殿下
第百二十三話 殿下
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目を開けると、モモがいた。
昨夜とほとんど同じ場所。
板壁を背にして座り、膝へフツを置いている。障子の隙間から入る朝の光だけが、黒い髪の上へ細く落ちていた。
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「……本当に寝なかったのか」
「うん」
「何してた?」
「シンを見てた」
「何で!?」
「暇だったから」
「暇だったのかよ!」
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モモは真顔だった。
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「俺、変なことしてなかった?」
「何度か転がった」
「それだけ?」
「私の方へ」
「それは先に言え!」
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シンが衾を跳ね除けたところで、戸が二度鳴った。
返事を待たず、国継が顔を出す。
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「起きたか。殿下がお前たちを見たいそうだ」
「殿下?」
「この山で一番偉い方だ」
「顕家より?」
「当然だ」
「じゃあ、小萩さんより?」
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国継が黙った。
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「……それは難しいな」
「難しいのかよ」
「聞かれたら俺が困る。早く支度しろ」
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その声の向こうから、小萩の「聞こえてるよ」が飛んできた。
国継は何も聞かなかった顔で戸を閉めた。
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殿下と聞いて、シンは顕家をさらに大きくしたような男を想像していた。
座るだけで人を黙らせる、髭のある偉そうな大人。
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実際に顕家の隣へ座っていたのは、十ほどの少年だった。
黒い髪を肩の辺りで整え、淡い萌黄の装束に細い身体を包んでいる。顔立ちはまだ幼い。けれど背は丸めず、騒がしい顕家の横でも静かにシンたちを見ていた。
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(子供じゃん)
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モモが膝をついた。
一拍遅れて、シンもその真似をする。
遅いと判断した顕家の手が、後頭部を上から押さえた。
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「頭が高いぞ!」
「今、下げようとしてた!」
「モモより遅い!」
「お前が押すから畳にぶつかっただろ!」
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少年の口元が緩んだ。
顕家が咳払いをして胸を張る。
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「こちらは後醍醐帝の皇子、義良親王殿下だ。奥州における我らの主であらせられる」
「義良だ。顔を上げてよい」
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声にもまだ子供の高さが残っていた。
シンが顔を上げると、義良はまずモモの腰のフツを見た。
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「そなたが、昨日、顕家と斬り合った娘か」
「そう」
「どちらが強かった?」
「私」
「待て!」
「顕家、負けたのか?」
「負けておりません!」
「押し負けていた」
「あれは足場を確かめただけだ!」
「髪の飾りも斬られていたと聞いた」
「誰がそこまで殿下へ話した!」
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顕家が振り返る。
国継は壁際で目を逸らしていた。タダはその隣で、朝飯の残りらしい握り飯を食っている。
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「皆、話していたぞ」
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義良が言うと、顕家は口を開いたまま止まった。
少年は堪えきれずに笑った。
声を上げて笑えば、年相応だった。
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「顕家が押し負けた話は、初めて聞いた」
「負けておりません! 勝負はタダが止めたのです!」
「なら、次は私も見る」
「ご覧にならなくて結構です!」
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返答だけは、顕家より義良の方が落ち着いている。
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顕家以上に仰々しい大人はいなかった。
いたのは、顕家の騒ぎを面白そうに見ている小さな皇子だった。
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謁見を終えて外へ出ると、朝の霊山はもう動いていた。
鐘が鳴る。馬の鼻息が白く浮き、湿った薪が炊煙の匂いを重くする。
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「あの子が、顕家より偉いのか」
「後醍醐帝の皇子。顕家が奉じている主君」
「奉じるって?」
「守って、支えて、その名の下で軍と政を動かす」
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モモは振り返った。
開いた戸の奥では、顕家が義良へ何か大きな身振りで説明している。
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「義良親王は、奥州にいる南朝方の中心でもある」
「あいつが、その子を守ってるのか」
「それだけじゃない。奥州の軍と政も動かしてる」
「朝飯を小萩さんに叱られてたのに?」
「それは別」
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シンはもう一度、戸の向こうを見た。
小萩に椀を持たされていた昨日の顕家と、今、皇子の前で胸を張る顕家が、まだうまく重ならなかった。
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昼前。
霊山の騒がしさが、ほんの少しだけ形を変えた。
走る者はいる。だが、声を上げない。
堂の裏を覗き、僧坊の戸を開け、物見へ向かう。互いに短く言葉を交わし、何もなければ首を振る。
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薪を割っていたシンの前へ、国継が来た。
いつもの「またか」という顔ではなかった。
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「殿下がいない」
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斧を振っていたタダの手が止まる。
モモも顔を上げた。
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「いつから?」
「半刻も経っていない。お側の者が目を離した隙だ。まだ城中には知らせていない」
「山を下りたか?」
「分からん。だから探す」
