若武者と御曹司
第百三十話 若武者と御曹司
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北から、花が来た。
白と金の花だった。
馬に乗り、山を越え、川を越え、その後ろから無数の旗が流れてくる。
花が通った道から、城が崩れた。
鎌倉が燃えた。
幼い子供が、海の方へ運ばれていく。
その手から、小さな木馬が落ちた。
拾おうとした子供を、若い武者が強く押し出す。
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「行け!」
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木馬を拾った若者の向こうで、門が閉じた。
煙に隠れ、顔は見えなくなる。
名も聞こえない。
ただ、最後まで立っていたことだけが分かった。
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『北より、鬼を率いて花が来る』
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景色が変わった。
今度は、弟がいた。
足利直義が、尊氏の膝へ横たわっている。
目を閉じている。
傍らには、飲み干された椀。
尊氏の手が、弟の頬に触れていた。
冷たい。
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『お前もまた鬼となり、弟を殺す』
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足利尊氏は目を開いた。
京の館は暗い。
夜明けには、まだ少し早かった。
尊氏は右手を眺めた。
何も付いていない。
それでも、指先には弟の頬の冷たさが残っていた。
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「……それは困るなあ」
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本当に困っている声だった。
尊氏はしばらく天井を見ていた。
朝になったら、直義と一緒に飯を食おうと思った。
また小言を言われるだろうが、生きている弟の小言なら悪くない。
そう決めると、尊氏はもう一度目を閉じた。
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鎌倉の夜は、鐘で破れた。
火ではない。
敵襲でもない。
それでも廊を人が走り、馬が引き出され、足利義詮は寝具から起こされた。
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「お召し替えを」
「……まだ夜ではないか」
「急ぎます」
「どこへ参る」
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答えはなかった。
小袖を重ねられ、髪を結われ、腰へ守り刀を差される。
義詮は寝具の脇から木馬を掴んだ。
父が鎌倉を離れる前に削ったものだった。
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「それは置いてください」
「これは持ってゆく」
「荷になります」
「これほど小さいのにか」
「小さくとも荷は荷です」
「家長の鎧よりは軽い」
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廊の向こうから、斯波家長が現れた。
鎧姿だった。
まだ十七歳の顔に、眠気は一つもない。
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「私を置いてゆくおつもりですか」
「家長は自分で歩け」
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その後ろから、上杉憲顕が現れた。
三十を少し越えた、細身の武者だった。
尊氏と直義の従兄弟にあたり、家長よりも関東の道と人をよく知っている。
憲顕は、義詮の腕に抱かれた木馬へ目を止めた。
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「それは、御所様が削られた木馬にございますか」
「そうだ。父上が鎌倉を発つ前に作った」
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義詮は木馬を廊へ置いた。
四本の脚の長さが揃っていないため、木馬はすぐに横へ倒れた。
憲顕が拾い上げ、傾いた脚をしげしげと眺める。
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「なるほど。これは置いてゆけませぬな」
「家長は、荷になると申す」
「父君から賜った物ならば、なおさらお持ちくだされ。逃げた先で失くしたと知れれば、御所様もお嘆きになりましょう」
「父上は、そのようなことで嘆くのか」
「さあ。御所様のお考えは、従兄弟の私にも分かりませぬ」
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憲顕は木馬をもう一度立たせた。
やはり、すぐに倒れた。
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「ただ、この木馬は御所様によく似ております」
「父上にか。どこが似ておる」
「なかなか、まっすぐには立たぬところが」
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義詮は倒れた木馬と憲顕を、交互に見た。
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「父上は馬ではないぞ」
「それは存じております」
「ならば、似ておらぬ」
「左様でございますか」
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憲顕は真顔で頷き、木馬を義詮へ返した。
家長は横を向いていた。
肩が、わずかに震えている。
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「家長。笑っておるのか」
「まさか」
「こちらを向け」
「急ぎますので」
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家長は振り返らず、足早に廊を進んだ。
義詮は木馬を抱え直し、その後を追った。
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「家長。どこへ参るのだ」
「それを今から決めます」
「まだ決まっておらぬのか」
「決まってからでは遅いことがあります」
「行く先も分からぬのに、支度をするのか」
「分からぬから急ぐのです」
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義詮は納得していない顔をした。
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「大人は、難しいことを申す」
「大人も大抵、分かっておりませぬ」
「家長もか」
「私は、少しだけ多く分かっております」
「それを若いと申すのだ」
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後ろから憲顕が言った。
家長は聞こえなかったふりをした。
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義詮は家長の後ろを歩いた。
父は京。
叔父も京。
鎌倉に残された者は、皆、義詮へ頭を下げる。
けれど何か起きれば、義詮の知らないところで行く先まで決められた。
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「家長」
「はい」
「わたしは、鎌倉の主なのであろう」
「左様です」
「それなのに、何も知らされぬのか」
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家長は足を止めた。
