はたらく花将軍
第百二十四話 はたらく花将軍
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霊山へ来てから、三日ほどが過ぎた。
道の端に残っていた雪は細くなり、昼には泥の表面が少し乾く。朝晩はまだ寒いが、シンは借りた上着を着たままなら震えずに歩けるようになっていた。
何より、仕事ができた。
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「それを上へ運ぶ」
「それって、どれ?」
「全部だ」
「聞かなきゃよかった……!」
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タダが指した薪の山は、シンの背丈ほどあった。
二人で背負える束へ分け、坂の上の炊事場まで運ぶ。戻れば、今度は空いた木箱を下ろす。途中で馬の水を替え、崩れた土へ枝を敷く。
客という身分は、どうやら働かなくてよいという意味ではなかった。
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「おい、そこへ積むな!」
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朝からよく通る声が飛んだ。
薪束を抱えたまま振り返ると、白と金の装束が薪場の端に立っていた。
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「下の木が濡れている。重ねれば上まで湿るぞ。乾いたものと分けろ」
「朝から何してんだ?」
「仕事だ!」
「見れば分かるけど」
「ならよろしい!」
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顕家は一番下の薪を一本抜き、切り口を見せた。確かに色が濃く、触れば冷たい。
薪を任されていた兵が慌てて積み直す。
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「下へ横木を二本入れろ。地へ直接置くから湿るのだ」
「殿、それを言いに来たんですか」
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後から来た国継が尋ねた。
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「違う。お前を捜していたら、私の慧眼が仕事を見つけた」
「私はずっと殿の後ろにいました」
「……なら今ので見つけた!」
「人を落とし物みたいに言わないでください」
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国継に連れられ、顕家は坂を上っていった。
その背中を見送り、シンは笑った。
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「あいつ、本当に偉いんだよな?」
「偉い」
「朝から薪をひっくり返してたけど」
「薪も大事だ」
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タダは顕家ではなく、薪の方へ頷いた。
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昼、シンは厩にいた。
水桶を替え、馬の前へ干し草を置く。馬はシンの袖を一度嗅ぎ、食い物ではないと分かると顔を背けた。
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「失礼なやつだな」
「袖は食えない」
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隣でモモが言った。
午前は顕家の近くで絵図を見ていたはずだが、国継に頼まれた馬の数を確かめに来たらしい。
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「今日、何してた?」
「米を数えた」
「俺は米を運んだ」
「同じ」
「全然違う……」
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モモが首を傾げた時、厩の奥から白い袖が出てきた。
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「その馬は明日使うな」
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また顕家だった。
馬の前へしゃがみ、右の前脚へ手を添えている。
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「さっき、別の場所にいなかった?」
「いたぞ」
「どうしてもうここにいるんだよ」
「私だからだ!」
「答えになってない」
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国継まで後ろから現れた。
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「殿、また私を置いて走りましたね」
「お前が遅いのではない。私が速い!」
「それで納得するしかないのが腹立たしいですね」
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顕家は笑い、馬の蹄を示した。
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「右を庇っている。蹄だけでなく膝も見ろ。今日は冷やし、明日も歩かせるな」
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馬を見ていた男が、何度も頷いた。
夕方には膝が熱を持ち、休ませた判断が正しかったと分かった。
顕家はそれを見届ける前に、もう兵糧蔵にいた。
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「塩を壁へつけるな。雨が来れば湿る!」
「今度は蔵かよ」
「今度とは何だ!」
「いや、何でもない」
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蔵を出た顕家は、そのまま兵の稽古場で足を止めた。
到着したばかりらしい一団が、昨日からいる兵と同じ列へ入れられている。
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「その二組を混ぜるな」
「しかし、同じ人数に分けた方が」
「数が同じでも疲れは同じではない。今朝来た者は足が腫れている。今日は弓だけにしろ」
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言われた兵が、驚いて自分の足元を見た。
草鞋の緒が食い込み、足首の辺りが赤く膨らんでいる。
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「顔も見ないで、よく分かったな」
「歩幅を見れば分かる。顔だけ見て人を使うな」
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顕家はそう言い、少し考えてから胸を張った。
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「もっとも、私ほど美しい顔なら見る価値はあるがな!」
「最後の一言で全部台無しだよ」
「事実を加えただけだ!」
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シンは、少し面白くなっていた。
霊山のどこへ行けば顕家がいないのか、試したくなる。
