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戦場の花将軍

第百二十八話 戦場の花将軍


⸻


 山の鐘が、まだ鳴っていた。


 さっきまで飯の匂いがしていた霊山を、今は人と馬が走り回っている。


 弓が運ばれる。


 矢が束で担がれる。


 泣き出した子供を抱えた女が道の端へ寄り、その横を伝令が駆け抜けた。


 シンも走っていた。


⸻


「顕家! 待てって!」


「待って敵が帰るなら待つ!」


「そういう話じゃない!」


⸻


 白い背中は待たない。


 シンは息を切らしながら追いかけた。


⸻


「俺も行く!」


「来るなとは言っていない!」


「じゃあ何だよ!」


「私より前へ出るな!」


「俺が出ると思うか!? 戦えないぞ!」


「威張って言うな!」


⸻


 横から国継が駆け抜けた。


⸻


「一歩後ろだぞ」


「分かってる!」


「できれば死ぬな」


「急に不安になること言うなよ!」


⸻


 国継はもういなかった。


 シンはさらに不安になった。


⸻


⸻


 顕家の戦支度は速かった。


 というより、小萩が速かった。


⸻


「腕!」


「分かっている!」


「反対!」


「分かっている!」


「足!」


「今やっている!」


「口を止めな!」


⸻


 薄紫の衣が外され、髪がまとめられ、烏帽子の内へ収まる。


 鎧が重なる。


 政務所で耳まで赤くしていた顕家が、今度は戦場へ出る花将軍の姿になっていく。


 ただし途中で片足を上げたままよろめいた。


⸻


「ほら!」


「床が悪い!」


「この前は裾を踏んでたぞ」


「シンは黙れ!」


⸻


 小萩が顕家の前の紐を指した。


⸻


「そこ締めな」


「俺?」


「お前以外に誰がいる」


「私がいる!」


「黙ってな、将軍」


⸻


 顕家が紐へ手を伸ばす。


 シンも伸ばす。


 指が触れた。


⸻


「……」


「……」


⸻


 あの時の政務所。


 近かった顔。


 背中へ回した腕。


 二人とも同時に手を引いた。


⸻


「何してんだい」


「何もしてない!」


「何もしていない!」


「息ぴったりだねえ」


「違う!」


「違う!」


⸻


 また揃った。


 小萩が深く息を吐いた。


 シンは無言で紐を締めた。


 顕家も無言で前を向いた。


 耳だけ赤かった。


⸻


「よし!」


⸻


 太刀を佩き、弓を取る。


 顕家の顔が変わった。


 さっきまでの赤みが消える。


⸻


「行くぞ」


「その前に」


⸻


 小萩が握り飯を突き出した。


⸻


「今か!?」


「今だよ!」


「戦だぞ!」


「だから食えって言ってるんだよ!」


⸻


 戸口から声がした。


⸻


「戦うなら、食わねえと」


⸻


 タダだった。


 大きな弓と矢の束を抱え、もう食っている。


⸻


「ほら、タダもそう言ってるよ」


「タダと一緒にするな!」


「なんでだ」


「あんなには食えん!」


⸻


 タダが首を傾げた。


⸻


「足りねえのか」


「逆だ!」


⸻


 顕家は握り飯を奪い取った。


 二口。


 飲み込む。


⸻


「食った!」


「帰ったらもう一つ!」


「勝ったらな!」


「勝っても負けても食うんだよ!」


⸻


 顕家は高く笑い、外へ出た。


 白馬が待っていた。


 その前で、伊達方から来た物見が膝をつく。


⸻


「敵は麓の道に。数は多くありませぬ。荷駄もほとんど見えません」


「やはり探りか」


⸻


 顕家は一度だけ山の下を見た。


 それから、妙に楽しそうに笑った。


⸻


「よし」


「何がよしなんだ」


「見たいのだろう?」


「何を」


「私を」


⸻


 シンは嫌な予感がした。


⸻


「……待て」


「北畠顕家が霊山にいるのか。兵はいくついるのか。どの道を守っているのか。知りたくて仕方がない顔をして来た」


「だから?」


「ならば、見せてやる!」


「それ、絶対ろくな意味じゃないだろ!」


⸻


 モモが顕家を見た。


⸻


「囮」


「そうとも言う!」


「不同意」


「却下!」


「早い!」


⸻


 顕家が白馬へ跨がる。


⸻


「兵は隠せ! 旗も増やすな! 私の周りだけ派手にしろ!」


「自分だけ見せる気か!?」


「花は見えるところに咲くものだ!」


