花将軍の秘密
第百二十五話 花将軍の秘密
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「……女?」
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声に出したはずなのに、三つのものがひとつにならなかった。
北畠顕家。
鎮守府大将軍。
女。
腕の中にいるのは、間違いなく顕家だった。何度見ても顔は同じで、首に触れれば脈もある。呼吸も浅いながら続いている。
それなのに、最後の一つだけが頭の中で繋がらない。
シンは顕家を抱えたまま、湯気の中で完全に固まっていた。
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「顕家様」
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外から速い足音が来た。
戸が開き、小萩が入ってくる。
最初に見たのは、床へ転がった湯桶だった。
次に、濡れた簀子へ膝をつくシン。その腕の中で力を失っている顕家。
小萩の顔から、すっと表情が消えた。
戸の外へ一度だけ目をやる。人影がないことを確かめると、すぐに戸を閉めた。
それから顕家の側へ膝をつき、額へ触れる。首へ指を当てる。呼吸を確かめる。
ようやく小萩の目がシンへ向いた。
顕家を抱いたまま固まっている顔を見て、ほんの一瞬だけ眉が動く。
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「……見たね」
「え」
「今はいい。顕家様を運ぶよ。落とさないよう、しっかり支えな」
「俺が運ぶのか?」
「そうだよ。ここで他の者を呼べば、顕家様がこの姿で倒れていたことまで知られる」
「……あ」
「今、このことを知ってるのは私とあんただけだ。増やさずに済むなら、その方がいい」
「……分かった。俺が運ぶ」
「それでいい。しっかり抱えな」
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小萩は前の間から乾いた布と小袖を持って戻り、迷いのない手で顕家を包んだ。胸元から足まで覆い、濡れた髪を布の外へ出す。
ようやくシンの身体も動いた。
肩と膝の下へ腕を入れ直し、顕家を抱き上げる。
布越しにも熱かった。
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「人に会わない道を行くよ」
「わ、分かった」
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小萩が先に立った。
夜の霊山を、灯りの少ない裏道だけ選んで進む。
顕家は軽かった。
白と金の袖を翻し、朝から晩まで霊山中を走り回っていた人間とは思えないほど軽い。濡れた黒髪だけがシンの腕からこぼれ、歩くたびに小さく揺れた。
誰ともすれ違わず、顕家の私室へ入る。
小萩は寝具を広げると、シンへ目で合図した。
顕家をそっと横たえる。
小萩はすぐに額と脈へ触れ、濡れた髪を拭き、首元へ乾いた布を当てた。
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「顕家は」
「息はある。熱もあるね。ひどく疲れてる」
「でも」
「ここからは私が見る」
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シンは、その場から動けなかった。
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「……顕家って」
「今日は聞くんじゃない」
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小萩の手が止まった。
振り返った目が、今度はまっすぐシンを見る。
浴堂で見せた一瞬の驚きは、もうどこにもなかった。
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「今夜は部屋へ戻りな。話は顕家様が目を覚ましてからだ。それから、さっき見たものは誰にも言うんじゃないよ」
「……モモにも?」
「誰にもだよ」
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シンは少し迷ってから、頷いた。
小萩はその顔をしばらく見ていたが、それ以上は何も言わなかった。
再び顕家へ向き直る。
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部屋へ戻ると、モモは起きていた。
小さな灯りの脇で壁にもたれ、膝の上にフツを置いている。
戸を開けたシンを見ると、すぐに顔を上げた。
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「遅かった」
「……うん」
「何かあった?」
「いや」
「嘘」
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一息で見抜かれた。
いつもなら話していた。
分からないことも、怖かったことも、大事なことほど二人の間へ置くのが当たり前になっていた。
言葉は喉まで出た。
顕家が女だった。
けれど、あれはシンの秘密ではない。
偶然知った自分が、勝手に誰かへ渡していいものではなかった。
シンは口を閉じた。
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「言えない?」
「……今は」
「りょ。」
「聞かないのか?」
「言えないなら、聞かない」
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それだけだった。
モモは問い詰めず、シンの濡れた袖をつまんだ。
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「袖、濡れてる」
「……そこも聞かないでくれ」
「りょ。」
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乾いた布を渡される。
信用されているのだと思うと、隠していることが余計に落ち着かなかった。
シンは袖を拭き、一組だけ敷かれた寝具を見る。
眠れる気はまるでしない。
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「眠れない?」
「たぶん」
「横になる?」
「横になっても眠れない気がする」
「じゃあ、寝るまで付き合う」
「お前、寝ないだろ」
「うん」
「それ、付き合うって言うのか?」
「うん」
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モモは当然のように頷いた。
それから立ち上がり、シンの前まで来る。
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「何?」
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答える代わりに、額が触れた。
黒い髪が頬をかすめ、桃の匂いが急に近くなる。
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「熱ある?」
「近い近い近い!」
「熱い」
「それはお前が近いからだ!」
「?」
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本当に分かっていない顔だった。
モモがもう一度額を寄せようとする。
シンは両手で自分の額を守った。
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「熱はない! 大丈夫!」
「なら、横になる」
「……分かったよ」
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モモは先に寝具の壁側へ入り、空いた半分を軽く叩いた。
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「ここ」
