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ミチヌシ

第十三話 ミチヌシ


⸻


 黒い石は、火のそばに置かれたままだった。


⸻


 西の石。


 山の目。


 よく切れる。


 よく見る。


 よく奪う。


⸻


 年長の女は、そう言った。


⸻


 そのせいで、黒い石片はただの道具には見えなくなった。


 火の光を受けるたび、黒い割れ目の奥に赤が走る。


 まるで、火のそばにいながら、火とは別のものを見ているようだった。


⸻


 翌朝。


⸻


 集落は、いつも通り動き始めた。


 火を起こし、魚を分け、木を運び、水を汲み、子供を叱り、犬のような獣をどかす。


⸻


 けれど、皆の目は時々、火のそばの黒い石へ向かった。


⸻


 南からは種が来た。


 西からは石が来た。


⸻


 どちらも小さい。


 だが、どちらも人を落ち着かなくさせる。


⸻


 シンは、芽の場所へ向かった。


⸻


 芽はまた少し伸びていた。


 細い緑が、昨日よりもはっきり立っている。


 囲いの中で、頼りなく、それでも確かに空を目指している。


⸻


 コトは当然のようにいた。


 膝を抱え、芽を見ている。


⸻


「大きくなった」


「なったな」


「今日は本当?」


「今日は本当」


⸻


 コトは満足そうに頷いた。


⸻


 トリビックリクンは朝の風に揺れている。


 骨と貝殻が、からから鳴った。


⸻


 ユナが少し遅れてやってきた。


 今日は髪が跳ねている。


 かなり跳ねている。


⸻


「おはよう」


「おはよう」


「今日は戦ってないな」


「何と?」


「髪」


⸻


 ユナは慌てて髪を押さえた。


⸻


「跳ねてる?」


「かなり」


「直して」


「俺でいいのか。昨日から俺の精神状態は不安定なんだが」


「せいしん?」


「心の中の足場がぬかるみ」


「また変なこと言ってる」


⸻


 ユナは当然のように頭を差し出した。


⸻


 シンは少し迷った。


 昨日の川が頭をよぎる。


 水。


 濡れた髪。


 豊かな裸身。


 赤くなった耳。


⸻


(やめろ。朝から思い出すな)