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夕餉には、別々に働いていたシンとモモが同じ板間へ戻った。
シンの袖には藁がつき、モモの指先には薄く墨がついている。
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「午後は?」
「絵図を見た。塩も数えた」
「俺は馬の世話をした」
「同じ」
「まだ言うのか」
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シンが飯を一口食べる。
モモも隣で、静かに汁を口へ運んだ。
朝には別の場所へ向かい、飯になれば戻ってくる。ほんの数日前まで知らなかった山で、それが少しずつ一日の形になっていた。
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その夜、水を飲みに外へ出た。
僧坊の火はほとんど落ちている。見張りの松明だけが、木々の向こうをゆっくり動いていた。
だが、政務所には灯りがあった。
開いた戸から覗くと、文書の山の間に黒い烏帽子が見える。
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「怖っ」
「何がだ!」
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顕家が顔を上げた。
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「何でまだいるんだよ」
「昼に終わらなかった分だ!」
「じゃあ寝るのは?」
「終わったらだ!」
「終わるの?」
「終わらせる!」
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筆を持つ手は止まらない。
シンは水を飲み、部屋へ戻った。
モモは昨夜と同じように、壁際へ座っていた。
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「顕家、まだ働いてた」
「うん」
「知ってた?」
「灯りが消えてない」
「あいつ、仕事好きすぎるだろ」
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モモは答えなかった。
閉じた戸の向こうを、しばらく見ていた。
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その翌日は、朝から使者が重なった。
北から来る兵の列が雪解けの道で遅れ、南では敵方らしい騎馬が動いた。麓の蔵では屋根から雨が入り、俵の一部が濡れたという。
三人の使者が、ほとんど同時に膝をつく。
顕家は一人目の言葉を聞きながら二人目の書状を開き、三人目の泥だらけの袖を見た。
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「北へ返書! 遅れた者を走らせるな。今いる場所で組を整え、馬を休めてから上がれ! 南へは騎馬を出すな。物見を二人増やせ! 濡れた俵だけ分け、乾いた場所へ移せ。勝手に開くな!」
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国継の筆が止まった。
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「殿、三つ同時に言わないでください」
「私は分かっている!」
「私たちが分からないんです」
「耳は三つないので」
「……それもそうだな。よし、一つずつ言う!」
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シンは一つ目の返事を聞いている間に、二つ目を忘れていた。
モモだけが三枚の書状を順に取り、別々の文箱の前へ置く。
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「南は、もう戻ってる」
「何?」
「報せが古い。攻めるためなら、今ごろ次の物見から報せが来る」
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顕家が南からの書状を見直した。
次いで、使者の脚についた乾きかけの泥を見る。
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「なるほど。敵は道を見に来ただけか」
「おそらく」
「よし! 物見は増やすが、追うなと加えろ!」
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国継が書き足す。
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「それと三人へ飯を食わせろ。北の者は食ったら寝かせろ。返書は別の馬で出す」
「はい」
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使者が下がると、顕家は満足そうに腕を組んだ。
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「見たか、シン。これが大将軍の政務だ!」
「半分も分からなかった」
「正直でよろしい!」
「褒められた?」
「たぶんな」
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国継が疲れた顔で筆を置いた。
その時、モモが顕家の背後を見た。
薄い何かが、遅れて輪郭を持つ。
顕家はもう、次の書状を取っていた。
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「……先だった」
「何が?」
「顕家」
「何に?」
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モモは答えない。
顕家の背後に集まった気配も、やがて薄くなった。
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さらに二日経っても、顕家はどこにでもいた。
雨の中、山道へ溝を切らせている。
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「そこでは浅い! 雨水がこの曲がりに溜まるぞ!」
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自分まで泥へ入り、鍬を取る。白い裾はすぐ茶色になった。
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「殿、もう人へ任せて着替えてください」
「あと一箇所だけだ!」
「さっきも一箇所と言ってました」
「……では、本当にこれで最後だ!」
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国継が諦めかけたところへ、小萩が来た。
顕家の泥まみれの袖を見て、何も言わず手首を掴む。
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「小萩、待て。あと一箇所だけ……」
「着替え」
「……分かった! 行く! だから引くな。自分で歩く!」
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顕家はそのまま連れていかれた。
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「着替えも小萩さんがやるのか?」
「子供の頃から世話をしてるからな」
「母親みたいなもんか」
「まあ、そんなところだ」
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国継は濡れた絵図を畳み始めた。