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国継は短く息を吐いた。
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その時、白い袖が坂を下りてきた。
顕家だった。
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「国継」
「まだ見つかりません」
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顕家の顔から色が消えた。
大仰な笑みも、胸を張る姿勢もない。
ほんの一瞬だった。
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「最後に見た場所は」
「北の僧坊です」
「戸と裏道をもう一度見ろ。山道と崖際へ二人ずつ回せ。物見には顔を知る者だけを上げろ。騒がせるな。堂と厩は私が見る」
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声は低い。
けれど、命令に迷いはなかった。
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「タダは荷場から兵糧蔵までを探せ。シンも連れていけ」
「俺、客じゃなかった?」
「飯を食うなら働け! モモは上の堂から道を見ろ!」
「分かった」
「国継、山を下りる道へ人を置け。ただし封じるな。殿下が驚いて隠れる」
「そうなると思って、もう置きました」
「よし!」
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顕家は返事を聞く前に駆け出した。
足元の泥を跳ね、厩の方へ消える。
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(顕家、本当に怖がってる)
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シンは斧を置き、タダの後を追った。
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荷場には、麓から上げられた薪、炭、干し草、米俵が並んでいた。
兵が数を確かめ、僧が受け取る分を分けている。荷駄馬の鞍を外す者もいれば、ぬかるんだ道へ枝を敷く者もいた。
タダは俵を二つ動かすたび、物陰を覗いた。
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「殿下。いたら返事をしろ」
「それ、小声で言うと余計に怖いな」
「なら飯と言う」
「何でだよ」
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返事はない。
代わりに、薪の山の向こうから小さなくしゃみが聞こえた。
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「いた」
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タダが言った。
回り込むと、義良がしゃがんでいた。
積まれた薪の隙間から、馬へ俵を載せる男たちを見ている。裾には泥がつき、片手にはどこで拾ったのか細い枝まで握っていた。
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「何してるんだ?」
「……見に来た」
「何を」
「城を」
「殿下の城だろ」
「だから見たことがない」
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義良は当然のように答えた。
シンは言葉に詰まった。
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「いつも人がいる。外へ出る時も、行く場所は先に決まっている」
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義良は薪の向こうを指した。
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「あれは、どこから来る」
「米か?」
「うむ」
「麓からだろ。たぶん、もっと遠くから集めたのもある」
「あの馬は、二つしか運べないのか」
「坂だからな。欲張って転んだら、米も馬も駄目になる」
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義良は真剣に頷いた。
今度は薪を割る男を見る。
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「あれは何日もつ」
「俺に聞くなよ」
「二日だ」
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タダが答えた。
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「雨なら、もっといる」
「では、皆、毎日これを運ぶのか」
「そうだ」
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義良は自分の手の枝を見た。
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「見つけたって顕家へ知らせないと」
「すぐ知らせる」
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タダは近くにいた兵を呼び止めた。
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「殿へ。殿下はここにいる。怪我はない」
「はっ」
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兵が坂を駆け上がっていく。
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「これでいい」
「仕事が早いな」
「飯の前だからな」
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義良の眉がわずかに下がった。
悪いことをしたとは分かっている顔だった。
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「少しだけだ」
「何が」
「私も運びたい」
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シンは義良の細い腕を見た。
米俵は無理だ。
薪の束も大きい。
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「じゃあ、その袋を持てるか?」
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シンが渡したのは、馬具を直すための短い縄を入れた小袋だった。
義良は両手で受け取る。
少し重そうにしたが、落とさなかった。
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「どこへ運ぶ」
「あそこの柱まで」
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義良が歩き出す。
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「シン」
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上からモモの声がした。
振り向くと、濡れた岩の上に立っている。
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「何」
「それ、殿下」
「……知ってる」
「忘れてたのでは」
「そ、そんなことはない」
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その時、馬が鋭く嘶いた。
荷場へ続く坂の上。
