


「りょ。」


⸻


⸻


 日が海へ沈む頃、浜に火が並んだ。


 焼いた魚。


 粥。


 干し肉を煮た汁。


 湯上がりの兵は髪からまだ湯気を立てている。


 昼より声は低くなったが、笑いは絶えなかった。


⸻


 土地の女が、火の端で古い歌を口ずさんだ。


 湯の神へ捧げる歌だという。


 波に半分さらわれるような、細い節だった。


 その続きを、小萩が何気なく拾った。


⸻


 声が変わった。


⸻


 いつもの、顕家を叱り飛ばす声ではない。


 低く澄み、火と火の間を一本の糸のように抜けていく。


 小萩は椀を置いた。


 一歩。


 爪先を流す。


 袖を返す。


 たったそれだけで、砂浜が舞台になった。


 老いた背が伸びる。


 指先まで、別の人間のように整っていた。


 笑っていた兵たちも、いつしか黙っていた。


⸻


「小萩」


⸻


 顕家が箸を止めた。


⸻


「お前、舞えたのか」


「私は白拍子だったんだよ」


⸻


 今度は周りが固まった。


⸻


「初耳だぞ!」


「言ってないからね」


「いつの話だ!」


「ずいぶん昔さ。十一か十二の頃、鎌倉で白拍子の女たちに預けられてね。初めは掃除と薪運び。舞わせてもらえたのは、その後だよ」


⸻


 小萩は肩をすくめた。


⸻


「歌と舞だけじゃない。歩き方も、座り方も、文の読み方も教わった。人の顔をじろじろ見ずに、何を考えてるか見ることもね」


「それで私の考えまで読むのか」


「あんたは顔に出過ぎるんだよ」


「出ておらぬ!」


「昼に湯を七回見てた」


「それはもうよい!」


⸻


 笑いが戻る。


⸻


「それから、ずっと鎌倉に?」


「まさか。白拍子は流れ者さ。呼ばれりゃ御家人の屋敷へ行くし、縁があれば京へも行く。私も何人かの女に付いて西へ渡った」


「それで北畠へ?」


「京で姫君に舞と行儀を教えるようになってね。気づいた時には北畠の屋敷で、もっと面倒なのを育ててた」


「誰が面倒だ!」


「あんただよ」


⸻


 小萩は迷いなく言った。


 義良が身を乗り出した。


⸻


「その舞は、誰に習ったのだ?」


「何人もさ。年寄りから若いのへ、若いのからまた次へ。白拍子なんて、散っては集まるものだからね」


⸻


 小萩は火へ枝を一本足した。


⸻


「古い話なら、いろいろ聞いたよ。昔、九郎判官義経さまには白拍子の恋人がいたとか。鎌倉で舞った女もいれば、義経さまを慕って奥州まで行った女もいたとかね」


「……名は?」


「さあねえ」


⸻


 小萩は首を傾げた。


⸻


「アサガオだかユウガオだったか……そんな花の名だった気もする。義経さまの恋人だったとも、ただ近くにいた女だったとも聞いたよ。どこまで本当かは、誰にも分からないさ」


⸻


 シンの箸が止まった。


⸻


(ユウガオ)


