花将軍の華麗なる激務の日々
第百二十七話 花将軍の華麗なる激務の日々
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「あきいえーー! メシだーー!」
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返事はなかった。
シンは椀と握り飯を載せた盆を抱え、霊山の坂を駆け上がった。
ついさっきまで顕家は厩にいた。左前脚を庇う馬を荷駄から外し、代わりの馬へ同じ重さを載せようとした兵を止め、飼葉と塩を分けろと言い残して兵糧蔵へ走った。
シンが蔵へ着いた時には、もういない。
湿った俵を床から上げ、壁際を空け、風を通すよう指図して、今度は山道の崩れを見に行ったという。
山道へ着くと、普請の男が首を振った。
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「殿なら政務所へ戻ったぞ」
「今、ここに来たんじゃないのかよ!」
「来て、見て、決めて、戻った」
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その四つを、なぜ一息で済ませられるのか。
シンには分からなかった。
臨時近習にされてから、何日もこれだった。前の日の疲れが抜けるより先に、次の朝の顕家が走り出す。
朝、小萩から命じられた仕事は単純だ。
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「今日はちゃんと飯を食わせな。昼までに一度は座らせる。無茶を始めたら止めるんだよ」
「俺にできるのか……」
「また倒れさせたら承知しないよ」
「質問に答えてくれ!」
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小萩は盆だけを渡した。
半刻も経たないうちに、シンは確信した。
北畠顕家に奥州の政を任せるより、北畠顕家を休ませる方が難しい。
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政務所の戸が開いた。
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「はーっはっはっはっ! そこにいたか、シン!」
「こっちの台詞だ!」
「南の道へ行くぞ! このままでは次の雨で荷車が通れなくなる!」
「その前に飯!」
「歩きながら食う!」
「座らせろって言われてる!」
「誰にだ!」
「小萩さんに!」
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顕家は一瞬だけ止まった。
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「聞かなかったこととする!」
「待て!」
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また走る。
シンも走る。
盆の上で椀が跳ねた。
握り飯を一つ掴み、前を行く白い背へ突き出す。
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「せめてこれ食え!」
「仕方ない!」
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顕家は振り返りざまに一口かじった。
そこへ別の兵が駆け上がる。
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「申し上げます! 麓から運ぶ塩の荷が遅れております!」
「昨日崩れた沢沿いか。荷を止めろ。人だけ先に上げ、塩は二つに分けて背負わせよ。馬を入れればまた道を潰す!」
「はっ!」
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答えは淀まない。
そのまま兵を追おうとする顕家の袖を、シンが掴んだ。
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「離せ!」
「まだ一口だ!」
「今ので足りる!」
「何にだよ!」
「気合にだ!」
「何言ってるかわからない!」
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睨み合いの末、顕家は残りを二口で飲み込んだ。
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「食ったぞ!」
「座ってない!」
「まだ働ける!」
「そう言って倒れただろ!」
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顕家の顔が赤くなる。
咳払いして、胸を張った。
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「これくらい何でもない! この北畠顕家に任せておけ!」
「お前をお前に任せた結果があれだろ!」
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高笑いを残し、花将軍はまた走っていった。
シンは空になった盆を抱え、その背を追った。
その後、座らせることには成功した。
休ませることには失敗した。
二人の武士が持ち込んだ土地争いを前に、顕家は片方ずつ話を聞いた。古い文だけで決めず、どちらの村が水路の泥を上げ、去年の種籾を誰が出し、今年その畑を耕したのは誰かまで確かめる。
答えが食い違うと、争う畑をいったん双方から預かり、国継へ現地を見せると即決した。春の作付けを遅らせぬよう、明日のうちに裁くという。
座ってはいる。
だが、口も目も筆も、少しも休んでいない。
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「これで座ったぞ!」
「そういう意味じゃない!」
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夜。
部屋へ戻ったシンは寝具へ倒れ込んだ。
モモは壁際でフツを拭っている。
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「無理だあ……」
「何が?」
「俺にはあいつを止められない。そもそも速すぎる」
「追うのが仕事?」
「そんな仕事を引き受けた覚えはない」
「……違うかも」
「何が」
「追うこと」
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モモは少し考えた。
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「国継に聞くべきでは」
「顕家の止め方を?」
「長い」
「何が?」
「仕えてる期間」
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「そういや、国継って何者なんだ?」
