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あと十日

第百三十一話 あと十日


⸻


 本物の奥州軍は、白河を越えた。


 白と金の甲冑が朝日に光り、その後ろから奥州の旗が次々と関を抜けてくる。


 馬蹄。


 草鞋。


 荷車。


 北から流れてきた一つの川が、そのまま南へ溢れ出したようだった。


 白馬の上で、顕家が軍扇を掲げる。


⸻


「見よ! ここより先は坂東だ!」


⸻


 兵たちの顔が上がった。


⸻


「鎌倉など十日である! 我らの速さを、坂東の者どもへ見せてやろうぞ!」


⸻


 鬨の声が、夏草を揺らした。


 顕家の後ろでは、義良が輿の簾から顔を出し、目を輝かせていた。


⸻


「十日で鎌倉へ着くのか」


「はい、殿下。この北畠顕家が先頭におりますゆえ!」


⸻


 顕家が胸を張ったところへ、伊佐国継が馬を寄せた。


⸻


「殿。後ろが、まだ関を越え終わっておりません」


⸻


 顕家が振り返る。


 旗は道を埋め、丘を曲がり、その先へ消えていた。


 最後尾は見えない。


⸻


「……壮大な軍勢である証だな!」


「先頭だけ進めば、壮大な軍勢が二つに切れます」


「切れてはおらぬ! 長いだけだ!」


「では、その長い軍勢が揃うまでお待ちください」


⸻


 軍扇が、ゆっくり下がった。


 隣でモモが後方を見ている。


⸻


「今日中は、無理」


「ええい、分かっておる!」


⸻


 義良が首を傾げた。


⸻


「では、鎌倉まで何日だ」


⸻


 顕家は一度だけ、見えない最後尾を見た。


⸻


「……十日です」


⸻


 今度の鬨の声は、少しだけ小さかった。


⸻


⸻


 南へ下り始めて三日。


 最初に悲鳴を上げたのは、兵でも馬でもなかった。


⸻


「尻が割れる……」


⸻


 シンだった。


⸻


「元から割れてる」


「そういう意味じゃない!」


⸻


 モモは馬上で、ほとんど揺れていない。


 シンだけが鞍の上で左右へ跳ねていた。


⸻


「あとどれくらい乗るんだ?」


「今日?」


「今日」


「今の速度なら、四刻と少し」


「距離で教えてくれ」


「聞いたら尻が治る?」


「治らない」


「なら、知らなくていい」


⸻


 前を歩くタダが振り返った。


 荷を背負い、その上に予備の弓まで括りつけ、片手で握り飯を食べている。


⸻


「タダは痛くないのか?」


「馬に乗ってない」


「俺も歩く!」


「遅れる」


「即答するなよ!」


⸻


 白馬の上から高笑いが飛んできた。


⸻


「はーっはっはっはっ! 何とも勇ましい近習だな!」


「お前も三日くらい俺の馬に乗ってみろ!」


「私が乗れば、その馬まで美しく走る!」


「尻の話をしてるんだよ!」


⸻


 小萩が顕家の横へ馬を寄せた。


⸻


「口が空いてるね」


「待て、小萩! 今は軍を鼓舞して――むぐぐっ」


⸻


 握り飯が押し込まれた。


 兵たちが笑う。


 顕家は頬を膨らませたまま、先頭を行った。


 その日の昼までは、確かに速かった。


⸻


⸻


 午後。


 道が、川の手前で消えた。


 正確には、橋が消えていた。


 両岸には太い橋杭だけが残り、外された橋板が数枚、濁った流れの中で上下している。


 舟もない。


 向こう岸には、人影も旗もなかった。


⸻


「回り道は?」


⸻


 シンが聞くと、国継は上流を指した。


⸻


「人と馬だけなら、浅瀬がある。荷車を入れれば、車輪も荷も流れる」


「橋を直すしかないのか」


「軍勢が渡れる橋をな」


⸻


 顕家は橋杭へ近づいた。


 切り口。


 残った縄。


 対岸の轍。


 一度見ただけで、顔が変わる。


⸻


「舟は下流へ移されている。橋板も、ただ流したのではない。使える物から運んだな」


「敵が?」


「我らをここで止めるためにだ」


⸻


 顕家はすぐに軍扇を振った。


⸻


「上流の浅瀬へ人馬を回せ! 斧を持つ者は残れ! 荷車を三列から一列へ組み直せ! 橋は両岸から同時に組め!」


⸻


 国継が命令を分けて走らせる。


 兵が縄を張り、近くの林から材を切り出した。


 タダは三人がかりの丸太を一人で持ち上げる。


⸻


「十分おかしいよな、あれ」


「タダだから」


⸻


 モモは、それで説明を終えた。


 橋が直るまでに、一日。


 次の川では舟が消えていた。


 その次の宿では、用意されているはずの馬草だけがなくなっていた。


 さらに先では、北畠軍は二日後に来ると聞かされた村人が、まだ何の支度もしていなかった。


⸻


「一つずつなら、よくあることです」


⸻


 国継が、届いた文と空の馬草置き場を見比べた。


⸻


「ですが、これは」


「同じ者だ」


⸻


 顕家が言った。


⸻


「橋を落とし、舟を動かし、馬草を断ち、偽りの日を流す。一気に止める気はない。一日ずつ、千の足から半歩ずつ奪っている」


「止めるのではなく、遅らせる」


⸻


 モモが付け足した。


⸻


「積み重なる」


「面白い」


⸻


 顕家の口元が上がった。


⸻


「敵に褒めるところがあると、すぐ楽しそうにするな」


「強い敵を弱いと思い込むより、百倍ましだ!」


「それはそうだけど」


⸻


 顕家は絵図の上へ指を置いた。


⸻


「ならば、止まった一日で二日先まで片づける! 橋を直す間に次の舟を探せ。馬草を運ぶ者には、その先の村の支度まで確かめさせろ。偽りの日を流されたなら、こちらは三つの出立日を流す!」