米俵を左右へ振り分けた三頭の荷駄馬が、細い山道を上っていた。雪解けの水が岩の間を流れ、踏まれた土は黒く光っている。
二頭目の前脚が滑った。
古びた荷縄がずれ、片側の俵が大きく振れる。
馬が身体を起こそうとして横を向いた。
後ろの馬へ繋いだ引き縄が張る。
俵と馬とが、一つの塊になって坂を下り始めた。
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「ぶつかる!」
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義良がいた。
進路の下。
小袋を抱えたまま、何が起きたのか分からず立っている。
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シンは走った。
義良の身体を抱え、道の外側ではなく山側へ飛ぶ。
肩から泥へ落ちた。
腕の中で、小さな身体が息を呑む。
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「モモ!」
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白い影が坂を横切った。
フツが抜かれる。
モモが斬ったのは、馬でも俵でもなかった。
傾いた鞍の上、二つの俵をまとめていた荷縄の一方だけ。
切られた側の俵が山側へ落ちた。後ろの馬からも二俵が荷崩れし、坂へ転がる。
重さを失った鞍が戻り、馬の身体がわずかに上を向いた。
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「タダ!」
「分かってる」
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タダが横から馬の引き縄を掴んだ。
片足を岩へかけ、もう片方を泥へ沈める。馬の肩がぶつかり、巨体が半歩押された。
それでも手を離さない。
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「横木を入れろ! 上の馬を引け!」
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国継の声が飛んだ。
いつ来たのか、坂の上で兵を二手へ分けている。
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「下から押すな! 山側へ首を向けろ! 縄はそこの木へ回せ!」
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兵二人が太い止め木を道脇の岩へ渡した。
別の二人が先頭の馬を上から引く。
国継自身が後ろの馬の引き縄を木へ回し、張り過ぎる寸前で手を止めた。
タダが馬の首を山側へ押す。
蹄が止め木の手前で土を掻いた。
もう一度、嘶く。
止まった。
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落ちた俵から米粒がこぼれ、泥の上へ散っていた。
馬の脚には浅い擦り傷がある。人は誰も潰されていない。
シンは腕の中を見た。
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「大丈夫か?」
「……大事ない」
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義良が答えた。
声は震えていた。
それでも泣くのを堪え、小袋をまだ胸へ抱えている。
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「それ、離さなかったのか」
「運ぶと言った」
「真面目か」
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シンが笑うと、義良も少しだけ笑った。
泥だらけの顔で。
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タダは止まった馬の鼻を撫で、落ちた俵を見た。
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「米が三俵破れた」
「殿下が無事なんだからいいだろ!」
「米も大事だ」
「今それを言う!?」
「拾って洗えば食える」
「お米の神様か!」
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「殿下ああああっ!」
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山中へ響く声が、全部を吹き飛ばした。
白い装束を泥で汚しながら、顕家が坂を駆け下りてくる。
義良の前へ膝をつき、肩を掴む。顔、腕、脚と、確かめるように目を走らせた。
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「お怪我は!」
「ない」
「本当に?」
「シンが庇った」
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顕家が大きく息を吐いた。
膝が、ほんのわずかに緩む。
白かった顔へ色が戻った。
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(本当に、怖かったんだ)
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次の瞬間には、いつもの大仰さが戻っていた。
立ち上がり、白い袖を大きく広げる。
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「殿下! なぜ勝手に出歩かれたのです!」
「城を見たかった」
「私に仰れば、いくらでもご案内を!」
「お前も昨日、巡視の途中で勝手に斬り合っていたそうではないか」
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全員が顕家を見た。
モモも見た。
タダはまだ馬を撫でながら見た。
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「……それとこれとは」
「同じですね」
「国継!」
「巡視の途中で勝手に斬り合ったんでしょう」
「強かったから仕方あるまい!」
「はいはい」
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義良が小さく笑った。
けれど、すぐ真面目な顔へ戻る。
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「すまぬ、顕家」
「殿下」
「皆が何をしているのか、見たかった」
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顕家が黙った。
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「お前は、いつも奥州を守ると言う。私を守るとも言う」
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義良は、泥に散った米を見た。
馬を落ち着かせるタダ。
止め木を直す国継。
切れた縄を拾う兵たち。
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「でも私は、何を守ってもらっているのか知らなかった」
「知らずともよいのです」
「なぜ」
「私が知っておりますから」
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義良は顕家を見上げた。
小さな手が、泥で汚れた小袋を抱き直す。
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「それでは、顕家ばかり大変ではないか」
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シンは顕家を見た。
顕家の唇が止まった。
ほんの一瞬だけ。
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「……くくく」
「はーっはっはっはっ!」