シンも、それ以上は考えなかった。
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別の日には、崩れかけた柵を自分で押さえた拍子に、顕家の袖へ細く血が滲んだ。
国継が傷を確かめようと手を伸ばすと、顕家は驚くほど素早く腕を引く。
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「浅い。自分で巻く」
「袖を上げてください」
「あとで小萩に見せる。今はいい」
「化膿した方が面倒です」
「分かっている。だから小萩に見せると言っている」
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小萩が来た。
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「見せな」
「……今来るのか」
「見せな」
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顕家は渋々、腕を差し出した。
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「扱い、違いすぎない?」
「小萩は特別だ!」
「それは見れば分かる」
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その晩、シンとタダと国継は仕事を終えると浴堂へ向かった。
顕家は政務所へ戻ったままだった。
国継が一度だけ振り返る。
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「殿は?」
「後で一人で入るだろ」
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タダが答えた。
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「昔からそうですね」
「公家って面倒だな」
「聞こえたら怒られるぞ」
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それだけ言って、三人は浴堂へ向かった。
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湯から戻ると、夕餉はもう始まっていた。
顕家の席だけが空いている。小萩は火の近くへ椀を置き、汁が冷めるたびに温め直していた。
顕家が現れたのは、シンたちが食べ終える頃だった。
片手に書状を持ったまま座り、椀を取る。
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「飯の時くらい、飯だけ食えよ」
「今読まねば返事が一刻遅れる!」
「汁、こぼしてるぞ」
「……今のは椀が悪い」
「急に声小さくなったな」
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顕家は袖についた汁を見て、一瞬だけ黙った。
それでも書状は置かない。
小萩が無言で取り上げると、ようやく両手で椀を持った。
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数日見ているうちに、面白かったはずのものが、少しずつ笑えなくなった。
朝に会う。
昼にも会う。
夕方、別の場所にいる。
夜、灯りの中にいる。
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「なあ。顕家って、いつ寝てる?」
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シンが国継へ聞くと、国継は考えた。
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「夜だろう」
「夜も働いてる」
「なら、明け方か」
「朝もいる」
「……殿だからな」
「答えになってない」
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タダにも聞いた。
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「人だから寝るだろ」
「いつ?」
「俺が寝ている時は分からん」
「役に立たないな!」
「寝るのは大事だ」
「それは知ってる」
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最後に、小萩へ聞いた。
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「寝てるよ」
「いつ?」
「寝られる時」
「それ、寝てない人の答えだろ……」
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小萩は飯をよそいながら、返事をしなかった。
顕家の椀だけ、少し多かった。
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霊山へ来て、一週間ほどになる頃。
その日の顕家は、夜明け前から政務所にいた。
朝には道と厩を回り、昼前に降り出した冷たい雨の中でも外へ出た。戻ってきた時には、長い黒髪の先から雫が落ちていた。
小萩が出した握り飯を、一つだけ口へ入れる。
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「もう一つ」
「後で食う!」
「後はいつだい」
「この返書を書いたらだ!」
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返書の後には、別の使者が来た。
昼を過ぎても、二つ目の握り飯は皿に残っていた。
顕家が立ち上がる。
その身体が、一瞬だけ横へ流れた。
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「おい」
「……今、床が動いたな」
「お前がふらついたんだよ」
「倒れてはいない。なら問題ない!」
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言い返す声は、いつもと同じ大きさだった。
だが、顔は白い。
目の下には薄い影があり、次の使者に呼ばれてから振り向くまで、ほんの少し間があった。
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「休んだ方がいいんじゃないか」
「この返書だけだ。終えたら休む」
「さっき握り飯にも同じこと言ってたぞ」
「……今度は本当に終える!」
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顕家は胸を張った。
そして、また仕事へ戻った。
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夕刻になって、ようやく小萩が文書を取り上げた。
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「湯へ入ってきな」
「あと二通だ」
「その顔で殿下の前へ出る気かい」
「私の顔は今日も美しい!」
「目の下までね」
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顕家が黙った。
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「着替えは置いてある。先に行きな。私は殿下のお召し物を見てから行く」
「一人で十分だ!」
「湯気の中で寝るんじゃないよ」
「誰が寝るか!」
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最後まで声だけは元気だった。