「戦場で花の理屈を持ち出すな!」


⸻


 顕家は国継を呼び止めた。


⸻


「国継、右の木立を見ておけ。道でなくても、人は通る」


「承知」


「何か来たら?」


「殿が余計なことを始める前に止めます」


「何だと!」


「行きますぞ」


⸻


 国継は顕家の返事を待たず、木立へ消えた。


 シンは少しだけ安心した。


 ほんの少しだけだった。


 顕家は笑って馬を出した。


 シンは予備の馬の手綱を押しつけられる。


⸻


「え、俺は?」


「一歩後ろ!」


「またそれか!」


⸻


 モモが横を歩く。


⸻


「シン」


「何だ」


「死なないで」


「急に言われると怖い!」


「りょ。」


「何がりょ。なんだ!」


⸻


 こうしてシンは、戦えないまま戦場へ連れていかれた。


⸻


⸻


 敵はいた。


 思ったより近かった。


⸻


「近い近い近い」


「うるさいぞ、シン!」


「お前が前に出すぎなんだよ!」


⸻


 顕家は白馬の上。


 周りにいる兵は少ない。


 後ろの兵は木立へ隠している。


 つまり遠目には、本当に顕家だけが妙に目立つ。


⸻


「はーっはっはっはっ!」


「笑うな! もっと目立つ!」


「そのために笑っている!」


「知ってた!」


⸻


 敵が動いた。


 さっきまで止まっていた騎馬が、少しずつこちらへ寄ってくる。


 徒歩の兵も続く。


 食いついた。


⸻


「来たぞ!」


「見れば分かる!」


「じゃあ下がれ!」


「まだだ!」


⸻


 顕家はむしろ白馬を一歩前へ出した。


⸻


「何で前に出るんだよ!」


「見えづらそうだからな!」


「親切にするな!」


⸻


 敵の方から声が上がった。


 こちらを指している。


 顕家は嬉しそうに片手を上げた。


⸻


「おお、気づいたぞ!」


「手を振るな!」


「せっかく会いに来たのだ。無視は失礼だろう!」


「戦場の礼儀を変な方向に守るな!」


⸻


 矢が飛んだ。


 まだ遠い。


 白馬の少し手前へ突き立った。


 白馬が首を振る。


⸻


「ほら! 狙われてる!」


「狙わせているのだ!」


「その違い、俺には全然安心できない!」


⸻


 シンは反射的に白馬の手綱へ手を伸ばした。


 顕家が横目で見る。


⸻


「何をしている」


「逃げる時すぐ引けるように!」


「私の馬だぞ」


「知ってるよ!」


「なら丁寧に扱え」


「今そこ!?」


⸻


 モモが短く言った。


⸻


「下がるべき」


「まだだ」


「不同意」


「私は同意だ!」


「二人で俺を挟んで揉めるな!」


⸻


 また矢が飛んだ。


 今度は近い。


 シンのすぐ前の土へ刺さった。


 肩が跳ねる。


⸻


「今の見た!?」


「見た!」


「帰ろう!」


「嫌だ!」


「ですよね!」


⸻


 顕家は敵ではなく、道の横を見ていた。


 敵がこちらへ寄る。


 もう少し。


 さらに少し。


⸻


「今!」


⸻


 山腹から矢が飛んだ。


 隠れていた味方が一斉に射る。


 敵が止まった。


 馬が嘶く。


 前と後ろが詰まる。


⸻


「よし、下がるぞ!」


「やっとか!」


⸻


 顕家が馬首を返す。


 その時だった。


⸻


「あっち」


⸻


 モモが右を見た。


⸻


「何?」


「敵」


⸻


 木の間で何かが動いた。


 次の瞬間、横から敵兵が飛び出した。


 近い。


 近すぎた。


⸻


「聞いてない!」


「私も今見た!」


「将軍でも分からないことあるのかよ!」


「あるに決まっているだろう!」


⸻


 敵は、獣道のような細い筋を上がってきていた。


 数は多くない。


 だが、完全に想定より近い。


 味方の兵が一瞬迷った。


⸻


「国継!」


「こっちだ!」


⸻


 声と同時に、右の木立から国継が飛び出した。


 先ほど顕家に置かれた場所だ。


 敵とぶつかる。


⸻


「本当に来た!」


「来てほしくはなかった!」


「もっと早く助けてほしかった!」


「殿が囮をやると言い出したのが悪い!」


「勘弁してくれよ、この将軍!」


「私のせいにするな!」


「半分くらいはお前のせいだろ!」


⸻


 さらに別の敵が一人、国継たちの横を抜けた。


 こちらへ来る。


 シンは固まった。


⸻


(無理)