憲顕も振り返る。
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「知らされるまで待つのが主ではございません」
「では、どうする」
「自分から聞くのです。誰も答えぬなら、答える者が現れるまで」
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義詮は少し考えた。
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「では、今からすべて聞く」
「お手柔らかに」
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評定の間には、三人の使者がいた。
一人は泥まみれ。
二人目は、座ったまま肩で息をしている。
三人目だけが、衣も草鞋も妙にきれいだった。
三通の文が並べられる。
一通目。
北畠顕家は、なお霊山で兵を集めている。
二通目。
北畠顕家が霊山を出たとの風聞。ただし、確証はない。
三通目。
尊氏の命により、義詮を直ちに材木座から安房へ移せ。
その下には、義詮へ宛てた短い添え状が重ねられていた。
父が自ら書いた一筆、という体裁だった。
広間がざわめいた。
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「御曹司をすぐ船へ」
「待て」
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家長は三通目を持ち上げた。
花押を見る。
紙を透かす。
それから、使者へ目を向けた。
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「京をいつ出た」
「五日前にございます」
「東海道を、馬で継いだか」
「左様にございます」
「材木座の舟は」
「すでに用意がございます」
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家長の目が細くなった。
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「誰が用意した」
「文にございます」
「文には、殿を移せとしかない」
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使者の口が止まった。
憲顕が膝を進める。
使者を立たせ、二歩だけ歩かせた。
次に草鞋を脱がせ、裏を返す。
細かな白砂が、編み目の奥まで入り込んでいた。
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「五日を馬で継いだ者にしては、足が軽すぎる」
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憲顕は草鞋を指で払った。
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「箱根を越えてきたなら、泥も小石も残る。これは、つい先ほどまで浜を歩いていた足だ」
「京から来た者が、鎌倉の浜で舟を待っていた」
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家長が言った。
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「そして、文にない舟のことまで知っている」
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使者の目が動いた。
武士たちが刀へ手を掛ける。
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「斬るな」
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家長は笑っていた。
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「偽物なら、続きを待つ者がいる」
「偽物と決まったか」
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憲顕が問う。
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「いいえ。怪しいだけです」
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家長は三通を並べ直した。
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「分からぬなら、分かる形に変えます」
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三つの輿を出すことになった。
材木座。
朝夷奈。
稲村ヶ崎。
家長は三人の近習を別々に呼び、それぞれ違う道へ義詮を乗せると告げた。
材木座と教えられた者。
稲村ヶ崎と教えられた者。
朝夷奈と教えられた者。
誰にも、ほかの二つは知らせない。
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「漏れた道へ、待ち伏せが出る」
「わたしは、どれへ乗る」
「どれにもお乗せしません」
「では、なぜ起こした」
「殿が起きておられた方が、皆よく騙されます」
「わたしまで騙したのか」
「敵を騙すには、味方から騙すのが早いので」
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義詮はしばらく家長を見た。
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「家長は、あとで叱る……」
「勝った後にお願いいたします」
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家長は、正式な命令書の下にあった添え状を義詮へ渡した。
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「殿もお確かめを」
「難しい字が多い」
「こちらは短うございます」
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義詮は紙へ顔を寄せた。
一度読む。
もう一度読む。
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「これは、父上の文ではない」
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家長の笑みが止まった。
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「なぜ、そう思われます」
「父上は、わたしに『義詮殿』などと書かぬ」
「ほかには」
「字も違う」
「どのように」
「これは、整いすぎておる」
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義詮は言葉を探した。
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「父上の字は、もっと……ふにゃっとしておる」
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広間が静まった。
憲顕が口元を押さえる。
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「従兄弟として、否定しづらいところですな」
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家長は添え状を見直した。
整いすぎている。
呼び方も違う。
何より、義詮を逃がす理由も、道も、時刻も、あまりに隙なく書かれていた。
尊氏の私信なら、肝心なところで話が別の方へ曲がるはずだった。
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「殿」