「分からない」
「お前でも?」
「北畠顕家なら知ってる。北畠親房の子。陸奥守。鎮守府大将軍。奥州の南朝方を率いた若い公卿で武将」
「国継は?」
「わたしの知っている記録に、その名前はない」
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モモは言葉を継いだ。
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「でも奥州の武士。言葉も、土地と道の見方も、この辺りのもの。霊山での立場も近い。奥州に昔から根を持つ家だと思う」
「歴史に残ってないのか」
「残らない人の方が多い」
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短い言葉だった。
それでも昼の霊山が浮かんだ。
馬の脚を洗う者。俵を運ぶ者。道を直す者。名も知らないまま、顕家の命令を受けて走っていった兵。
誰か一人でも欠ければ、花将軍は一歩も進めない。
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「じゃあ、聞いてみるか」
「うん」
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モモはそれだけ言うと、当然のように寝具の脇へ座り直した。
シンは目を閉じた。
隣にモモの気配があるだけで、霊山を走り回った身体がようやく床へ沈んでいった。
顕家の秘密を口にできなくても、モモは何も聞かなかった。
ただ、そこにいた。
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翌朝。
顕家は小萩によって浴堂へ押し込まれていた。
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「私は一人でできる!」
「できる人は、湯の中で倒れないよ」
「あれは一度だ!」
「一度あれば十分だよ!」
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シンは少し離れた縁で国継を捕まえた。
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「どうやったら、あいつを休ませられる?」
「無理だ」
「早いな!」
「俺も何年も考えた。正面から止めるのは無理だ」
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国継は浴堂の戸を見た。
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「殿と一緒に走ろうとするな。歩くのも、見るのも、決めるのも速い。同じ速さで追えば、お前が先に潰れる」
「じゃあ、どうする」
「一歩後ろから支えてやれ。次に要る物を先に置く。忘れた物を拾う。飯を持っていく。足がもつれたら腕を出す」
「間違えるのか、あいつ」
「将軍だって人だ」
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国継は小さく笑った。
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「殿は、いろんな意味でよく転ぶからな」
「転ぶ?」
「足だけの話じゃない」
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「止められないから放っておけ、という話じゃない。走る先が崖なら、後ろからでも引き倒して止めろ。それまでお前まで転ぶな、ということだ」
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それ以上は言わなかった。
ただ、馬鹿にしている顔ではなかった。
何度も転ぶところを見て、そのたび同じ手を差し出してきた者の顔だった。
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「あんたは、昔から奥州にいる家なのか?」
「本領はもっと北だ。うちでは、遠い祖にイサという男がいたと伝わっている」
「イサ」
「蝦夷の出自だという話もある」
「蝦夷……」
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シンの胸が跳ねた。
国継は知らない。
それでもシンには、胆沢で見た火と、アテルイとモレの顔が浮かんだ。
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「そのイサが都から来た妙な坊主と縁を持ち、別れる時に『伊佐』の二字をもらった。その坊主が、のちの弘法大師、空海様だったと家では言う」
「空海?」
「昔話だ。本当かどうかは知らん」
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国継は肩をすくめた。
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「その後の祖先は奥州藤原氏に仕えた。藤原国衡殿に付き従い、最後の戦まで離れなかった者がいたそうだ」
「国衡……!」
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声を隠せなかった。
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「知ってるのか?」
「いや……その名を聞いたことがある」
「うちの『国』は、その国衡殿からいただいた一字だと伝わる。俺の国継も、その一つだ」
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シンは黙った。
伊佐家の昔話に、アテルイもモレも出てこない。
残っているのは、遠い祖が蝦夷だったらしいこと。
イサという音。
空海からもらったという二文字。
そして、さらに後の時代に国衡から受け取ったという「国」の一字。
それだけだった。
けれど、シンには分かった。
アテルイとモレが生きた北でイサも生き、その後を名も知らない子や孫が生き、やがてその一人が国衡のそばへ立った。
そして今、その先に国継がいる。
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(火が、続いてる)
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まっすぐではない。
名前も消えた。
家も形を変えた。
国も滅びた。
それでも誰かが拾って、次へ渡していた。
言葉だったり。
一文字だったり。
昔話だったり。
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(ちゃんと、残ってたんだな)
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胸の奥が、少し熱くなった。
