神なき時代
第百二十話 神なき時代
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炎の次に来たのは、冷たさだった。
頬へ土が貼りついている。
指を動かすと、濡れた枯草が擦れた。
水の匂い。泥の匂い。雪の下で潰れていた草が、春を待ちきれずに腐り始めた匂い。
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シンは目を開けた。
空は灰色だった。
炎もない。
白雷もない。
平泉を包んでいた赤い夜は消え、低い雲だけが山の上へ垂れ込めている。
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身体を起こし、脇腹へ手を当てた。
傷はなかった。
泰衡に刺された穴も、流れ続けた血も、焼けた館の熱も消えている。
それでも、刃が入った場所だけは覚えていた。
身体の奥に、まだ熱が残っている。
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また、生きていた。
また、知らない空の下にいた。
何年先なのか。
今度は何を失ったのか。
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確かめようとして。
シンは止まった。
少し離れた草の中に、黒いものがあった。
長い髪。
白い衣。
小さな桃の髪留め。
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モモが倒れていた。
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「モモ!」
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走った。
足が泥へ沈む。つまずき、手をつき、それでも走った。
膝から地面へ落ちる。
肩と頬へ触れた。
どちらも冷たい。
濡れた黒髪が指へ絡んだ。
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顔へかかった髪を払う。
閉じた瞼。
白い頬。
唇には、ほんの少しだけ色が残っている。
首元へ顔を寄せた。
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匂いがした。
雪解け水と濡れた草の中で、それだけが柔らかく浮いていた。
桃。
熟れきる前の、まだ白さの残る甘い匂い。
何度殺されても。
何度見失っても。
シンが間違えたことのない匂いだった。
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胸元を見る。
動いている。
小さく。
息がある。
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「……よかった」
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声が先に出た。
理由などなかった。
モモが生きている。
それだけだった。
肩を抱き起こす。
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「モモ。おい。起きろ」
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返事はない。
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「次の時代でも見つけろって言ったの、お前だろ」
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喉が詰まった。
炎の中の声が、まだ耳に残っている。
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「見つけたぞ」
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額へ貼りついた髪をもう一度払う。
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「だから起きろ」
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モモの瞼が動いた。
ゆっくり開く。
灰色の空を見る。
それから、シンを見た。
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「……早い」
「何が」
「見つけるの」
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いつもの平らな声だった。
けれど、目元だけが少し緩んでいた。
シンは笑った。
笑ったつもりだった。
息だけが震えた。
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「ああ。今回は近かったからな」
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そのまま抱きしめた。
腕の中へ、細い身体が収まる。
白い衣は泥と雪解け水で湿っていた。冷たいはずなのに、胸を重ねた場所から少しずつ熱が戻ってくる。
黒髪が頬へ触れた。
桃の匂いが近くなる。
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「接触圧、過多」
「黙ってろ」
「呼吸阻害」
「生きてるならいい」
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モモは何も返さなかった。
腕を上げる気配があり、シンは押しのけられると思った。
細い手は、背へ触れた。
一度だけ。
確かめるように。
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「生存確認」
「今それ、俺がやった」
「相互確認」
「そうかよ」
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ようやく腕を緩めた。
だが、手は肩に置いたままにした。
離した瞬間に消える気がした。
目の前にいるのは、白桃ではない。
黒髪は右肩の低い位置で緩くまとめられ、桃の髪留めが濡れた朝の光を受けている。
白から薄桃へ滲む衣。腰には黒い鞘のフツ。
首にも腕にも、平泉で走っていた白い亀裂はなかった。
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モモだった。
同じ時代へ来ていた。
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「何でいる」
「分からない」
「前にもあったか」
「ない」
「本当に?」
「本当に」
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モモは自分の手を開き、閉じた。
地面へ触れ、次に空を見上げる。
それから、自分の胸へ手を当てた。
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「身体に異常はない」
「それだけ?」
「それ以上は、分からない」
「お前が分からないって言うと、かなり怖いな」
「シンも、よく分からない」
「俺はいつもだろ」
「そう」
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軽く返されて、シンは少し笑った。
だが、胸の奥は落ち着かなかった。
今まで、モモは時代のどこかで白桃として現れた。
最初から敵として待っていたこともある。
しばらく姿を見せないこともある。
同じ場所で目を覚まし、何事もなかったように隣へ立つモモを、シンは知らなかった。
