一勝一敗
第百三十三話 一勝一敗
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延元二年、十二月二十三日の夜。
鎌倉の東では、もう矢音がしていた。
朝夷奈へ出た足利勢と、北畠軍の先触れが触れ始めている。
その音を遠くに聞きながら、足利義詮は木馬と斯波家長を交互に見ていた。
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「家長も持ってゆく」
「私は荷になります」
「自分で歩け」
「歩けますが、殿とは行く先が違います」
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義詮の眉が寄った。
旅装の上から抱いた木馬の脚が、家長の鎧へ当たる。
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「わたしは、海へ行くのだな」
「はい。材木座から小舟で南へ。三浦で馬と舟を替え、房総へ渡っていただきます」
「家長は」
「杉本へ」
「その後は」
「勝ってから参ります」
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義詮は、しばらく家長を見た。
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「嘘だ」
「もう少し迷っていただきたかったのですが」
「父上の文より下手だ」
「それは、かなり下手ということになります」
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家長は笑った。
義詮は笑わなかった。
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「父上には、家長を叱っていただく」
「何とお伝えになりますか」
「勝手に残った、と」
「では、叱られに戻らねばなりませんな」
「必ず戻れ……」
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家長の笑みが、ほんの少し止まった。
義詮の肩からずれた衣を直す。
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「殿には、逃げるという戦をしていただきます」
「逃げるのも戦か」
「追いつかれず、泣かず、木馬も落とさず、父君のもとへ帰る。私より難しい役目です」
「わたしは鎌倉の主だぞ」
「ゆえに、生きて鎌倉を取り返していただきます」
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義詮は木馬を抱き直した。
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「家長」
「はい」
「勝て」
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幼い主は、それだけを命じた。
家長は深く頭を下げた。
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「御意」
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門の外で、蹄へ布を巻いた馬が待っていた。
朝夷奈には空の輿。
稲村ヶ崎には義詮の名を預けた騎馬。
巨福呂坂には御所の旗を持つ一隊。
本物だけが旗も輿も捨て、滑川沿いの暗い道から材木座へ向かう。
そして杉本には、家長が残る。
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「四つとも、北畠へ見せろ」
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若い兵が尋ねる。
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「我らの退路は」
「用意していない」
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兵の顔が固まった。
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「残れとは命じぬ。若君の供へ回る者は、今のうちに行け」
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誰も動かなかった。
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「困ったな。私の兵は、命令を聞かない」
「執事殿に似たのでしょう」
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小さな笑いが起きた。
家長は兜の緒を締める。
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「ならば、若君が海へ出るまで、北畠顕家の一刻をここで奪うぞ」
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応、と声が重なった。
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二十四日の朝。
鎌倉東部、杉本を望む尾根で、北畠顕家は白馬の上に立ち上がりかけた。
伊佐国継が腰帯を掴んで引き戻す。
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「殿。馬の上ではお座りください」
「鎌倉から見えぬではないか!」
「見せるために来たのではございませぬ」
「勝つ私を見せに来たのだ!」
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北条時行が鎌倉の谷を指した。
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「あれが巨福呂坂。東が朝夷奈。海へ出るなら材木座です」
「私より鎌倉へ詳しい顔をするな」
「私の鎌倉です」
「今から私が取る!」
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三騎の使者が駆け込んだ。
朝夷奈から輿。
稲村ヶ崎から義詮の名を掲げた騎馬。
巨福呂坂から足利の旗。
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「三つとも偽物だ」
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顕家は即答した。
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「一つくらい本物を混ぜないのか?」
「お前なら混ぜるか」
「俺なら……混ぜる」
「シンの軍略は甘いな!」
「聞かれたから答えたのにっ!」
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顕家の軍扇が三つの道を切る。
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「行朝は朝夷奈。師行は稲村ヶ崎。時行は巨福呂坂へ。追うふりだけでよい」
「家長は」
「杉本だ。自らを餌に私を釘づけにするつもりであろう」
「分かっていて攻めるのか?」
「攻める!」
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顕家は笑った。
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「私を釘づけにするなら、釘ごと山を抜けばよい!」
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国継が大きく息を吐く。
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「シン、モモ。お前たちは滑川から材木座へ抜けろ。旗も輿もない、小さな一隊を探せ」
「俺たち二人で?」
「二人だからだ。モモは見つける。シンは、見つけた後に人へ伝える」
「俺の役目、急に普通だな」
「普通を確実にやれ!」
「見つけたら?」
「追うな。赤旗を三度振れ。先に知らせろ」
「俺が追いつくかも?」
「ない」
「即答!」
「正しい判断」
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モモまで頷いた。