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家長は深く頭を下げた。
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「お見事です」
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義詮は少し胸を張った。
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「では、もう休んでよいか」
「まだです」
「役に立ったではないか」
「役に立った方ほど、最後までいていただきます」
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義詮は木馬を抱え直した。
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「家長は、褒めるのが下手だ……」
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三つの輿が、夜明け前の鎌倉を出た。
義詮は館の奥。
家長と憲顕は、朝夷奈へ向かった。
義詮を朝夷奈の輿へ乗せると教えられた者は、一人だけだった。
山道へ入ったところで、矢が飛んだ。
松明が落ちる。
闇から武者が現れた。
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「御曹司を渡せ!」
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家長は笑った。
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「当たりだ」
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馬を返さない。
そのまま矢の中へ駆け込んだ。
一射目を伏せて避ける。
二射目が大袖へ刺さった。
家長は先頭の男へ馬をぶつけ、道の脇へ弾き飛ばす。
憲顕の兵が左右から回り、退路を塞いだ。
短い戦いだった。
捕らえた男の懐から、細く折った紙が出る。
朝夷奈。
義詮を乗せた輿が通る。
そう書かれていた。
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「この道を知っていたのは、一人です」
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家長はその名を告げた。
男の瞼が動く。
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「見つけた」
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家長は、側にいた武士へ顔を向けた。
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「館へ戻れ。その近習を押さえろ。斬るな。家族を盾に取られたのか、銭か、恐怖か、それを聞け」
「裏切り者を、生かすのですか」
「一度漏れた道は、敵が信じます」
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家長は捕虜の前へしゃがんだ。
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「腹は減っているか」
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男が顔を上げた。
問いの意味が分からないらしい。
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「飯を食わせろ。食べたら、この者には北へ走ってもらう」
「何を持たせる」
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憲顕が聞いた。
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「こちらが信じてほしい、本当らしい嘘を」
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家長は大袖に刺さった矢を抜いた。
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「次は、こちらが漏らす番です」
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憲顕は、その矢と家長を見比べた。
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「少しずれておれば、死んでいたぞ」
「ずれたから当たりませんでした」
「そういうところが若いと申すのだ」
「勝った後に言われても、効きませぬ」
「では次は、矢が飛ぶ前に言おう」
「その時は聞こえないふりをします」
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憲顕は大きく息を吐いた。
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「義詮殿を守るのは、お前一人の役目ではない」
「分かっております」
「分かっていて、なぜ一人で先へ出る」
「私が一番、罠の場所を知っておりましたので」
「理屈だけは、毎回よく立つな」
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憲顕は、家長の大袖に空いた穴を見た。
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「御所様の木馬よりは、まっすぐだ」
「あれと比べられるのは心外です」
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二人は馬を返した。
夜明けが、山の端を薄くしていた。
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京では、足利直義が五通の文を並べていた。
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「同じ命を、五つの道から出します。一通が偽書と入れ替わっても、残りが届くように」
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向かいで、尊氏が菓子を半分に割っている。
直義は、義詮を鎌倉から移せと命じた偽文を兄へ突きつけた。
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「これは兄上がお書きになったものではありませんね」
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尊氏は最初から最後まで読んだ。
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「私より、よく書けている」
「感心しないでください」
「それに長い。私なら途中で直義に任せる」
「偽文を見抜く根拠が、私への丸投げですか」
「役に立つ根拠だろう」
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直義は偽文を取り返した。
腹の中では火が燃えている。
だが、筆は乱れない。
むしろ怒るほど、字が整っていく。
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「義詮を生かせ。怪しい文だけで動かすな。鎌倉へ固執せず、退く道を先に定めよ。これでよろしいですね」
「うん」
「家長には、何と」
「勝とうとしすぎるな、と」
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直義の筆が止まった。
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「命令になっておりません」
