それぞれの京
第百二十六話 それぞれの京
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建武四年――或いは延元二年、春。
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京には、朝から細い雨が降っていた。
屋根を濡らす音の下。
足利尊氏は、いつものように笑っていた。
正面には、東国から届いたばかりの書状。
右には、弟の直義。
左には、執事の高師直。
三人の間に積まれた文書は、誰一人として笑うような内容ではなかった。
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「鎮守府将軍、北畠顕家は、義良親王を奉じて伊達郡霊山へ移っております。奥州諸勢へ軍勢催促を重ね、霊山の周囲にも敵勢が動いております」
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報告を終えた使者が、深く頭を下げた。
尊氏は書状へ目を落としたまま、ゆっくり頷く。
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「そうかあ」
「そうかあ、ではありません!」
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直義の声が、雨音を押し返した。
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「越前の金ヶ崎を落としたとはいえ、新田勢は残っています。吉野も諦めてはいない。その上、奥州で北畠顕家が兵を集めているのですぞ」
「集めているだけではございません」
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使者が、伏せたまま言葉を継いだ。
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「霊山へ移ってからも、所領の安堵、恩賞、訴えの裁許に関する文書が各地へ出ております。兵を催す命も、奥州の諸勢へ届いております」
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直義の顔がさらに険しくなった。
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「軍を作る前に、奥州そのものを繋ぎ直している。やはり放置はできぬ」
「兵だけなら、散らせば終わります」
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師直が書状へ目を落とした。
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「土地と裁きを握られれば、散らした兵がまた戻る。こちらへ従う武士を先に増やすべきです」
「うん。困ったと思っているよ」
「顔がまったく困っていません!」
「そうかな」
「笑っておられます!」
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尊氏は自分の頬へ手を当てた。
本当に今気づいたような顔だった。
直義の眉間へ、さらに深く皺が刻まれる。
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「殿の顔は、この際どうでもよろしいかと」
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師直が言った。
声にも顔にも、雨より温度がない。
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「どうでもよくはない! 兄上は足利の惣領だぞ!」
「笑っていても勝てる時は勝ちます。困った顔をしても、敵は減りませぬ」
「それは、そうだが……!」
「師直は分かっているねえ」
「殿は、もう少し困ってください」
「どちらなのだ!」
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直義が畳を叩いた。
使者は顔を伏せたまま、呼吸まで小さくしている。
この三人が揃う場へ初めて来た者は、大抵こうなる。
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「奥州への手は進めています」
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師直が、文書の一枚を前へ出した。
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「こちらへ従う者の所領は安堵する。功があれば恩賞も出す。御教書を出し、現地へ沙汰付けさせるための施行も進めています」
「それだけでは足りぬ」
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直義が即座に返した。
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「同じ土地を二人へ約せば、今は兵を得ても後で争いになる。誰が何を知行し、何を失い、何を訴えているかを確かめねばならん。こちらへ来れば道理に従って裁かれると示すことも必要だ」
「まず敵を散らす。裁許はその後でも間に合います」
「間に合わぬから言っている! 秩序があるから、人は安心してこちらへつくのだ!」
「実際に土地を守られるから、つくのです」
「だから、その土地を正しく守る仕組みが……」
「二人とも」
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尊氏が、笑ったまま片手を上げた。
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「同じことを言っていないか」
「違います!」
「順が違います」
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声が重なった。
尊氏だけが、少し楽しそうに頷いた。
直義は政を整える。
師直は、それを現実の人と土地へ届かせる。
やり方も順番も違うが、どちらが欠けても文書はただの紙になる。
それを尊氏は分かっていた。
分かっているから、二人が言い合っていても止めない。
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「では、奥州の武士へはこちらも声をかけ続ける。坂東では街道と川筋を押さえる。越前は金ヶ崎の後を固める。これでよろしいですね、兄上」
「うん」
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直義がようやく息を吐いた。
だが、尊氏は書状から手を離さない。
親指だけが、北畠顕家の名の上で止まっていた。
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「できれば、来ないでほしいなあ」
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直義が、また顔を上げた。
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「来させぬために、今、手を打っているのです」