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(何かが変わった)
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壊れたのか。
初めて、正しい形へ戻ったのか。
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モモが立ち上がった。
泥のついた衣を払い、フツの鞘を確かめる。
シンも立ち上がる。
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「行くか」
「りょ。」
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その返事だけで、胸が妙に軽くなった。
一人で知らない時代を歩き始めるのではない。
今回は、隣にモモがいる。
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二人で斜面を登った。
雪解けの土は柔らかく、踏むたび靴が沈む。
木々はまだ葉を揃えていない。黒い枝の向こうに白い山肌が見え、冷たい風が吹いた。
平泉では夏だった。
ここでは冬がようやく終わろうとしている。
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シンは歩きながら、隣を見た。
モモがいる。
十歩進んで、また見る。
いる。
川の音が近くなったところで、もう一度見た。
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「何回見る」
「別に」
「三回」
「数えるな」
「消えない」
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シンが止まった。
モモも止まる。
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「……分かってる」
「分かっていない」
「分かってるって」
「現在、私はいる」
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いつもと同じ短い声だった。
けれど、シンはそれ以上言えなくなった。
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「そうだな」
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歩き出す。
今度は前を見た。
隣から桃の匂いが流れてくる。
風向きが変わるたびに薄くなり、また戻った。
それだけで、知らない山道が少しだけ知っている場所に思えた。
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斜面を横切る雪解け水が、土を深く削っていた。
幅は狭いが、底には石が見えず、踏み外せば膝まで泥へ沈みそうだった。
シンが先に飛び越える。
振り返り、手を差し出した。
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「ほら」
「不要」
「いいから」
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モモは溝を見た。
次に、差し出された手を見る。
自分だけなら、助走もなく越えられる距離だった。
それでも、右手を伸ばした。
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細く冷たい指が触れた。
シンが握ると、モモも握り返した。
シンが引き、モモが軽く地面を蹴る。
白い衣が水の上を渡り、桃の匂いがすぐ目の前を抜けた。
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向こう岸へ降りても、モモは手を離さず、重ねた掌を見ていた。
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「何だよ」
「この手は知っていた」
「俺の手?」
「大きさ。温度。握り方」
「そんな昔から手を繋いでたのか、俺たち」
「可能性あり」
「へえ」
「嬉しい?」
「ちょっとな」
「誤差」
「それ、照れてる時にも使うのか」
「照れていない」
「なら、こっち見ろよ」
「前方確認中」
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明らかに前しか見なくなった。
それでも、モモはあと三歩だけ手を離さなかった。
四歩目で、モモが何事もなかったように離した。
シンは笑いながら、その横へ並んだ。
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「なあ」
「何」
「お前、どこから来たんだ」
「ここではない場所」
「そうじゃなくて。もっと前だ。俺たちが最初に会うより前」
「分からない」
「俺と同じ場所から来たのか」
「可能性はある」
「未来とか?」
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モモは答えなかった。
目を細める。
何かを思い出そうとしている顔だった。
だが、浮かんだものを掴めないまま、視線が空へ逃げた。
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「遠い場所」
「時代は」
「分からない」
「そこに俺もいた?」
「いた気がする」
「気がする?」
「白い場所。窓がない。季節もない。シンがいた」
「俺、何してた」
「食べていた」
「それは今と変わらんな」
「人の分も」
「誰の」
「……分からない」
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モモの眉が、ごく僅かに寄った。
シンは続きを急かさなかった。
自分の中にも似たものがあった。
白い壁。
火のない明るさ。
誰かが笑う声。
大きな手。
遠くで流れていた、英語の歌。
顔だけが見えない。
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「俺も、たまに見る」
「何を」
「夢みたいなやつ。白い部屋と、誰かの背中。それから、英語の歌」
「同じ可能性あり」
「じゃあ、やっぱり一緒だったんだな」
「断定はできない」
「今は、それでいい」
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「じゃあ、俺のことは、いつから知ってた」
「最初から」
「最初って、俺が最初に目を覚ました時?」
「その前」
「その前があるのか」
「ある気がする」
「また、気がするか」
「思い出そうとすると、輪郭が消える」
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モモは右手を見た。
さっきまでシンの手を握っていた指を、小さく曲げる。
何かを掴もうとして、何もない空間を握った。
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「お前、どこまで覚えてる」
「何を」
「俺のこと。今までのこと」
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モモの歩幅が僅かに狭くなった。
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「最初に会った時から」
「全部?」
「抜けているところもある」
「俺を殺したことは」
「覚えている」
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声の温度は変わらなかった。
だが、桃の匂いが遠のいた。
モモが半歩、風下へずれたからだった。