⸻


 シンは慎重に、ユナの髪へ手を伸ばした。


⸻


 土と草の匂い。


 それに、女性そのものの香り。


 今日は水の匂いはしない。


 だが、それだけで十分強かった。


⸻


「シン?」


「はい」


「手、止まってる」


「ウロオボエ様が一時停止しました」


「起こして」


「起きてください、ウロオボエ様」


⸻


 コトが真剣に土の方へ手を合わせた。


⸻


「ウロオボエ様、起きて」


「コト、信仰の方向が怪しくなってる」


⸻


 ユナが笑った。


⸻


 シンは何とか髪を押さえた。


 昨日よりはうまくいった。


 少なくとも、さらに悪化はしなかった。


⸻


「どうだ」


「少し良い」


「少し」


「ウロオボエ様、えらい」


「俺は?」


「シンも少しえらい」


「評価が渋い」


⸻


 その時、集落の女が近づいてきた。


 干し草を抱えている。


 年長ではない。


 ユナより少し年上に見える女だった。


⸻


 彼女は、芽の囲いを見て顔をしかめた。


⸻


「広げすぎだ」


⸻


 ユナの表情が変わった。


⸻


「犬が入る」


「ここは草を干す場所でもある」


「芽がある」


「草もいる。寝る場所に敷く。濡れたままでは腐る」


⸻


 言い争いではない。


 怒鳴り合いでもない。


⸻


 だが、空気が硬くなった。


⸻


 シンは、二人の間を見る。


 芽の囲い。


 干し草。


 日当たりのいい場所。


 人の目が届く場所。


 水場にも近い場所。


⸻


 いい場所だから、芽を置いた。


 いい場所だから、草も干したい。


⸻


 どちらも間違っていない。


⸻


 そのことが、やけに面倒だった。


⸻


「少しだけ、囲いをこっちに寄せるか?」


 シンが言った。


⸻


 ユナがこちらを見る。


⸻


「こっちに寄せると、子供の道に近い」


「じゃあ、干し草をこっちに」


「そこは影になる」


 女が言う。


⸻


「影だと乾かない」


⸻


 シンは黙った。


⸻


 面倒だ。


 ものすごく面倒だ。


⸻


 だが、この面倒はたぶん重要だ。


⸻


 芽が出る前なら、この場所はユナの干し草の場所だった。


 芽を入れてから、ここは芽の場所にもなった。


 囲ったことで、さらに「ここからここまで」が生まれた。


⸻


 そして今、誰かがそれを狭いと言った。


⸻


 土地争い。


⸻


 そんな言葉が、シンの頭に浮かんだ。


⸻


 大げさかもしれない。


 だが、仕組みは同じだ。


⸻


 守りたいものがある。


 使いたい場所がある。


 日が当たる場所は限られている。


 水に近い場所は限られている。


 人の目が届く場所も限られている。


⸻


 全部には使えない。


⸻


「外の子」


⸻


 背後から、年長の女の声がした。


⸻


 振り返ると、女が火の方から歩いてきていた。


 タダも少し離れている。


⸻


「何を見ている」


「場所の取り合いです」


⸻


 言ってから、シンは少し後悔した。


 言葉が直接すぎたかもしれない。


⸻


 だが、年長の女は怒らなかった。


⸻


「そうだ」


⸻


 むしろ、静かに認めた。


⸻


「種は、土を選ぶ。人も土を選ぶ。良い土は、ひとつの腹では足りぬ」


⸻


 ユナも、干し草の女も黙った。


⸻


「なら、どうする」


 シンは聞いた。


⸻


 年長の女は、芽の囲いを見た。


 それから干し草を見た。


⸻


「分ける」


「どちらも?」


「どちらも」


「足りなかったら?」


⸻


 女はシンを見た。


⸻


「足りぬなら、次を探す」


⸻


 簡単な言葉だった。


 だが、シンには不穏に聞こえた。


⸻


 次を探す。


⸻


 別の場所。


 別の土。


 別の水。


⸻


 もし、その次にも誰かがいたら。


 もし、その土も誰かが使っていたら。


 もし、どちらも譲れなかったら。


⸻


 シンの背中に、昨日の黒い石がちらついた。


⸻


「土は、増やせないからな」


 シンは呟いた。


⸻


 その時だった。


⸻


「増えると思う者が、争う」


⸻


 知らない声がした。


⸻


 全員が振り返った。


⸻


 男が立っていた。


⸻


 いつからそこにいたのか分からなかった。


 南の道から来たようにも見えない。


 西の山から降りてきたようにも見えない。


⸻


 ただ、集落の端。


 木々と人の場所の境。


 その上に、最初から置かれていた石のように立っていた。


⸻


 年は分からない。


 若いとも、老いているとも言いにくい。


 背は高いが、タダほど大きくはない。


 痩せているのに、骨が強そうだった。


⸻


 髪は長く、ところどころ紐で結ばれている。


 衣は獣皮と編んだ繊維を重ねたようなもので、南の交易者のものとも、この集落のものとも違う。