「本当に一緒に入るの?」
「寝るまで付き合う」
「そういう意味だったのかよ……」
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シンもしばらく迷った末、外側へ身体を入れた。
一人用の寝具に二人。肩をまっすぐにしても、互いの腕が触れそうになる。
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「狭い」
「一人用だからな」
「わたし、出る?」
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モモが起き上がろうとした。
シンは一瞬迷い、その袖を掴む。
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「……いや。いい」
「いい?」
「今は、そのままでいてくれ」
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モモがシンを見る。
灯りの中で、少しだけ瞬きをした。
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「りょ。」
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モモは何も言わず、またシンの隣へ身体を戻した。
灯りを消した。
暗くなると、浴堂で見た身体より、これまで見てきた顕家の方が浮かんだ。
馬の右前脚を見抜いた顔。
泥へ入って鍬を振るっていた姿。
自分の美貌を自分で褒め、胸を張って笑っていた大将軍。
そして、誰もいない浴堂で倒れていた顕家。
全部、同じ一人だった。
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(女だった)
(……いや、だから何なんだ)
(でも、北畠顕家って)
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なぜ男として生きているのか。
誰が知っているのか。
知られれば何が起きるのか。
考えるほど眠気は遠ざかった。
隣で布が動いた。
モモの指が、シンの袖を軽く掴む。
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「まだ起きてる」
「モモもだろ」
「わたしは寝ない」
「そうだった……」
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少し間が空いた。
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「……本当に聞かないんだな」
「うん」
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暗闇から、短い声が返る。
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「話さなくても、ここにいる」
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袖を掴む指は、そのままだった。
シンはやっと目を閉じた。
それでも、朝までに眠れたのはほんのわずかだった。
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朝の光が障子を白くした頃、シンは寝具の端で目を開けた。
身体が固い。目の奥も重い。
隣を見ると、モモは壁際へ身体を起こしていた。
たぶん、シンが眠った後もほとんど同じ場所にいたのだろう。
目が合うと、水の入った椀を差し出してくる。
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「寝た?」
「少しだけ」
「顔、ひどい」
「自分でも分かる」
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水を受け取る。
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「モモ、ずっと隣にいたのか?」
「うん」
「……ありがとな」
「りょ。」
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モモはいつも通りの顔で答えた。
その短さが、今は少しありがたかった。
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戸を叩く音がした。
開けると、小萩が立っている。
シンの顔を見るなり、眉を上げた。
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「ひどい顔だね」
「さっきも言われた。顕家は?」
「生きてるよ。朝から文句を言えるくらいにはね」
「よかった……」
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息を吐いたシンへ、小萩が続けた。
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「その顕家様がお呼びだよ。お前一人で来いってさ」
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後ろでモモも立ち上がる。
小萩は首を振った。
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「悪いけど、今日はシンだけ」
「りょ。」
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モモはあっさり座り直した。
出ていこうとするシンの襟だけ引き、曲がった合わせを直す。
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「いってらっしゃい」
「……行ってくる」
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何を話すのかも聞かない。
シンは、その信頼まで背負わされたような気分で小萩の後を歩いた。
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顕家は自分の部屋にいた。
寝具の上へ座り、脇息に身体を預けている。
白と金の大仰な装束も、黒い烏帽子も、金の髪飾りもない。淡い小袖を重ね、長い髪を飾りのない紐で束ねていた。
顔色はまだ白い。
いつもなら座っているだけでも胸を張る人間が、今日は脇息から背を離そうとしない。
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「連れてきましたよ」
「……うむ」
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返事まで小さい。
小萩はシンを中へ入れると、戸を閉めた。
二人きりになった。
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「座れ」
「うん」
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向かいへ座る。
顕家がシンを見る。
目が合いそうになると逸らす。
また見て、また逸らす。
いつもの顕家なら、先に睨み返してくるところだった。
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「……何?」
「何でもない!」
「絶対何かあるだろ」
「あるから呼んだのだ!」
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ようやく声が少し戻った。
顕家は一度咳払いをする。
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「……昨日のことだ」
「うん」
「どこまで見た」
「どこまでって」
「そのままの意味だ!」