顕家は黒い烏帽子を直し、いつも通り大きな足取りで政務所を出た。
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夜。
シンは、タダに頼まれた薪を束ねていた縄を釜場へ返すため、浴堂の裏手へ向かった。
雨は止んでいた。
濡れた地面から冷たい匂いが上がり、浴堂の板壁からは白い蒸気が細く漏れている。背後の釜場では火が落とされ、炭の赤だけが土間を照らしていた。
縄を置き、戻ろうとした時だった。
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ガタン。
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浴堂の中で、重いものが板へ当たった。
続いて、湯桶が転がるような乾いた音。
シンは足を止めた。
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「顕家?」
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返事はない。
湯を使う音も、人が動く気配も消えている。
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「おい。顕家?」
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やはり、何も返らなかった。
昼の白い顔が浮かんだ。
一瞬だけ流れた身体。
夜ごと消えなかった灯り。
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(まさか)
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「入るぞ」
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それでも一度、声をかけた。
返事を待つ。
一つ息を数えても、二つ数えても、戸の向こうは静かなままだった。
シンは戸へ手をかけた。
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湿った木が、重く擦れた。
熱い空気が顔へ触れる。
前の間には、脱いだ白い装束が畳まれていた。黒い烏帽子。その横に金の髪飾りが置かれている。
北畠顕家という大将軍を示すものが、そこだけに残されていた。
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「顕家」
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奥へ続く戸が、わずかに開いている。
隙間から湯気が流れ、薄い灯火を揺らしていた。
シンは奥へ踏み込んだ。
壁際に湯を取るための大桶があり、木の湯桶と柄杓が濡れた簀子の上へ散っている。板を伝う水が細い溝へ落ち、絶えず小さな音を立てていた。
濡れた木と、湯と、火を落とした灰の匂い。
奥の壁の向こうでは、残った熱が湯をかすかに鳴らしている。
湯気が濃い。
灯りは一つ。
その向こうに、何かが倒れていた。
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最初に見えたのは、黒だった。
濡れた簀子の上へ、長い髪がほどけて広がっている。
いつもの金の紐も、花の飾りもない。
湯を含んだ髪は重く床へ貼りつき、その先から落ちた雫が、灯火を細かく砕いていた。
その黒の間から、白い肩が見えた。
腕。
細い首。
人が、横向きに倒れている。
湯気が一度流れると、濡れた背中までが見えた。傷も、血もない。ただ力が抜け、身体の重みだけを床へ預けている。
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「おい!」
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シンは駆け寄った。
濡れた板で足が滑る。片手を床につき、そのまま膝で進んだ。
髪に半分隠れた顔を覗く。
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「顕家!」
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間違いない。
目を閉じている。長い睫毛に水滴が溜まり、熱に浮かされたように唇がわずかに開いていた。
裸だと気づいても、ためらう理由にはならなかった。
男同士だと思っていた。
首へ指を当てる。
脈はある。
呼吸もある。
だが浅い。
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「聞こえるか。顕家」
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肩へ触れる。
熱かった。
呼びかけても、瞼がかすかに動くだけだった。
このまま湯気の中へ置いてはおけない。
前の間へ運ばなければならなかった。
だが、濡れた床でいきなり抱え上げれば二人とも転ぶ。まず身体を支えなければならない。
シンは髪を背中から払い、片腕を肩の下へ差し入れた。
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細い。
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最初に覚えた違和感は、それだった。
装束越しに見ていた姿とは、まるで違う。
白と金の袖を広げ、いつも誰より大きく見えていた身体が、腕の中へ簡単に収まってしまう。肩は思っていたより狭く、首も、濡れた背も、驚くほど華奢だった。
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(痩せすぎだろ)
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そう思った。
食わずに働き続けていれば、こうもなる。
シンはもう一方の腕を膝の下へ入れ、身体を起こそうとした。
濡れた髪が肩から滑り落ちる。
隠れていた胸元へ、灯りが届いた。
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「……え?」
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手が止まった。
だが、顕家の身体はそのまま傾いてくる。
シンは慌てて抱き止めた。
背を腕で支え、頭が床へ落ちないよう引き寄せる。
触れた身体は軽い。
肩。
胸のふくらみ。
細い腹。
腰の丸み。
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湯気が動いた。
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その下まで、全部目に入ってしまった。
視線を逸らすより先だった。
胸だけではない。
もう、男の身体ではなかった。
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シンは腕の中の顔を見る。
顕家だ。
何度も見た顔。
笑って。
怒鳴って。
胸を張って。
霊山中を走り回っていた、北畠顕家。
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装束も、甲冑も、烏帽子も、金の飾りもない。
あるのは、一人の人間の身体だけだった。
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「……女?」
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(第百二十五話へ)