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「シン!」
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余韻は一声で壊された。
浴堂の戸が開く。
湯浴みを終えた顕家が、白い小袖に薄紫の衣を重ねて立っていた。髪は軽くまとめられ、まだ乾ききらない毛先が肩へ落ちている。
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「何をしている! 次へ行くぞ! 兵の稽古、道普請、馬の割り振り、それから訴えが七つだ!」
「もうかよ……」
「もう朝だ!」
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国継が肩を叩く。
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「頑張れ、臨時近習」
「だったら代われ!」
「一歩後ろだぞ」
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国継は笑って逃げた。
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午前の仕事を二つ片づけた後、政務所にはシンと顕家だけが残った。
シンは国継の言葉を思い出し、返事を要する文を先に並べる。
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「次だ」
「これだろ」
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顕家が手を伸ばす前に一枚を置く。
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「ほう。分かってきたではないか」
「合わせるのをやめたんだよ」
「何?」
「一歩後ろからついていくことにした」
「誰に聞いた」
「国継。よく転ぶって」
「国継!」
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いない相手へ怒鳴った。
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「まあよい。この私に遅れずついて来られるなら好きにしろ」
「だから遅れる前提なんだって」
「そこは追いつけ!」
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顕家はすぐ次の文へ戻った。
ふいに筆が止まり、ほんの一瞬だけ遠くを見る。
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「顕家?」
「何でもない。次だ」
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シンは問わなかった。
同時に次の文へ手を伸ばし、指先が触れる。
顔を上げると、思ったより近かった。
湯上がりの髪。
白い襟へ落ちた濡れた一筋。
焚きしめた香と湯の温かさが混じる。
花のような、やけに高そうな香りだった。
いつもの甲冑も烏帽子もない。少し上気した頬まで、妙に近い。
顕家は顕家のままだ。
なのに、ヒカルという名も同じ人の中にあると知ってから、以前よりずっと近く感じる。
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(……そういえば、女なんだよな)
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今さら事実だけが追いついた。
シンは勢いよく横を向く。
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「何だ?」
「いや」
「私を見て、急に黙っただろう」
「見てない」
「見ていた!」
「目の前にいるんだから見るだろ!」
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二人とも固まった。
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「……何を見た」
「何も見てない!」
「今、見ると言った!」
「お前そのものの話だ!」
「その言い方はもっと悪い!」
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顕家の頬が一気に赤くなる。
シンの耳も熱い。
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「近いんだよ!」
「近習なのだから近いのは当然だ!」
「そういう意味じゃない!」
「ではどういう意味だ!」
「言わせるな!」
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顕家がさらに身を乗り出した。
顔が近づく。
濡れた髪の先がシンの手の甲へ触れた。
二人とも止まった。
息が触れそうな距離だった。
顕家の黒い目が、わずかに揺れる。
シンも視線を外せない。
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「……」
「……」
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先に離れたのは顕家だった。
勢いよく身体を引く。
その拍子に、自分の裾を踏んだ。
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「わっ」
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シンは反射的に腕を出した。
顕家の肘を支え、もう片方の手が背へ回る。
身体がぶつかる寸前で止まった。
近い。
さっきより、さらに近い。
顕家の手が咄嗟にシンの胸元を掴んでいる。
互いの呼吸だけが妙にはっきり聞こえた。
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「……転んだ」
「転んでいない!」
「今、完全に転んだだろ」
「まだ倒れていない!」
「俺が支えたからだ!」
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言い返したのに、どちらも動かなかった。
顕家がシンの胸元を掴んだままだと気づく。
シンも、自分の腕が顕家の背へ回ったままだと気づく。
目が合った。
さっきまでの言い合いが嘘のように、急に静かになった。
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「……近い」
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今度は顕家が言った。