⸻


 夜に咲く花。


 強がって笑い、最後には自分で行く道を選んだ女。


 それだけで十分だった。


⸻


「その人の舞が残ってるのか?」


「さあ。百年以上も経てば、誰の足運びかなんて分かりゃしないよ」


⸻


 小萩は笑った。


⸻


「ただ、年寄り連中はよく言ってた。白拍子は呼ばれて舞う。けど、どこへ行くかまで人に決めさせるな、ってね」


⸻


 シンは火を見た。


 あの女が最後に選んだものを思い出す。


⸻


『アタシは、アンタを選んだ』


⸻


 それ以上は、追わなかった。


 名が残ったのか。


 言葉が残ったのか。


 別の誰かが、似たことを言っただけなのか。


 分からない。


 でも、どこかで誰かが生きた痕は、こうして形を変えることがある。


⸻


 モモが、シンの袖を一度だけ摘んだ。


⸻


「……前の?」


⸻


 周りへ届かないほど小さな声だった。


⸻


「……うん」


「りょ。」


⸻


 それだけだった。


⸻


「で」


⸻


 小萩が顕家を見る。


⸻


「あんたの立ち方にも、私の仕込みが入ってるんだよ」


「何?」


「人前じゃ胸を張れ。足を止めたら半歩開け。袖は慌てて振るな。小さい頃から教えただろう」


「あれは大将の威厳だ!」


「元は白拍子の見栄えをよくする立ち方さ」


⸻


 国継が頷いた。


⸻


「道理で殿は戦場でも目立ちますな」


「国継!」


⸻


 火の周りへ笑いが戻った。


 顕家も、最後には笑っていた。


⸻


⸻


 夜更け。


 兵たちの声が、ようやく遠くなった。


 小萩は天幕の中で、白い湯衣を一枚放った。


 顕家が慌てて受け取る。


⸻


「何だ、これは」


「湯衣だよ。行きたいんだろ」


「別に」


「十二回」


「……数えていたのか」


「十三回目を見に行っといで」


⸻


 顕家は湯衣を抱えたまま黙った。


 もう人の目はない。


 肩から少しだけ力が抜ける。


⸻


「……小萩」


「何だい、ヒカル」


「シン、いるかな」


「夜にもう一度入るって言ってたね」


⸻


 ヒカルの耳が赤くなった。


⸻


「別に、気にしているわけではない」


「何も言ってないよ」


「顔がそう言っておる」


「そりゃ、わざと顔に出してるからね」


⸻


 ヒカルは小さく唸り、湯衣を抱えて天幕を出た。


⸻


⸻


 シンは一人で湯へ浸かっていた。


 海は黒い。


 星が波の上で砕ける。


 昼の怒号は、もうない。


 湯の音。


 波の音。


 遠い見張りの声。


⸻


(これだよ)


⸻


 岩へ背を預けた。


⸻


(これが温泉だ)


