さらば霊山
第百二十九話 さらば霊山
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顕家は、差し出された包みを両手で受けた。
シンも、モモの隣で黙って頭を下げる。
顕家が包みを開いた。
幾重にも守られてきた紙が、灯りの下へ広げられる。
当然だが、シンには何が書いてあるのか分からない。
顕家の目だけが、静かに文字を追っていく。
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「主上には、鎮守府将軍殿に義良親王を奉じ、奥州勢を率いて西上せよとの仰せにございます」
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使者の口上で、それだけは分かった。
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(京へ来い)
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結局、それだった。
顕家は最後まで読み終えても、顔を上げなかった。
もう一度、最初へ戻る。
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「もう一通ございます。伊勢の准大臣殿より」
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顕家の指が止まった。
父、北畠親房からだった。
封を切る。
今度は使者も何も言わない。
顕家だけが読み、最後まで行ってから同じ一行へ戻った。
外では、戦の後始末をする槌の音が続いている。
負傷兵も、傷んだ道も、霊山を探る敵も残っている。
そこへ、吉野からの命令が届いた。
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『京へ』
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声がした。
一度だけ。
新しいことは、何も言わない。
それでも顕家は答えなかった。
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(……遅い)
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北畠顕家が、遅い。
それだけでシンには異常だった。
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「顕家?」
「何だ」
「行くのか」
「……」
「……行かないのか?」
「誰がそのようなことを言った」
「じゃあ行くんだな?」
「シン。今は黙れ」
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いつもの怒り方ではなかった。
顕家は使者へ向き直る。
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「勅、確かに承った。奉答は今宵したためる。しばし休まれよ」
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使者が退出する。
顕家は勅と父の文を抱えたまま立ち上がった。
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「今夜、評定を開く」
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走らずに出ていった。
それも珍しかった。
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夜。
政務所には、国継と奥州の武士たちが集まった。
タダもいる。
シンとモモは少し後ろに座った。
顕家の前には、昼に届いた二通の文。
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「主上より、改めて西上の勅が下った。殿下を奉じ、奥州勢を率いて西へ参じよとの仰せだ」
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誰も驚かなかった。
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「父上からも文が来た。勅には従え。ただし、兵を飢えさせるな。馬を潰すな。道を確かめろ。奥州の敵を背に残すな。何より殿下の御身を第一とせよ、と」
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そこで少しだけ止まる。
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「……それと、一人で何もかも背負うな、だそうだ」
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国継が小さく頷いた。
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「私は行く」
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今度は迷わなかった。
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「だが、お前たちにまで来いとは言わん」
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部屋が静かになった。
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「……どういう意味です」
「言った通りだ。私は殿下を奉じて西へ行く。だが、家も土地も捨てて、私について来いと命じるつもりはない」
「我らを置いて、どなたを率いて行かれるおつもりです」
「必要な兵は募る! だが、奥州の兵を根こそぎ連れていくつもりはない!」
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顕家の声が強くなる。
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「京だぞ。坂東を抜け、その先でも戦う。京へ着けば終わりでもない」
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机へ拳を置いた。
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「行けば――戻れるとは限らん」
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シンは顕家を見た。
そんな言葉を、顕家の口から聞くと思わなかった。
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「霊山には敵も残る。土地も家も田畑もある。守るべきものはここにもある。西へ参じよと命じられたのは、この北畠顕家だ」
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「私が主上へ忠を尽くすために、お前たちの暮らしまで捨てさせるつもりはない」
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声が少し低くなる。
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「これは、私の戦だ」
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国継の眉が動いた。
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「殿。それは少し、腹が立ちますな」
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シンは思わず国継を見た。
怒鳴ってはいない。
だが、国継は本気で怒っていた。
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「何だと?」
「我らを守ろうとなさっている。それは分かります。だから腹が立つんです」
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珍しく、国継が顕家の言葉を切った。
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「殿は、我らがなぜここにいると思っておられる」
「それは――」
「殿が北畠だからだけではない。この奥州で、殿が何をしてきたか見てきたからです」
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土地を裁き、道を見て、馬の脚まで気にした。
兵が傷つけば、自分で会いに行った。
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「そんな将軍が京へ行くと言う。なら、俺たちも行く」