⸻


 刀もまともに使えない。


 槍もない。


 戦なんて何度死んでも慣れない。


 敵が走ってくる。


⸻


「シン、下がって」


⸻


 モモが前へ出ようとする。


 その前に、シンが持っていた予備馬が暴れた。


⸻


「うわっ!」


⸻


 手綱に引っ張られる。


 シンの身体が横へ飛ぶ。


 馬も横へ飛ぶ。


 その大きな身体に驚いた敵が足を止めた。


 そこへタダが現れた。


⸻


「邪魔だ」


⸻


 弓と矢の束を抱えたまま、空いた肩で敵を突き飛ばした。


 敵が道の脇へ転がる。


⸻


「……」


「……」


⸻


 シンは尻餅をついたままタダを見上げた。


⸻


「今の、俺が倒したことにならない?」


「ならん」


「だよな」


⸻


 モモがシンの襟を掴んで立たせた。


⸻


「怪我」


「してない」


「確認」


「たぶんしてない!」


「りょ。」


⸻


 顕家が笑った。


⸻


「見事だシン!」


「何が!?」


「馬を使った!」


「使われたんだよ!」


⸻


 だが、止まったのは一瞬だけだった。


 横から出てきた敵は国継が押さえている。


 正面の敵は矢を受け、こちらの兵数が分からないまま足を止めた。


 だが、一騎だけ下がらなかった。


 敵の騎馬が前へ出る。


 弓ではない。


 そのままこちらへ来る。


⸻


「また来た!」


「見えている!」


「今日はそればっかりだな!」


⸻


 顕家が弓へ手を掛ける。


 モモも動く。


 シンには何もない。


 一瞬だけ迷って、地面に転がっていた空の矢入れを拾った。


⸻


「シン?」


「分からないけど、とりあえず邪魔する!」


⸻


 投げる。


 大して飛ばない。


 シンのすぐ前へ、へにゃりと落ちた。


⸻


「届いてない」


「見れば分かる!」


⸻


 慌てて蹴った。


 今度は坂をころころ転がっていく。


 騎馬の前へ出た。


 馬が一瞬だけ足を止める。


 その隙に、国継の兵が一人戻って進路へ立った。


 敵は無理をせず、馬首を返した。


 顕家がシンを見る。


⸻


「……今のは、少し役に立ったな」


「少しかよ!」


「最初の一投は無意味だった」


「そこは忘れろ!」


⸻


 顕家は一度見回した。


⸻


「よし。予定変更!」


「予定通りじゃないのかよ!」


「戦で全部予定通りなら誰も苦労せん!」


⸻


 それを先に言ってほしかった。


⸻


「正面はもう要らん! 少し退け! 右へ出た連中は奥へ入れるな! 国継、押し返したら深追いするな!」


「承知!」


「タダ!」


「何だ」


「矢を置いたら、そこを塞げ!」


「立つだけか」


「お前一人で道が狭くなる!」


「そうか」


「納得するのかよ!」


⸻


 タダは本当に立った。


 大きかった。


 さっきまで広かった道が、急に狭く見えた。


 顕家はその横で白馬を回す。


⸻


「モモ、右は」


「もう下がる」


「正面は」


「迷ってる」


「なら決まりだ!」


⸻


 顕家が弓を上げた。


⸻


「もう一度だけ射ろ! その後は止めろ!」


⸻


 矢が飛ぶ。