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笑い声が、山へ戻ってきた。
顕家は胸を張り、汚れた袖さえ旗のように払う。
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「私は北畠顕家ですぞ! 奥州の軍も政も、この美しく強い肩へ載せれば羽より軽い!」
「さっき、顔が白かったぞ」
「見間違いだ!」
「膝も揺れていた」
「地面が揺れたのだ!」
「地震は観測されていない」
「モモまで口を挟むな!」
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皆が笑った。
義良も笑った。
けれどシンには、顕家の肩へ載っているものが、もう羽には見えなかった。
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「次からは、私に仰ってください」
「では、また見てよいのか」
「私がご案内します! 勝手に消えず、危ない場所へ近づかず、私の言うことをお聞きになるなら!」
「条件が多い」
「殿下をお守りするためです!」
「分かった。次は顕家も一緒だ」
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義良が差し出した小袋を、顕家は両手で受け取った。
叱っている顔のまま、大事そうに。
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午後、顕家は事故のあった坂へ戻った。
着替えるより先だった。
切れた荷縄を拾い、泥の深さを足で確かめ、馬の蹄と鞍のずれを見る。
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「濡れただけではない。左右の重さが揃っていない。縄も古い。坂へ入る前に締め直していない」
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顕家は、並ぶ荷駄馬を一頭ずつ見た。
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「荷縄は上げる直前に締め直せ。古いものは全て交換。俵は左右の重さを揃え、一頭へ欲張って載せるな」
「止め木は?」
「この曲がりと、その下へ常に置け。通す時だけ外し、人を一人つける。登る荷駄と下りる者を同時に入れるな」
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国継が頷き、すぐ人を振り分ける。
顕家はさらに坂の上を見た。
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「先頭の馬が速過ぎる。この坂では三頭を繋ぐな。二頭までにして間を空けろ。蹄を痛めた馬は今日は使うな。米は下の堂へ半分置き、道が乾いてから上げる」
「明日の分が足りなくなります」
「今夜使う分は人が分けて運べ。転んで全部失うよりましだ」
「はい」
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迷いがない。
命令は事故を起こした者への叱責ではなく、次の一頭を転ばせない形へ変わっていく。
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モモは、少し離れたところから顕家を見ていた。
顕家の背後ではない。
泥を踏む足。
擦れた縄を見る目。
馬の息を数える横顔。
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何かを聞いた様子はない。
今あるものを見て、自分で決めている。
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「すごいな」
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シンが言うと、モモは短く頷いた。
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「うん」
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その日のうちに、坂へ止め木が置かれた。濡れた縄は集められ、荷を上げる間隔も変わった。
顕家はそれを見届けると、今度は文書の山へ戻っていった。
義良の行方を探し、事故を止め、道を直し、それでも朝から積まれた政務は一枚も減っていない。
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「あれも、全部あいつが見るのか」
「うん」
「羽より軽いって、嘘だろ」
「おそらく、かなり」
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モモは、白い袖が建物の奥へ消えるまで見ていた。
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夕刻。
山の向こうへ日が落ち、堂の屋根と柵が薄い紫へ沈んでいく。
義良と顕家は、崖際から少し離れた物見にいた。
今度は国継が下に立ち、シンとモモも近くにいる。
勝手な散策ではない。
顕家が約束を守って案内していた。
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「あれが、今日の米が来た道です。晴れれば、もっと先まで見えます」
「京は、どちらだ」
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顕家が南西を指した。
山が重なり、その向こうはもう見えない。
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「ずっと先です」
「遠いな」
「馬なら縮められます」
「山より速く?」
「この私ならば!」
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義良が少し考えた。
風に揺れる袖を、小さな手で押さえる。
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「顕家」
「はい」
「いつか、京へ戻れるか」
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顕家は迷わなかった。
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「もちろんです」
「本当に?」
「この北畠顕家がおります」
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顕家が笑う。
昼と同じ、明るく大きな笑顔だった。
その背後を、モモだけが見た。
薄かった気配が、糸のように集まる。
フツの鞘が、かすかに鳴った。
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『京へ』
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顕家の笑顔が止まった。
ほんの一瞬。
シンには、顕家が一瞬だけ言葉を止めたようにしか見えなかった。
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「顕家?」
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笑顔が戻る。
顕家は西の山を指したまま、いつもより強く胸を張った。
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「必ず、お連れします」
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義良は安心したように頷いた。
モモは何も言わない。
ただ、フツへ置いた指を離さず、顕家の背後に濃くなったものを見ていた。
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(第百二十四話へ)