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「お前が掴んでるんだろ」
「お前も離していない!」
「支えてるんだよ!」
「なら、もうよい!」
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「……離せ」
「お、おう」
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ほとんど同時に手を離した。
顕家は衣の襟を直し、シンは何もない机の端を見つめる。
どちらも相手を見ない。
妙な沈黙だけが残った。
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「今のは忘れろ」
「無茶言うなよ」
「命令だ!」
「そんな命令あるか!」
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顕家は赤いまま胸を張った。
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「この北畠顕家を何だと思っている!」
「働きすぎで、よく転ぶ変な大将軍」
「国継め……!」
「あと、花のごとく美しいんだろ?」
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顕家が止まった。
シンも、自分で言ってから止まった。
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「……当然だ」
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いつもの半分ほどの声だった。
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「事実だからな」
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顕家は横を向いた。
耳まで赤い。
シンも横を向く。
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「……次の文」
「おう」
「変な目で見るなよ」
「だから見てないって」
「さっき見た!」
「お前が聞いたんだろ!」
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二人の声が、しばらく政務所から消えなかった。
照れていても、顕家は顕家だった。
そのことに、シンは少しだけ安心した。
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そんな日々が、さらに続いた。
シンは顕家と同じ速さで走ることをやめた。
朝の報告を見て、次に厩へ行くか蔵へ行くかを考える。
必要な文を先に並べる。
絵図の脇へ握り飯を置く。
忘れた文書入れを持つ。
座れる時には敷物を押し込み、ふらつけば一歩後ろから腕を出す。
顕家はそのたび、
「まだ大丈夫だ!」
と怒った。
それでも握り飯は消え、文は探す前に手元へ来た。
一度だけ、机へ伏せた顕家を半刻眠らせることにも成功した。
追いつくことだけが、側にいることではない。
シンにも少しずつ分かり始めていた。
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その日の午後。
顕家は政務所で絵図を睨み、シンは飯の椀を置いた。
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「今は要らん」
「小萩さんに言うぞ」
「卑怯な!」
「食え」
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顕家が渋々椀を取る。
その時、山の下から馬の音が駆け上がってきた。
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「伊達方より、急使!」
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泥と汗にまみれた武士が戸口へ転がり込む。
国継も別の戸から入ってきた。
さっきまで飯を前にシンと言い合っていた顕家の顔が変わった。
椀を置く。
笑みが消える。
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「申せ」
「麓の道で敵兵を確認! 伊達方の物見が接触しました。一部が山の裏手へ回ろうとしております!」
「旗は」
「隠しております!」
「数は」
「定まりませぬ。先に騎馬、その後ろに徒歩!」
「荷駄は」
「多くは見えません!」
「最初に矢を交わした場所を示せ」
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顕家は絵図を開いた。
使者の泥のついた指が麓の道を辿る。
一度聞いただけで、顕家の指がすぐ別の細道へ移った。
さっきまで飯を食えと追い回されていた人間とは思えないほど、迷いがなかった。
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「本隊ではない。こちらの兵と道を測りに来た。表で当たり、同時に裏手を探っている」
「追いますか」
「追うな。物見を二つ出し、裏手の守りを増やせ。麓の荷と人は日が落ちる前に内へ入れる」
「は」
「伊達方へ返せ。敵の数だけを見るな。どこへ進みたがっているかを見ろ、と」
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命が次々と飛ぶ。
国継が立つ。
使者も息を整える間もなく顔を上げた。
シンは顕家を見た。
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(顔が変わった)
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湯上がりに赤くなり、裾を踏み、自分の美しさを自分で褒めていた花将軍。
その目が今は、絵図の外にいる敵を見ている。
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「国継」
「は」
「兵を集めろ」
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顕家は立ち上がった。
今度は裾を踏まなかった。
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「私も出る。戦支度だ」
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山の鐘が鳴った。
飯時を告げる音ではなかった。
霊山の日常は、その鐘に断ち切られた。
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(第百二十八話へ)