「どれが本当の日だ?」


「一番早い日だ!」


「殿、それでは味方まで眠れません」


「敵も眠れぬ!」


⸻


 国継が額を押さえた。


 それでも使者は走り、次の舟は先に押さえられた。


 軍は止まりながら、止まるたびに少しずつ速くなった。


 次に軍を止めたのは、敵ではなかった。


 味方になるかもしれない武士たちだった。


 一人目は、隣の地頭が顕家へ従うなら自分も従うと返した。


 二人目は、さらに隣が従うなら考えると返した。


 さらに隣は、最初の二人が本当に来るか見定めたいと返した。


⸻


「全員を一つの部屋へ入れて、同時に返事させられないのか?」


⸻


 シンが言うと、国継は疲れた目を向けた。


⸻


「その部屋へ来るかどうかを、隣の返事で決めるだろうな」


「面倒くさいな、坂東武者!」


「向こうから見れば、我らは通り過ぎる軍だ。負けた後まで土地を守ってはくれん」


⸻


 顕家は三通の返書を並べた。


 迷っている者たちの所領を、絵図の上で結んでいく。


⸻


「最初の者へ、所領を守ると文を出せ。旗を我が先陣へ加え、従った者を厚く扱うと周囲へ見せる。待つほど得をするとは思わせるな」


⸻


 一つの旗が加わった。


 それを見て二つ目が加わり、三つ目はまだ迷った。


 四つ目は、三つ目を追い越して先に来た。


 顕家は胸を張る。


⸻


「見たか! 私の徳へ、坂東がひれ伏し始めたぞ!」


「殿が先に所領を守ると約したからです」


「それを徳と言うのだ!」


「取引」


「モモ! 言葉を選べ!」


⸻


 軍は大きくなった。


 そして、大きくなるたびに、また少し遅くなった。


 今度は馬草が足りなくなった。


 腹を空かせた馬が、荷駄の縄まで噛み始める。


⸻


「人は米を食えば進む。馬も米を食えばいいんじゃないか?」


⸻


 シンが言うと、国継は首を振った。


⸻


「軍中の米を馬へ食わせ続けたら、今度は人が縄を噛むぞ」


「俺は噛まないぞ」


「お前の話はしていない」


⸻


 届くはずの馬草は、違う道へ送られていた。


 先導役へ渡された文に、古い村の名が書かれていたという。


 シンはモモと半日戻り、雨に崩れかけた轍を追った。


 一つ目の分かれ道には、二本の轍。


 二つ目には、片方しかない。


 モモは馬を降り、泥へ指を触れた。


⸻


「こっち」


「何で分かる?」


「轍が深い。草を積んでる」


「もう片方は?」


「空の荷車」


「泥まで読めるのかよ……」


⸻


 夕方、草を満載した一行を見つけた。


 先導の男は、自分がどこにいるのかも分からなくなっていた。


 顕家は男を叱るより先に、文を持ってこさせた。


⸻


「以後、分かれ道ごとに土地の者を置け。荷を送る側と受け取る側から、同時に使者を出せ!」


「人が足りません」


「ならば迷っている地頭に出させろ! 我が軍へ加わる前に、まず道を覚えてもらう!」


⸻


 その地頭たちは、返事をする前に仕事を与えられた。


 不満を言いながら道へ立ち、翌日には自分の旗を持って加わった。


 失った半日は戻らない。


 だが、同じ偽りで次の荷を失うことはなくなった。


⸻


⸻


 夏が過ぎた。


 道端の草から青さが抜け、夜の風に冷たさが混じった。


 増えた兵の分だけ、減るものも早くなった。


 米。


 塩。


 馬草。


 ある夕方、次の兵糧が届かなかった。


 途中で足利方に押さえられたという。


⸻


「このままなら、明日の夜には足りなくなります」


⸻


 国継が帳面を閉じた。


 近くの村には、冬を越すための米しか残っていない。


 顕家は少し黙った。


⸻


「取る。ただし、種籾には手を付けるな。春まで生きる分も残せ。量はすべて記し、北畠の証文を渡す」


⸻