「戻れんかもしれんぞ」
「なら、勝って戻ればいい」
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顕家の目が止まった。
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「簡単に言うな!」
「殿にだけは言われたくありませんな」
「何だと!」
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部屋の端で、誰かが笑った。
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「俺も参ります」
「うちからは馬を」
「我が方からは米を」
「草鞋なら、もう村で編ませています」
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顕家が左右を見る。
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「……待て。なぜもう準備している!」
「殿が勅を受けて、行かぬと思っていた者がおりますか」
「殿が決めるのを待っていたら遅れますから」
「私が遅いだと!?」
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シンが吹き出した。
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「今日に限っては、みんなより遅かったな」
「うるさい!」
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顕家は怒鳴ったが、さっきまでとは違う。
国継も少し笑った。
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「俺たちは奥州の武士です。北の武士など、都から見れば辺境の田舎武者でしょう」
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国継の目に、珍しく強い光があった。
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「なら、見せてやりましょう。奥州武士の強さを、都で」
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その言葉で、シンの胸にいくつもの景色が浮かんだ。
最初の北の集落では、南から押し寄せた力が、小さな暮らしを火と暴力で踏みにじった。
川の集落では、南から広がってきた争いと外から来た技が、ユナたちの暮らしまで届いた。
炉の集落では、山の民のところまで大きな国の手が伸び、アサメを失った。
胆沢では、アテルイとモレが、朝廷の大軍を相手に北の土地を守った。
平泉では、鎌倉から押し寄せた軍の果てに、奥州の都が炎に包まれた。
いつも、大きな力は北へやってきた。
けれど。
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(今度は――北から行くんだ)
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胸の奥が熱くなった。
自分たちの旗を持って、北から西へ行く。
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「俺も行く」
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気づけば口にしていた。
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「お前は最初から連れていくつもりだ!」
「そうじゃなくて! 俺が行きたいんだよ!」
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自分で言って、シンも少し驚いた。
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「なんか……見たいんだ。北の連中が、こっちから行ったらどうなるのか」
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顕家が黙る。
やがて、息を吸った。
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「……そうか」
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顔を上げ、胸を張る。
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「よかろう! ならば行くぞ! 殿下を奉じ、奥州の旗を京まで持っていく!」
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国継が頷いた。
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「三日後に発つ!」
「無理です」
「では五日!」
「無理です」
「七日!」
「無理です」
「十日!」
「無理です」
「なぜだ!」
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「触れを回す。兵と馬を集める。兵糧を運ぶ。留守を決める。殿下の供奉も整える。ひと月やそこらで済むと思わないでください」
「ひと月以上!?」
「夏まで見てください」
「遠い!」
「京の方が遠いです」
「分かっている!」
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重たい空気が崩れた。
顕家は絵図を引き寄せる。
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「ならば今夜から始める! 使者を北と南へ分けろ! 敵の動く道は避ける! 殿下の供奉も整えろ!」
「皆が死ぬ気で働けば、間に合います」
「死ぬ気でやる前提なの!?」
「死なぬ程度に死ぬ気で働け!」
「もっと駄目な命令になったぞ!」
「シン」
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モモが袖を引く。
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「諦めて」
「お前はどっちの味方なんだよ!」
「シン」
「ありがとう!」
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顕家が高く笑った。
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「はーっはっはっはっ!」
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その夜、霊山から最初の使者が山を下った。
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それからの日々は速かった。
使者が出る。返事が来る。武士と馬が集まり、米と矢が積まれる。
シンも走った。
タダは米俵を担ぎ、小萩は衣と薬と食料を荷へ詰める。
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「小萩さんも行くの?」
「行くよ。あの子を放って、誰が飯を食わせるんだい」
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隣から顕家の声が飛んだ。
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「聞こえているぞ!」
「なら今食べな!」
「今は文を書いている!」
「口は空いてる!」
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小萩が握り飯をシンへ押しつける。
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「ほら。一歩後ろなんだろ」
「国継の言ってた意味と絶対違う!」
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それでも持っていった。
顕家は文を書きながら食べた。
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春の冷たい雨は消え、山の緑が濃くなった。
蝉の声が増える頃には、奥州各地から兵と馬が集まり、霊山は西へ向かう軍へ姿を変えていた。
持っていく物と残す物。
連れていく者と、ここを守る者。
顕家は一つずつ決め、国継たちへ仕事を渡した。
それでも走る。
シンは、その一歩後ろを走った。
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あっという間に夏が来た。
出立を翌日に控えた夜。