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シンは答えに詰まった。
顕家の顔がすでに赤くなり始めている。
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「……全部」
「ぜ、ぜんぶ!?」
「だから、全部」
「言うなぁ!」
「聞いたのお前だろ!」
「忘れろ!」
「無理だよ!」
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顕家が脇息から勢いよく身体を起こす。
そのまま少しふらつき、慌てて片手をついた。
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「ほら、まだ無理するなって」
「これは違う!」
「何が」
「今のは、その……勢いだ!」
「同じだろ」
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顕家は言い返そうとして、諦めたように脇息へ戻った。
首まで赤い。
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「……見たくて見たんじゃない」
「分かっている」
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今度の返事は小さかった。
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「お前が入らなければ、私はあのままだった」
「倒れた音がしたから入っただけだ」
「それでもだ」
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顕家は膝の上で指を組んだ。
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「助けられた。礼を言う」
「どういたしまして」
「……だが、それとこれとは別だ。昨日見たことは外で口にするな」
「言わないよ」
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顕家が顔を上げる。
少しだけ迷った後、今度は目を逸らさなかった。
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「見た通り、私は女だ」
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その一言だけで、部屋の空気が変わった。
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「だが、幼い頃から北畠家の男子、北畠顕家として人前へ出てきた。今はこの名で陸奥守と鎮守府大将軍を務め、義良親王殿下をお預かりし、奥州の兵を率いている」
「何で、そこまでして」
「それは……今、すべて話せることではない」
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顕家は一度、息を整えた。
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「ただ、秘密が明るみに出れば、私だけでは済まん。父も、北畠家も、殿下も、私に従う奥州の者たちも巻き込む。私が受けた官位も、これまで下した命も、帝方を揺さぶる材料にされる」
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細かな政治は分からない。
それでも、これは顕家一人の身体の話ではないのだと分かった。
男として生きてきた年月の上へ、霊山にいる大勢の立場まで積み重なっている。
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「じゃあ……」
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シンは言葉を探した。
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「北畠顕家っていうのは、偽物なのか?」
「違う」
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返事は一瞬だった。
顕家が脇息から背を離す。
今度はふらつかない。
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「北畠顕家は私だ。この名で育ち、この名で官位を受け、この名で兵を率いてきた。身体が何であろうと、それは変わらん」
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そこだけは、いつもの大将軍の声だった。
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「そっか」
「……それだけか?」
「違うって言うなら、それでいいだろ」
「お前は……」
「昨日までと同じ顕家だよ。馬の脚を見て、泥の中に入って、飯も食わずに働いて、最後に倒れる」
「最後は要らん!」
「そこが一番大事だろ」
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顕家は睨んだ。
けれど、すぐに目を逸らした。
さっきまで真っ赤だった頬に、今度は少し違う色が残っている。
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「じゃあ、元々は何て呼ばれてたんだ?」
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顕家の肩が、ほんの少し固くなった。
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「なぜ聞く」
「顕家って名になる前から、名前はあったんだろ」
「……」
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すぐには答えなかった。
断ろうと思えば断れたはずだった。
それでも顕家はしばらく膝の上を見た後、低く口を開いた。
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「……ヒカル」
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いつもの声とは違った。
霊山中へ響かせるための声ではない。
誰にも聞かせないよう、そっと置かれた名前だった。
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「ヒカル」
「二度言うな」
「ごめん」
「母がつけた名だ」
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顕家はそれ以上を話さなかった。
シンも聞かなかった。
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「じゃあ、二人の時くらいはヒカルって呼んでもいいのか?」
「呼ぶな!」
「何で教えたんだよ!」
「お前が聞いたからだ!」
「だったら呼んでもいいだろ!」
「よくない!」
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また声だけは元気になった。
顕家は一度息を吐き、少し気まずそうに横を向く。
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「……今は、顕家でいい」
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さっきよりずっと小さかった。
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「分かった」
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シンがそれ以上何も言わないと、顕家の肩からわずかに力が抜けた。