 敵が下がる。


 右へ回った兵も戻る。


 正面と合流する。


 そして全体が退き始めた。


⸻


「追えます!」


⸻


 若い兵が立ち上がった。


⸻


「追うな!」


「しかし!」


「見せるのはここまでだ!」


⸻


 顕家の声が飛ぶ。


 兵が止まる。


 だが敵は止まらなかった。


 退き際に、一本だけ矢が返った。


 若い兵の肩へ刺さる。


 身体が崩れた。


 顕家の顔から、笑みが消えた。


 ほんの一瞬だけ、上げていた手が止まる。


⸻


「その者を下げろ! 矢は抜くな!」


⸻


 二人が負傷兵を抱える。


 顕家は敵を見た。


⸻


「追撃なし! 帰してやれ!」


⸻


 誰も追わなかった。


 敵はそのまま、山の下へ消えていった。


 静かになる。


 シンはようやく息を吐いた。


⸻


「……終わった?」


「今日はな」


⸻


 国継が泥を払いながら戻ってくる。


⸻


「また来ます」


「来るだろうな」


「次は、もう少し多い」


「だろうな」


⸻


 シンは二人を見た。


⸻


「その会話、もうちょっと嫌そうにしてくれない?」


⸻


 顕家が笑った。


⸻


「はーっはっはっはっ! 勝ったのだぞ、シン!」


「囮になって、予定外の敵が出て、俺は馬に引きずられたけどな!」


「生きている!」


「そこを基準にするな!」


⸻


 モモがシンを見る。


⸻


「生存。良好」


「モモまで!」


⸻


 タダが頷いた。


⸻


「腹減ったな」


「お前はそればっかりだな!」


⸻


 笑いが出た。


 戦場で笑うのは変な気がした。


 でも、笑えるうちは少しだけ怖くなかった。


⸻


⸻


 霊山へ戻ると、戦は別の形になった。


 折れた矢を拾う。


 馬を見る。


 傷を洗う。


 崩れた道へ土を入れる。


 顕家はまた走り回った。


⸻


「いいかげん休んでくれぇ」


「戦が終わったから仕事が始まったのだ!」


「意味が分からない……」


「戦の後始末も政だ!」


⸻


 ついさっきまで敵の前で笑っていた人間が、今度は傷ついた馬の鼻を撫で、兵糧の俵を数えている。


 シンはその後ろをついていった。


 最後に、寺の一室へ入る。


 肩を射られた若い兵が横になっていた。


⸻


「生きるか」


「急所は外れております。今夜は熱が出ぬか見守ります」


⸻


 兵が目を開いた。


⸻


「殿……追えず、申し訳……」


「馬鹿者」


⸻


 顕家は即座に言った。


⸻


「追うなと命じたのは私だ。命どおり生きて戻った者が、なぜ詫びる」


⸻


 兵の力が抜けた。


 顕家はそれ以上何も言わず、部屋を出た。


 外へ出たところで、握っていた手を開く。


 掌に爪の跡がついていた。


 シンは見た。


 でも、何も言わなかった。


⸻


(怖くないわけじゃないんだな)


⸻


 それでも前へ出る。


 笑う。


 命令する。


 誰かが傷つけば、自分で見に来る。


 シンは山を見た。


 兵。


 馬。


 道。


 荷。


 その全部を、顕家が見ている。


⸻


(これを置いて、いつか京へ行くのか?)