「来るなら、坂東で潰します」
「そうではなくて」
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尊氏は、やはり笑っていた。
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「鎮守府将軍殿は、速いから」
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部屋が静かになった。
一度目の西上。
奥州にいるはずだった軍が、関東へ現れた。
鎌倉を抜き、東海道を駆け、気づけば京の近くまで来ていた。
先触れより軍が先に見えた。
昨日まで安全だった道が、朝には敵の道になっていた。
尊氏は、兵の数よりも、その速さの方を鮮明に覚えていた。
顕家がどの道を来るか考えた時には、もうその道を通り過ぎている。
迎え撃つ場所を決めた時には、別の場所で味方が崩されている。
若さも、公家育ちであることも、戦場では侮る理由にならなかった。
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「兵の多い少ないではない。あれは、気づいた時にはもう目の前にいる」
「ゆえに、道を塞ぎます」
「塞がれていたら、別の道を通るよ」
「ならば、その道も塞ぎます」
「三つ塞いだら、四つ目を見つける」
「四つとも潰します」
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師直は一度も表情を変えなかった。
尊氏が、また楽しそうに笑う。
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「師直は怖いなあ」
「殿が安穏すぎるのです」
「私は怖がっているよ」
「それで?」
「来たら、戦う」
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軽い声だった。
だが、直義も師直も笑わなかった。
それを言った尊氏が、戦場で何をする男か知っている。
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「来ると思うか」
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尊氏が尋ねた。
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「来ます」
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直義は迷わなかった。
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「吉野が、奥州の兵を放っておくはずがありません」
「来させぬために手を打ちます」
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師直が続けた。
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「それでも来るなら、途中で潰します」
「そうかあ」
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尊氏は、最後まで笑っていた。
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「それは、困ったなあ」
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大和国、吉野。
雨は、山の木々を白く煙らせていた。
京の内裏には遠く及ばぬ行宮で、後醍醐天皇は一通の報せを見ていた。
越前。
金ヶ崎。
城は落ちた。
尊良親王は自害し、恒良親王は敵の手に落ちた。
紙に並ぶ文字は少ない。
その少なさの中へ、人の死と敗北だけが詰め込まれていた。
後醍醐は、しばらく紙から手を離せなかった。
皇子である前に、自分の子だった。
だが、父として嘆く時間を持てば、その間にも次の城が落ちる。
帝である自分には、死を悲しむより先に、その死の後を決める責任があった。
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「新田は、なお越前にございます」
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近臣が、低い声で言った。
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「……だが、北へ置いた足場は失われた」
「は」
「足利は京にいる。越前へ兵を出し、坂東へも命を届かせている。このまま時を与えれば、従う者は減る」
「越前の軍を立て直し、機を待つことは」
「待つ間に、足利は待たぬ」
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後醍醐は、諸国から届いた注進と、道筋を書き付けた紙へ目を落とした。
越前の兵は傷つき、伊勢はまだ諸勢力を繋いでいる途中だった。
吉野の周囲だけで、京へ道を開けるほどの兵はない。
使えるものを一つずつ考えた。
どれも足りなかった。
最後に残った名を、すぐには口にしなかった。
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後醍醐は報せを置いた。
吉野へ来ても、帝であることは変わらない。
官位を授ける。
綸旨を下す。
自分を正統と信じて付き従う者も、まだ各地にいる。
いや。
信じるかどうかではない。
自分こそが天子なのだ。
鎌倉を倒し、政を天皇の手へ取り戻そうとしたのも、そのためだった。
足利が京にいようと、別の帝を立てようと、天が自分へ道を示し続ける限り、正統がどちらにあるかなど疑う余地はない。
だが、命じた言葉が人と兵へ届くまでには時がかかる。
京の足利が出す安堵の方が早ければ、人はそちらを見る。
正しいだけでは、国は戻らない。
力が要る。
誰の目にも見える力が。
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「東の兵を動かす」
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近臣の肩が、わずかに強張った。
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「……再び、顕家卿を?」
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後醍醐は、すぐには答えなかった。
昨冬、すでに顕家には上洛を促している。
東国の兵を催し、西へ進めと。
それでも顕家は来ていない。
帝の命を軽んじたからではない。
奥州そのものが戦場だった。
義良親王を守り、兵を集め、敵方を抑え、崩れかけた北の政を繋いでいる。
顕家自身からも、奥州の擾乱ゆえ上洛が遅れているとの報せが届いていた。
顕家はまだ若い。
一度目の西上で、すでに多くを失っている。
再び急かせば、奥州も、顕家自身も、無事では済まない。
かつて北山の行幸で、後醍醐自身が笛を吹き、その御前で陵王を舞った少年の姿を覚えている。
列座する大人たちの目を集めながら、顕家は最後まで舞い切った。