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「何回くらい」
「数えない方がいい」
「多いんだな」
「多い」
「毎回、覚えてるのか」
「顔は。声も。最後に言ったことも」
「俺、何て言ってた」
「色々」
「例えば」
「逃げろ。嫌だ。何で。モモ。痛い。腹が減った」
「最後のは死ぬ時じゃないだろ」
「死ぬ直前にも言った」
「俺らしいな」
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笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
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「お前は、どんなつもりだった」
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モモが止まった。
シンも足を止めた。
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「俺を殺してた時」
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風が枝を鳴らした。
遠くで、水が石へぶつかっている。
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「最初は、何も」
「何も?」
「そうするものだと思っていた」
「誰かに言われたから」
「うん」
「嫌じゃなかった?」
「嫌だと分からなかった」
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モモはフツの鞘へ手を置いた。
握るのではなく、そこにあることを確かめるように。
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「でも、少しずつ残った」
「何が」
「シンの声」
「俺の?」
「名前を呼ぶ声。怒る声。泣く声。笑う声。殺した後も、消えなかった」
「それで、嫌になった?」
「違う」
「じゃあ何だよ」
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モモは、すぐには答えなかった。
黒い髪が風に揺れ、頬へかかった。
シンが手を伸ばすより先に、モモは自分で髪を払った。
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「怖くなった」
「何が」
「次に会った時、シンが私を知らないこと」
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胸の奥を、細いものが刺した。
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「俺は忘れてたか」
「何度も」
「ごめん」
「シンのせいではない」
「それでも」
「だから、殺す前に名前を呼ぶようになった」
「俺の?」
「自分の」
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シンは何も言えなかった。
モモの手は、フツの鞘から離れない。
山の風だけが、二人の間を通り抜けた。
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「平泉で、白桃じゃないって言っただろ」
「うん」
「あれは、いつから思ってた」
「ずっと前から」
「じゃあ、何で戻れなかった」
「戻り方が分からなかった」
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モモは再び歩き出した。
シンも、半歩遅れてその隣へ戻った。
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「今は?」
「今は、モモ」
「俺を殺す気は」
「ない」
「絶対?」
「シンが、ひどく邪魔でなければ」
「条件つきかよ」
「誤差」
「そこは嘘でも絶対って言え」
「絶対」
「今、適当に言っただろ」
「要望に対応」
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「じゃあ、平泉で俺を庇ったのは」
「自分で決めた」
「命令じゃなく?」
「違う」
「どうして」
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モモは目を伏せた。
濡れた睫毛の先に、薄い光が残っている。
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「シンが、また一人で消えると思った」
「今までも消えてた」
「今度は嫌だった」
「何で」
「分からない」
「そこは分かれよ」
「分からないけど、嫌だった」
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同じ言葉だった。
けれど、今度は逃げなかった。
シンを見たまま言った。
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「シンがいなくなるのは、嫌」
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胸が熱くなった。
平泉の炎とは違う。
痛くもない。
どうしていいか分からず、シンは頭を掻いた。
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「俺も、お前がいなくなるのは嫌だ」
「そう」
「それだけ?」
「嬉しい」
「言えるじゃん」
「学習」
「誰に教わった」
「今」
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モモの口元が少しだけ上がった。
今度は見間違いではなかった。
シンも、ちゃんと笑えた。
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丘を越えると、川が見えた。
雪解け水を集めた流れが、濁って速い。
岸には古い轍があり、馬の蹄と人の足跡が何重にも残っている。
遠くに煙が上がっていた。
一つではない。
山裾から、さらに高い場所まで続いている。
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モモは川へ降り、泥と轍、馬糞、川岸の灰を順に確かめた。
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「騎馬多数。荷運びあり。往来は数日以上続いている」
「戦か」
「可能性が高い。狩りや旅ではなく、山の上へ人と物を集めている」
「山城か?」
「寺か、館か、両方。鐘があり、屋根も複数。道は細く、守りやすい」
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モモは山裾から尾根へ続く煙を見た。
炊煙は一筋にまとまらず、山裾から尾根まで段々に分かれている。
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「軍勢が、寺か山城を拠点にしている」
「もう戦の最中ってことか」
「少なくとも、戦える状態を続けている」
「平泉から、どのくらい先だ」
「断定はできない。でも、源頼朝の時代よりかなり後」
「また百年くらい?」
「その可能性はある」
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「理由は」
「徒歩の兵と荷運びが同じ道へ集められ、山上に長く留まる準備もある。武士だけが馬で集まる戦ではない」
「面倒になったな」
「戦は、時代が進むほど面倒になる」
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シンも川辺へしゃがんだ。