シンは少しだけ不満だったが、二人だけで任された仕事なのは悪くなかった。
モモを見る。
モモもこちらを見た。
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「行く?」
「行こう」
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二人は同時に馬首を返した。
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「タダは私と正面だ」
「何をする」
「一番危ない所で、壁になれ!」
「壁?」
「お前がだ! 何か作れという意味ではないぞ!」
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タダは首を傾げた。
鬨の声が上がった。
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杉本城は、城というより山だった。
寺の屋根。
凍った坂。
土を盛った段と木の柵。
馬が二頭並べば、どちらかが谷へ落ちる。
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「また山が城を名乗っておるな!」
「霊山と同じでしょう」
「私の霊山はもっと美しい!」
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国継が返した直後、矢が降った。
奥州勢が一度下がる。
山上で鐘が鳴った。
右。
左。
次は背後。
兵の顔がそのたび動く。
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「援軍ではない! 家長が鳴らしているのは、こちらの首を振らせる音だ!」
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顕家が軍扇を払った。
北条の旧臣が寺道へ入り、信夫と下山の兵が左右へ散る。
正面ではタダが、外れかけた門板を両腕で持ち上げた。
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「タダ! それは門だぞ!」
「壁だ」
「だから比喩だと言ったであろう!」
「大きい。安心」
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矢を生やした門が坂を上がった。
その陰を奥州武者が進む。
柵へ着くと、タダは門を横に振った。
柵が折れた。
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「門で門を破ったぞ……」
「……勝ったのだからよい!」
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顕家が隙間へ入る。
抜いた先に家長はいない。
空の陣幕。
さらに上へ続く細道だけがあった。
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上段で家長は門の砕ける音を聞いていた。
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「大男が、門板を使って柵を破りました!」
「門だと」
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家長は坂の下を見た。
矢を生やした門が、まだ動いている。
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「奥州には、面白い者がいるな」
「感心している場合ではありませぬ!」
「困惑するより良い」
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三つの偽の一隊へ、北畠方の追手が食いついた。
だが、どれも少ない。
主力は杉本から動かない。
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「三つとも追いながら、三つとも信じなかったか」
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家長は笑った。
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「次の柵を開けろ」
「開けるのですか?」
「止まって調べれば一刻。止まらず入れば、上の丸太を落とす」
「それも破られたら」
「次を考える」
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家長はもう坂の下を見ていた。
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「さて。北畠殿、どうする」
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顕家は開いた柵の上に、伐ったばかりの丸太を見つけた。
細い縄が木々の間へ消えている。
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「タダ。その門を前へ出せ」
「おれは?」
「お前もだ!」
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門板を掲げたタダだけが、先へ進む。
縄が切られた。
丸太が一斉に落ち、門板へぶつかる。
門ごとタダを三歩ほど押し戻した。
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「タダ!」
「重い」
「お前ならまだ持てる!」
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タダが門を持ち上げ直す。
奥州勢から笑いとも鬨ともつかない声が上がった。
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「罠は使わせた! 上がれ!」
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兵が丸太を踏み越えた。
家長は一つの柵と引き換えに一刻を買い、道を捨てて次の道へ移る。
勝つ気はない。
ただ、顕家の判断を走らせ続ける。
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昼すぎ。
三つの囮に、義詮はいなかった。
朝夷奈の輿。
稲村ヶ崎の騎馬。
巨福呂坂の旗。
散った奥州勢が、再び杉本へ戻り始める。
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「本物は海だ」
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顕家は杉本の頂を見上げた。
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「シンとモモの合図は」
「まだありません」
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顕家の笑みが消えた。
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その頃、シンとモモは材木座へ続く低い道を走っていた。
海の匂い。
煙。
遠くの鐘。
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「いた」
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モモが足を止めた。
木立の向こうを、十騎ほどの一隊が抜けていく。
旗も輿もない。
中央の小さな影だけが、旅装の胸に木馬を抱いていた。
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「あれが義詮か」
「間違いない。合図」
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赤旗を味方へ見せるには、道脇の岩場へ上がる必要がある。
シンが向きを変えた。
その時、すぐ下の家で梁が折れた。
戦火が軒へ移り、戸口を塞ぐ。
中から子供の泣き声がした。
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「助けて!」
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モモが岩場と燃える家を見た。