 米俵が、村から軍へ運ばれた。


 シンは証文を握る老人を見ていた。


⸻


「これ、奪ってるよな」


「そうだ」


⸻


 顕家は言い訳をしなかった。


⸻


「よくないから、数える。残す。証を渡す。勝って戻り、返す」


「戻れなかったら?」


⸻


 顕家は軍扇を握った。


⸻


「その時は、私が嘘つきになる」


⸻


 それだけ言って、次の家へ向かった。


 その夜の粥は薄かった。


 タダが椀を覗き込む。


⸻


「米が少ない」


「入ってる」


「何粒?」


「今、見えるのは七粒」


「見えない米に希望を持たせてくれ!」


⸻


 小萩が大鍋の前から怒鳴った。


⸻


「文句があるなら、鍋ごと飲みな!」


「それは怒られる」


「もう怒ってるよ!」


⸻


 周りの兵が笑った。


 顕家も同じ粥をすすっている。


 シンも笑った。


 ただ、一口だけ、少し喉に残った。


 食事の後、川で椀を洗うシンの隣へモモがしゃがんだ。


⸻


「俺たち、正しい方だと思ってた」


「正しい方?」


「少なくとも、奪う方じゃないって」


「今日は奪った」


「分かってるよ」


⸻


 モモは洗った椀を水から上げた。


⸻


「だから、忘れない」


⸻


 短い答えだった。


 シンも、それ以上は言わなかった。


⸻


⸻


 季節が進んだ。


 黄色い葉が落ち、馬の吐く息が白くなる。


 下野で旗が増えた。


 橋板を外されれば直す。


 舟を隠されれば探す。


 違う日を教えられれば、その日より早く着く。


 止められるたび、次は同じ手で止まらなくなった。


 そして十二月。


 小山では、とうとう城そのものが道を塞いだ。


 堀。


 土塁。


 柵。


 これまで橋を落とし、舟を隠し、返事を待たせていた者たちが、今度は目に見える形で道の前へ立っていた。


⸻


「ようやく、斬れば進める敵が出たな!」


「嬉しそうに言うなよ」


⸻


 顕家は小山の守りを一度見た。


 正面には兵が多い。


 東の丘は旗が少ない。


 西には、逃げられる細い道が残っていた。


⸻


「正面は押すな。東へ旗を増やせ。西だけ空けておけ。逃げる者は追うな」


⸻


 シンが首を傾げた。


「逃げ道を残すのか?」


「残す」


 モモが先に答えた。


「逃げられる兵は、城と一緒に死なない」


「そういうことだ!」


 顕家は軍扇を鳴らした。


「全て塞げば、死ぬまで戦う。ならば、逃げた方が得だと思わせればよい!」


⸻


 それだけ命じた。


 翌朝。


 城外の陣は崩れ、残った者から降るとの使者が来た。


⸻


「私が着いたのだぞ。長引く方がおかしい!」


「ここへ着くまでが長かったけどな」


「今は勝った速さを褒めろ!」


⸻


 顕家が高笑いする。


 小山を抜けると、軍は急に速くなった。


 夏に白河を越えた軍が利根川へ着いた時、空はもう冬の色をしていた。


⸻


⸻


 延元二年或いは建武四年、十二月十三日。


 利根川は、冷たい空を載せていた。


 広い。


 対岸は近く見えるのに、大軍を渡せば、どこまでも遠い。


 シンは馬を降り、岸から水面を覗き込んだ。


 流れの音が低い。


 浅そうに見える場所も、棒を入れれば半分以上が水へ消えた。


⸻


「これ、渡るのか?」


「渡らなければ鎌倉へ着かない」


「橋は?」


「ない」


「舟は?」


「足りない」


「モモ、何か明るい話はないのか」


「落ちたら冷たい」


「暗くなった!」


⸻


 タダが川を見た。


⸻


「泳ぐ?」


「お前一人ならな」


⸻


 国継は答えながら、兵糧俵を積んだ荷車を見た。


⸻


「馬、人、荷。渡す順を誤れば、対岸へ着く前に軍が割れる」