 足元は泥に汚れている。


 だが、歩いてきた音を誰も聞いていなかった。


⸻


 手には、曲がった杖。


 杖の先には、古い木の根のような節がある。


 腰には小さな袋。


 胸元には、青緑の石が吊るされていた。


⸻


 水の底を固めたような色。


 山の奥の光を閉じ込めたような色。


⸻


 シンの頭に、言葉が浮かんだ。


⸻


 ヒスイ。


⸻


 ウロオボエ様が珍しく、はっきり言った。


⸻


「誰だ」


⸻


 タダが低く言った。


⸻


 男はタダを見た。


 それから、少しだけ口元を動かした。


⸻


「火のそばにいる男」


「会ったか」


「会う前から、知る道もある」


「分からん」


「それでいい」


⸻


 シンは二人を見比べた。


⸻


 知り合いなのか。


 違うのか。


 分からない。


⸻


 ただ、タダが警戒しているのは分かった。


 そして、完全には敵として見ていないことも分かった。


⸻


 年長の女が前へ出る。


⸻


「名を言え」


⸻


 男は、少しだけ空を見た。


⸻


「名は、道の途中で落ちる」


「なら、何と呼ぶ」


⸻


 男は杖を地面に突いた。


⸻


 乾いた音がした。


⸻


「ミチヌシ」


⸻


 風が止まったような気がした。


⸻


 ミチヌシ。


⸻


 名というより、役目のようだった。


⸻


 コトが小さく繰り返す。


⸻


「みちぬし」


⸻


 ミチヌシは、コトを見た。


 目が少しだけ柔らかくなる。


⸻


「小さい者は、道をよく見る」


「見る?」


「大きい者は、道を知った気になる」


⸻


 コトは意味が分からない顔をした。


⸻


「おじさん、変」


⸻


 シンは思わず吹き出しかけた。


⸻


 ミチヌシは怒らなかった。


⸻


「正しい」


「正しいんだ」


 シンが言った。


⸻


 ミチヌシはこちらを見る。


⸻


 その目が、シンをまっすぐ捉えた。


⸻


 瞬間。


 背筋が冷えた。


⸻


 見られている。


 顔や体ではない。


 もっと奥。


 名前のない場所。


 シンという名を付けられる前の空白まで、杖の先で突かれたような感覚。


⸻


「外の子」


 ミチヌシは言った。


⸻


 年長の女と同じ呼び方。


 だが、響きが違った。


⸻


「火の外に落ちたのか。道の外から来たのか」


⸻


 シンは言葉に詰まった。


⸻


「俺は……」


⸻


 答えがない。


⸻


 どこから来たのか。


 何者なのか。


 なぜここにいるのか。


⸻


 何も分からない。


⸻


「分からない」


⸻


 結局、それしか言えなかった。


⸻


 ミチヌシは頷いた。


⸻


「分からぬ者は、まだ道に食われていない」


「道って、人を食うのか?」


「食う。少しずつな」


⸻


 シンは眉を寄せた。


⸻


 よく分からない。


⸻


 だが、南へ行ったカガチの背中が頭に浮かんだ。


⸻


「カガチも?」


⸻


 コトが聞いた。


⸻


 ミチヌシは、コトを見た。


⸻


「強い足の若者か」


「カガチ、知ってるの?」


「道がへこんでいた」


「へこんでると分かるの?」


「怒った足は、深く踏む」


⸻


 コトは、少しだけ骨の飾りを握った。


⸻


「カガチ、戻る?」


⸻


 ミチヌシは少し黙った。


⸻


「戻る道はある」


⸻


 コトの顔が少し明るくなる。


⸻


「でも、道は人を少し食う」


⸻


 コトは分からない顔をした。


⸻


 シンが口を挟む。


⸻


「つまり……戻ってきても、少し変わってるかもしれないってことか?」


⸻


 ミチヌシは、シンを見た。


⸻


「外の子は、たまに分かる」


「たまにな」


⸻


 コトは不安そうにシンを見た。


⸻


「カガチ、違う人になる?」


⸻


 シンは困った。


 答えにくい。


⸻


 そこへ、ユナがしゃがんだ。


 コトの目の高さに合わせる。


⸻


「南のものを見たら、知らないことを覚える。覚えたら、少し変わる」


「ユナも?」


「私も。シンも。コトも。芽も」


「芽も変わる?」


「昨日より大きくなった」


⸻


 コトは芽を見た。


⸻


「じゃあ、変わるのは悪いことじゃない?」


「悪い時もある。良い時もある」


⸻


 ユナはコトの肩に手を置いた。


⸻


「だから、戻ってきたら見る」


「見る?」


「カガチが、どんなふうに変わったか。怖かったら、怖いって言う。嬉しかったら、嬉しいって言う」


⸻


 コトは少し考えた。


⸻


「じゃあ、見る」


⸻


 ミチヌシは、そのやり取りを黙って見ていた。


⸻


 シンは少し驚いていた。


⸻


 さっきより、ずっと分かりやすい。


 ユナは難しい言葉を使わない。


 でも、芯を外さない。


⸻


(こういうところ、強いな)