⸻


 足音がした。


⸻


「……シン」


⸻


 振り向く。


 湯気の向こうに、ヒカルが立っていた。


 薄手の白い湯衣。


 ほどいた黒髪。


 昼の白と金は、どこにもない。


 湯衣の前を両手で押さえ、少し困ったように立っている。


⸻


「……入っても、よいか」


「もちろん」


「では、その……少しだけ向こうを見ていてくれ」


「りょ。」


⸻


「それ、モモの真似か?」


「移った」


⸻


 ヒカルが少し笑った。


 シンは海を向く。


 衣擦れ。


 岩を踏む音。


 小さな水音。


⸻


「もうよい」


⸻


 振り向くと、ヒカルは肩まで湯へ沈んでいた。


 長い髪だけが、水面へ広がりそうになっている。


⸻


「髪を、持っていてもらえるか」


「いいけど」


⸻


 後ろから受け取る。


 見た目より重い。


 良い香りがする。


 濡れた髪が指の間を滑った。


 ヒカルがそれを頭の上で軽くまとめる。


⸻


「すまない」


⸻


 二人は岩一つ分を空けて並んだ。


⸻


「昼、入りたそうだったな」


「……見ていたのか」


「七回くらい」


「小萩と同じことを言うな」


⸻


 ヒカルは湯へ口元まで沈んだ。


⸻


「だが、皆があれほど笑っているのを見られたのは、よかった」


「お前も疲れてた?」


⸻


 少し考えてから、頷いた。


⸻


「……まあな。霊山を出てから、ずっと気を張っていた」


「お前も入ればよかったのに」


「無理だ。あれだけ男がいる中へ、私が入れるわけがなかろう」


「そこは普通なんだな」


「何だと思っていた」


⸻


 シンが笑う。


 ヒカルも、少しだけ口元を緩めた。


⸻


「小萩の舞、驚いた」


「私もだ。あんなふうに舞うところは初めて見た」


「昔から知ってるんじゃないの?」


「私が知っている小萩は、飯を食え、寝ろ、走るな、馬から降りろ、と言う小萩だ」


「全部正しいな」


「シンまで言わないで」


⸻


 シンが少し首を傾げた。


⸻


「……今、ちょっと喋り方違った?」


⸻


 ヒカルが固まる。


⸻


「誰もいないのだから、少しくらい気を抜いてもよいだろう!」


「そっか」


⸻


 ヒカルはむっとして、湯を少し掛けた。


 顕家のまま、ほんの少し肩の力が抜けていた。


⸻


「源義経公と白拍子の話」


⸻


 ヒカルが海を見たまま言った。


⸻


「シン、あの時ずいぶん驚いていたな」


「……ちょっと、知ってる名前だったんだ」


「同じ者か?」


「いや。たぶん違う。昔どこかで聞いたんだと思う」


⸻


 苦しい。


 だが、百年以上前の本人を知っているなどと言えるはずもない。


 ヒカルは少しだけシンを見た。


⸻


「そうか」


⸻


 それ以上は追わなかった。


⸻


「名というのは、妙な残り方をするものだな」


「そうだな」


「本人とは、まるで違う話になっているかもしれぬのに」


「……それでも、何かは残るのかもな」


⸻


 シンは、火のそばで聞いた古い噂を思い返した。


 夕顔。


 その名だけで十分だった。


⸻


 ヒカルは自分の指を見た。


⸻


「シン」


「ん?」


「以前、二人の時でも、この名では呼ぶなと言ったな」


「言われた」


「……今は、呼んでもよい」


⸻


 シンは少しだけ目を丸くした。


⸻


「ヒカル」


⸻


 黒い瞳が揺れる。


⸻


「……一度でよい」


⸻


 岩一つ分あった距離が、ほんの少し縮まった。


 湯の中で指先が触れる。


 どちらも、すぐには離さなかった。


⸻


「視線が過剰」


⸻


 すぐ横から、モモの声がした。


⸻


「……え?」


⸻


 シンとヒカルが同時に振り向く。


⸻


 モモがいた。


⸻


 いつの間に入ったのか分からない。


 さっきまで空いていたはずの隣の湯溜まりで、何事もなかったように肩まで浸かっている。


 しかも。


 黒髪。


 小袖。


 袴。


 帯。


 腰のフツ。


 全部、そのままだった。


⸻


「モモォ!?」


「うん」


「いつからそこにいる!?」


「今」


「今っていつだよ!」


「少し前」


「全然気づかなかったんだけど!」


⸻


 モモは首を傾げた。


⸻


「静かに入った」


「そういう問題か!?」


⸻


 ヒカルは慌てて湯へ顎まで沈んだ。


⸻


「……どこから聞いていた」


「ヒカル、の少し前」


⸻


 今度は耳まで沈んだ。


⸻


「忘れろ」


「不可」


⸻


 シンは頭を抱えた。


 そして、ようやくもっと大きな問題へ気づく。


⸻


「ていうか、お前!」


⸻


 モモを見る。


 袖が水面へ漂っている。


⸻


「なんで服着たまま入ってんだよ!」


「服を脱いでないから」


「いやそういう事ではなく!」


「警戒中」


「袴も?」


「うん」


「帯も?」


「うん」


「フツも?」


「外さない」


「足袋は?」


「履いてる」


「全部じゃねえか!」


⸻


 モモは袖を持ち上げた。


 湯を吸った布が、ずしりと垂れる。


⸻


「重い……」


「そりゃそうだよ!」


「でも動ける」


「何の確認なんだよ!」


⸻


 モモは一度立ち上がった。


 小袖も袴も完全に水を吸い、裾から湯を滴らせている。


 袖からも、ざばざばと湯が落ちた。


⸻


「お前、そのまま上がる気か?」


「うん」


「外、真冬だぞ!」


「焚き火がある」


「入る前に考えろ!」


⸻


 モモは少し考えた。


⸻


「次は脱ぐ?」


「普通は最初から脱ぐ!」


「検討する」


「検討事項じゃない!」


⸻


 隣で、ヒカルの肩が震え始めた。


 最初は堪えていた。


 だが、もう無理だった。


⸻


「……ふっ」


⸻


 小さな声が漏れる。


 次には、はっきり笑っていた。


 顕家の高笑いではない。


 肩を縮め、口元を押さえながら笑っている。


⸻


「ヒカルまで笑うなよ!」


「すまぬ……だが、これは……」


⸻


 また笑う。


 モモは首を傾げた。


⸻


「何?」


「お前だよ!」


⸻


 シンの声が、走湯山の夜へ飛んだ。


 モモは濡れた袖を浮かべたまま、何事もなかったように座り直した。


 ヒカルはまだ笑っている。


 海へ向かう湯だけが、三人の間を白く走り続けていた。


⸻


(第百三十五話へ)


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