夜の火
第十三話 夜の火
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夕方、タダさんが戻ってきた。
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手に鹿の前脚を持っていた。
丸ごと一本だ。
片手でぶら下げている。
でかい。
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(タダさん、やっぱりでかい)
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「手伝え」
短く言われた。
「はい」
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皮を剥ぐ作業を手伝った。
コツがある。
最初は力任せにやって、タダさんに無言で手の向きを直された。
二回直された。
三回目はなんとかなった。
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「覚えが早い」
「褒めてます?」
「事実」
「ありがとうございます」
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黙々と作業が続く。
火が揺れる。
肉の匂いがしてきた。
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(うまそう)
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「タダさんは、ここに生まれたんですか」
「タダ、でいい」
「おっ、はい」
「ここで生まれた」
「ずっとここですか」
「北に行ったことはある」
「北って、どんな場所ですか」
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タダは少し間を置いた。
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「寒い」
「それだけですか」
「山がでかい」
「それだけですか」
「……静か」
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静か、という言葉で止まった。
タダさんが「静か」という言葉を選ぶのは珍しい気がした。
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「好きですか、そこ」
「嫌いじゃない」
「でも戻らない」
「……ここに残るのも、選択だ」
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シンは少し黙った。
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(残るのも、選択)
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当たり前のことだ。
でも、その言葉の重さが、少し違う。
タダは北を知っている。
他の場所も知っている。
それでも、ここにいる。
選んで、ここにいる。
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(俺は)
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選んでここにいるのか。
そもそも、選べているのか。
まだ分からない。
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肉が焼けた。
タダが切り分けた。
手つきが丁寧だ。
誰に何を配るか、考えながら切っている。
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(この人、優しいな)
(目立たないけど、優しい)
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分配が始まる。
老人が先、子供が次、大人が最後。
いつも通りの順番だ。
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子供の一人が、シンの近くに来て座った。
まだ小さい。
六つか、七つか。
女の子だ。
名前は確か、コト。
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「シン」
「なんだ」
「これ」
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木の実を差し出してきた。
小さい実が、三つ。
手のひらの上に並べて、真剣な顔で持っている。
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(……くれるのか)
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「ありがとう」
受け取る。
コトは満足そうにうなずいた。
それから、隣に座った。
ぴったりくっついて座った。
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(距離感ゼロだな)
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「コト、シンが好きなのか」
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タダさんが横から言った。
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「だって」
「だって、なんだ」
「面白いから」
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(面白い!)
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「面白いか、俺」
「変だし」
「変か〜」
「でも、怖くない」
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コトは木の実を一つ口に放り込んで、もぐもぐした。
シンも一つ食べた。
渋い。
でも、悪くない。
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夜になった。
火が落ち着いてくる。
人がぽつぽつと横になっていく。
コトは気づいたらシンの隣で眠っていた。
体が小さい。
呼吸が規則正しい。
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(こいつ、信用しすぎだろ)
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悪い気はしなかった。
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火のそばに、ユナもいた。
少し離れた場所で、毛皮を縫っている。
手元だけ見ている。
集中している顔だ。
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やがて作業を終えて、そのまま横になった。
火からの距離が近い。
シンとも、近い。
この集落の人間は、距離の概念が違う。
近くにいることを、不思議と思わない。
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(現代じゃ絶対ありえない距離だな)
(でも、この時代はそういうものか)
(文化の差、なのかな)
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ユナの呼吸が落ち着いてくる。
眠ったらしい。
体温が、うっすらこちらまで届く気がした。
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(悪くない)
(すごく悪くない、ンフ)
(いやそういうことじゃなくて)
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シンは天を向いた。
星が出ている。
前の時代と同じ星だ。
でも今夜は、近い気がした。
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そのとき。
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甘い匂いがした。
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(モモ)
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体が少し固まる。
でも、刃の気配はない。
遠くに、いる。
森の縁あたりだ。
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シンはそちらを見た。
暗くて見えない。
でも、いる。
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(何してる)
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確認しに来たのか。
でも今日は何も変えていない。
ただ過ごしていただけだ。
誤差もない。
修正も必要ない。
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(じゃあなんで)
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シンは少し考えて、やめた。
難しいことは明日考える。
今夜は、これでいい。
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コトが寝返りを打った。
小さな手が、シンの腕に触れた。
ユナの体温が、遠くない。
火が揺れている。
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甘い匂いは、しばらく漂っていた。
消えるのが、今日は遅かった。
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