戦場の若武者たち
第百三十二話 戦場の若者たち
⸻
延元二年、十二月十三日。
夜の利根川で、北畠顕家が消えた。
顕家は、白と金の甲冑ごと頭から黒布に包まれていた。
白馬にも黒布が掛けられ、金の飾りを絡めた髪も、いつもの白と金も、どこにも見えない。
どこから見ても、荷物を背負った怪しい騎馬だった。
⸻
「……暑い」
「冬だぞ?」
「私は暑いのだ!」
「声が大きいっ」
「誰のために、この美しい姿を隠していると思っている!」
「敵に見つからないため」
「分かっておる!」
⸻
モモは布の隙間から出かけた顕家の髪を押し戻した。
伊佐国継が、濡れた馬で戻ってくる。
⸻
「川上は」
「結城宗広殿が舟を繋いでおります。先頭は伊達行朝殿。敵が動かねば、そのまま渡ると」
「よし。川下は」
「南部師行殿が、馬の腹まで入って浅瀬を測っております。信夫勢も弓を持って回りました」
「下山勢は中央で声を上げさせろ。敵には、どこも本気に見せるのだ」
⸻
シンが黒布の塊を見た。
⸻
「それで、どこが囮なんだ?」
「敵が止めたところだ」
「本当に渡るのは?」
「敵が止められなかったところだ!」
「決めてないのか……」
「戦の半分くらいは、敵にも選ばせてやればよい。選んだ後で、間違いだったと教えてやる!」
⸻
国継は何も言わなかった。
言っても止まらない時の顔だった。
⸻
⸻
南岸では、上杉憲顕が鎌倉から届いた文を開いていた。
斯波家長の字は短い。
⸻
『旗を追わず、花を探してください』
⸻
その下に、もう一行。
⸻
『北畠軍は、顕家本人がいる場所から動きます』
⸻
川上には、結城と伊達の舟。
川下には、南部の騎馬。
だが、白と金はどちらにもいない。
⸻
「また、よく見ている」
「家長殿が、ですか」
「両方だ」
⸻
憲顕は控えの騎馬を中央に残した。
白と金が咲いた場所へ、まとめて叩きつける。
家長は、顕家の軍ではなく、顕家そのものを狙っていた。
⸻
⸻
夜明け前、川上の舟が岸を離れた。
最初の矢が、舳先へ刺さる。
⸻
「横を向けるな! 流れに腹を見せれば、敵より先に川に負けるぞ!」
⸻
結城宗広の声が飛ぶ。
伊達行朝は立ったまま、舟の縁へ盾を並べさせた。
川下でも、南部師行の騎馬が水へ入る。
馬首を流れへ斜めに向け、川底を探りながら進む。
信夫の弓兵が、その後ろから矢を返した。
それでも、足利方の控えは動かない。
⸻
「食いつかない」
モモが言った。
「私を待っているのだ」
⸻
顕家は黒布のまま、南部の先陣に紛れていた。
家長は正しく読んでいる。
この大軍は、顕家の一声で向きを変える。
ならば、その声を射落とせばよい。
だから顕家は、自分を消した。
⸻
「殿。ここからは私が前へ」
「断る」
「姿を見せた瞬間、矢が集まります」
「だから、見せる場所を選びに来たのだ」
⸻
国継の返事より早く、矢が飛んだ。
水へ落ちる。
馬の首へ立つ。
黒布の端を裂く。
その横で、タダが馬を降りた。
いや、初めから乗っていない。
腰へ太い綱を巻き、胸まで冷たい水に浸かって、対岸へ歩いていた。
⸻
「おい、タダ! 何してる! 流されるぞ!」
「綱を渡す」
「人間がやる仕事じゃないだろ!」
「おれは人間だ」
「いや知ってるけども!」
⸻
タダの頭が、波の向こうへ一度消えた。
シンは反射的に綱へ飛びついた。
モモが、その手首を掴む。
⸻
「シンも危険」
「沈んだぞ!」
「引けば、身体が横を向く。流される」
「じゃあ、どうする!」
「待つ」
⸻
すぐに、大きな背が水を割った。
タダは片腕で流された兵を抱え、もう片方の手で綱を握っていた。
兵を近くの馬へ押し上げると、何事もなかったように歩き出す。
⸻
「……本当に人か?」
「タダだから」
「それで全部を説明するなよ!」
⸻
綱が対岸の杭へ届いた。
南部の騎馬が、その綱を頼りに流れを越える。
中央に残っていた足利の馬首が、わずかに川下へ傾いた。
顕家の軍扇が、黒布の下で上がる。
⸻
「行朝! 今だ! 舟を岸へつけろ!」