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「ヒカルという名も、今の話も、外では決して口にするな」
「言わない」
「……本当に?」
「俺の秘密じゃないから」
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顕家が黙る。
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「見たのは事故だ。でも、俺が勝手に誰かへ話していいことじゃない。それくらいは分かる」
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細められていた目が、ほんの少し緩んだ。
けれど次の瞬間、顕家は顎を上げた。
公の大将軍が戻ってくる。
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「さて、シン」
「何だよ」
「お前には二つの道がある」
「嫌な予感しかしない」
「一つ。ここで死ぬ」
「待て」
「二つ。今日から私の側を離れるな」
「選択肢になってない!」
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顕家は堂々と胸を張った。
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「秘密を知った者を、そのまま自由にしておくわけにはいかん。だが、お前は昨日、私を助けた。恩人を殺したくはない」
「じゃあ最初から二つ目だけ言えよ!」
「一応、選択肢は示した!」
「選ばせる気なかっただろ!」
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顕家は一度だけ高く笑いかけ、まだ頭が痛むのか途中で額を押さえた。
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「……ともかくだ。お前が秘密を売る男には見えん。だが、それだけで殿下や皆の立場まで賭けるわけにもいかない」
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そこだけは冗談ではなかった。
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「だから、私の目の届くところに置く。勝手にいなくならぬよう、口を滑らせぬよう、私自身が見張る」
「やっぱり監視じゃん」
「そうだ!」
「そこは否定しろよ!」
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ようやく、いつもの顕家らしい顔で笑った。
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「モモにも言うなってこと?」
「当然だ。知らぬのだろう?」
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昨夜のモモが浮かんだ。
何も聞かず、袖を掴んでいた指。
シンは少しだけ迷う。
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「……知らない」
「なら、そのままにしておけ」
「でも、俺はモモと離れないぞ」
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顕家が一瞬だけ瞬きをした。
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「……誰も離れろとは言っていない。あの女には、あの女の目と働きがある。お前と共にいるなら、必要な時は二人で来ればよい」
「じゃあ何が変わるんだ?」
「お前が勝手に私の目の届かぬところへ行けなくなる!」
「やっぱり監視だ!」
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死ぬか、顕家の近くで監視されるか。
選べるようで、何も選べない。
シンは大きく息を吐いた。
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「……分かったよ。側にいればいいんだろ」
「よろしい!」
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顕家は一気に胸を張った。
顔色はまだ悪いのに、声だけは完全に大将軍へ戻っている。
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「では今日より、お前は私付きの臨時近習だ!」
「きんじゅう?」
「私の側に控え、必要な時に働く者だ!」
「昨日まで客だったんだけど」
「昇進だ!」
「絶対違う!」
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顕家は満足そうに頷いた。
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「それ、ちゃんとある役目なのか?」
「近習はある」
「臨時は?」
「今つけた」
「そこは今決めたのかよ!」
「お前は臨時だからな!」
「主な仕事は?」
「私の側を離れぬことだ!」
「それ仕事なの?」
「重要任務だ!」
「他には?」
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顕家が一瞬止まった。
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「……これから決める!」
「決まってないじゃん!」
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その時、戸が開いた。
廊下で待っていた小萩が、当然のように入ってくる。
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「ちょうどいい」
「何がだ、小萩」
「近くに置くなら、私からも仕事をやるよ」
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小萩はシンの前へ座り、指を折った。
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「飯を食ったか。ちゃんと寝たか。ふらついてないか。無茶をしてないか。お前も見てな」
「待て小萩! 私の近習だぞ!」
「だから使うんだよ。私一人じゃ、あんたを見張りきれない」
「大将軍を見張る近習がどこにいる!」
「ここにできたじゃないか」
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小萩の指が、シンへ向く。
顕家が口を開けたまま止まった。
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「俺、顕家を休ませるために昇進したの?」
「秘密を守るためだ!」
「休ませるのはついでだよ」
「ついでで仕事を増やすな!」
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顕家の声が部屋いっぱいに響いた。
少なくとも、昨日よりは元気そうだった。
昨日まで、シンは霊山の客だった。
昨日の夜、大将軍の秘密を知った。
今朝、その奥にあるヒカルという名まで知った。
そして今、なぜか大将軍の側を離れてはいけない役目を与えられ、食事と睡眠まで見張ることになっている。
モモには言えない。
顕家は、自分で作った臨時近習という役目に満足そうだ。
小萩も、見張り役が増えたことには満足そうだ。
状況を理解できていないのは、どうやらシンだけだった。
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(……これから、どうなるんだ)
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