⸻


 ミチヌシは、芽の囲いへ目を向けた。


⸻


「土に道を引いたな」


⸻


 ユナが少し身構えた。


⸻


「芽を守るため」


「そうだろう」


⸻


 ミチヌシは囲いの外で止まった。


 中には入らない。


⸻


「ここは内。ここは外。ここは踏むな。ここは使え」


⸻


 杖の先で、囲いの外の土を軽く叩く。


⸻


「これは小さい線だ」


「小さいなら、いいのか?」


 シンが聞いた。


⸻


「小さい線は、見えるうちはよい」


「見えなくなると?」


「大きくなる」


⸻


 また分かりにくくなりそうだったので、シンは考えた。


⸻


「えーと……この囲いがもっと大きくなって、誰かの水場とか、草の場所まで囲ったら揉める、ってことか?」


⸻


 ミチヌシは頷いた。


⸻


「そうだ」


「最初からそう言ってくれ」


「今、言った」


「俺が翻訳したんだよ」


⸻


 ユナが少し笑った。


 コトも笑った。


⸻


 ミチヌシは、不思議そうに首を傾けた。


⸻


「外の子は、道の言葉を短くする」


「そうしないと読者が迷う」


「読者?」


「いや、何でもない。ウロオボエ様の寝言」


⸻


 コトが真顔で土へ手を合わせた。


⸻


「ウロオボエ様、寝てて」


「寝かせた」


⸻


 空気が少し緩んだ。


⸻


 だが、ミチヌシの声は静かなままだった。


⸻


「種は悪くない。腹を満たしたいことも悪くない。守ることも悪くない」


⸻


 ユナが頷く。


⸻


「でも、悪くないものでも、取り合いになる」


「そうだ」


⸻


 シンは言った。


⸻


「良い場所は少ないから」


「そうだ」


「水に近い場所も、日が当たる場所も、みんな欲しいから」


「そうだ」


「だから、守る線が、いつか争う線になる」


⸻


 ミチヌシは、今度はすぐに頷いた。


⸻


「そうだ」


⸻


 コトは難しい顔をしていた。


⸻


「じゃあ、芽のさく、駄目?」


⸻


 ミチヌシは、首を振った。


⸻


「駄目ではない」


「じゃあ、いい?」


「いいだけでもない」


「むずかしい」


⸻


 コトがむっとした顔になる。


⸻


 シンが助け舟を出した。


⸻


「芽のさくは必要。でも、広げすぎたら困る。だから、みんなで見る。勝手に広げない。そういう話じゃないか?」


⸻


 ミチヌシは少し黙った。


⸻


「外の子は、たまにかなり分かる」


「評価が上がった」


⸻


 ユナは芽の囲いを見た。


⸻


「じゃあ、私だけの場所じゃない」


⸻


 シンが見る。


⸻


「いいのか?」


「もとは私の干し草の場所。でも、今は芽の場所でもある。コトも見る。シンも見る。タダも見る」


⸻


 ユナは少し考えた。


⸻


「だから、みんなで決める」


⸻


 年長の女が、静かに頷いた。


⸻


「それでよい」


⸻


 干し草を持っていた女も、少し表情を緩めた。


⸻


「干す場所は、少しずらす。だが、晴れの日はここの端を使う」


「うん」


 ユナが頷く。


⸻


「芽に当たらないようにする」


「私も、草を置く時は見る」


⸻


 決まった。


⸻


 大きな解決ではない。


 ほんの小さな調整だ。


⸻


 でも、争いは少し遠ざかった。


⸻


 ミチヌシは、それを見ていた。


⸻


「小さいうちに線を見れば、線は傷にならぬ」


⸻


 シンは、今度は少し分かった。


⸻


「早めに話し合えってことだな」


「そうだ」


「うん。だいぶ分かりやすくなってきた」


⸻


 ミチヌシは、青緑の石を指で弾いた。


⸻


 小さく、澄んだ音がした。


⸻


 コトが目を輝かせる。


⸻


「それ、きれい」


「食えぬぞ」


「知ってる」


「本当か」


「ちょっと思った」


⸻


 シンは笑った。


⸻


 ミチヌシは石を持ち上げた。


⸻


「これは、道を忘れぬための石だ」


「石が道を覚えるの?」


 コトが聞く。


⸻


「人より長く覚える」


「火より?」


「火より長いこともある」


「水より?」