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「岩場まで十二息。梁が落ちるまで六」
「両方は?」
「一人なら無理」
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シンがモモを見る。
モモも、もうシンを見ていた。
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「じゃあ、二人でやる」
「りょ。」
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迷う時間は、それで終わった。
二人は同時に坂を滑り降りた。
シンが梁へ肩を入れる。
モモがフツを鞘ごと隙間へ差し込み、梃子にする。
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「せーの!」
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梁が浮いた。
母親が這い出る。
その腕に一人。
奥に、もう一人。
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「シン、持てる?」
「持つ!」
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シンが梁を背中で支える。
熱い。
重い。
腕ではなく、足から潰れそうになる。
モモはフツを深く噛ませ、梁とシンを一度ずつ見た。
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「三息、持つ」
「それだけ!?」
「四息」
「増えた!」
「シンなら持つ」
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一瞬だけ、シンの力が戻った。
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「そういうの、先に言え!」
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モモが赤旗を掴み、岩場へ駆けた。
シンは歯を食いしばり、母親と子を外へ押し出す。
まだ奥から泣き声。
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「もう一人いる!」
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梁が沈む。
その時、岩の上で赤旗が上がった。
一度。
二度。
三度。
尾根の向こうで鏑矢が応えた。
モモは旗を放り、すぐに戻ってきた。
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「交代」
「助かる!」
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二人で梁を持ち上げる。
シンが腕を伸ばし、最後の子を引き寄せた。
モモがその身体を受け取る。
シンの手とモモの手が、子供の背中の上で一瞬重なった。
最後の子を抱えたまま、シンとモモも外へ転がった。
屋根が落ちた。
火の粉が背中へ降った。
シンの袖へ小さな火がつく。
モモが素手で叩き消した。
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「熱くないのか?」
「熱い」
「先に言え!」
「今、消した」
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泣いていた子供が、そのやり取りを見て少しだけ笑った。
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「走れるか!」
「はい……!」
「北畠の陣まで! 小萩って怖い婆さんを探せ!」
「ひどい説明」
「会えば分かる!」
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母子を送り出し、シンとモモは顔を見合わせた。
煤だらけだった。
モモの頬にも黒い筋が一本ついている。
シンが指で示すと、モモは自分ではなくシンの頬を袖で拭いた。
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「俺じゃなくて、お前」
「シンの方が汚い」
「今それ競うところじゃないだろ」
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遠くで鏑矢がもう一度鳴った。
二人の顔が同時に戻る。
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「追うぞ」
「うん」
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二人は同時に走り出した。
合図は届いた。
だが主力は杉本に縫い止められている。
家長が作った三つの偽装と、山の罠と、道を塞ぐ小細工が、すでに何刻もの差を作っていた。
シンとモモが取り戻せるのは、その最後のわずかな時間だけだった。
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最初の角には倒れた松。
次の谷では橋板が外され、その先には尖った竹。
二人は松を越え、板を渡し、竹を蹴り払う。
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「しつこい!」
「有効な策」
「褒めるな!」
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騎馬が追いつき、二人を拾った。
浜へ出た時、小舟はもう岸を離れていた。
船尾に、木馬を抱いた小さな影が見える。
さらに沖には、南へ向かう舟影。
義詮は材木座から三浦へ抜け、そこで待つ馬と次の舟を継ぐ。
家長が何日もかけて作った逃げ道だった。
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「追える?」
「今から舟を出しても無理」
「泳げば」
「死ぬ」
「だよな」
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シンは膝へ手をついた。
モモも白い帆を見ている。
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「俺たち、間に合わなかった」
「合図は間に合った」
「でも義詮は」
「家長が、先に時間を奪ってた」
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モモはシンを見る。
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「私たちは、人を選んだ」
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シンは少しだけ黙った。
任務を捨てたわけではない。
モモが合図を上げ、シンが家族を引き出した。
一人なら、どちらかしかできなかった。
二人だったから、両方へ手を伸ばせた。
それでも義詮には届かなかった。
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「悔しいな」
「うん」
「でも、あの子は生きた」
「うん」
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今度はシンも頷いた。
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二十五日の朝。
杉本の山に残る旗は、数えるほどになっていた。
柵は割れ、矢は尽き、霜と泥が血に混じっている。
それでも家長は、最後の門の前に立っていた。
兜はない。
左袖は血で重い。
背後の兵は、十人にも満たない。
坂の下から、白と金が上がってくる。
北畠顕家。
初めて見る顔だった。
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「北畠顕家卿ですな」
「なぜ私だと分かった」
「一番、戦場で目立つ方を探しました」
「利根川では隠したぞ」
「隠しても、目立っておられたのでしょう」
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顕家の眉が上がる。
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「お前、死にかけてまで私を喜ばせるな」