荷をまとめた部屋は、妙に広く見えた。
寝具だけが、いつもの場所に残っている。
シンはその横へ座った。
モモはフツを膝に置いていた。
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「明日か」
「うん」
「京、また行くんだな」
「うん」
「前に行った時とは、全然違うんだろうな」
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胆沢から都へ向かったあの時にも、二人は京へ行った。
もう五百年以上が過ぎている。
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「同じ場所」
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モモが言った。
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「でも、違う京」
「だよな」
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シンは立ち上がった。
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「最後に見に行くか」
「霊山?」
「うん」
「りょ。」
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二人で外へ出た。
夜の霊山は静かだった。
坂を上がった先、一番よく山を見渡せる場所に顕家がいた。
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「お前も寝てないのか」
「お前“も”とは何だ」
「俺たちも寝てない」
「明日は早いぞ!」
「お前が言うな!」
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顕家は少し笑った。
三人で並んで、霊山を見る。
屋根と夜の煙。
細い道。
明日のために束ねられた旗。
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「……戻ってくるんだろ?」
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シンが聞いた。
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「当然だ」
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迷いはなかった。
評定では、戻れないかもしれないと言った本人なのに。
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「京を取り戻し、殿下をお連れして戻る。道普請も途中だ。馬を増やす話も、裁いていない訴えも残っている」
「仕事ばっかりだな」
「当たり前だ!」
「もう少し帰りたい理由ないのか?」
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顕家が少し考えた。
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「……飯」
「小萩さんの?」
「うむ」
「一緒に来るぞ」
「では一つ減ったな!」
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シンが笑った。
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「それに、ここに残る者たちへ勝って戻ると言ってしまったからな」
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夜風が三人の髪を揺らした。
しばらくして、シンが山の下を見ながら言う。
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「この人数で旅するなら、風呂とかどうすんだろうな」
「川」
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モモが答えた。
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「だよなぁ」
「顕家は女だから、男と一緒には入れない」
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沈黙。
シンがゆっくりモモを見る。
顕家も、ゆっくりモモを見る。
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「……今、何と言った?」
「顕家は女」
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顕家が固まった。
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「なぜ知っている!」
「最初から」
「最初から!?」
「うん」
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今度は顕家がシンを見る。
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「お前!」
「俺は言ってないぞ!」
「ではなぜだ!」
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モモが少し考えた。
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「見れば分かる」
「分からんように隠しているのだ!」
「わたしには分かった」
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シンは吹き出した。
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「じゃあ俺がモモに黙ってたの、全部無駄だったのか」
「うん」
「早く言えよ!」
「聞かれなかった」
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顕家は額を押さえた。
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「私の気苦労は何だったのだ……」
「俺にはちゃんと隠せてたぞ」
「慰めにならん!」
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モモが顕家を見る。
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「……女でも顕家は顕家」
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顕家は一瞬黙った。
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「当然だ。事実だからな!」
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耳だけが少し赤い。
モモが二人を見比べた。
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「仲いい」
「違う!」
「違う!」
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声が揃った。
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「やっぱり仲いい」
「うるさい!」
「お前まで小萩さんみたいになってきたぞ!」
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顕家が笑い、シンも笑う。
モモも小さく笑った。
明日には、この場所を離れる。
それでも今だけは、いつもの夜と何も変わらなかった。
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「お前も戻るのだぞ、シン」
「俺も?」
「私の近習だろう」
「臨時だけど」
「京まで働けば、臨時が取れるかもしれん」
「報酬は?」
「美しい私の側にいられる以上の褒美はないっ!」
「急に行きたくなくなってきた……」
「何だと!」
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顕家の高笑いが、夜の山へ響いた。
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部屋へ戻り、灯を落とした。
寝具は一組だけ。
いつものようにシンが先に横になる。
その隣へ、モモがためらいなく入ってきた。
布越しに膝が触れる。
細い髪がシンの腕へかかり、桃に似た匂いが近づいた。
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「狭い」