⸻


 そう思ったところで、小萩の声が飛んできた。


⸻


「顕家! 飯!」


⸻


 顕家が振り返る。


⸻


「今行く!」


「走るんじゃないよ!」


「急げと言っただろう!」


「言ってない!」


⸻


 シンは思わず笑った。


 山の上に、いつもの声が戻ってきた。


⸻


⸻


 政務所へ戻ると、遅い昼餉が用意されていた。


 タダはもう食っていた。


⸻


「早いな!」


「腹減ったからな」


「さっきも聞いた!」


⸻


 国継も座り込み、小萩から椀を渡されている。


 顕家はその隣へ座らされた。


⸻


「私はまだ――」


「食べな」


「はい」


⸻


 即答だった。


⸻


「小萩さんには勝てないんだな」


「聞こえているぞ、シン」


「独り言です」


「聞こえないように言えっ!」


⸻


 モモも端へ座った。


 シンもようやく腰を下ろす。


 脚が重い。


 椀へ手を伸ばす。


 指先が、少し震えていた。


 顕家の目が、その手へ落ちる。


⸻


「シン」


「何だ」


「よくついてきた」


⸻


 珍しく、普通の言い方だった。


 シンは少しだけ困った。


⸻


「……まあ、一歩後ろって言われたからな」


「途中、馬の後ろだったがな」


「忘れろ!」


⸻


 顕家が吹き出した。


 国継も笑った。


 タダは食っていた。


 モモだけが真顔で言った。


⸻


「馬は速かった」


「お前まで言うのか!」


⸻


 笑い声が広がった。


 食事が終わる頃には、外から聞こえる音も少しずついつもの霊山へ戻っていた。


 槌の音。


 馬の鼻息。


 誰かが桶を落として怒鳴られる声。


 遠くでは子供が笑っている。


 戦がなかったことにはならない。


 それでも、人は飯を食い、働き、また喋る。


 シンはその当たり前さに、少しだけ肩の力を抜いた。


⸻


「シン」


⸻


 顕家が立ち上がった。


⸻


「鎧を外す。手伝え」


「自分でできるんじゃなかったのか」


「できる!」


「じゃあ俺いらないだろ」


「近習なのだから手伝え!」


「どっちだよ!」


⸻


 小萩が鼻で笑う。


⸻


「何を意識してるんだか。さっさと脱がせな」


「固まってない!」


「固まっていない!」


⸻


 また揃った。


 国継が椀を置いた。


⸻


「仲いいな」


「違う!」


「違う!」


⸻


 今度はタダまで顔を上げた。


⸻


「合ってるな」


「お前まで入ってくるな!」


⸻


 モモだけは無言で二人を見ていた。


 顕家が気づく。


⸻


「……何だ、モモ」


「別に」


「その顔は何かある顔だ!」


「普通」


「嘘をつけ!」


⸻


 シンは笑いを堪えながら、顕家の鎧の紐へ手を掛けた。


 朝とは逆に、今度はほどいていく。


 戦場の泥がついた紐は少し固い。


 顕家が身じろぎする。


⸻


「動くなよ」


「動いていない」


「さっき動いた」


「お前の手が遅いからだ」


「じゃあ自分で――」


「それは駄目だよ」


⸻


 小萩が即座に割って入った。


 顕家が黙る。


 シンは吹き出した。


⸻


「本当に小萩さんには勝てないんだな」


「……今のは聞こえなかったこととする」


「便利だな、それ」


⸻


 最後の紐が解けた。


 鎧の重みが外れる。


 顕家が小さく息を吐いた。


 シンは鎧を受け取ろうとして、ふと止まった。


 顕家の頬に、乾いた泥が一本ついていた。


⸻


「何だ?」


「泥」


「どこだ」


「そこ」


⸻


 顕家が自分の頬を触る。


 外した。


⸻


「逆」


「こっちか」


「また逆」


「なら取れ!」


「え」


⸻


 言われたので、シンは手を伸ばした。


 親指で、頬の泥を軽く拭う。


 顕家が止まった。


 シンも止まった。


 朝よりずっと近くない。


 昨日ほど近くもない。


 それなのに、妙に意識する。


⸻


「……取れた」


「……そうか」


⸻


 顕家の耳が、じわりと赤くなった。


 モモが見ている。


⸻


「顕家」


「何だ!」


「赤い」


「戦の後だからだ!」


「もう結構経った」


「うるさい!」


⸻


 シンまで顔が熱くなった。


⸻


「俺、鎧置いてくる」


「待て! 私も行く!」


「何でだよ!」


「ここに残る方が嫌だ!」


⸻


 小萩が笑い、国継が肩を震わせ、タダはまた何か食っていた。


 少し前まで矢が飛んでいたことが、嘘のようだった。


⸻


⸻


 日が傾く頃には、霊山の慌ただしさもようやく薄れていた。


 物見は残っている。


 負傷者の見張りもいる。


 敵が消えたわけでもない。


 それでも政務所には灯りが入り、夕餉の支度の匂いが戻ってきた。


 シンは文書を運び、顕家はまた机へ向かっていた。


⸻


「もう仕事してるのかよ」


「今日の戦で明日の仕事が減ったと思うか?」


「思わないけど、思いたかった」


「甘い!」


「少しくらい甘くしてくれ」


⸻


 顕家は筆を置いた。


 ほんの少しだけ笑う。


⸻


「では、今日だけは褒めてやろう」


「何を」


「逃げなかった」


⸻


 シンは一瞬、言葉に詰まった。


⸻


「……逃げる暇がなかっただけだよ」


「それでもだ」


⸻


 顕家はすぐ文へ目を戻した。


 シンも、それ以上は何も言わなかった。


 少しだけ嬉しかった。


 その時、外から足音が近づいた。


 急いではいる。


 だが、戦の急使のような乱れた音ではない。


 一度、戸口の前で止まる。


⸻


「将軍殿」


⸻


 知らない声だった。


 部屋の空気が変わった。


 入口に、旅装の男が膝をついている。


 衣は長旅の泥と雨に汚れていた。


 だが、胸元から取り出した包みだけは、濡らさぬよう幾重にも守られている。


⸻


「吉野より参りました」


⸻


 顕家の表情から、さっきまでの笑みが消えた。


 男は包みを両手で掲げる。


⸻


「主上より、勅が参っております」


⸻


 顕家の手が止まった。


 驚かなかった。


⸻


『京へ』


⸻


 今度は、声ではなかった。


⸻


(第百二十九話へ)


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