⸻
その命令の後だった。
⸻
『今だ』
⸻
神託を聞いたのは顕家だけだった。
そして周囲で、その神託が顕家の判断へ遅れて重なったと気づいたのは、モモだけだった。
腰のフツが、鞘の中で微かに震える。
顕家の目が、一瞬だけ見開かれた。
次の瞬間、黒布を引きちぎる。
冬の川のただ中に、白と金の花が咲いた。
⸻
「鎮守府大将軍! 北畠顕家である!」
⸻
足利方の控えが、川下へ走り出した。
その時にはもう、川上の舟が南岸へ届いていた。
伊達行朝が真っ先に水へ飛び降り、結城宗広が舟を横へ繋ぐ。
重ねた盾の陰から、次の兵が岸へ上がった。
川下では南部師行が馬を駆け上がらせる。
信夫と下山の兵が、岸へ矢を重ねた。
国継は先を急ぐ騎馬を怒鳴りつけ、狭い浅瀬へ兵が固まるのを防いだ。
タダが杭を一本、肩で押し倒す。
モモのフツが、岸際に張られた縄だけを斬る。
シンが赤旗を上げた。
南岸を取った合図だった。
⸻
「全軍、渡れ!」
⸻
顕家が軍扇を振り下ろす。
⸻
「足利方へ教えてやれ! 花は、咲く場所まで自分で決めるとな!」
⸻
鬨の声が、利根川を押し渡った。
憲顕は川上と川下を見た。
一方だけなら、まだ押し返せた。
だが今は、どちらを向いても奥州の旗がある。
⸻
「川は渡られた。兵までくれてやるな。退くぞ」
⸻
上杉勢は崩れずに退いた。
顕家も追わせず、伊達の舟へ敵味方の負傷者を乗せ、その舟で次の兵を渡した。
結城宗広は最後の舟が着くまで、岸を離れなかった。
濡れた白馬の上で、顕家は高らかに笑った。
⸻
「はーっはっはっはっ! やはり声は正しかった! 私を勝利へ導いたぞ!」
⸻
誰も、顕家と同じ声は聞いていない。
モモだけが、フツの柄へ触れた。
だが軍を動かしたのは、声ではない。
顕家の意思だった。
⸻
⸻
利根川敗退の使者が鎌倉へ着いた時、斯波家長は勝敗を聞かなかった。
⸻
「白と金は、どこに現れた」
「川下にございます。南部勢の先陣に紛れ、すでに川の半ばまで」
「現れた後、川上が渡ったのか」
「ほぼ同時に」
⸻
家長は目を閉じた。
足利義詮が、木馬を抱いて向かいに座っている。
⸻
「負けたのか」
「一手、読まれました」
「同じことではないのか」
「まだ、違います」
⸻
家長は絵図を広げた。
鎌倉から三浦へ抜ける道。
浜へ集める舟。
途中で替える馬。
義詮を逃がすための支度は、まだ揃っていない。
⸻
「殿が今お発ちになれば、鎌倉を守る兵も散ります。北畠は私など見ず、殿だけを追うでしょう」
「では、わたしは残るのか」
「逃げ切れる道ができるまで」
「その間、家長は北畠を止めるのか」
⸻
家長は首を振った。
⸻
「止まりません。あれほどの軍を、私一人では止められませぬ」
「ならば、どうする」
「私と戦わせます」
⸻
家長は利根川の南へ筆を走らせた。
安保原。
その先の橋。
武蔵府中。
⸻
「殿を追う暇がなくなるほど、道の上へ私の策を置きます。私が勝つ必要はございません」
「負けてもよいのか」
「殿が逃げ切れば、私の勝ちです」
⸻
義詮は、しばらく家長を見た。
⸻
「北畠は、家長の顔を知っておるのか」
「いいえ」
「顔も知らぬ相手と、戦えるのか」
「次に何をするか分かれば、顔は要りません」
⸻
家長は新しい文を書いた。
安保原の中央を空ける。
左右の林へ兵を伏せる。
退く時は、次の命令書を道へ捨てる。
⸻
「敵へ命令を渡すのか」
「読ませるための命令です」
「偽物か」
「本物です」
「本物で、どう騙す」
⸻
家長が、少しだけ笑った。
⸻
「北畠は、文より自分の読みを信じます」
「それも家長の思う通りなのか」
「そこまでは」
⸻
筆が、楽しそうに走った。
⸻
「ですから、面白いのです」
⸻
⸻
三日後。
安保原の道は、真ん中だけが不自然に空いていた。
左右には林。
風があるのに、鳥の声がない。
⸻
「私なら、真ん中を抜ける」
顕家が言った。
「だから、あの男も空けた」
「罠だな」
「分かりやすくてよい!」
⸻