その少年へ、今は果ての見えぬ北と、一人の皇子と、数多の兵を預けている。
さらに京まで取り戻せと命じようとしていた。
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(また、あの者を使うのか)
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迷いは、確かにあった。
他の者で足りるなら、他の者を使う。
時を待てるなら、待たせる。
だが、金ヶ崎から来た紙が、その余地を一つずつ消していた。
帝として考え抜いた先にも、顕家の名しか残らない。
その時。
迷いとほとんど同じ場所から、別の言葉が立ち上がった。
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『京へ』
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声は、外から聞こえたようにも思えた。
初めから自分の中にあったようにも思えた。
後醍醐は目を閉じる。
誰の声なのかなど、考えたことはなかった。
神か。
仏か。
皇祖か。
名など、どうでもよい。
天が、自分へ語っている。
それだけで十分だった。
この声を聞く自分こそが天子であり、天の示す道を地上へ行うことこそ、その務めなのだ。
だから従う。
従うというより、もはやそれは後醍醐自身の意志と分けることができなかった。
自分は京へ戻らなければならない。
天皇が政を行い、自ら国の形を正す。
それを成し遂げるために鎌倉を倒した。
足利へ国を渡すためではない。
京を取り戻さなければ、自分に従って死んだ者も、今なお戦う者も、見捨てることになる。
そして何より。
天が、京へ行けと言っている。
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『京へ』
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近臣が何か言いかけていた。
後醍醐には、もう聞こえていなかった。
目の前には越前の敗報がある。
奥州には疲れた顕家がいる。
伊勢では親房が兵と道を繋いでいる。
すべて分かっている。
だが、それらは天の示す道を変える理由にはならない。
むしろ困難があるからこそ、天子が決めなければならない。
この声を疑うことは、自らが天子であることを疑うことと同じだった。
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「奥州へ、重ねて勅を下す」
「しかし、顕家卿は義良親王殿下を奉じております。奥州の守りも……」
「すべて分かっている」
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声は荒くなかった。
分かってなお、命じるのだ。
後醍醐にとって、それは冷酷さではなかった。
天子として果たすべき務めだった。
だからこそ、近臣はそれ以上を言えなかった。
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「顕家でなければ届かぬ」
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若いから命じるのではない。
すでに一度、成し遂げたから命じる。
その信頼が、同じ者へばかり犠牲を重ねることも、後醍醐は理解しているつもりだった。
だが、その犠牲の重さよりも、その先にある京を見ていた。
天が示した京を。
後醍醐は、もう一度だけ金ヶ崎の報せを見た。
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「……顕家を呼べ」
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伊勢国。
南朝の重鎮。従一位准大臣、北畠親房。
その前には、吉野と奥州、二つの方角から来た文が並んでいた。
その横には、伊勢の郡と道、港を書き付けた絵図。
南朝方へつく者の名と、足利方へ傾いた者の名。
一枚の紙へ目を通す間にも、別の土地が離れていく。
親房は筆を置く暇もなく、次の文を開いた。
吉野からの文には、顕家へ改めて西上を促す意向が記されていた。
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「霊山では、顕家卿のもとへ兵が集まりつつあるとのこと」
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側に控えた者が言った。
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「敵方も霊山の周囲で動いております。今すぐ奥州を離れるのは、難しいかと」
「分かっている」
「ですが、顕家卿ならば」
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言葉が一度止まった。
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「顕家卿ならば、再び京まで兵を進められましょう」
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親房の手が止まった。
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「……だから困るのだ」
「は?」
「できぬ者なら、帝も二度は求めぬ」
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親房は奥州からの報せへ目を戻した。
顕家が霊山へ移ったこと。
義良親王が無事であること。
雪解けの道で兵と馬を整え、敵方の動きへ備えていること。
文面は整っている。
弱音は一つもない。
それが何より不安だった。
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「あれは、できてしまう」
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幼い頃からそうだった。
人より早く覚える。
人より先に気づく。
求められたことを、求められた以上に果たす。
そして一度できたことは、次もできると思われる。
一度、奥州から京まで駆けた。
ならば二度目も。
一度、帝を救った。
ならば今度も。
誰も、その間に顕家が何を削ったかは数えない。
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「帝へ、猶予を願われますか」
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側の者が、慎重に尋ねた。
親房は目を閉じた。
父として願うなら、今は奥州に留めたい。
義良を守り、まず北の政を立て直させたい。
兵を整え、背後を固めてから動かしたい。
だが、親房は伊勢の絵図も見ていた。
金ヶ崎は落ちた。
吉野は孤立し始めている。
この伊勢で集めている人も、物も、道も、京の足利が固まれば一つずつ断たれる。
南朝を残すには、戦況を動かす力が要る。
それを持つ者が、自分の子であることも知っている。
気にかかることが、もう一つあった。
帝は、京へ戻ることを急ぎ続けている。
顕家は、その望みを果たすため、休むことさえ罪のように走り続けている。
どちらも元から意志の強い人間だった。