水を掬う。
冷たすぎて歯が鳴った。
それでも喉へ流し込む。
モモが見ていた。
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「何だよ」
「その水、安全確認前」
「先に言え」
「飲む前に聞かなかった」
「旅が始まった感じするな」
「腹痛で?」
「お前と一緒に、こういうどうでもいいことで揉めるのが」
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モモが瞬きをした。
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「楽しい?」
「ああ」
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答えると、今度はモモが黙った。
濡れた手を衣で拭かず、指先から水を落としていた。
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「誤差」
「便利な言葉だな、それ」
「分類できない」
「俺はできる」
「何」
「嬉しい」
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モモは返事をしなかった。
ただ、桃の髪留めへ触れた。
それから、少しだけシンへ近い側を歩いた。
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「このまま、ずっと一緒にいられると思うか」
「分からない」
「だよな」
「次にいなくなる時は、言え」
「シンも」
「俺は死ぬ時、そんな余裕ないぞ」
「死ぬ前に言って」
「無茶言うな」
「勝手に消えるのは不同意」
「お前もだぞ」
「りょ。」
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あまりにも簡単に返された。
けれど、その一言が妙に頼もしかった。
シンは知らない山を見上げた。
今までなら、どこで誰に会い、いつ死ぬのか分からないことがただ怖かった。
今は、その分からなさの中にモモがいる。
それだけで、先へ進むことが少し楽しみになっていた。
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「……神託は」
「ほとんど聞こえない」
「そんなことあるのか」
「こんなに静かなのは、初めて」
「じゃあ、それでお前も一緒に来られたのか」
「分からない。でも、関係はあるかもしれない」
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シンは耳を澄ませた。
聞こえるのは、川と風と遠い鐘だけだった。
白雷も。
誰かを縛る声も。
今は、どこにもない。
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「神様がいない時代か」
「神はいる」
「どこに」
「人の数だけ」
「それが一番面倒そうだな」
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川沿いを進んだ。
山の形が次第に見えてくる。
岩の間へ道らしい線が続き、木々と霧の隙間から屋根が見える。
低い鐘の音がした。
一度。
風に消え、少ししてもう一度。
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寺の鐘に似ている。
その下には、木を打つ音、馬の声、人が呼び合う声もあった。
山そのものが動いているようだった。
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「なあ。俺たち、何で時代を渡ってるんだろうな」
「分からない」
「本当に?」
「分からないところが多い」
「でも、何か知ってる顔してる」
「顔には出していない」
「出てる」
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モモは山の上を見た。
その横顔から、さっきまでの僅かな柔らかさが消えている。
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「シン」
「何だ」
「私たちは――」
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蹄の音がした。
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近い。
一騎ではない。
山道の前と後ろ。
さらに川向こう。
別々の方向から、揃った音が近づいてくる。
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モモがシンの前へ出た。
白い袖が風を切り、桃の匂いが一度だけ強く広がる。
右手はフツの柄へ。
左手は、シンを下がらせるように伸びた。
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「囲まれた」
「何人」
「多い」
「雑だな」
「数える前に出てくる」
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木々の間から騎馬が現れた。
前から六騎。
後ろから五騎。
川向こうにも弓を持った兵が並ぶ。
斜面の上にも、弓を構えた兵がいた。
鎧。
長柄。
畳まれた旗。
馬の息が白く、湿った土を蹄が抉った。
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「止まれ!」
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弓が上がる。
矢尻が、シンとモモへ向いた。
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シンは両手を上げた。
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「止まってる!」
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モモは動かなかった。
シンの前からも退かなかった。
黒髪が風へ流れ、白い衣の裾が泥の上で揺れる。
甘い桃の匂いの向こうに、鉄と馬の臭いが重なった。
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モモの目が、兵たちの肩、胴、腰、馬具を順に追った。
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「鎌倉時代の終わりより後」
「今分かるのか」
「大鎧より、動きやすい胴丸が目立つ。馬上の弓だけではなく、長柄を持つ兵もいる」
「つまり?」
「十四世紀前半。鎌倉幕府が倒れ、朝廷が二つに割れた頃の可能性が高い」
「割れてるのか……物騒な時代だ」
「物騒なのは時代だけではない」
「何が」
「帝も、武士も」
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「何者だ!」
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声が山へ響いた。
どこにも、逃げ道はなかった。
四方から、弓が引き絞られた。
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シンは隣のモモを見た。
モモも、ほんの一瞬だけシンを見る。
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「……今回は二人だな」
「うん」
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