米俵に見せた石積みの荷車が、中央へ走り込んだ。
林から足利勢が飛び出す。
覆いが裂け、石が転がる。
軽くなった馬が左右へ逃げ、空いた道を伊達行朝が駆け抜けた。
信夫勢が左の林へ矢を送り、下山勢が右を押し返し、南部師行が退路へ回る。
結城宗広だけは本物の荷駄から動かなかった。
前と横と後ろが、一度に奥州の旗へ変わった。
足利勢は短く戦い、退いた。
追えば討てる退き方だった。
⸻
「追うな!」
⸻
顕家は逃げる敵ではなく、道へ落ちた矢筒を見ていた。
中には、一通だけ濡れていない文がある。
この先の橋を落とすな。
橋の向こうへ弓兵を置き、北畠軍が渡るところを射よ。
末尾の名を、国継が読む。
⸻
「斯波家長」
「これが、あの男か」
「鎌倉で義詮殿を支える若武者です。十七ほどと聞きます」
⸻
顕家の眉が上がった。
⸻
「私より若いのか!」
「そこですか」
「私より若くて、この私を読もうなどと生意気であろう!」
「殿も十分お若いです」
「私は完成されておる!」
⸻
シンは文を覗き込んだ。
⸻
「で、橋へ行くのか?」
「行く」
「罠だと書いてあるぞ」
「私が疑って回り道を選ぶ。その時間を、あの男は欲しがっている」
「本当に罠だったら?」
「踏み潰す!」
「結局それか!」
⸻
橋は、文の通り残っていた。
古い鎧を載せた馬を走らせると、対岸の山腹から矢が降った。
その間に南部勢が浅瀬を回り、伊達勢は盾を掲げて橋を駆け抜ける。
罠を破ったと思った時、最後尾の荷駄が橋へ入った。
上流から、火のついた柴束が流れてきた。
橋桁へ引っかかる。
あらかじめ詰められていた枯れ葦へ、火が走った。
先陣と荷駄の間で、橋が落ちた。
⸻
「あの文まで囮か!」
シンが叫ぶ。
「違う」
⸻
顕家は炎の向こうを睨んだ。
⸻
「あの男は、私が最初の罠を破るところまで読んでいたのだ」
⸻
家長は橋で勝つつもりではなかった。
軍を切り、止める。
それだけで、義詮の舟は一艘増える。
顕家は一度だけ歯を食いしばり、すぐに軍扇を上げた。
⸻
「橋は直すな! 先へ渡った者は、そのまま進め!」
「分かれたままですか」
「分けられたのなら、初めから分けたことにする!」
⸻
結城宗広は先陣をまとめ、伊達行朝を先へ走らせた。
南部師行は浅瀬を戻って荷駄を渡し、信夫と下山の兵が両岸から矢と声をつなぐ。
タダが焼けた橋板を引き上げ、モモが荷車を通せる深さを探した。
切られた軍は三つの列になり、また南へ動き出した。
⸻
「斯波家長!」
⸻
顕家が、燃える橋へ向かって叫んだ。
⸻
「一手はくれてやる! 次は私が、お前の先を行くぞ!」
⸻
⸻
その声が届くはずはない。
それでも鎌倉では、家長の筆が止まっていた。
⸻
「橋は燃えたか」
「はい。先陣と荷駄を分けました」
「北畠は止まったか」
「いいえ。分かれたまま、三方から南下しております」
⸻
義詮が、心配そうに顔を覗く。
⸻
「今度は勝ったのか」
「半分は」
「半分とは、勝ったのか、負けたのか」
「私が軍を切り、北畠が三つの軍へ作り直しました」
「それでは、前より増えておる」
⸻
家長は、思わず笑った。
⸻
「左様です。実に困ります」
「困っている顔ではないぞ」
「強い相手を弱いと思う方が、もっと困りますので」
⸻
家長は橋と林の印を消した。
見える罠は、もう同じようには踏まない。
ならば次は、道ではなく報せを塞ぐ。
⸻
⸻
武蔵府中へ入る頃には、奥州軍の旗はさらに増えていた。
上野で加わった新田の旗。
武蔵の在地武士。
そして、煤けた三つ鱗。
顕家の前へ進み出たのは、小さな鎧武者だった。
その後ろには、鎧も旗も揃わない武士たちがいる。
⸻
「名は」
「北条高時が嫡子、時行」
⸻
国継が、わずかに身構えた。
鎌倉幕府を滅ぼした帝の軍へ、鎌倉幕府の遺児が頭を下げている。
顕家は一度だけ時行を見て、すぐに笑った。
⸻
「鎌倉の道は分かるか」
「忘れた者から死にました」
「よかろう。ならば、我が軍へ加われ」
「加わります。ただし、鎌倉を取り返すのは北条です」