「水は流れる。石は待つ」


⸻


 コトは分かったような、分からないような顔で頷いた。


⸻


「ほしい」


「まだ早い」


「いつならいい?」


「迷った時」


⸻


 コトは真剣になった。


⸻


「今、迷う」


⸻


 コトはその場でくるりと回った。


⸻


「どっち?」


⸻


 シンは吹き出した。


⸻


 ユナも笑った。


⸻


 ミチヌシはしばらくコトを見ていた。


 そして、少しだけ目を細めた。


⸻


「それは、遊びだ」


「遊びだと駄目?」


「駄目ではない」


「じゃあ、ちょうだい」


「まだ早い」


「むずかしい」


⸻


 コトは不満そうだった。


⸻


 重かった空気が、また少し緩んだ。


⸻


 ミチヌシは、杖で地面に三本の線を引いた。


⸻


 南から来る線。


 西から来る線。


 北へ抜ける線。


⸻


 それらが、集落のあたりで交わる。


⸻


「三つの道が近づいている」


⸻


 ミチヌシは言った。


⸻


「南は種を持つ。西は石を持つ。北は火を逃がす」


⸻


 シンは、自分の足元を見る。


⸻


 ミチヌシの杖が、その近くで止まった。


⸻


「外の子は、その真ん中に落ちた」


「落ちたくて落ちたわけじゃない」


「落ちる者は、たいていそう言う」


「たいていって、そんなにいるのか」


⸻


 ミチヌシは答えなかった。


⸻


 ただ、シンを見た。


⸻


「いるだけで、道は変わる」


⸻


 ぞくりとした。


⸻


「俺が?」


「そうだ」


「何もしてない」


「もうしている」


⸻


 ミチヌシは芽を見た。


 ユナを見た。


 コトを見た。


 タダを見た。


 火のそばの黒い石を見た。


⸻


 シンは、言葉を失った。


⸻


 自分がここにいること。


 芽を見ること。


 ユナに触れること。


 コトに約束すること。


 モモに肉を分けること。


 カガチを見送ったこと。


⸻


 それらが、本当に何かを変えているのだとしたら。


⸻


「俺は、邪魔なのか」


⸻


 シンは聞いた。


⸻


 ミチヌシは、すぐには答えなかった。


⸻


 代わりに、地面に引いた線を杖でなぞる。


⸻


「道を乱す者は、邪魔にもなる。救いにもなる」


⸻


 シンは黙った。


⸻


「どちらになるかは、歩いた後にしか分からぬ」


⸻


 分かりにくい。


 だが、今度は少し分かった。


⸻


 まだ決まっていない、ということだ。


⸻


 シンは、邪魔になるかもしれない。


 救いになるかもしれない。


⸻


 そのどちらかは、今ここで決まるわけではない。


⸻


 その時。


⸻


 かすかに桃の匂いがした。


⸻


 シンは振り返った。


⸻


 木々の奥。


 白い衣が見えた気がした。


⸻


 モモ。


⸻


 だが、次の瞬間には見えなくなった。


⸻


 ミチヌシは、そちらを見ていた。


⸻


「白いものも、道を迷っている」


⸻


 シンの胸が跳ねた。


⸻


「見えるのか」


⸻


 ミチヌシは答えない。


⸻


「見えるものばかり見るな」


⸻


 そう言って、杖を持ち直した。


⸻


 年長の女が聞いた。


⸻


「どこへ行く」


⸻


 ミチヌシは、北の方を見た。


 それから西を見た。


 最後に、南を見た。


⸻


「道が呼ぶ方へ」


⸻


 シンは思わず言った。


⸻


「また来るのか」


⸻


 ミチヌシは振り返った。


⸻


「道が閉じる前に」


⸻


 その言葉だけ残して、男は歩き出した。


⸻


 南の道ではない。


 西の山道でもない。


 集落の人間が普段使わない、木々の隙間。


 獣もあまり通らないような細い場所。


⸻


 なのに、ミチヌシが歩くと、そこが道に見えた。


⸻


 足音はほとんどしない。


 杖の音だけが、時々、土を叩いた。


⸻


 やがて、その姿は木々の影に消えた。


⸻


 しばらく、誰も喋らなかった。


⸻


 トリビックリクンが、からから鳴る。


⸻


 芽が風に震える。