「では、義詮を生かせ。城は捨ててもよい」
「最初から、そう仰ってください」
「木馬も、なるべく失くすな」
「それは命令へ入れません」
「義詮が大事にしている」
「存じております。だからこそ、公文書へ入れないのです」
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尊氏は少し残念そうに菓子を食べた。
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「家長は若い。才はありますが、何でも自分で確かめたがります。今頃も、自分で罠へ入っていなければよいのですが」
「似ているねえ」
「誰にです」
「私に」
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直義は目を閉じた。
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「それなら、なおさら心配です」
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尊氏は笑い、残った半分の菓子を直義の前へ置いた。
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「直義」
「何です」
「今日も元気だね」
「朝から兄上に怒らされているのです」
「では、明日も怒ってくれ」
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直義の手が止まった。
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「……急に何です」
「頼んでおこうと思った」
「頼まれなくとも、兄上が改めぬ限り怒ります」
「それは安心した」
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尊氏は、いつものように笑った。
直義は何か言い返そうとして、やめた。
先に文を出す方が早い。
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夜が明けた。
鎌倉へ戻った家長と憲顕を、義詮が木馬を抱えて待っていた。
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「勝ったか」
「当然です」
「怪我はないか」
「ございません」
「大袖に穴がある」
「鎧の怪我です」
「父上のようなことを申すな」
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家長は少し嫌そうな顔をした。
憲顕が横を向く。
口元が、わずかに緩んでいる。
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「殿。まず朝餉を」
「眠るのが先ではないのか」
「昨日の夕餉から召し上がっておりませぬ」
「父上は生きよと申す。叔父上は役目を果たせと申す。家長は食べよと申す」
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義詮は木馬を抱え直した。
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「皆、わたしのためだと申すのに、申すことが違う」
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家長と憲顕は、しばらく黙った。
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「わたしは、いつ眠ればよいのだ」
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家長は少し考えた。
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「敵が眠った時に」
「敵に眠れと文を出してくれ」
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憲顕がとうとう吹き出した。
その時、門の外で馬が倒れた。
新たな使者が庭へ転がり込む。
顔は土にまみれ、唇は割れていた。
胸から文を取り出す。
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「白河より、急報……!」
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家長は封を切った。
紙。
筆。
日付。
憲顕も横から確かめる。
今度は、整いすぎたところがない。
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「北畠顕家、義良親王を奉じ、白河関を越える」
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義詮が木馬を抱えたまま、隣へ来た。
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「本物か」
「はい。今度は間違いございません」
「敵が来るのに、なぜ笑う」
「嬉しいのではありません」
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家長は絵図を広げた。
北端へ、一つの駒を置く。
その目は、夜よりも強く輝いていた。
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「面白いだけです」
「それを嬉しいと申すのではないか」
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憲顕が低く笑った。
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「御曹司の仰せが正しい」
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義詮は憲顕を見上げた。
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「憲顕は、怖くないのか」
「怖うございます」
「家長は面白いと申すぞ」
「若い者は、怖さを面白さと取り違えることがございます」
「聞こえております」
「聞かせております」
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家長は不服そうに憲顕を見た。
それから、北の駒を南へ押した。
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「憲顕殿。上野へ戻るなら、渡しと橋を」
「舟は下流へ移す。橋板は外す。馬草も先に集める」
「宿には、違う日を教えてください」
「全部、止めるつもりか」
「止まりはしません」
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家長は、朝夷奈で捕らえた男へ持たせる文を引き寄せた。
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「だから、少しずつ迷ってもらいます」
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最初の偽りを持った使者が、北へ走る。
家長は、もう一度絵図を見た。
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「偽物は、もう片づけた」
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駒が一つ、鎌倉へ近づく。
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「さあ。本物が来るぞ」
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(第百三十一話へ)