「お前がこっち来たんだろ」
「寒い」
「夏だぞ」
「山は夜、冷える」
「便利な言い訳だな」
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モモは答えず、さらに身体を寄せた。
背中がシンの胸へ触れる。
柔らかな感触と体温が、布越しにはっきり分かった。
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(……近い)
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今までにも一緒に眠ったことはある。
それなのに、今夜は妙に意識した。
さっきまで顕家と女の話をしていたせいかもしれない。
モモも女なのだと、今さら当たり前のことを思い出す。
息をするたび、髪の匂いがする。
少し動けば、もっと触れてしまいそうだった。
シンは両手を自分の胸の前で固めた。
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「シン」
「な、何だ」
「心臓、速い」
「明日出発だからだよ!」
「そう」
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本当に納得したのかは分からない。
モモはそのまま、シンの腕を引いた。
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「何してんだ?」
「寒い」
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シンの腕を、自分の腹の前へ回す。
抱きしめるような形になった。
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「お、おい」
「何?」
「いや……」
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何でもないわけがない。
だが、モモは何も気にしていない。
呼吸も、体温も近すぎる。
シンは天井の暗がりを見つめたまま、動けなくなった。
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「明日の夜は、どこで寝るんだろうな」
「分からない」
「その次は?」
「分からない」
「分からないことばっかりだな」
「うん」
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少し黙った。
モモの指が、シンの腕へ軽く触れている。
それだけで、また胸が鳴った。
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「でも、一緒に居れるんだろ」
「……うん」
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返事が少し遅い。
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「今ちょっと遅かった」
「誤差」
「便利だな、それ」
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モモが腕の中で少しだけ振り返った。
暗闇の中で、顔が近い。
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「シン」
「何だ」
「死なないで」
「またそれかよ」
「重要」
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シンは近すぎる顔から目を逸らし、目を閉じた。
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「……りょ。」
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モモの背中が、ほんの少し揺れた。
笑ったらしい。
胸の音は、なかなか静かにならなかった。
それでもいつの間にか、モモの体温を抱いたまま眠っていた。
霊山で最後になる寝具の中で。
明日も一緒にいる。
二人とも、それを疑ってはいなかった。
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延元二年――建武四年、八月十一日。
夜明け前から、霊山は人と馬の声に満ちていた。
縄が鳴り、馬が土を掻き、旗が朝の風を受ける。
義良親王の一行が整い、国継が走る。
タダは荷を背負い、小萩は顕家の食料を確かめ、モモはフツを帯びていた。
シンには、大人しい馬があてがわれた。
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「俺も乗るの?」
「京まで走る?」
「無理」
「なら乗って」
「乗った方が死にそうなんだけど」
「死なないで」
「昨夜も言われたやつ!」
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乗るまでに二度逃げられた。
白馬の上から、顕家が笑っている。
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「はーっはっはっはっ! 見事な騎馬ぶりだな!」
「うるさい! お前の馬と替われ!」
「この白馬は美しい者しか乗せぬ!」
「わがままな馬めっ!」
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周囲から笑い声が上がる。
白と金の甲冑。花文様。黒い烏帽子。
霊山で何度も見た姿だが、今日は馬の向く先が違う。
西。
顕家は奥州の兵を見渡した。
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「殿下を奉じ、京へ行く! 道を塞ぐ者は退ける!」
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兵たちが応える。
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「勝って――皆で奥州へ帰るぞ!」
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声が山へ返った。
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「いざ、出立――」
「待ちな!」
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小萩だった。
白馬の前まで来て、握り飯を差し出す。
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「今か!?」
「今だよ!」
「今、綺麗に決まったところだぞ!」
「綺麗に腹を空かせて京まで行く気かい!」
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義良親王まで笑っている。
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「……寄越せ」
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顕家は二口で食べた。
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「よし! 今度こそ行くぞ!」
「昼も食べな」
「分かっている!」
「信用ないね」
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最後まで、いつもの霊山だった。
先頭の馬が動く。
旗が続き、荷が坂を下りていく。
シンの馬も前を追った。
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「うわ、待て! 俺まだ何もしてない!」
「馬は待たない」
「モモ、助けて!」
「一歩後ろ」
「今それ言うの!?」
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坂を一つ下りたところで、シンは振り返った。
山上の屋根。
朝の煙。
顕家を追いかけた坂。
三人で笑った夜。
モモと眠った部屋。
もう、小さくなり始めている。
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「シン! 置いていくぞ!」
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前から顕家が呼んだ。
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「待てって!」
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シンは霊山に背を向けた。
北から来た軍は、西へ向かって動き始めた。
京は、まだ遥か先だった。
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