⸻


 火のそばでは、黒い石片が赤く光っている。


⸻


 ユナが、小さく言った。


⸻


「変な人」


⸻


 コトが頷いた。


⸻


「でも、きれいな石」


⸻


 タダは北の方を見ていた。


⸻


 年長の女は、地面に引かれた三つの線を見ていた。


⸻


 シンは、自分の足元を見た。


⸻


 三つの線が、そこへ集まっている。


⸻


 道を乱す者。


⸻


 邪魔にもなる。


 救いにもなる。


⸻


 答えは、歩いた後ろにできる。


⸻


「面倒くさいな」


⸻


 シンは呟いた。


⸻


 すると、コトがシンの袖を引いた。


⸻


「シン」


「何?」


「ミチヌシ、変だった」


「変だったな」


「シンも変」


「急に巻き込まれた」


「でも、シンはいる」


⸻


 コトは真面目な顔で言った。


⸻


「いると、道が変わるんでしょ」


「らしいな」


「じゃあ、いて」


⸻


 シンは、言葉を失った。


⸻


 ユナが、横で静かに笑った。


⸻


「そうだね。いて」


⸻


 シンは二人を見た。


⸻


 コトは当然のような顔をしている。


 ユナは少し照れたように、でもまっすぐ見ている。


⸻


「いや、そんな簡単に」


「簡単じゃないよ」


 ユナが言った。


⸻


「でも、今はここにいる」


⸻


 その言葉は、不思議なくらい強かった。


⸻


 今はここにいる。


⸻


 道がどうとか。


 南がどうとか。


 西がどうとか。


 北がどうとか。


⸻


 全部、分からない。


⸻


 でも、今はここにいる。


⸻


 コトが言った。


⸻


「夜、肉ある?」


「それは知らない」


「シン、持つ人なのに?」


「持つ人は万能じゃない」


「ウロオボエ様は?」


「ウロオボエ様も肉の在庫は知らない」


⸻


 ユナが笑った。


⸻


「じゃあ、木の実を煮る。少しだけ鹿の脂もある」


「それはうまそう」


「コト、手伝って」


「食べる」


「手伝ってから」


「手伝う」


⸻


 コトの返事は速かった。


⸻


 その夜。


⸻


 火のそばで、木の実と少しの脂が煮られた。


 肉はほとんど残っていなかったが、脂だけでも十分に香りが出た。


⸻


 コトは器を抱え、うれしそうに湯気を吸っている。


⸻


「熱いぞ」


 シンが言う。


⸻


「知ってる」


「本当に?」


「たぶん」


「そこにウロオボエ様を使うな」


⸻


 ユナが吹き出した。


⸻


 シンも笑った。


⸻


 ミチヌシの言葉は、まだ胸の奥に残っている。


 南。


 西。


 北。


 火。


 道。


⸻


 不安は消えない。


⸻


 けれど、火のそばには湯気があった。


 コトの笑い声があった。


 ユナの肩が近くにあった。


⸻


 シンは器を受け取り、一口すする。


⸻


 熱い。


 木の実は少し苦い。


 鹿の脂が舌に残る。


 うまい。


⸻


「どう?」


 ユナが聞く。


⸻


 シンは少し考えた。


⸻


「道の味がする」


⸻


 ユナとコトが同時に首を傾げた。


⸻


「変な味?」


「いや、うまい」


⸻


 コトは自分の器を見た。


⸻


「道、うまい?」


「この道はうまい」


⸻


 コトは満足そうに頷いた。


⸻


「じゃあ、いい道」


⸻


 シンは笑った。


⸻


 簡単だ。


 でも、今はそれでよかった。


⸻


 いい道。


⸻


 うまい道。


⸻


 火のそばへ戻ってくる道。


⸻


 シンは、火の向こうの暗がりを見た。


⸻


 桃の匂いは、今はしなかった。


⸻


 だが、どこかで見ている気がした。


⸻


 南から種が来た。


 西から石が来た。


 北には火を逃がす道がある。


⸻


 そして、自分は今、ここで木の実の汁を飲んでいる。


⸻


 不安と湯気が、同じ夜の中にあった。


⸻


(第十四話へ)

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