「敵は、それを待ってる」


⸻


 モモが南岸を見た。


 南の岸には、足利方の旗が並んでいる。


⸻


「上杉憲顕」


⸻


 国継が敵陣を見た。


⸻


「上野の武士をまとめ、我らを待っていたようです」


「上杉……」


⸻


 顕家は川と敵陣を交互に見た。


⸻


「橋と舟と馬草も、あの男か?」


「確証はありません」


「だが、同じ匂いはするな」


⸻


 顕家は楽しそうだった。


 向こうにも、自分と同じように絵図を見ている者がいる。


 斥候が集めた川の深さ、流れ、岸の高低、舟を出せる場所が並べられる。


 顕家は一度だけ目を通した。


 川上を見る。


 次に、川下。


 敵の旗が厚い場所と、薄い場所。


 冬の風が、水面を斜めに削っている。


⸻


「川上へ旗を集めろ。夜までに焚き火を三倍にする。舟を見せ、渡ると見せかけろ」


「本隊は?」


「夜明け前に川下へ回す。流れが二つに割れる、あの浅瀬だ」


「川上を見せて、川下から渡るのか」


「それだけではない」


⸻


 顕家は川上の敵陣を指した。


⸻


「憲顕が旗へ食いつけば、その分だけ川下が薄くなる。動かなければ、川上の舟を本当に出す。あちらに、どちらが偽りか選ばせるのだ」


「選ばなかったら?」


「両方から渡る!」


「結局、力ずくじゃないか」


「最後に要るのは、いつでも力だ! だが、どこへ使わせるかは知恵で決められる!」


⸻


 顕家は笑っていた。


 橋板も、舟も、馬草も奪われた。


 一日ずつ削られ、夏から冬まで走らされた。


 それでも、考えることだけは誰にも奪われなかった。


 顕家の軍扇が、一点を指した。


 その時だった。


⸻


『川上へ旗を』


⸻


『浅瀬を渡れ』


⸻


 顕家の目が、一瞬だけ大きくなった。


 次の瞬間には、嬉しそうに口元が上がる。


⸻


「よし! これで行くぞ!」


⸻


 シンが顕家を見る。


⸻


「何だよ、急に」


「策が気に入ったのだ!」


「さっきから気に入ってただろ」


「さらに気に入った!」


⸻


 顕家は高笑いしながら、もう次の命令を出している。


 モモだけが、その背後を見た。


 指が、腰のフツへ触れる。


⸻


「……今、来た」


⸻


 シンにだけ届く声だった。


⸻


「神託?」


「うん」


「何て?」


「顕家と同じ」


⸻


 シンは一度、顕家を見た。


 顕家は楽しそうに兵へ指示を飛ばしている。


⸻


「でも、顕家が先だった」


⸻


 シンは少しだけ眉を寄せた。


 問い返す前に、川上へ最初の旗が動いた。


 対岸でも、上杉の旗がそれを追う。


 顕家の高笑いが、冬の川を渡った。


⸻


「はーっはっはっはっ! 上杉憲顕とやら! 橋も舟もなくて構わぬ! この北畠顕家が、利根ごと踏み越えてくれる!」


⸻


 義良が輿の簾を上げた。


⸻


「顕家」


「はい」


「鎌倉まで、あと何日だ」


⸻


 顕家は南を向いた。


 冷たい川の向こうに、鎌倉へ続く道がある。


⸻


「十日です」


「白河でも、そう申しておらなかったか」


「あれは目標です! 今度は距離です!」


⸻


 義良はモモを見た。


⸻


「本当か」


「おおむね」


「ほら見ろ!」


「十日前後」


「後を付け足すな!」


⸻


 兵たちが笑った。


 川上へ、最初の旗が動く。


 対岸でも、上杉の旗がそれを追った。


 北から来た花と、鎌倉を守る者たちの策が、冬の大河を挟んで初めてぶつかった。


 鎌倉まで、あと十日。


 その前に、利根川があった。


⸻


(第百三十二話へ)


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