それでも親房には、二人の確信が同じ方角へ強まりすぎているように思えた。
なぜ、そこまで急ぐ。
なぜ、一度も立ち止まれぬ。
答えはまだなかった。
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「願わぬ」
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親房は答えた。
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「ここで私が猶予を願っても、別の使いが奥州へ走るだけだ。帝は顕家を必要としておられる」
「では、すぐに出立を?」
「急がせるな」
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返答だけが鋭くなった。
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「勅には従わせる。だが、兵を集める前に走らせれば、途中で軍が崩れる。奥州の敵を背に残せば、帰る場所も失う。馬を休ませ、兵糧を整え、義良親王殿下の守りを固める。出るとしても、それからだ」
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親房は新しい紙を取った。
帝の命だけを送れば、顕家はその日のうちにでも走り出しかねない。
自分の身体も、兵の疲れも、奥州に残すものも、すべて後へ回す。
それを誇らしく思ったこともある。
そう育ててしまったのが、自分であることも分かっていた。
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「私からも文を添える」
「何と」
「勅に従えと」
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親房は筆を墨へ入れた。
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「そして、急ぐことと、備えを捨てることを同じにするなと書く。兵を飢えさせるな。馬を潰すな。殿下を何より先に守れ。自分一人で、すべてを背負うな」
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最後の一つだけは、命ではなかった。
親房はそれを消そうとして、やめた。
忠節とは、先に死ぬことではない。
生きて役目を果たせと、父が書かなければならなかった。
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「顕家卿は、来るでしょうか」
「来る」
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今度は、親房も迷わなかった。
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「勅が届けば、あれは来る。自分が来なければ誰かが死ぬと思う者だ」
「ならば、なぜ」
「だから困ると言った」
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側の者は黙った。
親房は文を書き終える。
折り、封じ、使者へ渡すよう命じた。
人が部屋から下がる。
足音が完全に遠ざかってから、親房は封じた文へ手を置いた。
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「……ヒカル」
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私名を呼んだのは、一度だけだった。
しばらく目を閉じた後、親房はその感情を胸の内へしまう。
父であることは捨てられない。
それでも今は、吉野を支え、伊勢を繋ぎ、奥州を動かさなければならない。
親房は次の文を開いた。
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京では、一人の若い敵将を来させぬため、道と人と土地が動き始めた。
吉野では、その若い将を急がせる新たな勅が下った。
伊勢では、できるなら今は留めたい父が、それでも自ら文を添えた。
吉野からの勅と、伊勢からの父の文は、東へ向かう。
雨に濡れた山路を抜ける。
川を渡り、峠を越え、足利方と吉野方の土地の間を縫う。
人の噂より先に文が走り、兵より先に命が国を動かしていく。
霊山からは、まだ一人の兵も京へ向けて踏み出していない。
それでも、道を塞ぐ者、進めと命じる者、無事に役目を果たせと願う者は、それぞれに動き出していた。
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その頃。
霊山。
政務所には、まだ灯りが残っていた。
顕家は机の前に座り、積まれた文へ次々と目を通している。
兵糧。
馬。
道。
諸家からの返答。
霊山の周囲で動く敵勢。
一枚を読み終えれば次。
筆を置けば、すぐ別の文へ手が伸びる。
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「殿、もう夜です」
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国継の声がした。
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「知っている」
「知っていて、まだやるんですか」
「あと三枚だ」
「その三枚が終わる頃には、また三枚増えてますよ」
「なら六枚読む!」
「そういう話ではありません」
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顕家は笑って次の文を開いた。
その時だった。
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『京へ』
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筆が止まる。
以前にも聞いた。
物見で、義良親王と京の話をした時。
あの時は、一声だけだった。
だが今度は違った。
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『京へ』
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近い。
前よりも、はっきりしている。
耳の奥ではない。
胸の内でもない。
それでも、どこから聞こえるのかは分からなかった。
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「殿?」
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国継が顔を上げた。
顕家は答えなかった。
遠い吉野からの勅も。
伊勢からの父の文も。
まだ霊山には届いていない。
それなのに。
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『京へ』
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声だけが、先に来ていた。
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