⸻
顕家の笑みが深くなった。
⸻
「面白い。取り返してから申せ!」
⸻
国継が、顕家へ顔を寄せた。
⸻
「殿。北条殿は、まだほんの童です」
⸻
顕家の笑みが止まった。
⸻
「……何?」
「中先代の乱の折にも、まだ幼かったと聞きます」
⸻
顕家は、改めて時行を見た。
煤けた兜の下にある顔は幼い。
鎧の方が先に育ってしまったようだった。
⸻
「家長が十七。私が二十。そこへ今度は童が鎌倉を取り返しに来たというのか!」
「一度は取りました」
⸻
時行が静かに言った。
顕家の眉が、さらに跳ねる。
⸻
「よかろう! 二度目は私が先に入る!」
「道は、私の方が知っています」
「ならば案内せよ! 最後に私が追い越す!」
⸻
「子供に何を張り合ってるんだよ」
シンが言った。
⸻
「幼くして鎌倉を取った者を、ただの子供と見る方が無礼であろう!」
⸻
時行の口元が、ほんの少し緩んだ。
国継は額を押さえた。
⸻
「殿が一番年上ですな」
「それを言うな!」
⸻
府中で軍は五日留まった。
だが、止まっていたのは足だけだった。
北条の旧臣は鎌倉へ続く古い道と、今も通じる家を探った。
伊達と南部の物見は東西へ走り、信夫の早足が報せを後ろへつないだ。
その網へ、三つの噂がかかった。
義詮は、すでに鎌倉を出た。
まだ鎌倉にいる。
今夜、密かに舟へ乗る。
⸻
「全部、家長だ」
⸻
顕家は三通の文を並べた。
朝夷奈。
稲村ヶ崎。
巨福呂坂。
どの道にも敵がいて、どの道にも隙があるという。
⸻
「一つを選べば、残る二つが気になる。全てを調べれば、その間に義詮は逃げる」
「待てば、向こうの勝ち」
モモが言った。
「だから、待たぬ」
⸻
顕家の指が、三つの道を順に叩いた。
⸻
「家長が守っているのは、鎌倉ではない。義詮が逃げるまでの時だ」
「どの道を追う?」
シンが聞いた。
「全部だ」
「軍をまた三つにするのか?」
「今度は、あの男が迷う番だ!」
⸻
北条の旧臣を三つの道へ放ち、その先から次の物見を走らせる。
結城宗広は義良の輿と荷駄を守り、伊達行朝と南部師行が両翼を洗う。
国継は増え続ける軍勢を組み直し、タダは遅れた荷駄を押し上げた。
そして顕家は、足利方へ漏れる三つの口へ、違う出立日を流した。
三日後。
二日後。
明朝。
⸻
「本当はどれだ?」
シンが聞いた。
「一番早い日だ!」
「それ、前にもお前がやっただろ」
「だからこそだ! 私なら一番早い日を疑う。あの男も同じなら、そこへ食いつく!」
⸻
顕家は立ち上がった。
⸻
「家長は、私が疑う時間を使う。ならば私は、あの男が考え終わる前に鎌倉へ着く!」
⸻
高笑いが、府中の夜へ響いた。
命令は、すでに走り出していた。
その背後へ、一瞬遅れて声が重なる。
⸻
『鎌倉へ』
⸻
顕家の睫毛が、わずかに動いた。
ほかの誰も、新たな神託が来たことには気づかない。
モモだけが、腰のフツへ手を置いた。
今度も、声が顕家を導いたのではない。
顕家の答えへ、声が後から追いついてきた。
⸻
⸻
翌朝。
山の切れ間に、海の色が見えた。
その手前に、鎌倉がある。
義良が輿の簾を上げた。
⸻
「顕家」
「はい、殿下」
「鎌倉まで、あと何日だ」
⸻
顕家は白馬の上で胸を張った。
軍扇が、冬の空を切る。
⸻
「明日です」
⸻
鬨の声が、鎌倉の山まで届いた。
⸻
⸻
同じ朝。
家長の前へ、三通の文が置かれた。
三日後。
二日後。
明朝。
家長は迷わず、一番早い文を取った。
⸻
「これが本物です」
「なぜ分かる」
⸻
義詮が木馬を抱え直す。
家長は、鎌倉の外へ伸びる道を見た。
舟は揃った。
替え馬もいる。
偽の輿は、もう別の門へ向かっている。
⸻
「私なら、そうするからです」
⸻
家長は立ち上がった。
鎧の緒を締める。
⸻
「殿」
⸻
深く頭を下げた。
⸻
「今夜、お発ちください」
⸻
二人は、まだ互いの顔を知らなかった。
だが、次の一手だけは、誰よりもよく知っていた。
⸻
(第百三十三話へ)