「光栄です」
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沖に、白い帆が小さく見えた。
家長がそれを見る。
肩から力が抜けた。
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「間に合いました」
「ああ。義詮は三浦へ抜けた。今からでは追いつけぬ」
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顕家は軍扇を閉じた。
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「家長。私に降れ」
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家長が意外そうに瞬く。
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「敵将をお召し抱えになりますか」
「才ある者を拾うのも私の務めだ。十七で死なせるには惜しい」
「魅力的なお誘いです」
「であろう!」
「ですが、私の主は、あの舟の先におります」
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家長は刀を構えた。
腕は震え、息も浅い。
それでも足は退かなかった。
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「城は私が取る」
「はい。私の負けです」
「義詮は逃げた」
「はい。私の勝ちです」
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顕家は歯を見せた。
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「図々しいな、お前は!」
「敵将に似たのでしょう」
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一瞬の沈黙。
顕家が高らかに笑った。
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「よかろう、斯波家長! 最後の一手、受けてやる!」
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家長が駆けた。
残った兵も続く。
長い戦いにはならなかった。
家長は一本目の槍を斬り、二本目を肩で受けた。
三本目が脇腹へ入っても、なお二歩進む。
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「殺すな! 生け捕れ!」
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顕家の声より、戦場が一瞬早かった。
家長の刀が落ちる。
顕家が駆け寄った。
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「家長!」
「殿は……」
「逃げた。お前の勝ちだ」
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かすかな笑みが浮かぶ。
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「では……勝ち逃げを、お許しください」
「許さん。私は負けず嫌いだ」
「存じて……おります」
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それが最後だった。
顕家は鎧へ括っていた黒布を外した。
利根川で白と金を隠した布だった。
家長の身体へ掛ける。
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「敵ながら、見事であった」
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国継が兜を脱ぐ。
奥州の将たちもそれに倣った。
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「我らは鎌倉を取った。家長は義詮の明日を取った。この者を、ただの敗将にするな」
「御意」
「名を記せ。具足を奪うな。礼をもって弔え」
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顕家は家長の刀を拾い、黒布の上へ置いた。
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「この若さで、これほど私を止めたか」
「殿。年で張り合う場面ではありませぬ」
「張り合っておらぬ。悔しがっているのだ」
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昼前、シンとモモが杉本へ戻った。
二人とも煤だらけだった。
赤旗の端が焼けている。
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「合図は見た」
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顕家が言った。
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「でも、逃がした」
「俺が途中で人を助けた。モモも一緒に」
「合図は私が出した。シンが梁を支えた。最後は二人で助けた」
「そこまで細かく言わなくていいだろ……」
「大事」
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シンがモモを見る。
モモは顕家だけを見ていた。
責められるなら、二人で受ける顔だった。
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顕家は二人の後ろを見た。
坂の下で、助けた母子が小萩から水を受け取っている。
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「義詮を逃がしたのは、お前たちではない」
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黒布の下の家長を見る。
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「こいつだ。何日もかけて、我らの時間を盗んだ」
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シンは黙った。
顕家は軍扇を開く。
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「話は後だ。今は鎌倉の火を消せ!」
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軍扇が町へ向いた。
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「略奪を止めろ! 敵味方を問わず、動けぬ者を運べ! 勝った者から働け!」
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奥州勢が山を下り始めた。
時行が取り戻した鎌倉を見下ろす。
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「鎌倉は、取れました」
「当然だ!」
「義詮は逃げました」
「それを今、言うな!」
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国継が小さく笑った。
顕家だけは笑わなかった。
黒布の下の若い敵将へ、もう一度目を向ける。
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「これで一勝一敗だ、家長」
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返事はない。
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「……次がないことだけが、気に入らぬ」
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白と金の花は、敵へ頭を下げた。
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